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Showing posts from March 7, 2019

十日夜

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十日夜 (とおかんや、とおかや)とは、旧暦10月10日の夜に行われる年中行事である。 概要 旧暦10月10日に行われる収穫祭で、「刈上げ十日」などともいわれる。稲の刈り取りが終わって田の神が山に帰る日とされる。北関東を中心に甲信越から東北地方南部にかけて広く分布し、西日本の刈上げ行事である亥の子と対応している。 一般的には、稲の収穫を感謝し翌年の豊穣を祈って、田の神に餅・ぼた餅が献じられるほか、稲刈り後の藁を束ねて藁づとや藁鉄砲を作り、地面を叩きながら唱えごとをする行事が行われる。これは、地面の神を励ますためと伝えられるが、作物にいたずらをするモグラを追い払う意味も持つ。 地域別の風習の一例として、長野県では、田んぼを見守ってくれた案山子を田の神に見立てて田から内庭に移して供え物をする案山子上げが行われる。また、群馬・埼玉県では、子供が藁鉄砲を持ち、集団で各家を訪れ地面をたたいて歩く。十五夜と同じく月に供え物をする所や、大根の年取りと称してダイコン畑に入るのを忌む所もある。その他、田の神送りの日として、2月10日前後の田の神降ろしと一対のものとみなしている所も、福島県を中心にして見られる。 一方で、藁鉄砲打ちの唱えごとや月への供物の習慣から、この行事は、水田での稲作のみに関わるものではなく、畑作祈願の要素も認められる。 「藁鉄砲打ちの唱えごとの一例」 とおかんや、とおかんや とおかんやの、藁でっぽう 夕めし食って、ぶっ叩け 関連項目 亥の子 もぐら打ち この項目は、日本の文化に関連した 書きかけの項目 です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 日本・ウィキプロジェクト 日本文化)。 This page is only for reference, If you need detailed information, please check here

物忌み

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物忌み (ものいみ)とは、ある期間中、ある種の日常的な行為をひかえ穢れを避けること。斎戒に同じ。 [1] 具体的には、肉食や匂いの強い野菜の摂取を避け、他の者と火を共有しないなどの禁止事項がある。日常的な行為をひかえることには、自らの穢れを抑える面と、来訪神 (まれびと)などの神聖な存在に穢れを移さないためという面がある。 目次 1 神祇令における物忌み 2 現代の規定 3 民間における物忌み 4 関連項目 5 脚注 神祇令における物忌み 公的な祭祀における物忌みについては、養老律令の神祇令に定められている。大祭、すなわち大嘗祭においては散斎(あらいみ)一月、致斎(まいみ)三日、中祭は三日、小祭は当日のみとされている [2] 。ここに於いて散斎とは軽度の物忌み、致斎とは厳重な物忌みのことである。 同じく神祇令に散斎の期間中は、通常の執務を行ってよいが、死者の弔い、病人の訪問、肉食、死刑の署名、笞刑の実施、音楽の演奏、および穢れに関わることを禁ずると定められている。致斎においては祭祀に関わること以外の一切が禁じられている。 現代の規定 神社本庁では、「斎戒に関する規定」として大祭、中祭は当日および前日、小祭は当日斎戒するものと定めている [3] 。斎戒中は、「潔斎して身体を清め、衣服を改め、居室を別にし、飲食を慎み、思念、言語、動作を正しくし、汚穢、不浄に触れてはならない」とされている。 民間における物忌み 民間においても、同様の作法が行われていた。祭りの関係者は祭りの前一定期間は歌を歌わない、肉食をしない、下肥を扱わない、などという習慣が行われていた。また、地域によりキュウリ、ゴマなどの摂取を禁止する例もある。 その他に季節ごとの神の来訪に合わせた物忌みが行われていた。例えば神津島では1月24日夜に訪れる神を迎えるため、20日ごろから山に入ることを控え、当日は仕事を休み、物音を立てないようにし、夜間は明かりもつけず、戸を開けることもしないという物忌みが行われていた [4] 。 祭の中心となる頭屋などには特に長期にわたる物忌みが要求され、やはり散斎と致斎の期間が設けられていた。致斎の期間には特に穢れを防ぐため、精進小屋などで別火生活が行われた。 関連項目

