BOOWY
本来の表記は「BOØWY」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
BOØWY(ボウイ) | |
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基本情報 | |
出身地 | 日本 東京 |
ジャンル | ロック[1] ビートロック パワー・ポップ ニュー・ウェイヴ オルタナティヴ・ロック ポストパンク(初期)[1] |
活動期間 | 1981年 - 1988年 |
レーベル | invitation/ビクター音楽産業(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント) (1982年) JAPAN RECORDS/徳間ジャパン(現・徳間ジャパンコミュニケーションズ)(1983年) EASTWORLD/東芝EMI(現・ユニバーサル・ミュージック) (1985年-1988年、以降単発リリース有) |
事務所 | ビーイング (1981年 - 1982年) Ø-con' nection(1983年 - 1984年) ユイ音楽工房(現:ユイミュージック)(1984年 - ) |
共同作業者 | 佐久間正英 ホッピー神山(キーボード) 松武秀樹(シンセサイザー) |
メンバー | 氷室京介(ボーカル) 布袋寅泰(ギター・コーラス) 松井恒松(ベース) 高橋まこと(ドラムス) |
旧メンバー | 木村マモル(ドラムス) 深沢和明(サックス) 諸星アツシ(ギター) |
BOØWY(ボウイ)は、日本のロックバンド。1980年代に活躍。1981年結成、1987年解散。
メディアなどで稀に「BOΦWY」などと誤記されることがある[2][3][4]が、正しいグループ名は、3文字目がギリシャ文字の「Φ」(ファイ)ではなく「Ø」(ストローク符号を付したO)である。
目次
1 概要
2 メンバー
2.1 解散時
2.2 途中脱退
2.3 メンバーの変遷
3 略歴
3.1 1980年
3.2 1981年
3.3 1982年
3.4 1983年
3.5 1984年
3.6 1985年
3.7 1986年
3.8 1987年
3.9 1988年
4 逸話
4.1 結成
4.2 メディアへの露出
4.3 メンバーの経歴
4.4 その他
4.5 解散について
4.5.1 解散の理由
4.5.2 解散後
5 作品
5.1 シングル
5.2 アルバム
6 公演
7 書籍
7.1 写真集
7.2 関連書籍
8 関連項目
9 脚注
9.1 注釈
9.2 出典
10 外部リンク
概要
1981年、群馬県高崎市出身の氷室京介、布袋寅泰、松井恒松を中心に東京で結成される。初ライブ後に高橋まことが加入し、1982年に『MORAL』でレコードデビュー。当初は6人編成だったが同年秋に2人が脱退し、以降は解散まで4人編成で活動する。
8(エイト)ビートを基調としポップでありながらもシャープでエッジの効いた縦ノリのロックサウンドや、ジャン=ポール・ゴルチエをステージ衣装に使用したり、逆立てたヘアースタイルなどの斬新なビジュアル等が多くの支持を集め、5thアルバム『BEAT EMOTION』と6thアルバム『PSYCHOPATH』は当時のロックバンドのアルバムとしては異例のミリオンセラーを記録した。シングルでも1987年に「MARIONETTE」が初登場1位を記録し、名実共にトップバンドへとのし上がった。
しかし絶頂の最中にあった1987年12月24日に解散を宣言。この突然の出来事は世間に大きな衝撃を与えた。翌年1988年4月4日、5日に東京ドームで行った『LAST GIGS』にてバンド活動に終止符を打つ。9万枚以上用意されていたこのライブのチケットは僅か10分で完売、予約の電話が殺到した結果、文京区の電話回線がパンクするという事態も起こり、これら一連の流れからBOØWY(ボウイ)の人気は社会現象にまで発展した。
翌月にリリースされた『“LAST GIGS”』は、ライブ・アルバムとしては異例とも言える150万枚のセールスを記録している。また、フォトグラファー加藤正憲によって撮影された『“GIGS”JUST A HERO TOUR 1986』のジャケット写真は、BOØWY(ボウイ)を象徴する一枚として有名である。
その音楽性、「誰にも似ない」「何処にも属さない」というバンドスタイル、メディアをほとんど利用しない強気な姿勢、斬新なビジュアル、絶頂期での解散、後に起こるバンドブームの火付け役となり全国に数多くのロックキッズを生むなど、BOØWY(ボウイ)が及ぼした影響は絶大である。解散後も、ベスト・アルバムや未発表音源がリリースされると常にチャートの上位にランクインしており、今日でもなお日本のロックシーンに変革をもたらしたバンドとしてその地位を確固たるものとしている。
メンバー
解散時
氷室京介:ボーカル(リーダー)
布袋寅泰:ギター・コーラス
松井恒松(現・常松):ベース
高橋まこと:ドラムス
途中脱退
- 木村マモル(きむら マモル)
- ドラム、1981年5月脱退
- 氷室京介がBOØWY(ボウイ)結成以前に加入していたスピニッヂ・パワーのドラマー。元々プロデューサー志望であった為、高橋が加入するまでのサポートメンバーだった。
- 脱退後の1983年にアルバム『INSTANT LOVE』のプロデュースを担当。現在も音楽プロデューサーとして活動する傍ら、2012年末から「SEIHITSU」名義でミュージシャンとしても活動を始めている[5]。
- 深沢和明(ふかざわ かずあき)
サックス、1982年10月9日脱退- 群馬時代、布袋が結成した「ジギーリギー」でサックスを担当。BOØWY(ボウイ)結成時はベーシストだったが、松井の加入によりサックスへ転向した[6]。
- 現在は「東京パワーゲート」という劇団で舞台役者として活動中。[7]
- 諸星アツシ(もろぼし アツシ)
- ギター、1982年10月9日脱退
- 群馬時代は氷室、松井と共に「デスペナルティ」でギターを担当。BOØWY(ボウイ)結成時、松井とはアパートの隣室同士だった[6]。
BOØWY(ボウイ)脱退から1年後に音楽業界を引退。
メンバーの変遷
略歴
1980年
- 7月5日 当時ヴォーカルとして所属していたバンド『スピニッヂ・パワー』を脱退し帰郷を考えていた氷室京介が、日比谷野外音楽堂でのRCサクセションのライブを観て新たなバンド結成を決意する。後日、布袋寅泰に連絡を取り六本木アマンドの前で再会。
- 9月 松井恒松が加入。
- 深沢和明、諸星アツシが加入。
1981年
- サポートメンバーとして木村マモルを迎え、メンバーが揃う。所属事務所ビーイングの副社長でサウンドプロデューサーの月光恵亮により、その当時「ガール」というイギリスのハードロックバンド(メンバーは全員男性)がいたことに対抗し、こちらは男ばかりだからそのまま「ボーイ」だろうということで、当て字で『暴威』と命名された[8]。それを聞いた社長の長戸大幸からは、当時人気だった『横浜銀蠅』にあやかって『群馬暴威』という名を提案されたものの、メンバーから猛反対され即ボツになった。ちなみに、デヴィッド・ボウイの名前から命名されたという俗説もあるが、当時の媒体の思い込みによるものである[8]。
- 5月 最初のアルバム『MORAL』レコーディング開始。
- 5月11日 新宿ロフトでデビューライブ「暴威LOFT FIRST LIVE」を行う。ちなみに、このギグのオーディエンスは13人(男性9人、女性4人)」。その中には高橋まこともいた。後日、高橋がスタジオでのセッションを経て正式加入し、木村が脱退。
1982年
- 1月28日 バンド名を「BOØWY(ボウイ)」に改名。
- 3月21日 ビクター音楽産業より最初のアルバム『MORAL』発売。プロデューサーはマライアの渡辺モリオ。
- 9月9日 渋谷PARCO PARTIIIのライブで「CHANGE COSTUME」と題し、それまでのパンキッシュな楽曲からニューウェイブ系のメロディアスな楽曲へとシフトチェンジ。衣装も黒ずくめからカラフルなものに変える。このライブがバンドのひとつの転機となった。
- 10月9日 この日行われた新宿LOFTでのライブを最後に深沢と諸星が脱退し、氷室・布袋・松井・高橋の4人編成となる。
