文明







ピラミッドとスフィンクス。エジプト文明はメソポタミア文明と並ぶ世界最古の文明のひとつである


文明(ぶんめい、仏: civilisation、ラテン語: civilizatio キーウィーリザティオー)とは、人間が作り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す。




目次






  • 1 文明の概念


    • 1.1 文明の発生


    • 1.2 文明の特徴


    • 1.3 文明の変遷と完成、文明の型


    • 1.4 文明の種類




  • 2 文明論


    • 2.1 文明論の概要


      • 2.1.1 文明の舞台と環境




    • 2.2 文明と野蛮・未開




  • 3 脚注


    • 3.1 注記


    • 3.2 注釈


    • 3.3 出典




  • 4 参考文献


  • 5 関連項目





文明の概念



文明の発生


文明が発生するには、まず前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農作物の生産がなければならない。最初期の農耕はオリエントの肥沃な三日月地帯において11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。これらは、2万年前に最も寒くなった最終氷河期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。この時期はBC5300年頃にはメソポタミアにおいて灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。その後、紀元前4000年ごろからはウルやウルクといった都市がメソポタミア南部に相次いで建設されるウルク期と呼ばれる時期に入り、BC3200年ごろには楔形文字が発明された。


なぜ人類社会が高度に組織化され文明が発生するようになったのかは明確にはわかっておらず、いくつかの説がある。この中で、乾燥化や地球寒冷化などによって人々がより条件の良い土地に移住して集中するようになり、その人口を支えるために大規模な農耕がおこなわれ、文明が成立したとする説がある。




  • 地球寒冷化によってそれまでの分散していた生活環境が苛酷になった為、河川周辺への人口集中が促されるなど、文明の発生に大きな役割を果たすという説[注 1][注 2]

  • サハラ砂漠は2万年を頂点に12,000年前まで乾燥し、その後、7000年前まで森林が増え、5000年前まで森に覆われていた。その後、乾燥により砂漠化が今も進行している。砂漠化により、砂漠にとどまるものと、ナイル河畔に移動したものにわかれた。移動と共に生活様式を変えたものが、ナイル河畔で文明を創ったと言う説がある[注 3]



文明の特徴


西欧語の "civilization"(英語)などの語源は、ラテン語で「都市」「国家」を意味する "civitas" に由来する。ローマ時代の文明とは、字義通りに都市化や都市生活のことであった。


文明の要素

マルクス主義の考古学者ゴードン・チャイルド(1892年-1957年)の定義では、文明と非文明の区別をする指標として次のものを挙げている[1]




  • 効果的な食料生産

  • 大きな人口


  • 職業と階級の分化





  • 都市


  • 冶金術

  • 文字





  • 記念碑的公共建造物(ピラミッドなど)

  • 合理科学の発達

  • 支配的な芸術様式





上記の定義は、ひとつの連続する過程として説明することができる。まず農耕が開始され、効果的な食料生産によって農耕民たちは大きな人口を抱えるようになる。またこれによって大きな余剰農作物が生まれ、その富を元にして農業以外を生業とするスペシャリストが生まれ、多様な職業に従事する人々が生まれる。同時に、食糧生産をより効率的にするためには灌漑施設の建設などの土木作業が不可欠であり、これを可能にするために社会の組織化が推進される。こうした事業はしばしば豊穣などを神に祈るための信仰と結びつき、食糧余剰を管理しより増産を進めるための機構として神官団が生まれる。また、食糧生産の過程で富の偏在が生まれ、富裕なものは他者に対し優位に立つようになる。この2つのシステムは結合し、こうして政府と階級が生まれる。上層の階級のものはその村落のみならずやがて周囲の村落にも影響を及ぼすようになり、一つのまとまった支配圏が誕生する。こうしてより富が集積されるようになり、さらに増えた人々やスペシャリストたち、そして支配階級のものがまとまって居住する支配や交易の拠点、いわゆる都市が誕生する。支配層が統治の必要から社会システムを発展させていく中で、文字や記念碑的公共建造物、芸術様式を発達させていき、一つの文明が成立することになる。ただし上記の指標はすべてそろっていなければならないわけではなく、たとえばアンデス文明は文字を持たなかったし、アンデス文明およびアステカやマヤといったメソアメリカ文明においては冶金術も鉄器レベルまでには達していなかった。


