租庸調




租庸調(そようちょう)は、日本、中国及び朝鮮の律令制下での租税制度である。




目次






  • 1 日本の租庸調


    • 1.1


    • 1.2


      • 1.2.1 庸米


      • 1.2.2 庸布




    • 1.3 調


      • 1.3.1 正調


      • 1.3.2 調副物


      • 1.3.3 調銭




    • 1.4 飛騨国の特例


    • 1.5 運脚




  • 2 中国の租庸調


  • 3 朝鮮の租庸調


  • 4 脚注


  • 5 関連項目





日本の租庸調


大化の改新において、新たな施政方針を示した改新の詔のひとつに「罷旧賦役而行田之調」とあり、これが租税の改定を示す条文である。ここに示された田之調は田地面積に応じて賦課される租税であり、後の田租の前身に当たるものと見られている。日本の租庸調制は、中国の制度を元としているが、日本の国情を考え合わせ、日本風に改定して導入したものである。


租は国衙の正倉に蓄えられ地方の財源にあてられ、庸調は都に運ばれ中央政府の財源となった。庸と調を都に運ぶのは生産した農民自身で、運脚夫といい、国司に引率されて運んだ。


現物を納める税は、8月から徴収作業を始め、郡家さらに国庁の倉庫に集められ、木簡が付けられ、11月末までに都の大蔵省に納められた。奈良時代は原則として車船の輸送が認められなかったので、民衆の中から運脚が指名され、都まで担いでいった。往復の運搬のたびの食料は自弁であったために餓死する者も出た。運脚たちが歩いた道は国府と都を直線で結ぶ官道(駅路)七道であった(→日本の古代道路#民衆交通)。


地震や土砂災害などの天変地異が発生した場合には、地域的に免除されることがあった。実際に宝亀3年(772年)に豊後国で発生した山崩れ(現在でいう天然ダムの決壊に相当)が発生した際(続日本紀巻32)や天長7年(830年)の出羽国の地震(日本逸史巻38)、承和8年(841年)の伊豆国の地震(続日本後紀巻10)では、災害の記述とともに租庸調の一部が免除されている記録がある。





租は、田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3%~10%に当たった。原則として9月中旬から11月30日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源とされた。しかし、歳入としては極めて不安定であったため、律令施行よりまもなく、これを種籾として百姓に貸し付けた(出挙)利子を主要財源とするようになった。一部は舂米(臼で搗いて脱穀した米)として、1月から8月30日までの間に、京へ運上された(年料舂米)。


また、戸ごとに五分以上の減収があった場合には租が全免される規定(賦役令水旱虫霜条)があり、そこまでの被害が無い場合でも「半輸」と呼ばれる比例免の措置が取られるケースがあったが、当時の農業技術では、全免・比例免を避けることは困難であった。そこで、1つの令制国内において定められた租の総額に対して7割の租収入を確保することを目標として定めた「不三得七法」と呼ばれる規定が導入されたが、これを達成することも困難であったため、大同元年(806年)に旧例として原則化されるまでしばしば数字の変更が行われた。


唐の律令では、丁の人数を基準とした丁租であるのに対して、日本の律令では田の面積を基準とした田租となっている。このため、日本における租は律令以前の初穂儀礼に由来するのではないか、とする説もある。





正丁(21歳~60歳の男性)・次丁(61歳以上の男性)へ賦課された。元来は、京へ上って労役が課せられるとされていたが(歳役)、その代納物として布・米・塩などを京へ納入したものを庸といった[1]。庸を米で納める場合は庸米(ようまい)、布で納める場合は庸布(ようふ)と称した。改新の詔では、1戸あたり庸布1丈2尺あるいは庸米5斗を徴収する規定があり、それが律令制下でも引き継がれたと考えられている。京や畿内・飛騨国(別項参照)に対して庸は賦課されなかった。現代の租税制度になぞらえれば、人頭税の一種といえる。


庸は、衛士や采女の食糧や公共事業の雇役民への賃金・食糧に用いる財源となった。



庸米


大宝律令・養老律令には庸米に関する規定は存在していなかったが、『延喜式』には正丁1名あたり米3斗とする規定があること、平城宮などから出土した木簡に庸米1俵として5斗・5斗8升・6斗などの分量が記されているものがあることから、古代を通じて庸米が徴収され、1俵=2丁分の庸米に相当したとみられている。また、庸が衛士や采女、その他雇役民の食糧に充てられたという点からも、庸としての米は重要な部分を占めていたと考えられている[2]



