スネークマンショー





































スネークマンショー
出身地
日本の旗 日本 東京都
ジャンル
コント、ラップ
活動期間
1975年 - 1983年
2011年 -
レーベル
アルファレコード
共同作業者
山本玲子
井上瑤
タック
プラスチックス
イエロー・マジック・オーケストラ
公式サイト
SNAKEMAN SHOW WEB MAGAZINE
メンバー
桑原茂一
伊武雅刀
小林克也[注 1]

ウルフマン・ジャック
モンティ・パイソン


スネークマンショー (Snakeman show)は、日本のCMクリエイターユニット、ラジオDJユニット、コントユニット。1975年末に桑原茂一と小林克也によりプロジェクト開始。




目次






  • 1 概要


  • 2 歴史


    • 2.1 誕生 - 店舗用BGM時代


    • 2.2 ラジオ期


    • 2.3 レコード発売 - 消滅


    • 2.4 消滅後 - 再会




  • 3 世間への影響


  • 4 写楽祭事件


  • 5 補足


  • 6 主なコント


  • 7 ディスコグラフィ


    • 7.1 シングル


    • 7.2 アルバム




  • 8 映像作品


  • 9 注釈


  • 10 脚注


  • 11 書籍


  • 12 参考文献


  • 13 関連項目


  • 14 外部リンク





概要


1976年春から1980年初夏にかけてラジオ大阪、ラジオ関東(現・RFラジオ日本)、東海ラジオ、TBSラジオでスネークマンの名を冠した音楽番組(『スネークマンショー』『それいけスネークマン』)を担当。1976年末に伊武雅之(現・伊武雅刀)が加入したのちに、先鋭的な選曲と曲間でのラジカルなコントが一部で話題になった。1980年、不本意な事件でラジオは打ち切られるものの同年、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)とのコラボレーションアルバム『増殖』や、1981年、スネークマンショーとしてのアルバムリリースにより、一躍全国区でスネークマンショーブームが起きる。しかし、1983年に桑原・伊武と仲違いした小林が脱退。その後、2011年のテレビ番組放映までユニットとしてのスネークマンショーの動きはなかったが、その間、数多くの編集盤が発売された他、時折メンバーのソロ活動も行われた。



歴史



誕生 - 店舗用BGM時代


1975年、メンズビギ(MEN'S BIGI)のファッションショーの選曲を任された桑原が、映画『アメリカン・グラフィティ』でのオールディーズソングの合間をドラマチックに埋めるウルフマン・ジャックのような音楽演出を再現したいと考え、そうなると小林以外にできる人はいないと、旧知の小林に依頼したのが始まり[1][2][3][4][5]。この際ウルフマン・ジャックに対抗してキャラクター名をつけようとなり、小林が巳年生まれだったことから"スネークマン・ジョーンズ"なる人物が設定された[3][4]。今で言えば桑原はクリエイティブ・ディレクター、小林はバイリンガルパーソナリティーだが、当時はいわば正体不明・職業不詳の人物であった[4]


このメンズビギのウルフマン・ジャックショー形式のDJが好評だったことから、それからすぐにエドウィンから、店内用BGMを同じようなスタイルで制作してくれないかと依頼がある。1975年の終わり頃、ふたりは30分番組形式の店内BGMを作成し、これがエドウィン800店舗で放送された[3][5]。この店内BGMと、後のラジオ版スネークマン・ショーとの違いは、英語パートのみならず日本語パートも小林がナレーションをしていることと、英語のナレーションでは最後の「その名はスネークマン・ショー!」という部分を「その名はスネークマン・ジョーンズ!」と言っていることである[3]。しかし「ジョーンズ」という名はライバルメーカーの商号である「ビッグジョン」を想起させることから、店内BGM時代の初期に削られた[3]。当時音楽番組での洋楽アーティストの紹介は、「結成は19〇〇年、何人組で〜」といった、そのアーティストのウンチクを紹介する堅い解説が多かったため、英語交じりのスネークマンのナレーションは革新的であった[2]



