チャクリー王朝



































チャクリー王朝(チャクリーおうちょう)は、1782年(タイ仏暦2325年)、乱心をきたしたタークシン王を処刑したラーマ1世によって起こされたタイの現王朝。首都がバンコクにあるためバンコク王朝、あるいは、王宮が運河とチャオプラヤー川に囲まれたラッタナーコーシン島にあることからラッタナーコーシン王朝ラタナコーシン王朝とも表記される)という別名がある。現在まで続く王朝で、現在のラーマ10世を含めて、10代の歴王が名を連ねる。チャクリーとは、ラーマ1世の改名前の名前である。




目次






  • 1 歴史


  • 2 歴代王


  • 3 副王


  • 4 摂政


  • 5 参考文献


  • 6 関連項目


  • 7 脚注





歴史


トンブリー王朝がアユタヤー王朝を占領したビルマに取って代わりタイを掌握すると各地に軍閥のような勢力が力を付けてきた。ソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスック(後のラーマ1世)もそのような中の一人であった。トンブリー王・タークシンはその圧倒的なカリスマ性と軍事力で何とかタイ全国を維持していた。しかし、タークシン王は晩年、精神に異常をきたして、そのカリスマ性にかげりが見え始める。その中で、官吏のプラヤー・サンがタークシン王を寺に幽閉し、自分が摂政に就いた。これはソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスックがカンボジアの遠征に行っている途中であった。プラヤー・サンカブリーはついでに王位もねらったが、急報を受けて戻ったソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスックによって摂政から降ろされた。




チャクリー王朝のエンブレム。 スダルシャナ(ヴィシュヌの力の象徴である円盤状の武器・チャクラム)の中にあるトリシューラ(シヴァが持つ三叉戟)


ラーマ1世はトンブリー王朝下でも破格の出世を遂げ、タイ史を通して滅多に与えられることのなかったソムデットチャオプラヤー(一位)の位を受けた。そのカリスマ性はタークシンに負けず劣らずで、プラヤー・サンカブリーによる反乱軍を制した後、官吏らに推挙され王位に就いたとされる。ここにチャクリー王朝は成立した。


この王朝の体制は絶対王政であるとされるが、しかし、まだ中央集権国家ではなかったため、実際に「王の威光」が及んでいる地域はバンコクとその周辺地域のみだった。地方政治は中央に忠誠を誓う地方の豪族・あるいは中央の派遣知事に任せられ、その行政は実質野放し状態であった。


ラーマ2世、ラーマ3世は詩人であり、ラーマ4世(モンクット王)は仏教改革者あるいは西洋に門戸を開いたという功績がある。この時代王一人が何十人もの妻を持ち、何十人もの子供を持つと言うことが行われていたため、王族の数が多くなり、権力が分散されていってしまった。中央政府では王侯貴族の権力が強く、戦時中以外は王の権力が一般に弱かった。王の特権は富と文化の中心であることだけだった。特にこの時代、ブンナーク家が王族との婚姻により大きな力を付け、本来王が行うはずの王の承認まで口出しするようになった。


ラーマ5世(チュラーロンコーン大王)は王の力を強めるため、チャクリー改革を行った。チャクリー改革はここでは詳しくはふれないが要は近代化政策のことである。西洋を手本に国内の交通・通信を整え、中央政権支配の基礎を整えた。この時代、ラオス・カンボジアと南部の一部をそれぞれフランス・イギリスに取られていた。残った領土を死守するため、タイを中央集権国家にすることを決め、各地の王を廃止し、各県を中央政府の支配下に置いた。一方、中央にはびこっていたブンナーク家のたぐいは奴隷解放などの政策により財力を失い、官僚制導入によって、ほぼ行政的な意味での支配力を失った。ラーマ5世は自ら王=文武官吏の長となって、ほぼ完全な貴族政治から離れた絶対王政を実現した。


ラーマ6世(ワチラーウット王)に至っては父王の作った絶対王権によりやりたい放題だった。チャクリー王朝史上初めての留学生であった。愛国精神を強調し、財政の続く限りスアパー団(青年自警団)などの愛国主義に満ちた無意味な浪費を続けたため、そのうち官僚の不信感が高まった。ラーマ5世の代まで王室は中国の姓「鄭」を自称し、華人を優遇したため、華人が暴利を貪っていた。これに対し、ラーマ6世はこの華人優遇政策を一転、論文「東洋のユダヤ人」を著し、華人の批判を行った。一方で華人のタイへの同化を計り、属地主義を導入した。


ラーマ7世(プラチャーティポック王)も留学生であり、より新しい西洋の教育を受けていた。このため、ラーマ5世、6世が「民主主義はタイの風土に合わない」と述べていたのと違い、民主主義には元来積極的であった。治世中にはラーマ6世の財政浪費が祟り官僚の大幅リストラ(合理化)を行ったが、ラーマ6世時代から溜まっていた官僚の鬱憤が次第に溜まっていった。そのため、憲法を設置し本格的な民主主義を設置しようと、憲法を公募し、その草案に加筆した上で発表しようとしたが、発表直前に残存していた王族勢力の猛反対に遭い、憲法布告をあきらめた。これを見た官僚勢力は猛烈に怒り、官僚のプリーディー・パノムヨンは陸軍勢力のプレーク・ピブーンソンクラーム元帥、プラヤー・パホンポンパユハセーナー大佐と共同で立憲革命を起こした。これにより、チャックリー王朝の絶対王政は崩壊した。


その後のチャクリー王朝の王は単なる傀儡として扱われた。ラーマ8世時にはその権威は完全に失墜し、戦時中には、日本の友好象徴として祭り上げられた。その後ラーマ8世は戦後、謎の変死を遂げることとなった[1]


