征夷大将軍
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん、旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。
飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。
大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。
平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。
目次
1 歴史
1.1 奈良・平安時代
1.2 源頼朝
1.2.1 東国の独立政権
1.2.2 近衛大将から征夷大将軍へ
1.2.3 征夷大将軍の意義
1.2.4 近年明らかになった新事実
1.3 摂家将軍・宮将軍
1.4 建武政権・室町時代の将軍
1.5 戦国時代の将軍
1.6 江戸時代の将軍
2 征夷大将軍に関する説とそれ以外の武家政権
2.1 源平交代思想と源氏将軍
2.2 豊臣秀吉
3 征夷大将軍の一覧
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 参考文献
6 関連項目
歴史
奈良・平安時代
征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つで、太平洋側から進む軍を率いた。これとは別に、日本海側を進む軍を率いる将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)、九州へ向かう軍隊を率いる将軍は征西将軍(鎮西将軍)という。これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたためとされている。
「東夷」に対する将軍としては、和銅2年(709年)3月6日に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂が最初であり[注 1]、「征夷将軍」(通常、征夷大将軍と同一とされる)の初見は、養老4年(720年)9月29日に持節征夷将軍に任命された多治比縣守である[注 2]また同日、「北狄」に対する持節鎮狄将軍に阿倍駿河も任命された。「征東将軍」の初見は、延暦3年(784年)2月に鎮守将軍から昇格した大伴家持 であり、「征東大将軍」の初見は、延暦7年(788年)12月7日に辞見した紀古佐美である[注 3][注 4]。
延暦10年(790年)7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使[注 5]に任命された。延暦12年(792年)2月17日に、征東使を征夷使と改めた。「大使」はまた「将軍」とも呼ばれていた。『日本紀略』には延暦13年(794年)1月1日に征夷大将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜うたとあり、これが「征夷大将軍」の初見とされ、由来としては天皇に任命される軍事指揮官である。
延暦10年(790年)「征東大使」に任命された大伴弟麻呂は、その後「征東使」が「征夷使」に改められ、延暦13年(794年)1月1日に「征夷大将軍」として節刀を授けられた。大伴弟麻呂の副使(副将軍)だった坂上田村麻呂は、延暦15年(796年)10月27日鎮守将軍に任命され戦争を指揮し、翌延暦16年(797年)11月5日に征夷大将軍に昇格した。坂上田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為を京へ連れ帰り、東北地方全土を平定した。その後陸奥按察使だった文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際して弘仁2年(811年)4月17日に征夷将軍[注 6]に任命され、同年 閏12月11日蝦夷征討の終了を奏上、鎮守将軍には副将軍だった物部足継が昇格、しかし、弘仁5年(814年)11月17日には再度文室綿麻呂が征夷将軍に任じられたものの、実際には征討は行われなかった。
源頼朝
東国の独立政権
源頼朝の一族(河内源氏)は軍事を家業として朝廷に仕える軍事貴族であった。しかし、伊豆の流人生活から東国武士団を率いて反平氏の旗を揚げた。頼朝の当初の立場は朝廷に公認されたものではなかった。頼朝は、まず朝廷から相対的に独立した「東国王権」を築き上げ、京都の朝廷では元号を養和と改元したが、頼朝は、そのまま治承の年号を使用した[1] 。その後、朝廷との関係も含め、先行する平氏政権・源義仲・奥州藤原氏地方政権の3パターンの比較検討から次第に政権構想が練られたのではないかといわれている。
- 平氏政権は、既存の貴族の家格秩序に従って官位昇進をし、天皇の外戚として朝廷の権力を掌握する道を選んだが、平氏の繁栄を誇示するだけになり、地方の実効支配者としての武士の代表としてうまく機能しなかった。これに対し、東国の一定の独立性は保ちつつ朝廷に武家権力としての自主的統治権を認めさせるために交渉を重ねていくことになる。