チャイルドの定義以外に、すべての文明に共通するものとして次がある。




  • 小麦、コメ、トウモロコシといった穀物の栽培は、その貯蔵のしやすさや大量に収穫できることなどから、多くの文明の基盤となるものだった。また、ほとんどの文明においては家畜化された動物が一種類ないし数種類存在し、食糧供給源、動力、移動手段として大きな役割を果たした。

  • 広範囲な貿易。文明以前から、世界各地において広範囲の交易ネットワークは成立しているが、文明の成立とともにこれはより大規模なものとなっていた。シュメールでは、国家管理された貿易商の集団が設置されていた。

  • 単一の定住に比べてより広域な地域にまたがる組織や民族[注 4]



文明の機構

チャイルドは文明を構成する要素に注目したが、機構に注目すれば以下の定義により、政府やネットワークが浮かび上がる。

  • 大きな人口を維持するには効果的な食料生産と食料分配の制度や分業・階層化を可能にする中心機構を持った政治システムが必要で、「文明とは国家という政治システムを持つ社会」と言う定義[2]

  • いろいろな文化のサブ・システムを包含する、広域的ネットワークとして、広い範囲に普遍的に広がり、大規模で高度な組織、制度、統合がなされていると言う定義[3]





文明の変遷と完成、文明の型



文明のゆるやかな成立

新石器時代の狩猟採集から、原始的な農業を経て、村、町、都市へとゆっくりと発展して、文明が成立していくため、文明が一気に成立するわけではなく、文明に至る階段を登ることになる。例えば、シュメール文明は最古の文明の一つだが、BC5300年頃のウバイド文明から、ウルク期のBC3200年の文字の発明まで2000年を要している。原始的農業を経て灌漑技術を生み出し、都市を構成し、冶金技術も生まれ、神官階級が文字を生み出し、歴史時代が始まる[4][5]


また、アンデス文明は、BC1000年頃文明が発生し、AD1500年頃滅んだが、この文明において文字は存在せず、インダス文明も同様であった[6]。冶金術はメソアメリカ文明ではあまり発達しなかった[1]

灌漑と文明

シュメール文明の成立以前の、肥沃な三日月地帯にあった新石器時代のエリコやチャタル・ヒュユクのような初期定住社会は文字を持たない。これに対し、灌漑文明であるシュメール文明は文字を持ち、記念碑的施設を持っていた[7]。メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明[注 5][注 6]は、灌漑文明で[14]、都市への定住と分業、パピルスや粘土板、竹簡に記された文字などの共通の特徴を持つ。


上記の四大文明はすべて大河の流域に存在しており、エジプト文明はナイル川、メソポタミア文明はティグリス川とユーフラテス川、インダス文明はインダス川、黄河文明は黄河をその存立基盤としていた。特にエジプト文明においては、ナイル川の氾濫は上流から肥沃な土を運んでくるものであり、その定期的な氾濫を利用した氾濫農耕が文明の基盤となった。そしてこの氾濫を管理する必要性から、文明が徐々に発達してきた。これに対し、特にメソポタミア南部のシュメール人居住地区ではナイル川流域に比べ氾濫が強力なものであり、このため氾濫は利用するよりも制御されるべきものとなって、かわりにこの地域には広く灌漑網が張り巡らされ、その灌漑農耕の管理を通じて文明が成長していった。


ただし、大河の存在は必ずしも文明成立の必須要件ではなく、メソアメリカ文明やアンデス文明においては文明圏内に文明すべてを支えきれるような大河川は存在していなかった。しかし大河がないからと言って灌漑がおこなわれていなかったわけではなく、上記文明以外でもすべての文明は食糧供給の基盤として灌漑農耕を据えており、これはアステカやインカといった新大陸の文明も例外ではなかった。アステカはチナンパ農耕と呼ばれる湿地での優れた灌漑農業システムを保持しており、また山岳地における用水路を利用した灌漑農耕も行われていた。インカにおいても各地で灌漑は行われていた。マヤ文明においても灌漑用の水路は概して規模は小さいものの各地で見つかっている[15]



