ミヘイル・サアカシュヴィリ











































ミヘイル・サアカシュヴィリ
მიხეილ სააკაშვილი

Flickr - europeanpeoplesparty - EPP Congress Warsaw (58).jpg




ジョージア (国)の旗 ジョージア
第3代大統領

任期

2008年1月20日 – 2013年11月17日
任期

2004年1月25日 – 2007年11月25日



 ウクライナ
Flag of Odesa Oblast.svg オデッサ州知事

任期

2015年3月30日 – 2016年11月9日[1]
元首

ペトロ・ポロシェンコ

出生

(1967-12-21) 1967年12月21日(51歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦、Flag of the Georgian Soviet Socialist Republic.svg グルジア・ソビエト社会主義共和国、トビリシ
政党

統一国民運動(en:United National Movement)
配偶者

サンドラ・ルロフス
署名

Mikheil Saakashvili Signature.svg

ミヘイル・サアカシュヴィリ(グルジア語: მიხეილ სააკაშვილი, ウクライナ語: Міхеіл Саакашвілі, ラテン文字:Mikheil Saakashvili, 1967年12月21日 - )は、ジョージア及びウクライナの元政治家。2003年11月の無血革命では指導的役割を果たし、2004年1月4日に行われた選挙で第3代大統領(~2013年)に選出された。ミハイル・サーカシュヴィリ、あるいはサーカシビリ、サアカシビリ、サーカシュビリとも表記される。


大統領退任後にウクライナ国籍を取得して事実上亡命し、ウクライナのペトロ・ポロシェンコ大統領の最高顧問、ウクライナオデッサ州の知事を務めていたが[2]、2017年7月にはウクライナ国籍を剥奪されたため、無国籍となっている。また、ジョージア政府とウクライナ政府から逮捕状が出ている。




目次






  • 1 経歴


    • 1.1 出自


    • 1.2 政界入り


    • 1.3 大統領就任


    • 1.4 南オセチアへの侵攻


    • 1.5 国民の支持


    • 1.6 権力の低下


    • 1.7 ウクライナへの亡命と追放・反政府運動




  • 2 政策


    • 2.1 日本との関係




  • 3 その他


  • 4 ミヘイル・サアカシュヴィリを演じた俳優


  • 5 脚注


  • 6 関連項目


  • 7 外部リンク





経歴



出自


1967年、ソビエト連邦グルジア共和国のトビリシに生まれる。父は温泉療法を手がけた医師、母は歴史学者というインテリゲンツィヤの家庭に育つ。


1992年、ウクライナのキエフ国立大学国際法学部を卒業後、アメリカ合衆国に渡り、1994年、コロンビア大学で法学修士号を取得。



政界入り


その後ニューヨークの法律事務所で勤務している間に政界入りの誘いを受け、同年12月、グルジア議会選挙でシェワルナゼ大統領の与党グルジア市民連合から出馬し当選。当選後は新選挙制度、独立した司法制度と警察を設立するための議会委員会の委員長となって、たちまちその名を知られるようになり、1997年の調査ではシェワルナゼ大統領についで2番目に人気のある人物にあげられた。


2000年10月12日、シェワルナゼ政権の法務相に就任。腐敗し、政治の影響力が強い刑事裁判と刑務所制度の改革を断行し、国際的に高い評価を受けたが、彼が腐敗していると告発するシェワルナゼ体制内の要人と対立することとなった。サアカシュヴィリは2001年9月5日に法務相を辞任すると、シェワルナゼ大統領が腐敗をただす意図を持っていないことを非難して反大統領の意思を明らかにした。


サアカシュヴィリは政府の腐敗に反対する人々を糾合するため、翌月新政党「統一国民運動」を結成し、その党首となった。彼ら野党勢力は、2003年11月2日に行われた議会の総選挙でシェワルナゼ政権が大規模な不正を行ったと宣言し、選挙のやり直しと大統領の辞任を求める大規模な集会を首都のトビリシで行った。11月20日に始まり、10万人以上と呼ばれる人々を集めサアカシュヴィリが先頭に立った野党勢力は議会を占拠し、11月23日にシェワルナゼ大統領と交渉。シェワルナゼの提示した大統領選挙前倒しと議会選やり直しの提案を拒否し、大統領を辞任させた。