平氏を追い落として京都を制圧した源義仲は、200年以上前に存在した征東大将軍に任官された。征東大将軍の官名は東方を征伐する職務を示すもので、東国の頼朝に対抗する義仲の意図が推定される。義仲を滅ぼした頼朝もまたこれに匹敵する称号を望むことになる。- 当時の東北地方は、朝廷の支配が及ばない奥州藤原氏の独立した地方政権だった[2]。奥州藤原氏は鎮守府将軍の地位を得て、陸奥国・出羽国における軍政という形での地方統治権を認められ100年支配した[3]。辺境常備軍(征夷大将軍の場合は臨時遠征軍)の現地司令官という性格を持つが故に在京の必要がなく、地方政権の首領には都合が良かった。頼朝自身も鎌倉に留まり続け、京都の朝廷から公認を受けつつ一定の独立性を保持しようとした。
近衛大将から征夷大将軍へ
建久元年(1190年)、頼朝は右近衛大将(右大将)に任官したが、近衛大将は中央近衛軍司令官という性格上在京しなければならず、半月も経ぬうちに辞任した。右大将は官位相当こそ高いものの、源義仲の征夷大将軍のように武士を統率して地方の争乱を鎮圧する地位ではなく、奥州藤原氏の鎮守府将軍のように東国に独立の勢力圏を擁するに相応しい地位でもない。
そこで注目したのが、征夷大将軍という官職であった。坂東の武士を率いて行う蝦夷(奥州藤原氏)征服に大義名分を得るという目的からしても、また鎮守府将軍と同様に軍政(地方統治権)を敷く名分としても相応しく、故実からも鎮守府将軍より格上である格好の官職だった。
つまり、
- 東国武士の棟梁たる鎌倉殿という私的地位
守護(追捕使)・地頭を全国に置き、軍事・警察権を掌握する日本国惣追捕使・日本国惣地頭という公的地位- 右大将として認知された、家政機関を政所などの公的な政治機関に準ずる扱いを受ける権限
を、全て纏め上げて公的に裏付けられた一体的地位とするのが征夷大将軍職であった。
征夷大将軍の意義
しかし、頼朝にとって征夷大将軍職は、奥州藤原氏征討のためにこそ必要とされた官職であって、奥州合戦を経て実際に任官した建久3年(1192年)にはすでに必要なくなっていたという見方もある。実際に頼朝は征夷大将軍職にあまり固執せず、2年後には辞官の意向を示している[4][注釈 1]。
また、嫡男の頼家は家督継承にあたり、まず左近衛中将、次いで左衛門督に任官しており、征夷大将軍に任官したのはその3年後である。頼家が失脚する比企能員の変の際、惣追撫使・惣地頭の地位の継承が問題となった一方、征夷大将軍職は対象とされていない。従って、この段階の征夷大将軍は、武家の棟梁たる鎌倉殿や日本の軍事的支配者たる惣追撫使・惣地頭の地位と不可分なものではなく、さほど重視されていなかったことが伺える。ただ、頼家の弟実朝の家督継承の際にはまず征夷大将軍に任官している。
頼朝は朝廷の常設最高職である左大臣に相当する正二位でこの職に就き、同時に一部で朝廷との二重政権状態を残しつつ全国に武家支配政権を形作ったため、以降その神格化とともに「天下人」としての征夷大将軍の称号が徐々に浸透していく。また、後年に至るまで執権、管領、大老などの幕府次席職の官位は従四位どまりであり、将軍のみが隔絶して高い権威として全ての武士に君臨する(たとえ実権がともなわなかったとしても)慣習もこの時期に確立されている。
近年明らかになった新事実
だが近年[いつ?]、これらの通説を覆す新史料として、『三槐荒涼抜書要』[注 7]所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条に頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が見つかった。それによると頼朝が望んだのは、「前右府」の号に代わる「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や、義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして斥けられ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして、頼朝を「征夷大将軍」に任官することにしたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で、朝廷が消去法で「征夷大将軍」を選んだことが明らかとなった。そのため、頼朝が「征夷大将軍」を望んだという前提で、「征夷」に重点を置いた解釈がされてきたこれまでの研究には再検討の必要が出てきている(同時に、義仲が任官したのも『吾妻鏡』などの伝える「征夷大将軍」ではなく、『玉葉』に記されている「征東大将軍」であったことが明らかとなった)[6][要ページ番号][7]。
頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10世紀 - 11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛流平氏・良文流平氏・秀郷流藤原氏・頼義流源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家・源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の武門の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている[8][9]。また、将軍職が武家にとり、戦いを指揮統制する地位で重んじられ、それらを上に立ちまとめる「大将軍」が、武門の棟梁として指揮統制するのに重要だったという説がある[7]。
