三国干渉
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三国干渉(さんごくかんしょう)は、1895年(明治28年)4月23日にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が日本に対して行った勧告である。日本と清の間で結ばれた下関条約に基づき日本に割譲された遼東半島を清に返還することを求める内容だった。
目次
1 勧告の主旨
2 日清戦争と欧州列強
3 列強の思惑
3.1 ロシア
3.2 ドイツ
3.3 フランス
3.4 イギリス・アメリカ
4 日本政府の反応と思惑
4.1 中塚明による分析
5 干渉の結果
6 脚注
7 関連項目
勧告の主旨
「日本による遼東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する」
日清戦争と欧州列強
日清戦争中、日本の勝利が間近に迫ると、列強も事の重大性を認識するに至り、干渉を考え始めた。主導国はロシアであったが、ドイツの参加がなければ干渉が実現しなかったとも言われる。西にドイツの脅威を控えていたロシアは、ドイツの干渉参加により東に深入りしやすくなったからである。
さらに下関条約で遼東半島の割譲を日本が要求していることを知った列強は衝撃を受けた。列強は清朝の衰退に乗じて「清国の分割」を進めてきたが、清国内の抵抗を危惧してその動きは未だ緩慢なものであり、戦争による賠償で得たイギリス領香港を例外として、露骨な領有権要求は差し控えてきた。だが、日本の要求はこの列強間の「暗黙の了解」を無意味にするものであり、さらに清朝が渤海を挟んで直隷(現在の河北省)と向かい合った遼東半島を失うことで、その政治的権威が失墜して国内の政情が不安定になるような事態の発生は、各国の対清政策を根底から揺るがせるものであった。
そこでドイツやロシアは自国の対清政策を維持するために、この日本の要求を容認できないと考えた。
講和会議の過程で日本は清に対して、開市・開港場での製造業従事権を要求していたものの、日本にはそれを実現させるだけの資金的裏づけがなかった。そこで日本は、秘かにイギリスに対してのみ、この要求の事実を打ち明けて共同経営の誘いを行っていた。これが他の列強に知られたため、この話に与れなかったドイツやロシア、フランスの姿勢をさらに硬化させることになった。
列強の思惑
サンクトペテルブルクにはイギリス・フランス・ドイツの資本が押し寄せ、ロシアはそこで防戦を強いられていた。
ロシア
ロシアは極東進出のために不凍港が必要であり、南下政策を取り満州における権益拡大をはかっていた。ロシアは遼東半島を日本に奪われることで南満州の海への出口を失うことを恐れ、日本の満州進出阻止を目論んだ。当初、日本が朝鮮の独立を尊重するならば、遼東半島は日本に割譲されてもよいと考えたが、セルゲイ・ヴィッテの登場により極東に艦隊を派遣するなど干渉に乗り出した。
同じく清の分割に関心をもつイギリス、フランス、ドイツの3国に提唱し、仏・独の賛成を得て3国による勧告を行った。1895年、三国干渉により、東アジアにおける第2の不凍港となる旅順租借地を獲得。
ドイツ
開戦初期は極東に対し消極的であったが、戦局の推移や列強の動向の変化により、極東に自国の拠点を得る機会が到来したと認識するようになった。4月6日の時点では講和条件に異議なしと日本に伝えたが、首相ホーエンローエや外相マーシャルは列強との共同行為を提案し、最終的に、元駐清公使マックス・フォン・ブラントの意見書(4月8日)を皇帝ヴィルヘルム2世が受け入れて、ロシアと共に干渉することになった。
前述の意見書によると、ロシアとの共同行為は、恩を感じた清国から艦隊や貯炭所の割譲または租借ができる唯一の可能性を与えるものである、と認識されている。ドイツの参加理由は、露仏の接近を妨害すること、ロシアの注意を東に向けて欧州における脅威を減らすこと、ドイツ自身の極東への野心、また皇帝が主張した黄禍論などに基づいている。
フランス
