村田経芳
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村田 経芳 | |
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生誕 | 1838年7月30日 薩摩国鹿児島城下山之口馬場町 |
死没 | 1921年2月9日 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
最終階級 | 陸軍少将 |
墓所 | 谷中霊園 |
村田 経芳(むらた つねよし、天保9年6月10日(1838年7月30日) - 大正10年(1921年)2月9日)は、薩摩藩藩士、日本陸軍軍人。階級は陸軍少将。栄典は従二位勲一等男爵。通称は勇右衛門。村田銃の開発者として知られる。
目次
1 経歴
2 逸話
3 年譜
4 栄典
5 親族
6 村田経芳を題材とした作品
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
経歴
薩摩藩士・村田蘭斎(経徳)の長男として生れる。藩随一の射撃の名手として知られ、戊辰戦争では外城一番隊長として従軍し、鳥羽・伏見の戦いなど東北各地を転戦した。
1871年に御親兵として上京し、陸軍歩兵大尉に任官する。1875年、射撃技術と兵器研究のため、フランスなどヨーロッパに派遣される。1877年、陸軍少佐。陸軍戸山学校教官として銃の改良や射的技術の向上にあたり、1880年には最初の国産銃・十三年式村田銃を開発した。
陸軍省東京砲兵工廠御用掛、貴族院議員を歴任した。1890年に陸軍少将に昇進して予備役編入となる。1896年6月5日、戊辰戦争・西南戦争の軍功により男爵を叙爵[1]。
1921年、肝臓病のため死去。享年83。墓地は、東京都台東区の谷中霊園。
逸話
- 射的に長じ、欧州各地の射撃競技にも出場して優勝したと伝えられる[要出典]。
- 村田の銃器開発者としての後継者は有坂成章。
- 明治中期、大磯に別荘を所有した。
年譜
天保9年6月10日:鹿児島城下山之口馬場町で出生
明治6年3月31日:陸軍省第三局第一課長- 明治14年10月24日:東京砲兵工廠御用掛
- 明治15年12月29日:勲三等(村田銃発明の功)
- 明治16年2月6日:陸軍大佐
- 明治23年9月29日:貴族院議員[2]
- 明治23年10月4日:陸軍少将・予備役
大正10年2月9日:没
栄典
1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等瑞宝章[3]
1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[4]
- 外国勲章佩用允許
1887年(明治20年)12月23日 - オスマン帝国美治慈恵第三等勲章[5]
親族
- 長男 村田綱太郎(男爵)[6]
- 孫 村田保定(貴族院男爵議員、安場末喜三男、綱太郎養嗣子)[6]
- 曾孫 村田経和(独文学者、学習院大学名誉教授、保定長男)
村田経芳を題材とした作品
東郷隆『狙うて候 銃豪村田経芳の生涯』実業之日本社、2003年。ISBN 4408534439
兵頭二十八(原作・解説)・小松直之(劇画)『イッテイ 13年式村田歩兵銃の創製』四谷ラウンド、1998年。ISBN 4946515232
脚注
^ 『官報』第3880号、明治29年6月6日。
^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
- ^ ab『平成新修旧華族家系大成』下巻、716頁。
参考文献
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
関連項目
- 太刀流
日本の爵位 | ||
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先代: 叙爵 | 男爵 村田(経芳)家初代 1896年 - 1921年 | 次代: 村田綱太郎 |