1983年
- プライベートオフィス「Ø-con' nection」設立。
- 4月30日の新宿LOFTを皮切りとして、「AFROCKABILY LIVE」と題したシリーズGIGを展開。
- 9月25日 徳間ジャパンよりアルバム『INSTANT LOVE』発売。プロデューサーは脱退した木村マモル。サンプル盤の「OH!MY JULLY」のB面、「FUNNY-BOY」が新宿有線で3週連続1位を獲得。
- 12月31日、内田裕也が発起人となっているイベント「NEW YEAR ROCK FESTIVAL」(西武劇場[9])に出演。
1984年
- 3月30日・31日 新宿LOFTで2DAYSライブを敢行(「BEAT EMOTION LOFT 2DAYS 〜すべてはけじめをつけてから〜」)。ホール展開も視野に入れたバンドの飛躍へ向けた「けじめ」のライブであった。
- 5月31日 拠点を渋谷 LIVE INN へ移し「BEAT EMOTION」と題したシリーズギグを行う。夏からは同名のタイトルで全国ツアーを展開。
- 10月7日 ユイ音楽工房(現:ユイミュージック)と契約し、レコード会社を東芝EMIに移籍することを決定。同時にライヴの半年間休止も発表された。
- 12月6日 氷室、「狂介」から「京介」に改名。
1985年
- 2月24日 ベルリンのハンザ・スタジオで『BOØWY(ボウイ)』レコーディング開始。
- 3月12日 ロンドンのマーキー・クラブでGIGを行う。
- 4月13日 赤坂ラフォーレミュージアムでマスコミに招待状を送ったコンベンションライブを行う。
- 6月1日 最初のシングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」発売。
- 6月21日 アルバム『BOØWY(ボウイ)』発売。プロデューサーは佐久間正英。
- 6月25日 渋谷公会堂で初の大ホール・ワンマンコンサートを行う。
- 8月22日 シングル「BAD FEELING」発売。
- 9月6日 名古屋芸術創造センターで「BOØWY'S(ボウイズ)BE AMBITIOUS」ツアー開始。
- 12月24日 渋谷公会堂で同ツアー終了。このライヴ終了後にステージ上で布袋が山下久美子との結婚を発表した。
1986年
- 2月1日 シングル「わがままジュリエット」発売。
- 3月1日 アルバム『JUST A HERO』発売。
- 3月24日 青山スパイラルホールで「JUST A HERO TOUR」開始。
- 7月2日 日本武道館で同ツアー終了。
- 7月31日 上記の武道館公演を収録したライヴアルバム『“GIGS”JUST A HERO TOUR 1986』を限定盤(後に通常盤が再発売された)として発売。
- 8月2日-3日 南こうせつの野外ライブ「第6回サマーピクニック」(玄海彫刻の岬・恋の浦)にゲスト出演。
- 9月29日 シングル「B・BLUE」発売。
- 11月8日 アルバム『BEAT EMOTION』発売。
- 11月11日 石川厚生年金会館より「ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR」開始。
1987年
- 2月24日 日本武道館で「ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR」ツアー終了。
- 4月6日 シングル「ONLY YOU」発売。
- 7月22日 シングル「MARIONETTE」発売。
- 7月 31日 神戸でライブ「CASE OF BOØWY(ボウイ)」を開催。しばらく演奏されていなかった初期の曲もセットリストに含めた、バンドの総括的なライブであった。8月7日には横浜でも開催された。
- 8月22日・23日 グリーンピア南阿蘇アスペクタにて行われたライブ・イベント「BEAT CHILD」に出演。
- 9月5日 アルバム『PSYCHOPATH』発売。
- 9月16日 宇都宮市文化会館で「ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR」開始。
- 10月26日 シングル「季節が君だけを変える」発売。
- 12月24日 同ツアー最終日渋谷公会堂でのライブ中に解散宣言。
- 12月25日 新聞各紙の広告スペースに解散メッセージが掲載される。
1988年
- 2月3日 未収録3曲を追加した『MORAL+3』、12インチシングル「DAKARA」発売。
- 4月4日・5日 東京ドームにて「LAST GIGS」を行う。解散コンサートではなく、少し早い同窓会だとメンバーは語った。終了後の移動車両の中でメンバー全員が泣いたという。
- 5月3日 アルバム『LAST GIGS』発売。
- 12月24日 アルバム『SINGLES』発売。
逸話
結成
- 氷室はBOØWY(ボウイ)結成以前、レコード会社の意向によりスピニッヂ・パワーのボーカルとしてデビューしたが、音楽性の違いから脱退。当時付き合っていた彼女とも別れてしまい、ついには音楽の道を諦め、帰郷する決意をする。しかし、最後のつもりで立ち寄った日比谷野外音楽堂でのRCサクセションのライブを観て一念発起。群馬時代のライバルだった布袋のもとへ連絡を入れ、六本木アマンドの前で再会する。この時に布袋は、氷室の風貌が群馬時代の硬派な印象からニュー・ウェイブ風への変化に驚いたという。
- 同郷のライバル同士ではあったが、当時2人の間にそれほど面識はなかった為、布袋は氷室からの連絡を受けた際に「(群馬から東京に出てきて、高等遊民のような生活をしていることを聞いた氷室から呼び出されて)殴られるんじゃないか」と思ったという。また当時を振り返り、地元で有名な不良少年の氷室が怖くて誘いを断りきれなかった、とよくネタにしている。
- しかし実際には、氷室と松井が布袋の自宅に遊びに行ったり、病気療養中の布袋の見舞いに行ったりする程度の交流はあったようである。[6][10]
- しかし実際には、氷室と松井が布袋の自宅に遊びに行ったり、病気療養中の布袋の見舞いに行ったりする程度の交流はあったようである。[6][10]
- 松井は織田哲郎&9th IMAGEのベーシストとして既にプロ活動をしていたが、バンドが解散するにあたり、織田から旧友である氷室が新しいバンドを結成しようとしていることを知り、後に氷室と布袋に合流している。[11]
- 高橋は前述の通り初ライブを観賞しており、終演後は楽屋にも訪れている。その時のことを「怖そうな氷室、デカい布袋、寡黙な松井。とにかくおっかない連中だなという印象だった」と懐述している。[12]
- 布袋いわく氷室は高校時代、極道のイメージが強くて帝王のような存在として広く知られていたが、歌は上手く歌唱力はプロ級だったと語っている。[13]
メディアへの露出
- テレビ番組への出演は少なかったが、デビューして間もない頃にドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ)第524話「ラガーのラブレター」に出演している。ただしこの回は権利関係のためDVDでは欠番扱いとなっているが、2013年2月には日テレプラスで放送、またファミリー劇場でも2016年3月にHDリマスター版が放送されている。
- 音楽番組としては『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)、『いきなり!フライデーナイト』(フジテレビ)、『メリー・クリスマス・ショー』(日本テレビ)、『5時SATマガジン』(中京テレビ)などに数回出演している。
- このうち『5時SATマガジン』では、“ロックスターボウリング大会”という企画に出演している。
日本テレビの番組『メリー・クリスマス・ショー』で吉川晃司とビートルズの「ヘルプ!」をカバー。その他ではオープニングの「カム・トゥゲザー(同じくビートルズの曲)」、出演者のほとんどが参加したロッケストラ名義で「夜をぶっとばせ(ローリング・ストーンズの曲)」、「テレグラム・サム(T.REXの曲)」、エンディングの「Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない)」にも参加している。- 『夜のヒットスタジオ』の「対面シリーズ」では、氷室の初恋の女性が登場して、氷室は「さすがフジテレビだぜい!」と驚いた。本当にこの女性が来るとは思っていなかった為、収録後にメンバー全員が出演したことを後悔したという。[12]