中国の仏教

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中国の仏教 (ちゅうごくのぶっきょう)では、中国地域の仏教の歴史について詳述する。 目次 1 後漢(伝来) 2 三国・両晋・五胡十六国 3 南北朝 4 隋 5 唐 6 五代・宋・元 7 明・清 8 中華民国 9 中華人民共和国 10 備考 11 脚注 12 関連項目 13 参考文献 14 外部リンク 後漢(伝来) 「仏教のシルクロード伝播」も参照 中国地域への仏教の伝来は、1世紀頃と推定される。 伝来に関する説話は幾つかあるが、最も有名なのは、後漢の永平10年(67年)の明帝と洛陽白馬寺に纏わる求法説話である。また『後漢書』には、楚王英伝に仏教信仰に関する記録がある [1] 。 また、1990年代以降、この時代の遺物の意匠中から仏像と見られるものが発見されるなど、考古学的な面からもこの時代に仏像が伝来していたことが立証されている。恐らく、シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、それから民衆の間に徐々に仏教が浸透していったものと推定される。 また、後漢末期の武将として小説『三国志演義』にも登場する笮融が、揚州に大寺を建立した事で知られている。 桓帝の時代にインドや西域の仏教者が漢土に到来し、洛陽を中心に仏典の翻訳に従事した。なかでも安世高、安玄、支婁迦讖(支讖)、笠仏朔(笠朔仏)、支曜、康巨、康孟詳、笠大力らが経典の訳出に携わった。また初めての漢人出家者として厳仏調が現れ、安玄の訳経を助けた [2] 。 この時代の仏教書としては『牟氏理惑論』や『四十二章経』など、幾つか挙げられるが、いずれも後世に書かれた物であるとの疑いが強い。明帝の求法説話や摂摩騰の『四十二章経』等の翻訳を架空の創作とすると、中国で初めて仏教の経典を翻訳したのは、安息国(パルティア)出身の安世高となる。安世高は『安般守意経』『陰持入経』等の部派仏教の禅観に関する経典やアビダルマ論書である『阿毘曇五法行経』を訳した。 また『出三蔵記集』巻七、「道行経後記」によれば、霊帝の時代に笠仏朔、支婁迦讖らが大乗経典の『道行般若経』を訳出したという [3] [2] 。また『般舟三昧経』が光和2年(179年)の10月8日に胡本から漢訳された(『

小正月

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この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2012年1月 ) 小正月 (こしょうがつ)とは、正月15日 [1] [2] の行事である。または、14日から16日までの3日間 [1] 、または、14日の日没から15日の日没まで [3] 、または、望(満月)の日、または、元日から15日までの15日間ともされる。 本来旧暦だが、明治の改暦後は新暦1月15日、もしくは、2000年からは成人の日(1月第2月曜日)に行われる場合もある。 元日(または元日から1月7日まで)を大正月と呼ぶのに対してこのように呼ぶ。正月(字義通りには月末まで)の終わりとも位置づけられる [3] 。 小年 (こどし)、 二番正月 、 若年 、 女正月 (おんなしょうがつ)、 花正月 [1] 。 返り正月 、 戻り正月 と呼ぶ地方もある [1] 。 目次 1 由来 2 風習 2.1 日本 2.2 中華圏 2.3 韓国 3 脚注 4 関連項目 5 外部リンク 由来 中国式の太陰太陽暦が導入される以前、望の日を月初としていたことの名残りと考えられている [4] 。 六朝時代の歳時記である『荊楚歳時記』によれば、「正月十五日、豆糜を作り、油膏を其の上に加え、以て門戸を祠る。其の夕、紫姑を迎え、以て将来の蚕桑を卜い、并せて衆事を占う」とある [5] 。 風習 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2016年12月 ) 日本 古くはこの小正月までが松の内だった(この日まで門松を飾った)ものが、江戸時代に徳川幕府の命により1月7日の大正月までとされたが、関東地方以外には広まらなかった。 この日の朝には小豆粥を食べる習慣があり、早朝に食べることから「あかつき粥」、小豆の色合いから「紅調(うんじょう)粥」「さくら粥」とも呼ばれている [6] 。古くは『土佐日記』や『枕草子』などにも、小正月に小豆粥を食べたことが記されている。現在でも東北地方の農村などに、左義長の前に小豆粥を食べる習慣が残っている地域が