ラジオ期


エドウィンの店舗BGMは好評であったが、桑原と小林の頭を悩ませる大きな問題が生じた[6]。「スネークマン・ショー」に使う曲は、無断では使えないため一曲ごとに権利を取得し使用料を払わなくてはならない。この手間と金額が二人を悩ませた[6]。そこで小林がラジオなら楽曲の使用許諾も自分たちで取る必要もないし、制作費も出るし、やはり多くの人に「スネークマン・ショー」を聴いてもらえると、エドウィンに話を持ちかけると企画が通り[5]、1976年4月からラジオ大阪での放送が開始された[2][6]。当初の正式な番組名は『エドウィン・ロックン・ロール・ショー』で、毎週月〜金曜日の15分番組であった[6]。タイトル名から分かるとおり、当初は純粋な音楽番組で、小林のトークは曲を盛り上げる脇役だった[4]。「スネークマン・ショー」をコント番組ととらえる向きは多いが、土台はあくまで音楽番組にあった[4]。桑原と小林の、当時あまり紹介されてこなかったジャンルやミュージシャンをさらりとかつ熱烈に推すセンスがそもそも「スネークマン・ショー」の体臭を決定づけていた[4]。すでに業界の大物になりつつあった小林だが、元祖ウルフマンに倣い、あえてその名を明かさず、スネークマンという謎のキャラクターで押し通すことを決めていた[5][6]


ラジオ大阪1局で、いってみればひっそりとスタートした「スネークマン・ショー」であったが、次第に関西で話題となり、ほどなく東海ラジオとラジオ関東でもオンエアされた。桑原と小林は芸風を広げようと画策、スネークマンは英語しか話さないという設定だったため、日本語担当が必要になった[7]。こうして小林がラジオの収録をしていたエフエム東京のスタジオの隣に、たまたま伊武雅刀(当時は伊武雅之)がコマーシャルの録音をしていて、以前から伊武と仕事で共演したことのある小林が「俺さ、今、こういうことやってるんだけど、一緒にやらない?」と伊武を誘い、伊武が加入することとなる[2][8][9][10][11]。俳優の伊武は、声の良さから当時『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』(讀賣テレビ放送・日本テレビ放送網)のデスラー総統役や資生堂のMG5のCMなど、少しずつ声優としての活動を始めていた時期であった[10]。伊武が加わり、スネークマンのDJのみであったスネークマン・ショーは、曲紹介の合間に小林と伊武とのショートコントを織り交ぜるという形になり、小林は咲坂 守[注 2](さきさか まもる)、伊武は畠山 桃内(はたけやま ももない)といったキャラクターを演ずる。芸域の広い伊武の参加でコントは厚みを増し[4]、毒気やラジカルさに向かっていくことになる[2]。特に1977年頃に興ったパンク・ムーブメントの到来は、スタート当初の曲のつなぎのためのシンプルなジョークという世界を大きく逸脱していく[4][10][12]。スネークマン・ショーがウルフマン・ジャックや海外のコントの翻案ではない、オリジナルな世界を持つラジオ・ショーに脱皮したのはパンクの衝撃から来たものであった[12][13]。しかし1978年3月、エドウィンのスネークマン・ショーの担当者が退社したのを機に、エドウィンがスポンサーを降りることになり番組終了が決定した[14]


当時、スネークマン・ショーは業界人の秘かなお気に入り番組だったが、そのひとり電通第二クリエーティブ局に所属していた杉山恒太郎が、小林から番組終了の話を聞いて、それはもったいないと、広告を担当していた小学館の『GORO』がスポンサーになっていた番組が改編期で、スネークマン・ショーを仲介してその番組に移籍が決まるが[4][14]タイトルまでそのままというわけにはいかず、ラジオ関東での番組終了から三日後の1978年4月3日の『生島ヒロシの夜はともだち おーい! きいてるかい』(TBSラジオ)のコーナーとして、タイトルも「それゆけスネークマン」となり15分番組(22:45〜23:00)として生き延びる[2][14][15]


