啓蒙時代





















啓蒙時代(けいもうじだい)は、ヨーロッパで啓蒙思想が主流となっていた17世紀後半から18世紀にかけての時代のこと。啓蒙思想とは、聖書や神学といった従来の権威を離れ、理性(悟性)による知によって世界を把握しようとする思想運動である。この時代にはスコットランドとフランスの思想家たちが、特に重要な役割を果たした。政治と経済の面では、三十年戦争でヨーロッパを二分した政治的宗教的対立がやみ、絶対主義王権と重商主義が確立した時期に当たる。




目次






  • 1 概要


  • 2 自然への注目


  • 3 進歩の思想と新旧論争


  • 4 百科全書派


  • 5 典雅さの世紀


  • 6 啓蒙専制君主


  • 7 脚注


  • 8 関連項目





概要


この時代に活躍した思想家にはイングランドのジョン・ロック、スコットランドのデイヴィッド・ヒューム、フランスのヴォルテール、ドニ・ディドロ、モンテスキュー、ジャン=ジャック・ルソー、ドイツのヴィンケルマンなどがいる。汎ヨーロッパ的な影響という点ではやや劣るものの、啓蒙主義の流れはスイスやドイツにも及び、レッシングやモーゼス・メンデルスゾーンらもこの流れに属している。


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ヴォルテール

ディドロ


(画像左から)ヴォルテール、ディドロ


中世に学問の中心であった教会や大学にかわり、フランス王立アカデミーやロイヤル・ソサエティなど国家の支援を受けた研究機関が、この時代には人文学、自然学ともに学術の中心となった。こうした動きは中央だけでなく、地方にも及んでいる。アカデミーは学者や芸術家に年金を支給して生活上の保護を与え、あるいは年報を刊行して発表の場を与え、また懸賞金をかけて特定の主題を提示し論文を募集し、学芸の振興を図った。ルソーが出世作『学問起原論』を発表したのはディジョンのアカデミーの懸賞論文がきっかけであった。


またこの時代には印刷物の普及により、前時代にまして大量の読者層が出現した。イングランドではアディスンの文芸批評誌『タトラー』、『スペクテイター』などが発行され[1]、イングランド内外で広く読まれ、文芸および美術批評に影響を与えた。フランス王立絵画彫刻アカデミーがルーヴル宮殿で不定期に行った会員の展覧会、通称サロンとその紹介および批評であるディドロの『サロン評』もまたこの時代の美術思想へ大きく影響した。しかしもっとも深甚な影響を与えたのはヴィンケルマンの『ギリシア美術批評論』『古代人模倣論』であろう。これはルネサンス期にヴァザーリが提唱した古代を最上視する歴史観を提唱しつつ、古代の作品の可視的な形式ではなく、その形式に結晶した古代人の精神、すなわち「古代の自然(本性)」を模倣とすることを提唱した。この著作は絶対主義王権のもとで次第に社会的規制が強化されていく西ヨーロッパ社会において、多国語に翻訳され、広範な感激を呼び起こした。またヴィンケルマンは、ルネサンス、バロックの時代には、ほぼ同一視されていた古代を、ギリシアとその模倣であるローマに分けることを提唱し、ギリシア人の精神のみが範例とされるべきであると主張した。一部の研究者は、この区分を自らをローマ帝国の精神的後継者とみなしていたフランス宮廷とその文化に対する批判であるとみなし、またルソーとともにヴィンケルマンを、フランス革命に至る旧体制への批判の先駆者とみなしている。