また、頼朝が征夷大将軍を望んだものの後白河法皇に阻まれたとされる点については、『吾妻鏡』建久3年(1192年)7月26日条の「将軍事、本自雖被懸御意、于今不令達之給、而法皇崩御之後、朝政初度、殊有沙汰被任之間。」等の記述から長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年(1184年)4月10日条の記事がこれと矛盾する内容を持つことが指摘された。この記事は頼朝が3月27日の除目で正四位下に叙されたことを源義経の使者が知らせるもので、同条には除目の経緯が書かれている。それによれば、義仲討伐の戦功として、藤原忠文の先例に倣って征夷将軍の地位を与えることを後白河が検討したものの、議論によって叙位のみとなったとされている。ところが『玉葉』の寿永3年(1184年)2月20日及び3月28日条には頼朝からの申状によって、後白河から与えられるはずであった全ての官職を辞退して叙位のみを受けたことが記されている。この事態を説明するには、後白河が既に終わった合戦の戦功として征夷将軍(=征夷大将軍)を与えようとしたものの頼朝が辞退したと解する他なく、平安時代初期の蝦夷征討が終わって久しい当時において、後白河・頼朝が共に征夷将軍を名誉的な官と見なし、「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職としては認識してはいなかった可能性がある。
さらに、寿永以後頼朝の征夷大将軍補任までの間に征夷将軍・征夷大将軍の地位や職権について議論された形跡が、京都・鎌倉双方の同時代史料からは確認できず、鎌倉殿の持つ権限は特定の官職によるものではなく、寿永二年十月宣旨や文治の勅許等、鎌倉殿が朝廷によって承認されてきた東国支配権や諸国守護権等各種の軍事的・警察的諸権限によるものであり、頼朝・頼家・実朝3代の征夷大将軍自体は職掌・実権のない空名の官職補任以上のものではなかったとされる。この説によれば、『吾妻鏡』による3代の征夷大将軍補任記事は征夷大将軍の権威が確立した後の脚色記事であり、実際に征夷大将軍補任が政治的意味を持つようになるのは、河内源氏嫡流が断絶して武家源氏ではない鎌倉殿(摂家将軍)を迎えた時とされる。摂家将軍を擁立した執権北条氏ら鎌倉幕府側は、鎌倉殿の後継者の地位及び頼朝以来認められてきた諸権限を頼朝以来の3代が共通して補任されてきた空名の官職である征夷大将軍の職権として結びつけた上で、新たな鎌倉殿である摂家将軍や宮将軍への継承を求め、承久の乱後に親幕府派によって掌握された朝廷もこれを認めたことにより、征夷大将軍が「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職に転換されたとする見解を採っている[10]
摂家将軍・宮将軍
鎌倉時代以降、幕府の政治力は徐々に高まっていった。しかし、頼朝の実子として将軍・鎌倉殿に就いた源頼家・源実朝は権臣の北条氏に対抗できる力を持たなかった。頼朝の直系血統が絶えると、当初北条氏は皇族の将軍就位を求めたが、最終的には拒絶された[11]。このため頼朝妹の血統をもつ摂関家から2歳の三寅を鎌倉殿に迎え、北条政子が後見した。正室となったのは頼家の娘であり、実朝正室坊門信子の猶子であった竹御所であった[12]。三寅は6年後に元服した後に藤原頼経を名乗り征夷大将軍に就くが、実権は乏しく、傀儡であったと見られている[13]。しかし北条泰時死後の混乱につけこみ、反得宗家の御家人を糾合して長子北条経時の執権就任に反対するなどの動きを見せた[14]。この直後、子の藤原頼嗣が6歳で元服し、将軍職を譲らされるが、これはその影響であったと見られている[14]。しかし頼経はその後も隠然とした勢力を保ち[15]、名越光時ら反得宗勢力と連携して北条時頼と対立し(宮騒動)、その直後京都に送還された[14][16]。また頼嗣も、僧了行らの謀反事件の煽りを受けて廃位されている[17][18]。
その後、皇族が将軍として迎えられ、いわゆる「宮将軍」となったが、「得宗専制」と称される幕府の中では、得宗家の傀儡に過ぎなかったという見方が支配的である[11]。六代将軍宗尊親王は正室の密通事件が発生する中で謀反の嫌疑をかけられて京都に送還され[19]、七代将軍惟康親王は『増鏡』において「将軍宮こに流され」と表現されるように、ほぼ罪人扱いで京都に追放されている[11]。久明親王は理由は不明であるが33歳で辞任して京都に戻り、守邦親王は鎌倉幕府の滅亡とともに出家した[11]。
建武政権・室町時代の将軍
建武新政で天皇公家の親政と国衙復活を目指して朝廷の独裁政治となり、恩賞や領地を巡り武家との対立が勃発した。足利尊氏の叛旗で建武政権は瓦解し、尊氏は北朝を奉じて征夷大将軍に就任し京都に室町幕府を開くが、有力守護の細川氏・斯波氏・畠山氏などとの連立政権となり、公武政権の特色が増した。だが、室町幕府3代将軍足利義満は公武両権力の頂点に立った。それ以降、征夷大将軍は武家の最高権威となった(ただし、実質的権力については、前将軍である室町殿や大御所が握っている場合もあり、必ずしも征夷大将軍が握っていた訳ではない)。足利義満の王権簒奪で朝廷は統治権を失い、政治権力は史上最も低下した。将軍職は嫡男の義持へ譲ったが権力は治天の位置を占めた義満に集中したままだった。応永15年(1408年)5月、義満の急死後に将軍の権限が急速に回復し細川管領と斯波義将ら宿老との連携の中、将軍権力と幕府機能が復活し義満の政庁北山第も現・金閣を残し取り壊した[20]。以降に天皇と朝廷は揺り戻しや戦国大名の貴族化と猟官への接近による権威再建はあったが、統治権のない権威としての政府となり、幕府こそが日本全土を実質統治する政府となった[21]。足利義教の代には頻繁に守護大名家の相続に介入して独裁的な権力を行使したが、その暗殺と守護大名主導の叛乱鎮圧により再び将軍権力は低下した。足利義政の代には、守護大名間の武力抗争に対し、朝廷のように半ば超然と振舞う存在となった。その子の足利義尚は実権回復を図り六角氏討伐軍を自ら率いたが、中途で病死し果たせなかった。