スネークマン・ショーはこの時代多くのCMを手掛けている[16]。1977年〜1978年頃のサンヨーのラジカセ「ステレオ・レック9500」のラジオCM(コピー・糸井重里)、1979年、ソニー・ウォークマンラジオCM(コピー・仲畑貴志)、同年映画『さらば青春の光』ラジオCMなど[16]。1979年に手がけたトヨタ1300スターレットラジオCM、アサヒミニ樽テレビCMは、いずれもACC(全日本シーエム放送連盟)CMフェスティバルで入賞している[16]


ローカル放送から東京のキー局に移ったことでスネークマン・ショーの人気は全国区のものとなる。コントはますますパワーアップし、下ネタのお下劣化はいっそう著しく、風刺ネタもふんだんに採り入れられていった[4]。小林が咲坂守、伊武が畠山桃内を名乗り、フィクションをいいことにラジオ史上稀にみる破天荒な放送がぶちまけられていく[4]。今までラジオでなかったことをやろうと多くのタブーに挑戦した[2]。ラジオではどもってはいけないが、日本語はダメだけど英語ならいいだろうであるとか[2]、1979年8月14日には、放送業界のタブーに触れたコント「あなたのラジオは30秒後に爆発します」を放送[17]、NHK番組終了時の『君が代』を繰り返し繰り返し聞かせるというパロディでは、右翼から抗議の電話で局側としても対応に苦慮したといわれる[8]。また当時はほぼタブーとされていた同性愛者に関するコーナーを作ったり[2]、麻薬ネタ、反権力、社会的批判を込めたコント・過激な下ネタなどが社内で問題となり放送禁止になることもあり[2][8][17]、こうした過激さが寿命を縮めてしまう。『夜はともだち』のパーソナリティーが1979年10月8日から、生島ヒロシから春風亭小朝に代わると、小朝が露骨にスネークマン・ショーを嫌い「へんな人たちですねえ」などとチクチクイヤミをこぼした[17]


ラジオ番組としてのスネークマン・ショー終焉の悲劇は、最初は朗報としてもたらされた[18]。「ローリング・ストーン日本版」時代から多くのミュージシャンと交流があった桑原に、1980年当時若者に絶大な人気があったイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の細野晴臣と高橋幸宏が、まとまったアルバムを制作する時間が取れない忙しさから、ギャグと音楽で構成されるスネークマン・ショー形式のミニ・アルバムの制作を決めて、スネークマン・ショーにコントの提供を申し出て、スネークマン・ショーはYMOとの全面的なコラボレーションを行う[18]。このアルバムの制作中にYMOからもう一つの依頼を受けた。それは1980年4月23日、日本武道館で行う小学館の雑誌「写楽」創刊イベント「写楽祭」の演出で、意気に感じた桑原はスネークマン・ショー的なシュールで不思議な余興を演じた後、最後にYMOのコンサートを行うという、それまでの番組で繰り返してきたコンセプトを再現したのだが[4]打ち合わせがあまり行われないまま本番となってしまう[18]。元々、通常のコンサート形式ではなく、ギャグが主体のイベントだということが1万人の観客に事前に伝わっておらず、トラブル続発の上、いつまでたってもYMOのコンサートが始まらないことで観客が暴動を起こし、新雑誌創刊のセレモニーが早々中止されてスポンサーの小学館は怒り心頭であった(詳細は後述)。すでに大スターであるYMOを怒るわけにもいかず、TBS上層部の怒りの矛先はスネークマン・ショーに向けられ、同番組は1980年6月いっぱいでいきなり終了してしまう(終了までの間、坂本龍一の怒鳴り声は番組のジングルとして使用された)[18]。どんどん先鋭化するスネークマンワールドを危惧していた局や、スポンサー、放送関係者はここぞとばかり責任をスネークマンショーに転嫁したといわれる[4]


その直後、『サウンドストリート』(NHK-FM)で桑原をゲストに迎え特集が放送されたが、使用されたコントは、TBSの放送済み音源でレコード化されていないものがほとんどだった。



