ドイツ連邦軍
ドイツ連邦軍 Bundeswehr | |
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鉄十字(ドイツ連邦軍主権紋章) | |
創設 | 1955年11月12日 |
再組織 | 1990年10月2日 |
本部 | ボン、ベルリン、ポツダム |
指揮官 | |
最高司令官 | 国防大臣 ウルズラ・フォン・デア・ライエン(平時) 首相 アンゲラ・メルケル(戦時) |
連邦国防大臣 | ウルズラ・フォン・デア・ライエン |
連邦軍総監 | フォルカー・ヴィーカー |
総人員 | |
兵役適齢 | 17 |
徴兵制度 | 無し (2011年7月4日中止) |
適用年齢 | 17-49 |
-適齢総数 (2009) | 男性 19,594,118、年齢 17-49 女性 15,747,493、年齢 17-49 |
-年間適齢 到達人数 (2009) | 445,048 |
現総人員 | 約18万人[1] |
財政 | |
予算 | 311億ユーロ (2009年度) |
軍費/GDP | 1.5% |
関連項目 | |
歴史 | ドイツ軍 |
ドイツ連邦軍(ドイツれんぽうぐん、独: Bundeswehr ブンデスヴェーア)は、ドイツ連邦共和国の陸軍、海軍、空軍および戦力基盤軍、救護業務軍の総体を指す。
目次
1 構成
1.1 軍・部隊
1.2 徴兵制
1.3 人員
2 歴史
2.1 冷戦期(1955年-1990年)
2.2 ドイツ再統一後
3 任務
4 伝統
5 脚注
6 文献
7 関連項目
8 外部リンク
構成
軍・部隊
ドイツ連邦共和国基本法により最高指揮権は平時にあっては国防大臣(第65a条)、戦時は首相に移る(第115b条)。
陸軍(独:Heer)
海軍(独:Marine)
空軍(独:Luftwaffe)
戦力基盤軍(統合後方支援軍、独:Streitkräftebasis、2000年の連邦軍改革で3軍に共通する指揮・兵站・通信・憲兵・教育などを統合)
救護業務軍(統合医療部隊、独:Zentraler Sanitätsdienst、2000年の連邦軍改革で3軍の医療部隊を統合して、共通の医療部隊を形成)
徴兵制
ドイツは長年徴兵制度があり、満18歳以上の男子には兵役義務があった。連邦軍発足当初は、志願兵制を導入していたが、第二次大戦の後遺症で国民の反軍感情、反戦意識は根強く、志願制に頼っていては人員を確保できなかったからである。[2]。徴兵制の施行にあたっては、第二次世界大戦の歴史的経緯を踏まえて、良心的兵役拒否も申請することが認められた。この場合には、代替義務 (Zivildienst)として病院、老人介護施設等の社会福祉施設で兵役義務と同じ期間だけ社会貢献することになっていた。
2011年7月4日、ドイツは正式に徴兵制の「中止」を発表し、2014年までに職業軍人と志願兵による部隊に再編する予定となっている。今後の安全保障環境の変化によっては復活させる可能性にも含みを残しているが、事実上の廃止と考えられている[3]。しかし、徴兵制が廃止されると、徴兵の代替義務も無くなることになり、これまで若者の代替義務によって成り立ってきたドイツの社会福祉政策は大きな転換を迫られることになる可能性がある[4]。
人員
1975年以来ドイツ連邦軍内に女性軍人が配属されているが、当初は医療部隊への配属にとどまっていた。ある女性軍人はこれを不服として裁判に訴え、欧州司法裁判所は2000年、女性がこれまで以上により幅広い役割を軍隊内で果たすよう認めるべきであるという判決を下した。結果2001年より、女性軍人は連邦軍内のあらゆる任務に制限なく就けるようになった。連邦軍には1万3千人の女性が平和維持活動や他の作戦行動などあらゆる軍務についており、その他多くの女性が予備役となっている。
