ベルリンの壁崩壊







ブランデンブルク門近くのベルリンの壁に登る東西ベルリン市民(1989年11月10日)


ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)は、1989年11月9日に、それまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことで、その日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し混乱の中で国境検問所が開放され、翌日1989年11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まった出来事である。略称として壁崩壊(ドイツ語: Mauerfall)ともいう。


これにより、1961年8月13日のベルリンの壁着工から28年間に亘る、東西ベルリンが遮断されてきた東西分断の歴史は終結した。東欧革命を象徴する出来事であり、この事件を皮切りに東欧諸国では続々と共産党政府が倒された。そして、翌年1990年10月3日には、東ドイツが西ドイツに編入される形で東西ドイツが統一された。











目次






  • 1 壁の建設


    • 1.1 壁の犠牲者


    • 1.2 壁の意味




  • 2 東ドイツの苦境


    • 2.1 ホーネッカー体制へ


    • 2.2 経済の停滞


    • 2.3 分断国家の思想統制


    • 2.4 旅行の自由を求めて


    • 2.5 ゴルバチョフの改革




  • 3 東ドイツの動揺


    • 3.1 ハンガリーの国境柵(鉄条網)撤去


    • 3.2 東ドイツ国民の大量脱出


    • 3.3 汎ヨーロッパ・ピクニック


    • 3.4 ハンガリーの決断


    • 3.5 ハンガリーの国境開放


    • 3.6 国内の混乱


    • 3.7 ライプツィヒの市民デモ


    • 3.8 建国40周年記念式典


    • 3.9 ホーネッカーの失脚


    • 3.10 クレンツの驚き


    • 3.11 東ドイツの空洞化


    • 3.12 「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令作成




  • 4 1989年11月9日


    • 4.1 政令案作成作業チーム


    • 4.2 中央委員会


    • 4.3 記者会見


    • 4.4 マスメディアの報道


    • 4.5 国境検問所


      • 4.5.1 午後7時


      • 4.5.2 午後8時


      • 4.5.3 午後9時


      • 4.5.4 午後10時




    • 4.6 国境ゲートの開放


    • 4.7 政府関係者の動き


    • 4.8 西ドイツ国会での国歌斉唱




  • 5 壁の崩壊


    • 5.1 壁の撤去


    • 5.2 国境の撤去




  • 6 壁崩壊の影響


    • 6.1 東ドイツの崩壊


    • 6.2 東西ドイツ統一


    • 6.3 冷戦終結


    • 6.4 東欧全域への民主化革命の波及


    • 6.5 ベルリンの壁のその後




  • 7 エピソード


  • 8 壁崩壊を記念したイベント


    • 8.1 壁崩壊20周年


    • 8.2 壁崩壊25周年




  • 9 参考文献


  • 10 ドキュメンタリー


  • 11 関連作品


  • 12 注釈


  • 13 出典


  • 14 関連項目


  • 15 外部リンク





壁の建設




壁の前のブランデンブルク門。左側が東側で右側が西側である。(1961年)


第二次世界大戦後に敗戦国であったドイツはソビエト連邦とアメリカ合衆国、イギリス、フランスの戦勝4ヵ国による分割占領が行われ、その中で首都ベルリンも終戦直後に戦勝4ヵ国の共同管理地域とされ、やがて東西の対立とともに1949年に東西2つの国が成立して、ドイツ民主共和国(東ドイツ)は、ソ連からの大きな経済援助と軍事力で社会主義国として東側陣営に属し、西側陣営に属するドイツ連邦共和国(西ドイツ)とで、ドイツは分断された。そして首都ベルリンもソ連側管理地区の東ベルリンと米英仏3ヵ国管理地区の西ベルリンに分断された。ただし1961年夏まではベルリン市内での東西の往来は自由であった。


しかし1961年8月13日に突然東ドイツ側がベルリン市内の東西の往来を遮断し境界線近くに壁を建設して、ベルリン市民の東西間の自由通行はこの日に断絶された。(ベルリンの壁)これは東西に分かれて以後東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が止まらず、1945年から1961年までに東ドイツから西ドイツに移った人々は約300万人に達し、その半数以上が当時自由に行けた西ベルリン経由で西ドイツに逃れていた。危機感を持った東ドイツは西ベルリンが逃亡への出口になっていることから、西ベルリンを壁で塞ぎ東ドイツ国民を閉じ込めるために建設したもので、これを「反ファシズム防壁」と呼んだ[1]。国境が遮断されて有刺鉄線が張り巡らされたが、ある所では道路の真ん中に、或いは運河が、また橋の真ん中が国境線であった。以後東西のベルリン間での市民の行き来は不可能となった。


ベルリンは戦後の東西冷戦の最前線であり、1961年8月に突然出現したこのベルリンの壁は東西冷戦の象徴であった。



壁の犠牲者


しかし西へ逃れるために壁を乗り越えて越境しようとした市民が死亡する悲劇は後を絶たなかった。1961年8月から1989年11月までの28年間で5000人以上が越境して逃れ、約200人以上が越境できずに命を失い(その多くは国境警備兵による射殺と河を泳ぎきれずの溺死であった)、約3000人以上が越境を試みて失敗し逮捕された[2]


東西ドイツの間で1961年から1988年までに総計23万5000人が「共和国逃亡」によって西ドイツに逃れた。そのうち4万人が国境の厳重な見張りをすり抜けて越境した者で、その中の約5000人余りがベルリンの壁を乗り越えた者であるが、その大部分はまだ壁の国境管理が甘かった1964年までの数字である[3]。東ドイツ側の国境超えの「逃亡未遂」に関する刑事訴訟の手続きは1958年から1960年までで約2万1300件、1961年から1965年までで約4万5400件であった。そして1979年から1988年までの「逃亡未遂」の有罪判決は約1万8000件であった[4]。これはベルリン以外の東西ドイツ国境での逃亡未遂も含めての数であり、ベルリンの壁を超えようとした未遂及びその準備をした者はおよそ6万人以上とみられ、有罪判決受けて、平均4年の禁固刑であった。そして逃亡幇助の計画準備の場合は実行者より重く終身懲役刑を科されることもあった。


壁が破壊されるまでの間、東ベルリンから壁を越えて西ベルリンに行こうとした住民は、運よく西へ逃れた人以外は東ドイツ国境警備隊により逮捕されるか、射殺されるか、或いは途中で力尽きて溺死か転落死であった。



壁の意味


壁の建設は、東ドイツの体制が強制に依存しており、住民が国土を離れることを妨げる以外に暴力によってその崩壊を回避できないことを示すもので、ソ連がヨーロッパの前進地であるドイツを放棄するつもりが無く、その崩壊を手をこまねいて見ていることが出来ないことを証明した。そしてこの措置は西側に対決するものでなく、東ドイツ人にとっての利益に対立するものであった[5]。そしてソ連のフルシチョフ首相とアメリカのケネディ大統領の間で、暗黙の了解として、西ベルリンの米英仏3ヵ国の駐留権、及び西ベルリンへの自由通行権、西ベルリン市民の政治的自己決定権を侵さないことを前提にした壁の建設であった。それまで米ソ首脳を悩ましたベルリン問題は、1958年のフルシチョフの自由都市宣言の最後通牒の主張から大きく後退して、以降安定し固定化した。


それは東ドイツの人々にとって、以後東ドイツを離れることが出来なくなり、彼らの不自由はもはや逃れることのできない運命となったことを意味した[6]。また体制に反対する人々の大半は脱出して、単に労働力の流出を防止しただけでなく、現在の状況と折り合っていく道を選ぶしか無いという意識を人々に与えたことの影響は大きく、ドイツ社会主義統一党にとっては国家運営がしやすい環境が整備された[7]



東ドイツの苦境


しかしソ連は東ドイツの創設者であり、長年にわたり事態発展の成り行きに影響を及ぼし、およそ東ドイツの存続の生殺与奪権を握っていた。それは結局最後の壁崩壊で東ドイツが消滅するまでそうであった。東ドイツが国民を実質的な監獄体制下におき本質的に抑圧に基づいていたことは、鉄のカーテンとベルリンの壁によって物理的な力で国の安定を保障し、それに依存していたことで、政治的には破綻した国家であった[8]


しかも東ドイツ経済は、戦後にソ連が賠償として国内の工場機材や施設を大量に持ち去り、殆どゼロからのスタートとなり、東側の低発展と困難の連続であった[9]。1950年代終わりの東ドイツの生活水準は、西ドイツの25~30%のレベルでしかなかった、といわれる[7]。しかし1961年の壁の建設で西への人口流出が減少して、国内の体制が安定化するとともに、東ドイツの経済政策は国民の満足度を上げることを重視し、ソ連との交易を強化し、やがて独自の成長路線をとり、経済統制を緩和して個々の企業の自由度を高めて労働者の生産意欲の維持を図った。こうして東ドイツの工業力はめざましく発展して東側では強い経済力を持つようになった[10]


1963年に東ドイツは人民所有企業を統合した82の人民所有企業連合に指導性を与え、利潤追求を含めて個々の企業・労働者から最大限の能力を引き出すことを目的として「計画と指導の新経済システム」を導入した。このシステムは効率的に作動して、労働生産性が向上し、1964年7%、1965年6%に、国民所得は1964年と1965年とも5%成長した。耐久消費財もテレビは1955年1%から1966年54%へ、洗濯機は1955年0.5%から1966年32%へ、冷蔵庫は1955年0.4%から1966年31%へと1955年当時から比べると殆ど普及率ゼロに等しい製品が11年後にはかなり所有されてきた[11]。ベルリンの壁建設から1960年代半ばまでは安定した成長を遂げ、その経済成長は「赤い経済の奇跡」と称せられ、また東ドイツは「社会主義の優等生」と呼ばれて、東ベルリンは、西側諸国の支援の下で繁栄する西ベルリンに対抗すべく「社会主義のショーウィンドー」として、東ドイツの首都として発展した。1960年代と1970年代には、正確な数字ではないが経済の平均成長率はおよそ3%であった、とされている[12]。ただ内実は1960年代半ばまでは順調であったが、1967年以降になると、その伸びは後退した。自動車の個人保有率を例にとると1960年1.7%→1965年3.9%→1970年6.8%で、一方西ドイツは同じ期間で1960年8.1%→1965年15.8%→1970年23.0%であり、その格差は拡大した[13]。これには、ソ連との緊密な経済関係を結ぶことが結局ソ連の利益が優先されることに繋がり、競争原理を導入した「新経済システム」が1960年代末には中央集権化せざるを得なくなっていた背景があった[11]。これは東ドイツの指導者ヴァルター・ウルブリヒトの足元を脅かすことになった。


壁の建設後、東西ドイツ間は冷却していたが、建設当時の西ベルリン市長であったヴィリー・ブラント社会民主党(SPD)党首が1969年に西ドイツ首相に就任し、積極的な東方外交を展開して東西の緊張緩和を図り、ソ連もこれを支持すると、東ドイツでは経済成長を背景に自立した社会主義国家を模索していたウルブリヒト書記長が反発したため、1971年5月にソ連のブレジネフ政権は東ドイツに圧力をかけて、ウルブリヒトはドイツ社会主義統一党(SED)書記長の座を追われた[14]



ホーネッカー体制へ


そしてウルブリヒトの後任としてドイツ社会主義統一党(SED)書記長(後に国家評議会議長兼務)に就任したエーリッヒ・ホーネッカーは、ソ連のブレジネフ政権と一定の距離を置こうとしたウルブリヒトと違って、ブレジネフ書記長の支援のもとで体制を強化した。このホーネッカーの下で冷蔵庫やテレビのような家電製品の需要レベルをやっと満たし目に見える形で計画経済がある程度実績を上げることが出来た[15]


西ドイツのブラント首相の東方外交で、西ドイツとソ連、西ドイツとポーランド、そして東西ドイツの間で関係改善が進むと、ベルリン問題についても恒久的であれ暫定的であれ平和的に処理しようとする動きが1970年に入ってから活発になった。そして1971年9月3日に米英仏ソの4ヵ国協定が締結され、更に東西ドイツ間で細部の取り決めを合意し、翌1972年6月3日に発効した。この協定には東西ベルリンの地位は曖昧で、東ベルリンは「隣接する地域」と表現されてベルリン全体の問題には触れていないが、ソ連は東ベルリンに大使館を置きながら西ベルリンにも領事館を置き、暗黙のうちに西ベルリンが自己の勢力範囲であることを断念し、また西側3ヵ国軍の西ベルリンへの駐留、西ベルリンへの通行を認めた。一方西側は西ドイツと西ベルリンとが政治的には別の存在であることを認め、かつ東ベルリンを東ドイツの首都であることも認めた。これで戦後の東西ベルリンの間で未解決であった西ベルリンでの西側各国の駐留権、西ベルリンへの通行権が保障された[16]


さらに1972年に東西ドイツ基本条約が結ばれて、相互に対等な主権と領土を認め[注 1]、翌1973年に東西ドイツは同時に国連加盟を果たし、東ドイツは世界123ヵ国から主権国家として承認された。この時代は東ドイツは東欧の中で優等生と言われるほど経済成長を果たし、生活水準は東側では高く市民生活も一応の安定を見せていた[17]。ただし、この東ドイツの経済発展は西ドイツからの多額の銀行借款や信用協定によって支えられていた[18][注 2]。この西ドイツの資金で東ドイツのインフラの維持に充てられ、アウトバーンや歴史的建造物の復元に役立った。そして西ドイツ国民が東ドイツを訪ねる時に東ドイツマルクとの強制交換があり、この時に東側に西ドイツマルクが外貨準備として蓄積される、ことで東ドイツの経済的実績となる仕組みがあり、明らかに西ドイツとの特有な経済関係があった[19][注 3]



経済の停滞




東ベルリン市内のカール=マルクス=アレー(1967年)


1970年代のオイルショック以降[注 4]、西ドイツや日本を含めてアメリカ、イギリス、フランスなどの西側先進国がエネルギー問題を含めて経済構造の転換を進め経済成長を促進したのに対して、計画経済、党官僚の支配の下で硬直化した経済運営の東側陣営では経済の構造改革が出来なかった。しかもそれらには対外的な原因もあった。


その原因は、第一に1973年秋の第一次石油危機による資本主義諸国からの輸入品価格の高騰とソ連から輸入される原料と燃料価格の上昇による対外債務の急増である(この時期は日本では狂乱物価の時期であった)。累積債務の額は、1981年には10年前のおよそ10倍に膨らみ約100億ドルに達した。第二は1979~1980年の第二次石油危機の際にソ連からの石油供給の削減(1982年にそれまでの年間1900万トンから1700万トンに減らされた)によるエネルギー供給不足である。第三にこの1973年の第一次と1979年の第二次の二度の石油ショックによる世界貿易の縮小(一時的なものであれ)がもともと商品価値の低い東ドイツ製品の西側諸国への輸出を困難にしたこと、そして1981~1982年のポーランドとルーマニアの国際収支の危機に端を発した西側銀行の東ドイツに対する信用供与の停止である。これらの諸要因が積み重なり、東ドイツ経済を発展させる土台が急速に失われ、1982年以降の経済は奈落の底に向かうことになった[20]


1960年代には世界屈指の経済大国となった西ドイツに既に大きく水を開けられ、抑圧的な政治体制もあって東ドイツ国民は不満を募らせるようになっていった[21]。また一方では国益第一から西ドイツとの協調姿勢を前面に出して、70年代後半から深刻化した経済の停滞を打開するために、西ドイツから多額の財政協力を得ることで計画経済を支え国力の低下を防ごうとした。この現実はあらゆる情報操作を駆使してホーネッカーが失脚するまで知らされなかった。そして1987年にホーネッカーが西ドイツを初めて訪問した際にコール首相と経済相互協定を結んだが、この時にはすでに東ドイツ経済は行き詰まっていた[22]


この東ドイツの経済の実態が白日の下に明らかになったのは、1989年11月9日、壁が崩壊する日の昼の社会主義統一党中央委員会の場であった。ホーネッカーを失脚させた後、クレンツ新体制がスタートしたが東ドイツ国民の大量出国と体制への不満が高まっていた時、混乱の極みの中で開かれた中央委員会で、ゲアハルト・シューラー国家計画委員長が説明した東ドイツの財政事情に中央委員たちは肝をつぶした。西ドイツから秘密裡に「施し金」を受け取り、大衆の支持を獲得するためにあらゆる分野に助成金をバラまき、産業投資は二の次にして、西側から巨額の借金をして、1989年で東ドイツの対外債務は260億ドルを超え、この債務の利払いだけで45億ドルに達し、これは国の歳入の三分の二であり、輸出収益の1.5倍に達する金額であった。この収支バランスを均衡にするためには国民に生活水準を30%前後切り下げる必要があること、東ドイツ経済は崩壊寸前まで来ていること、そして西ドイツからの「施し金」の年間数十億ドルに全面的に依存していることをシューラーは明らかにした[23][注 5]。壁が崩壊する直前の東ドイツでは、全工業基盤の60%近くはスクラップで償却され得るし、鉱工業の生産性は西側の50%にしかならない悲惨な状況であった[注 6]



分断国家の思想統制


他の東欧の社会主義国と違って、分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くすことは、国家の存在理由の消滅、ひいては国家の崩壊を意味するため、東ドイツ政権は1980年後半に東欧に押し寄せた改革の波に抗い続けていたのである[24]。それは東ドイツが他の東欧諸国にない厳格なイデオロギー国家であり、ナショナル・アイデンティティが欠如して、それだけマルクス・レーニン主義が他の東欧諸国よりも重要な意味を持っていた国家であった[25]


ホーネッカーは1980年代に入ってからのハンガリー人民共和国やポーランド人民共和国での社会変革の動きに対して、秘密警察である国家保安省(シュタージ)を動員して国民の束縛と統制を強めていた。西ドイツと明確に異なる東ドイツの存在意義は、対内的にも対外的にも「壁」の存在なしには成り立たないものであり、そのために徹底した思想・言論統制を行っていたのである[26]。国内にはポーランドのような「連帯」運動も、ハンガリーのような慎重にソ連と協調しながら勢力を増した「党内改革派」もなく、体制に不満を持つ人は壁の建設以前に西側に移り、壁建設以後は政治犯として収監されて西側へ追放されてしまい[27]、体制に不満な部分はわずかにキリスト教会の活動に押し込められていた。