レコード発売 - 消滅


皮肉にも前述のイベント前に決まっていたYMOのアルバム『増殖』(1980年6月5日発売)参加により、スネークマン・ショーはラジオ時代よりもずっと多くのファンをつかむこととなる[4][5]。本アルバムはオリコンチャート初登場1位を記録する大ヒットになり、それまでスネークマンショーを知らなかった世代を直撃し、スネークマン・ショーは、本格的なブレイクとなった[11][19]。アルファレコードからスネークマン・ショー単独でアルバムを出さないかとオファーを受けて[11][20]、1981年2月、細野晴臣を共同プロデューサーに迎えてファーストアルバム『SNAKEMAN SHOW/スネークマン・ショー』(帯に大書きされたコピーから通称『急いで口で吸え』[注 3])」を発売し、関係者の誰も予想していなかったほどの大ヒットを記録[20]。同年にセカンドアルバム『死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!』を発売した[21]。本作発売の前から、3人それぞれが次のステップに進みたいと、セカンドにしてスネークマンショー最後のアルバムと申し合わせていた[21]。同アルバムも大ヒットし、スネークマンショー人気は絶頂期を迎えたが、小林と桑原・伊武の意見が食い違うことが多くなり小林が脱退する[22]。しかしスネークマンショーのあまりの反響のよさから、さらなるリリースを求めるファンの声によって番外編的に急遽『スネークマンショー海賊盤』を発売[23]。海賊盤としてカセットのみのリリースで(後年、LPとCDでも発売)カセットならではの意匠ということでコンドームの箱そっくりのパッケージで発売して物議を醸した[23]。1983年、小林不参加で『ピテカントロプスの逆襲』をリリース。その後、編集版などが国内外でリリースされたが[24]、スネークマンショーは自然消滅した。



消滅後 - 再会


消滅した後は、小林が「スネークマンズ・ロック・ショウ」[5]、桑原・伊武が松尾貴史を迎え「ラジオヘブン」として活動した他、1986年に音楽情報番組の『クラブキング』(テレビ朝日)を手がけた。また、桑原は1990年代半ばに「ブルーフィルム」というユニットも組んでいる。1998年発売のYMOのCD-ROM『YMO Selfservice』では、伊武が畠山桃内としてナビゲーターを務め、動画で林家三平のモノマネやミニコントを披露した。1999年9月24日に放送された『同窓会』(テレビ東京)の中で3人が十数年ぶりに再会する。


2000年には桑原、伊武、松尾貴史やYOUなどによる、ゲームの企画アルバム『シーマンと20世紀のポテチン』を発売。


その後は、桑原が「コメディクラブキング」などを結成するくらいの活動しかしていなかったが、2001年・2002年のナイターオフシーズンに、『e-NITE』(TBSラジオ)で、箱枠ながらもスネークマンショーを復活させた(2001年度は「スネークマンニュースショー」2002年度では「S21 スネークマンショー21」と銘打った。山崎一、佐々木蔵之介、バナナマンなどの出演者が曜日別にさまざまな趣旨のコーナーを展開したが、2002年度の途中から木曜以外を単なるコント枠に変更した)。


2011年には衛星テレビ局WOWOWにおいて、特別番組で復活することになった。番組タイトルは『R60 スネークマンショー』。メンバーが既に還暦を迎えたことにより、タイトルに『R60』が冠された。テーマは『老いと死』なのだが、伊武曰く「50歳以下は見てはいけない番組にしようかとも思った」「もともと3人で作ったときにはまったく身近な題材を使っていた。『老いと死』というテーマは、この年になったらそういうものが出てくるだけの話」などと語った[25]。2011年4月9日から4月30日まで、全4回にわたり土曜日深夜に放送された。


2013年、夢の島公園陸上競技場で開催されたワールド・ハピネスに伊武・小林がスネークマンショーとして出演。「シンナーに気をつけろ!」「咲坂と桃内の今夜はごちそうさま」をアドリブで、またワールド・ハピネス出演者と共に「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」を披露した。