文明の種類





サミュエル・P・ハンティントンの『文明の衝突』の世界地図[16]


これまで独自の文化圏を持つとして文明に分類されたものをあげる。



  • メソポタミア文明


  • シリア文明

  • エジプト文明


  • インダス文明 (インド・パキスタン文明)


  • 中央アジア文明


  • スキタイ文明[14]   

  • ギリシア文明

  • ミノス文明


  • ヘレニズム文明


  • ローマ文明


  • ヨーロッパ文明 (西欧文明)


  • 東欧文明(東方正教会文明=ギリシア正教文明)    

  • イスラム文明


  • アフリカ文明


  • 中国文明

    • 黄河文明、長江文明、遼河文明


  • 日本文明


  • 中央アメリカ文明

    • メソアメリカ文明

    • アンデス文明





文明論



文明論の概要



文明論の始まり


歴史学や考古学は、歴史の始まりを画すものとして文明を眺めた。もう一つは、直接文明を対象にするのではなく、未開に関心を寄せた文化人類学であった。両分野は手法と対象は異なるものの、文明の始まりという同じものを見ようとする。


フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー『ヨーロッパ文明史』、ヘンリー・バックル『イギリス文明史』などがある。近代ヨーロッパの考古学では人類の初期の古代文明のうち、特にエジプト文明の研究などから、「肥沃な三日月地帯」や「文明のゆりかご」(Cradle of civilization)という概念で研究した。福沢諭吉は1875年、『文明論之概略』で西洋文明と日本文明を比較した[注 7]

哲学者の和辻哲郎は1935年に『風土 人間学的考察』で、モンスーン(日本も含む)、砂漠、牧場の三類型の風土において独自の文化が形成されたと論じた[19]



挑戦と応戦

20世紀、オスヴァルト・シュペングラーは、『西洋の没落』において、ヨーロッパ中心史観・文明観を批判した。アーノルド・J・トインビーは、文明とは、個人が強く識別する、最も広範囲なアイデンティティーに相当し、家族・部族・故郷・国家・地域などよりも広い、強固な文化的同一性であるとした[注 8]。そして、多くの文明[注 9]への、「挑戦と応戦」の過程で、文明は発生し、興隆し、やがて終末を迎える。文明の終末において、新たな文明を生む繭が生まれ、古い文明を崩し文明を再生する。例えば、キリスト教会が、崩壊してゆく古代ローマ文明の中で繭として成長し、新しい文明を築いたと主張した。



文明の舞台と環境



  • 世界最初の文明は巨大河川での、灌漑であった。

  • 1944年、カール・ポランニーは『大転換-市場社会の形成と崩壊』で、資本主義社会の市場構造の分析をした。

  • 1949年、フェルナン・ブローデルは『地中海』で、文明における海の役割を際立たせた。

  • 1957年、梅棹忠夫は、『文明の生態史観』で、砂漠の決定的な重要性について指摘している[注 10]

  • 1974年、イマニュエル・ウォーラーステインは、資本主義経済を史的システムとする『近代世界システム』を打ちだした。ブローデルの影響が濃い。

  • 1988年、梅棹は、環境に制約された文明は、やがて、環境の制約を離れ、環境に情報が取って代わり、情報を中心とした文明になると、情報文明論で述べた[20]

  • 1997年、川勝平太は、インド洋から東シナ海を中心とした交易圏の中での、日本の文明の役割を文明の海洋史観として提示した。

  • 1997年、ジャレド・ダイアモンドは、文明を成り立たせる要素及び人間の考え方が、文明の成立や構造にどのような影響を与えるか、『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』で、考察した。