旅行の自由を求めて


1989年以前の東欧諸国では、国家が国民に西側に旅行出来ない制限を課して、移動の自由が無い状態が続いていた。東ドイツの一般市民にとっては同じ東欧諸国への旅行でさえも制限があった。1989年の民主化要求のデモにおいて「旅行の自由」が求められていたのも、こういった事情があった[28]


東ドイツ市民が比較的自由に行けたのはチェコスロバキアで、身分証明書の提示だけで旅行が可能であった。民主化が進んでいたポーランドへは1981年以降は公認旅行社が主催する旅行か招待状によるものでしか許可されなくなった。他のブルガリア、ハンガリー、ルーマニアへはビザ不要であったが、旅券の他に東ドイツ政府が出す「ビザ免除旅行証」という許可証を入手しなければならなかった。私的旅行には3種類の区別があり、第1番目はソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、モンゴル、北朝鮮の8ヵ国への旅行。第2番目は、年金資格を得る年齢に達した人々の旅行。第3番目は、その他の年金資格を得る年齢に満たない人々の旅行であり、近親者の冠婚葬祭や病気見舞いなどの際に当局に許可の申請を行うものであった[29]


この旅行の自由、移動の自由を求める動きは、壁の建設後は体制の抑圧で窒息状態であったが、1980年代後半になってから顕在化し、東ドイツ政府の頑なまでの対応がやがて自国民の大量出国を招き、その対応で新しい方針を打ち出す際にミスを犯し、その結果は壁の崩壊を招き、東ドイツの消滅につながった。



ゴルバチョフの改革





エーリッヒ・ホーネッカー(右)とミハイル・ゴルバチョフ(1986年)




落書きに彩られたベルリンの壁の西側(1986年)




ベルリンの壁の前で演説するロナルド・レーガン(1987年)


1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任して「ペレストロイカ」政策を推進して以来、ソビエト連邦内のみならずその影響圏である東欧諸国でも民主化を求める声が高まり、他の東欧諸国や東ドイツ国内でも民主化推進の声が高まっていた。このゴルバチョフ改革で事態が進展したことが東ドイツの体制に致命的影響を与えた[30]。東ドイツの反対派にとってこのゴルバチョフの改革を進める考え方は大きな希望を与えるものであり、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を東ドイツのホーネッカー体制に導入しようと考えた[31]


しかし、ホーネッカー政権は強硬姿勢を崩さず、一部の反対派を逮捕拘留して弾圧するだけであった。1987年4月にハンブルクの雑誌『シュテルン』に掲載された対談で、ペレストロイカへの見解を求められた社会主義統一党政治局員で文化科学担当書記(イデオロギー担当)クルト・ハーガー(ドイツ語版)は「わが国では、既に改革は進んでいる。隣人が壁紙を張り替えたからと言って、同じことをする必要はない」と答えた[32]


この年1987年に当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンは西ベルリンを訪問し、ベルリンの壁の前での演説で「Mr. Gorbachev, Tear down this wall.(ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい)」と訴えていた。


1988年9月、モスクワでのゴルバチョフとホーネッカーの会談ではお互いに辛辣に皮肉るほどになり、一致点が見出せないほどであった。そして11月18日、東ドイツはグラスノスチ(情報公開)を伝えるソ連の雑誌『スプートニク(ドイツ語版、ロシア語版)』に対する郵便・新聞管轄局の認可を取り消した。事実上の発禁処分であった。その理由を独ソ友好関係の強化に貢献するどころか、歴史を歪曲するものと説明していた[33]。この発禁された雑誌「スプートニク」10月号は、1939年8月の独ソ不可侵条約の締結時に交わした秘密付属協定の内容に触れており、当時のナチスドイツとソ連とで「利益領域の分割」を規定したことに言及したものであった。これは当時グラスノスチ(情報公開)の動きの中で8月にモスクワで公表されたものであった。これには、東ドイツ国内の知識人の不満を一気に高めることとなり、政権内でさえこの措置に賛成する者は少数で、「ヒトラーファシズムに対する反ファシストの英雄的闘争を中傷するもの」という説明に、長年の社会主義統一党員からも党幹部に憤慨を募らせていた[34]


1989年1月20日にアメリカ大統領に就任したジョージ・ブッシュは、5月2日に世界秩序へのソ連の復帰を歓迎するとして、ソ連のペレストロイカ政策と軍縮と地域紛争からの撤退をめざす新思考外交を評価し、それまでの対ソ封じ込め政策の転換を発表した。7月にはワルシャワ条約機構がソ連の東欧への軍事介入を正当化してきたブレジネフ・ドクトリンの放棄するコミュニケを採択した[35]


そしてこの頃、ソ連外務省は東ドイツの行く末に悲観論が強まっていた。1988年にソ連外務省は文書をまとめていた。それは「ドイツ統一」の3つのシナリオで、この後の東ドイツについて、3つの可能性について討議したものであった。第一は『共存』で、東西ドイツがこれまで通りの関係で進むことだがソ連は東ドイツが経済復興しない限り不可能と断定した。第二は『吸収』で、西ドイツが東ドイツを吸収して北大西洋条約機構(NATO)に入ることになりソ連には不利で絶対に避けたい。第三は『中立』で、西ドイツがNATOを脱退し、東ドイツがワルシャワ条約機構を脱退して中立の統一ドイツとなることでソ連にとって最善の策であるとした。翌1989年秋にゴルバチョフが東ドイツを訪問する直前に、会議の席で「諸君、我々は社会主義の友人を1つ失うことが明らかとなった。」と述べてホーネッカーをそして東ドイツを見限ることを明らかにした。この時に補佐官で同席していたゲオルギー・シャフナザーロフは後に「このゴルバチョフの発言には誰もが賛成であった。」と語っている[注 7]



東ドイツの動揺


1989年6月に隣国ポーランドで自由選挙が行われて統一労働者党(共産党)が敗退し、社会主義陣営で初の非共産党系の政権が誕生した。またハンガリーでは前年11月にハンガリー社会主義労働者党の改革派に属するネーメト・ミクローシュが首相に就任し、1989年には国内改革の動きが注目されるようになった。しかし東ドイツでは、自国の改革の遅れに失望して出国を希望する者が増大し、1989年1月1日に新しい旅行法が発効されて、東ドイツから恒久的出国(国外移住)を申請するきっかけとなり、申請者数は9月末までの9カ月間に16万1000人に達した。この数字は1972年から1988年までの16年間の出国申請者総数が3万2000人であったことと比べると、この年の東ドイツ国民の不満が沸騰点に達しつつあることを物語っていた[36]


こうした市民の東ドイツ政府に対する不満が高まる最中の1989年5月7日に行われた地方議会選挙では不満を持った少なからぬ数の有権者が統一候補リストに対する信任投票に反対票を投じたが、指導部は選挙結果を賛成票が98.85%であると改ざんして発表し、市民の不満を更に高めた。また、6月4日に起きた中国の天安門事件に対して東ドイツ政府・SED・人民議会が中国当局の対応への支持を表明したことも、東ドイツ市民の怒りを買っていた[37]。そして6月18日にはポーランド人民共和国で複数政党制による自由選挙が初めて実施され、他の東欧諸国に先んじて民主化を果たした。



ハンガリーの国境柵(鉄条網)撤去


1989年3月3日、モスクワのクレムリン宮殿で民主化を進めていたハンガリーのネーメト首相とゴルバチョフ書記長が会談した。この時にネーメトが切り出したのが、ハンガリーとオーストリアの国境300キロに及ぶ有刺鉄線の撤去であった。ハンガリーでは鉄のカーテンが綻び始めていた。この国境柵は長きに渡って腐食し、低圧電流を流す鉄条網は故障が多く、国境警備隊の悩みであった。その維持費がハンガリーの財政に重くのしかかり、しかもネーメトはゴルバチョフに「その有用性は尽き、違法に西側に脱出しようとする東ドイツとルーマニアの市民を押しとどめるだけに役立っている」とその理由を説明した。鉄のカーテンがソ連の強大さを示すシンボルであった時代はすでに去っていた。しかもハンガリーは言論の自由が保障され、前年の1988年には国外旅行が自由化されて、1989年頃には年間600万人が外国(主として西側)に行き、外国から年間2500万人が訪れていた。オーストリア国境での違法越境はハンガリー人は年間わずか10人で、外国人(主に東ドイツとルーマニア)が200~250人に達していた。その維持に難渋し国境柵の改修だけで国家予算を上回るものに、もはやハンガリーは負担出来ないとして「こんな目的のために、この金は使わないと決めた。」と述べた。ゴルバチョフは「我々は窓を開きつつあるのだ。」と暗黙の了解と受け取れるものであった[38]


5月2日、ハンガリーはオーストリアとの国境線の鉄条網を撤去した。ホーネッカーはフィッシャー外相をモスクワに派遣してハンガリーの行動を非難した。しかしソ連のシェワルナゼ外相はフィッシャー外相に「それは東ドイツとハンガリーの問題です。我々は何も出来ない。」とさらりと答えた。東ドイツにとっては東ドイツ市民を閉じ込めておくために鉄のカーテンが重要であり、そのためにハンガリーは国境柵の負担を強いられていたのである。このハンガリーの国境柵の撤去は東ドイツの指導者自身にとって本能的に脅威と感じていた[39]。そしてゴルバチョフの対応を見て、ホーネッカー政権の中にもモスクワはもはや我々を守ってはくれないと考える動きが出始めた。


ポーランドは党の外からの改革で「下からの大衆的圧力」があったが、ハンガリーは「上からの革命」で党の内からの改革であった[40]。そしてハンガリーでの1989年の民主化の動きは、この年に複数政党による自由選挙が行われたことに際立った特色があるが、もう一つの特色としてこのハンガリーの改革が東ドイツの社会主義統一党体制の崩壊に決定的な役割を果たしたことが挙げられる[41]



東ドイツ国民の大量脱出


夏になると多くの東ドイツ国民はハンガリー、そしてオーストリアを経て西ドイツへの亡命が出来ると考え、夏の休暇を利用してハンガリーに出国した。その数は最初は何千人単位であったが、夏の終わり頃には国境付近のキャンプ場におよそ10万人の東ドイツ人が集まっていた。短期間のうちに事態は極めて切迫していたのである[42]。祖国を離れることを望む東ドイツ市民の数がこの1989年前半に出国許可以上に急速に増大したその理由は、経済状況への不満とともにソ連・ポーランド・ハンガリーで生じている政治改革が東ドイツでは一切行われないことへの不満であった[43]


7月7日と8日に、ブカレストでワルシャワ条約機構首脳会談が開かれて、民主化に動いたハンガリーやポーランドが議題となり、特にハンガリーに対してルーマニアのニコラエ・チャウシェスクと東ドイツのホーネッカーはネーメト首相を非難し「共産主義に対する重大な危険」が存在すると警告した。しかしソ連のゴルバチョフは「社会主義が脅かされているとの懸念に根拠はない。我々は一つの国際秩序から別の秩序に移行しつつあるのだ。」と答え、チャウシェスクもホーネッカーも憤然とした[44]。これより前の3月にゴルバチョフはネーメトとの会談でハンガリーには介入しないことを明確にしていた。この時にホーネッカーはゴルバチョフを見誤っていた[45]。シャボフスキーは後に、この時に東ドイツ首脳部の中でゴルバチョフと全く信頼関係を築かないホーネッカーに対する疑念が広がり、危機感が広がっていったという。しかもホーネッカーはこの7月の首脳会談で体調を崩し、帰国後に急性胆のう炎と診断されて療養生活に入り、その後東ドイツは指導者不在となって、何も手を打つことが出来ない状態になった[46]


この間に、東ベルリンにある西ドイツ常駐代表部にも100人を超える東ドイツ市民が西側への出国を望んで押し寄せて、8月8日に西ドイツ常駐代表部はその建物を封鎖した。8月10日にブダペストの、22日にはプラハの西ドイツ大使館も同じ理由から建物を封鎖した[47]。治安問題担当の書記で政権ナンバー2であったエゴン・クレンツ(党政治局員・国家評議会副議長兼務)は8月11日に一時復帰したホーネッカーに対し、出国者数を報告し、国民の大量出国問題を党の政治局で討議するよう進言したがホーネッカーは、


それで、どうするつもりかね。なんのために出国者の統計など出すのか。それがどうした。壁を築く前に逃げた連中ははるかに多かったよ[48]

と言って、報告書を金庫に放り込みクレンツの進言を意に介さなかった。さらにクレンツはホーネッカーから長期休暇を命じられて10月1日まで政権中枢から遠ざけられた。この後ホーネッカーは療養生活に戻り、保守派のギュンター・ミッターク(ドイツ語版)書記以外は政治局員でさえ近付けなかった。



汎ヨーロッパ・ピクニック


8月19日、ハンガリーの民間団体の主催で「汎ヨーロッパ・ピクニック」がハンガリーとオーストリアの国境沿いのショプロンで開かれた。このイベントはハプスブルク家の末裔であるオットー・フォン・ハプスブルクが主催者となり、当初ハンガリーの人権グループと民主フォーラムとともに「鉄のカーテンに別れを告げる祝賀の日」として計画されたものであった。これにハンガリー社会主義労働者党急進改革派のポジュガイ・イムレ政治局員が共催者として入り、しかもポジュガイの後ろにはネーメト政権がいて、このイベントはハンガリーに滞留する東ドイツ人をハンガリーとオーストリアとの国境を超えて西ドイツへ逃がすことを密かに企図したものとなり[49]、後にヨーロッパ・ピクニック計画と呼ばれた。


そしてこの「汎ヨーロッパ・ピクニック」に集まってきた東ドイツの人々は先を争って国境線を超え、661人がオーストリアへの越境に成功した[注 8]。走って国境を越えた人々が抱き合い涙する場面がテレビで映し出されてから東ドイツでは誰もが出国について口にするようになったと言われる。この時にホーネッカー政権が東ドイツ国民の西側への大規模な出国を阻止することはもはや不可能となった[50]。8月にハンガリーからオーストリアを経て自力で越境した人々は3000人に達した[51]。ただ、ハンガリーにとって予想外だったのはこれ以後も東ドイツ市民が国境が開かれていると勘違いしてハンガリーに殺到し、そのまま国内に留まったことだった。これはハンガリーにとっても重大な問題で、前年誕生したばかりの改革派のネーメト政権にとって国内の保守派の突き上げと東ドイツからの送還要求、そしてソ連の動向を見ながら苦慮していた。しかしネーメトはこのピクニックの大量越境事件でソ連がどんな反応を示すか探っていた。ネーメトは後に「ソ連の許容限度をテストする絶好の機会でした。」と語っている[52]



ハンガリーの決断


8月22日、前夜に国境付近で越境しようとした東ドイツ人がハンガリー国境警備隊に射殺されたことを受けて、ネーメト首相は事態打開は国境を開くしかないと決断した。


8月25日、ハンガリーのネーメト首相とホルン外相は密かに西ドイツの首都ボンへ飛行機で飛び、そこからヘリコプターでボン郊外のギムニッヒ城(西ドイツの迎賓館)に飛び秘密裡にコール首相とゲンシャー外相との会談に臨んだ。この会談はハンガリー側からの要請で事前には西ドイツにとっても極めて重要なことである旨を伝えていた。ネーメトはコール首相に単刀直入にハンガリーが直面する東ドイツ難民について、人道的理由から東ドイツ市民が自由に出国できることを認めると切り出し、9月半ばまでにオーストリア国境を開放する用意があるとして、その受け入れとして西ドイツに10万から15万人に達する東ドイツ市民を送り、彼らが入国できるようにするための施設などの対処をお願いしたい、その準備が完了次第にオーストリアへの国境を開放する方針を示した。この信じられない話を受けてコール首相は感謝の念を伝え、難民の受け入れセンターとその輸送手段を急ぎ準備に入ることを約束した[53][注 9]。そしてこの日の夜、コール首相はソ連のゴルバチョフに電話して、ゴルバチョフの真意を聞き、ゴルバチョフは「ハンガリー人はいい人たちです。」[注 10]と答えてこの難民処理の解決方法を黙認することを伝えた。それは鉄のカーテンに風穴が開くことであり、ベルリンの壁が実質的に意味を為さなくなることであった。ハンガリーはこれによりワルシャワ条約機構加盟国の義務を一方的に放棄し、東側陣営から西側陣営に鞍替えしたのである[54]



ハンガリーの国境開放


8月31日、ハンガリーのホルン外相はベルリンに飛び東ドイツのフィッシャー外相と会談し、二国間協定に基づき難民の送還を要求するフィッシャー外相に対して、「難民はあなた方の政府を信用していない。ハンガリーは数日中に難民を西側に行かせる予定だ。」と答えるとフィッシャーは激怒して「それは裏切りだ。あなた方に重大な結果をもたらすぞ。」と声を荒らげた。この直後に東ドイツはワルシャワ条約機構加盟国外相会議を提案してハンガリーに圧力をかけることを図ったが、ポーランドは拒否し、肝心のソ連も不参加で、ソ連を味方にしなければ自分たちで出来ることは殆ど無いことを悟らざるを得なかった[55][注 11]


東ドイツの人々はハンガリーやチェコスロバキアに殺到し、ブダペストやプラハの西ドイツ大使館の周辺にも溢れかえるようになった。ハンガリーでは国境付近で捕まった東ドイツ市民をその後密かにブダペストのキリスト教会(ズグリゲット教会)に集めて裏庭に多数のテントが張られて1000人を超す東ドイツ市民がテント生活をしていた。そして裏庭に面した窓から西ドイツ大使館職員が密かに西ドイツへのパスポートを作成していた[注 12]


東ドイツにとってベルリンの壁の意義は無くなった。


そして9月10日にハンガリーのネーメト政権がオーストリアとの国境の国境管理の停止と全面開放を決定し、夕方ネーメト首相がテレビで公式発表[注 13]すると東ドイツ市民は歓呼の声を上げ、キャンプ場に滞在していた多くの東ドイツ市民には、西ドイツ外交官がマイクで伝えた瞬間、矢のように国民車トラバントに乗って国境まで押しかけた。やがて9月11日午前0時をもって東ドイツとの協定[注 14]を破棄して国境を開放し、国内にいる東ドイツ市民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させた[56]。この国境開放で9月末までに約3万人がオーストリアに逃れた[57]。この間に西ドイツとオーストリアとで東ドイツの人々をビザなしでオーストリア領内を通過させる協定を結び国境に数十台のバスを待機させ、オーストリアを過ぎて西ドイツ領内に入ってすぐのパッサウに数万人が収容できる移民センターを建設していた[58]