南北朝時代には、南朝の北畠顕家が鎮守府将軍を鎮守府大将軍と名乗ることを認められているが、これは清華家の家格を有する北畠家にとっては、鎮守府将軍は明らかに卑職であることを顕家が嫌ったためである。
戦国時代の将軍
将軍足利義材は義尚の果たせなかった六角親征に成功したが、これで自信を高めたことで細川政元と対立し、畠山征伐として河内に出兵した留守にクーデターを起こされ将軍職を失った(明応の政変)。幕政は細川氏支配が確立し、また幕府と将軍の全国統治の権力は消滅して室町幕府は畿内を支配する地方政権となる。武家に対する将軍の権威はある程度は残ったが、戦国大名が成立して、将軍は有力大名の意向には逆らいにくく、敵対すると大永元年(1521年)頃から出奔逃亡し京都に常にとどまれず「流れ公方」と嘲笑された[22]。将軍の守護補任権が断続的になり天皇の国司任命が復活し、官位の朝廷取次権限が行使できず直奏となり、将軍権力が縮小した[23]。天文22年(1553年)、三好政権を成立させた三好長慶に13代将軍の義輝は反撃を試み、洛外の近江国朽木に追放され5年後和睦し戻ったが、永禄8年5月(1565年6月)永禄の変で二条御所を軍勢で襲われ殺害され、将軍といえども不犯の存在ではなくなった。そのため弟の足利義昭は織田信長の協力を得て、三好政権が擁立した14代将軍足利義栄が急死する中、奉じられ上洛し15代将軍となり、室町幕府を再建し畿内支配を復活させた。だが、義昭は室町幕府創設時からの伝統の、武田信玄など他の有力大名との複数提携を目指し、やがて信長と対立し、義昭は兵を挙げ、捕らえられ京都から追放され、室町幕府は官僚の奉公衆の伊勢氏など多くは明智光秀に引き継がれ、実質消滅した。だが足利家の家職化した将軍を朝廷は積極的に解官せず[24]、その後の織豊政権は、征夷大将軍・幕府体制とは違う政権樹立をしたので、義昭は豊臣政権の初めに辞官するまで将軍職だった。
江戸時代の将軍
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣政権内での対抗勢力を一掃した徳川家康は、豊臣氏に従属しない独自の公儀としての名目を確立するために、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就く。さらに2年後には嫡男の徳川秀忠に将軍職を譲り、かつての足利氏のように将軍職を家職とし、豊臣家に替わり徳川家が代々の武家の棟梁たることを示した。この徳川政権は後に江戸幕府と呼ばれる。かつての鎌倉幕府・室町幕府と異なり、江戸幕府では幕閣の権臣の力が徳川将軍家を凌駕する事態は起こらなかった。しかし19世紀中頃に開国問題を契機として朝廷の権威と幕閣外の西南雄藩の政治力が高まり、対応して将軍の公儀としての力が失墜し、公武合体や大政委任論で公儀の再定義を試みるも行き詰まる。慶応3年(1867年)、徳川慶喜は征夷大将軍を辞任し、「大政」を朝廷に返上すること(大政奉還)で、徳川家当主が征夷大将軍ではなく「上様」として公議政体の指導者たらんことを狙ったが、直後の王政復古で旧将軍家を締め出した新政権が発足し、また征夷大将軍職を含む従来の官職の廃絶が行われた。
内大臣源朝臣
左中辨藤原朝臣光廣傳宣 權大納言藤原朝臣兼勝宣 奉 勅件人宜爲征夷大將軍者
慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉
(訓読文)
内大臣源朝臣(徳川家康62歳)
左中弁(烏丸)藤原朝臣光広[25]伝へ宣(の)り、権大納言(広橋)藤原朝臣兼勝[26]宣(の)る。 勅を奉(うけたまわ)るに、件(くだん)の人、宜(よろ)しく征夷大将軍と為すべし者(てへり)
慶長八年二月十二日[27] 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮[28]奉(うけたまわ)る。
— 徳川家康征夷大将軍の辞令(官宣旨)、日光東照宮文書
征夷大将軍に関する説とそれ以外の武家政権
源平交代思想と源氏将軍
源頼朝が東国の軍政(地方統治権)という意味に注目し征夷大将軍という官職を望んだという説以外にも、日本史上の武家政権は、平氏(桓武平氏)と源氏(清和源氏)が交代するという源平交代思想や、源氏であることが征夷大将軍に任ぜられる条件であるという源氏将軍説が存在した。しかし実際には、頼朝以降に限っても、摂家将軍や皇族将軍の例があり、清和源氏以外に藤原氏や皇族も就任しており、平氏を自称していた織田信長も天皇によって征夷大将軍に推任されたとされる(三職推任)など、征夷大将軍になれるのは源氏に限られている訳ではない。また征夷大将軍イコール源氏長者のような印象があるが、これは足利義満以降の事である。