文明の遷移と系列

日本において、梅棹忠夫は文明の変遷の原理をしめした。梅棹は1957年『文明の生態史観』[21]で、生態学的気候区で「ユーラシア両端、日本・欧州」と、「ユーラシア中央部」とに2分し、2つの文明の型で遷移が異なるとした。砂漠の遊牧民が農耕地帯を征服し、文明が瓦解し、大陸中央部は遷移が起きず振り出しに戻る。これに対し、遊牧民の征服をまぬかれた日本と欧州は、文明が破壊されす遷移を繰り返し、平行進化するとした[注記 1]。文明とは、環境からの離脱の過程であり、装置群、制度群が次第に発達し、情報文明にいたるとする[注 11]


2000年頃、梅棹の文明論を批判した多くの「…史観」が現れた。川勝平太は、歴史主義を標榜し、梅棹には理論がないと批判した[注 12]。そして、川勝は、ヨーロッパと日本が、海洋交易や技術進歩で、大陸中央部を追い抜いていったとする『文明の海洋史観』を示した[注記 2]。川勝の背後には、ブローデルの地中海があり、大きな影響を受けたと述べる。


また、村上泰亮の日本の家社会を例とした、文明はいろいろな系の間の移行により発達の経路が異なるという、文明の多系史観が発表された。村上は、梅棹の遷移理論に対し、文明発展の経路が偶然により異なり、また系の間を移ることがあり、一度経路が決まると、次の分岐点まで文明の型は変わらないとした。

経済の構造

マルクス系のポランニーは、労働と土地は再生産出来ないが、資本主義の市場は再生産できない財を市場で取引しすると言う特徴があり、資本主義体制の市場は普遍的なシステムではないと指摘した。そして、古代や未開民族の経済を調べ、いろいろな経済社会システムがあり、市場がなくとも、経済構造を維持できることを示した。



その他、および時評としての文明論


安田喜憲の文明環境史観、森谷正規の文明技術史観、文明のエネルギー史観、嶋田義仁のアフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明論がある[注 13]

「帝国」の概念と「文明」がオーバーラップするとしてノーム・チョムスキーは、500年にわたる西洋の帝国を経験的に記述した。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、共著『帝国』で、より理論的な分析を展開し、諸文明の同時代的な分析を構成している[注 14]。東西冷戦が終わると、アメリカの勝利が明白になり、フランシス・フクヤマは『歴史の終わり』1992年で、民主主義と自由経済が文明の最終形態で、王朝の交代や、革命という大変革は起きないとした。その後、アラブの問題が生起し、サミュエル・P・ハンティントンが、『文明の衝突』で、キリスト教やイスラム教などの宗教を中心とする文明間の対立や摩擦が21世紀の国際政治の特徴になると主張した。



文明と野蛮・未開


伝統的に、文明は野蛮や未開と対置されてきた。ここには、高い文化を持つ文明の光と、その光が届かない野蛮や未開の闇という世界像がある。都市生活の素晴らしさや、野蛮・未開の劣等性を知識人たちが疑わなかった時代には、文明とは何かという理論的問題は発生しなかった。しかしそこが疑われるようになると、自民族・自文化中心主義をとりはらった文明の定義が求められるようになった。20世紀前半まで圧倒的に主流を占めたのは、劣った野蛮に対する優れた文明という見方で文明を定義するものである。歴史や社会の発展段階論に結びつくと、野蛮は未開とも呼ばれる。この見方は、ギリシャ、ローマと西欧(ローマ人対蛮族)に共通のものであり、また、中国の中華思想、朝鮮の小中華思想、華夷の別は王化に浴するかどうかで本国(いわゆる中国)と周辺服属国(夷)、独立地域を分けた。


これらの思想は自文明中心主義と結びついて周辺支配のためのイデオロギーとなった。文明概念は、文明人は野蛮人より、文明国は未開社会より、優れた道徳的規範を持ち、優れた道徳的実践を行なうと想定する。文明は、人道的、寛容で、合理的なもので、逆に野蛮は、非人道的で、残酷で、不合理なものとされた。文明側の自己讃美は、それが文明人の間の行動を規制するために主張されたときには、道徳性を強める働きをしたが、野蛮人や未開人に対して主張されたときには、文明人による非人道的で残酷な行為を正当化することがしばしばあった。