国内の混乱




エゴン・クレンツ(右、1989年9月20日)


翌日の社会主義統一党の政治局会議では出席者はハンガリーの対応を非難したが、ホーネッカーがまだ療養中で不在だったために結局何の対策も取られず、ハンガリーに対して何も報復することも出来なかった。既に政治局員の間でも市民の流出が続いて東ドイツの存立が危うくなってきていると認識はされるようになっていたが、結局それが討議されることも無かった[59][注 15]


そうしている間にも、東ドイツ国内では医師、電車やバスの運転手、高等教育を受けた若い労働者などが次々に出国し、東ドイツのあちこちで交通機関の運休や医療の崩壊、工場の閉鎖などの社会的混乱が起きていた[60]。プラハの西ドイツ大使館では、9月以降毎日100人以上の東ドイツ人が柵を乗り越えて押しかけ、9月末にはその数は4000人に達していた[61][注 16]。この熟練労働者の新たな脱出こそ社会主義統一党の正当性の主張が空虚であることを表し、東ドイツにおける共産党支配の最終的崩壊を開始させたものであった[62]


こうした中、当時のイギリス首相マーガレット・サッチャーはミハイル・ゴルバチョフ書記長に、東側のリーダーとしてベルリンの壁崩壊を阻止するために出来得る限りのことをするよう要請し、次のように語った[63][64]


我々は統一ドイツを望まない。これは戦後の国境を変えることになってしまうことでしょう。我々は世界情勢の安定を傷つけ、我々の安全の脅威となるような発展を認めることはできない[63]
— マーガレット・サッチャー

9月26日、療養生活から復帰したホーネッカーは政治局会議を開催したが、10月7日に予定される建国40周年記念式典の準備を指示しただけで、出国者問題には触れなかった。9月27日、ニューヨークの国連総会の合間にソ連のシェワルナゼ外相とゲンシャー西ドイツ外相及びフィッシャー東ドイツ外相が会談し、東ドイツはプラハの西ドイツ大使館の東ドイツの人々を「追放」することに合意した。東ドイツから見れば「追放」であり、西ドイツから見れば「自由への脱出」であった。


9月30日、プラハの西ドイツ大使館のバルコニーに突然ゲンシャー西ドイツ外相が現れて、大使館内の敷地に野宿していた人々を前に「我々は今日皆さん方が出国できるということをお伝えするために、ここへやって来ました。」とアナウンスすると絶叫とともに人々の喜びと安堵の叫びで、大使館内は騒然として、ゲンシャー外相のその後の発言はかき消されて、誰も聞き取ることが出来なかった[65]。この大きな歓喜を解き放った模様はテレビを通じて全世界に伝えられた[66]


ただ東ドイツにとっては、10月7日に予定している建国40周年式典を前に目障りな問題を処理するだけのことであった[67]。そしてこれが「追放」であることを示すために、わざわざチェコスロバキアから東ドイツ領内を国有鉄道の列車で通過させることを要求した。これは東ドイツ政府が威信の問題としてこだわったことであった。10月1日から数千人と見られる東ドイツの人々が列車でドレスデン、ライプツィヒを通って西ドイツに向かった。10月4日にプラハからの列車が出国が認められた人々を乗せて領内を通過した時、ドレスデン中央駅に到着した際には、それに乗ろうとするドレスデン市民と人民警察の間で衝突が発生した[68]


東ドイツでは、大量出国の問題が深刻化するにつれて、問題の解決策を「誘導措置」と呼んだ。出国の波を阻止するのではなく制御する方向に変えて、記念式典を前に乗り切ろうとした。プラハと同じくポーランドのワルシャワでも「誘導措置」を行い、ワルシャワの西ドイツ大使館に逃れた人々をポーランド航空の特別便で「追放」した。しかしこれは国家の存立を脅かす局面でしかなかった[69]


10月3日、東ドイツ政府はチェコスロバキアとの国境を閉鎖した。これによって、東ドイツ国民がチェコスロバキア、ハンガリー、オーストリア経由で西側へ逃れることは不可能になった。しかし出国することが出来なくなったため、逆に東ドイツ国民の不満は体制批判に転化していた[70]



ライプツィヒの市民デモ


国外へ大量に出国する市民もいれば、国内に留まってドイツ民主共和国を内部からの改革を目指す動きはこの時期から活発になっていった。9月4日、ライプツィヒでは秋の見本市が開催されていたがおよそ1200人が「大量逃亡の代わりに旅行の自由を」と叫んでデモが行われた。以後ライプツィヒを拠点にデモ(月曜デモ)が激化していくことになった。このデモは2週間後の9月25日には8000人、10月2日に1万5000人、10月9日に7万人、10月16日に15万人、10月23日にはついに30万人がデモ行進に参加して、それまでの東ドイツにかつて見られなかった多くの市民が加わった大規模なものになった。「我々はここに留まる」「我々が国民だ」「自由な選挙を」「国家保安省は出ていけ」と叫び、市民運動「新フォーラム」の認知とドイツ民主共和国憲法第1条の削除を要求した。第1条には社会主義統一党が国家を指導することが謳われていた[71][72]



建国40周年記念式典




東ドイツ建国40周年式典に出席したホーネッカーやゴルバチョフら東側諸国の首脳陣(1989年10月7日)




建国40周年記念の、自由ドイツ青年団によるパレード


ホーネッカーにとって最後の頼みの綱は、ソビエト連邦からの支持を得ることであったが[注 17]、10月7日の東ドイツ建国40周年式典を訪問したソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、軍事パレードの後にシェーンハウゼン城(ドイツ語版)(東ドイツ政府の迎賓館として使用されていた)で行われたソ連・東ドイツ両国の党幹部の会合で演説し、自国のペレストロイカの現状を報告した後、「遅れて来る者は人生に罰せられる」とホーネッカーに対する批判とも取れる言葉を述べた[73]


これに対して演説を行ったホーネッカーは、自国の社会主義の発展をまくしたてるのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて一堂を見渡すと、舌打ちをした[74]。ゴルバチョフがホーネッカーを支持していないのは東ドイツの他の党幹部達の目にも明らかだった。


ゴルバチョフは人民議会での演説でも先に発表した新ベオグラード宣言の内容を繰り返し、各国の自主路線を容認する発言をしたのみで東ドイツ政府の支持には言及しなかった。


また前日の6日夜に行われたパレードでは、動員されたドイツ社会主義統一党の下部組織・自由ドイツ青年団(FDJ)の団員らが突如として、ホーネッカーら東側指導者の閲覧席に向かって「ゴルビー! 私たちを助けて」とシュプレヒコールを挙げるハプニングがあった[75]。これを見たポーランド統一労働者党のミェチスワフ・ラコフスキ(英語版)第一書記は、ゴルバチョフに若者たちの話している内容が理解できるか尋ねたところ、ゴルバチョフはドイツ語は良くは知らないが、分かるような気がすると答えた。ラコフスキは「『ゴルバチョフ、我々を助けて』と懇願しているのですよ」と答えた後、次のようにゴルバチョフに教えた。


これらの若者は、党活動家の最良の部分とされているのです。これで、おしまいですよ[76]
— ミェチスワフ・ラコフスキ

7日夜に共和国宮殿で行われた晩餐会の席でもゴルバチョフは、東ドイツを賛美し自画自賛するホーネッカーの乾杯の挨拶を聴きながらそのすぐ脇で手厳しく批判の言葉を述べていたという。ホーネッカーが自画自賛しているその時、共和国宮殿の周りではデモ隊が抗議集会を行っていた[77]。ゴルバチョフは晩餐会が終わるとそのままシェーネフェルト空港へ直行し、そそくさと帰国してしまった。クレンツによれば、この時ゴルバチョフは周囲に居たSEDの党幹部達に「行動したまえ」と、暗にホーネッカーを退陣させるよう囁いたという[78]。この日の夜、全体で547人が拘束された[79]



ホーネッカーの失脚


こうしてゴルバチョフに見捨てられ、忠実なはずの党の青年組織からも公の場で反目されたホーネッカーは、ドイツ社会主義統一党内での求心力も急速に失われ、党内のホーネッカー下ろしに弾みが付けられた形となった。


10月9日、ライプツィヒの月曜デモは7万人に膨れ上がり、市民が「我々が人民だ(ドイツ語版)」(Wir sind das Volk)」と政治改革を求める大規模なものとなった。ホーネッカーは警察力を使って鎮圧しようとしたがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団指揮者のクルト・マズアらの反対に遭い、また期待していた在独ソ連軍が動かず失敗に終わった[80][注 18]


こうした東ドイツ国内外での混乱が拡大すると、危機感を募らせたクレンツや党政治局員で党ベルリン地区委員会第一書記のギュンター・シャボフスキーらは、まず10月10日から11日にかけて行われた政治局会議でホーネッカーに迫って、今までの政治体制の誤りを事実上認める政治局声明を出させた[注 19][81]。今までの自分の政治を否定される格好になったホーネッカーは、12日に中央委員会書記、全国の党地区委員会第一書記を集めた会議を招集し、自身への支持を取り付けて巻き返そうとした。しかし、ドレスデンでの混乱に直面したハンス・モドロウ(ドレスデン地区委第一書記)ら各地区の第一書記からホーネッカー批判の声が上がり、全くの逆効果に終わった[82]。特にポツダム地区第一書記のギュンター・ヤーンは殆どあからさまに退任を求めた[83]


勢いづいたクレンツ、シャボフスキーらはヴィリー・シュトフ閣僚評議会議長(首相)やソ連の指導部とも連絡を取り、密かにホーネッカーの追い落としを画策した。10月16日、ホーネッカーは再び月曜デモに対して武力鎮圧を主張したが、国家人民軍(東ドイツ軍)参謀総長のフリッツ・シュトレーレッツ大将(SED政治局員)は「軍は何もできません。すべて平和的に進行させましょう」と言ってホーネッカーの命令を拒否した[84][注 20]。もはや軍も、ホーネッカーには従わなくなっていた。


10月17日[注 21]午前10時、社会主義統一党中央委員会の政治局会議[注 22]が始まった。いつものように議事を進行し始めたホーネッカーに対し、突如シュトフ首相はホーネッカーの書記長解任を中央委員会に提案するよう要求した。これにはホーネッカー以外の政治局員および政治局員候補の全員が賛成を表明し、ホーネッカーは自らの解任動議を可決せざるを得なかった[85]。10月18日、中央委員会総会でホーネッカーは正式に退陣し、エゴン・クレンツが後任の書記長に選出された。そして10月24日に人民議会で国家評議会議長及び国防評議会議長にも選出された。しかしこの人民議会でそれまで全員一致が慣行であったのが、国家評議会議長で26票の反対、27票の保留、国防評議会議長で8票の反対、17票の保留があった[86]



クレンツの驚き




東ベルリンでの反政府デモ(1989年11月4日)


エゴン・クレンツはホーネッカーの子飼いの部下であり、この時にホーネッカーに反旗を翻したものの、国民はおろか社会主義統一党の党員達からでさえ信頼されていなかった[87]。クレンツが直面したのはこの信頼性の欠如であった。5月の自治体選挙における不正の中心的責任者であり、市民デモへの警察の鎮圧の直接の責任者である治安担当書記であったことがその理由であった[88]


しかも一党独裁制の枠の中で緩やかな改革を行おうと思ったクレンツは、書記長に就任してすぐに驚くような報告を受けた。国家計画委員長ゲアハルト・シューラーから国家財政の破滅的な状況について知らされたのである。負債額はこの15年間に12倍に膨れ、年間100億マルクのペースで増え、粉飾決算を繰り返して西側の融資を得ていたが、これが明らかになれば東ドイツの評判は落ち、差し迫った問題として次の利払いに充てる資金が無く、西ドイツからの短期融資の支援が必要であるとのことであった[89]


クレンツは11月1日にモスクワに行きゴルバチョフと会談した。そして金融支援を懇請したが「我々は支援を提供できる立場にない。ソ連に支援を頼るべきでない。」と固辞された。そしてデモで揺れる国内の情勢から「大衆デモが壁を突破しようとする可能性があり、警察が介入し一定の緊急事態も想定される」とクレンツが発言すると、ゴルバチョフは政治的恐喝と受け止め、「ソ連の軍事的支援を期待することはできない」、「国民の大量出国と壁の問題はあなた方が解決すべき問題で、すぐに解決しなければあなた方に大変な問題が起こる」と告げられて、何の成果もないままベルリンに戻った[90]


この間に3週間前に閉鎖したチェコスロバキアとの国境を11月1日に再開し、11月3日に東ドイツとチェコ政府とで協定を結び、再びビザなしでの旅行を認めチェコと西ドイツ国境の開放を承認した。再び膨大な数の東ドイツ市民がチェコに入り、身分証明書の提示だけでチェコスロバキアはすぐに西ドイツへの国境通過を認めた。このルートで僅か3日間で5万人以上が東ドイツを離れ[91]、そして多くの東ドイツの人々がプラハの西ドイツ大使館に流れ込んだ[注 23]


11月4日に、首都の東ベルリンでも百万人以上が言論・集会の自由を求める大規模なデモが起こり[92]、東ドイツ政府は根底から揺さぶられる事になった。もはや混乱は収拾が付かない状態に陥っており、クレンツ政権も十分に状況を把握出来なくなっていた。



東ドイツの空洞化




政治局員の行動を求めるデモ(1989年11月8日)


この年の11月までに約25万人が東ドイツを離れていった。それも平均30歳未満の若者が多い。ライプチッヒでは市内のバス運転手の半数が出国したため退職者が職場に戻り、軍の兵士もバス運転に動員されていた。地方では砂糖もアーモンドも小麦粉も手に入らずパン屋が苦労している、食料品や生活必需品が倉庫に山積みされたままになっているなどの話があり、トラック運転手が姿を消したためという。市の担当者が立ち去ったために建物のヒーターが使えず水道の蛇口をひねっても水が出ない状態になっている。鉄道が時刻表どおりには走っていない。ブレーキ係も配電盤担当も機関士も出国したからである。夕方勤務を終えて帰宅し翌朝には職場に現れない[93]


ドレスデンのメーカーに所属するサッカーチームがチェコスロバキアに休暇旅行に行って戻ってきたのは半数しかいなかった。監督は「工場で、毎朝今日は何人が出勤するかも分からない状態でどうやって工場を運営するのですか」と語った。高い技能を持つ専門家ほど去って行く人数は多い。ある有名な医療施設では夏休み期間中に三分の一が戻って来なかった。東ベルリンのある病院では数カ月の間に41人の医師・看護婦が姿を消した。もはや閉鎖寸前に追い込まれている病院もあった[94]


若者が去って社会は空洞化し、ドイツ民主共和国はもはや崩壊寸前であった。



「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令作成




SEDの党員達にスピーチを行うクレンツ書記長(1989年11月8日)。クレンツの右にいるのがシャボフスキー。


1989年11月6日、東ドイツ政府は新しい旅行法案を発表した。この法案では西側への旅行は許可されるとしたが、しかしそれは年間30日以内と限定された上に出国の際には相変らず国の許可を要することや「特別な社会的要請があった場合」には許可が取り消されるなど様々な留保条件が付けられていたため[95]、翌日に既にそれまでのように党の決定に対して従順では無くなっていた人民議会によって否決された[96]。議会の否決を受けてクレンツらは新たに暫定規則(政令)で対処することにした[97]。そしてこの11月7日に政府閣僚は全員辞職した[98]


その間にもプラハの西ドイツ大使館には東ドイツ市民が溢れていた。


11月8日から開かれた党の中央委員会で政治局員はいったん全員が辞任し、ヴィリー・シュトフ首相やエーリッヒ・ミールケ国家保安相らの引退と改革派のハンス・モドロウらの政治局入りが決定し、ハンス・モドロウを後継の首相に任命することが決まった[注 24]


この後ようやくクレンツは、東ドイツ国内の世論に押される形で党と政府の分離、政治の民主化、集会・結社の自由化、市場原理の導入などの改革を表明した[99]。しかしこの日から行われた中央委員会は混乱していた。出席者からは工場で怒った労働者が党に反抗し始めていることが報告され、さらに各地で起きているデモへの対応などを巡って中央委員会の出席者たちはお互いを非難し、罵り合うような状態であった。党は自己批判と相互告発の猛威にさらされて力を使い尽くしていた[100]



1989年11月9日


この日、前日からのドイツ社会主義統一党中央委員会第10回総会の混乱は続いていた。経済学者ゲアハルト・シューラー(ドイツ語版)国家計画委員長によって東ドイツの財政が莫大な対外債務を抱えて破綻寸前になっていることが報告され、これまで東ドイツが社会主義国では一番の工業力・経済力を持っていると信じていた党員達は当惑と失望、ホーネッカーらに対する怒りの感情を抱いた[101]。そして内務省では新しい旅行に関する政令案の作成作業が進んでいた。



政令案作成作業チーム


この日までにクレンツは恒久的出国(国外移住・永住出国・常時出国とも呼ばれる)[注 25]を認めることで新しい政令を作成するように指示していた。新しい政令案の作成作業は朝から進められていた。内務省と国家保安省(シュタージ)の4人からなるこの作業チームは、チェコのプラハに滞留している東ドイツ難民の処理に苦慮していた。結論はビザ取得の手続きを進め渡航を許可することとし、そして「恒久的出国」(あるいは国外移住・永住出国・常時出国)についての検討を加える中で、留保条件を付けずにいつでも申請可能な個人旅行の規定をあっさりと草案に盛り込んだ[102]


元々の草案は永住出国の希望者を対象としたもので、西ドイツの親類に会ったり、短い休暇を取ったりするための一時的に越境をしたい人は含まれていなかった[103]。しかしこの作業チームの一人である内務省旅券局長ゲアハルト・ラウターが後に語っていたが、永住出国は認めるが一時的な外国旅行は認めないという施策は、例えば西側に移り住むのは出来るが普通に旅行することは出来ない(戻って来ない永住出国であれば認めるが、戻ってくる外国旅行であれば認めない)ことになり矛盾し整合性に欠けていて、現実的には不可能なものと考え直し[注 26]、土壇場で書き直して、手続きを簡略にして、個人的な旅行も申請さえすれば認めてその後の再入国も出来るようにする、という結論であった[注 27]。最終草案には壁の開放は宣言していない。ただ「パスポートとビザを有する者は誰でも東ドイツと西ドイツ及び西ベルリン間の国境検問所を通過して、永久にあるいは一時的に国を離れることが出来る」と述べて、そのために東ドイツ国民は出国許可を申請しなければならない、として国の一定の管理を担保するように考えられた案であった。そして明日、11月10日金曜日に発効する、と草案は明記していた[104]


この新しい政令案は12時に中央委員会の会議に届いた[105]



中央委員会


午後3時過ぎ[注 28]、クレンツは中央委員会で前日から続く非難の応酬戦を中断し[106]、「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案を読み上げた。それは以下のようなものであった。



  • 1. Die Verordnung vom 30. November 1988 über Reisen von Bürgern der DDR in das Ausland (GBl. I Nr. 25 S. 271) findet bis zur Inkraftsetzung des neuen Reisegesetzes keine Anwendung mehr.