庸布


大宝律令では、当時一般的な基準とされていた常布1丈3尺2枚分に相当する布2丈6尺が正丁1名あたり徴収された(ともに幅は2尺4寸)。だが、実際には程なく庸は半減され、慶雲3年(706年)には定制化され、事実上正丁1丈3尺が徴収されることになった。養老元年(717年)には4丈2尺(1丁分の庸布+調布の長さ)を1端、2丈8尺(2丁分の庸布)を1段と称するようになり、端と段は後には長さの単位としても用いられるようになった。なお、庸布には納付した人物の国郡郷姓名を両端に墨書する規定が存在していた[3][4]



調


正丁・次丁・中男(17歳~20歳の男性)へ賦課された。繊維製品の納入(正調)が基本であるが、代わりに地方特産品34品目または貨幣(調銭)による納入(調雑物)も認められていた。これは、中国の制度との大きな違いである。京へ納入され中央政府の主要財源として、官人の給与(位禄・季禄)などに充てられた。


京や畿内では軽減、飛騨では免除された。



正調


調の本体であり、繊維製品をもって納入した。正調は大きく分けて絹で納入する調絹(ちょうきぬ)と布で納入する調布(ちょうふ)に分けることが出来る。当時において、絹は天皇などの高貴な身分の人々が用いる最高級品であり、その製品は「布」とは別の物とされていた。従って、当時の調布とは、麻をはじめ苧・葛などの絹以外の繊維製品を指していた。


時代によって違うものの、大宝律令・養老律令の規定に基づけば、



  • 調絹は長さ5丈1尺・広さ2尺2寸で1疋(1反)となし、正丁6名分の調とする。

  • 調布は長さ5丈2尺・広さ2尺4寸で1端(1反)となし、正丁2名分の調とする。


とされていたが、実際の運用においては、養老年間に改訂が行われ、



  • 調絹は長さ6丈・広さ1尺9寸で1疋(1反)となし、正丁6名分の調とする。

  • 調布は長さ4丈2尺・広さ2尺4寸で1端(1反)となし、正丁1名分の調とする。


とする規定が定められて、これを元に徴収が行われていた。


特に美濃国で作られた絁(絹織物)である美濃絁と、上総国で作られた布(麻織物)である望陀布は、古くから品質は上質とされ、かつ東国豪族の忠誠の証を示す貢納品としても評価され、「東国の調」と呼ばれて古くから宮中行事や祭祀に用いられてきた。このため、美濃絁・望陀布に関する規定が特別に設けられていた。



調副物


調に付属した税。正丁のみ紙や漆など工芸品を納めた。



調銭


調の物納に替え、銭で納税する制度。但し、後世のように貨幣経済は発展していないため、目的は銭貨の流通・還流策の一環であり、大宝律令の施行後間もない和同開珎の鋳造後には施行された。制定当時は、銭5文を調布は長さ1丈3尺に相当するものとされたが、貨幣価値の変動に左右された。神亀年間~天平年間の京畿では正丁1名につき9文となっている。



飛騨国の特例


飛騨の民は調・庸を免除される替わりに匠丁(しょうてい、たくみのよほろ)を里ごと10人1年交替で徴発され、平安時代には総勢100名とされた。いわゆる飛騨工(ひだのたくみ)である。匠丁は木工寮や修理職に所属して工事を行った。



運脚


調・庸・調副物は京に納入された。納入する人夫を運脚といい、かかる負担は全て自弁であり大きな負担となった。


また、国内各地から運脚が集まったことで都城における人口の密集に拍車をかけて病原体への接触の可能性を高め、更に彼らがそれを故郷に持ち帰ったことが律令制の時代にたびたび発生した疫病の流行の一因であったとする見方もある[5]



中国の租庸調


中国の租庸調は、北周(556年 - 581年)に始まり、唐(618年 - 907年)で完成した。以下は、唐における租庸調である。




均田制に基づく田地の支給に対して、粟(穀物)2石を納める義務を負った。これがである。租は穀物を納める税であったが、当時の唐の基盤となった華北の主食は粟(アワ)であり、租の本色(基本的な納税物)は粟とされていた[6]


