エドワード・コーク
サー・エドワード・コーク(Sir Edward Coke, 1552年2月1日 - 1634年9月3日)は、イングランドの法律家・政治家。中世ゲルマン法に由来するコモン・ローの法思想を理論化し、近代の法思想として継承させることに成功し、「法の支配」という憲法原理を確立した。英国法の発展に大きく貢献した法律家の一人。植民地の起業家でもあった。姓はクックとも発音ならびに表記される[1][注釈 1]。
目次
1 生涯
2 影響
3 判決
4 略年譜
5 著作
6 参考文献
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 関連人物
9 外部リンク
生涯
国王・宗教裁判所・エクイティ裁判所・海事裁判所に対してコモン・ローの優位を主張し、それらの権力をコモン・ローによって制限することを主張し続けたとされ、中でも、1606年の国王の禁止令状事件が有名である。国王ジェームズ1世が王権神授説をもって国王主権を主張したのに対して、コークが「王権も法の下にある。法の技法は法律家でないとわからないので、王の判断が法律家の判断に優先することはない。」と主張したところ、気分を害したジェイムス1世が「王である余が法の下にあるとの発言は反逆罪にあたる。」と詰問したのに対し、コークは、「国王といえども神と法の下にある」というヘンリー・ブラクトンの法諺を引用して諫めたとされる[2]。
ただしコークは、国王・王室を篤く崇敬する国王大権の支持者で、反国王・反王室のイデオロギーの持ち主ではない。この事件で、コークは、ノルマン征服以後裁判権に介入しようとした王は歴代の王の中に一人もいないと明確に誤った主張をして王を説得しようとしているが、それにもかかわらず政治的には大きな成果を上げたものと評価されている[3][4]。
さらに、「権利の請願」を起草する際、貴族院は庶民院の草案に「国王の主権者権力」(Sovereign power)という文字を入れるよう要求したが、コークらは、それを拒否した。コークの主導の下、国庫歳入を保留することにより、1628年に庶民院はイングランド王チャールズ1世に、コークの『権利の請願』を奏上し承諾を得た。
影響
コークは、マグナ・カルタをコモン・ローを明文化したものの1つと解釈し、コモン・ローの確認・再生であるとした。このようなマグナ・カルタの解釈を通じて、「法の支配」という憲法原理が確立された。こうして、中世のイギリス憲法は、過去の遺物として断絶されず、近代のイギリス憲法と連続することになった。その後、マグナ・カルタが近代において、大きな影響力を持つようになった。
また、マグナ・カルタを、貴族を保護するためだけではなく、全ての臣民を等しく保護するために用いられると解釈した。それは実質的に大憲章を、議会や王から全ての臣民を守る保証人だと定めたことになる。よく知られるとおり、彼はこう主張した。『大憲章は、その上に王を持たない存在である。』
1610年のコークによる医師ボナム事件の判決は、コモン・ローに反する法律(制定法)は無効であると判示したとされ、「アメリカ建国の父」であるアレクサンダー・ハミルトンが違憲立法審査を考案する契機となったとされている。[5]。
カルヴァン事件では、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世になった後のスコットランド臣民はスコットランドだけでなくイングランドにも土地を所有できる、とした。この事件は、北アメリカに入植したイングランドの入植者がイングランド人としての権利を有するという考えを支持する重大なものとなった。
コークの著書の写しは1620年にメイフラワー号に乗って北アメリカに渡り、イギリス植民地のすべての法律家がコークの本、特に『判例集』『イギリス法提要』に学んだ。ジョン・アダムズ、パトリック・ヘンリーは、1770年代の母国への反逆行為を支持するかどうかを、コークの著作から議論した。
デルタ・カイ兄弟団はエドワード・コークを精神的創設者と考えている。
権利の請願が、権利の章典、アメリカ合衆国憲法修正条項のさきがけとなった。
判決
- 医師ボナム事件
- 裁量による捜索からの自由の権利の起源となったシーメイン事件
反トラストで重要なモノポリー事件(ダーシー対アレイン事件)- 企業法の起源となったサットン病院・環境法の誕生とも言われるウィリアム・アルフレッド事件
略年譜
1552年 - ノーフォークのマイルハムで、法廷弁護士の子として生まれる。ノリッチのノリッチ・スクール (Norwich School)で学ぶ。
1567年 -ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学。
1572年 - 法曹院の一つであるインナー・テンプルに入学。
1578年 - 法曹資格を取得
1589年 - 庶民院議員。
1592年から1594年 - 法務次長。
1593年 - 庶民院議長。