  • 2. Ab sofort treten folgende zeitweilige Übergangsregelungen für Reisen und ständige Ausreisen aus der DDR in das Ausland in Kraft:

    • a) Privatreisen nach dem Ausland können ohne Vorliegen von Voraussetzungen (Reiseanlässe und Verwandtschaftsverhältnisse) beantragt werden. Die Genehmigungen werden kurzfristig erteilt. Versagungsgründe werden nur in besonderen Ausnahmefällen angewandt.

    • b) Die zuständigen Abteilungen Paß- und Meldewesen der VPKÄ in der DDR sind angewiesen, Visa zur ständigen Ausreise unverzüglich zu erteilen, ohne daß dafür noch geltende Voraussetzungen für eine ständige Ausreise vorliegen müssen. Die Antragstellung auf ständige Ausreise ist wie bisher auch bei den Abteilungen Innere Angelegenheiten möglich.

    • c) Ständige Ausreisen können über alle Grenzübergangsstellen der DDR zur BRD bzw. zu Berlin (West) erfolgen.

    • d) Damit entfällt die vorübergehend ermöglichte Erteilung von entsprechenden Genehmigungen in Auslandsvertretungen der DDR bzw. die ständige Ausreise mit dem Personalausweis der DDR über Drittstaaten.



  • 3. Über die zeitweiligen Übergangsregelungen ist die beigefügte Pressemitteilung am 10. November 1989 zu veröffentlichen.


[107]


(日本語訳)



  • 一、1988年11月30日の国外旅行に関する法令は、新旅行法が発効するまでの間適用されない。

  • 一、旅行および国外移住に関する次の暫定的経過措置が直ちに発効する

    • 1.外国旅行は(旅行目的、親戚関係など)諸条件を提示することなく、申請できる。

    • 2.警察の旅券・登録部門は、国外移住のための出国査証を遅滞なく発給するよう指示される。

    • 3.国外移住に関して、両独国境ないし東西ベルリンのすべての検問所を使用できる。

    • 4.(省略)



  • 一、この暫定的経過措置については、添付の報道機関用資料が11月10日に発表される


[108]



クレンツは新しい旅行法を施行するまでの過渡的な規定として、この文書を読み上げ提案した[109]。そしてこの提案は「暫定的」の文言を削除したうえで、中央委員会の承認を受けた。


この新しい政令について、作業チームが提出した文書には「旅券を所持している東ドイツの全ての人民は、いつでも、ベルリンを含むどこでも国境警備のチェックポイントを通って出国することを認めたビザを取得する権利を有する。旅券を持たない人民も出国の権利を付与する特別のスタンプを押した身分証明書を所持することができる。」と書いてあった。そして中央委員会でクレンツは「11月10日から効力を発効する。」「明日、11月10日に国境を開放する。」と説明している[110]。そして「東ドイツにとってプラスにならないあらゆることが第三国を通じて行われており、問題を解決するにはこれ以外の方法はない。」と述べ、この時に「暫定的」の文言の削除とともにフリードリヒ・ディッケル内相から公表は内務省でなく、閣僚評議会から行うべきとの意見が出て、クレンツは「分かった。政府スポークスマンがそれを直ちに行うように、私は言う。」と発言している[111][注 29]


この時にクレンツは東ドイツ市民は誰でもベルリンの壁の検問所に行けば通行が認められる、などとは思わなかった。とんでもないことを意味するものがそこにある、とは思わなかった。それまでと同じく旅行許可を役所に申請しなければならず、これで大量出国の問題について時間を稼ぎ鎮静化できると考えていた[112]



記者会見




「旅行許可に関する出国規制緩和」を発表するシャボフスキー(1989年11月9日)


この時に社会主義統一党中央委員会政治報道局長に就任したばかりのシャボフスキー[注 30]は、午後6時からの記者会見のためにクレンツの執務室に入った。この時にクレンツはシャボフスキーに政令文とプレスリリース用の文書を手渡して「これを持っていけよ。きっと役に立つから。」と述べた。しかし細かい説明はしなかった。文書の「今から」が「明日11月10日から」と念押しなかったことが、この決定的瞬間に致命的な誤りとなった[113][注 31]。シャボフスキーはこの政令案の討議の時には中央委員会にはいなかった。


シャボフスキーは、午後5時50分に中央委員会の席を離れて、すぐ近くのモーレン通りにある記者会見の会場(国際記者会館)に公用車に乗って向かった[注 32]。彼はクレンツから渡された書類に目を通そうにも公用車の車内が暗いためよく読めないまま、すぐに記者会見の場に到着し、午後6時から記者会見が始まった。この西側各国との記者会見は、ウルブリヒト時代から行われていたが、それまであくまで東ドイツのプロパガンダの場であった。新政権発足後はほぼ毎日定例記者会見を行い、既に十数回の会見を行ってきた。しかも後にシャボフスキーが述べていたが、この日から新政権の新しい試みとして中央委員会の内幕とそれに対する質問を許可することとなり、記者も政権側も不慣れなやり方であった。この西側各国との記者会見には400人の記者が集まっていた[114][注 33]。この記者会見は東ドイツ国営放送で生放送された。


そして始まってから1時間ほどは中央委員会での諸決定について型通りの報告で行政改革や閣僚の交代といった退屈なものであった[注 34]


午後6時53分、記者会見が終わりに近づいた時に、イタリア国営通信ANSAの主席通信員リッカルド・エールマンが質問に立ちマイクをとった[115][注 35]




  • エールマン
    • 貴方が示された数日前の旅行法案が大きな過ちであったとお考えではありませんか。


  • シャボフスキー
    • いや。私はそうは思いません。旅行をしたり、ドイツ民主共和国を出たいという住民の中のこうした傾向、住民のこうした欲求を我々は承知しています。従って我々は一連の事情を通じて、旅行法もその一つですが、行きたいところに旅をする、市民の自主的な決定のチャンスを与えたいと望んでいます。・・我々は当然・・気掛かりなのですが、この旅行法の可能性が・・法律はまだ発効していませんし、確かに草案です。もちろん本日、私の知る限りでは一つの決定が下されました。恒久・・その言い方がきわめて適切か適切でないかはともかく恒久的出国、つまり共和国を立ち去ることを規定する条文を旅行法草案から抜き出して発効させる、という政治局の勧告をが取り上げられたのです。我々はこの出国運動が・・ある友好国を経由して・・行われることは非常識な事態と考えますし、友好国にとってもそれは理解に苦しむところであります。そこで・・我々は本日・・共和国市民の誰もが共和国の国境通過所を通って出国できるように規則化することに決定しました[116]




実はシャボフスキーは中央委員会の席に居ながら、事務方との打ち合わせで委員会を何度も中座しては出入りを繰り返し、この当該文書の仔細を把握していなかった。この不正確な情報しか持たず、思い違いをしていたことは、この日の社会主義統一党中央委員会が混乱していたことを反映していた。この重要な思い違いが事態をさらに悪くしてしまった上[117]、さらに政令案の通知文が既に記者達に配布済という勘違いを前提に公式の書面を把握していない記者の質問に答える事になった。




  • エールマン
    • それはいつからなのですか。


  • シャボフスキー
    • えっ、何ですか。


  • エールマン
    • 直ちにですか。


  • シャボフスキー
    • つまり皆さん、私のところにはその通知が来ていますが、そうした通知はもうすでに・・広く連絡済みで・・あなた方はすでにお持ちでしょう[118]。我々はもう少々手を打った。ご承知のことと思う。なに、ご存じない?これは失礼。では申し上げよう[119][注 36]




ここでシャボフスキーはクレンツから渡された報道発表用の書類を取り出し、勝手が違ったように戸惑いながら早口で書類を読みだした。



  • シャボフスキー
    • よろしい。外国への個人旅行はそのための諸前提(旅行目的と親戚関係)を欠いても申請が可能である。許可は短期間で与えられる。民主共和国の人民警察所轄署VPKAの旅券・住民登録担当課は恒久的出国のためのビザを即刻交付するように命令を受けている。その際には恒久的出国のための現行法の諸前提が整っている必要はない。恒久的出国は民主共和国から連邦共和国への全ての国境通過検問所を経由して行う。したがって民主共和国の国外代表部が暫定的に付与できる出国許可や共和国の身分証明書による第三国を通じての恒久的出国は不要となる。・・旅券問題は今は答えられません。それは管轄外の問題でもあります。私には全く解りかねますが、旅券は・・まぁ誰もが旅券を持てるためにまずもって交付されるべきでしょう。・・・ところで我々が欲したのは・・・[120]



この時にその後11月9日が歴史的な日となったコメントがシャボフスキーから出た。




  • エールマン[注 37]
    • それはいつ発効するのですか。


  • シャボフスキー

    • 私の認識では『直ちに、遅滞なく』ということです(Das tritt nach meiner Kenntnis… ist das sofort, unverzüglich.)[121][注 38]




この直後にアメリカNBC放送のトム・ブロコウ記者から「ベルリンの壁はどうなるのか?」「西ベルリンに東ドイツ市民は行けるのか?」との質問があった。シャボフスキーはこの時に文書の隅々まで調べて、ある文章を発見した。それには「西ドイツ及び西ベルリンへの越境は許可される」と書かれてあった。そしてそのまま伝えて、質問に肯定する素振りを見せた[122]。「常時出国は東西ベルリン間を含む東西ドイツ間のどの国境検問所からでも行える。」[123]


これでシャボフスキーは「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と、勘違いで発表してしまったのである。「東ドイツの全ての国民が東ドイツの国境検問所を使って国を離れることを可能にする」「外国への個人旅行は現在のビザ要件を提示したり、旅行の必要性や家族関係を証明したりしなくても申請できます。旅行許可は短期間で発効されます」「遅滞なく発給するように指示されます」と述べたのであった。


この政令案はこの日中央委員会で承認されたが、まだ閣僚評議会(内閣)の閣議では決定されておらず、正式な政令にはなっていなかったのだが、シャボフスキーは閣議決定されているものと勘違いしていた。そしてシャボフスキーの発言の後、政令は正式に閣議決定され、東ドイツ国営通信が政府報道官の発表として伝えている[124][注 39]


この政令案は、明日11月10日に発表し、直ちに発効すると定められていたが、シャボフスキーにはそれを伝えられていなかった。シャボフスキーに渡された政令案の文書が10日に報道発表するための文書で、上記の政令案の素案と違って、発効期日は書かれていなかった[125]



マスメディアの報道


東ドイツでは言論統制で出版物や新聞・雑誌の発行及び西側からの持ち込みも禁止されていたが、唯一電波だけは防止することが出来なかった。東ドイツ領内の中心に位置するベルリンの西側から電波を発信していて東ベルリン120万人が西側の全国ネットの放送局西ドイツ放送連盟(ARD)と第二ドイツテレビジョン協会(ZDF)を視聴できた。この他に西ベルリンを含む東西ドイツ国境沿いで8カ所のテレビ塔を立てて東ドイツ国内に自国のテレビ番組が見られるように電波を飛ばしていて[注 40]、南東部のライプツィヒやドレスデン一帯には地上波は届かなかったが(その代わりパラボラアンテナで衛星放送が受信できた)、およそ東ドイツの7割近くが受信可能であった[126]


この11月9日夜の記者会見の模様は、東ドイツ国営テレビのニュース番組において生放送されていた。東ベルリンも西ベルリンのテレビ電波が受信出来るので東西市民は互いのテレビ番組を視聴することが可能であった。

またラジオも同様であった。西ベルリン市内に中継局が存在する西ドイツラジオ局の他、夜になると電離層反射で遠くイギリスやスウェーデンの放送も受信することができた。


そしてこれを見ていた東西両ベルリン市民は戸惑い半信半疑となった。この発言が出た時、時刻は午後7時を少し回っていたが、それから4分後にはロイター通信・ドイツ通信(DPA)・AP通信の各通信社は速報を出した。混乱してロイター通信とドイツ通信は『旅行に関する新しい取り決め』があった事実に重きを置いた打電であったが、AP通信は「境界が開かれる」と打電している[127]。7時17分に西ドイツのテレビ局ZDFがニュース番組「ホイテ(今日)」で放送し、7時30分からの東ドイツ国営テレビのニュース番組「アクテュエレ・カメラ(今日の映像)」では2番目にこのニュースを伝えた。ただどちらも「旅行に関して新しい規則ができた」と報じただけであった。


しかし7時41分にドイツ通信(DPA)は「西ドイツと西ベルリンへの境界が開いた」と打電し、そして午後8時に西ドイツのテレビ局ドイツ公共放送連盟(ARD)がニュース番組「ターゲスシャウ」で冒頭にアンカーマンのハンス=ヨアヒム・フリードリッヒが「今日11月9日が歴史的な日となりました。東ドイツが国境を開放すると宣言しました。」と報道した[128]。またほぼ同時刻に、記者会見の場で質問に立ったアメリカNBCのトム・ブロコウ記者が、ブランデンブルク門の所にある検問所付近の壁を前にして「これは歴史的な夜です。東ドイツ政府がたった今、壁の向こうへ通行出来ると宣言しました。何の制限も無しです。」とNBC放送の電波に乗せて全米にレポートした[129]



国境検問所


東西ベルリン間の国境検問所は、ボルンホルム通り[注 41]・ショセー通り・インヴァリーデン通り・フリードリッヒ通り[注 42]・ハインリッヒハイネ通り・オーバーバウム橋・ゾンネンアレーの7カ所あり、やがて検問所の前に市民が集まり、通過しようとする市民と政府から何も指示されていない国境警備隊との間でこの記者会見でのシャボフスキーの発表を巡りトラブルが起きた。しかもそれは東側だけでなく、西側でも同じで、誰もがテレビで伝えられた「旅行が自由化される」というニュースに驚き、殺到したことで西ベルリン側の検問所も混乱に拍車が掛かった。


国境警備隊は指令を受け取っておらず、隊員は報道も知らなかったためにすぐに対応は出来なかった。しかも、各検問所は保安上の理由から直接横の連絡が出来ないシステムであった。集団亡命を恐れて東ドイツは各検問所同士の連絡を禁止し、必ず上部機関の指示に従うことになっていた[130]。これが各検問所ごとにバラバラの対応となり、しかも指示をすべき上部機関が内務省から何も指示が無く対応方針が出せない状態になり、そして現場の責任者の判断に委ねることとなった。そのことが各検問所ごとに国境ゲートの開放時刻が違う結果を生んだ。



午後7時


東西ベルリン間の7カ所の検問所付近に間もなく多くの東ベルリン市民が集まり始めた。また反対側には西ベルリン市民も多く馳せ参じた。


この時、ベルリン北部のボルンホルム通りの検問所のパスポート審査官[注 43][注 44]のハラルト・イエーガー司令官[注 45]はシュタージにも所属していたことがあるが、たまたまこの日は朝6時から勤務に入り、24時間の勤務体制で、夕方6時から検問所の近くの食堂で夕食を食べていた時にシャボフスキーによる旅行及び国外移住(恒久的出国)の自由化の発表を耳にして仰天した。イエーガーはシャボフスキーの発言を聞いて急ぎ検問所に戻った[133]。イエーガーが戻った午後7時15分には、この時点で既に市民10人が集まっていた。すぐに上官に電話で問合せると、その上官は「これまでの人生でこんな馬鹿な話は聞いたことがない。」と言い、「少し待て。何もしないで待て。」との返事であった。電話を終えて外へ検問所の前に行くと、50~100人に増えていた。まだ午後7時30分を回った時点であり、まだ7カ所の国境検問所付近を合わせても数百人単位であった[134]


フリードリッヒ通りの通称チェックポイント・チャーリーの東側に勤務するギュンター・モル[注 46]司令官[注 47]は、夕方に勤務を終えて自宅に戻り、夕食を食べながらテレビでシャボフスキーの発表を聞いたが、冷静に考えて然るべき手順を踏んで法的に解決した後に翌日か翌々日に指示があると思った。そして特に急ぐ必要はないと考えた[135]。7時30分に検問所からすぐ西側の喫茶店のウエートレスと男性1人が境界線を越えて警備兵に「一緒に飲もう」と誘い、断ったので西へ戻ったと報告があった。彼はまだ深刻な状況とは思われなかったのである[136]。一方、チェックポイント・チャーリーの西側の警備責任者のアメリカ軍バーニー・ゴデック少佐は、この年7月に赴任したばかりであったが、今日の勤務を終えて、ダーレム地区にある自宅に戻って妻と子供たちと夕食中に部下から電話を受けて、地元のメディアが検問所に集まってきている、東側が国境を開くらしいとの連絡を受け、上司の政治・軍事担当顧問官のジョン・グレートハウス大佐と共に検問所に向かった[137]