- 同番組に「ONLY YOU」で出演した際には、司会の古舘伊知郎から「(氷室の衣装が)銀座の買い物帰りのおばさんみたい」と言われ、布袋に対しては殿さまキングスの物真似を強要させられ[注釈 1]、また高橋は自前のドラムセットを使えなかったこと[12]等が原因か、テレビ出演は1986年12月を最後に途絶えている。
- バラエティ番組である『いきなり!フライデーナイト』にしばしば出演したのは、司会の山田邦子が、ライブハウス時代からのBOØWY(ボウイ)ファンであり、氷室によれば山田が「楽曲をよく理解してくれていたから」だという。氷室が「俺のオヤジ、邦子ちゃんの大ファンなんです」とカミングアウトすることもあった。本番組にはメンバーが酔っ払ったまま出演している。
- 音楽雑誌に掲載された記事も少ない。「B・BLUE」がヒットした直後からインタビュー等のオファーが殺到するが、それらのほとんどを拒否している。数少ないインタビュー記事は、ブレイクする以前から懇意にしていたライターや、自分たちの音楽をよく理解してくれていたライターの雑誌に限定されていた。
- このような対応の裏には、まだライブハウスで活動していた時期に、熱意剥き出しで挑んだインタビューがほんの僅かしか掲載されていなかったり、懸命にスタイリングして撮影したはずの写真が掲載されていなかった等の経験から、メディアへの不信感を抱いたことが影響している。
- またこの姿勢はマネージメントスタッフも同様であり、BOØWY(ボウイ)を本当に聴きたい観客の席が減ってしまうという理由から、ライブは基本的にメディア用の招待席が用意されていなかった。その為、著名な音楽評論家が関係者入口で門前払いにされたり、レコード会社の重役がファンに揉みくちゃにされながらライブを観るといった珍事が続発したという[14]。
メンバーの経歴
- 氷室の芸名の由来は、漫画「ワル」の主人公から。初期は「狂介」という芸名だったが、京都の占い師に「『狂』という文字は絶対に使ってはいけません」と言われ、現在の「京介」に改名した[15]。改名後売れたため、以後もう占いをしないと決めたらしい。
- 松井の『恒松』の芸名は、本名の「恒」を活かしてフリクションの『恒松正敏』をヒントにしたもの[16]。
- 高橋は読み方は同じだが、本名は『信』という漢字表記のため、厳密には芸名になる(1985年頃までは「BAD FEELING」の作詞者クレジットにもあるように、漢字の方の名前を名乗っていたこともあった)。
- 布袋は、メンバー4人の中で唯一本名を名乗っている。
- 高橋加入後の新宿LOFTでのライブの際、タイムテーブルの遅れにしびれを切らした氷室が店長と諍いを起こしてしまう。しかし、この時の店長が偶然にも高橋の旧友だった為、後のライブブッキングや打ち上げの面で有利に働くこととなった[12]。
- 氷室はバンドを結成した当初は、英会話教材のセールスマンをしていた事もあり、営業成績も優秀だったという。しかし車の誘導のアルバイトでは車をぶつけ、パチンコ屋では台を壊し、ゲームセンターでは出勤3日目には先輩を見切り1日中ゲームをして遊んでいたというエピソードもある。
- 布袋は喫茶店のアルバイトの面接に行った際、「背が高すぎる」という理由で不採用になったことがある[14]。また居酒屋でチューハイを1杯だけオーダーして別のテーブルの残り物を食べたり、夜中に酒屋の脇に積んであるビンを失敬し翌日何食わぬ顔でそれを換金して小銭を稼ぐなどしていた。1983年頃からスタジオ・ミュージシャンとしての仕事が少しずつ入ってくるようになり、この時の経験が『INSTANT LOVE』をはじめBOØWY(ボウイ)のスタジオワークに大いに役立っている。
- 松井は六本木のスクエアビル内にあったゲームセンターで働いていた際、店長に「髪立ててメイクしてバイトに来るのやめてくれない?」と注意されたことがある[6]。後に阿佐ヶ谷の「ミント」というカフェバーのマスターとなったが、店がバンドの連絡先も兼ねていたため熱心なファンが通いつめ、利益が上がらず閉店してしまった。
- 高橋はマネキン運びのアルバイトをしており、正社員への推薦を貰うほど勤務態度も優秀だったという。また地方へ遠征する際は、他メンバーに内緒でへそくりを持っていた。内緒にしておかないと「酒を飲もう」「飯を食おう」と言われることになるからと、後のインタビューで語っていた[12]。「(遠征先にて金欠になると)まこっちゃんが靴を脱いでへそくりを出してくる」という光景が多く見られたという。金額はとりあえず車で東京まで戻ってこられる額だったという。
- 氷室と布袋はなかなか定まった仕事に就かず、両者とも当時同棲していた女性に半ば養ってもらうという状態だった。そのためバンドの活動資金は主に松井と高橋のアルバイト代や、ファンから多めに徴収した打ち上げ代などで補っていたそうである。
その他
- 群馬時代に布袋が組んでいたバンド「BLUE FILM」のボーカリストは、後にBOØWY(ボウイ)のマネージャーとなった土屋浩である。「紺待人」のペンネームで書籍「大きなビートの木の下で(1986年 ソニー出版)」などバンド関連の書籍等も手掛けた。BOØWY(ボウイ)解散後は氷室、高橋と共にユイ音楽工房に残留し、近年では高橋が所属するアースルーフファクトリーの代表を務めていたが、2012年5月に他界[17]。
- ライヴハウス時代、佐賀県で3万人規模のコンサートがあるという話を聞き出演のために駆けつけたところ、それは村の夏祭りでステージに集まっていたのは30〜40人ほど、ギャラは村で収穫された野菜や酒だった。
- 村に到着した時点ですでに金欠状態でありギャラを帰りの交通費として考えていたため、メンバーは非常に困惑したという。東京まで戻った手段については「消費者金融で借りたか、機材車のハイエースを担保にしたかのどちらかだったと思う[14]」、「マネージャーの土屋に主催者と再交渉させ、どうにか帰りの高速代くらいは出してもらえた[12]」など諸説あり、真相は不明。
- 高橋が他の5人と初めて「IMAGE DOWN」を演奏した際、演奏開始のカウントがあまりにも大声だった為、松井が笑い出してしまい、演奏が中断してしまった。
- ラストシングル「季節が君だけを変える」は、布袋が「もっと深い、俺たちの関係を言葉にして欲しい」と氷室の歌詞に意見した最初で最後の曲。その要求の見返りとして、氷室作詞作曲の「CLOUDY HEART」がB面にくる事となる。
- 結成当初、布袋と松井はお互いを敬遠しており、あまり会話を交わすことがなかった。しかしとある地方でのライブ後にふたりで呑むことになり、その席で意気投合した。[10]
- 『INSTANT LOVE』の時期、当時まだアマチュアだったBUCK-TICKの今井寿がラフォーレ原宿で布袋を見かけサインを貰うが、偶然この時の今井の服が『INSTANT LOVE』の裏ジャケットで布袋が着ている衣装の色違いだった[18]。
- 高橋は氷室の免許更新に同伴して群馬に行った際、当時まだアマチュアだった BUCK-TICK のヤガミトールに焼肉をおごってもらう代わりに、彼の自宅でドラムを2時間叩いてみせたことがある。しかし当時は2人のレベルが違いすぎた為、ヤガミは「いつも使っているドラムセットなのに、何故こんなすごい音が出るのか全くわからなかった」という。[19]
- 上記の帰郷の際、バイクで高速道路を通って行こうと提案した高橋に着いて行った氷室は、非常に恐ろしい体験をしたと語っている。そして、地元では財布ごと免許証を落としてしまい落胆するが、ファンに拾って貰い事なきを得た。
- 氷室はまったく酒が飲めずもっぱらコーラ、たまに飲む時でもカルーア・ミルクのミルク多めである。一方布袋は酒に強いため、ライブハウス時代に他バンドの打ち上げの席でBOØWY(ボウイ)を宣伝する広報係を担当していた。また高橋は新宿LOFTに、賞味期限が切れた酒を無料で入れておいて貰う「減らない魔法のボトル」を常にキープしていた[12]。
