賀循




賀 循(が じゅん、260年 - 319年)は、中国西晋から東晋にかけての政治家。字は彦先。揚州会稽郡山陰県の人。曾祖父は賀斉。祖父は賀景。父は賀邵。子は賀隰。東晋の元帝(司馬睿)に仕え、「五儁[1]と謡われた。


賀氏の元の姓は慶氏である。賀斉の伯父・慶純は学者として名があり、後漢の安帝の時代に侍中・江夏太守を務めた人物である。彼が安帝の父の名を避けて賀氏に改めた。



生涯


父・賀邵の処刑に伴い、臨川郡に配流されていたが、呉の滅亡と共に、ようやく故郷に戻る事ができた。賀循は高く厳しく節操を持ち、幼い頃から言動も行動も礼儀正しかった。学問を好んで広い知識を身につけていたが、特に三礼(儀礼・周礼・礼記)に詳しかった。


晋代になって、秀才に推挙され、陽羨県と武康県の県令を歴任した。会稽内史に務めていた時期に、西興運河を開墾し、会稽郡から銭塘江までの運河を開通させた。後に顧栄(顧雍の末裔)・陸機・陸雲ら晋に仕えた呉の豪族たちに推挙され、賀循は中央に召し出され、太子舎人となった。趙王の司馬倫が帝位を簒奪した後、転侍御史に任じられたが、永らく労咳(結核)に罹っていた為に辞退し、官を辞して故郷へ戻った。


張昌の一味の石冰が揚州で反乱を起こした時、賀循は軍勢を集めて防衛にあたったが、反乱が鎮圧されるとそのまま門を閉ざして家に引き籠った。その後、陳敏が孫呉政権の再来を目指して反乱を起こすと、旧・呉の豪族の子孫たちがこぞって参加し、陳敏から爵位を受けたが、賀循とその同郡の朱誕だけが反乱に加わらなかった。なおも陳敏は賀循を丹陽内史に任じようとしたが、賀循は病気を理由に固辞し、陳敏もそれ以上強いて就任を迫ろうとしなかった。のちに陳敏の反乱は顧栄・甘卓(甘寧の曾孫)・周玘らによって鎮圧され、賀循は呉国の内史に任ぜられたが、職に就かなかった。


東晋の元帝(司馬睿)がまだ鎮東将軍だった頃、賀循を幕府に招いて軍司馬に任じた。元帝が晋王になると、賀循を中書令に任じようとしたが、賀循は固辞してその任を受けなかった。やがて太常の官に転じ、太子太傅、左光禄大夫を兼任した。当時は東晋の朝廷が建てられたばかりで、政治制度が定まっていなかったが、宗廟の祭祀の決まりは全て賀循が定めたほか、朝廷在野を問わず様々な事柄について賀循の意見を求められ、当時の学者の元締めとして仰がれた。


太康二年(319年)、年60で亡くなった。死後、司空を追贈された。子の賀隰は臨海郡太守となった。


著書に『喪服要記』、『会稽記』、『文集』等がある。



脚注





  1. ^ 東晋王朝初期を支えた江南豪族の主要人物五人(紀瞻、閔鴻、顧栄、薛兼、賀循)を指す。




参考文献


  • 『晋書』 賀循伝







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