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Showing posts from February 3, 2019

選択公理

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選択公理 (せんたくこうり、英: axiom of choice 、 選出公理 ともいう)とは公理的集合論における公理のひとつで、どれも空でないような集合を元とする集合(すなわち、集合の集合)があったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができるというものである。1904年にエルンスト・ツェルメロによって初めて正確な形で述べられた [1] 。 目次 1 定義 2 選択公理と等価な命題 3 応用 4 歴史 5 バナッハ=タルスキーのパラドックスと選択公理 6 代わりとなる公理 7 選択公理の変種 7.1 可算選択公理 7.2 有限集合の族に対する選択公理 8 脚注 9 参考文献 10 関連文献 11 関連項目 12 外部リンク 定義 空集合を要素に持たない任意の集合族に対して、各要素(それ自体が集合である)から一つずつその要素を選び、新しい集合を作ることができる。あるいは同じことであるが、空でない集合の空でない任意の族 A{displaystyle {mathcal {A}}} に対して写像 f: A→ ⋃ A:=⋃ A∈ AA{displaystyle fcolon {mathcal {A}}to textstyle {bigcup }{mathcal {A}}:=textstyle {bigcup _{Ain {mathcal {A}}}}A} であって任意の x∈ A{displaystyle xin {mathcal {A}}} に対し f(x)∈ x{displaystyle f(x)in x} なるものが存在する、と写像を用いて言い換えることが出来る(ここで存在が要求される写像 f を 選択関数 (英語版) という)。これは次の命題と同値である。 { A λ } λ ∈ Λ をどれも空集合でないような集合の族とすると、それらの直積も空集合ではない。記号で書けば、 (∀ λ ∈ Λ )[Aλ ≠ ∅ ]⟹ ∏ λ ∈ Λ Aλ ≠ ∅ .{displaystyle left(forall lambda in Lambda right)left[A_{lambda

エミール・アルティン

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この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2016年3月 ) エミール・アルティン エミール・アルティン(1898年 – 1962年) 生誕 ( 1898-03-03 ) 1898年3月3日 オーストリア=ハンガリー帝国, ウィーン 死没 1962年12月20日 (1962-12-20) (64歳) 西ドイツ, ハンブルク 研究分野 数学 研究機関 ハンブルク大学 ノートルダム大学 インディアナ大学 プリンストン大学 出身校 ウィーン大学 ライプツィヒ大学 博士課程 指導教員 グスタフ・ヘルグロッツ オットー・ヘルダー 博士課程 指導学生 サージ・ラング ジョン・テイト 主な受賞歴 アッカーマン・トイブナー記念賞 (英語版) (1932年) プロジェクト:人物伝 エミール・アルティン ( Emil Artin , 1898年3月3日 - 1962年12月20日 )は、オーストリア出身でのちにドイツ、アメリカ合衆国で活躍した数学者。20世紀を代表する数学者の一人といえる。 代数的数論 (英語版) での業績で著名で、類体論やL-函数の構築に貢献した。群、環、体論にも優れた業績を残している。 同じく数学者の マイケル・アルティン (英語版) は息子である。ドイツのハンブルクでキャリアを積んでいたが、妻がユダヤ系のためナチスに追われ、1937年アメリカに移住した。1938年から1946年まではインディアナ大学で、1946年から1958年まではプリンストン大学で教鞭をとった。戦後、再びハンブルクに戻った後は、1962年に死亡するまで、そこで働いた。 ファン・デル・ヴェルデン (英語版) による抽象代数学の手法は、エミー・ネーターだけでなくアルティンにも部分的に由来するといわれている。弟子には、サージ・ラング、ジョン・テイトなどがいる。 関連項目 ウィキメディア・コモンズには、 エミール・アルティン に関連するカテゴリがあります。 アルティン予想 アルティンのL-函数 アルティン相互法則 アルティン・リースの補題 アルティン・シュ

昇鎖条件

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昇鎖条件 (しょうさじょうけん、英: ascending chain condition; ACC )および 降鎖条件 (こうさじょうけん、英: descending chain condition; DCC )とは、ある代数的構造が満たす有限性に関する性質である。これらの性質を持つ代数的構造で最も代表的なものに、可換環のイデアルがある [1] [2] [3] 。昇鎖条件および降鎖条件は、ダフィット・ヒルベルト、エミー・ネーター、エミール・アルティンらが可換環の構造に関する理論を構築する上で、重要な役割を果たした。 昇鎖条件および降鎖条件それ自体は、いかなる半順序集合に対しても意味を持つような、抽象的な形式で表すことができる。この考え方は Gabriel–Rentschler による抽象代数の次元に関する理論において有用である。 目次 1 定義 1.1 注釈 2 脚注 3 関連項目 4 参考文献 定義 半順序集合 P において、任意の真の上昇列 a 1 < a 2 < a 3 < ... が有限回で止まるときに 昇鎖条件 が成り立つと言う。この条件は次のようにも言い換えられる。任意の列 a1≤ a2≤ a3≤ ⋯ {displaystyle a_{1}leq a_{2}leq a_{3}leq cdots } に対して、ある自然数 n が存在して、 an=an+1=an+2=⋯ {displaystyle a_{n}=a_{n+1}=a_{n+2}=cdots } が成り立つ。 同様に、半順序集合 P において、任意の真の下降列 a 1 > a 2 > a 3 > ... が有限回で止まるときに 降鎖条件 が成り立つと言う。この条件は次のようにも言い換えられる。任意の列 a1≥ a2≥ a3≥ ⋯ {displaystyle a_{1}geq a_{2}geq a_{3}geq cdots } に対して、ある自然数 n が存在して、 an=an+1=an+2=⋯ {displaystyle a_{n}=a_{n+1}=a_{n+2}=cdots } が成り立つ。 注釈 「無限に続く真の