豊臣秀吉
豊臣秀吉は近衛前久の猶子となって関白に任ぜられたとされる。秀吉は自ら征夷大将軍就任を断っており[注釈 2][29][30]、また朝廷にとって関白就任の方が征夷大将軍就任よりも遥かに抵抗感が強く、秀吉はむしろ征夷大将軍就任よりも困難である関白就任を実現させている立場である。
なお、織田・豊臣期の征夷大将軍に関しては、当時の人々の間に征夷大将軍は足利家の家職と認識されており、源氏云々とは別の意味で「将軍職は足利家以外にありえない」という概念が存在していたために、京都を追放されて実権を失った足利義昭が征夷大将軍として認められ続け、朝廷も積極的な解任を行われなかったとする見方もある[24]。
征夷大将軍の一覧
- 源頼朝以前については、蝦夷征討使の長官にして、征夷大将軍に準じる性質のものを全て採録した。
歴代 | 名 | 補任 | 解任 | 備 考[注 8] |
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巨勢麻呂 | 和銅2年3月5日 (709年4月19日) | 鎮東将軍 左大弁正四位下 | ||
多治比県守 | 養老4年9月29日 (720年11月3日) | 養老5年4月 (721年5月) | 持節征夷将軍 播磨按察使正四位下 | |
藤原宇合 | 神亀元年4月7日 (724年5月4日) | 神亀2年閏1月 (725年3月) | 持節大将軍 式部卿正四位上 | |
藤原麻呂 | 天平9年1月 (737年2月) | 持節大使 参議従三位兼兵部卿 | ||
藤原継縄 | 宝亀11年3月28日 (780年5月7日) | 征東大使 中納言従三位兼兵部卿 | ||
藤原小黒麻呂 | 宝亀11年9月23日 (780年10月25日) | 天応元年8月 (781年9月) | 持節征東大使 参議正四位下兼右衛士督 | |
大伴家持 | 延暦3年2月24日 (784年3月19日) | 延暦4年8月28日 (785年10月5日) | 持節征東将軍 中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使 → 同左 | |
紀古佐美 | 延暦7年7月6日 (788年8月11日) | 延暦8年9月8日 (789年10月1日) | 征東大将軍(『公卿補任』は征夷大将軍に作る) 参議左大弁正四位下兼春宮大夫 → 同左 | |
大伴弟麻呂 | 延暦10年7月13日 (791年8月17日) | 延暦14年1月29日 (795年2月23日) | 初め征東大使、延暦13年(794年)征夷大将軍として初見 従四位下 → 従三位・勲二等 | |
坂上田村麻呂 | 延暦16年11月5日 (797年11月27日) | 延暦20年10月28日 (801年12月7日) | 陸奥出羽按察使従四位下兼陸奥守 → 大納言正三位 贈従二位 | |
(還任) | 延暦23年1月28日 (804年3月13日) | 大同5年9月10日? (810年10月11日?) | ||
文室綿麻呂 | 弘仁2年4月17日 (811年5月12日) | 征夷将軍 参議正四位上大蔵卿兼陸奥出羽按察使 → 参議従三位 | ||
(還任) | 弘仁4年5月30日 (813年7月1日) | 弘仁7年 (816年) | ||
藤原忠文 | 天慶3年1月19日 (940年2月29日) | 天慶3年5月15日 (940年6月23日) | 征東大将軍 参議正四位下修理大夫兼右衛門督 | |
源義仲 (木曾義仲) | 寿永3年1月10日 (1184年2月23日) | 寿永3年1月20日 (1184年3月4日) | 征東大将軍 従四位下伊予守 | |
鎌倉:1 | 源頼朝 | 建久3年7月12日 (1192年8月21日) | 建久10年1月13日 (1199年2月9日) | 建久5年(1194年)解任の説あり。 正二位前権大納言 → 同左 |
鎌倉:2 | 源頼家 | 建仁2年7月23日 (1202年8月12日) | 建仁3年9月7日 (1203年10月13日) | 従二位左衛門督 → 正二位 |
鎌倉:3 | 源実朝 | 建仁3年9月7日 (1203年10月13日) | 建保7年1月27日 (1219年2月13日) | 従五位下 → 右大臣正二位左近衛大将 |
鎌倉:4 | 藤原頼経 (九条頼経) | 嘉禄2年1月27日 (1226年2月25日) | 寛元2年4月28日 (1244年6月5日) | 摂家将軍、九条道家の子。 正五位下右近衛権少将 → 正二位前権大納言 |
鎌倉:5 | 藤原頼嗣 (九条頼嗣) | 寛元2年4月28日 (1244年6月5日) | 建長4年2月20日 (1252年3月31日) | 摂家将軍、藤原頼経の子。 従五位上右近衛権少将 → 従三位左近衛中将 |
鎌倉:6 | 宗尊親王 | 建長4年4月1日 (1252年5月10日) | 文永3年7月20日 (1266年8月21日) | 宮将軍、後嵯峨天皇の皇子。 三品 → 一品中務卿 |
鎌倉:7 | 惟康親王[改 1] | 文永3年7月24日 (1266年8月25日) | 正応2年9月14日 (1289年9月29日) | 宮将軍、宗尊親王の王子。 従四位下 → 二品 |
鎌倉:8 | 久明親王 | 正応2年10月9日 (1289年10月24日) | 徳治3年8月4日 (1308年8月20日) | 宮将軍、後深草天皇の皇子。 三品 → 一品式部卿 |
