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Showing posts from February 6, 2019

賀循

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賀 循 (が じゅん、260年 - 319年)は、中国西晋から東晋にかけての政治家。字は 彦先 。揚州会稽郡山陰県の人。曾祖父は賀斉。祖父は賀景。父は賀邵。子は賀隰。東晋の元帝(司馬睿)に仕え、「 五儁 」 [1] と謡われた。 賀氏の元の姓は慶氏である。賀斉の伯父・慶純は学者として名があり、後漢の安帝の時代に侍中・江夏太守を務めた人物である。彼が安帝の父の名を避けて賀氏に改めた。 生涯 父・賀邵の処刑に伴い、臨川郡に配流されていたが、呉の滅亡と共に、ようやく故郷に戻る事ができた。賀循は高く厳しく節操を持ち、幼い頃から言動も行動も礼儀正しかった。学問を好んで広い知識を身につけていたが、特に三礼(儀礼・周礼・礼記)に詳しかった。 晋代になって、秀才に推挙され、陽羨県と武康県の県令を歴任した。会稽内史に務めていた時期に、西興運河を開墾し、会稽郡から銭塘江までの運河を開通させた。後に顧栄(顧雍の末裔)・陸機・陸雲ら晋に仕えた呉の豪族たちに推挙され、賀循は中央に召し出され、太子舎人となった。趙王の司馬倫が帝位を簒奪した後、転侍御史に任じられたが、永らく労咳(結核)に罹っていた為に辞退し、官を辞して故郷へ戻った。 張昌の一味の石冰が揚州で反乱を起こした時、賀循は軍勢を集めて防衛にあたったが、反乱が鎮圧されるとそのまま門を閉ざして家に引き籠った。その後、陳敏が孫呉政権の再来を目指して反乱を起こすと、旧・呉の豪族の子孫たちがこぞって参加し、陳敏から爵位を受けたが、賀循とその同郡の朱誕だけが反乱に加わらなかった。なおも陳敏は賀循を丹陽内史に任じようとしたが、賀循は病気を理由に固辞し、陳敏もそれ以上強いて就任を迫ろうとしなかった。のちに陳敏の反乱は顧栄・甘卓(甘寧の曾孫)・周玘らによって鎮圧され、賀循は呉国の内史に任ぜられたが、職に就かなかった。 東晋の元帝(司馬睿)がまだ鎮東将軍だった頃、賀循を幕府に招いて軍司馬に任じた。元帝が晋王になると、賀循を中書令に任じようとしたが、賀循は固辞してその任を受けなかった。やがて太常の官に転じ、太子太傅、左光禄大夫を兼任した。当時は東晋の朝廷が建てられたばかりで、政治制度が定まっていなかったが、宗廟の祭祀の決まりは全て賀循が定めたほか、朝廷在野を問わず様々な事柄について賀循の意見を求められ、当時の学者の元締めとし

317年

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千年紀: 1千年紀 世紀: 3世紀 - 4世紀 - 5世紀 十年紀: 290年代 300年代 310年代 320年代 330年代 年: 314年 315年 316年 317年 318年 319年 320年 317年 (317 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 目次 1 他の紀年法 2 カレンダー 3 できごと 4 誕生 5 死去 6 脚注 7 関連項目 他の紀年法 この節は、 ウィキプロジェクト 紀年法 の ガイドライン に基づいて記述されています。この節に大きな変更を加える場合には、あらかじめ上記プロジェクトのノートで提案し、合意を形成してください。 凡例 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。 干支 : 丁丑 日本 仁徳天皇5年 皇紀977年 中国 西晋 : 建興5年 東晋 : 建武元年 前趙 : 麟嘉2年 成漢 : 玉衡7年 前涼 : 建興5年(西晋の元号を継続して使用) 代 : 平文皇帝(拓跋鬱律)2年 朝鮮 高句

元帝 (東晋)

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元帝 司馬睿 東晋 初代皇帝 王朝 東晋 在位期間 317年4月6日 - 323年1月3日 都城 建康 姓・諱 司馬睿 字 景文 諡号 元皇帝 廟号 中宗 生年 咸寧2年(276年) 没年 永昌元年閏11月10日 (323年1月3日) 父 司馬覲 母 夏侯光姫 后妃 ない 陵墓 建平陵 年号 建武 : 317年 - 318年 大興 : 318年 - 321年 永昌 : 322年 元帝 (げんてい)は、東晋の初代皇帝。諱は睿、字は景文。宣帝司馬懿の曾孫、琅邪武王司馬伷の孫に当たる。また、母方を通して夏侯淵の玄孫でもある。 目次 1 生涯 2 出生に関する異説 3 脚注 3.1 注釈 3.2 引用元 4 宗室 4.1 妻妾 4.2 子女 生涯 河内郡温県の人。西晋の琅邪恭王司馬覲の子として洛陽に生まれる。生母は夏侯光姫(夏侯威の孫娘)。弟に東安王司馬渾がいる。15歳で琅邪王に封じられる。建武元年、当時権勢を誇っていた成都王司馬穎の討伐に参戦するが失敗し恵帝と共に鄴で司馬穎の監視下に置かれた。保身のために鄴を脱出し洛陽で母に会い共に封国の琅邪に戻った。途中、黄河の渡し場を渡るときに見とがめられて留置されそうになった。司馬穎が一族を手元にとどめて監視し、地方に自由に去ることを禁じていたからである。そこに遅れてやってきた従者が追いついて司馬睿の馬を鞭でこづきながら「舎長!政府は貴人の通行を禁じているそうだが、貴様も止められたのか」と言って笑って見せた。その様子を見て、役人は通行を許した [1] [2] 。 司馬穎が東海王司馬越に殺害された直後に、司馬越により永嘉元年に安東将軍・都督揚州諸軍事に任ぜられる。その頃朝廷の衰退を予測した近侍の王導の献策に従い、建業に赴く。その際に賢人を厚くもてなし江東をよく平定したといわれている。 永嘉4年(310年)、洛陽の危機状況から寿春にいた征東将軍の周馥は寿春への遷都を計画したが、司馬越は裴碩らに周馥討伐を命じ、懐帝の江南遷都を不可能にした。 永嘉5年(