大統領就任





2004年、サアカシュヴィリの大統領就任式


2003年11月26日、ニノ・ブルジャナゼ暫定大統領を含む野党勢力はサアカシュヴィリを野党の統一大統領候補とすることを表明するが、最終的にはサアカシュヴィリを含め6人が大統領選に立候補した。2004年1月4日に行われた大統領選挙は当初、アブハジア自治共和国(グルジア自治区)などのボイコット宣言もあって選挙が有効となるか危ぶまれており、大統領選挙成立となる投票率50%を越えないのではないかとの危惧も存在していた。ところが開票されてみると、投票率88.97%、得票率96.27%[3]という、「民主的な選挙」としては驚異的な得票を得てサアカシュヴィリが圧勝する。サアカシュヴィリは同月25日、正式に大統領に就任した[4]。対独戦勝60周年記念式典の際には、バルト三国同様にグルジアもソ連崩壊後も同国に駐留し続けるロシア軍の撤退交渉で進展がなかったとして、ボイコットを決めた。


その後、野党デモをきっかけとした非常事態宣言(2007年11月7日)やデモを武力で排除するなど強権的な手法を行い[5]、国内外からの批判が強まった。バラ革命後も政情不安は改善せず、ロシアが平和維持としてアブハジアに軍を駐留するなど、ロシアとの外交関係は険悪化した。こうしたサアカシュヴィリの強行的な言論弾圧や政敵排除は、後ろ盾であるアメリカ合衆国などを始め、民主化の後退との印象を強めさせた。その後サアカシュヴィリは非常事態宣言を解除(11月16日)し、国民の不満を受けて次期大統領選の前倒しを宣言して立候補し当選した。



南オセチアへの侵攻



2008年8月7日、南オセチア自治州への派兵を行い、同日の記者会見で同地域の大半の制圧と州都・ツヒンヴァリの包囲を宣言した。これに対し同州の独立を後押しするロシアは強く反発し、同州に増援部隊を派遣するとともにトビリシへの空爆を実施し、南オセチア紛争が勃発した。サアカシュヴィリは8月9日に戦争の継続を15日間延長させる大統領令を発令、議会側の承認を同日得た。また、後述のイラク駐留・グルジア軍2000人を近日中に帰国させ、ロシアとの戦闘に備える旨も述べた。8月12日にロシアが軍事作戦を停止すると、これを受けてトビリシの議会前で数千人の支持者を前に演説し、「ロシアは我々をひざまずかせようとしたが出来なかった」と述べ、CIS脱退の意向を表明し、8月14日にこの提案を議会側が承認した。


紛争後、ロシアとの武力衝突を招いたことで多くの犠牲をもたらしたとして、サアカシュヴィリの責任を問う声が強くなった。サアカシュヴィリは2008年10月27日にラド・グルゲニゼ首相を解任し、代わってグリゴル・ムガロブリシビリを首相に任命したが、これは紛争に対する批判をかわすためだとする観測が出ている。同年11月7日には1万人以上の野党支持者による反政府デモが行われ、サアカシュヴィリの辞任と大統領選の早期実施を求めた。南オセチア紛争に関するサアカシュヴィリ自身の発言も変化し、紛争時に行っていた「先に軍事行動を開始したのはロシア側だ」という主張を翻し、同年11月28日にグルジア側の方が先に軍事行動を開始していたことを認めた。同年12月5日には、国防相、外相、国家安全保障会議書記を更迭し、自らの責任回避に腐心している。