世間への影響


YMOブーム、それ以前から桑原と交流のあったミュージシャン、ニューウェーブバンドとの関係から、後のラジオ番組・お笑い・ミュージシャンにも多くの影響を残した。


ニッポン放送アナウンサー上柳昌彦は、大学時代に聞いていたオリジナル・スネークマンショーから多く影響を受け、のちに担当した『HITACHI FAN! FUN! TODAY』(ニッポン放送)ではスネークマンをもじって「ウナギマン・ショー」と銘打ったコントを演じた。現在でもラジオでプチコントをやる場合は小林克也を真似たしゃべり方で話すことがある。


『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)では『〜海賊版』のスネークマンイントロデュースをそっくりそのままパロディし、テーマソングに「ウィリアム・テル序曲」を使うなどした(ちなみに初期オープニングナレーションは伊武が担当していた)。第1回目のナレーションの冒頭は「たけのこ族よりもナウく、クリスタル族なんて目にしないオレたちひょうきん族」と、内容にも若干の類似が見られた[注 4]


また、『8時だョ!全員集合』(TBSテレビ)でも、ザ・ドリフターズの志村けんがコント内で『スネークマンショー』(通称『急いで口で吸え』)に収められた「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3」を口ずさむシーンがしばしば見られた。


Flashアニメーション製作のFROGMANの芸名の由来もこのスネークマンショーから来ている。幼少時から彼らのアルバムを愛聴し尊敬していたため、謙遜の意味を込めて「天敵の蛇には敵わない蛙」という捩りからFROGMAN(蛙男)という芸名をつけたという経緯がある。


お笑いコンビバナナマンの「マン」はスネークマンショーが由来。バナナマンのふたりはコメディークラブキングのコントCDにも参加している。


秋本治の漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の単行本24巻に収録されている「ギャグエイジの巻」にスネークマンショーをモデルとしたサキサカモモナイによるお笑いコンビ「スネイルマン」が登場している。



写楽祭事件


1980年4月23日、日本武道館で行なわれた小学館の雑誌写楽創刊イベント「写楽祭」での事件。YMOのライブを期待していた観客が多かったが、ギャグばかりのイベントであった上、YMOがギャグのみを行った後、ライブを行わずに「以上でYMOの出番は終了します」と冗談でアナウンスしたため(最初からライブは後で行う予定であり、実際に行われた)、YMOのステージがなかなか始まらない事から怒った観客達が大ブーイングを起こし暴動となり、この催しは失敗に終わった。この影響によりスネークマンショーはラジオ番組としての寿命を縮める結果となった。


この模様は後日「それゆけスネークマン」で放送され、この時に番組のジングルとして使用された「坂本龍一が観客に怒鳴り、高橋幸宏が観客をなだめる模様」が後にYMOのライブベストアルバム『ONE MORE YMO』に収録された他、この時にYMOがギャグとして行った演奏3曲がいくつかのベストアルバムに収録されている。



補足



  • 桑原はプロデュースに専念して表舞台に出てくることはなかったが、わずかながら出演もしている(例・『急いで口で吸え』の兵隊の一人)。

  • 元祖ウルフマンに倣い、小林はある時期まで自らがスネークマンであることを一切明らかにしなかった[6]。そのため、大阪時代には川村龍一が正体であると噂されたことがある。

  • コントのひとつに伊武が演じるところの『JET STREAM』のパロディコントがあったが、後年その伊武自身が実際に『JET STREAM』の4代目パーソナリティを務めていた。



主なコント


  • 成田第13機動隊

いわゆる「三里塚闘争」をコント化したもの。伊武扮する機動隊長が、本部へ電話をかけようとするが小林扮するスネークマンへ間違い電話をしてしまう。

  • 越谷カントリークラブ

架空のゴルフトーナメント「マスターオープン」の解説。解説者がゴルファーの噂話をしようとするが、肝心な部分はヘリコプターのローター音でかき消されるというもの。元ネタはマスターズ。

  • 刑事コロンダ

「エドウィン航空」の機内サービスとして「刑事コロン」が上映されるのだが、これも肝心の部分が機内アナウンスにより消されるもの。元ネタは刑事コロンボ。

  • ホテルニュー越谷(愛のホテル)