イギリス軍憲兵隊のクリス・トフト軍曹(36歳)は、この時オリンピックスタジアム[注 48]の英軍兵舎の中央管制室にいたが、7時42分に上司のワトソン大佐から電話があり、BBCワールドサービスが東側が国境を開くと報道しているとの連絡であった。急ぎ通訳を使って東ベルリンの警察に問い合わせると知らないという返事だったが、なぜか市当局に問い合わせると「夜半に開かれる」との返事であった。トフトは西ベルリン駐在のイギリス憲兵隊全部隊に東ドイツ人の西ドイツへの渡航が解除された旨通達した。そしてこの時にデスクの上で記録用紙として使っていた罫紙にこう記した。『1942(午後7時42分)ワトソン大佐から電話あり。BBCの報道で東ドイツ人の西への渡航制限が解除されるとのこと。全部隊に通達。』[138]。トフト軍曹は、その後この持ち場を離れず、無線から聞こえてくる声に耳そばだてて、チェックポイント・チャーリーの動きを見ていた。



午後8時


ボルンホルム通りの検問所の外には午後8時には数百人に膨れ上がっていった。この時に東側の多くの市民が視る西ドイツのテレビ局ARDのニュースで、国境が開かれると報じたと伝えられた[139]。イエーガーは再び上官に電話した。上官は新しい指示が無いので群衆を帰らせた方がいいとの返事であった。西側のテレビ局でこの時サッカーの試合を中継をしていた局があったが、この中継にニュース速報が入った。「壁が開き、数千人が検問所を目指して行進している。」との報道であった。東でも西でも、人々が動き始めていた。


ボルンホルム通りの検問所は、ベルリンの中心に位置するチェックポイント・チャーリーとは周囲の事情が違い、7つの検問所の中で最も北に位置して、広大な住宅地帯からすぐに歩いて来られる場所であり、高いアパートの建物からは眼下に見下ろせる検問所であった。午後8時30分を過ぎる頃には数百人が数千人に増大していた[140]。警察官が来て市民に立ち去るように求め、まず警察署に行って海外旅行に必要な書類を申請するように説明した。ところが何人かが言われた通り警察署に行くと窓口で要領を得ない返事に立腹して戻ってきた。警察もどうすべきかまるで分かっておらず、上からの指示もない。イエーガーはほぼ20分おきに上官に電話して指示を仰いだが返事は同じで「新しい指示はない。じっと待機していろ。」であった[141]


一方、ベルリン市の中央部にあるチェックポイント・チャーリーでは地下鉄の駅に近いため群衆が続々と集まっていた[142][注 49]。但し、これは西ベルリンの市民であり、ここでは東側よりも西側の市民が多数押しかけて、ボルンホルム通りの検問所とは違い、西側市民が境界線を越えようとしたりした。午後8時に検問所の東側出入り口の前には数人が立っていた。


この検問所は西側の軍関係者がノーチェックで通過できるただ一つの検問所であり、また西ベルリン駐在の米英仏の3ヵ国の軍は4ヵ国協定で東ベルリンへのパトロールが認められており(フラッグパトロール)[注 50]、この夜もアメリカ軍将校は事態把握のため東ベルリンにチェックポイント・チャーリーを通って巡回していた。したがって東側市民のこの一帯への立ち入り規制は厳しく、無断で少し入っただけで「国境地帯への不法侵入」として刑事犯罪に問われかねない「外国人専用」の検問所であった。そのため東側出入り口付近は数人程度であったが、監視塔からは見えないが、脇道や路地に次第に集まり、既に数百人が検問所の遠くで待機していた。そこからは恐怖のためそれ以上近づこうとはしなかった[144]。。この間にモルは国境警備兵60人の追加を本部に自宅から要請していた。そして間もなく追加の警備兵が到着したが彼らが武装していることに、西側から監視していたグレートハウス大佐は何があるのか見当もつかず状況が悪化する可能性があると感じていた[145]



午後9時


ボルンホルム通りの検問所では、午後9時を過ぎた頃には数千人が数万人になった[145]。車列の最後尾は検問所から数百メートル離れた幹線道路シェーンハウザー・アレーに達し、その通りに至る脇道も車がぎっしり詰まっていた。イエーガーは16~17人の警備体制では無理と判断して急遽50人の補充を求め、彼らはやがて送り込まれてきた[146]。多数の群衆が押し寄せてきたことで国境警備隊員は全く不意打ちをくらい、数時間の間に突然戒厳令下にいる感じになった[147]。「シャボフスキーが言ったのだから」と詰め寄る群衆に規則ではビザとパスポートが要るのだから出直すように言ったが、検問所に集まってきた市民は「ゲートを開けろ、ゲートを開けろ、壁を撤去しろ」と叫びだした[148]


ようやく上官から「より攻撃的な連中を捜し、その姓名を控えた上でパスポートの写真の上に特別なスタンプを押して通過させろ」という命令が下された。このスタンプを押すことは東ドイツの市民権を剥奪し、いったん出国したら戻ってくることが出来ないことを意味していた[148]。そしてもう一つ、通行を許した者のリストを保管しておくことも命じられた。それは官僚主義的な狂気の沙汰であった。午後9時20分頃にイエーガーは、この方法で通過させることとしてパスポート審査所3カ所に再開を命じた。待っていた市民はわれ先に窓口に殺到して一列に並んでそこを通り抜け、監視小屋を出た。踊りだす者、小走りになる者、泣きそうな表情の者、信じられないというように頭を振る者、皆最後の監視塔を通り過ぎて西側に入って行った[149]。この間に250~300人を通過させたが、さらにその背後には数千人の殺気立った市民が検問所を圧迫していた[150]


チェックポイント・チャーリーの東側の警備責任者であるギュンター・モル司令官はまだ自宅にいた。しかし9時30分頃に再び検問所から電話があり、西側に100人ほど集まって警備兵に東側の市民を通してやれと懇願しているとの報告であった。モルは検問所に戻ることとした。そして戻る途中に検問所に着く手前で、東ドイツの国民車であるトラバントやヴァルトブルクの車がぎっしり検問所まで並んでいるのを見て驚いた[151]。脇道や路地でじっとしていた人々がやがて検問所の前に現れてきた。



午後10時





チェックポイント・チャーリーから西ベルリンに入る東ベルリン市民(1989年11月10日)




東西ベルリンの検問所に詰めかけた東ベルリン市民(1989年11月10日)




東ドイツ市民の許可証を確認する東ドイツ国境警備隊(1989年11月10日)


ギュンター・モル司令官は10時過ぎにチェックポイント・チャーリーに戻ってきた。モルはまず警備兵3~4人を伴って西側に行き、集まっていた西側市民250人ほどの人々に「新しい規則はまだ存在しない」と説明した。「反対側では地下鉄の駅から人がどんどん集まっていた。私は予備兵を使い群衆を押し戻させた。」皮肉にもチェックポイント・チャーリーでは東側の警備担当者が西側の市民の越境に神経を尖らせていたのだった。それから監視塔に戻り国境警備隊本部にいる上官に電話して「新しい規則」について尋ねた。しかし返事は「無い」であった。そして東側の人数も次第に膨れ上がった。さして多くはない国境警備隊では太刀打ちできなかった。モルは何度も司令部に電話したが、現場に居ない上官は待機命令を出すだけ[142]で、責任逃れに終始したため責任を押しつけられた現場の警備隊は板挟みに陥り、対応に困り果てた[注 51]。事態収拾の策は無かった。モルはこの時点で東側の群衆を70~100人と見積もった。


アメリカ軍は西側に集まった西ベルリン市民を2000人と見積もった。グレートハウス大佐は東側で何が起こっているのか情報収集するために、車を出して東側に入った。そして30分間の東側巡回を終えて西側に戻ってきた。アメリカ軍の監視小屋にアメリカ本国のテレビやラジオ局及びカナダやオーストラリアからの取材の電話がひっきりなしに掛かってきた[152]。ゴデック少佐は、この事態を憂慮し始めた。検問所付近で雰囲気が最悪となり国境警備兵と揉み合いになるのではないか、群衆が東から西へ越境を試みた場合に検問所を閉鎖するのではないか、であった。閉鎖という事態になればそれは明らかな4ヵ国協定違反であり、ゴデックはソ連軍の士官を探した[153][注 52]


10時頃にチェックポイント・チャーリーの西側では西ベルリン市民60~70人が検問所の前の白線を超えて前に進んだ。これは明確に「東側への侵入」であり、1961年10月22日の「チェックポイント・チャーリーの対決」ではこの白線を超えたことで揉めた歴史があった。住宅地の近くであったボルンホルム通りと違い、チェックポイント・チャーリーではむしろ西側の住民の方が動きが活発であった。そして10時35分にも約100人が白線を超えたが、警備兵に押し戻された[154]


ボルンホルム通りの検問所でイエーガーは本部に電話で全員の通過許可の要請を出した。しかし一向に埒が明かない態度に業を煮やし、「信じていただけないなら、この受話器を窓から外に出しますから、騒ぎをご自分でお聞きください。」と言って、窓から外に受話器を出した。再び受話器を耳に当てるとすでに切れていた[155]


チェックポイント・チャーリーの東側ではモルが検問所の前に来て、群衆をなだめようとした。午後10時30分でこの時に東側の出入り口には東側市民が2000~3000人に膨れ上がっていた。モルは後に「こんな状態はいつまでも続かない。必ず何かが起こる。もう群衆を抑えきれない。そんなことは不可能だ。」と思ったと語っている。実際、警備隊の隊員は壁の手前まで後退し、群衆の前から引き下がっていた。これを見てアメリカ軍のゴデック少佐は驚いた。それまで国境警備隊は群衆に向かっていったもので引き下がったりはしなかったのだ。


この時に西側からアメリカ軍の軍曹が東側へパトロールに向かい、東側市民が黙々と待っていて検問所に足を踏み入れていない光景を目にした。またこの時に逆に西側にパトロールに行ったソ連軍の軍用車が東側に戻ってきた際に、東ベルリン市民がソ連車を揺さぶっているところを目撃した。西側の軍関係者はこれはかなり異常な状態であることを感じていた[156]。そして西側では午後11時頃に西側の市民が一塊になって越境し壁に上り始めた。それを東側の国境警備兵が「降りて下さい」と呼びかけても多勢に無勢であり非常に多くの人々が壁に上ってしまった。それはまさに前代未聞のことであった[157]



国境ゲートの開放


午後10時30分頃、ボルンホルム通りの検問所には2万を超える群衆が詰めかけていた。イエーガーは、何をしたらいいのか確信が持てなかった。ここまでに検問所の中で「我々はどうすべきか討論を続けていた。」「状況は緊迫していた。我々は二進も三進も行かなかった。流血沙汰を避けることばかりを考えていた」そしてもう他に選択肢はないと考えた。しかし何度も上官に指令を仰いだが「待て」と言われるばかりであった。再び電話して「もう全員を通行させなければなりません」と言うと上官は「指示は分かっているだろう。言われたことだけをすればいい」と言った[158]。興奮状態下での市民の暴走や圧死による群集事故の発生を恐れたイエーガーは上官に「これ以上検問所を維持することは出来ない」と伝え[159]、彼は「もう持ちこたえられない。検問所を解放しなければならない。牽制をやめ、こちらへの通行を許可する。」として「全てを開けろ」と命令した。午後10時45分だった。ほぼ同時にゾンネンアレーとインヴァリーデン通りの検問所も開かれ始めた[160]


こうして、ついに東西ベルリンの国境は開放され、ベルリンの壁はその意味においてここで崩壊した。


オリンピックスタジアムの英軍兵舎の中央管制室にいるイギリス軍憲兵隊のクリス・トフト軍曹は、パトロール中のジープから聞こえてくる興奮した様子に、彼自信も興奮を感じていた。罫紙にこう記した。『2325(午後11時25分)、検問所の東側に大集団が、西側も集団が形成されつつある。』[161]


11時35分にハインリッヒ・ハイネ通りの検問所が開放され[161]、11時40分にオーバーバウムとショセー通りの検問所が開放され[162]、そしてほぼ12時の日付が変わる頃にチェックポイント・チャーリーでも、ギュンター・モル司令官が同じ決断を下し、監視塔から窓口のパスポート審査官のところへ行き、シュタージの最も地位の高い将校に「私は境界を開放するつもりです。」と伝えた。パスポート審査官は「分かりました」とそれだけ言った。モルは歩行者用ゲートまで行き、「開けろ」と命じた[163][注 53]。アメリカ軍のゴデック大佐は西側から注視しながら東側の道路から群衆が近づき、検問所の東側ゲートを通過し税関エリアに入ったことをこの時に確認した[164]


イギリス軍憲兵隊のクリス・トフト軍曹は無線機から聞こえてくる音声でこう記した。『2359(午後11時59分)検問所で東ドイツ人が小集団を形成。東ドイツ国境警備兵が約20人いる。』[165]


11月10日午前0時02分頃に東側の警察が全検問所の開放を発表[166]、全ての国境警備隊員1万2000名に撤収命令が下された[167]。この夜はお祭り騒ぎとなった[166]


午前0時15分、東ドイツの青年グループが西側の人々と合流してブランデンブルク門の前の壁に上って一緒に踊った。これより先に西ベルリン市民数十人が上り東側警備兵をからかい始めていた。


イギリス軍のクリス・トフト軍曹は、無線機から音声が流れて、彼はこう記した。『0028(午前0時28分)、東ドイツ人が西側に越境しつつある。』[168]。『0050(午前0時50分) チェックポイント・チャーリーにて車両は通行不能。』[169]



政府関係者の動き


  • クレンツ社会主義統一党書記長・国家評議会議長

クレンツ書記長は党本部の執務室にいた。ここで市内7カ所ある国境検問所すべてが群衆に囲まれているという報告を受けた。クレンツはこの群衆を押しとどめるのはもはや無理であると感じていた[170]


  • シャボフスキー社会主義統一党中央委員会政治局員・党ベルリン地区委員会第一書記

シャボフスキーは記者会見後にベルリン郊外のヴァンドリッツにいた。午後9時にベルリン地区指導部の幹部から電話を受けて、まだ国境検問所が開かれていないことを聞かされて、急ぎボルンホルム通りへ車で向かった。しかし通りが車で溢れかえって検問所に着くことが出来ず、代わりにハインリッヒ・ハイネ通りに向かった。シャボフスキーが検問所に到着した時には、すでに国境ゲートが開いた後だった[171]


国境検問所の混乱で現場指揮官から内務省に電話連絡し、組織の幹部が政治局のメンバーに連絡を試みたが誰とも連絡がつかなかった。ディッケル内相は、これまでの方針に合致しない新しい指令を独断で出すことは考えていなかった。そしてその新規則の草案を作成し施行する責任者であった出入国管理局の局長はこの夜に劇場に行って、午後10時30分頃に自宅に戻り、国境検問所が一触即発の事態になっていることを初めて知って、あちこちに電話を掛けたが、やはり連絡がつかなかった。郊外に行っていたシャボフスキーも検問所に急ぎ向かったがこの間にクレンツとの連絡は取れていなかった[172]。中央委員・執行部のメンバーが大幅に交代した直後で、国内の体制も弱体化していた。


  • コール首相(西ドイツ)

コール首相はこの時、ポーランドのワルシャワを訪問していて、マゾビエツキ首相と自主管理労組「連帯」のワレサ議長と会談した後に、東西ベルリンの境界が開放されるとの一報に接して、ヤルゼルスキ大統領との会談を急遽キャンセルして、同行していたハンス・ディートリヒ・ゲンシャー外相をワルシャワに残し、いったんハンブルクへ西ドイツ連邦軍機で飛び、ここで急遽用意されたアメリカ空軍の小型機で西ベルリンに入った。東西ドイツが統一される翌1990年まで、米英仏の共同管理下にあった西ベルリンには西ドイツの民間機でさえ入れなかったのである。コール首相は翌10日朝に西ベルリンに入った。


  • モンパー西ベルリン市長(西ドイツ)

ヴァルター・モンパー市長は、国境開放後にインヴァリーデン通りに立ち、感激にむせぶ多数の市民にマイクで挨拶し、市長自身も興奮して「我々は今、世界で一番幸せな民族だ」と叫んだ[173]


  • ブラント社会民主党名誉党首(西ドイツ)

壁が建設された1961年当時の西ベルリン市長で、後に西ドイツ首相となり、在任中に東方外交を展開して東西の緊張緩和に貢献したヴィリー・ブラントは、この時は西ベルリンには住まずウンケル市に在住でこの年に76歳となった。そしてこの日に新築の家に引っ越し、疲労困憊の体で早めに床に就いた。翌日の早朝に電話で事態を知り、急ぎイギリスの軍用機に乗って西ベルリンに向かった[174]


  • ゴルバチョフ書記長(ソビエト連邦)

ゴルバチョフ書記長は、翌日の朝まで何も知らされていなかった。在ベルリンソ連大使のコチェマソフにも、この夜の記者発表の内容は事前に知らされていない。コチェマソフ大使は記者会見の内容を知ってから急ぎゴルバチョフとシェワルナゼ外相に電話をかけたが二人とも忙しいとの返事であったという。つい1週間前にクレンツがモスクワに訪問しており、その際のゴルバチョフとの会談でこの問題を討議したか、或いは直通回線で話し合ったのだと大使は理解して、ベルリンでの事態の推移をテレビでただ眺めていただけで誰もモスクワに伝えていなかった。10日午前5時(モスクワ時間7時)に本省の当局者から「そっちの壁で何が起きたんだ」との電話で初めて伝えた。ゴルバチョフは、このニュースを初めて知らされた時、驚くほど落ち着いていた、と側近は語っている[175]



西ドイツ国会での国歌斉唱


西ドイツの首都ボンでは、この夜はドイツ連邦議会が結社振興法に関する定例審議の最中であった[176]。午後8時20分に議員にこのニュースが伝わると審議は中断された。ザイター首相府長官は急ぎワルシャワを訪問中のコール首相に電話を入れた。8時46分に本会議が再開されて、首相府・社会民主党・キリスト教民主(社会)同盟・緑の党・自由民主党の各党が次々と演壇に立って発言し、特に最後の自由民主党のミシュニック議員団長は「今日という日は大きな希望の日であり、東ドイツの人々にとっては喜びの日である。」と語った。そしてミシュニックの発言が終わるとキリスト教民主(社会)同盟の何人かの議員が突然立ち上がり、「ドイツの祖国に統一、権利、自由を」というドイツ国歌の三番を歌い始め、やがて他の会派の議員も歌い始めた。議事録には「出席者は立ち上がり、国歌を歌う」とあった[177]。突然の信じられない一報に泡を食った議員たちは思いおもいの音程で唄った[178][注 54]