- ライブハウス時代にツアーで京都に行った際、布袋はたまたま修学旅行に来ていた妹[注釈 2]と鉢合わせしてしまい、バツの悪い想いをしたという。[12]
- 松井はロンドンへ行った際、帰りにデパートで土産物を買おうとしたが英語を全く喋れず、意地になって日本語を貫き通した。
- 「Marionette」のプロモーションビデオのアニメ・バージョンはガイナックスが制作した。当時ガイナックスの社長を務めていた岡田斗司夫は、後に自著の中で「当時は誰もがあれをやりたがった」と回想している。
- 『BEAT EMOTION』発売前にラジオで「次は売れる曲出します」と発言したが、その通りに売れた。
- 『ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR』は、当初ツアータイトルのようにサーカス小屋としてテントを張って、そこをライブ会場にする予定だった。しかし「地ならしのため、ゾウを引き取ってもらわないと困る」と言われ、断念している[20]。
- 週刊誌フライデーに「氷室は殺人罪の前科あり」という根拠の無い記事を掲載されたことがある。氷室本人はその後のライブで「殺人罪の氷室です」とネタにしていた。
- 「氷室と布袋が不仲」という記事を掲載された際にも、氷室はライブのメンバー紹介で「彼とは楽屋を別にしてもらってます」とネタにしている。
- 『ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』の沖縄公演で、煽っても煽っても縦ノリにならず横揺れなオーディンスに腹を立てた氷室はステージから下がってしまった。結果的には戻って最後まで演奏した。
- 初期メンバーの諸星(ギター)と深沢(サックス)の脱退理由は書籍によって「音楽性の違い」[21]「今後の不安」[22]「事務所からのMORAL制作スタッフである月光恵亮の提案(諸星・深沢の演奏力不足による解雇を提案)」[23][14]など諸説書かれており、真相は不明である。しかし、2人のラストライブでの氷室のMCによると、諸星は「もっと黒っぽい音楽(ブラックミュージックのことと思われる)をやりたくなったから」、深沢は「アクター(俳優)になりたいから」が脱退理由とのこと。深沢脱退が氷室の口から告げられた瞬間、会場内の女性ファンが悲鳴を上げた。2人のラストライブで、深沢は自作詞の曲「NO.NY」とデヴィッド・ボウイの「Suffragette City」でボーカルを執っている。
- 深沢は現在も舞台を中心に映画にも出演する俳優として活動中(舞台でサックスを吹くことも)[24]。
- 諸星はBOØWY(ボウイ)脱退から約1年後に音楽業界より引退したが、1983年11月27日のライブのアンコールにゲストで登場し、「MIDNIGHT RUNNERS」を演奏した。
- 日本のバンドとしては桁外れにブートレッグの数が多い。大半の公演についてブートレッグが存在すると言う説もある(初期の頃は、営業戦略からバンド側がライブの録音、録画を黙認していた)。
- 但し、上記のブートレッグが出回っている事に関して布袋はTwitter上で山本修司の質問に対し「非常に心外です」と答えている[25]。
解散について
- 1986年12月16日の長野市民会館でのライブ後、ホテルのバーにてメンバー全員が解散について話し合った[26]。最初に解散を提案したのは布袋だった[14][6][12]。それまでも「1位を取ったら解散」とメンバー間で話してはいたが、ブレイクする以前はまだ非現実的だった為、あくまでも冗談半分の扱いだった。しかしながら『JUST A HERO』がメンバー全員にとって音楽的に満足のいく作品となり、『BEAT EMOTION』が初登場1位を記録し商業的にも成功を収めたことから、この時に初めて現実的な内容での話し合いが持たれた。
- ファンの間では、マスコミに一切公表していないにも関わらず『ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』の最終公演である「12月24日の渋谷公会堂で解散」という情報が事前に伝わっていた。
- これは「活動後期の歌詞や活動内容の加速度・充実度やエピソードから一部ファンと音楽ライターが年内解散を予測しており、複数発生源の口コミとして広まった」ということが、音楽誌「BANDやろうぜ!!」の編集後記にこぼれ話として書かれたことがある。
1987年12月24日当日はチケットを入手出来なかったファンが渋谷公会堂の前に多数集まり、会場内の様子を知ろうと揉み合いになるうちに正面入口のガラス戸が割れるという事態にまで発展した。この日のライブを収めたDVD『1224』には、会場前に群がるファンと割れたガラス戸の映像が収められている。終演後は、会場前のファンに向けても「解散宣言をした」とアナウンスされた。
NHKではバンド解散が臨時速報され(NHKがバンドの解散を取り上げたのは異例である[要出典])、翌日12月25日の朝日新聞の朝刊にはバンド側からのコメントが掲載された。- 翌年の1988年4月4日、5日に東京ドームで行われた『LAST GIGS』にて正式にバンドとしての活動を終了した。『LAST GIGS』についてバンド側は「あくまで前年の12月24日でバンドは解散しており、少し早い再結成、同窓会のようなもの」としている。しかし実際には、最終公演後の移動車内でメンバー全員が泣いていたという[27]。
解散の理由
バンド側からの正式な解散理由は、解散から30年経った現在でも発表されていない(2018年現在)。各メンバーが様々な状況が折り重なった結果だといったニュアンスの発言をしている。
- 要因のひとつとして布袋は「自身が海外での活動を強く希望した」としている[27][6]。
- 前述の通り、ブレイクする以前からバンド内で「トップに立ったら解散する」と決めていたことも挙げられる。
- 東芝EMI移籍後の1985年末頃に布袋が「今はバンドの勢いが出てきたから、あと1,2年はこのまま(バンドを継続して)いくと思うけど、その後個人で独り立ちできるようにしていかないと」という話をしたことを高橋が「1224 THE ORIGINAL」発売時のイベントで発言している。
- 布袋は1986年10月のインタビューで「最終形のものを描く時が来ると思うんですよ。売れる売れない関係なく。レコード作ったりツアーやって『これで俺らはやることやった』って思う時が来ると思う。そしたらそこでおしまいだと思う。ある意味じゃ解散に向けて頑張ってるんだと思う」と語っている。[28]
- 布袋は1986年10月のインタビューで「最終形のものを描く時が来ると思うんですよ。売れる売れない関係なく。レコード作ったりツアーやって『これで俺らはやることやった』って思う時が来ると思う。そしたらそこでおしまいだと思う。ある意味じゃ解散に向けて頑張ってるんだと思う」と語っている。[28]
- ブレイクしたことによりファン層が変わりアイドルのように扱われ始めたこと[注釈 3]、あからさまにBOØWY(ボウイ)を真似たようなバンドが数多く出てきたことなど、これらの状況に違和感を覚えたとも語られている。
- 『PSYCHOPATH』のジャケットで布袋が髭を蓄えているのは「アイドルにはなりたくない」という当時の心境からであり、このアルバムのツアー前半では彼本来のステージアクションがなく[12]「まったく動く気になれなかった」「最初は髭を生やしたままステージに出ようかとも思った」と語っている[27]。
- 布袋によれば「100万枚とか売れる風になると当たり前にロック好きじゃない子も入ってくる。それがミュージシャンとしてすごく居心地悪くなってきた。誰も自分のギターなんか聴いてないんじゃないか、ただキャーキャー言ってるだけじゃないかと感じるようになった」「後期になっていくと、上手くいけば上手くいくほどだんだん味気なくなり、メンバー全員がバンドや自分自身に対して違和感を抱くようになった」などの状況が重なり、次第にギクシャクしていったという。また「(バンドに対する)一番大きな傷(=解散するという事)は自分達で付けるべきだと思った」「自分たちで作ったバンドだから、人に壊されるよりは自分たちで壊した方が筋だという思いもあった」とコメントしている。[29]