しかし、同じ分類方法をとりながら、野蛮や未開の方が逞しさ、自由、道徳性の点で優れていると考える人々もいた。高貴な野蛮人という言葉で要約できるこの考えは、ローマのタキトゥスにその片鱗を見ることができ、後に西洋近代にロマン主義として一大流行になった。とはいえ、この考えが主流派に対する異議申し立ての地位を越えた時代はない。


近代西欧における「歴史の進歩」という考えは、未開から段階を踏んで高度な文明に達するという時間的区別と、文明的西欧、半未開あるいは半文明のアジア諸国、未開のその他地域という地理的区別とを重ね合わせた。啓蒙主義の時代には、文明は野蛮を征服し教化するものであり、またそうすべきであると考え、また対外的な侵略と支配を正当化した(帝国主義)。19世紀には進化論が大きな役割を果たし、社会進化論を生み出して、文明と野蛮について説明するようになった。本来「進化」には下等から高等へ一直線に段階を経るといった意味はなく、また進化しなかったものが即劣っているというわけではなくそれぞれの環境においてどのように適応出来たかというのを考察するものであった。


日本や中国などは、近代化にあたって文明と未開の二分法はそのままに文明の内容を西洋文明に置き換えた。明治日本では「文明開化」とよばれた。


近代以後におけるドイツになどにおいては、内面的・精神的な「文化」に対して、外在的・物質的なものを指して「文明」と捉える考え方も広がった。



脚注


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注記





  1. ^ ユーラシアの背骨を占める乾燥気候のもとにある遊牧民は、定期的に周りの農耕文明に侵攻し、農業文明の上に大帝国を創りあげる。この砂漠の嵐による文明の崩壊が、ユーラシア大陸の中枢部の文明を絶えず瓦解させ、文明は発展することが出来ない。日本やヨーロッパなど、ユーラシアの外れにある文明は、持続的に発展でき、封建社会を生み出し、ユーラシア中央の文明を凌駕することが出来た。この梅棹の文明論は、当時、マルクス主義によるヨーロッパを頂点とする文明の単線進化に対し、文明の環境構造を持ち込み、生態学という生物学の概念により、文明の進化-遷移を論じた。この生態学遷移理論は、今西錦司の遷移理論が元になっている。ヨーロッパを唯一のモデルにした唯物論(生産力史観)に対し、生態学と言う事なる視点から、文明の発展原理を提示した。当時、マルクス主義的な発展論に対する対抗理論はなかった。


  2. ^ 川勝平太は、『文明の海洋史観』で、海洋の役割を強調し、インド洋から東シナ海を中心とした交易圏が成立し、1500年頃から、交易圏に遅れて参加した日本やヨーロッパの文明は、みずからの文明を革新し、雁行して進化し、古いユーラシアの文明を凌駕するにいたったと位置づけた。




注釈





  1. ^ 逆に温暖化が進んでいた時期に重なった事で、文明構成住民の霧散化が起こり自然消滅したと言われるのがインダス文明とされる説もある。


  2. ^ 文明の起源に関する心理学的考察として二分心がある。


  3. ^ トインビーは、これを(環境の)挑戦に対する応報という概念で説明した。移住と生活様式のふたつの変革が、挑戦に対する応報として有効になる。トインビー『歴史の研究』〈世界の名著〈第61〉トインビー〉中央公論社、1967年 。ただし、文明の発生は、文化段階を含め長い時間をかけて行われたので、あくまでそういう説もあるというにとどまる。


  4. ^ 梅棹は制度群、装置群という考えで、文明の諸手段は文化と違い、地域を超えて伝達可能であるとする。伊東俊太郎、「比較文明学とは何か」、7頁、伊東俊太郎編、『比較文明学を学ぶ人のために』、世界思想社、1997年