壁の崩壊




チェックポイント・チャーリーを検問なく越えるトラバント(1989年11月14日)





クレーンによって撤去されるベルリンの壁(1989年12月21日)




検問所を越えるトラバントと歓迎する西ベルリン市民(1989年11月14日)


本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」がその内容であって、東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であった。東ドイツ国営テレビは繰り返し「旅行には申請が必要です」と放送していたが、それを顧みる者はいなかった[159]


混乱の中で東側、西側の検問所ともに許可証の所持は全く確認されることがなかったため、許可証を持たない東ドイツ市民は歓喜の中、大量に徒歩や東ドイツの国民車であるトラバント、ヴァルトブルクなどで西ベルリンに雪崩れ込んだ。西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まっており、祝いの花や酒を片手に抱き合ったり、一緒に踊ったりあり合わせの紙吹雪をまき散らしたり、壁の周辺で歓迎の歌を歌うなど東ベルリン群衆を西ベルリン群衆が歓迎する様子が各所でみられた。


またアメリカやイギリスのみならず、世界各国から集まったテレビカメラがこの状況を「ニュース速報」で世界中に伝えた。この大騒ぎはそれから三日三晩続いた。



壁の撤去


ベルリンの壁は、「冷戦」「越えられない物」「変えられない物」の象徴だった。それが数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマーやつるはし、建設機械が持ち出され、「ベルリン市民」はそれらで自主的に壁の破壊を始めた。それらは部分的ではあったが、方々で勝手に破壊されていった。こうして1961年8月13日に建設が始まった「ベルリンの壁」は、建設開始から28年後の1989年11月10日、ついに一部ではあるが破壊された。


壁は東側によって建設された東側の「所有物」であり、東側からは壁を壊す許可は一切出されていない。むしろ11日には倒された壁を元の通り立て戻す作業を国境警備隊が行っていた[179]。しかし数日後からは東側によって、重機などを用いて正式に壁の撤去作業が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになった。それは全ての撤去ではなく、正式に解体作業が始まったのは翌年1990年6月13日からである[180]



国境の撤去


この後東西ベルリンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの間の壁や有刺鉄線で閉ざされた国境も開放されることとなった。世界各国で高い評価を受けるポルシェやBMW、メルセデス・ベンツやフォルクスワーゲンを自国に擁する西ドイツ市民から見ると、時代遅れな東ドイツ製のトラバントやヴァルトブルクに乗った東ドイツ市民が相次いで国境を越え西ドイツに入ってきた。


西ドイツ国民は国境のゲート付近で彼らを拍手と歓声で迎え、中には彼ら一人一人に花束をプレゼントする者まで現れた。こうした国境線にも越境を阻止する壁や有刺鉄線などが張られていたが、これらも間もなく壁と同じく東西ドイツの軍警の手によって速やかに撤去された。東ドイツ国民が乗っていたトラバントは、それから長くの間東西ドイツ融合の象徴として扱われることとなった。



壁崩壊の影響



東ドイツの崩壊




ブランデンブルグ門公式開放の警備を行う東ドイツ警察(1989年12月22日)




1990年1月8日のライプツィヒ月曜デモ。「我々は一つの新しいドイツを求める」「我々は一つの民族だ」といったプラカードや、西ドイツの国章が入った旗が掲げられている


1989年11月9日のベルリンの壁崩壊は、たんに国境の開放に留まらず、東ドイツという社会主義統一党体制の終焉を意味していた[181]


11月13日、ハンス・モドロウ内閣が発足した。モドロウは政治・経済の改革を表明し、23日には社会主義統一党がホーネッカーの不正調査の開始、在野勢力への円卓会議開催の呼びかけ、憲法第1条に定められている「党による国家の指導」条項の削除を表明し、一党独裁制を放棄した(12月1日に憲法改正) [182]


12月3日、社会主義統一党は緊急中央委員会総会を開催し、クレンツ以下政治局員・中央委員は自己批判の声明を採択して全員辞任し、ホーネッカー、シュトフ、エーリッヒ・ミールケ(前国家保安相)らは党を除名された。クレンツは6日に国家評議会議長も辞任し、わずか2か月足らずでクレンツ政権は終わった。


12月8-9日に開かれた社会主義統一党の党大会は、党名を社会主義統一・民主社会党(SED-PDS)に改名し、1990年1月にはクレンツやシャボフスキーも党から追放された[183]


こうして社会主義統一党の一党独裁制は崩壊し、モドロウは政治・経済の改革を表明すると同時に早急な東西ドイツ統一を否定し、条約共同体による国家連合を提唱した[184]。しかし、壁の崩壊後1日約2,000人の東ドイツ国民が西へ流出し、東ドイツマルクの価値は10分の1に暴落し、元々疲弊していた東ドイツ経済は崩壊していった[184]。12月、モドロウはコールに対し150億ドイツマルクの支援を要請したが、コールはこれを拒否した[185]。また、知識人たちは「民主的な社会主義国家」としての存続を模索していたが、民主化の過程で明るみに出たホーネッカーら社会主義統一党の旧幹部達の不正や贅沢行為に一般労働者たちは怒り、社会主義そのものに対して否定的になっていった[186]


軍や警察の機能は停止し[187]、国民を抑圧していた国家保安省の出先機関が群衆に襲撃されるようになっても、東ドイツ政府は何の手を打つことも出来なかった[184]。1990年初頭には市民の70%が東ドイツ国家の存続を望んでいた[187]が、ライプツィヒの月曜デモでは「我々は一つの民族だ(ドイツ語版)(Wir sind ein Volk)」と言う声が挙がるようになり、2月になると東ドイツが自力ではもう長く存続出来ないと認識されるようになった[188]。結局、東ドイツの旧政権幹部たちが恐れていたように、「社会主義のイデオロギー」が崩壊した東ドイツは国家として存続できなくなり、崩壊していったのである。



東西ドイツ統一




ドレスデンを訪問したコール(1990年3月26日)





東西ドイツ統一式典(1990年10月3日)


ベルリンの壁崩壊に対して、ソビエト連邦、アメリカ合衆国、東ヨーロッパなどから祝辞を送られ、そして壁崩壊時の混乱と不手際、西側への流出の増大で経済状況が逼迫した東ドイツの急速な弱体化が、東西ドイツの統一に向けて動き始めた。それは1945年5月8日のソビエト連邦とイギリス、アメリカ、フランスによるドイツ分断以降、ドイツ人にとっては悲願であった。


フランス大統領フランソワ・ミッテランは、ベルリンの壁崩壊に反対していたイギリス首相マーガレット・サッチャーに、統一ドイツはアドルフ・ヒトラーよりも広大な領土を手に入れるであろう、そしてその結果にヨーロッパは耐えなければならないことになると語った[189]


ソビエト連邦の最高指導者であったゴルバチョフは、東西ドイツ統一には時間がかかると想定していた上に、東ドイツが北大西洋条約機構(NATO)に参加することを恐れていた。アメリカ合衆国の大統領であったジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)も、統一がそれほど早い時期に実現するとは考えていなかった。西ドイツ首相のコールですら、早急な統一には無理が生じると考えていた。


東ドイツのモドロウ政権は円卓会議を開き、自由選挙の実施、新国家のための新憲法草案の作成まで決定していた。しかしながら1990年3月、東ドイツにおいて最初で最後となる自由選挙が行われ、西ドイツのコール首相が肩入れした速やかに東西統一を求めるキリスト教民主同盟を中心とした勢力が国民の支持を受けて勝利すると、それまでの社会主義統一党政権が主張していた東西の対等な合併ではなく、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツ(ドイツ民主共和国)を編入する方式(東ドイツの5州を復活し、それを自発的にドイツ連邦共和国に加入させる)で統一が果たされることに決定した。


こうして東西ドイツの統一は、ソ連、ヨーロッパ諸国、アメリカ、そして西ドイツ首脳が考えていたよりもはるかに速いスピードで進められた。この驚異的なスピードで進んだドイツ再統一の原動力は、ベルリンの壁が崩壊した事によって生み出された「歓喜」と「感動」、そして東ドイツの国家としての崩壊であった。


結局、ベルリンの壁崩壊から満1年も経たない1990年10月3日、悲願の東西ドイツの統一が実現した。10月3日の統一式典では、ベルリンの旧帝国議会議事堂に「黒・紅・金の三色旗」が揚げられ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が演奏された。


しかし、この「感動」と「歓喜」の情熱の渦はコールが想定したとおりの弊害をもたらした。東ドイツでは1989年11月10日以後、自分達は2つに分裂したうちの片方である「東ドイツ国民」ではなく統一された「ドイツ国民」であるという意識が大きくなっていった。これが早急なドイツ統一を支持する背景となった。統一後の経済的な不安が想定されて然るべきであるが、壁の崩壊直後に西ドイツ政府が西ドイツを訪問する東ドイツ市民に対して渡した一時金はこの不安をかき消す事を助長した。


ドイツの再統一は、東ドイツ市民を無条件で裕福にするかのような幻想を生み出した。結局「ドイツ再統一」のスピードが余りにも速すぎたことは、その後の経済的混乱によって実証される事になった。世界屈指の経済大国であった旧西ドイツと旧東ドイツの経済格差は一時的な幻想では覆い隠せないほど歴然たるものが存在した。現在でも東西の所得格差は残されたままである。また旧東ドイツでは資本主義に適応できなかった旧国営企業の倒産によって失業者が増加し、旧西ドイツでは旧東ドイツへの投資コストなどが足かせとなって景気の低迷を招いた。このため東西双方で市民の間に不満が高まることになった。


東西ドイツの統一に関する法的な見方については「ドイツ再統一」を参照。



冷戦終結




マルタ島で会談するゴルバチョフとブッシュ


ゴルバチョフは従来から冷戦の緊張関係を緩和させる新思考外交を展開していたが、ドイツの東西分裂とベルリンの壁の存在は、冷戦の代名詞でもあり、いくら緊張緩和といってもベルリン問題を解消しない限り「冷戦の終結」とはいえない状況であった。


ところが、ベルリンの壁が崩壊したことで、東西ドイツの統一に一応の目処が立った。壁崩壊から1か月後の1989年12月3日、アメリカの父ブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフの両首脳がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言した。



東欧全域への民主化革命の波及


ベルリンの壁崩壊は、既に民主化を果たしていたポーランドやハンガリーやブルガリアのみならず、東ヨーロッパ全域に波及した。1989年11月17日には、チェコスロバキアでビロード革命が発生し、ポーランドのワルシャワではチェーカー(KGBの前身)の設立者フェリックス・ジェルジンスキーの銅像が三つ裂きにされて撤去された[190]。そして、マルタ会談の直後の12月16日にはルーマニア革命 (1989年)が発生した。


また、東欧同様、ソ連の衛星国であったモンゴルでも、壁崩壊後の一ヵ月後の12月10日、サンジャースレンギーン・ゾリクを中心とする民主化デモが発生した。1990年にかけて民主化運動は進展し、モンゴル人民革命党の一党独裁体制が崩壊し新憲法制定、複数政党制の導入が実現した。


そして、ベルリンの壁崩壊から2年後の1991年8月20日にはバルト三国が独立し、1991年12月25日には共産主義の元祖であったソビエト連邦自身まで崩壊した。



ベルリンの壁のその後




壁が撤去された後の路面に残された刻銘


壁の倒壊後、壁自体が変貌した。破壊された壁の断片が盛んに取引され始め、東ドイツの末期の最大の輸出ヒット商品となった。ハンマーと鑿で東ドイツ政府が所有する建造物に叩きつけて破片を持ち去る人が後を絶たず、東ドイツは壁は民主共和国の人民財産であるとして無秩序な壁の破片の売り出しの阻止に動いた。


そして民主共和国の貿易商社に壁の商品化を委任し、真贋証明書を発行して売り出し、その販売利益で国の健康保険制度を立て直す予定をしたが、やがて国自体が消滅した[191]


それでも60トンの「ベルリンの壁のパーツ」が海路でアメリカに運ばれ、ボストンとシカゴのラジオ局が「自由の石塊」として破格の安値30ドル売り出した。多数の西ドイツ人が数千ドイツマルクで壁の一区画をそっくり買い取った。ロンドンの競売所がモンテカルロで大量の壁区画延べ100mを一区画当たり最高で3万ドイツマルクで競売にかけ200万ドイツマルクを荒稼ぎした。購入者の中には「鉄のカーテン」という言葉を作ったイギリスの元首相のウインストン・チャーチルの孫娘もいた[192]


その後には、ベルリン市がベルリンを表敬訪問した外国の賓客に壁の残骸をプレゼントし、世界中に配った。その中にはロナルド・レーガン、ジョージ・ブッシュのアメリカ大統領の名もあった。しかし国の消滅とともに無秩序になり、壁破砕装置を使って多くの場所でたちまち粉砕されて道路建設の基盤材として使われ、東西間の道路網に敷かれたりした[193]


往時の壁の95%以上は壁撤去時に破壊されて、わずか数百の壁区画がそのまま保存され、ベルリンのいろんな場所に総延長1.5キロの壁が存在するだけで大半が失われている[194]



エピソード



  • チェックポイント・チャーリーの西側に入ってすぐの角にある喫茶店『カフェ・アドラー』で、11月9日午後7時30分に入ってきたカメラマンの客がいきなり「これから1時間のうちにここで何かが起こるぞ。」と言い、すでに入店していた他の客7人が訝しむと「知らないのか。国境が開かれるぞ。」と言われて、女性店員が慌ててラジオのスイッチを付けると、どのラジオ局も記者会見のニュースでシャボフスキーの声が聞こえてきた。店員は女性1人だけであったので急ぎ店主に電話して「大変です。今にも何千人というお客が来るかもしれないんです。今すぐお店に来て下さい。」と電話で叫んでいた[195]。それからすぐにこの店員と男性店主が2人で境界線を越えて東側の警備兵に「一緒に飲もう」とシャンパンを持って誘ったが、断られたので店に戻った。やがてこの喫茶店にはゲートが開く前に西ベルリン市民が多く入ってきて、更にゲートが開いた後は大勢の東ベルリン市民が加わった。

  • 国境が開放された夜、シャボフスキーの自宅では、夫は不在だったが妻イリーナは、シャボフスキーの発言が引き起こしたことで体制の崩壊につながると予感し、テレビでの騒ぎは何かと尋ねる年老いた母親と以下のような会話を交わしていた。イリーナ「国境を開いてしまったのよ」、母親「それ、私たちは今度は資本主義になるってことなの?」イリーナ「ええ、たぶんね」母親「それじゃ、どっちにしてもあと二、三年は長生きして、資本主義がどんなものなのか見なくちゃ」[196]

  • 西ベルリンに到着した東ベルリン市民が真っ先に購入したのがバナナだった。バナナは東ドイツではメーデーとクリスマスにしか市場に出回らない貴重品で、なおかつ単価は安いためぜいたく品を買う余裕のない東ベルリン市民にも手が届く品物だったためである(当時東西では3倍の経済格差があった)。「バナナといえば東ドイツ」というのは、ドイツ国内で、いわゆる小咄の定番のネタとなっている。

  • 当日、ちょうどベルリンを訪れていたダライ・ラマ14世は、崩壊の現場に向かい、東ベルリンに足を踏み入れ、歴史的瞬間を写真におさめた。老婦人から渡された蝋燭に灯を灯し、人々と共に祈った[197]。ノーベル平和賞受賞の1か月前のことである。

  • 同じく現場にいたかまやつひろしは、崩壊間際の壁の上に立ってアコースティックギターを手にゲリラライブを行なった。

  • 東ドイツの政権与党であったドイツ社会主義統一党は民主社会党と改名し生き残りを図ったものの、その後衰退の道を辿り消滅寸前かと言われた時期もあった。しかし社会民主党の内紛によって同党を離脱した最左派とともに左翼党を結成した2005年の総選挙では社会民主党政権の新中道左派路線に不満を抱く左派支持者の票を集めて躍進を果たした。

  • ドイツ統一に貢献した当時のソ連外相エドゥアルド・シェワルナゼが、2003年にグルジア大統領を追われると、かつての恩人を見捨てることなくドイツへの亡命受け入れを申し出て一時はドイツ入りしたというニュースも飛び交った。実際はシェワルナゼは感謝しつつもこれを固辞してグルジアに留まっている。

  • ベルリンの壁の材料には大量のアスベストが使用されているが、この事実が知られていなかったためか無数の観光業者により無断掘削・販売が行われ日本でも一部はデパート等で流通した。


  • デビッド・ハッセルホフはこの年元日に、ブランデンブルク門の前で数百万人のファンを集めて「Looking For Freedom」という歌を歌い、ドイツ、オーストリア、スイスの3ヵ国でナンバーワンヒットに輝いた。ハッセルホフは後年、「壁の両側で民衆の心が動くのを感じた」と発言、この年に起こったベルリンの壁崩壊と翌年のドイツ再統一への協力になったと語っている。



壁崩壊を記念したイベント



壁崩壊20周年




ベルリンの壁崩壊20周年記念式典でのドミノ倒し後の様子(2009年11月9日)


ベルリンの壁崩壊から20周年に当たる2009年には、ドイツ国内でもイベントが開かれた。


式典ではドイツのアンゲラ・メルケル首相、フランスのニコラ・サルコジ大統領、ロシアのドミトリー・メドベージェフ大統領、イギリスのゴードン・ブラウン首相、 アメリカのヒラリー・クリントン国務長官らがブランデンブルク門を東から西にくぐって友好を演出した。ただしバラク・オバマ大統領は出席しなかった。冷戦終結の立役者となったポーランドのレフ・ヴァウェンサ、旧ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ両元大統領も姿を見せた。「ベルリンの壁崩壊記念日」の2009年11月9日には、ドイツ政府主催のイベントがベルリンで開かれ、このイベントでは、ベルリンの壁に見立てた発泡スチロール製のドミノ約1000個を倒すイベントも行われた。このイベントでは、ヴァウェンサがドミノ倒しの火蓋を切った。


2009年10月31日には、ジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)、ゴルバチョフ、コールの3人がベルリンで再会した。このイベントにおける3人の発言は、以下の通りである。