フランスは、ロシアとドイツの緊張緩和は自国にとっても安全だと考え、さらに1892年にロシアと秘密同盟(露仏同盟)を結んでおり、その実行のためロシアと協力した。
イギリス・アメリカ
ロシアとドイツはイギリスにも共同行動を提案したが、世論を理由に干渉を拒否し、アメリカもまた、日本に好意的だったが局外中立を崩さなかった。
日本政府の反応と思惑
こうした干渉に対し、首相伊藤博文は列国会議開催による処理を提案したが、外務大臣陸奥宗光[1]は会議によってさらなる干渉を招く恐れを主張し、イギリス、アメリカ、イタリアなど他の列強の協力で勧告を牽制し、撤回させようと目論んだ。しかし、英米が局外中立を宣言したため、5月4日、日本はやむなく勧告を受諾した。日本では勧告を受諾した政府に対して世論は激しく反発したが、日本政府は『臥薪嘗胆』をスローガンに国民反発を対ロシア敵対心に振り向けて六六艦隊計画をはじめとする軍拡を進めた。三国干渉は日露戦争のきっかけに直接・間接の影響を与えた。
中塚明による分析
当時からこれは露・独・仏からの外圧に負けたことであり、この三国干渉を読めなかった陸奥宗光の失策であるという批判が存在するが、中塚明は陸奥宗光の回顧録の研究[2]によって否定している。中塚によると、陸奥はロシアからの外圧をあらかじめ読んでおり、それを織り込み済みの上で敢えて下関条約で遼東半島を清に要求していたという(ただし、陸奥は三国干渉の黒幕をロシアと読んでいたが、実際にはドイツ皇帝のヴィルヘルム2世だったとしている。)これは、イギリスと長くグレートゲームを戦っていたロシアは不凍港を中央ヨーロッパに求めることを諦め、アジアに注目している。そんな折にアジアで清国と日本が戦争をしたら、その結果に対して必ずなんらかの形で口出しをしてくるはずだと予見していたという。
干渉の結果
列強はこの干渉以降、阿片戦争で香港を得た英国の様に、中国の分割支配に本格的に乗り出すことになった。列強は清に対して対日賠償金への借款供与を申し出て、その見返りに次々と租借地や鉄道敷設権などの権益や、特定範囲を他国に租借・割譲しないなどの条件を獲得していった。
- ドイツは、1897年に宣教師殺害を理由に膠州湾を占領、翌年には租借した。
1899年にフランスは広州湾一帯を、イギリスは九龍半島・威海衛を租借した。- ロシアも総理大臣の李鴻章へ50万ルーブル、副総理の張蔭桓へ25万ルーブルの賄賂を与え、1896年に秘密協定である李鴻章-ロバノフ協定を結び、1898年、遼東半島南端の旅順・大連の租借に成功する。そして、万里の長城以北と満州に勢力圏を拡大し、極東への野心を現実化していった。
- イギリスは1898年1月に長江流域からビルマへの鉄道敷設と長江流域を他国に割譲しないことを確認し、さらに香港対岸の新界を租借させた。
- 日本も防衛上最低限の要求として、新規獲得した台湾のすぐ隣にある福建省を他国に租借、割譲することがない旨の約束を取り付けた。
- 朝鮮ではこの干渉の結果、日本の軍事的・政治的権威が失墜する一方、閔妃など親露派が台頭した。
- これらの動きに対し、清国内で税関業務に関わるイギリス人たちは、租借地を通じた密貿易で清の財政が傾くことを懸念し、アメリカ合衆国に働きかけて門戸開放宣言を発表させる。
徳富蘇峰が「自由民権」から「国民的膨張」に「変節」したきっかけとされる。
脚注
^ 天保15年7月7日(1844年8月20日) - 明治30年(1897年)8月24日、外務大臣(第2次伊藤内閣)在任:1892年(明治25年)8月8日 - 1896年(明治29年)5月30日。
^ 陸奥 宗光 (1983.7). 蹇蹇録―日清戦争外交秘録. Mutsu, Munemitsu 1844-1897., Nakatsuka, Akira 1929., 陸奥, 宗光 1844-1897, 中塚, 明 1929. 岩波書店. ISBN 4003311418. OCLC 959712114. https://www.worldcat.org/oclc/959712114.
関連項目
- 日清戦争
- 下関条約
- 陸奥外交
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