自然への注目


ルネサンス以来、自然学の発展は続き、この時代にも自然史(博物学)の隆盛が続いた。産業革命を可能にした蒸気機関の発明などは、この時代の成果の結実ともいえる。自然研究が産業の隆盛と結びつくことに注目した王侯は、学芸の保護振興のために、特権をもつ研究者の協会を認可し、あるいは自ら設立した。イングランドのロイヤル・アカデミーやフランスのフランス王立科学アカデミーはその好例である[2]。一方で、大航海時代以来ヨーロッパが接触するようになった他地域の文化、アメリカやアフリカ、オセアニアの民族は、キリスト教中世においては絶対視された人間と自然の間の懸崖への確信を動揺させ、自然と人間の関係を再考させるとともに、その中間段階として理論的に構想された、社会を作る以前の段階にある「自然人」(homo naturalis)の概念を生み出す一因ともなった。



進歩の思想と新旧論争


学芸、技術の発展は、西ヨーロッパ人に自らが文明の極にいるとの観念を抱かせた。いわゆる「未開社会」との接触もそのような世界観に寄与した。一方には古典古代以来の、過去を黄金時代とみなし、現代をそこからの頽落か、あるいはせいぜい過去の文化に比肩しうる水準のものとする見解も保持されていた。17世紀末にフランスに始まったいわゆる新旧論争、「古代人・近代人対比論争」は、このような対立する見解が、自らの立場を立証するため、古今の例を引いて行った文明論の側面を持つ。この論争自体は古代人、すなわちギリシア・ローマ人と近代人すなわち17世紀から18世紀の西ヨーロッパ人のどちらが優れているかという最初から結論の出しようのない問題を扱っており、論争が再燃するたびに、この点では古代が優れ、かの点では近代が優れるという、玉虫色の決着で論争が下火になるという経過をたどったものの、そのつど主題を変え、またフランスからヨーロッパ各地に飛び火して、都合100年ほどに渡ってヨーロッパ思想界の大きな問題のひとつとなった。


新旧論争のきっかけとなったのはシャルル・ペローの称詩「ルイ大王の御代」である。ルイ14世の病気快癒を祝うこの詩のなかで、ルイ14世の治世は、古代ローマのアウグストゥスの時代をしのいで優れていると述べられる。アウグストゥスの治世下とはウェルギリウスやオウィディウスといったラテン文学を代表する詩人を輩出した時代であり、当時の価値観では古典古代の最盛期とみなされていた。ペローは、自らの時代のフランス文化がそれに勝る、いわば人類文化の精髄であると述べたわけである。この一行限りの言及に、激しい反発を示したのは、皮肉にも詩において称えられた当代の知識人であった。フランス宮廷は、古代こそが優れており近代はそれに及ばないとする古代人派と、近代は古代の文化水準を凌駕しているとする近代人派に二分された。


このとき主に取り上げられた領域は思想や文芸であったが、
絵画における色彩論争や音楽におけるブフォン論争も、古典的規範を遵守した作品と、当世風感覚を追求した作品のどちらに優位を与えるかを争う点で、新旧論争の変形と考えることが出来る。



百科全書派


『百科全書』表紙

新旧論争では両陣営に分かれたフランス思想界の、最も大きな業績はディドロが主宰した『百科全書』である。この書以前にも百科事典の試みはあり、アルファベット順の項目配列も主流となりつつあったが[3]、それはいずれも個人によって計画されたものであり、一流の学者たちがそれぞれ専門分野において寄稿を行い、それを集積して一つの巨大な事典を作るという共同作業であるディドロの百科全書とは一線を画している[4]。また「アンシクロペディー」の語も、この時案出されたものである。「輪にする」と「教育」を組み合わせたこの語は、当時の学術の各分野の専門知識をひとつの書物に結集するという試みを表すものであった。ディドロのほか、ダランベール、デュボワといった当時のフランス最高の知識人の共同作業であり、当時はまだディドロと不仲にはなかったルソーも加わっている。この百科全書は一時禁書指定を受けたりしたものの、全体としては大成功をおさめた。商業的にも4000部を超えるベストセラーとなったうえ、この書物は各国の知識人層に衝撃を与え、以後各国においてもこのスタイルを踏襲した百科事典が盛んに編纂されるようになった。