- 高橋はこういった状況について「ファンとの温度差みたいなものが出てきていた。こっちは新しい曲を作って演奏しているのに「IMAGE DOWN」や「NO.NEW YORK」を演らないと納得しないようなノリがあったり、布袋がギターソロを弾いているのに氷室ばかり見ているお客さん、氷室が一生懸命歌っているのにまったく違った受け止め方をするお客さんなんかもいたりして、自分たちの音楽が本当に理解されているんだろうかっていうジレンマが生まれてきた」と語っている[30][12]。
- 「氷室と布袋の不仲が原因」とされる見方があるが、両者ともに不仲の真偽はともかく解散の原因とは違うと否定している。
- 氷室は解散後のインタビューにて「雑誌ではライバルという書かれ方をしていたけど、俺は布袋の事を1度もライバルと思った事はない。それがソロとバンドの違いだと思う。バンドの中でメンバーをライバルだと思っていたら、バンドの良さって絶対出ないと思う。俺は布袋を最高のギタリストだと思っていた」と語っている。
- 布袋も自身のラジオ番組『ミュージックスクエア』内で「僕はヒムロックのこと好きだし、自分が嫌いな人の横でギターを弾けるわけがない。第一BOØWY(ボウイ)は僕とヒムロックだけのバンドじゃない。まっちゃんやまこっちゃんのビートがあってのバンドだった訳だから。そんな理由じゃ解散できない」としている。[31]
- 解散後、氷室は「楽しくて始めたはずのバンドが、ロックビジネスというシステムの中に組み込まれて、少しずつ自分達の考えと違う方向に、勢いがついて転がっていってしまった。あと妙な義務感みたいなものがすごく大きくなって、苦しくなってきた。だから全盛と言われる中で解散したのは決して後悔すべきことじゃなくて正解だったと思うし、それだけ自分たちが音楽を正直にやっていく上でBOØWY(ボウイ)解散はなくてはならないことだったと思う[32]」「BOØWY(ボウイ)の4人で出来る事を全て実現してやりきったというのが結論。なのでもう辞めるしかない。辞めないで、そのまま3年4年と続けるのは厳しい」と語っている。
- 布袋も解散後のインタビューで「音とか売り上げとかじゃなく、意識が完成したから解散したんだと思う」と語っている[27]。
- また著書『秘密』では「決してひとつの理由などではない。もしいま4人が集まり解散の理由を話したとしたら、きっと全員見事にバラバラなのではないかと思う。BOØWY(ボウイ)はBOØWY(ボウイ)のもの。4人のもの。「俺にはこんな理由がある」などと4分の1の存在が軽々しく語ってはならないと思う。俺には俺の"絶対に解散せねばならない理由"があったが、それは墓まで持っていく」としている[14]。
- 松井は「本当にすべてが上手くいっていたら解散なんてしない」とした上で、「確かに口火を切ったのは布袋だけど、それ以前にも解散の危機は何度もあった」「友達としていつも一緒にいたいけど、でもそれと音楽は別にしなきゃっていう分かれ道だったのかもしれない」と語っている[6]。
- 一方で「満たされてはいなかったけど、もう選択肢が他になかった」「もしまた、あの4人で同じステージに立てたとしたら、それはすごくエキサイティングだろうなと思う」というコメントも残している。[6]
- 一方で「満たされてはいなかったけど、もう選択肢が他になかった」「もしまた、あの4人で同じステージに立てたとしたら、それはすごくエキサイティングだろうなと思う」というコメントも残している。[6]
- 高橋の著書内でも「BOØWY(ボウイ)というメンバー以外の人間も数多く関わっているプロジェクトともなれば、誰が良くて誰が悪いという単純なことは言えない[12]」とされており、各メンバー間においても解散についての捉え方は微妙に異なっている。
吉田豪は、布袋が当時の妻・山下久美子のツアーに注力しすぎたことでメンバー間に溝ができたことが解散理由という説をラジオ番組内で唱えている(現在、YouTube でその時の放送を聞くことができる)。- このように、BOØWY側からの正式なコメントは発表されておらず、各メンバーの多種多様なコメントや推測記事等が入り乱れているのが現状である。
解散後
メンバー間の関わりがあるもののみを記載する。
- 氷室と高橋はBOØWY(ボウイ)が所属していたユイ音楽工房に残留。一方布袋はユイ音楽工房にてBOØWY(ボウイ)スタッフのトップを務めていた糟谷銑司と共に個人事務所「IRc2 CORPORATION」を設立[33]、松井も同事務所に移籍した。氷室が「俺と一緒にやらないのか?」と松井を引き止めたという噂もあったが、本人は「新しい環境に行くことにすごく興味があった」と語っている[6]。
- これについて、『LAST GIGS』の打ち上げに布袋と松井は参加しなかったという経緯もあったことから、バンドがふたつに分裂したという見方もあった。
- 現在氷室は1995年に設立した個人事務所「BeatNix」に所属、布袋は2012年の渡英後に新たな個人事務所「DADA MUSIC」を設立、松井も2004年に個人事務所「ソリッド・サウンズ」を設立し独立、高橋は元BOØWY(ボウイ)のチーフマネージャーである土屋が代表を務めていた「アースルーフファクトリー」に所属していたが、現在は個人事務所「ハイブリッジ」を設立し独立。
- 1988年8月26日、MZA有明サウンドコロシアムにて行われた山下久美子のライブ『Baby alone in BABYLON" Tour 1988』に布袋と松井が参加。両者ともバンド解散後、公の場に姿を見せたのはこの時が初だった。
- 1988年10月26日の国立代々木競技場第一体育館と同年11月15日に大阪城ホールにて行われた布袋のソロ初ライブ『GUITARHYTHM LIVE』に松井が参加。
- 1988年11月19日、日清パワーステーションにて行われた氷室のライブに高橋がゲストで参加。
- 1989年に布袋が吉川晃司とのユニットであるCOMPLEXでデビューした際、氷室は「あれが布袋の本当にやりたいことなのかなと思う。『GUITARHYTHM』を発表したのはわかる。そこで、敢えてバンドを組んでああいう事をやる必要性が分からない[34]」とコメントしている。
- これに対し布袋も、氷室のシングル「SUMMER GAME」を指し「あんな曲ならばいくらでも作れる」とコメント。これら一連の流れから「氷室と布袋の不仲説」も浮上したが、前述の通り両者ともその説を否定している。
- またCOMPLEXが解散した際、氷室は「吉川が布袋から受けた音楽的影響は、決して小さいものではないはず」と語っている。
- 1990年、花田裕之のツアー『ROCK&ROLL JET-SET RIFF ROUGH TOUR』に布袋と松井が参加。
- 解散後、氷室と布袋が直接会話したのは、布袋の『GUITARHYTHM II』完成後。布袋が氷室を訪ねると「聴いたよ」と答え、感想として「長げーよ」とコメントしたという。「良いけど長い」「長いの作りたかったんだからいいんじゃない?」と氷室は答え、率直な感想をもらえたとして布袋は嬉しかったとコメントしている[35]。
- これ以前にも横浜中華街のレストランで偶然氷室と布袋が居合わせたことがあり、布袋は自身のラジオ番組にて「なんかこっちは緊張したけどね」と語っている。
1992年11月14日、布袋の『GUITARHYTHM WILD TOUR』の京都公演を氷室が観覧した[36]。
1993年3月、氷室のファンクラブイベントに高橋が特別ゲストで参加。当時高橋はDe+LAX(デラックス)の解散が決定し、無気力状態の日々を送っており、かつての戦友である氷室との再会で音楽への情熱が再燃したと語っている[12]。- 1993年、松井のアルバム『あの頃僕らは』に布袋が参加。
- 1994年、高橋のアルバム『楽しき人生』に布袋と松井が参加[注釈 4]。松井は同アルバムのライブにもゲスト参加した。
- 1994年、松井のアルバム『GLACIER』に布袋が参加。
- 1994年、氷室のアルバム『SHAKE THE FAKE』に松井が参加。「あれだけのボーカリストなのに、まださらに上へ行こうとしているのは凄い」とコメントしている。
1995年3月7日、阪神淡路大震災の復興支援チャリティーライブに氷室と布袋が出演。それぞれ同じステージに立ったが、共演は行われなかった。- 1995年、松井のアルバム『DEEP SKY』に布袋が参加。
