宮内省
宮内省(くないしょう)は、1947年(昭和22年)まで日本に存在した官庁名。古代のものと近代のものがあり、近代のものが1949年(昭和24年)以降の宮内庁の前身となる。
目次
1 律令制度下
1.1 職員
1.2 宮内省被官の官司
2 明治初期:1869年(明治2年) - 1885年(明治18年)
2.1 概要
2.2 歴代の宮内卿
2.3 歴代の宮内大輔
3 内閣制度以降:1885年(明治18年) - 1947年(昭和22年)
3.1 概要
3.2 歴代の宮内大臣
3.3 組織:1945年(昭和20年)8月15日当時
3.3.1 幹部
3.3.2 内部部局
3.3.3 外局
3.4 内部組織の変遷
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
律令制度下
古代の宮内省は、律令制で規定された八省のひとつ。和名は「みやうちのつかさ」。太政官の右弁官局の被官で、はじめ1職4寮13司、のち統廃合されて1職5寮5司の官司を所管し、宮廷の修繕や食事、掃除、医療などの庶務一切を務め、天皇の財産を管理した。職員は卿以下の四等官その他がいる。
職員
長官である宮内卿は正四位下相当であるが、従三位以上の公卿が任命されることも多かった。
大輔以下の職員構成以下のとおり
- 大輔(正五位下相当)…一人
- 少輔(従五位下相当)…一人
- 大丞(正六位下相当)…一人
- 少丞(従六位上相当)…二人
- 大録(正七位上相当)…一人
- 少録(正八位上相当)…二人
註:大輔・少輔には後に権官も設置された。
- 史生
- 省掌
- 使部
- 直丁
宮内省被官の官司
- 大膳職
- 木工寮
- 大炊寮
- 主殿寮
- 典薬寮
掃部寮(令外官)- 正親司
- 内膳司
- 造酒司
- 采女司
- 主水司
- 主油司
- 官奴司
- 内掃部司
- 鍛冶司
- 内染司
- 土工司
- 園池司
- 筥陶司
明治初期:1869年(明治2年) - 1885年(明治18年)
宮内省 | |
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明治期の宮内省 | |
役職 | |
宮内卿 宮内大臣 | 万里小路博房(初代) 松平慶民(最後) |
概要 | |
所在地 | 日本 東京府東京市麹町区 |
設置 | 1869年(明治2年) |
改称 | 1949年(昭和24年) |
後身 | 宮内庁 |
概要
近代の宮内省は、1869年(明治2年)の太政官制により、大宝令の制に準じて設置された。この際に改正された「官位相当表」よると、宮内卿は正三位、宮内大輔は従三位、宮内少輔は正四位とされた。
1877年(明治10年)8月29日から1879年(明治12年)10月13日までの間、侍補が置かれていた。
歴代の宮内卿
万里小路博房:1869年7月8日(旧暦:明治2年5月29日) - 1871年6月25日(旧暦:明治4年5月8日)
徳大寺実則:1871年11月29日(旧暦:明治4年10月17日) - 1884年(明治17年)3月21日
伊藤博文:1884年(明治17年)3月21日 - 1885年(明治18年)12月22日
歴代の宮内大輔
烏丸光徳:1869年10月14日(旧暦:明治2年9月10日) - 1871年8月11日(旧暦:明治4年6月25日)
万里小路博房:1871年8月13日(旧暦:明治4年6月27日) - 1877年(明治10年)8月29日
杉孫七郎:1877年(明治10年)12月26日 - 1884年(明治17年)4月21日
吉井友実:1884年(明治17年)7月8日 - 1886年(明治19年)2月5日
内閣制度以降:1885年(明治18年) - 1947年(昭和22年)
概要
1885年(明治18年)に太政官が廃止され内閣が設置されると、皇室が内閣総理大臣に制約されないようにするため内閣から独立、長官として宮内大臣が置かれ、最後の宮内卿伊藤博文が初代総理大臣と兼職した。
1889年(明治22年)、大日本帝国憲法発布とともに皇室典範が制定されると、宮内省は皇室自立の原則に従って独立官庁として次第に拡充、1908年(明治41年)には宮内省官制が施行された。
日本の降伏による第二次世界大戦終戦時には大臣官房と2職8寮2局の内局と多くの外局に6000人を越える職員を抱え、天皇および皇族、朝鮮王公族(元大韓帝国皇帝の李王家)の日常生活、教育、財産管理などあらゆる側面を支える官庁へと拡大していたが、戦後、連合国軍占領下で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の要求により縮小され、職員は1500人まで削減された。これにともない大部分の業務は他部局に移管された。たとえば皇室財産の大部分を占めた御料林は国有林となり林野庁の管轄となり、あるいは宮内省管轄であった学習院は私立学校となった。