伝奇小説

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伝奇小説 (でんきしょうせつ) 主に中国の唐-宋時代に書かれた短編小説のこと [1] 。六朝時代の志怪小説より発展して成立した。 唐代伝奇 、 唐宋伝奇 とも呼ぶ。晩唐の作品集である裴鉶 『伝奇三巻』の題名が一般化して、唐の小説を伝奇と総称するようになったといわれる [2] 。また、これらを元にした後代の作品を呼ぶこともある(芥川龍之介「杜子春」など)。 目次 1 成立と発展 1.1 六朝志怪から唐宋伝奇へ 1.2 初唐 1.3 中唐 1.4 晩唐 1.5 宋・元代 1.6 後代への影響 2 日本の現代的伝奇小説 2.1 時代と作品 2.2 分類 3 関連書籍 4 注・出典 成立と発展 六朝志怪から唐宋伝奇へ 六朝時代(222-589年)の志怪小説では超自然的な怪異譚や逸話を記録として梗概程度に記していた、もともとの「小説(とるにたらないものがたり)」的なものだったのが、唐代(618-907年)になると作者の創作した複雑な物語となり、文章も修辞に凝ったものになった。その過程で、志怪小説のころの「怪」を描くことが必ずしも必須の条件ではなく、現実に根ざした、「怪」の登場しない作品群(山中遊郭で妓女と誼を通じるなどの「才子佳人小説」という範疇)もあらわれるようになった。その点で、唐のこれらの伝奇小説は、その後の中国文学における白話作品のさきがけになっていった。 古来、論語に「子不語怪力乱神」と述べられた影響が長く残っていたが、唐代にはこの教説への拘泥は薄くなり、詩人の顧況は「不」字を「示」字の見誤りだと主張して「孔子の意は(子不語ではなく)子示語である」と述べ [3] 、怪異譚の創作に共感を示した。 初唐 唐代最初期の作品と言われる、王度 (中国語版)(おうど)『古鏡記 (中国語版)』 [4] では、主人公が嘗て持っていた、古鏡の霊験による妖怪退治の話が述べられている。 同じく初唐の、張鷟 (中国語版)(ちょうさく)『遊仙窟』 [5] は、主人公が仙境で美しい仙女と誼を通じる話。 作者不詳の 『補江総白猿伝』 [6] は、妻を猿に奪われた主人公が妻を奪回する話で、後の大作 『西遊記』等の成立・発展に影響を与え

志怪小説

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志怪小説 (しかいしょうせつ)は、主に六朝時代の中国で書かれた奇怪な話のことで、同時期の 志人小説 (しじんしょうせつ)とともに後の小説の原型となり、作風は唐代の 伝奇小説 に引き継がれた。「志」は「誌」と同じで志怪は「怪を記す」の意味 [1] 。小説の一ジャンルとして、六朝から清にいたるまで、おびただしい数の奇談怪談が書かれた [1] 。 目次 1 発生と伝承 2 小説史での位置付け 3 代表的な作品 4 参考書籍 5 注・出典 6 関連項目 発生と伝承 中国において古代から歴史書の編纂は重要な仕事とされて盛んに行われたが、市井の噂話や無名人の出来事、不思議な話などはそこには記載されることは稀で、それらは口伝えに伝えられるものとなっていた。秦・漢などの宮廷では、優倡、俳優といった娯楽のための職業人がおり、芸能とともに民間の話題をすることもあった。後漢末になると、曹丕が奇怪な話を集めた『列異伝』を編したと伝えられ、六朝の東晋では干宝『捜神記』を著した。これらは志怪小説と呼ばれ、民間説話が数多く含まれている。 一方で、劉宋の劉義慶は古今の人物の逸話を集めた『世説 [2] 』を著し、20世紀になってこのような作品を 志人小説 と呼ぶようになった。これらのあと六朝時代以降、多数の志怪小説、志人小説が書かれた。 この発生の背景には、魏・晋以後に「竹林の七賢」に象徴される知識階級の人々が集まって談論する清談の風潮があり、その哲学的議論の中での、宇宙の神秘や人間存在の根源といった話題に、奇怪な出来事は例証として提供された。またこの時代当時の政治的動乱を、流行していた五行説に基づいて解釈したり、仏教や道教の思想の浸透に伴って、輪廻転生の物語や、仙人や道士の術の話題が広められており、仏教、道教の信者は志怪小説の形式で書物を作り出した。六朝末期には、仏教を媒介として伝わったインド説話を元にしたと思われる作品もある。 これらの志怪小説、志人小説は、見聞きした話をそのまま書きとめたもので、素朴な文体で、長さも短かったが、唐代の伝奇小説では著者の創作や情景描写が大きな位置を占めるようになった。 宋代にも伝奇小説が書き継がれたが、過去の史料の収集という観点で志怪回帰的な作品も生まれ、洪邁 『夷堅