2001年末、布袋宅でのクリスマスパーティーにて、布袋と松井が解散宣言をしたライブのDVD『1224』を鑑賞した。事前に手元には届いていたものの、両者とも「ひとりでは観るのが怖かった」と吐露している。鑑賞後には布袋、松井とも感極まって泣きながら抱き合ったという。[14][6]- 松井はこの時のことを振り返り「解散後ソロをやって、ステージの真ん中に立つというのはこういうことなんだと実感した。あのバンドの中でフロントに立って、何かを声にするということは、想像を遥かに超える過酷さがあったに違いない」とファンに向けて直接解散を宣言した氷室の胸中を察するコメントを著書にて語っている。[6]
- 松井はこの時のことを振り返り「解散後ソロをやって、ステージの真ん中に立つというのはこういうことなんだと実感した。あのバンドの中でフロントに立って、何かを声にするということは、想像を遥かに超える過酷さがあったに違いない」とファンに向けて直接解散を宣言した氷室の胸中を察するコメントを著書にて語っている。[6]
2002年、布袋のアルバム『SCORPIO RISING』に松井が参加。アルバムのツアーにも参加した。
- このツアー開始直前、布袋は転倒により頭蓋骨骨折と急性硬膜外血腫の重傷を負い、全スケジュールが延期となった。のちに松井は「いつでもまた一緒にできるような気はしても、何があるかわからない。だからまたこのギターとプレイすることができて本当に幸せだとツアー中ずっと思っていた。1本1本が本当に大切な時間だった」「(布袋の)復帰にかける執念が音だけじゃく背中からも伝わってきた。だから自分もやるからには完璧にやりたくて、ベースの化身になりたいと思った。歌も演るソロとは違って、もっともベーシストに徹することが出来る場所だったから」と語っている。[6]
- このツアー開始直前、布袋は転倒により頭蓋骨骨折と急性硬膜外血腫の重傷を負い、全スケジュールが延期となった。のちに松井は「いつでもまた一緒にできるような気はしても、何があるかわからない。だからまたこのギターとプレイすることができて本当に幸せだとツアー中ずっと思っていた。1本1本が本当に大切な時間だった」「(布袋の)復帰にかける執念が音だけじゃく背中からも伝わってきた。だから自分もやるからには完璧にやりたくて、ベースの化身になりたいと思った。歌も演るソロとは違って、もっともベーシストに徹することが出来る場所だったから」と語っている。[6]
- 2002年、吉川晃司のアルバム『PANDORA』に松井と高橋が参加。
2003年、布袋のアルバム『DOBERMAN』に松井が参加。アルバムのツアーにも参加した。- 2003年、松井のソロ・プロジェクト『Groove Syndicate』に布袋がギター、共同作曲、プロデュースで参加。
2004年8月22日、氷室が東京ドームにて、BOØWY(ボウイ)の楽曲を自らのソロ曲と共に演奏する「KYOSUKE HIMURO "21st Century Boowys VS HIMURO"」を行った。
- 高橋は当日ライブを観覧し「純粋に楽しめた[12]」とコメント。布袋は「(本人からBOØWY(ボウイ)の楽曲をやることについて)何も聞いていない」とのみコメント。松井は「あれはないよね」と否定的なコメントを残している。
- また氷室は同ライブを放送したテレビ番組のインタビューで、「今後BOØWY(ボウイ)が再結成する可能性はあるのか?」という質問に対し「良い質問ですね」と笑顔を見せるも「それはないですね」と即答している。
- 2004年12月30日、「ザ・ベストテン」の特番に吉川晃司が「モニカ」で出演した際、松井と高橋がサポートで参加した。
- 2007年10月、名古屋ELLにて行われた『BOØWY(ボウイ) 「FILM GIGS」 INVITATION!』内での松井のソロステージに高橋がゲストで参加[注釈 5]。BOØWY(ボウイ)楽曲の『LIKE A CHILD』と『RAIN IN MY HEART』を披露した。
2011年6月11日、6月12日に東京ドームにて、氷室の東日本大震災の復興支援チャリティーライブ「KYOSUKE HIMURO GIG at TOKYO DOME“We Are Down But Never Give Up!!”」が行われた。
- このライブは、BOØWY(ボウイ)の楽曲で全編が構成された。当初は50歳のアニバーサリーライブを予定し3月14日に発表する準備をしていたが、その直前に震災が起こったため一旦発表を延期し、公演の内容を見直していた。結果「チャリティーの為にライブを行い、より多くの収益金を集め、被災地へダイレクトに届ける」という趣旨のもと開催する運びとなる。
- しかし氷室がBOØWY(ボウイ)の楽曲を演奏する件に関しては布袋、松井、高橋には寝耳に水であったようで[37]、高橋が氷室にエールを贈ったものの[38]、松井は氷室のアクションを高く評価しつつも「でも、少し寂しい。どうして声を掛けてくれなかったのかと。こんな時だからこそ、再び4人で手を握り合い、大いなる目的のために、協力し合うべきだと思った。アーティストとして素晴らしい決断だと思う反面、一緒に活動を共にしていた仲間としては、残念でならない」と語った[39]。
- また布袋は、Twitter上で氷室に関する質問攻めにあってしまった事もあり2日程沈黙を続けていたが、後に自身のブログ上で「再結成を望む気持ちは皆さんと同じでした」「氷室京介氏の復興支援に向けたアクションは、彼の信念に基づいた選択であるはずです。僕はそれを否定的にとらえる気持ちなど全くなく、リスペクトしています」と述べた上で、「そして同時に自分の中で踏ん切りがつきました」と、今後も再結成は非現実的であることを伝えた[40]。
- 後に氷室本人はこのライブについて「出来るだけ集客することで収益は増え、チャリティーの効果がより高くなる。オーディエンスをたくさん集めるために、世間に強いインパクトがあって、より多くのファンが臨むこと、という発想で「全曲BOØWY(ボウイ)」に繋がった」とした上で、「メンバーの気持ちまで考えてなかったのがいけなかった」と反省の弁も語っている[41]。
- 松井は6月11日のライブを観覧し、「BOØWY(ボウイ)を歌う氷室京介は、何年経っても、何歳になっても、せつないまでに、あの頃のままだった。素晴らしいステージ、そして、素晴らしい時間でした。」とコメントした[42]。
- ライブ当日氷室は「来月にここで友達がライブを演るみたいなんでよろしく」と、氷室同様チャリティーライブの為に7月30日、7月31日の二日間限定でCOMPLEXを再始動させた布袋と吉川を指すMCも発している。
- 2012年2月1日、さいたまスーパーアリーナにて行われた布袋の50歳バースデーライブである『30th ANNIVERSARY 第四弾 HOTEI THE ANTHOLOGY "最終章" WE ARE DREAMER 〜50th BIRTHDAY SPECIAL CELEBRATION GIG〜』に高橋がゲストで参加。『LAST GIGS』以来、24年振りとなるステージ上での共演を果たした[43][44][45][46]。BOØWY(ボウイ)楽曲では「JUSTY」と「NO.NEW YORK」が披露されている。
- 2012年3月24日、郡山カルチャーパーク・アリーナにて行われた高橋の東日本大震災の復興支援チャリティーライブ『つながろう ふくしま 〜絆〜 スペシャルライブ with 高橋まこと』に布袋がゲスト参加。BOØWY(ボウイ)楽曲では「BAD FEELING」、「IMAGE DOWN」、「Dreamin'」が披露されている。
- 2012年10月11日から14日にかけて行われた布袋の『beat crazy Presents Special Gig “B.C. ONLY 2012”』に高橋が参加。「DRAMATIC? DRASTIC!」では高橋のボーカルも披露された。
- 2013年2月2日、布袋が出演した夢メッセみやぎの『EMI ROCKS 2013』に高橋が参加。BOØWY(ボウイ)楽曲では雅-MIYAVI-(みやび)と共に「BAD FEELING」、吉井和哉、雅、オオキノブオと共に「DREAMIN'」を披露。