典雅さの世紀


Chateau-de-versailles-cour.jpg

絶対王権主義のもとで、文化における宮廷の比重は増した。最も典型的なものはルイ14世のフランス宮廷、とりわけヴェルサイユに造営した離宮での宮廷文化である。すでに啓蒙時代に先立ち、フランスでは洗練と才気を重んじるプレシューズ(才女たち)の主宰するサロンを中心とする文化が存在しており、サロンはこの時代にも文化の発信点であったが、その最大のものがルイ14世のヴェルサイユ宮殿であった。ヴェルサイユ宮での王の生活は、起床から就寝までが事細かに規定され、多くの謁見者に取り巻かれた儀式的、演劇的なものであった。そのような王の生活のいわば典雅な装飾として、文芸、音楽、美術、その他あらゆる領域の芸術が動員された。王自身も芸術に強い関心をもち、自らの宮廷の芸術のありようについて細かに指示をした。ヴェルサイユ宮の庭園も王自身の設計になるものであり、「王が最も推奨する散歩の順路」があったほどである。ルイ14世は、後のパリ・オペラ座の母体となる劇場「アカデミー・ロワイヤル・ド・ミュジーク」を設置し、ピエール・ペラン台本による『ポモーヌ』を皮切りに、フランス・オペラの発信地としていった。またモリエールの死後、モリエールの一座を他の有力劇団と合併させ、王立劇団であるコメディ・フランセーズを組織。ラシーヌ、コルネイユ、モリエールらの書いた戯曲を宮廷で上演させた。


フランスはいわば西ヨーロッパの文化の中心となり、各地の宮廷ではフランス宮廷に倣って、その文化を移入した。一方で宮廷に直接関係のない市民階級のなかからは、市民的美徳を賞揚する作品も現れた。ルソーの『新エロイーズ』や、ドイツのレッシングの家庭劇などはその一例である。レッシングは啓蒙主義的な批判精神に基づいて『ハンブルク演劇論』を記し、フランス古典演劇を批判すると共に、新古典主義演劇が範とするアリストテレスの演劇理論に対し新たな解釈を試みた。



啓蒙専制君主




プロイセン王フリードリヒ2世


フランスの成功をみた各国には、自らの国内で既存勢力に対して君主権力を確立し、また国力を増すため、啓蒙思想を政治実践に取り入れようとする君主が出た。これを啓蒙専制君主といい、プロイセンのフリードリヒ2世やロシアのエカチェリーナ2世が著名である。しかし啓蒙思想自体は、あらゆるものを悟性の光のもとに見ようとする思想であり、国家権力の絶対化を志向する啓蒙専制君主とは、本来相容れない方向性を持っていた。フリードリッヒ2世が文通によって親交を保っていたヴォルテールをサン・スーシ宮殿へ招いたものの、数日で二人の仲は決裂するに到ったことは、その典型である。ディドロはエカチェリーナ2世から年金をもらっておきながら、「啓蒙された君主は絶対君主よりももっと悪い。それは啓蒙専制が専制のこわさを忘れさせるからである」と述べている。またフランス革命の勃発とその他国への波及は、ヨーロッパ各国の君主に保守的な政策を取らせる方向へ働き、これによって啓蒙専制君主と呼ばれる類の君主は、主要な国には見られなくなった。



脚注




  1. ^ 『ジョージ王朝時代のイギリス』 ジョルジュ・ミノワ著 手塚リリ子・手塚喬介訳 白水社文庫クセジュ 2004年10月10日発行 p.111


  2. ^ 「世界の歴史13 絶対君主の時代」p369 今井宏 河出書房新社 1989年12月4日初版発行


  3. ^ 「大英帝国の大事典作り」p39 本田毅彦 講談社 2005年11月10日第1刷


  4. ^ 「大英帝国の大事典作り」p26 本田毅彦 講談社 2005年11月10日第1刷



関連項目



  • 絶対王政

  • 啓蒙専制君主

  • スコットランド啓蒙





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