鎌倉:9 | 守邦親王 | 徳治3年8月10日 (1308年8月26日) | 正慶2年5月22日 (1333年7月4日) | 宮将軍、久明親王の王子。 不詳 → 二品 |
建武 | 護良親王 | 元弘3年6月13日 (1333年7月25日) | 元弘3年9月 (1333年10月) | 宮将軍、後醍醐天皇の皇子。 二品兵部卿 → 同左 |
建武 | 成良親王 | 建武2年8月1日 (1335年8月19日) | 建武3年2月 (1336年3月) | 宮将軍、後醍醐天皇の皇子。 上野太守四品 → 同左 |
建武 | 足利尊氏[改 2] | 建武2年8月9日 (1335年8月27日) | 建武2年11月26日? (1336年1月9日?) | 征東将軍 中先代の乱討伐に伴う東下を追認する形で補任される。 |
室町:1 | 足利尊氏 | 建武5年8月11日 (1338年9月24日) | 延文3年4月30日 (1358年6月7日) | 正二位権大納言 → 同左 贈従一位太政大臣 |
南朝 | 興良親王 | 延元4年 (1339年) | 宮将軍、護良親王の王子。 二品兵部卿? | |
南朝 | 宗良親王 | 正平7年閏2月6日 (1352年3月22日) | 宮将軍(征東将軍か)、後醍醐天皇の皇子。 一品式部卿 → 同左? | |
室町:2 | 足利義詮 | 延文3年12月8日 (1359年1月7日) | 貞治6年12月7日 (1367年12月28日) | 参議従三位左近衛中将 → 正二位権大納言 贈従一位左大臣 |
室町:3 | 足利義満 | 応安元年12月30日 (1369年2月7日) | 応永元年12月17日 (1395年1月8日) | 従五位下左馬頭 → 准三宮従一位前左大臣 将軍解任後、太政大臣 |
南朝 | (尹良親王) | 元中3年8月8日? (1386年9月2日?) | 宮将軍、宗良親王の王子という。 同時代史料に見えないため、実在が疑問視されている。 | |
室町:4 | 足利義持 | 応永元年12月17日 (1395年1月8日) | 応永30年3月18日 (1423年4月28日) | 正五位下左近衛中将 → 従一位前内大臣 贈太政大臣 |
室町:5 | 足利義量 | 応永30年3月18日 (1423年4月28日) | 応永32年2月27日 (1425年3月17日) | 正五位下右近衛中将 → 参議正四位下右近衛中将 贈従一位左大臣 |
室町:6 | 足利義教[改 3] | 正長2年3月15日 (1429年4月18日) | 嘉吉元年6月24日 (1441年7月12日) | 参議左近衛中将従四位下 → 従一位前左大臣 贈太政大臣 |
室町:7 | 足利義勝 | 嘉吉2年11月17日 (1442年12月19日) | 嘉吉3年7月21日 (1443年8月16日) | 正五位下左近衛中将 → 従四位下左近衛中将 贈左大臣従一位 |
室町:8 | 足利義政[改 4] | 文安6年4月29日 (1449年5月21日) | 文明5年12月19日 (1474年1月7日) | 正五位下左馬頭 → 准三宮従一位前左大臣 贈太政大臣 |
室町:9 | 足利義尚[改 5] | 文明5年12月19日 (1474年1月7日) | 長享3年3月26日 (1489年4月26日) | 従五位下左近衛中将 → 従一位内大臣右近衛大将 贈太政大臣 |
室町:10 | 足利義材[改 6] | 延徳2年7月5日 (1490年7月22日) | 明応2年6月29日 (1493年8月11日) | 従四位下右近衛中将 → 参議右近衛中将従四位下 |
室町:11 | 足利義澄[改 7] | 明応3年12月27日 (1495年1月23日) | 永正5年4月16日 (1508年5月15日) | 正五位下左馬頭 → 参議従三位左近衛中将 贈従一位太政大臣 |
室町:10 (還任) | 足利義稙[改 6] | 永正5年7月1日 (1508年7月28日) | 大永元年12月25日 (1522年1月22日) | 足利義材の還任。 従三位権大納言 → 従二位権大納言 贈従一位太政大臣 |
室町:12 | 足利義晴 | 大永元年12月25日 (1522年1月22日) | 天文15年12月20日 (1547年1月11日) | 正五位下左馬頭 → 従三位権大納言右近衛大将 贈従一位左大臣 |
室町:13 | 足利義輝[改 8] | 天文15年12月20日 (1547年1月11日) | 永禄8年5月19日 (1565年6月17日) | 従四位下左馬頭 → 参議左近衛中将従四位下 贈従一位左大臣 |
室町:14 | 足利義栄[改 9] | 永禄11年2月8日 (1568年3月6日) | 永禄11年9月 (1568年10月) | 従五位下左馬頭 → 同左 |
室町:15 | 足利義昭[改 10] | 永禄11年10月18日 (1568年11月7日) | 天正16年1月13日 (1588年2月9日) | 参議左近衛中将従四位下 → 従三位権大納言 将軍解任後、准三宮 |
江戸:1 | 徳川家康[改 11] | 慶長8年2月12日 (1603年3月24日) | 慶長10年4月16日 (1605年6月2日) | 従一位右大臣 → 従一位前右大臣 将軍解任後、太政大臣。贈正一位東照大権現 |