  • コール:「誰も信じていなかった統一を成し遂げたのは誇りだ。」

  • 父ブッシュ:「壁崩壊とドイツ統一は、冷戦を終わらせただけでなく、2回の世界大戦の傷跡を消し去った。」

  • ゴルバチョフ:「政治家ではなく、国民が英雄だった。」


関連リンク


  • 読売新聞 2009年10月31日付

  • AFPBBニュース 2009年11月1日付



壁崩壊25周年




「光の境界」


壁崩壊から四半世紀となる2014年11月9日にも記念行事が行われ、かつてのベルリンの壁沿いの一部に灯りを点けた白い風船を配置し、夜に一斉に空へと風船を飛ばす「リヒトグレンツェ(光の境界(ドイツ語版),Lichtgrenze)」というイベントが行われた。また、ゴルバチョフは5年前と同様にベルリンを訪問した。上述のように、東ドイツのホーネッカー政権退陣とベルリンの壁崩壊に功績のあったゴルバチョフは、


私たちが現在このように生きていることに多少の貢献ができたことを私は誇りに思っています。

と挨拶した[198]



参考文献



  • 南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 講談社現代新書 1990年

  • 永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』NHK出版 1990年

  • アンケ・シュヴァルタウ、コルト・シュヴァルタウ、ロルフ・シュタインベルク共著『ベルリンの壁崩壊 フォト・ドキュメント1989.11.9』三修社 1990年

  • 三浦元博・山崎博康 著『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』岩波新書 1992年

  • 本村実和子 『ドイツ再統一 分断から統一まで』 リーベル出版、1993年。ISBN 978-4897983158。

  • 木村靖二 編 斎藤哲 著 『世界歴史大系 ドイツ史3 1890年~現在』第7章 ドイツ民主共和国 1997年

  • アンドレーア・シュタインガルト著 谷口健治 他訳 『ベルリン~記憶の場所を辿る旅~』昭和堂 2006年

  • クリストファー・ヒルトン 『ベルリンの壁の物語』下、鈴木主税訳、原書房、2007年。ISBN 978-4562040667。

  • ハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラー著 後藤俊明ほか訳 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」昭和堂 2008年

  • トニー・ジャット著 浅沼澄 訳『ヨーロッパ戦後史 下巻 1971-2005』 みすず書房 2008年

  • メアリー・フルブルック著 芝健介 訳『ヨーロッパ史入門 二つのドイツ 1945-1990』岩波書店 2009年

  • ヴィクター・セベスチェン著 三浦元博・山崎博康訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』 白水社 2009年

  • マイケル・マイヤー 著、早良哲夫訳『1989 世界を変えた年』 作品社  2010年

  • グイド・クノップ著 エドガー・フランツ 深見麻奈 共訳『100のトピックで知るドイツ歴史図鑑』原書房 2012年

  • エドガー・ヴォルウルム著 飯田収治・木村明夫・村上亮 訳『ベルリンの壁~ドイツ分断の歴史~』 洛北出版 2012年



ドキュメンタリー



  • 『NHKスペシャル』
    • 「ヨーロッパピクニック計画~こうしてベルリンの壁は崩壊した~」 (放送:1993年12月19日 NHK総合)


  • 『BS世界のドキュメンタリー』

    • 「ベルリンの壁崩壊 東ドイツ最後の1年」(原題:Life Behind the Wall: East Germany's Final Year)『 前編 ~通貨統合の波紋~』『後編 ~突きつけられた現実~』 製作:Looks Film & TV(2009年 ドイツ)(放送:2009年3月30・31日 NHK BS1)

    • 「旧・東ドイツ "英雄都市"の試練 ~壁崩壊より20年~」 製作:NHK、日本電波ニュース社 (2009年 日本)(放送:2009年7月4日 NHK BS1)

    • 「壁の時代を生きて」 『前後編』 (2009年 日本・イギリス) (放送:2009年11月10・11日 NHK BS1)

    • 「ライプチヒの奇跡」 『前後編』 (2009年 日本・ドイツ)  (放送:2009年11月13・14日 NHK BS1)

    • 「24時間ドキュメント 壁崩壊の夜」 製作:Monaco Film/Spiegel TV (2009年 ドイツ) (放送:2009年11月18日 NHK BS1)
      • シャボフスキーら関係者のインタビューなどを交えて構成されている


    • 「旧東ドイツ激動の日々」 『前編~国家崩壊~』 『後編~統一後の苦悩』(2009年 日本・ドイツ・フランス)(放送:2009年11月19・20日 NHK BS1)



  • 『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』
    • 「ベルリンの壁崩壊 激動を生き抜いた者たち 」(放送:2015年4月8日 NHK総合)




関連作品



  • 『地球が私を愛するように』(合唱曲) 作詞:山川啓介 作曲:野田暉行

  • 『聞こえる』(合唱曲)作詞:岩間芳樹 作曲:新実徳英

  • 『壁きえた』(男声合唱組曲)作詞:谷川雁 作曲:新実徳英

  • 『国境のない地図』(1995年 宝塚歌劇団星組)

  • 『グッバイ、レーニン!』(映画)

    • 2003年公開のドイツ映画。大ヒットし、ドイツ歴代興行記録を更新した。


  • 『壁の向こうのFreedom -24th March,1989-』
    • 日本のロックバンドTHE ALFEEの楽曲。楽曲製作者の高見沢俊彦は実兄が当時ドイツに在住していた関係で度々訪問しており、壁崩壊前の東西ベルリンにてこの楽曲のイメージを固め、1989年9月から12月末までの秋の全国コンサートツアーをベルリンの壁を模したステージセットで行いこの曲を披露した[注 55]。そのツアー途中で「ベルリンの壁崩壊」が起き、その後はステージセットを崩壊した壁に作り替えてコンサートツアーを続行した。壁崩壊から10年後の1999年9月26日、ブランデンブルク門の前で行われた『ドイツにおける日本年』の開会式典にて本曲を披露した(その際、歌詞を英語にしたうえでタイトルを『Freedom On The Other Side Of The Wall』とした)。




注釈





  1. ^ 国際法的な意味での国家承認ではない。エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」147P参照


  2. ^ 東ドイツの対西側諸国との貿易の三分の一は西ドイツであるが、実は西ドイツとの貿易は無関税・無課税であった。これは西ドイツ側が東は国内であるとの主張から国内貿易として処理されたもので、この制度によって皮肉なことに東ドイツは事実上当時のEC(現在のEU)のもう一つのメンバー国だった、と言われている。メアリー・フルブルック著『ヨーロッパ史入門 二つのドイツ 1945-1990』78P


  3. ^ 西ドイツから東ドイツに入る時に、西ドイツマルクを東ドイツマルクに強制的に交換された。1対1の交換レートだが、東側に入って買える物が少なく、食堂も余り無く、使えないままになるが、それが西ドイツに戻るときに西ドイツマルクに再び交換されることは出来なかった。その残余分はそのまま東ドイツの国庫に収められた。また他の都市に入る時には、そこでも強制的に東ドイツマルクに交換させられて、実質的に東側の収入になった。


  4. ^ これを第二次石油危機以後とする言説があるが、後述のように、第一次石油危機の1973年には既に東ドイツ経済に翳りが見られ、財政難の状態であった(『ドイツ史』「第7章ドイツ民主共和国」497P参照)。しかも国家財政はそれ以前に悪化していて、1973年に既に補佐官がホーネッカーにこのままでは国として破産に追い込まれると経済の実態を報告し(マイケル・マイヤー『1989世界を変えた年』 272P)、東ドイツ経済が危機にあることを1973年段階で国家計画委員会が既に指摘していたのである(『ドイツ史』「第7章ドイツ民主共和国」498P参照)。このような東ドイツ経済の実態はベルリンの壁崩壊までは不明で、1990年頃に発刊された東ドイツ関連の本を読むと、その当時はまだ1980年代に入ってからの経済失速という指摘が多いが、その後1970年代の内実が明らかになるに従って、もっと以前から少なくとも1960年代末には経済が行き詰まっていた(『ドイツ史』「第7章ドイツ民主共和国」476P参照)。東ドイツは、結局1970年代の二度のオイルショックの影響をもろに受けていたことになる。


  5. ^ このような実態は実は早くから分かっていたことで、1973年の段階で勇気ある補佐官がホーネッカーに経済の実態を報告し、このままでは国として破産に追い込まれるとの報告を行ったが、ホーネッカーはそのような調査作業を中止させ、データを破壊するように命じたという。(マイケル・マイヤー『1989世界を変えた年』 272P)そして15年後の1988年にはシューラー委員長自身がホーネッカーに債務危機が迫っていること伝え、「わが国は間もなく破産です。」と説得を試みたが「口をつぐむ。」ように言われただけであった。(ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」497-498P)


  6. ^
    1974年に党中央委員会の計画・財政局長を務め、1981年以後に中央委員会のメンバーであったギュンター・エーレンスベルガーは、1989年11月の壁崩壊直前の中央委員会で、東ドイツの債務問題の始まりは1970年代初めに遡るとして「1973年以降、我々は分不相応な暮らしをしてきた。今日では毎年何十億マルクもの巨額な金を、利子だけで支払わなければならない。」と語った。その時に同じ中央委員でライプツィヒ市立劇場総監督であったカール・カイザーは「我々は騙されてきたのだ。私はここで聞いたことに愕然としている。私の中ですべてが破壊された。私の人生が破壊された。党を信じてきたのだ。同志を信じてきたのだ。」と発言している。H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」487P参照



  7. ^ 1993年のNHKスペシャル番組「ヨーロッパピクニック計画~こうしてベルリンの壁は崩壊した~」で、ゲオルギー・シャフナザーロフはこのように語ったが、「ただ誰もこのように中立のドイツ統一は5年後か10年後のことだと考えていた。」とも語っている。


  8. ^ この661人(約1000人とする資料もある)という数字は、実はハンガリー政府にとっては予想したよりも案外に少ない数字であったという。ネーメトは1万人を予想していた。それはハンガリー国内に東ドイツのシュタージが暗躍し、一部には罠ではないか、と疑ったところもあった。当時如何に東ドイツの人々にとって民主共和国を恐れていたかを現している。マイケル・マイヤー著『1989 世界を変えた年』184P参照


  9. ^ 最初はコールもゲンシャーも、どこまで信じていいのか疑った。ホーネッカー政権に鉄槌を下すようなもので、話がうますぎると思ったからだが、しかしこれが最善の選択だと考えた経過を説明し、これ以上先に延すと国境警備兵に東ドイツ市民が射殺される事件が増えると予測されることで、この話を信じることになった。「ソ連は?」とゲンシャーが聞くと、「いや知らない。あなた方が準備が整ったと連絡を受けてから連絡します。」とネーメトは答えた。( ヴィクター・セベスチェン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』467-468P参照)後にネーメトは、コールはこの時に目に涙を浮かべて、「ネーメト首相。ドイツ国民はあなた方とハンガリーの勇気を永遠に忘れない。」と語ったと述べている。


  10. ^ 「ネーメトはいい指導者だ。」と言ったという説もある。


  11. ^ ハンガリーのホルン外相は東ドイツ政府に対してハンガリー国内にいる東ドイツ国民を処罰しないことと、西ドイツへの移住許可に前向きに対応するよう迫ったが、東ドイツ政府は何の反応も示さなかった(三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P81)という言説があるが、「何の反応も示さなかった」というのは誤りである。はっきりとハンガリーに抗議し、ワルシャワ条約機構加盟国の外相を集めようとしたが失敗していた。また事前にハンガリー側に東ドイツ国民を処罰しないと約束したが、ネーメト政権はこの約束を全く信用しなかった。


  12. ^ 1993年のNHKスペシャル番組「ヨーロッパピクニック計画~こうしてベルリンの壁は崩壊した~」で実際にズグリゲット教会に集まった東ドイツ人へ西ドイツ大使館からのパスポートを手渡す実写場面が紹介されている。


  13. ^ これはネーメト首相ではなく、ホルン外相が夜7時の国営テレビのニュース番組の中で公式に明らかにしたのが最初であるとする説もある。(トニー・ジャット著『ヨーロッパ戦後史 下巻 1971-2005』207P参照)また1993年のNHKスペシャル番組「ヨーロッパピクニック計画~こうしてベルリンの壁は崩壊した~」ではこのニュース番組でホルン外相が西ドイツへの出国方針を明らかにする場面がある。


  14. ^ 当時の欧州の東側諸国は査証免除協定を結ぶと同時に、相手国の国民が自国経由で西側に逃亡するのを防ぐ相互義務を負う協定を結んでいた。


  15. ^ ハンガリー側は東ドイツの非難に対して、1975年のヘルシンキ条約の署名国としての義務である、と反論した。(トニー・ジャット著『ヨーロッパ戦後史 下巻 1971-2005』207P参照)東西ヨーロッパ諸国が集まった全欧安保保障協力会議における人権及び基本的自由を尊重するとした条約に東ドイツも署名していた。


  16. ^ 最終的には6000人に達したという別の説もある。H・A・ヴィンクラー著『自由と統一への長い道 Ⅱドイツ近現代史1933-1990』468P


  17. ^ 東ドイツそのものが、ソ連に政治的にも軍事的にも依存し、その経済的支援とともに軍事的支援(国内にソ連軍が存在すること)がホーネッカー政権を支えていた。


  18. ^ この日ゴルバチョフは駐東独のソ連大使コチュマソフを通じて、東ドイツ市民のデモ隊の制圧に駐独ソ連軍を使わないよう、駐独ソ連軍の司令官スネトコフに指示していた。(ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P485)


  19. ^ この声明は社会主義統一党機関紙『ノイエス・ドイチュラント』に12日に掲載された。


  20. ^ シュトレーレッツは「上級大将」と訳されているが国家人民軍の階級では旧ドイツ国防軍で上級大将を意味した"Generaloberst"は「大将」で、国家人民軍上級大将は""Armeegeneral"


  21. ^ ホーネッカーが中央委員会で解任され失脚した日時を、10月18日とする出典も散見される。これは17日の政治局会議で中央委員会に対して解任を求める動議を提出することが可決され、翌日の中央委員会総会で解任動議が可決されたことにより正式に退任したからである。


  22. ^ 失脚後のホーネッカーに対して行ったインタビューをまとめた『転落者の告白―東独議長ホーネッカー』(著:ラインホルト・アンデルト、ヴォルフガンク・ヘルツベルク 翻訳:佐々木 秀 時事通信社 1991年) P20では、ホーネッカーは「10月17日の政治局会議」と明言している。


  23. ^ この措置は、それまでと違い、二国間協定に基づくものであったので、その意味は大きく、西ベルリンの新聞「ターゲスツァイトゥンク」紙の記事でジャーナリストのクラウス・ハルトゥングが「誰も正しくは気付いていない。壁が崩れたということを」として「象徴が崩れたのではない。現実が崩れたのだ」と記している。チェコと東ドイツ国境が開放され、続いてチェコと西ドイツ国境が開放されたことで、もはや後戻りは出来ず、その次の選択は西ベルリン及び西ドイツとの国境を開放するしか東ドイツの選択は残っていなかった。この決定の不可避的帰結がわずか6日後の11月9日であった。N・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」486P


  24. ^ このモドロウが閣僚評議会議長(首相)に正式に就任したのは5日後の11月13日である。この8日時点で政治局員が総辞職し、内閣の閣僚も総辞職したと各資料に述べているが、そうであるなら8日から13日まで首相は不在であったことで、11月9日夜は全く政権が機能していなかったことになる。このドイツ民主共和国の政権交代時の空白の時間が壁の崩壊に多分に影響があったと解される。


  25. ^ 出典によって表現が違う。


  26. ^ そんなことをしたら、支離滅裂な対応になり、一度に大量の東ドイツ国民が国を去り、国が崩壊すると予想した。


  27. ^ 直前のハンガリーやポーランドでの事態では「追放」で再入国を認めないものであった。


  28. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」では12時30分、H・A・ヴィンクラー著「自由と統一への長い道Ⅱ」では午後3時50分と述べている。クリストファー・ヒルトンは昼12時に中央委員会に提出されて、12時30分に中央委員会で承認され、すぐに閣僚会議に付託され、午後3時30分にクレンツの下にゴム印の押された提案書が戻ってきたとしている。


  29. ^ H・A・ヴィンクラーは、これによって「11月10日という報道解禁日」は事実上なくなったと述べている。また閣僚評議会から発表すべきとの内相の発言は政令が「閣僚評議会議長令」だからであることが、その理由であった。そうであればシャボフスキーは政府スポークスマンとして閣僚評議会の発表を行ったことになるが、実は閣僚評議会のスポークスマンは別にいたことになっている。ただしこの記者会見の場での他の発表内容は中央委員会での討議内容であった。


  30. ^ シャボフスキーは元ジャーナリスト(党機関紙「ノイエス・ドイチュラント」編集長)で弁舌が巧みであったため、マスコミや在野団体に応対する役割をしていた(三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24)。なお、当時の彼の役職は党中央委員、政治局員、ベルリン地区委員会第一書記(党のベルリン支部長)、人民議会議員であった。


  31. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」 下巻 181Pではクレンツは彼に紙切れを手渡し「これを発表するように。爆弾発表だ」と言った、シャボフスキーはこの時にその内容を読まなかったという。他に 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』24P ではシャボフスキーはクレンツからA4版2枚の書類を渡され、「こいつを発表しろよ。こいつは大当たりするぞ」と言われたという。これはシャボフスキーの回想によるものだが、クレンツの回想によればシャボフスキーが発表しても良いかどうかを尋ねたことになっている。


  32. ^ 中央委員会が行われた党本部から、この各国の記者が集まった会見場(国際記者会館)までは、直線距離でわずか200~300mの近さであったが、道路を走るため公用車を使っていた。


  33. ^ 但し資料によっては100人の記者が出席していたとするものもある。


  34. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」では閣僚評議会の諸決定の報告をしていたと記している。エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」207P参照


  35. ^ イタリア人記者リッカルド・エールマン(Riccardo Ehrmann)が2009年4月16日に放送されたドイツARDテレビの番組で明らかにしたところによれば、この会見の前にエルマンと面識があった社会主義統一党の大物から電話があり、取材する際に出国規制の緩和について必ず質問するよう念を押したという“「ベルリンの壁」崩壊の陰に謎の電話、ドイツ”. 2009年6月10日閲覧。。但しエールマン自身はこの報道を否定しているという情報もある。