  5. ^ 金沢大学教授の村井淳志は、この「四大文明」は考古学者江上波夫による造語で、1952年発行の教科書『再訂世界史』(山川出版社)が初出であると2009年に発表した[8]。青柳正規は江上のこの造語について、かつてアジアには高い文明があったことを強調することで敗戦に打ちひしがれた日本人を鼓吹しようとする意図があったと推定している[9]
    また京都大学教授の杉山正明は江上波夫が杉山に「四大文明」を広めたのは自分であると伝えたと回想している[10]。杉山によれば「ふと江上さんが「四大文明」という考えを日本に広めたのは自分だよと、愉快そうに笑われた。私は率直に、長江・ガンジス・マヤ・アンデスなども「文明」で、ざっと挙げても八~十個くらいはありますよとお答えした。ところが江上さんは、「四大文明」といったのは口調がいいからで、本当はいろいろあるさと大笑いされた。」と江上が述べたと記している。
    このように「四大文明」を提唱した江上波夫も文明の数については四つに限定されるものではないとしており、また考古学的研究が世界の全地域をカバーするようになると、四大文明以外にも文明の定義を満たすような社会が次々に発見され、四大文明説は定説の座を降り、近年の研究書や教科書では「四大文明」について記述するものは少なくなってきている。現在でも池田誠など四大文明図式にもとづいた研究もあるが、このなかでもスキタイを加え5つの文明文化圏を分析している。中国文明については黄河文明のほか長江文明や遼河文明についても最近は研究されている。後述するように現在でも文明の数の定説は論者によって様々であり、不確定である。



  6. ^ 4大文明にメソアメリカ文明、アンデス文明などのアメリカ大陸の文明を含めて6大文明ということもある。また、フィリプ・バグビーは[11]、9大文明とし、中国と日本、東方正教会と西欧を分類するなら11大文明になるとしている。マシュー・メルコは[12]、中国、日本、インド、イスラム、西欧の5つに分類している。北朝鮮は[13]、「大同江文化」を加えて五大文明だとしている。


  7. ^ civilizationを「文明」と訳したのは福沢である。文明開化期に欧米的価値観を意味することが強かった「文明」の用法は、やがて明治期後半に「西洋文明」との対比のなかで「東洋文明」が認識されるようになり、非西洋の精神的・物質的文化の総体も「文明」と呼ばれるようになり、変化していった[17]

    福沢は「通論」の紹介として、ヨーロッパとアメリカの文明を最上の文明国、トルコ、シナ、日本などアジア諸国を半開の国、アフリカとオーストラリアを野蛮の国としている-文明論之概略第二章「西洋の文明を目的とする事」。福沢は野蛮について「居に常処なく食に常品なし。便利を遂うて群を成せども,便利尽くれば忽ち散じて痕を見ず。或は処を定めて農漁を勤め,衣食足らざるに非ずと雖ども器械の工夫を知らず,文字なきには非ざれども文学なるものなし。天然の力を恐れ,人為の恩威に依頼し,偶然の禍福を待つのみにて,身躬から工夫を運らす者なし。これを野蛮と名く。」半開について、「農業の道大に開けて衣食具わらざるに非ず。家を建て都邑を設け,その外形は現に一国なれども,その内実を探れば不足するもの甚だ多し。文学盛なれども実学を勤る者少く,人間交際に就ては猜疑嫉妬の心深しと雖ども,事物の理を談ずるときには疑を発して不審を質すの勇なし。摸擬の細工は巧なれども新に物を造るの工夫に乏しく,旧を脩るを知て旧を改るを知らず。人間の交際に規則なきに非ざれども,習慣に圧倒せられて規則の体を成さず。これを半開と名く。」文明について、「天地間の事物を規則の内に籠絡すれども,その内に在て自から活動を逞うし,人の気風快発にして旧憤に惑溺せず,身躬からその身を支配して他の恩威に依頼せず,躬から徳を脩め躬から智を研き,古を慕わず今を足れりとせず,小安に安んぜずして未来の大成を謀り,進て退かず達して止まらず,学問の道は虚ならずして発明の基を開き,工商の業は日に盛にして幸福の源を深くし,人智は既に今日に用いてその幾分を余し,以て後日の謀を為すものゝ如し。是れを今の文明と云う。」と述べている。また中国文明と日本文明との異同については、日本も古代においては「神政府」による支配で人民の心単一であったが、武家社会になると、「至尊」(王室=天皇の権威)と「至強」(武家権力)とが分離し、そのような神政尊祟の考と武力圧制の考の間に自由の気風が生まれたとして、これはシナ(中国)のような純然たる独裁の一君を仰ぐような社会とは異なるとした[18]