一方、女性は徴兵制の対象にはなっていなかったためにある男性が「男性に対してのみ兵役を強制することは男性差別であり、憲法違反だ」として訴訟を起こしたが、憲法裁判所は男性に対してのみの徴兵制は合憲だという判決を出した。また、ある男性が、たまたま運悪く、徴兵の対象者に選ばれて出頭を求められた際に、徴兵制自体を不服として裁判を起こした例では、「現在のドイツではごく一部の男子のみが対象になっており、徴兵制の精神である、あらゆる国民が平等に国防の責任を負担するという機能は失われており、徴兵に服する必要は無い」という判例も出ており、その結果、徴兵の対象者に選ばれても自由に拒否できる状態になっていた。
歴史
冷戦期(1955年-1990年)
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)は1955年に再軍備を開始した。
第二次世界大戦に敗れたドイツは完全に武装解除され、連合国の命令でいかなる種類の再軍備計画も禁止されていた。小規模な国境警備隊や機雷の掃海部隊はあったが、国軍は設置されず、占領下ドイツの国防には連合国のうち4カ国、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・ソビエト連邦の各軍が責任を持っていた。
しかし、朝鮮戦争後の西側諸国と東側諸国の間の緊張の高まりによってドイツ非武装化政策に変化が生じた。ソ連の下でドイツ民主共和国(東ドイツ)がすでに密かに再軍備を行ったことで、米英仏も西ドイツの再軍備の検討を解禁した。1950年に新しい西ドイツ軍創設のための基本構想の策定が始まり、コンラート・アデナウアー初代連邦首相はラインラント=プファルツ州のヒンメロート修道院(en)にホイジンガー、シュパイデルなど旧ドイツ国防軍の将軍15名を集め、再軍備の技術的な可能性を検討させた。専門委員会の検討の結果、西ドイツの新しい軍の基本構想(ヒンメロート覚書)が固まった。これに基づき、国会議員テオドール・ブランクが新国軍の設置準備を進めた。これゆえ連邦国防省の前身を「ブランク局(Amt Blank)」と呼ぶ。しかし、旧軍出身の15名の専門委員に新国軍の設置準備に参画することは求めなかった。またナチスに一方的に「汚された」とされた旧国防軍の伝統との「決別」を明確に示した。そのため西ドイツ時代から現在のドイツ連邦軍にはアメリカ合衆国の影響が強く、軍服や階級についてもプロイセン・帝政ドイツ色はわずかしか残っていない。
旧国防軍の装甲兵大将であった自由民主党のリベラル派政治家ハッソ・フォン・マントイフェルが新しい国軍に「Bundeswehr」(連邦軍)の名を提案し、ドイツ連邦議会において承認された。ナチス・ドイツ時代は「Wehrmacht」(国防軍)といわれていた。初代連邦軍総監には国防軍時代に陸軍総司令部作戦部長であったホイジンガー将軍が就任した。
米英仏の3カ国間にはドイツ再軍備に関して意見の相違もあった。特に、国境を接するフランスは19世紀以降の独仏関係史も鑑み、西ドイツの再武装に対して難色を示す見解が大勢を占めていた。フランスは、アメリカの進める西ドイツ再武装とNATO加盟案に対し、超国家的な汎ヨーロッパ軍を構成する欧州防衛共同体構想を打ち出し、実際に1952年に西ドイツを含む西欧各国間で調印もされた。しかし、自身の主権も制限されることをよしとしないド・ゴール主義者たちの反対により、1954年に当のフランス議会で否決され、批准には至らなかった。その結果、フランスも西ドイツの単独再軍備とNATO加盟を認めた。
