ミハイル・ホドルコフスキー















ミハイル・ホドルコフスキー

M.B.Khodorkovsky.jpg
ホドルコフスキー(2001年)

生誕
(1963-06-26) 1963年6月26日(55歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
Flag of the Russian Soviet Federative Socialist Republic.svg ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ

出身校
モスクワ化学技術大学

ミハイル・ボリソヴィチ・ホドルコフスキー(ロシア語: Михаил Борисович Ходорковский, Mikhail Borisovich Khodorkovskii: , 1963年6月26日 - )は、ロシアの元実業家・企業家、政治運動家。石油会社ユコス社の元社長。新興財閥(オリガルヒ)のひとり。2017年現在は、英国ロンドンで事実上の亡命生活を送っている[1]




目次






  • 1 経歴


    • 1.1 財閥形成


    • 1.2 逮捕・収監


    • 1.3 恩赦と国外亡命




  • 2 脚注





経歴



財閥形成


ユダヤ系ロシア人として、ソビエト連邦時代のモスクワに生まれた。モスクワ化学技術大学卒業。コムソモール書記となる。


1988年、コムソモールの組織を土台として、メナテップ(部門間科学技術プログラム)グループを発足させた。ソ連ジルソツ銀行と合同し、同年12月、科学技術進歩商業革新銀行を設立。同行は1990年、メナテップ銀行(バンク・メナテップ)と改称して、同行を中心にメナテップ・グループを拡大する。メナテップ銀行は、ソ連共産党の隠れ資産の運用・資金移転を実行していたとも言われる。同行は、1992年のエゴール・ガイダル、アナトリー・チュバイスが主導したバウチャー方式の民営化と、1995年に実施された株式担保型民営化の過程で多数の企業を取得し、巨大な持株会社を形成した。


1995年9月、グループ管理会社として「ロスプロム」を設立。メナテップ・グループは、外国為替取引や国債運用でグループの資産を増やすと同時に、ロシア国内の有望な企業に対して投資・買収を実施していった。「ロスプロム」にはメナテップ・グループの投資部門が切り離され、「ロスプロム・グループ」として一大財閥を形成する。担保入札を通じて食品、繊維、建材、金属などの企業を傘下に収める。石油会社ユコスもそのような形で吸収した企業のひとつであった[2]。一方、メナテップ銀行は、1998年の商業銀行ランキングでロシア第5位に至るも、同年のロシア金融危機によって破綻したはずだった。


しかし、グループはユコスを中心として発展していく。ホドルコフスキーは、1998年ユコス社の社長に就任。原油の対米直接輸出を開始。ルクオイルと並ぶロシア最大の石油会社にユコスは成長する。2003年4月に「シブネフチ」社を吸収合併する計画を発表する。メナテップ銀行は、国際決済機関クリアストリームの2000年度口座リストに匿名口座をもっていた。同行は、1999年8月に発覚したクレムリンスキャンダルに巻き込まれていた。この事件は、IMFが貸し付けた数百億ドルをタックスヘイブンへ隠した事件である[3]



逮捕・収監


だが、2003年10月に、脱税などの罪で逮捕・起訴され、ユコスの社長を辞任した。ロシア内務省に証拠文書を送付したエレーナ・コロング=ポポーワというフランス人女性は、後日に次のような告白をした。すなわち、ユコスの金融担当副社長だったアレクセイ・ゴルボヴィッチの指示に従って、1996年から2000年にかけて、セイシェル、ヴァージン諸島、キプロスなどに秘密口座を開設し、それらを通じて毎年4億ユーロの取引を行ったという[4]


ホドルコフスキーの逮捕・追及は、2003年後半にホドルコフスキーがプーチン大統領への批判を公言し始め、ロシア連邦共産党を含む野党に対し献金を行っていたことが直接的な原因であるが、さらにエリツィン時代に台頭したボリス・ベレゾフスキーやウラジーミル・グシンスキー等のロシアの新興財閥(オリガルヒ)を抑圧するなど、これ以上のロシア政治への関与に反対するシロヴィキを中心としたプーチン政権側の警告というのが一般的な見方である。また、ユコスとシブネフチの合併で誕生するはずだった新会社の株式40%をアメリカの石油メジャーであるエクソンモービル社に取得させる交渉をしていたことも、石油の国家管理を進めるプーチン政権の反発を招いた。


