フランシスコ・カブラル
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2010年2月 ) フランシスコ・カブラル ( Francisco Cabral 、 1529年 - 1609年4月16日)は戦国時代末期の日本を訪れたイエズス会宣教師。カトリック教会の司祭。日本布教区の責任者であったが、当時のポルトガル人冒険者の典型のような人物で、日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的であったため、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに徹底的に批判され、解任された。 目次 1 生涯 2 日本人観 3 脚注 4 参考文献 5 派生作品 6 関連項目 生涯 スペイン系貴族の子としてアゾレス諸島のサンミゲル島に生まれたカブラルは、コインブラで学び、インドで軍人として働いていたときにイエズス会と出会った。1554年に入会したが、すでに高等教育を受けていたため、1558年には司祭に叙階されている。インド各地で要職を歴任したのち、コスメ・デ・トーレスの後継者として日本に派遣された。1570年(永禄13年)6月、天草志岐に到着。同行した会員の中にはグネッキ・ソルディ・オルガンティノもいたが、前年度に手違いからインド管区長代理の権限がカブラルとオルガンティノに重複してしまい、これが原因で両者は諍いを起こしていた。2人の対立は日本でも尾を引くことになる。 日本到着後、ただちに日本布教区責任者となったカブラルは、志岐で宣教会議を行い、今後の宣教方針を決定した。そこでカブラルの指摘した問題点は、「日本においてイエズス会員が絹の着物を着ているのは清貧の精神に反している」ということであった。前任者トーレスは日本においては身なりや服装がきちんとしていない人物は軽蔑されるという事実にかんがみて、宣教師たちにあえて良い服を着ることを奨励していたが、着任早々のカブラルはそういった事情は考慮していなかった。 トーレスはフランシスコ・ザビエルと同じように、日本人の資質を高く評価し、宣教師たちにヨーロッパ風でなく日本文化に根ざした生活スタイルを求めた。これを「適応主義」というが、トーレス時代の布教の成功はこの方針による部分が大きかった。しかし、カブラルは