連邦軍はゲルハルト・フォン・シャルンホルストの200回目の誕生日に当たる1955年11月12日に正式に誕生した。ドイツ連邦共和国基本法の修正後、西ドイツは1955年にNATOのメンバーとなり、1956年には18歳から45歳までの全男子国民に兵役義務が導入された。
冷戦の間、ドイツ連邦軍はNATOの中央ヨーロッパ防衛の主力となり、三軍あわせて49万5千人の兵力と17万人の文民職員という大戦力を抱えていた。陸軍は12個師団からなる3つの軍団で構成され、戦車と装甲兵員輸送車で重武装していた。空軍は戦術戦闘機多数を所有し、NATOの統合防空軍(NATINAD)の一部をなしていた。海軍はバルト海防衛を受け持ち、北海の増援軍や補給船の護衛を任され、ソ連のバルト艦隊の封じ込めを行った。
ドイツ再統一後
1990年のドイツ再統一後、東西ドイツ政府と米英仏ソ連合国との「ドイツに関する最終規定条約」(別名「2プラス4条約」)により、ドイツ連邦軍は37万人まで削減された。かつての東ドイツ軍である国家人民軍は解散し、その兵員の一部と軍備のごく一部が連邦軍に引き取られた。
約5万人の国家人民軍兵士は1990年10月2日に連邦軍に吸収された。増えた5万人分は、徴兵されている兵士や短期の志願兵が兵役期間の満了を迎えることで速やかに削減された。国家人民軍にいた多くの将校(将軍や提督を除く)は2年以内に限定した雇用契約を交わして日常の任務を続けた。連邦軍に移った兵士は個人の適性と経験によって新規の雇用契約と新規の階級を受け取ったが、多くの軍人は国家人民軍時代より低い階級を受け入れている。
しかしながら、一般的に「軍隊の統合(Armee der Einheit)」のスローガンの下で進められているドイツ国軍の統一過程は大きな成功とされ、ドイツ社会の他の分野における統一の手本と受けとめられている。
国境線の消滅と合邦によって不要となった連邦軍(旧西ドイツ→統一ドイツ軍)や国家人民軍(旧東ドイツ軍)の機材が廃棄された。装甲車両や戦闘機は国際的な監視の下で解体されている。艦船は船舶解体でスクラップにされるか、バルト三国やインドネシアなどに売却された。インドネシア共和国国軍は国家人民軍のさまざまな艦船39隻を受け取っている。また、国家人民軍の装甲兵員輸送車がトルコ軍に売られ、トルコ東南部(独立を目指すクルド人との紛争地帯)で運用されていることが議論の的になったこともある。
国連の平和維持活動・人道援助活動やNATOの域外軍事行動へのドイツ連邦軍の参加、ドイツの多国籍軍参加に関連し、ドイツ国外での作戦行動や援助活動が増加したことを受け、2000年には大規模な機構改革が行われた。指揮・兵站・通信・憲兵など、各軍の支援任務および医療任務を軍中央に統合し、戦力基盤軍と救護業務軍が誕生した。特に、多くの国の軍隊では医療活動は各軍が個別に行っているため、医療の統合は前例の少ないものである。
ドイツ連邦軍は、その国家の人口と経済力を反映し、NATO内のみならず世界でも有数の先進的な技術力や確固たる補給力を誇っているが、冷戦終結後の西側諸国の例に漏れず、統一ドイツの国防予算は削減傾向にある。国防費のGDP比は1%台前半で推移しており、日本やスペインおよびカナダよりは高いが、オランダなどと並んでNATOでも低めである[5]。アメリカ合衆国とニュークリア・シェアリングを行っているため、自国領土が核戦争の舞台になるリスクと引き換えに、核開発に予算をかけることなく核抑止を可能としている。
任務
ドイツ連邦軍はNATO軍の一員としてヨーロッパ防衛義務を負う。連邦軍の任務は基本法の87条aに規定されており、活動が許されるのは「防衛」のみとされている。