- 2013年3月11日、群馬県高崎市にある氷室の実家を含む家屋3棟が全半焼する事件が発生。両親共に無事ではあるものの氷室の実母が火災から逃げる際に腕を骨折する大怪我を負っている[47]。
- この件に関して氷室側は公式WEBサイトで両親の命に別状がない事を報告[48]。同日、氷室の実家を放火した37歳の女が高崎署に出頭、現住建造物等放火容疑で逮捕された[49]。後に熱狂的な氷室、BOØWYファンによる犯行である事も明らかになった。[50][51]
- 布袋と高橋が氷室を気遣うコメントを発しており、同時に2人に対しても過去に犯人から自分宛に何度もツイートがあった事が明かされている。[52][53]
- この件に関して氷室側は公式WEBサイトで両親の命に別状がない事を報告[48]。同日、氷室の実家を放火した37歳の女が高崎署に出頭、現住建造物等放火容疑で逮捕された[49]。後に熱狂的な氷室、BOØWYファンによる犯行である事も明らかになった。[50][51]
- 2013年4月6日、7日に代々木 Zher the zoo にて高橋が行なった『福島復興支援 チャリティーLIVE SPIN OUT TAKAHASHI MAKOTO VS BOØWY(ボウイ)60×60 〜 CROSS OVER JAPAN CHARTY GIGS 〜』に、1982年10月に脱退した深沢がゲストで参加。
- 2014年7月13日、山口県の周南市文化会館にて行われた氷室のライブで、本人の口から同月19・20日の横浜スタジアム2日間公演をもって「氷室京介を卒業する」と電撃発表。
- この発表の件はスタッフはじめ周囲は「知らなかった」と口をそろえ、同日深夜、公式サイトにて驚かせたことに対する謝罪と翌2015年のファイナルコンサートをもって、氷室京介としてのライブ活動を休止することが掲載された(結局ファイナルコンサートは翌々2016年春の横浜スタジアムのリベンジライブに決定)。ただし、氷室は7月19日のライブにて寝耳に水報道を否定している。
- この一件に高橋は「余りに突然なので言葉が出ませんでした」としつつ、「ヒムロックの気持ちを一番大切にしたいです。きっと横浜スタジアムでしっかり説明してくれる事と思います。あとは、ちゃんと受け止める事です。」[54]
- また布袋は氷室の名前こそ出していないものの、ブログ上にて「もし彼が本当にステージから姿を消してしまうなら「最後のステージはせめて一曲でも 隣りでギターを弾かせてほしい」そう願うのみ。」と氷室への想いと思しきコメントを寄せている[55]。
2016年4月23日〜5月23日のツアー「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」をもって、氷室がライブ活動を無期限休止。
- 高橋は松井とともに5月22日の東京公演を観覧[56]。布袋は「『氷室京介LAST GIGS』最終日(5月23日)を観させていただきました」とブログにて明言[57]、そして同年の日本武道館公演でのMCでは「ヒムロックがステージから去るその瞬間を、僕も観に行きました」と述べた。
- 『LAST GIGS』以降、4人全員が揃った唯一の場とされているのが、カメラマン加藤正憲の結婚式である[12]。
- 解散後の共演の組み合わせとしては、同じ事務所にいたこともある「布袋と松井」の共演が回数としては一番多く、東日本大震災以降は「布袋と高橋」の共演が多い。また、松井と高橋はそれぞれ他のメンバー3人全てと解散後に共演している。唯一解散後実現していないのが「氷室と布袋」の共演である(前述の1995年に開催された阪神淡路大震災の復興支援チャリティーライブにそれぞれ出演したが、共演は行われていない)。
作品
シングル
ホンキー・トンキー・クレイジー(1985年)
BAD FEELING(1985年)
わがままジュリエット(1986年)
B・BLUE(1986年)
ONLY YOU(1987年)
Marionette -マリオネット-(マリオネット)(1987年)
季節が君だけを変える(1987年)
DAKARA (1988年)
アルバム
MORAL(1982年)
INSTANT LOVE(1983年)
BOØWY(ボウイ)(1985年)
JUST A HERO(1986年)
BEAT EMOTION(1986年)
PSYCHOPATH(1987年)
公演
年 | タイトル | 公演規模・会場・セットリスト | 収録作品 |
---|---|---|---|
1981年 | BOØWY(ボウイ)GIGS | 全10公演
| |
1982年 | BOØWY(ボウイ)GIGS | 全33公演
| |
1983年 | BOØWY(ボウイ)GIGS | 全38公演
| |
1984年 | BOØWY(ボウイ)GIGS | 全21公演
| DVD『"GIGS"BOX』 |
1984年 | BEAT EMOTION | 全22公演
| |
1985年 | BOØWY(ボウイ)GIGS | 全6公演
| DVD『"GIGS"BOX』 |
1985年 | BEAT TO PLATON | 6都市全8公演
| |
1985年 | BOØWY'S(ボウイズ)BE AMBITIOUS TOUR | 16都市全22公演
| |
1986年 | JUST A HERO TOUR | 25都市全37公演
全20曲
| ビデオ『BOØWY(ボウイ)VIDEO』
|
1986年 | BOØWY(ボウイ)GIGS | 全7公演
| DVD『“GIGS”BOX』 |
1986年 - 1987年 | ROCK'N ROLL CIRCUS TOUR | 31都市全37公演
全21曲
|
|
1987年 | BOØWY(ボウイ)GIGS | 全6公演
| DVD『"GIGS"BOX』 |
1987年 | CASE OF BOØWY(ボウイ) | 2都市全2公演
全39曲
|
|
1987年 | DR.FEELMAN'S PSYCHOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR | 33都市全36公演
全22曲
|
|
1988年 | "LAST GIGS" | 全2公演
全23曲
|
|
書籍
写真集
HYSTERIA(1985年、八曜社)
GIGS(1987年、シンコーミュージック)ISBN 4-401-62133-6
RENDEZ-VOUS(1988年、CBSソニー出版)ISBN 4-7897-0744-X
GIGS+∞完全版(2001年、シンコーミュージック)ISBN 4-401-62232-4
関連書籍
Image Dictionary BOØWY(ボウイ)(1985年、八曜社)ISBN 4-8270-0081-6
- 大きなビートの木の下で(1986年、CBSソニー出版)ISBN 4-7897-0266-9
BOØWY(ボウイ)栄光の軌跡(2000年、衆芸社)ISBN 4-921023-51-4
ARENA37℃ SPECIAL BOØWY(ボウイ)神話のすべて(2001年、音楽専科社)ISBN 4-87279-168-1
B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS.(2002年、宝島社)ISBN 4-7966-4240-4
- 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWY(ボウイ)と「日本のロック」(2002年、宝島社)ISBN 4-7966-2724-3
BEST OF BOØWY(ボウイ)(2005年、英和出版社)ISBN 4-89986-488-4
- 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY(ボウイ)伝説(2006年、宝島社)ISBN 4-7966-5349-X
関連項目
山田かまち(氷室京介、松井常松と小・中学校の同級生。当時、一緒にバンド活動を行った。)
吉川晃司(イベントで共演するなど交流があった。1986年、新宿都有3号地で豪雨の中の競演が有名。アルバム『JUST A HERO』収録の「1994-Label Of Complex-」にヴォーカルで参加。BOØWY(ボウイ)解散後に布袋寅泰と「COMPLEX」を結成。)