  36. ^ それぞれ出典が違うが、前後関係からシャボフスキーの言い方はこのような流れであったと思われる。


  37. ^ この質問をしたのは、エールマンでなくアメリカNBC放送のトム・ブロコウ記者であるとヴィクター・セベスチェンは書いている。ヴィクター・セベスチェン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』509-510P


  38. ^ この言葉は、他に「私の知る限りでは、今からすぐにです」、「私が知っている限りでは、即座に遅延なくです」(グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 260P)、「私が承知している限りでは、直ちに遅滞なく発効します」(エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」210P)と訳されている。


  39. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」では、政令案はこの日午後に中央委員会から閣僚会議に付託されて、午後3時30分にクレンツの元に書類が戻ってきている、と述べている。エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」ではシャボフスキーは「閣僚評議会」の諸決定を報告したとしている。1961年8月12日の壁建設時に夕方に中央委員会で決定し、夜の園遊会で酒を飲んでいた閣僚連中にウルブリヒトが突然署名を求めた歴史の経過から、閣僚会議が全く形ばかりの組織であることは明らかだ。首相の任免は中央委員会で行っており、中央委員会が閣僚会議より上位に位置していることで、実際アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」でシャボフスキー自身が寄稿した文では、彼が記者会見に持っていった文書は政府通達の草案で、新しい旅行法が不十分で抗議の動きが強まっていたために政令の発表を急ぐ必要があったと記し、「我々の決定について政府は何も知りませんでした」と書いている。(アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」136-140P 参照)ましてシュトフ閣僚評議会議長(首相)が前日に解任されて後任にモドロウが決定したが正式就任が13日であることで、この場合は閣僚会議の議決の可否は大きな問題ではなく、シャボフスキーは勘違いではなく、形だけの閣僚会議のことは全く考えていなかったと解される。


  40. ^ ベルリンでは電波が相互にスピルオーバーするため、という言説は正確ではない。余分に電波が飛んでいる状態ではなく、政治的に対立している地域ではお互いに電波が遠くまで届くようにするもので、東西ドイツ間では相互に認めている状態である。それが自由主義の宣伝にもなり、東ドイツの人々は西側の番組を知っていた。


  41. ^ 「ボルンホルマー通り」と表記する資料もある。


  42. ^ 通称チェックポイント・チャーリーとして有名であり、1961年10月に米ソで戦車を動員にして対峙した所であり、また西側3ヵ国の軍関係者はここだけ通過が認められている検問所である。


  43. ^ 国境検問所には直接窓口で対応するパスポート審査官と、外で保安活動を行う国境警備隊とは現実に任務が分かれていた。国境警備隊はあくまで検問所の外側でのいわゆる治安維持を含めた規制などの警備を行い、パスポート審査官は検問を通過する者のチェックや認証などの窓口業務を取り仕切った。そしてこのパスポート審査は国家保安省(シュタージ)の管轄であり、市民が出入りする場所である検問所の全ての責任はこのパスポート審査官が負っていた。従って現場での最高責任者は国境警備隊ではなく、パスポート審査官であった[131]


  44. ^ ただし、異説として、この11月9日夜に限って各検問所のパスポート審査の責任者全員が内務省の会議に呼び出されていたために、この夜は各検問所も副官が留守を守っていたとして、決断を下すべき本来の責任者はどこの検問所にも居なかったとしている。残っていたメンバーで一番経験の長い者がこの困難な状況下で歴史的な決断を下す夜になったことになる[132]。そして1989年11月9日夜のボルンホルマー通りの検問所の最高責任者はパスポート審査官であるハラルト・イエーガー司令官であった[131]


  45. ^ 後に「ベルリンの壁を開放した男」と呼ばれることになったハラルト・イエーガー(ドイツ語版)中佐。Yannick Pasquet (2014年11月9日). “「ベルリンの壁を開放した」元国境警察官、25年前を回想”. AFPBB News. http://www.afpbb.com/articles/-/3031195 2014年11月11日閲覧。 


  46. ^ ギュンター・メルと表記する資料もある。


  47. ^ チェックポイント・チャーリーで最終的に彼が国境の開放を決断することになるが、彼はパスポート審査官ではなく、警備隊の指揮を取っていたと思われる。またモルはイエーガーと違ってシュタージには在籍しておらず、チェックポイント・チャーリー内ではシュタージでもあったイエーガーとはまた別の立場であった。


  48. ^ 1936年のベルリンオリンピックのメイン会場となったスタジアムである。戦後は連合軍の施設となり、西側の軍関係者が集まる社交場でもあった。


  49. ^ チェックポイント・チャーリーのあるフリードリッヒ通りの地下に地下鉄の駅はあるが、それは西側の駅であり、東側には壁付近に近い駅はない。越境や逃亡を防ぐためである。


  50. ^ 西側3ヵ国の軍関係者は1961年の壁建設以後も東ベルリンに行くことは可能であった。戦後の4ヵ国協定で米英仏ソの4ヵ国はベルリンの東西を往来することは認められていて、相互に軍用車に自国の旗を立てて、他国の占領管理地区をパトロールを行っていた。当初アメリカ軍は1日おきに昼間と夜間に4~5台が東ベルリンをパトロールし、その後毎日実施していた。これはソ連占領地域に出入りする権利を持つことを誇示し、その権利を行使することを示していたが、ソ連側も同じように西ベルリンをパトロールしていた[143]


  51. ^ 同じ1989年6月4日に起こった天安門事件の影響もあり、すでに東ドイツの全ての軍隊はあらゆるデモに対して武力制圧をすることを拒否していたため、武力をちらつかせての威嚇や武力制圧という手段はまず不可能であった。


  52. ^ ベルリンの国境検問所は東側は東ドイツが管理しているが、元はソ連であり、米英仏の西側3ヵ国とソ連とでベルリンを管理している形は戦後変わらずにきている。東ドイツが何としようとベルリンの管理は米英仏ソの4ヵ国が取り決めていることで、アメリカ軍の相手は東ドイツでなく、ソ連軍であった。そしてこの時にソ連軍は50万人の兵士が東ドイツにいた。


  53. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』ではモル司令官が「独断」でゲートを開かせたと述べているが、正確には「独自の判断」と表現しており、勝手に動かした訳ではない。しかもこの時点はボルンホルム通りのイエーガーの決断から1時間も過ぎており、他の検問所もすでに開き、しかもチェックポイント・チャーリー内のパスポート審査官(シュタージ)の同意を得ており、独断とは言えない。なおマイケル・マイヤー著「1989 世界を変えた年」ではこのチェックポイント・チャーリーの国境開放は11時17分としている。


  54. ^ この西ドイツの国会で自然発生的に国歌が歌われたことについて、11月9日夜ではなく、翌日の11月10日とする説もある。川口マーン恵美 著「ベルリン物語」では11月10日の午前中の出来事で、歌われた国歌は『すべての上に君臨するドイツ』で始まる一番であった。川口マーン恵美 著「ベルリン物語」249P参照


  55. ^ 正式な楽曲リリースは1992年のアルバム『JOURNEY (THE ALFEEのアルバム)|JOURNEY』




出典


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  1. ^ アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所をたどる旅~」145P


  2. ^ アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所をたどる旅~」194P


  3. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」104P


  4. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」105P


  5. ^ H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」199P


  6. ^ H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」200P

  7. ^ ab本村, p. 66.


  8. ^ メアリー・フルブルック著『ヨーロッパ史入門 二つのドイツ 1945-1990』56P参照


  9. ^ メアリー・フルブルック著『ヨーロッパ史入門 二つのドイツ 1945-1990』77P参照


  10. ^ 北島瑞穂 著『ドイツ現代歴史深訪』第4章 もうひとつのドイツの記憶 140-141P参照

  11. ^ ab本村, p. 67.


  12. ^ メアリー・フルブルック著『ヨーロッパ史入門 二つのドイツ 1945-1990』77P参照


  13. ^ 本村, p. 68.


  14. ^ 北島瑞穂 著「ドイツ現代史探訪」第4章 もうひとつのドイツの記憶 144P


  15. ^ メアリー・フルブルック著『ヨーロッパ史入門 二つのドイツ 1945-1990』77P参照


  16. ^ 本村, p. 73-74.


  17. ^ 北島瑞穂 著「ドイツ現代史探訪」第4章 もうひとつのドイツの記憶 144P


  18. ^ メアリー・フルブルック著『ヨーロッパ史入門 二つのドイツ 1945-1990』78P参照


  19. ^ メアリー・フルブルック著『ヨーロッパ史入門 二つのドイツ 1945-1990』78P参照


  20. ^ 世界歴史大系「ドイツ史3 1890年~現在」第7章 ドイツ民主共和国 斎藤哲 著 497P 参照


  21. ^ 南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 (講談社現代新書 1990年)P103-104


  22. ^ 北島瑞穂 著「ドイツ現代史探訪」第4章 もうひとつのドイツの記憶 145-146P


  23. ^ マイケル・マイヤー『1989世界を変えた年』 272-273P


  24. ^ 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P3-4


  25. ^ H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」445P参照


  26. ^ 北島瑞穂 著「ドイツ現代史探訪」第4章 もうひとつのドイツの記憶 144P


  27. ^ H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」446P参照


  28. ^ 本村, p. 89.


  29. ^ 本村, pp. 89-90.


  30. ^ メアリー・フルブルック著「ヨーロッパ史入門 二つのドイツ1945-1990」115P


  31. ^ メアリー・フルブルック著「ヨーロッパ史入門 二つのドイツ1945-1990」115-116P


  32. ^ H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」447P参照


  33. ^ エドガー・ヴォルウルム著『ベルリンの壁』190-192P


  34. ^ H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」446-447P参照


  35. ^ 本村, p. 101.


  36. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」198-199P


  37. ^ 南塚、宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P106-108 および 永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』(日本放送出版協会 1990年)P94-96


  38. ^ ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」 372-374P参照


  39. ^ ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」 375-376P参照


  40. ^ H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」445P参照


  41. ^ トニー・ジャット著『ヨーロッパ戦後史 下巻 1971-2005』204-205P参照


  42. ^ グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」汎ヨーロッパピクニック 251P


  43. ^ H・A・ヴィンクラー著『自由と統一への長い道 Ⅱドイツ近現代史1933-1990』467P


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  69. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」200P


  70. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P83


  71. ^ アンケ・シュヴァルタウ、コルト・シュヴァルタウ、ロルフ・シュタインベルク共著『ベルリンの壁崩壊 フォト・ドキュメント1989.11.9』4P 及び 巻末資料ⅲページ参照


  72. ^ ドイツ民主共和国憲法第1条 「ドイツ民主共和国は労働者と農民による社会主義国家である。(ドイツ民主共和国は)労働者階級とそのマルクス・レーニン主義政党(SED)の指導の下に置かれる、都市と農村における労働者の政治組織である。」(Die Deutsche Demokratische Republik ist ein sozialistischer Staat der Arbeiter und Bauern.Sie ist die politische Organisation der Werktätigen in Stadt und Land unter der Führung der Arbeiterklasse und ihrer marxistisch-leninistischen Partei.)


  73. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P8


  74. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P9


  75. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦元博・山崎博康訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』(白水社 2009年 ISBN 9784560080351)P484


  76. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P484


  77. ^ マイケル・マイヤー 著、早良哲夫訳『1989 世界を変えた年』(作品社 2010年)P249-250


  78. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P11


  79. ^ N・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」480P


  80. ^ 永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』(日本放送出版協会 1990年)P100-101


  81. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P11-14


  82. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P14-15


  83. ^ N・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」482P


  84. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P494


  85. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P17-18およびラインホルト・アンデルト、ヴォルフガンク・ヘルツベルク著、佐々木 秀訳『転落者の告白―東独議長ホーネッカー』(原題:Der Sturz Honecker im Kreuzverhör 時事通信社 1991年)P20-27


  86. ^ N・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」484P


  87. ^ 三浦・山崎『東欧命-権力の内側で何が起きたか-』P18-21、P26-29


  88. ^ H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」484-485P


  89. ^ ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」497-499P


  90. ^ ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」500-501P


  91. ^ ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」502P


  92. ^ 永井・南塚・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』P101


  93. ^ マイケル・マイヤー 著『1989 世界を変えた年』265P


  94. ^ マイケル・マイヤー 著『1989 世界を変えた年』266P


  95. ^ グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 259P


  96. ^ マイケル・マイヤー 著『1989 世界を変えた年』274P


  97. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P21-22


  98. ^ アンケ・シュヴァルタウ、コルト・シュヴァルタウ、ロルフ・シュタインベルク共著『ベルリンの壁崩壊 フォト・ドキュメント1989.11.9』巻末資料ⅳページ参照


  99. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P20-21


  100. ^ マイケル・マイヤー著『1989 世界を変えた年』271-272P


  101. ^ マイケル・マイヤー著『1989 世界を変えた年』272-273P


  102. ^ グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 259P


  103. ^ ヴィクター・セベスチェン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』507P


  104. ^ ヴィクター・セベスチェン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』507P


  105. ^ ヒルトン, p. 172.


  106. ^ マイヤー『1989 世界を変えた年』P275


  107. ^ CHRONIK DER MAUER


  108. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P23


  109. ^ グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 259P


  110. ^ マイケル・マイヤー著『1989 世界を変えた年』274-275P


  111. ^ H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」488P


  112. ^ ヴィクター・セベスチェン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』508P


  113. ^ マイケル・マイヤー著『1989 世界を変えた年』275P


  114. ^ グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 259P


  115. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」207P参照


  116. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」207-208P参照


  117. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」208P参照


  118. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」208P参照


  119. ^ 永井・南塚・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』102P参照 


  120. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」209-210P参照


  121. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24  マイヤー『1989 世界を変えた年』P275-277  Hans-Hermann Hertle: Chronik des Mauerfalls. 10. Auflage. Ch. Links, Berlin 2006, S. 145 参照


  122. ^ ヒルトン, p. 186.


  123. ^ H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」488P


  124. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24-P25参照


  125. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P25


  126. ^ 本村, pp. 118-119.


  127. ^ ヒルトン, p. 187.


  128. ^ ヴィクター・セベスチャン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』510P


  129. ^ H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」489P


  130. ^ ヒルトン, p. 224.

  131. ^ abヒルトン, p. 190.


  132. ^ ヒルトン, p. 227.


  133. ^ Yannick Pasquet (2014年11月9日). “「ベルリンの壁を開放した」元国境警察官、25年前を回想”. AFPBB News. http://www.afpbb.com/articles/-/3031195 2014年11月11日閲覧。 


  134. ^ ヒルトン, pp. 189-192.


  135. ^ ヒルトン, p. 188.


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  137. ^ ヒルトン, pp. 192-193.


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  139. ^ ヒルトン, p. 201.


  140. ^ ヒルトン, p. 208.


  141. ^ ヒルトン, pp. 208-210.

  142. ^ abヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P512


  143. ^ ヒルトン, pp. 8-9.


  144. ^ ヒルトン, p. 200.

  145. ^ abヒルトン, p. 210.


  146. ^ ヒルトン, p. 211.


  147. ^ グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 260P

  148. ^ abヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P511


  149. ^ ヒルトン, pp. 211-212.


  150. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P511-512


  151. ^ ヒルトン, p. 215.


  152. ^ ヒルトン, pp. 215-217.


  153. ^ ヒルトン, p. 219.


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  155. ^ ヒルトン, pp. 213-215.


  156. ^ ヒルトン, pp. 222-223.


  157. ^ ヒルトン, pp. 223-225.


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  159. ^ abヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P513


  160. ^ ヒルトン, p. 223.

  161. ^ abヒルトン, p. 232.


  162. ^ ヒルトン, p. 234.


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  166. ^ abヒルトン, p. 245.


  167. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P514


  168. ^ ヒルトン, p. 247.


  169. ^ ヒルトン, p. 251.


  170. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P512-513


  171. ^ アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」139-140P参照


  172. ^ マイケル・マイヤー 著『1989 世界を変えた年』279P


  173. ^ 『ベルリンの壁崩壊 フォトドキュメント』5P及び 49P参照


  174. ^ グレゴーア・ショルゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』249-250P参照 三元社 2015年


  175. ^ ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」515-517P


  176. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」210P


  177. ^ H・A・ヴィンクラー著「自由と統一の長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史1933-1990年~」489-490P参照


  178. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」210P


  179. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」215P


  180. ^ アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」193P


  181. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」214P参照


  182. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P29-33


  183. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P33-34

  184. ^ abc三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P36


  185. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P37


  186. ^ 南塚・宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P115-166

  187. ^ ab南塚・宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P122


  188. ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』(岩波書店 ヨーロッパ史入門 2009年)P120


  189. ^ Helen Nugent (2009年9月10日). “United Germany might allow another Hitler, Mitterrand told Thatcher”. Times (UK). オリジナルの2011年5月12日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110512174119/http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/europe/article6828556.ece 2011年5月12日閲覧。 


  190. ^ 朝日新聞 1989年11月19日付 7頁


  191. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」217-218P参照


  192. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」218P参照


  193. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」219-220P参照


  194. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」220P参照


  195. ^ ヒルトン, p. 194.


  196. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P515


  197. ^ 『ダライ・ラマ自伝』(ISBN 4167651092)


  198. ^ ベルリンの壁崩壊25周年、3日間の祝賀行事 ドイツ(AFP 2014年11月8日)




関連項目



  • ベルリンの壁

  • ベルリンの歴史

  • 統一条約

  • ドイツ再統一

  • 東欧革命

  • 湾岸戦争

  • ソ連崩壊


  • ハンガリー民主化運動

    • 汎ヨーロッパ・ピクニック
      • ショプロン



  • ヨーロッパ史

  • 現代 (時代区分)

  • この壁を壊しなさい!


分断国家



  • ベトナム(1976年統一):南ベトナム 北ベトナム


  • イエメン(1990年統一):南イエメン 北イエメン


  • 朝鮮半島:38度線、軍事境界線 (朝鮮半島)


  • キプロス:ニコシア、北キプロス・トルコ共和国



外部リンク








  • ベルリンの壁崩壊25周年(駐日ドイツ大使館公式ウェブサイト)


  • 25 Jahre Fall der Berliner Mauer(ベルリン市公式ウェブサイト)




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