しかし1990年以降、国際情勢が東西対立から全体的な不安定状態へと変化しており、ドイツ軍はその対応が問われることになった。特に1991年の湾岸戦争で、多国籍軍に資金面のみで参加し人的参加しなかったことは国外から批判を浴びた。1994年の連邦憲法裁判所での判例で、基本法の「防衛」とはドイツの国境を守るだけでなく、危機への対応や紛争防止など、世界中のどこであれ広い意味でのドイツの安全を守るために必要な行動を指すと解釈が拡大され、さらにドイツ連邦議会の事前承認によりNATO域外への派兵が認められた。かつての連邦国防相、ペーター・シュトルック(Peter Struck)の解釈によれば、ドイツを守るためにはアフガニスタンのヒンドゥークシュ山脈であっても軍を出すことは必要となる。
こうしたことから、1990年代以降、ドイツ連邦軍はNATOや欧州連合、国際連合の一員としてドイツ国外でPKOなどの作戦を行うことが増えている。例えばカンボジアのUNTAC、ボスニア・ヘルツェゴビナの平和安定化部隊 (SFOR)・欧州連合部隊 (EUFOR)、コソボのKFOR、アフガニスタンの国際治安支援部隊 (ISAF)、エチオピア、エリトリア、ソマリア、スーダン、コンゴ民主共和国、レバノンなどの軍事作戦や平和維持活動に派兵している。一方で犠牲者の数も、アフガニスタンのISAFでの55人、ボスニア・ヘルツェゴビナのSFOR/EUFORでの19人、コソボのKFORでの27人などと増大しており[6]、1998年から2014年までの間に海外派遣兵士の自殺も22件に上った[6]。その他、多くの負傷者やPTSD[7]に苦しむ元兵士もいる。
伝統
かつてドイツには、ヴァイマル共和政下のライヒスヴェーアやナチス・ドイツ時代のヴェーアマハトなどの軍隊があった(ドイツ軍を参照)。しかし、ドイツ連邦軍は自らをこれらの後継組織とはみなしておらず、プロイセン軍など以前のあらゆるドイツの軍隊の伝統も引き継いでいない[8]。現在のドイツ連邦軍の公式な「伝統」は、大きく次の3つに基づいている。
19世紀初頭の軍隊の改革者(ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト、アウグスト・フォン・グナイゼナウ、カール・フォン・クラウゼヴィッツら)
アドルフ・ヒトラーの支配に対し暗殺計画などで抵抗した軍人たち(クラウス・フォン・シュタウフェンベルク、ヘニング・フォン・トレスコウら)
1955年の創設以来の独自の伝統
ドイツ連邦軍の国籍マーク(主権紋章)としては、ナチス時代の旧国防軍が採用していた幅が同じのバルケンクロイツではなく、黒十字の先端が末広がりになっているドイツの伝統的なタッツェンクロイツを採用した。黒十字、鉄十字も参照。
第二次大戦で「人道に反する犯罪行為」を拒否しえなかった理由として挙げられた、上官の命令に絶対服従(忠誠宣誓)という伝統は否定され、戦後のドイツ基本法及び軍人法には“軍人もまた市民であり基本権を保持する”という規定(軍人法第17条)、「抗命権」及び発動された場合の不利益処分(降格など懲戒)禁止が明文規定されている(軍人法第11条)。また労働組合的性格も持つ職場団体「軍人連盟」、反戦軍人の会「ダルムシュタット・シグナル」(日本でいえば反戦自衛官)が構成されている。
ただしドイツ国防軍も各地の軍記念館では「ドイツ軍の英雄」として顕彰されており、ドイツ海軍ではリュッチェンス級駆逐艦などナチス時代の軍人の名を冠した軍艦が存在している。
ラーボエ海軍記念館ではビスマルク (戦艦)とブレーメン (フリゲート)の模型が共に飾られ、またプリンツ・オイゲン (重巡洋艦)のスクリューやニュルンベルク (軽巡洋艦・3代)の鐘が展示されるなど決してナチス時代のドイツ軍を無関係としているわけではない。
脚注
^ 平成29年度版防衛白書 資料3主要国・地域の正規軍及び予備兵力(概数)