    「或人の説に,支那は独裁政府と雖ども尚政府の変革あり,日本は一系万代の風なればその人民の心も自から固陋ならざるべからずと云う者あれども,この説は唯外形の名義に拘泥して事実を察せざるものなり。よく事実の在る所を詳にすれば果して反対を見るべし。その次第は,我日本にても古は神政府の旨を以て一世を支配し,人民の心単一にして,至尊の位は至強の力に合するものとして之を信じて疑わざる者なれば,その心事の一方に偏すること固より支那人に異なるべからず。然るに中古武家の代に至り漸く交際の仕組を破て,至尊必ずしも至強ならず,至強必ずしも至尊ならざるの勢と為り,民心に感ずる所にて至尊の考と至強の考とは自から別にして,恰も胸中に二物を容れてその運動を許したるが如し。既に二物を容れてその運動を許すときは,その間に又一片の道理を雑えざるべからず。故に神政尊祟の考と武力圧制の考と之に雑るに道理の考とを以てして,三者各強弱ありと雖ども一としてその権力を専にするを得ず。之を専にするを得ざればその際に自から自由の気風を生ぜざるべからず。之を彼の支那人が純然たる独裁の一君を仰ぎ,至尊至強の考を一にして一向の信心に惑溺する者に比すれば同日の論に非ず。この一事に就ては支那人は思想に貧なる者にして日本人は之に富める者なり。支那人は無事にして日本人は多事なり。心事繁多にして思想に富める者は惑溺の心も自から淡泊ならざるを得ず。



  8. ^ 文明はふつう、宗教や他の信仰体系に結びつけられるとした。


  9. ^ 1934年からの『歴史の研究』で、まりのある文化圏を文明とし、、シュメール・アッカド文明、エジプト文明、ミノス文明、シリア文明、中央アジア文明、インド・パキスタン文明、中国文明、ギリシア文明、ヘレニズム文明 (ヨーロッパ文明)、日本文明、ギリシア正教文明、中央アメリカ文明、アンデス文明、イスラム文明など26の文明を文明を識別した。


  10. ^ 海についても、文明の生態史観での海の役割についての考察を元に、その後、多くの研究を、梅棹は指導し、指揮している。


  11. ^ 情報文明も、梅棹の独自理論で、文明の生態史観が共時的な理論、情報論が通時的な理論であると、梅棹は述べている。梅棹忠夫『情報産業論』1963年。『情報の文明学』1988年


  12. ^ 川勝は、雑誌、中央公論への投稿で、自分は京大の人文研の思想系列が好きであるとし、歴史主義を標榜し、梅棹には理論がないとしたが、出版本では批判は消えている。川勝は、人文研の流れにある今西好きであり、いくつかの論考を書いている。一方、梅棹は、今西の直弟子である。


  13. ^ アフロ・ユーラシア大陸の砂漠地域が先発文明の地域であり、ヨーロッパや日本の湿潤多雨森林文明は後発文明とする-嶋田義仁『砂漠と文明 - アフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明論』岩波書店2012。また[1]夢ナビ講義も。ただし、これらの考えは、古くからある。


  14. ^ 20世紀半ばに西洋諸国が支配した植民地が次々と独立し、自立性を取り戻すと、西洋文明の継続的拡大という見方は覆され、政治的支持を得にくくなった。多くの学問分野で、文明と野蛮(未開)という区分は時代遅れで誤ったものと考えられている。それでも、欧米の保守的知識人の(学問的性格が薄い)評論の中では、優れた西洋文明という考えは一定の支持を得ている。




出典




  1. ^ ab大貫良夫 , 渡辺和子 , 前川和也 , 屋形禎亮 「世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント」中央公論社,1998年,p127-9


  2. ^ 大貫良夫 , 渡辺和子 , 前川和也 , 屋形禎亮 「世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント」中央公論社,1998年,p131