後を継いだラーマ9世には憲法の枠内での立憲君主として大きく国家元首としての地位の回復をした。即位してから20年続いた摂政時代には特に目立った行動はなかったものの、暗黒の5月事件(1992年、クーデター)の時には、当事者のスチンダー・クラープラユーンとチャムロン・シームアンの調停役を行った。このときの様子はテレビで放映され、当事者2人が国王の前に泣きながらひざまずいている姿は、国民に「タイ国王ここにあり」と見せしめ、一部では政治介入に危惧する声はあるものの、国王の評価が非常に上がり国民に尊敬されるチャクリー史上初めての国王らしい王となった。


2016年10月13日のラーマ9世崩御後、1ヶ月半ほどの空位を経て、12月1日にラーマ10世が即位した。



歴代王




  1. ラーマ1世プッタヨートファーチュラーローク : 1782年 - 1809年


  2. ラーマ2世プッタルートナーパーライ : 1809年 - 1824年


  3. ラーマ3世ナンクラオ : 1824年 - 1851年


  4. ラーマ4世モンクット(チョームクラオ) : 1851年 - 1868年


  5. ラーマ5世チュラーロンコーン(チュラチョームクラオ) : 1868年 - 1910年


  6. ラーマ6世ワチラーウット(モンクットクラオ) : 1910年 - 1925年


  7. ラーマ7世プラチャーティポック(ポッククラオ) : 1925年 - 1935年


  8. ラーマ8世アーナンタマヒドン : 1935年 - 1946年


  9. ラーマ9世プーミポンアドゥンラヤデート : 1946年 - 2016年


  10. ラーマ10世ワチラーロンコーン : 2016年 -



副王


チャクリー王朝には他のインドシナの上座部仏教国同様、副王(ウパラージャ(英語版))の制度があった。以下にチャクリー王朝期における副王を挙げる。副王から国王になったのはラーマ2世ただ一人で、副王の周りには反国王派などのたまり場となることが多く弊害が多かった(たとえば、ワンナー事件(タイ語版)など)。そのためラーマ5世時を最後に任命されなくなった。同時に、西洋を真似て摂政と皇太子の制度が導入された。




  • スラシンハナート(タイ語版)(1782年 - 1803年)

    • アヌラックテーウェート(タイ語版)(副王代理、1785年 - 1806年)


  • イッサラスントーン(後のラーマ2世、1806年 - 1809年)


  • セーナーヌラック(タイ語版)(1809年 - 1817年)


  • サックディポンセープ(タイ語版)(1824年 - 1832年)


  • ピンクラオ(タイ語版)(実質第二国王、1851年 - 1866年)


  • ボーウォーンウィチャイチャーン(タイ語版)(1868年 - 1885年)



摂政


ラーマ5世


  • 1868年 - 1873年

    • ソムデットチャオプラヤー・シースリヤウォン…国王が成人するまで王務を代理


  • 1897年

    • サオワパー妃…国王のヨーロッパ視察中に王務を代理



ラーマ7世

  • 1934年 - 1935年

    • ナリッサラーヌワッティウォン王子…国王不在時の王務代理


ラーマ8世


  • 1935年3月 -


    • アヌワットチャートゥロン王子(オスカルヌティット王子)…主席


    • アーティットティッパアーパー王子

    • チャオプラヤー・ヨマラート



  • 1935年8月 -

    • アーティットティッパアーパー王子…主席


    • チャオプラヤー・ヨマラート…1938年に死去


    • チャオプラヤー・ウィッチャイェーンヨーティン陸軍大将



  • 1941年12月 -

    • ルワン・プラディットマヌータム…追加


  • 1944年7月
    • ルワン・プラディットマヌータム



ラーマ9世


  • 1946年 -

    • プラ・スームウィニッチャイ

    • プラヤー・ノンラーチャスワット

    • サグワン・チュータテーミー



  • 1946年 -


    • チャイナートナレーントーン王子(ランシットプラユーラサック王子)

    • プラヤー・マーナワラーチャセーティー



  • 1951年 -
    • ピッタヤラーププルッティヤーコーン王子(ターニーニワット王子)…国王が学業を終えて帰国するまで王務を代理


  • 1956年

    • シリキット妃…国王が出家している間王務を代理


  • 1960年

    • シーナカリン王太后…国王と王妃の外遊の際に王務を代行




参考文献


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  • 石井米雄・吉川利治『タイの事典』同朋舎、1993年、pp.331-335,338-349, ISBN 9784810408539

  • 赤木攻『タイ政治ガイドブック』Meechai and Ars Legal Consultants CO.,LTD.、1994年 ISBN 9784905572831

  • 村嶋英治著『現在アジアの肖像9 ピブーン 独立タイ王国の立憲革命』岩波書店、1996年、ISBN 9784000048644

  • 石井米雄『タイ仏教入門』めこん〈めこん選書〉、第三版1998年 ISBN 9784839600570

  • Finestone, Jeffrey: The Royal Family of THAILAND - The Descendants of King Chulalongkorn, Bangkok: White Mouse Editions/Phitsanulok Publishing, 1989/2532, ISBN 9789748356907

  • Finestone, Jeffrey: The Children and Grandchildren of King Mongkut (Rama IV) of Siam, Thailand: Goodwill Press (Thailand) Co., Ltd., 2000, ISBN 9789748714882

  • Handley, Paul M. The King Never Smiles, United States of America: Yale University, 2006, ISBN 9780300106824



関連項目



  • チャクリー改革

  • チャクリー王家

  • タイの国王

  • 枢密院 (タイ)



脚注


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  1. ^ これに関して、あくまでも暗殺説を唱える人は、日本との友好的な印象が敗戦後にはマイナスに作用したため殺されたと主張する人もいる(この記述はタイでは違法)









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