国民の支持


南オセチア紛争以降、サアカシュヴィリは苦しい立場に置かれていると見られていた。2010年5月に行われた軍事パレードでは「帝国(ロシアを指す)は再び我々の独立を脅かしている。断固戦うのだ」と述べ、強気の姿勢を見せたが、市民たちの反応が概ね冷ややかであったことからも、サアカシュヴィリ政権が多くの民から支持されていないと思われていた。また、アメリカはオバマ政権の発足後米露関係を修復する動きに転じ、オバマがグルジアを軽視する姿勢を見せていることが、サアカシュヴィリの立場を更に苦しいものにしていると思われていた[6]。ところが2010年5月30日の統一地方選挙では、サアカシュヴィリの与党「統一国民運動」が他を引き離して勝利した。盟友であったウクライナなどが親ロシア派に転換した中で、「反ロシア」を掲げて孤軍奮闘するサアカシュヴィリに対するグルジア国民の根強い支持が浮彫りとなった[7]


今後の政局運営について、サアカシュヴィリは現行の大統領制から議院内閣制への移行を提案し、2008年の議会選で統一国民運動が圧勝していることから2010年秋の憲法改正案の議会上程・成立を構想していた(現行憲法では大統領任期が1期5年で3選出馬が禁じられているため、2013年にサアカシュヴィリは大統領を退任しなければならない)。しかし一向に改善しない国内経済や、頓挫したままのNATO加盟交渉を始めとして親欧米外交の不調などから次第に支持率は下降していった。



権力の低下


2012年10月1日、総選挙で統一国民運動は野党連合「グルジアの夢」に過半数を奪われ、親サアカシュヴィリ派政権は内閣総辞職に追い込まれた[8]。大統領として「グルジアの夢」派のビジナ・イヴァニシヴィリ議員による内閣を承認する結果となり、表面的にはNATO交渉の継続決定など両者の友好と自身の中立性をアピールしたが、サアカシュヴィリの政治的影響力は明確に低下した[9]


イヴァニシヴィリ首相は就任するにあたって、サアカシュヴィリが私物化していた大統領官邸からの立ち退きを要請した[10]。これに対してサアカシュヴィリは報道官を通じて「大統領官邸は大統領の私物だ」と反論した[11]。これに対してイヴァニシヴィリ首相は自ら得た私財でなく、国民の税金で賄った「私邸」に住む事は「厳しい経済情勢下で行われる非倫理的行為である」として官舎への移住を提案した[12]


2012年10月23日、イヴァニシヴィリ政権が本格的に始動すると統一国民運動体制下での様々な不法行為についての政府調査委員会が設立され、ダヴィッド・ウスパシュヴィリ国会議長が委員長に着任した[13]。イヴァニシヴィリ首相は統一国民運動が関与した様々な非合法行為(汚職、言論弾圧、拷問等)について真相を明らかにすると宣言した[14]。11月22日に政府調査委員会は「場合によっては(統一国民運動の実質的指導者である)サアカシュヴィリ大統領の逮捕も有りえる」とコメントした[15]。サアカシュヴィリの側近は大統領が逮捕に怯え、少なくとも大統領任期中は逮捕は出来ないにも関わらず周囲に「逮捕される」と繰り返すなど、再びノイローゼ状態に陥っていると証言した[16]


2013年4月12日、イヴァニシヴィリ首相は棚上げされていた南オセチア紛争の開戦経緯についても正式な調査を行う事を決定し、既に国防相による軍内調査が開始され、イヴァニシヴィリ政権は必要に応じてサアカシュヴィリ大統領を重要参考人として尋問すると表明した[17]



ウクライナへの亡命と追放・反政府運動


2013年10月27日に執行された大統領選挙では、ダヴィト・バクラゼ前国会議長を擁立したが親露派のギオルギ・マルグベラシビリ前第1副首相に敗れた[18]。11月17日をもって大統領を退任[19]


