宝暦事件





宝暦事件(ほうれきじけん)は、江戸時代中期に尊王論者が弾圧された最初の事件。首謀者と目された人物の名前から竹内式部一件(たけのうちしきぶいっけん)とも呼ばれる。



概要


桜町天皇から桃園天皇の時代(元文・寛保年間)、江戸幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家は衰退の危機にあった。一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからである。これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりつつあった。


その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説を奉じる竹内敬持(竹内式部)が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古らに神書・儒書を講じた。幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは侍講から天皇へ式部の学説を進講させた。やがて1756年(宝暦6年)には式部による桃園天皇への直接進講が実現する。


公家の中には、諸藩の藩士の有志を糾合し、徳川家重から将軍職を取り上げて日光へ追放する倒幕計画を構想する者まで現れた[1]


これに対して朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白・一条道香は、近衛内前・鷹司輔平・九条尚実と図って天皇近習7名(徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野)の追放を断行、ついで一条は公卿の武芸稽古を理由に1758年(宝暦8年)式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。一方、式部は京都所司代の審理を受け翌1759年(宝暦9年)重追放に処せられた。


この事件で幼少の頃からの側近を失った桃園天皇は一条ら摂関家の振舞いに反発を抱き、天皇と摂関家の対立が激化する。この混乱が収拾されるのは桃園天皇が22歳の若さで急死する1762年(宝暦12年)以後の事である。


徳大寺公城らは、徳川幕府崩壊後の明治24年(1891年)に名誉回復を受け、各々の生前の最終官位から一つ上格の官位の追贈を受けた。



脚注





  1. ^ 富山市史編纂委員会編『富山市史 第一編』(p654)1960年4月 富山市史編纂委員会




関連項目


  • 明和事件







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