サウード家
































サウード家
آل سعود

王朝

Emblem of Saudi Arabia.svg
1950年に制定されたサウジアラビアの国章


サウジアラビアの旗 サウジアラビア
主家
バヌー・ハニーファ一門
称号

  • サウジアラビア国王

  • サウジアラビア皇太子

  • 二聖都の守護者

  • ナジュドのスルタン


  • ナジュド及びヒジャーズ王国国王


  • ナジュド及びハッサ王国首長


創設
1744年
家祖
ムハンマド・イブン=サウード
現当主
サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ


サウード家آل سعودĀl Saʿūd、英語: House of Saud)は、サウジアラビアの王家。




目次






  • 1 名称


  • 2 歴史


    • 2.1 第一次サウード王国


    • 2.2 オスマン・サウジ戦争


    • 2.3 第二次サウード王国


    • 2.4 ナジュド及びハッサ王国


    • 2.5 ナジュド・スルタン国


    • 2.6 ナジュド及びヒジャーズ王国


    • 2.7 サウジアラビア




  • 3 関連項目





名称


サウジアラビアの英語名に含まれる Saudi、アラビア語名に含まれる السعوديةal-Suʿūdīya は、いずれも「サウード家の」という意味である。



歴史




第一次サウード王国


元来、サウード家はアラブ人のスンナ派のアナイザ族(英語版)に属するアラビア半島中部のディルイーヤの支配者だった。18世紀中頃、ムハンマド・イブン=サウード(英語版)(在位: 1744年 - 1765年)がイスラームの純化を唱えるムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブと盟約を結んで、ワッハーブ主義の保護者となる代わりにワッハーブ派勢力の世俗支配者としての正統性を認められて、勢力を拡大した。ムハンマドの興した第一次サウード王国は、マッカ(メッカ)・マディーナ(メディナ)を征服し、19世紀初頭までにアラビア半島の大部分を支配するまでに成長した。



オスマン・サウジ戦争


オスマン・サウジ戦争(1811年 - 1818年)ではワッハーブ主義の拡大を恐れたオスマン帝国とそのエジプトのen:Egypt Eyalet(ムハンマド・アリー朝)太守ムハンマド・アリーの派遣した討伐軍により首都ディルイーヤが攻略され、崩壊した。



第二次サウード王国


その後、トゥルキー・ビン・アブドゥッラー(英語版)がリヤドに移って1824年に第二次サウード王国を復興したがナジュド中南部の小勢力に留まり、Royal Civil Warとも呼ばれる1891年1月24日のen:Battle of Mulaydaではナジュド北部の支配者ラシード家(英語版)によって首都を奪われ、アブドゥッラフマーン・ビン・ファイサル・アール=サウード(英語版)がクウェートに亡命し、ジャバル・シャンマル王国がナジュドを支配した。



ナジュド及びハッサ王国


1902年のリヤドの戦い(英語版)に至ってアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードがリヤドを奪還してサウード王国を復興した(ナジュド及びハッサ王国)。その後、en:Battle of Dilamとサウード・ラシード戦争(英語版)(en:Battle of Unaizah (1904)、en:Battle of Bekeriyah (1904)、en:Battle of Shinanah (1904)、en:Battle of Rawdat Muhanna (1906)、en:Battle of Tarafiyah (1907))が続いた。


1915年、en:Battle of Jarrab。en:Al-Khurma dispute(1918年 - 1919年)。クウェート・ナジュド国境戦争(英語版)(1919年 - 1920年)。



ナジュド・スルタン国


1921年にはラシード家を滅ぼしてナジュド・スルタン国が成立した(en:Conquest of Ha'il)。en:Ikhwan raids on Transjordan(1922年 - 1924年)。



ナジュド及びヒジャーズ王国


ヒジャーズからハーシム家のフサインのヒジャーズ王国勢力を駆逐し(en:Saudi conquest of Hejaz)、1926年には現サウジアラビアの版図を征服(ナジュド及びヒジャーズ王国)。en:Ikhwan Revolt(1927年 - 1930年)。en:Ikhwan raid on Busayya、en:Battle of Sabilla、en:Battle of Jabal Shammar (1929)。



サウジアラビア



1932年、アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードが勅令によりサウジアラビアの建国を宣言、初代国王に就任した。1934年、サウジ・イエメン戦争、en:Idrisid Emirate of Asirを併合。


一夫多妻制のため、初代国王アブドゥルアズィーズには、数は不確定ながら50人~200人の子供がいるといわれ、王位継承権を持つ第2世代の王子は1900年生まれから1947年生まれまで36人を数えた。第2代国王サウード、第3代国王ファイサル、第4代国王ハーリド、第5代国王ファハド、第6代国王アブドゥッラー、第7代国王サルマーンのいずれもこの第2世代の王子であり、異母兄弟若しくは同母兄弟が年長順に王位継承を続けてきた。1975年には第3代国王ファイサルが甥のファイサル・ビン・ムサーイド(英語版)王子に暗殺された。


1992年に制定された基本法により、サウジアラビア国王は初代国王アブドゥルアズィーズの男系の子孫であることが定められた。王族はワッハーブ派のムスリムとしか結婚が許されないため、海外の王侯貴族との政略結婚などはあまり行われていない。


サウード家はサウジアラビアにおいて、ワッハーブ主義の保護者として正統性から絶大な地位を持ち、安定した政権を保ちつづけているが、第5代国王ファハドの即位以来、「スデイリー・セブン」と呼ばれる国内の有力豪族スデイリー部族の母を持つ第5代国王ファハドの同母兄弟が中央政界で力を持っており、異母弟である第6代国王アブドゥッラーなどその他の王族と微妙な関係にあるとされた。


第3世代となる初代国王の孫の世代は男性だけでも254人が公式に確認されており、王位継承問題が深刻化すると見られていたが、2015年に第7代国王サルマーンが、ナーイフ元皇太子の息子のムハンマド・ビン・ナーイフを王位継承順第2位となる副皇太子に就任させ、更に同年に王位継承順第1位の皇太子に昇格させたことによって、初めて第3世代が王位継承者に挙がることとなった。これにより第3世代への王位継承問題に道筋がつけられた。


なお、2009年時点までに第6世代まで誕生している。一夫多妻制により鼠算式に王族が増えていった結果、第6世代まで含めたサウード王家の総数は一万人を超えるとも言われており、単純に総人口で割ると国民2700人前後に1人の割合で王族が居ることになる。



関連項目


  • アル=ワリード・ビン・タラール



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