1947年(昭和22年)、日本国憲法の施行とともに内閣総理大臣所管の機関として宮内府に改められ、さらに1949年(昭和24年)に総理府の設置にともなってその管轄下の外局となり、宮内庁に改められた。2001年(平成13年)の中央省庁再編に伴い、法的な位置づけが「総理府の外局」から「内閣府に置かれる機関」(外局とは別格)となった。
歴代の宮内大臣
伊藤博文 1885年(明治18年)12月22日〜: 伯爵・長州閥・首相兼任
土方久元 1887年(明治20年)9月16日〜: 子爵・土佐閥・農商務大臣
田中光顕 1898年(明治31年)2月9日〜: 子爵・土佐閥・陸軍少将・警視総監
岩倉具定 1909年(明治42年)6月16日〜: 公爵・学習院院長・枢密顧問官(岩倉具視の二男)
渡辺千秋 1910年(明治43年)4月1日〜: 子爵・内務官僚・内務次官
波多野敬直 1914年(大正3年)4月9日〜: 子爵・司法官僚・司法大臣
中村雄次郎 1920年(大正9年)6月18日〜: 男爵・陸軍中将・陸軍次官・満鉄総裁
牧野伸顕 1921年(大正10年)2月19日〜: 子爵・外交官・外務大臣・枢密顧問官(大久保利通の二男)
一木喜徳郎 1925年(大正14年)3月30日〜: (無爵)・東京帝国大学法学部教授・文部大臣
湯浅倉平 1933年(昭和8年)2月14日〜 :(無爵)内務官僚・警視総監・内務次官・朝鮮総督府政務総監
松平恒雄 1936年(昭和11年)3月6日〜 :(無爵)外交官・駐英大使・会津松平家出身(松平容保の四男)
石渡荘太郎 1945年(昭和20年)6月4日〜:(無爵)大蔵官僚・大蔵大臣
松平慶民 1946年(昭和21年)1月16日〜 : 子爵・越前松平家出身(松平慶永の末子)
組織:1945年(昭和20年)8月15日当時
幹部
宮内大臣(親任官)
宮内次官(勅任官)
内部部局
内部部局としては、通常の官衙とは異なり、「職・寮」といった律令制度下の部局名を承継したものが用いられた。長の名称は各部局により異なり、侍従職は「侍従長」、式部職は「式部長官」、宗秩寮は「総裁」、総務局・警衛局は「局長」、その他の寮は「○○頭」( - のかみ)であった。
- 大臣官房
侍従職(じじゅう - ):天皇の側近として仕える
式部職(しきぶ - ):宮中儀礼を担当
宗秩寮(そうちつ - ):皇族・華族に関する事務を担当
諸陵寮(しょりょう - ):陵墓管理を担当
図書寮(ずしょ - ):皇統譜・宮内省関係文書の管理
侍医寮(じい - ):宮中の医療を担当
大膳寮(だいぜん - ):食事や饗宴を担当
内蔵寮(くら - ):会計・用度を担当
内匠寮(たくみ - ):建築・営繕を担当
主馬寮(しゅめ - ):馬車・自動車の運転や管理
総務局:その他庶務を担当
警衛局:皇宮警察を所管し、密偵を用いて独自の情報収集活動を行っていた
外局
内大臣府:御璽・国璽の保管
掌典職(しょうてん - ):宮中祭祀を担当
皇后宮職(こうごうぐう - ):皇后良子の側近として仕える
東宮職(とうぐう - ):皇太子明仁親王の側近として仕える
皇太后宮職(こうたいごうぐう - ):皇太后節子の側近として仕える- 帝室会計審査局:宮内省内の会計監査を行う
御歌所(おうたどころ):御製御歌の管理
帝室博物館:御物(皇族女子のティアラやパリュールを含む)の管理- 正倉院管理署:奈良正倉院宝物の管理
帝室林野局:御料林の管理
学習院:皇族・華族子弟の教育機関- 女子学習院:皇族・華族子女の教育機関
李王職:朝鮮王公族の家政を担当
内部組織の変遷
1883年(明治16年)9月に京都に支庁が設置された。
1884年(明治17年)4月に学習院を宮内省所轄の官立学校とした。
1886年(明治19年)2月に京都支庁が廃され、主殿寮京都出張所が設置された。
1900年(明治33年)6月に帝国京都博物館を京都帝室博物館と改称した。1924年(大正13年)2月に京都帝室博物館を京都市に下賜した(現在の京都国立博物館)。- 1886年(明治19年)に「博物館」が農商務省から宮内省図書寮に移管され、後に帝国博物館、東京帝室博物館と改称され、1947年(昭和22年)5月に文部省に移管された(現在の東京国立博物館)。
参考文献
吉田裕 『昭和天皇の終戦史』(岩波新書、1992年)- 『昭和初期の天皇と宮中 侍従次長河井弥八日記』(全6巻、高橋紘ほか編、岩波書店、1994年)
- 『牧野伸顕日記』(伊藤隆・広瀬順晧編、中央公論社、1990年)
- 『伊藤博文の情報戦略』(佐々木隆著、中公新書、1999年)
関連項目
- 宮内庁
- 日本の官制
- 近代日本の官制
- 帝室技芸員
- 枢密院 (日本)
- 宮中顧問官
- 内大臣府
- 侍従武官
- 侍従
- 禁衛府
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、宮内省に関するカテゴリがあります。
ウィクショナリーには、宮内省の項目があります。
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