江戸:2 | 徳川秀忠 | 慶長10年4月16日 (1605年6月2日) | 元和9年7月27日 (1623年8月23日) | 内大臣正二位右近衛大将 → 従一位右大臣右近衛大将 将軍解任後、太政大臣。贈正一位 |
江戸:3 | 徳川家光 | 元和9年7月27日 (1623年8月23日) | 慶安4年4月20日 (1651年6月8日) | 内大臣正二位右近衛大将 → 従一位左大臣右近衛大将 太政大臣宣下固辞。贈太政大臣正一位 |
江戸:4 | 徳川家綱 | 慶安4年7月26日 (1651年9月10日) | 延宝8年5月8日 (1680年6月4日) | 内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位右近衛大将 贈太政大臣正一位 |
江戸:5 | 徳川綱吉 | 延宝8年7月18日 (1680年8月12日) | 宝永6年1月10日 (1709年2月19日) | 内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位右近衛大将 贈太政大臣正一位 |
江戸:6 | 徳川家宣[改 12] | 宝永6年4月2日 (1709年5月11日) | 正徳2年10月14日 (1712年11月12日) | 内大臣正二位右近衛大将 → 同左 贈太政大臣正一位 |
江戸:7 | 徳川家継 | 正徳3年3月4日 (1713年3月29日) | 正徳6年4月30日 (1716年6月19日) | 内大臣正二位右近衛大将 → 同左 贈太政大臣正一位 |
江戸:8 | 徳川吉宗[改 13] | 享保元年7月18日 (1716年9月3日) | 延享2年9月25日 (1745年10月20日) | 内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位 贈太政大臣正一位 |
江戸:9 | 徳川家重 | 延享2年10月7日 (1745年10月31日) | 宝暦10年5月13日 (1760年6月25日) | 内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位 贈太政大臣正一位 |
江戸:10 | 徳川家治 | 宝暦10年7月2日 (1760年8月12日) | 天明6年9月8日 (1786年9月29日) | 内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位右近衛大将 贈太政大臣正一位 |
江戸:11 | 徳川家斉 | 天明7年3月6日 (1787年4月23日) | 天保8年4月2日 (1837年5月6日) | 内大臣正二位右近衛大将 → 従一位太政大臣 贈正一位 |
江戸:12 | 徳川家慶 | 天保8年8月5日 (1837年9月4日) | 嘉永6年6月22日 (1853年7月27日) | 従一位左大臣左近衛大将 → 同左 贈太政大臣正一位 |
江戸:13 | 徳川家定[改 14] | 嘉永6年10月23日 (1853年11月23日) | 安政5年7月6日 (1858年8月14日) | 内大臣正二位右近衛大将 → 内大臣従一位右近衛大将 贈太政大臣正一位 |
江戸:14 | 徳川家茂[改 15] | 安政5年10月25日 (1858年11月30日) | 慶応2年7月20日 (1866年8月29日) | 内大臣正二位右近衛大将 → 従一位右大臣右近衛大将 贈太政大臣正一位 |
江戸:15 | 徳川慶喜[改 16] | 慶応2年12月5日 (1867年1月10日) | 慶応3年12月9日 (1868年1月3日) | 正二位権大納言右近衛大将 → 内大臣正二位右近衛大将 明治維新後、従一位公爵貴族院議員勲一等旭日大綬章 贈勲一等旭日桐花大綬章 |
贈征夷大将軍 (没後に征夷大将軍を追贈された人物) | ||||
徳川綱重 | 宝永7年8月23日(1710年9月16日)追贈 | 甲斐甲府藩主、江戸幕府6代徳川家宣の父。 参議正三位、贈権中納言従三位、のち贈太政大臣正一位 |
- 改名
^ 惟康王→源惟康→惟康親王
^ 高氏→尊氏
^ 義宣→義教
^ 義成→義政
^ 義尚→義煕
- ^ ab義材→義尹→義稙
^ 義高→義遐→義澄
^ 義藤→義輝
^ 義親→義栄
^ 義秋→義昭
^ 松平元信→松平元康→徳川家康
^ 綱豊→家宣
^ 松平頼方→徳川吉宗
^ 家祥→家定
^ 慶福→家茂
^ 昭致→慶喜
脚注
注釈
^ 同時に佐伯石湯が征越後蝦夷将軍に任じられた。
^ 養老4年9月28日に陸奥按察使の上毛野広人が殺害され、翌29日に多治比縣守が持節征夷将軍に任命された。
^ 紀古佐美の場合、延暦7年7月6日の任命の際は、『続日本紀』では「征東大使」に、『日本紀略』では「征東将軍」になっている。
^ 将軍の名称は、記録上あまり統一されておらず、例えば藤原宇合の場合は、任命時は「持節将軍」であり、帰京時は「征夷持節大使」となっている。
^ 「征東大使」として、他に藤原継縄や藤原小黒麻呂などの任命例もある。
^ 他の征東・征夷の将軍は、大の付く付かないにかかわらず、天皇より節刀を授かり全権を委任されていたが、文室綿麻呂に限っては節刀を授かっていない。
^ 『山槐記』(中山忠親の日記)と『荒涼記』(藤原資季の日記)から除目・諸行事・諸事について抄出したもの。『山槐記』からの抜粋に藤原定能の記事が多く、資季は定能の孫であることから、編者は定能・資季の子孫と察せられる。