小豆粥

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朝鮮のパッチュク 小豆粥 (あずきがゆ)とは、米と小豆を炊き込んだ粥。ハレの日に食せられる食べ物の1つである。 目次 1 概要 2 参考文献 3 脚注 4 関連項目 概要 日本においては、小正月の1月15日に邪気を払い一年の健康を願って小豆粥を食べる風習がある。この15日は望の日なので、 望粥 (もちがゆ)とも呼ぶ。また、雪深い東北地方や北陸地方では、1月7日の七草粥のかわりとして小豆粥を食べる地域もある。 小豆が持つ赤色と稲作民族における呪術が結び付けられて、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきた。日本の南北朝時代に書かれた『拾芥抄』には中国の伝説として、蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば100倍の蚕が得られるという託宣を残したことに由来するという話が載せられている。 中国においては、古くは冬至の際に小豆粥が食せられた。後にこの風習が発達して12月8日には米と小豆ほか複数の穀物や木の実を入れた「臘八粥」(ろうはちがゆ)というものが食せられ、六朝時代の中国南部では1月15日に豆粥が食せられた(『荊楚歳時記』)。これが日本に伝わって1月15日すなわち小正月の朝に小豆粥を食するようになったと考えられている。『延喜式』によれば、小正月には宮中において米・小豆・粟・胡麻・黍・稗・葟子(ムツオレグサ)の「七種粥」が食せられ、一般官人には米に小豆を入れたより簡素な「御粥」が振舞われている。これは七種粥が小豆粥に他の穀物を入れることで成立したものによるとする見方がある。また、紀貫之の『土佐日記』によれば、承平7年(935年)の1月15日(小正月)の朝に「あづきがゆ」を食したという記述が登場している。江戸時代には15日すなわち「望(もち)の日」の粥という語が転じて「餅(の日)」の粥と解せられ、小豆粥に餅を入れて食べる風習も行われるようになった。今日でも地方においては正月や田植、新築祝い、大師講などの際に小豆粥や小豆雑煮で祝う風習のある地方が存在する [1] 。大師講が行われる11月23日(現在は12月23日)にはそれぞれの家で長短不揃いのカヤの箸とともに小豆粥が供えられる。大師様が小豆粥を食する際に用いたと考えられた箸は、地方によっては講の後に魔除けや子女の学問・技術の向上のまじな