1594年から1606年 - 彼のライバルだったサー・フランシス・ベーコンとポストを争った末、法務総裁に就任。この時期、熱意溢れる検事としてサー・ウォルター・ローリー事件や火薬陰謀事件を扱う。
1606年から1613年 - 人民間訴訟裁判所主席裁判官。- 1606年 - 北アメリカで入植地を探すための王の設立許可状で認められた私的ベンチャーであるバージニア会社の設立許可状の作成に加わった。バージニア会社の2つの支部の一つであるロンドン会社の理事になる。
1613年 - 王座裁判所主席裁判官・枢密顧問官。ここでも彼は、聖職者階級、貴族に牛耳られていた地方裁判所、および国王の干犯からコモン・ローの擁護を続ける。
1616年 - 王座裁判所主席裁判官・枢密顧問官を罷免される。王が自身の意見を述べることができるようになるまで裁判を休会にすることを拒んだという理由で、ベーコンが王に解任を助言したのが原因。
1617年 - 枢密顧問官に再任。
1621年 - 庶民院議員。しかし他の議会リーダーと一緒に6箇月投獄され、政府の問題児となる。
1628年 - 権利請願を起草。
1634年 - バッキンガムシャー州のストークポージスで死去。
著作
Reports (1600年 - 1615年、1656年 - 1659年) 『判例集』全13巻
Institutes of the Laws of England (1628年 - 1644年) 『イギリス法提要』全4巻
「リトルトン註釈」とは、『イギリス法提要』の第1巻
参考文献
安藤高行『近代イギリス憲法思想史研究』お茶の水書房
戒能通厚編「現代イギリス法辞典」新世社
田中英夫『BASIC英米法辞典』 東京大学出版会
- 別冊ジュリスト『英米判例百選(3版)』有斐閣
中川八洋『保守主義の哲学』(第2章「法の支配」は復権できるか―マグナ・カルタ再生とコーク卿)(PHP研究所、2004年)
脚注
注釈
^ 中川八洋によると、「クック」と読むのは不可能な誤発音だという。「コーク卿の妻は『伯爵夫人』の称号をもつが、夫のコーク卿を蛇蝎のごとく嫌い、家庭外で公然と『My Cook 私の料理人(クック)』と称した。そればかりか、手紙などで『Cookの妻』」と書いたりした。これが当時のロンドン市中に広まり、一般庶民も英国一の大裁判官を『Sir Cookクック卿』と囃したてたのは歴史事実。コークを研究した、東京大学の伊藤正己は『コーク』、大阪大学の石川幸三は『コウク』、愛知大学の酒井吉栄は『コーク』、お茶の水女子大学の井上茂は『コーク』と表記。『コウク』との表記もある。」──警官の制服を着た強盗が「強盗を捕まえろ!」と大声で騒ぐに同じく、“反・立憲主義者”は、「立憲主義!」を連呼する
出典
^ Merriam-Webster Online
^ 以上は上掲『英米判例百選(3版)』89頁
^ 以上は上掲『英米判例百選(3版)』89頁
^ 死後出版された“Prohibitions del Roi”は、上記のジェームズ1世とコークの議論を詳細に記したもので、法律は『人造の理性』に基づいており、決定は王ではなく法律家に任せるべきことを、しぶる王に納得させた(一時的にではあったが)ところが記されているが、この事件の存在自体を疑う向きもある(『英米判例百選(3版)』89頁)
^ もっとも、田中英夫は、以上のような見方は法律の文言に強い拘束力を認める近代的立法観を前提にしており、コークが前提としていた中世的立法観からすれば単に法律の解釈上の指針を述べたものすぎないとしている(『英米判例百選(3版)』90頁)
関連人物
- マシュー・ヘイル
- ウィリアム・ブラックストン
- ジョン・マーシャル
- ジェームス・ケント
- ジョセフ・ストーリ
- ダニエル・ウェブスター
外部リンク
- Selected Writings of Sir Edward Coke, vol. I
- Selected Writings of Sir Edward Coke, vol. II(イギリス法提要を収録)
- Selected Writings of Sir Edward Coke, vol. III
- Debates about the Petition of Right
司法職 | ||
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先代: サー・トマス・エジャートン | 法務次官 1592年–1594年 | 次代: サー・トマス・フレミング |
先代: サー・トマス・エジャートン | 法務総裁 1594年–1606年 | 次代: サー・ヘンリー・ホバート |
先代: サー・フランシス・ガウディ | 民事高等裁判所首席裁判官 1606年–1613年 | 次代: サー・ヘンリー・ホバート |
先代: サー・トマス・フレミング | 首席裁判官 1613年–1616年 | 次代: ヘンリー・モンタギュー |
公職 | ||
先代: トマス・スナッジ | 庶民院議長 1592年–1593年 | 次代: サー・クリストファー・イェルバートン |