^ 官位は、将軍補任時と解任時。及び没後の贈官位。
^ 建久3(1192)年の征夷大将軍就任で下文が「将軍家政所下文」に変わったが、建久5年10月以降に再度、文書の形式が「前右大将家政所下文」に戻る。これを頼朝が征夷大将軍職を辞官の意思表示をしたための変更と解釈する説。ただし高橋富雄は「前右大将」のほうが権威があるので戻したので、辞任なら終官が最も重んじられるのに「前将軍」を使用していないと、辞任否定説[5]。いっぽう受理されたか否かは別問題で、これも論争があり、石井良助は、『尊卑分脈』の賴朝の建久3年(1192年)7月将軍就任記述の後に、同5年10月10日条に「辞將軍」とあり、賴朝が実際に将軍を辞任した、との説である。
^ 『多聞院日記』にある、天正12年10月頃朝廷から将軍になるよう勧められたが断ったという記述による。
出典
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- ^ ab下村周太郎 2018, pp. 20-40.
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^ 北村(2005年)、137-194頁。
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^ 25歳
^ 46歳
^ 1603年3月24日
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^ 堀新『偽りの秀吉像を打ち壊す』第1章「豊臣秀吉は征夷大将軍になりたかったのか?」柏書房 2013年、鈴木眞哉『NHK歴史番組を斬る!』洋泉社 歴史新書y 2012年 p.154-155
参考文献
- 高橋富雄 『征夷大将軍 もう一つの国家主権』 中央公論新社〈中公新書 833〉、1987年3月。ISBN 978-4-12-100833-6。
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- 今谷明 『天皇と天下人』 新人物往来社、1993年。ISBN 4404020732。
- 網野善彦 『日本社会の歴史〈中〉』 岩波書店〈岩波新書 833〉、1997年。ISBN 978-4-00-430501-9。
- 川合(2009年): 川合康 『源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館〈日本中世の歴史 3〉、2009年11月。ISBN 978-4-642-06403-3。
- 北村(2005年): 北村拓 「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」『中世の史料と制度』 今江廣道編、続群書類従完成会、2005年。ISBN 978-4-7971-0743-2。
- 木下(2014年): 木下昌規 『戦国期足利将軍家の権力構造』 岩田書院〈中世史研究叢書 27〉、2014年10月。ISBN 978-4-87294-875-2。
- 櫻井(2004年): 櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって-『三槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介-」、『明月記研究』2004年2月、 ISBN 978-4797171082。
- 下橋述(1979年): 下橋敬長述 『幕末の宮廷』 羽倉敬尚注、平凡社〈東洋文庫 353〉、1979年4月。ISBN 978-4-582-80353-2。
- シロニー(2003年): シロニー, ベン=アミー 『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来』 大谷堅志郎訳、講談社、2003年1月。ISBN 978-4-06-211675-6。
- 西田(2009年): 西田友広 「本巻の政治情勢」『現代語訳吾妻鏡 5 征夷大将軍 建久元年 (1190) - 建久三年 (1192)』 五味文彦・本郷和人・編、吉川弘文館、2009年3月。ISBN 978-4-642-02712-0。
- 堀(2010年): 堀新 『天下統一から鎖国へ』 吉川弘文館〈日本中世の歴史 7〉、2010年1月。ISBN 978-4-642-06407-1。
- 山口(1994年): 山口修 『天皇 最長不倒の帝王』 PHP研究所、1994年12月。ISBN 978-4-569-54542-4。
- 下村周太郎 「そもそも、源頼朝は征夷大将軍を望んでいなかった?」『征夷大将軍の研究最前線』 日本史史料研究会(監修)、関口崇史(編集)、洋泉社〈歴史新書y〉、2018年4月。ISBN 978-4-800314581。
- 山本幸司 『日本の歴史9 頼朝の天下草創』 講談社〈講談社学術文庫〉、2009年。ISBN 978-4062919098。
- 近藤成一 『日本中世史2 鎌倉幕府と朝廷』 岩波書店〈岩波新書〉、2016年。ISBN 978-4004315803。
関連項目
外交称号
- 日本国王
- 日本国大君
- 征西大将軍
- 征東大将軍
- 鎮狄将軍
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