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楽曲については「孫 (大泉逸郎の曲)」を、漢姓については「孫氏」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2012年10月 )  部首〔こ・こへん・こどもへん〕 孫 (まご)は、自分の子供の子供である。 男子の場合は 男孫 (だんそん/おとこまご)、女子の場合は 女孫 (じょそん/おんなまご)と呼ぶ。 女孫は、娘らしくなれば、 孫娘 (まごむすめ)とも呼ばれるのに対し、男孫“孫息子”の用例は少ない。 嗣子の子供を 内孫 、嗣子にならなかった子供の子供を 外孫 、最初に生まれた孫を 初孫 と呼ぶ。 おばあさん仮説 親子関係については進化論的裏付けが存在する。子供を親が大事にするのは自然選択的に当然と考えられるからである。しかし、孫を大事にすることは必ずしもそうではない。親がそれをすれば十分と考えられる。血縁選択説の立場からは、孫は明らかに直系の血縁者だから、これを守ることはそれなりの価値が認められる。しかし、ほとんどの動物では孫が生まれるまで親が生存することがない。そのような環境下では、そのような行動が進化する余地はないものと考えられる。 しかし、他方でヒトは自分の繁殖時期(受精、出産と子育て)の終了よりも遙かに長い生理的寿命を持つ。これが何に由来するかの議論で、祖父母が子育てに参加することで孫の生存率が高まるのではないかとの説がある。様々な動物で、子供が親の育児を手助けするヘルパーという行動が知られるが、これをヒトでは祖父母が担っているという説である。特におばあちゃんが豊富な経験を自分の子の子育てに生かせることで、孫の生存が高まることが、ヒトの寿命の長くなった進化に影響を持っているという。これが正しければ、祖父母が孫に執着する感情を持つ理由はこれに由来するのかもしれない。 詳細は「おばあさん仮説」を参照 関連項目 ウィクショナリーに 孫 の項目があります。 養孫(養孫縁組) 嫡孫(内孫) 外孫 曽孫 - 孫の子供。 大甥 - 兄弟姉妹の男孫。 大姪 - 兄弟姉妹の女孫。 いとこ - 同じ先祖の孫同士。 はとこ - 兄弟姉妹の孫同士。 This

竜王

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「 竜王 」のその他の用法については「竜王 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年6月 ) 龍王像。北京頤和園にて。 龍王 (りゅうおう)は、仏教における蛇形の鬼類であるナーガの王 [1] (ナーガラージャ)、または中国の想像上の神獣である龍が人格化した神格 [2] 。 目次 1 仏教における龍王 2 道教における龍王 2.1 五方龍王 2.2 四海の神と龍王 3 日本の龍神・龍王 3.1 盤牛王と五帝五龍王 3.2 十二天将 3.3 神楽における竜王 4 補注 5 出典 5.1 参考文献 6 関連項目 仏教における龍王 仏教における様々な龍王の名。 仏典に記されたインドの蛇形の精霊であるナーガは、龍と漢訳されて中国に伝わった。ナーガはインドで古くから信仰されていた蛇神で、中国の龍とは異なり、コブラが元になっている [3] 。人面蛇身として描かれる半神で [4] 、ヒンドゥー教ではパーターラという地底界に棲むとされ [3] 、仏教においては仏法を守護する異類である八部衆の一つとされた。『法華経』には釈迦の説法を聴いた八尊の龍王が登場し、これを総称して八大龍王という。密教では祈雨修法の本尊である請雨経曼荼羅に八大龍王が描かれている [1] 。 道教における龍王 中国では、仏教の八大竜王や八部衆の一つである龍と、中国古来の龍の観念が習合して [5] 、インド伝来の龍王とはまた別の、四海龍王などの道教の龍王信仰が定着した。古代中国で龍といえば、天地を往来する霊獣であり、瑞祥の生きものである四霊の一つであり、五行説の東方・木行・青に当てはめてられる四神の一つ「青龍」であった。これに対し龍王は、漢代までの文献にはあらわれない、漢訳仏典成立後に広まったと考えられる概念である [6] 。龍王はサンスクリットのナーガラージャの漢訳であるが、中野美代子の指摘するところでは、龍王の語は竜族の頭(かしら)というよりも特定の地域に分封された王という意味合いが強い

Linux not booting

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0 i have the following problem: I have build my linux image with elbe linux build. This produces an image which can be copied to a filestorage and can be run. This works well if I use the output image and copy it with "dd"-command to the usb stick. The computer boots from the usb with no problems. If I try to install the new image from the live cd (USB-Stick) with the same "dd"-command using before , it does not work. It wont boot without the usb-stick plugged in. If I remove the usb-stick, I get the error " no bootable device found". If I plug in the USB-Stick, it boots with no problems. I have looked at the mount output. I see that "/dev/mmcblk0" is used for my rfs. and "dev/sda5" is used for my /home folder. Somehow i think the bootloader is not found, if I u