山下久美子(1986年に布袋と結婚。山下のツアーに布袋と松井がサポートで参加した他、イベントでも共演した。1997年に離婚。)
44MAGNUM(かつて同じ事務所に所属し、新宿都有3号地での共演、アルバム『FOUR FIGURES』に布袋が参加するなどの交流があった。)
松武秀樹(第4のYMOメンバーとして知られるシンセサイザープログラマー。アルバム『BEAT EMOTION』『PSYCHOPATH』参加。)
De-LAX(デラックス)(BOØWY(ボウイ)解散後、高橋まことが参加)
セックス・ピストルズ(アナーキー・イン・ザ・U.K.、GOD SAVE THE QUEEN など初期のライブではピストルズの曲が頻繁に演奏された)
デヴィッド・ボウイ(ボウイというバンド名は彼から取ったという俗説もある[注釈 6])
脚注
注釈
^ この際布袋は「物真似する為にここへ出て来た訳じゃありませんから」と拒否している。
^ 後にガラパゴスのボーカルとしてデビューする狩野環。
^ 出待ちをする為、アンコール中に会場から出て行ってしまうファンもいたという。(PATi PATi 1987年4月号インタビューより)
^ 当時の契約上の関係で布袋のみブックレットに名前は記載されていなかったが、高橋が当時の雑誌で布袋も参加してることを明かしている。
^ ドラムではなく、カホンを演奏。
^ 2012年12月17日放送 東京エトワール音楽院にて、講師のはなわが山本寛斎作のデヴィッド・ボウイの衣装に書かれた「出火吐暴威」に影響を受けた説を紹介している。
出典
- ^ abBoowy reviews, music, news - sputnikmusic・2015年7月13日閲覧。
^ http://www.rbbtoday.com/article/2014/07/14/121650.html
^ http://irorio.jp/gt1999/20140714/148861/
^ http://topics.jp.msn.com/entertainment/music/article.aspx?articleid=5074890
^ “viBirth アーティスト一覧”. 2013年2月9日閲覧。
- ^ abcdefghijkl『記憶』 松井常松(2009年 徳間書店)
^ 東京パワーゲート公式サイト
- ^ ab鈴木大介 「LINER NOTES」 『complete of T-BOLAN at the BEING studio』、B-Gram RECORDS、2002年。
^ 後のPARCO劇場
- ^ abNHK-FM『ミュージックスクエア』1990年7月19日放送分での布袋と松井の会話より
^ 挫折と再起。(アスペクトによる織田哲郎のインタビュー)
- ^ abcdefghijklmno『スネア』 高橋まこと(2007年 マーブルトロン)
^ INLIFE 男の履歴書 氷室京介
- ^ abcdefg『秘密』 布袋寅泰(2006年 幻冬舎)
^ 月刊カドカワ1991年4月号 総力特集氷室京介70ページ
^ BOØWY(ボウイ)B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS、116ページ(2004年 宝島社)
^ 昨日は涙雨?かな。ざんす。 高橋まことのぼちぼちブログ
^ TEENAGE EMOTION 寿記-寿的超日常記-
^ BUCK-TICK LOVE ME(1989年 シンコー・ミュージック) ISBN 4-401-61275-2
^ BOØWY(ボウイ)B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS、135ページ(2004年 宝島社)
^ 写真集「RENDEZ-VOUS」の年表
^ 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWY(ボウイ) と「日本のロック」
^ B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS.、117ページ
^ 東京パワーゲートの日々是パフォーマンス
^ @布袋寅泰 非常に心外です。
^ BOØWY(ボウイ)B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS、136ページ(2004年 宝島社)
- ^ abcd「ROCKIN'ON JAPAN」1988年6月号、「ROCKIN' ON JAPAN FILE vol.2」、ロッキングオン。
^ 「ROCKIN'ON JAPAN FILE」、p.76、ロッキング・オン、1988年。
^ NHK総合『トップランナー』(2004年6月6日)出演時のコメントより
^ BOØWY(ボウイ)B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS、40ページ(2004年 宝島社)
^ NHK-FM『ミュージックスクエア』1990年5月3日放送分より
^ VHS / DVD 『KING OF ROCK SHOW of 88'S-89'S TURNING PROCESS』のインタビューより
^ 『糟谷岡崎堂』 2012年8月29日の記事より
^ 宝島のインタビューより
^ 「PATi PATi」 1991年11月号インタビューより
^ 布袋寅泰『よい夢を、おやすみ』(1993年 八曜社)ISBN 4827001391
^ 氷室京介の「全編BOOWY」チャリティーLIVE 残されたメンバー3人が胸中綴る オリコン 2011年4月19日
^ こんにちは(^^)ざんす。 高橋まことのぼちぼちBLOG
^ COLUMN 2011年4月18日参照
^ BOØWY(ボウイ) BEAT主義日記
^ 2011年5月5日放送 NEWS ZERO 特別編 「氷室京介 密着250日」でのコメントより
^ COLUMN、2011年6月11日参照
^ 高橋まこと 友情出演決定! BEAT主義日記
^ こんにちは!ざんす。 高橋まことのぼちぼちBLOG
^ “布袋寅泰と元BOOWY(ボウイ) ドラマー・高橋まことが24年ぶり共演”. ORICON. (2012年2月2日). http://www.oricon.co.jp/news/music/2006525/full/ 2012年2月8日閲覧。
^ “布袋寅泰30周年ライブで高橋まこととBOØWY(ボウイ) セッション”. ナタリー. (2012年2月2日). http://natalie.mu/music/news/63803 2012年2月8日閲覧。
^ 群馬・高崎で3棟全焼、氷室京介さんの実家も 2人けが 朝日新聞 2013年3月11日
^ 実家全焼の氷室京介、公式サイトで両親の無事報告 ORICON STYLE 2013年3月11日
^ 「氷室京介の家に火つけた」出頭の無職女を逮捕 読売新聞 2013年3月11日
^ 放火犯は“モンスターファン” 東京スポーツ 2013年3月15日
^ 被害者は氷室京介だけじゃない!怖~いファンのトンデモ事件簿 マイナビニュース 2013年3月16日
^ @_HOTEI 2013年3月11日のツイートより
^ 今日は寒くなりました、ざんす。高橋まことのぼちぼちBLOG
^ 週末は群馬でお仕事でした、ざんす。「ATMIC DRUM 高橋まことのぼちぼちBLOG」2013年3月14日の記事より
^ This is my true feeling.BEAT主義日記 - HOTEI OFFICIAL BLOG
^ “東京ドームへ行ってまいりました、ざんす。”. ATOMIC DRUM 高橋まことのぼちぼちBLOG (2016年5月24日). 2016年6月4日閲覧。
^ “Respect”. BEAT主義日記 - HOTEI OFFICIAL BLOG (2016年6月1日). 2016年6月4日閲覧。
外部リンク
BOØWY(ボウイ)30th ANNIVERSARY - 公式ウェブサイト
BOØWY(ボウイ) - UNIVERSAL MUSIC JAPAN
BOØWY(ボウイ)HUNT - 公式ウェブサイト(会員制)
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