検察当局は、ホドルコフスキーに対して禁固10年を求刑した。2005年5月31日、モスクワ市メシャンスキー地区裁判所は、ホドルコフスキーに対して、禁固9年の実刑判決を言い渡した。共犯とされたメナテップ社レベジェフ会長に対しても、禁固9年の実刑判決が言い渡された。


同年9月22日、モスクワ市裁判所は、控訴審判決で、ホドルコフスキーに対し、禁固9年とした1審の判決を減刑し、禁固8年を言い渡した。また、1999年から2000年まで約170億ルーブル(約652億円相当)を脱税したとして、詐欺罪、横領罪でも有罪とされた。刑の確定により、同年12月に予定される下院補欠選挙に立候補する資格を失った。プーチン政権による事実上の立候補妨害との観測が強い。


その後シベリア・チタ州(現在はザバイカリエ地方)の刑務所に収監された。2005年10月、プーチン大統領(当時)の誕生日を前に、面会に来た親族や弁護士を通し「色々と大変でしょう、中佐殿」(プーチン氏は軍での階級は中佐で、階級の上では大佐など上司がいることになる)といった皮肉をこめた表現を織り交ぜて、誕生日を祝った。半年後の2006年4月、刑務所で他の囚人にナイフで斬りつけられた。メドヴェージェフ政権発足後の2008年7月16日、刑期の半分が過ぎたことから仮釈放を申請したが、同年7月22日、ザバイカリエ地方チタ市の地区裁判所はこれを却下した。2010年末、刑期の2017年までの延長が決定された[5]


2011年6月、欧州人権裁判所は、一連の公判や拘置環境の中で重大な人権侵害があったとして、ホドルコフスキーに対し、ロシア政府が2万4500ユーロを支払うよう命じた。



恩赦と国外亡命


2013年12月19日、プーチン大統領は恩赦について明言。翌20日にホドルコフスキーは釈放され[6]、同日ドイツベルリンのシェーネフェルト空港に到着。その後、ロンドンへ移った。釈放の舞台裏には、ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー元独外相が仲介し、ドイツ政府も協力して秘密裏に行われた活動があったと観測されている[7]。逮捕される二年前、ロシア開放財団(Open Russia Foundation)を設立し、そこにヘンリー・キッシンジャーとジェイコブ・ロスチャイルドを理事に迎えていた[8]


2017年、『日本経済新聞』のインタビューに対して、プーチン政権後をにらんでロシアの改革派政治運動を支援する意向を語った。アレクセイ・ナワルニーやドミトリー・グドコフを高く評価した
[9]



脚注




  1. ^ 元石油王が語るプーチン体制との戦い ロシア民主化の大望 ミハイル・ホドルコフスキー氏インタビュー『日本経済新聞』電子版/朝刊(国際1面)2017年10月11日


  2. ^ 買収額は3億ドル(一説には2億ドル)であり、株のほぼ9割を握ったという。逮捕までに、ユコスの資産価値は280億ドルに達した。 広瀬隆 『一本の鎖』 ダイヤモンド社 2004年 P159,160


  3. ^ エルネスト・バックス ドゥニ・ロベール 『マネーロンダリングの代理人 暴かれた巨大決済会社の暗部』 徳間書店 2002年 p.220.


  4. ^ 広瀬隆 『一本の鎖』 ダイヤモンド社 2004年 P 169


  5. ^ http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-12093922


  6. ^ “収監10年、ホドルコフスキー氏釈放へ ロ大統領が政敵に恩赦 「彼には病気の母もいる」”. 産経新聞. (2013年12月20日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/131220/erp13122009190003-n1.htm 2013年12月21日閲覧。 


  7. ^ (日本語) “ロシア元石油王ホドルコフスキー氏、恩赦で釈放 ドイツに到着”. MSN産経ニュース、AFP=時事 (2013年12月21日). 2013年12月22日閲覧。


  8. ^ 広瀬隆 『一本の鎖』 ダイヤモンド社 2004年 P165 


  9. ^ 元石油王が語るプーチン体制との戦い ロシア民主化の大望 ミハイル・ホドルコフスキー氏インタビュー『日本経済新聞』電子版/朝刊(国際1面)2017年10月11日




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