2013年12月には、ウクライナで発生した大規模反政府デモに連帯表明するために姿を見せた[20]。グルジア政府から一連の汚職や拷問、弾圧等による国際指名手配が出ているため、母国へ帰らずそのままウクライナに留まっている。ポロシェンコ政権の諮問機関最高顧問に就任し、エカ・ズグラゼやアデイシヴィリ等自身の盟友を引き連れて反露親米姿勢を強めるウクライナに事実上亡命した形となる[21]。2015年5月30日、ポロシェンコ大統領の協力を得てウクライナ国籍まで取得し、さらにオデッサ州知事にも就任した。オデッサ州は親露派が多く、2015年5月2日にはオデッサにおいて親欧米派と親露派の衝突に端を発した火災により多数の死者が発生する事件が起きている。反露主義の亡命政治家であるサアカシュヴィリの知事就任により、同地域の親露派制圧の意図を示したと見られている[22]


2016年11月7日にオデッサ州知事を辞任する意を示し[23]、ポロシェンコ大統領は同9日に辞任を受理したが、顧問辞任は却下した。[1]


ポロシェンコ大統領との路線対立が激化し、2017年7月26日にポロシェンコの大統領令によりウクライナ国籍を剥奪された[24]


その後、2017年9月には無国籍という状態ながらもウクライナの国境検問所を強行突破して不法入国し[25]、ユーリア・ティモシェンコ元首相と共にポロシェンコ大統領の辞任を旗印に反政府運動を行っている[26]。12月5日にはポロシェンコ政権打倒のため蜂起を呼びかけたことが国家転覆容疑にあたるとして逮捕されたが、支持者の手により釈放されている[27]。翌6日に犯罪組織参加罪などの罪で起訴され[28]、8日に再び逮捕された[29]


2018年1月5日、ジョージア(旧グルジア)の首都トビリシの裁判所から、大統領在任中の2009年に殺人罪で服役していた元警官4人に対し違法に恩赦を与えたとして職権乱用罪で懲役4年の実刑判決を言い渡された[30]。2月12日には不法滞在を理由にウクライナの首都キエフにおいて拘束され、その後ポーランドに強制追放された[31]



政策





2008年、アメリカ合衆国大統領のジョージ・W・ブッシュ(右)と





2010年、アメリカ合衆国上院議員のジョン・マケイン(右)と


新保守主義・新自由主義者であり、サアカシュヴィリ政権では外国資本の積極的な導入が試みられた。世界銀行による世界各国の「対事業・好意度」の度合いを測定する世論調査でグルジアは、2005年の112番目から、2008年には15番目へと急上昇した。2007年、経済に対する直接投資は国民総生産のおよそ20パーセントにものぼった。しかし、国際的な金融危機の到来でそうした投資が枯渇することにより、経済崩壊がひき起こされた。2008年の最終四半期、経済成長は2007年の7パーセント以上から2パーセントへと下落した。


強硬なグルジア民族主義者として知られ(反対派から『グルジアのジリノフスキー』と揶揄されることも)、グルジアの領土統一を目指して大統領就任後、ロシア寄りであったアジャリア自治共和国との国境を軍を使って封鎖し、武力侵攻も辞さないとの立場を示し、アバシーゼ大統領を力づくでロシアに強制亡命させ同地域を平定した。また、同じく親露派のアブハジアと南オセチアの分離独立・北オセチアとの統一問題で、ロシアに対して抵抗する姿勢を示し、アブハジアからのロシア軍即時撤退を求めている。


ロシアの覇権主義に対しては就任以来一貫して激しく批判しており、ロシアを牽制するため欧米諸国や日本、イスラエルとの関係を強化した。米英主導によるイラク戦争が勃発すると同戦争を支持し、軍を派遣した。イラクには2008年3月の時点で2000人のグルジア兵が派遣されているが、これは同戦争を主導した米英両国を例外とすれば、最も多くの兵士が派遣されていることになる。また、イスラエルとは軍事、諜報面などで緊密な協力関係にある。


