山階宮武彦王
山階宮武彦王 | |
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続柄 | 山階宮菊麿王第一王子 |
身位 | 王 → 皇籍離脱 |
敬称 | 殿下 → 皇籍離脱 |
出生 | 1898年2月13日 日本・東京市麹町区富士見町 (現:東京都千代田区)山階宮邸 |
死去 | (1987-08-10) 1987年8月10日(89歳没) 日本・神奈川県藤沢市 藤沢病院 |
配偶者 | 佐紀子女王 |
父親 | 山階宮菊麿王 |
母親 | 菊麿王妃範子 |
役職 | 海軍少佐 |
山階宮武彦王(やましなのみや たけひこおう、1898年(明治31年)2月13日 - 1987年(昭和62年)8月10日)は、日本の旧皇族。山階宮菊麿王と同妃範子(先妻)の第一王子。海軍少佐。海軍航空隊に所属し、空の宮様と呼ばれた。
目次
1 経歴
2 血縁
3 栄典
4 脚注
5 外部リンク
経歴
1908年(明治41年)、父菊麿王の薨去を受け、山階宮を継承した。1918年(大正7年)11月には海軍兵学校(46期)を卒業。その後、貴族院議員となり、1946年(昭和21年)5月23日[1]まで議員であった。また皇族として初めて海軍航空隊に所属し、自邸で操縦訓練を行うほどの傾倒振りだった。1925年(大正14年)3月には民間航空振興のため、練習費を徴収しない飛行機搭乗者養成機関として東京府下の立川陸軍飛行場の一部に御国航空練習所を建立したが、武彦王の病が進行したことにより翌年7月5日、飛行士7名養成の偉業を残して閉鎖された。
1922年(大正11年)に賀陽宮邦憲王の王女佐紀子女王と結婚したが、翌1923年(大正12年)の関東大震災のため山階宮家の鎌倉別邸は倒壊し、初子懐妊中の佐紀子妃が薨去した。その結果、武彦王は精神を病み、当時東京九段にあった山階宮邸には開かずの間ができたと噂された。甥の筑波常治は「ぼくたちは、その伯父を、ついぞ見たことがなかった。数人の近習が外部との連絡をしているだけで、それ以外のだれにも会いたがらず、ぼくたちは本家に行ったとき、離れ屋敷にちかよることさえ厳禁されていた。ぼくたちが一寸でもそっちへゆきかけると、ふだんはやさしい本家の女中たちが、たちまち血相をかえて、そんなことをしたら、どんなことになるかわからない、と押しとどめる。話にきくだけの『こわい伯父様』が住んでいる、垣根にかこまれた離れの屋根を、ぼくは恐ろしい猛獣でもいるかのような気持で、眺めたものである」と回想している(『破約の時代』p.32)。1932年(昭和7年)には予備役に編入。
1947年(昭和22年)、他の宮家とともに皇籍を離脱して山階武彦を名乗り、公職追放となる[2]。その後も入退院を繰り返し、晩年は東京都世田谷区奥沢に移住した。1987年(昭和62年)8月10日、老衰のため神奈川県藤沢市の医療法人社団清心会藤沢病院で死去[3]。
血縁
- 父:山階宮菊麿王
- 母:実母:範子、継母:常子
- 兄弟:(同母)武彦王 - 芳麿王 - 安子女王 - (異母)藤麿王 - 萩麿王 - 茂麿王
- 妻:佐紀子女王
栄典
1919年(大正8年)8月1日 - 海軍少尉
- 1919年(大正8年)8月6日 - 勲一等旭日桐花大綬章
1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[4]
脚注
^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
^ 『朝日新聞』1947年10月17日二面。
^ 『朝日新聞』1987年8月10日夕刊
^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
外部リンク
- 『親王・諸王略傳』武[武彦]
- 山階宮家御家族の写真アルバム
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