アンナ・ヤロスラヴナ





































アンヌ・ド・キエヴ
Anne de Kiev

フランス王妃

Statue-Senlis Anne de Kiev.JPG

サンリスにあるアンヌ・ド・キエヴ像

出生
1024/32年

死去
1075年

配偶者
フランス王アンリ1世
 
ヴァロワ伯ラウール4世
子女
フィリップ1世
ユーグ1世
父親
キエフ大公ヤロスラフ1世
母親
インゲガード
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アンナ・ヤロスラヴナ(ウクライナ語:Анна Ярославна)またはアンヌ・ド・キエヴ(フランス語:Anne de Kiev, 1024/32年 - 1075年)は、フランス王アンリ1世の2度目の王妃。キエフ大公ヤロスラフ1世と妻インゲガードの娘。



生涯


アンリは婚約者であったマティルデ・フォン・フランケン(神聖ローマ皇帝コンラート2世の娘)、その姪であった先の妃マティルド・ド・フリーズを亡くした後、ヨーロッパの各王家・貴族の中に王妃にふさわしい姫はいないか探したが、なかなか見つからなかった。当時、6親等以内の血族婚は禁止されていたが、長年の政略結婚の繰り返しのせいで、血のつながりのない結婚年齢の女性を捜す方が難しかった。


アンリはキエフ大公国まで使節を派遣し、使節は公女アンナ(フランス語ではアンヌまたはアニェスとも呼ばれた)を連れて帰国した。聞けば、ヤロスラフ公の母は東ローマ帝国の皇女だという(これには現在異論がある)。この結婚で、かつてのローマ皇帝の末裔の縁者になり、カペー家の王座に権威がもたらされるとアンリは考えた。全くフランス語は話せないが、ブロンドの美しい女性だったアンナに、アンリはたちまち心を動かされ、1051年5月19日にランス大聖堂で結婚した。


2人の間には3人の男子と1女が生まれたが、育ったのは2男である。



  • フィリップ(1052年 - 1108年) - のちのフィリップ1世

  • ロベール - 10歳で死去


  • ユーグ(1057年 - 1101年) - ユーグ・ル・グラン(Hugues le Grand)あるいはユーグ・マニュス(Hugues Magnus)と呼ばれた。ヴェルマンドワ伯の女子相続人と結婚、のちにクレピ伯となったが、1101年の十字軍出征中にタルススで死亡した。

  • エンマ - 早世


1060年にアンリが死ぬと、まだ7歳の幼年だったフィリップを補佐して、アンヌは摂政を務めた。王妃が摂政となるのはフランスで初めてだった。後任の摂政はフランドル伯ボードゥアン5世だった。アンヌはフランス語こそ流暢ではなかったが、当時の女性には珍しく読み書きができたため、その地位が務まったものと考えられる。


夫を失って間もなく、アンヌはヴァロワ伯ラウール4世と愛し合うようになり、それを隠そうともしなかった。ラウールには妻がいたが、彼は妻と離縁し、1062年にアンヌと結婚した[1]。この結婚はヴァロワ伯の政治的野心の現れであると貴族は警戒し、また血族婚であったと結婚の無効を言い立てられた妻は、ローマ教皇庁に不義の告発をした。教皇アレクサンデル2世は、アンヌとラウールを破門した。


宮廷から遠ざけられた2人は、それでも睦まじく暮らした。1074年9月にラウールが亡くなると、アンヌは宮廷に戻った。フィリップ1世は母を許して迎えた。1075年にアンヌは亡くなり、ヴィリエールの僧院に葬られた。



脚注





  1. ^ ペルヌー、p. 293




参考文献


  • レジーヌ・ペルヌー 『中世を生きぬく女たち』 白水社、1988年







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