アメリカ合衆国の中でもネオコン勢力と関係が深く、特にジョン・マケイン上院議員とは旧知の仲である。


またサアカシュヴィリの親米・反露路線でアメリカの一極支配への反抗の新冷戦が顕著になった。



日本との関係


2006年9月に安倍晋三が中華人民共和国やロシアを牽制する価値観外交を掲げ、内閣総理大臣に就任すると関係は急速に深まり、2007年3月7日から3月11日にわたり来日している。首脳会談の中でサアカシュヴィリは、上記の価値観外交に賛意を示すと共に、日本の国連安保理常任理事国入りへの支持も表明した[32]



その他



  • テレビカメラの前でネクタイを噛むといった奇行を行っている。この行動に対して、ロシアのウラジーミル・プーチン首相に「夕食を食べるならネクタイを外したほうが良いのでは」と皮肉られている[33]


  • 2010年6月、4月のポーランド空軍Tu-154墜落事故を教訓に自身の政府専用機に緊急脱出装置(1人用)を約700万ドル(約6億3000万円)かけて設置したと報じられ、野党からは予算の無駄遣いと批判されている。ロシア紙コムソモリスカヤ・プラウダは「最も勇敢な大統領が臆面(おくめん)もなくおびえて再び国民を驚かせた」などと皮肉った。同紙によると、「既存の機体に脱出用の穴を開ける改修をすれば、かえって墜落の危険度は増す」と指摘する航空専門家もいるという。



ミヘイル・サアカシュヴィリを演じた俳優



  • アンディ・ガルシア - 『5デイズ』(2011年公開、レニー・ハーリン監督、南オセチア紛争を題材にした作品[34]。)

    • アメリカではなくグルジアで先行公開された事や、内容が露骨にグルジア擁護に偏っている(ロシア側が先に軍事行動を起こしたという主張など)事から「プロパガンダ映画」と評される場合が多い。



脚注




  1. ^ ab(ウクライナ語) The President signed a decree on dismissal of Odessa Regional State Administration, president.gov.ua (9 November 2016)
    Poroshenko signs Odesa governor Saakashvili's resignation, UNIAN (10 November 2016)



  2. ^ “ジョージア前大統領転身 ウクライナ大統領 南部州知事に任命”. 東京新聞. (2015年5月31日). http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2015053102000118.html 2015年5月31日閲覧。 


  3. ^ 「外務報道官談話・グルジア大統領選挙について 」 外務省、2004年1月16日。


  4. ^ ちなみに、トルクメニスタンでは1990年10月の大統領選挙で、トルクメン共産党第一書記であったサパルムラト・ニヤゾフが98.3%(公式発表)の圧倒的な得票を得て当選。また、同じくベラルーシでは2006年3月の大統領選挙で現職のアレクサンドル・ルカシェンコが82.6%(公式発表)の得票を得て再選されている。


  5. ^ “トビリシ 改心した「市民の敵」”. 東京新聞. (2013年11月20日). http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/worldtown/CK2013112002000271.html 2013年11月20日閲覧。 


  6. ^ “グルジアで統一地方選…ロシアとの紛争以来初”. (2010年5月28日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100528-OYT1T01016.htm 2010年5月29日閲覧。 


  7. ^ “大統領与党が優勢 グルジア統一地方選”. 産経新聞. (2010年5月31日). http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100531/erp1005311739008-n1.htm 2010年5月31日閲覧。 


  8. ^ Правительство Грузии ушло в отставку


  9. ^ Правительство Грузии ушло в отставку


  10. ^ Саакашвили отказался съезжать из президентского дворца


  11. ^ Саакашвили отказался съезжать из президентского дворца


  12. ^ Саакашвили отказался съезжать из президентского дворца


  13. ^ Преступлениями времен Саакашвили займется парламентская комиссия


  14. ^ Преступлениями времен Саакашвили займется парламентская комиссия


  15. ^ Новый премьер Грузии сравнил Саакашвили с Тимошенко


  16. ^ Новый премьер Грузии сравнил Саакашвили с Тимошенко


  17. ^ グルジア:ロシアとの軍事衝突、真相究明へ 毎日新聞(2013年4月12日)