  3. ^ 伊東俊太郎、「比較文明学とは何か」、7頁、伊東俊太郎編、『比較文明学を学ぶ人のために』、世界思想社、1997年


  4. ^ チャイルド『文明の起源〈上〉(下)』


  5. ^ 小林登志子 『シュメル - 人類最古の文明』 中央公論新社〈中公新書 1818〉、2005年10月。ISBN 978-4-12-101818-2。[要ページ番号]


  6. ^ 大貫良夫 , 渡辺和子 , 前川和也 , 屋形禎亮 「世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント」中央公論社,1998年,p140


  7. ^ 小林 登志子 『シュメル―人類最古の文明』、2005


  8. ^ 村井淳志「この歴史用語--誕生秘話と生育史の謎を解く 「四大文明」は江上波夫氏が発案した造語だった!」『社会科教育』2009年4月号 ,明治図書出版


  9. ^ 青柳正規『興亡の世界史 人類文明の黎明と暮れ方』講談社,2009年


  10. ^ 杉山正明「書評『マヤ文明』 青山和夫著」2012年6月25日 読売新聞


  11. ^ Bagby, Philip (1963) Culture and History: Prolegomena to The Comparative Study of Civilizations


  12. ^ Melko, Matthew (1969) The Nature of Civilizations


  13. ^ 평양이 세계 5대 문명 발상지 중 한곳?「平壌が世界5大文明発祥地の中の1ヶ所?」 東亜ドットコム(東亜日報) 2011年6月24日

  14. ^ ab四大文明のシミュレーションモデルの研究 池田誠、JSD学会誌 システムダイナミックス No.8 2009。


  15. ^ 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p142-145 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷


  16. ^ The World of Civilizations Archived 2007年3月12日, at the Wayback Machine.


  17. ^ 石川禎浩「東西文明論と日中の論壇」古屋哲夫編『近代日本のアジア認識』京都大学人文科学研究所、1994年


  18. ^ [2]松沢弘陽「文明論における「始造」と「独立」 - 『文明論之概略』とその前後(2・完)」北大法学論集, 33(3): 195-255,1982年


  19. ^ [3]藤井聡「実践的風土論にむけた和辻風土論の超克-近代保守思想に基づく和辻「風土:人間学的考察」の土木工学的批評-」土木学会論文集D,62(3),pp.334-350,2006 、[4]オーギュスタン・ベルク「空間の問題 ハイデッガーから和辻へ」関西学院大学社会学部講演1996年10月16日


  20. ^ 梅棹、1963年、情報産業論


  21. ^ 梅棹忠夫、「文明の生態史観」、『中央公論』、1957年、梅棹忠夫監修、比較文明学会関西支部・編 『地球時代の文明学--シリーズ 文明学の挑戦 (1)』 京都通信社、2008年、1986年、伊東俊太郎が比較文明学会を立ち上げている。




参考文献




  • 大貫良夫, 渡辺和子,前川和也,屋形禎亮「世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント」中央公論社,1998年.

  • 比較法制研究所 『文明と法の衝突』 未来社、2001年

  • 比較文明学会・編 『比較文明17--21世紀と文明の構図』 刀水書房、2001年

  • Ander Korotayev, Artemy Malkov, Daria Khaltourina, 「社会のマイクロダイナミクス:世界システムの成長とコンパクト・マクロモデル」情報社会学会誌 Vol.2 (2007) No.1

  • 嶋田義仁『砂漠と文明 - アフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明論』岩波書店、2012年。


  • 福永英雄 「社会学から文明学の構築へ--現代の超領域的理論実践」『比較文明 27』行人社、2011年



関連項目




  • 「文明」を含む記事名の一覧


  • 人類、人類の進化

  • 先史時代


  • 狩猟採集社会、農業、工業。第一次産業、第二次産業、第三次産業。


  • 気候変動、環境

  • 世界の一体化

  • 集合知

  • 巨大知

  • メソアメリカ

  • マニフェスト・デスティニー

  • 野蛮

  • 世界四大文明

  • 文化

  • 世界の歴史

  • 世界人口

  • 認知閾






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