梁州

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この項目では、書経の九州及び蜀が復活させた梁州について説明しています。東魏が設置した梁州については「汴州」をご覧ください。 梁州 (りょうしゅう)は中国にかつて存在した州。『書経』による古代中国の九州の一つとされ、現在の四川省と陝西省漢中地方に相当する。周代に雍州に統合された。 目次 1 魏晋南北朝時代 2 隋代 3 唐代 4 関連項目 5 注釈 魏晋南北朝時代 漢代に州制が施行さた際には設置されず、益州の一部とされた。263年(景元4年)、魏が蜀を滅ぼすと蜀の故地に益州及び 梁州 を設置、州治は沔陽(現在の勉県旧州)に置かれた。西晋の時代になると州治は漢中郡に移転している。 その後の五胡十六国から南北朝時代には政治的混乱の影響を受け州治の移転が相次ぎ、また南朝王朝により僑州が別地域に設置されるなどしている。 隋代 605年(大業元年)、洋州を 梁州 に統合、7郡13県を管轄していた。607年(大業3年)に郡制に改められ、集州平桑郡を統合し 漢川郡 に改編、8県を管轄するようになった。隋朝の行政区分に関しては下図を参照。 隋朝の行政区画変遷 区分 開皇元年 区分 大業3年 州 梁州 洋州 集州 郡 漢川郡 郡 漢川郡 [1] 褒内郡 [2] 華陽郡 儻城郡 洋川郡 豊寧郡 洋中郡 平桑郡 県 南鄭県 城固県 褒城県 西県 興勢県 黄金県 西郷県 難江県 県 南鄭県 城固県 褒内県 白雲県 華陽県 嶓冢県 沔陽県 興勢県 竜亭県 洋川県 黄金県 豊寧県 懐昌県 難江県 唐代 唐朝が成立すると 梁州 と改称され山南西道の管轄となったが、管轄地域は縮小され隋初の漢川郡程度となっていた。784年(興元元年)、朱泚の反乱による戦火を避けるため徳宗が梁州に行幸、梁州は 興元府 と改称され、梁州の行政区分名称は消滅した。 唐代の管轄県 南鄭県 褒城県 西県 関連項目 九州 (中国) 洋州 集州 注釈 ^ 文帝の父である楊忠と同音の「中」を忌諱し「漢中郡」より改称された。 ^ 文帝の父

会稽郡

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この項目では、江南地区にかつて存在した郡について説明しています。西涼が甘粛省に設置した郡については「永興郡 (甘粛省)」をご覧ください。 会稽郡 (かいけい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて設置された。 揚州東部の長江下流域に設置され、六朝時代には政治、文化(六朝文化)の中心地として発展した。その領域は時代によって変遷があるが、現在の中華人民共和国浙江省紹興市付近がその中心である。 目次 1 先秦時代 2 秦 3 前漢 4 後漢 5 魏晋南北朝 6 隋唐 先秦時代 郡名は会稽山による。伝承では夏朝禹の時代には会稽山の名称が使用されていた。禹が死去した地であると記されており、現在も禹を祭った禹王廟が位置する。地名は禹が死去する際、諸侯が一堂に会しその業績を計ったことから「会稽(会計に通じる)」と称されるようになった。 『史記』によれば夏少康の庶子である無余が会稽に封じられ越の始祖になったと伝えられる。春秋時代には越の国都として発展していた。当時、呉と越がこの地域において対立していたが、越王勾践は呉王夫差に敗れて会稽山に逃げ込み、夫差の下僕になるという屈辱的な条件によって和睦し、助命された話が伝わっている(『史記』の越王勾践世家)。後に勾践は夫差を討って呉を滅ぼすのであるが、この話から、敗戦の恥辱や他人から受けた堪え難いほどの辱めを意味する「会稽の恥」という故事成語が生まれている。 秦 前223年、秦の攻撃を受けた越は滅亡する。翌年、秦将の王翦により会稽郡が設置され、呉に郡治が設置された。管轄範囲は呉、越両国の故地であり、現在の江蘇省長江南岸、安徽省南東部、浙江省北部及び上海市西部に相当した。 前221年、全国に36郡を設置した際、会稽郡西部には故鄣郡が設置されている。前210年、始皇帝による会稽巡幸が行われた。 秦末に項羽とその叔父項梁が隠れ住んでいたのも会稽である。彼らはここで秦が派遣した会稽郡守の殷通を殺害して秦討伐の軍を起こし、咸陽に向けて行軍を開始している。 前漢 漢初、会稽郡は 呉郡 と称された。 前202年、劉邦は韓信を楚王に封じ、秦代の会稽郡、東海郡、泗水郡、薛郡、陳郡に 楚国 を設置した。しか