律令においては、本来は年間20日の労役の義務があり、それを「正役」と称した。正役を免れるために収める税が庸であったが、唐代中期以後は庸を納めることが一般化した(なお、雑徭2日分が正役1日分と換算されたため、雑徭を年間40日を行った者はその年の正役も庸も免除され、庸を正役20日分納めた者は雑徭も40日分免除された)。正役1日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収めることとされていた。

  • 調

調は、絹(絹織物)2丈と綿(真綿)3両を収めることとされていた。

ただし、租庸調は南北朝時代統一以前の北朝支配下の農民の実態に合わせた租税制度であったと見られ、隋(581年 - 618年)になってから統治下に含まれるようになった旧南朝支配地域でそのまま実施されたかについて疑問視する意見もある(南朝支配下の華南は稲を主食とし、農民の生産活動が華北とは大きく異なるため)[7]


均田制が崩壊し、大土地所有の進行の一方で、本籍から離れ小作人となる農民が増えるようになると、制度の維持が難しくなり、地税・青苗税・戸税などの弥縫的な税を経て、建中元年(780年)、徳宗の宰相楊炎の建議により、実際の耕地に応じて徴収する両税制が施行されると、それが主たる歳入源となり、租庸調は形骸化した。



朝鮮の租庸調





















租庸調
各種表記

ハングル:

조용조

漢字:

租庸調

発音:

チョヨンジョ

日本語読み:

そようちょう

朝鮮では、三国時代に中国から律令制度とともに租庸調の制度を輸入したとされている[8]。その後の高麗と李氏朝鮮も、租庸調という伝統的な貢納形態に税制の根拠を置いた。名称と内容は時代とともに変わったが、租庸調の基本的な枠組は、20世紀初まで継続した[9]


租は土地を対象にして賦課するもので、庸は民の労動力を直接使役することで、調は戸を対象に生産物を貢納させるものである[9]。租は田租(전조)、税、租税、貢、田結税などと、庸は徭、役、徭役、賦、貢賦、布などと、調は貢納(공납)、貢、貢賦などとも呼ばれた[8]


李氏朝鮮は、租庸調の制度を通じて、土地と民を支配し、生産物と労動力を徴収して体制を維持した[9]。李氏朝鮮初期には、租は田畑が課税の対象なので賦課率が明らかだったが、庸と調は官吏たちの不正が伴って負担が重くなり、農民を苦しめた[8]。李氏朝鮮中期以後には、大同法(대동법)により調の大部分も田畑を対象とし米で納めるようになった。庸は軍布(군포)という布で納めるようになり、また均役法(균역법)の制定後には、一部を田畑を対象とし米で納めるようになった。時代によってその負担の軽重が変わり、初期には庸と調の負担が租よりも重かったが、後期には租の負担が一番重くなった[8]


李氏朝鮮末期には三政の紊乱といわれる税制上の様々な不正や収奪が横行した。1907年~1914年になって日本の統治の下、所得税、財産税、流通税、消費税などの近代的租税制度がもたらされた[9]



脚注





  1. ^ ただし、京や畿内の庸が賦課されなかったり、調が軽減されたのは、財源不足時や緊急時に必要な労役(歳役)を課すことが出来るようにするためとする異説も存在する(今津勝紀「京畿内の調と力役」『古代日本の税制と社会』塙書房、2012年(原論文:1992年))。


  2. ^ 寺崎保広「庸米」(『国史大辞典 14』(吉川弘文館、1993年) ISBN 978-4-642-00514-2)


  3. ^ 寺崎保広「庸布」(『国史大辞典 14』(吉川弘文館、1993年) ISBN 978-4-642-00514-2)


  4. ^ 寺内浩「庸布」(『日本歴史大事典 3』(小学館、2001年) ISBN 978-4-095-23003-0)


  5. ^ 今津勝紀「税の貢進」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 P82-83


  6. ^ 古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P523


  7. ^ 古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P72-79・512-515

  8. ^ abcd租庸調Yahoo!百科事典

  9. ^ abcd租庸調ブリタニア百科




関連項目



  • 律令制

  • 雑徭

  • 調布

  • 前分

  • 雑米

  • 綱丁

  • 違期












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