^ 1956年1月東ドイツのヴァルシャヴァ条約機構(WTO)加盟を期に、同年7月一般兵役義務法が制定され、18歳以上の男性に12ヶ月間の兵役が課せられることになった。1962年には兵役期間は18ヶ月間に延長された。岩間陽子『ドイツ再軍備』(中央公論社)P.311、『カラー世界史百科 増補版』(平凡社)P.535
^ ドイツ:徴兵制中止、志願制に 国防費削減狙い - 毎日新聞 2011年7月4日[リンク切れ]
^ ドイツ徴兵制廃止の思わぬ副作用 - ニューズウィーク 2010年9月8日
^ http://www.sipri.org/research/armaments/milex/milex_database
- ^ abbundeswehr.de: Todesfälle im Auslandseinsatz (連邦軍サイト:海外での任務による死亡者)
^ Number of Soldiers With Stress Disorder Going Up, Report Says | Germany | Deutsche Welle | 03.02.2009 この記事によれば、中東で勤務した連邦軍兵士のうちPTSDとなった兵士は、分かっているだけでも2006年には55人だったものが2008年には226人に増えたという。
^ 第二次世界大戦後、冷戦が激しさを増す中でソ連・東欧諸国の西ヨーロッパへの浸透を恐れた米・英・仏各国は、東西に分割統治されていたドイツの統合を断念し、東側陣営へ対抗する強力な防壁として西ドイツを独立・再軍備させる方針を確定した。しかし、第二次大戦以前の伝統的な帝国軍隊の復活は再びヨーロッパの脅威となり、西ドイツの民主主義体制を脅かす危険性があったため、過去の伝統に縛られない新しい軍隊の創設が不可欠の条件とされた(米・英・仏を中心とする西側諸国の要求であり、ほかならぬ西ドイツ世論の要求でもあった)。そのために、志願兵制を基本とする防衛関連法を整備し、ドイツ連邦共和国基本法の改正によって軍の統帥権を政府および議会が掌握する体制を築き上げたのである。またドイツ連邦軍は、1955年の発足と同時に北大西洋条約機構(NATO)へ、翌56年には西ヨーロッパ連合(WEU)へ加盟しているため、あくまで集団安全保障の枠組みの中で行動を規制されているという点でも、旧来のプロイセン軍・ドイツ軍とは異なっている。岩間陽子『ドイツ再軍備』(中央公論社)P.271-280
文献
- 松隈徳仁(著)、『西ドイツの再軍備とデモクラシー:平和と戦争の研究 II』、有斐閣、1969年
- 岩間陽子(著)、『ドイツ再軍備』、中央公論社、1993年、ISBN 4-12-002227-7
- 軍事情報研究会「『国土防衛型自衛隊&海外派遣型自衛隊』vol.1 国土防衛型から海外派遣型に大転換したドイツ連邦軍」『軍事研究』528号、ジャパンミリタリーレビュー、2010年3月。
関連項目
ドイツ軍
ヴァイマル共和国軍(Reichswehr) - ヴァイマル共和政時代(1919年~1935年)のドイツ軍。
ドイツ国防軍(Wehrmacht) - ドイツ第三帝国時代(1935年~1945年)のドイツ軍。
国家人民軍(Nationale Volksarmee) - ドイツ民主共和国(東ドイツ)の軍隊。
- ドイツ陸軍
- ドイツ海軍
- ドイツ空軍
- 軍服 (ドイツ)
- 清廉潔白な国防軍
- ドイツ連邦軍海外派遣
外部リンク
Bundesministerium der Verteidigung(国防省)
Bundeswehr(総体としてのドイツ連邦軍)
Heer(陸軍)
Marine(海軍)
Luftwaffe(空軍)
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