枝幸郡
枝幸郡(えさしぐん)は、北海道(北見国)宗谷総合振興局の郡。
人口13,649人、面積1,916.08km²、人口密度7.12人/km²。(2018年9月30日、住民基本台帳人口)
以下の3町を含む。
浜頓別町(はまとんべつちょう)
中頓別町(なかとんべつちょう)
枝幸町(えさしちょう)
目次
1 郡域
2 歴史
2.1 郡発足までの沿革
2.2 郡発足以降の沿革
3 参考文献
4 関連項目
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足して以来、郡域は上記3町のまま変更されていない。
歴史
郡発足までの沿革
江戸時代の枝幸郡域は西蝦夷地に属し、松前藩によって開かれたソウヤ場所(宗谷郡の前身)に含まれた。
江戸時代後期になると南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え文化4年枝幸郡域は天領とされた。文政2年に厳島神社が創建されている。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり秋田藩が警固をおこない、同6年の6藩分領以降は秋田藩領となっていた。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して枝幸郡が置かれた。
郡発足以降の沿革
明治2年
8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、北見国および枝幸郡が設置される。開拓使が管轄。
8月28日(1869年10月3日) - 金沢藩の領地となる(北海道の分領支配)。
- 明治4年8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び開拓使の管轄となる。
- 明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての枝幸郡が発足。
- 明治13年(1880年)3月 - 宗谷郡外三郡役所(宗谷枝幸利尻礼文郡役所)の管轄となる。
- 明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により札幌県の管轄となる。
- 明治19年(1886年)1月26日 - 廃県置庁により北海道庁札幌本庁の管轄となる。
- 明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、宗谷支庁の管轄となる。
- 明治42年(1909年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、枝幸村、頓別村、歌登村、礼文村の区域をもって枝幸村(二級村)が発足。(1村)
大正5年(1916年)4月1日 - 枝幸村の一部(大字頓別村)が分立して頓別村(二級村)が発足。(2村)- 大正10年(1921年)4月1日 - 頓別村の一部(頓別川の上・中流域)が分立して中頓別村(二級村)が発足。(3村)
- 大正12年(1923年)4月1日 - 枝幸村が北海道一級町村制を施行。
昭和14年(1939年)9月1日 - 枝幸村の一部(大字歌登村の一部)が分立して歌登村(一級村)が発足。(4村)- 昭和18年(1943年)6月1日 - 北海道一・二級町村制が廃止され、北海道で町村制を施行。二級町村は指定町村となる。
- 昭和21年(1946年)10月5日 - 指定町村を廃止。
- 昭和22年(1947年)
5月3日 - 地方自治法の施行により北海道宗谷支庁の管轄となる。
10月1日 - 枝幸村が町制施行して枝幸町となる。(1町3村)
- 昭和24年(1949年)11月1日 - 中頓別村が町制施行して中頓別町となる。(2町2村)
- 昭和26年(1951年)11月1日 - 頓別村が町制施行・改称して浜頓別町となる。(3町1村)
- 昭和37年(1962年)1月1日 - 歌登村が町制施行して歌登町となる。(4町)
平成18年(2006年)3月20日 - 枝幸町・歌登町が合併し、改めて枝幸町が発足。(3町)- 平成22年(2010年)4月1日 - 宗谷支庁が廃止され、宗谷総合振興局の管轄となる。
参考文献
角川日本地名大辞典 1 北海道
関連項目
- 松前藩
- 箱館奉行
- 商場(場所)知行制
- 場所請負制
- 北海道の分領支配
江刺郡 - 岩手県(陸中国)にあった同音の郡。
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