  18. ^ “グルジア大統領選、首相派候補が勝利宣言”. 産経新聞. (2013年10月28日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/131028/erp13102810550002-n1.htm 2013年11月17日閲覧。 


  19. ^ “グルジア新大統領、敵対していた露と「対話を」”. 読売新聞. (2013年11月17日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20131117-OYT1T00593.htm 2013年11月17日閲覧。 


  20. ^ 全ウクライナ連合「祖国」公式サイトより


  21. ^ ウクライナ:「反ロシア」のグルジア前大統領を顧問に任命 毎日新聞 2015年2月14日


  22. ^ “ウクライナ、ジョージア元大統領を南部の州知事に任命”. 産経新聞. (2015年5月30日). http://www.sankei.com/world/news/150530/wor1505300044-n1.html 2015年5月31日閲覧。 


  23. ^ Saakashvili already sent letter of resignation, Interfax-Ukraine (7 November 2016)


  24. ^ “Ukraine strips citizenship of ex-Georgia leader Saakashvili”. abcニュース. (2010年5月31日). http://abcnews.go.com/International/wireStory/ukraine-strips-citizenship-georgia-leader-saakashvili-48863753 2017年7月26日閲覧。 


  25. ^ “Ukrainian Court Resumes Hearing On Saakashvili's 'Illegal' Border Crossing”. ラジオ・フリー・ヨーロッパ. (2017年9月22日). https://www.rferl.org/a/ukraine-saakashvili-border-crossing-hearing-continues/28750848.html 2017年10月19日閲覧。 


  26. ^ “Saakashvili shows up at Kiev rally to demand Poroshenko's resignation”. イタルタス通信. (2017年10月17日). http://tass.com/world/971121 2017年10月19日閲覧。 


  27. ^ “ジョージア前大統領逮捕=蜂起訴え、支持者が解放-ウクライナ”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2017年12月6日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2017120501226&g=int 2017年12月6日閲覧。 


  28. ^ “ウクライナ 最高検察庁、サーカシビリ氏を起訴”. 毎日新聞. (2017年12月6日). https://mainichi.jp/articles/20171207/k00/00m/030/102000c 2017年12月7日閲覧。 


  29. ^ “ジョージア前大統領の身柄確保=逮捕後に逃亡-ウクライナ”. 時事通信 (2017年12月9日). 2017年12月9日閲覧。


  30. ^ “ジョージア 前大統領に懲役4年の実刑判決 職権乱用罪”. 毎日新聞. (2018年1月6日). https://mainichi.jp/articles/20180107/k00/00m/030/041000c 2018年1月6日閲覧。 


  31. ^ “ウクライナ ジョージアの前大統領を強制追放 不法滞在で”. 毎日新聞. (2018年2月13日). https://mainichi.jp/articles/20180214/k00/00m/030/019000c 2018年2月25日閲覧。 


  32. ^ “外務省:サーカシヴィリ・グルジア大統領の来日 (概要と評価)” (2007年3月12日). 2010年11月3日閲覧。


  33. ^ “「ネクタイは外した方が」 露首相がジョーク”. 産経新聞. (2009年11月20日). http://sankei.jp.msn.com/world/europe/091120/erp0911201752006-n1.htm 2010年3月16日閲覧。 


  34. ^ Movie star plays Georgian leader




関連項目


  • バラ革命


外部リンク







  • グルジア大統領府公式サイト (グルジア語)













公職
先代:
ニノ・ブルジャナゼ
(暫定)

ジョージア (国)の旗 ジョージア大統領
第3代:2008 - 2013
次代:
ギオルギ・マルグベラシビリ
先代:
ニノ・ブルジャナゼ
(暫定)

ジョージア (国)の旗 ジョージア大統領
第3代:2004 - 2007
次代:
ニノ・ブルジャナゼ
(暫定)



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