架空のラブホテルのラジオCM。戸川純がゲスト出演しており、最後に「空いててよかった(あいててよかった)」(当時のセブン-イレブンのCMパロディ)。

  • 若い山彦

若い音楽評論家数人がラジオ局に集まり、80年代のロックシーンを語る企画に参加したものの、同じ内容の主張をしつつどこまでも意見が合わないというもの。番組名はNHK-FMの若者向け音楽番組『若いこだま』のパロディ。


ディスコグラフィ



シングル


  • 咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3(ワン・ツゥ・スリー)/えぶりばーでぃしんぎんぐばーじょん(アルファレコード、ALR-727、1981年/シングルCD・1995年)

シングルCDにはリミックスが2曲収録されているが、オリジナルヴァージョンは収録されていない。なおこのリミックスに桑原茂一はかかわっていない。


  • 愛の嵐(バラ肉のタンゴ)/愛の戦場(ブダペストの心)(アルファレコード、ALR-749、1981年12月)

  • これなんですか/CUE/スネークマン・ショー・アルファ・ラジオCM名作選(アルファレコード、ALFA-112、非売品)




アルバム




  • SNAKEMAN SHOW/スネークマン・ショー(LP・1981年/CD・2003年)
    • 別名「急いで口で吸え」。『タモリのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)にYMOがゲスト出演した際、オープニングでこれに収録されているコント「これなんですか」をYMOとやった事がある。タモリが咲坂守(小林)がやっていた薬屋の主人を、YMOが畠山桃内(伊武)がやっていた薬屋の客を細野、坂本、高橋の順で担当した。



  • 死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!(LP・1981年/CD・2003年)



  • スネークマンショー海賊盤(カセット・1982年/CD・2003年)

カセット版のパッケージはコンドームの箱を模している。当初は本当にコンドームを封入し、取り付け方の解説書も付けるという計画もあった。後年アナログLPにもなったが、当局のお達しでギャグのいくつかがカセット版から削られて、別のコントに差し替えになった。

  • ピテカントロプスの逆襲(LP・1983年/CD・2003年)


MELONとのコラボレーションで制作。小林克也は参加していない。LPとカセットが同時発売されたが、実は全く同内容というわけではなく、カセット版の方が収録時間が長くギャグが多めに入っていた。

  • スネークマンショープレゼンツ・竹中直人 かわったかたちのいし(LP・1984年/CD・1994)

桑原のプロデュース作品。細野・高橋らが楽曲提供した。演奏はムーンライダーズ。


  • スネークマンショー 核シェルターブック(カセットブック・1983年)

  • スネークマンショー In The 90's (CD・1991年)



On-Uサウンドのエイドリアン・シャーウッドによるリミックス。

  • YANKOMARITAI (CD2枚組・1992年)

このベスト盤は発売当時は平仮名のタイトルであったが、再発分からジャケットイラストは同じまま、タイトルのみ横文字表記の「YANKOMARITAI」に変更されている。過去に発売されたアルバムからの再編集で、1枚目は音楽オンリー、2枚目はコントオンリーの構成。2枚目には新規に収録されたギャグも2編あった。


  • 人格なし(CD・1993年)

  • 人格なし2(CD・1993年)

  • ツインズスーパーベスト・オブ・スネークマンショー(CD2枚組・1997年)

  • ラジオ・スネークマン・ショー Vol.1〜3(CD・2001年)



2001年9月27日、ラジオ番組のスネークマンショーの音源を復刻する形でワーナーから同時発売。計画では、同年10月24日にVol.4〜Vol.6、11月21日にVol.7〜Vol.9をリリースし、全巻購入者には特製CDをプレゼントするはずだったのだが、実際はVol.3までで発売は中断し、廃盤となった。

  • スネークマンショー・アンソロジー(CD2枚組・2004年)


『ラジオ・スネークマン・ショー』の発売元をユニバーサルミュージックに変えて内容を縮小し、2004年5月26日に発売された。こちらも再三の発売延期に見舞われた。



アルファレコードは1988年に『スネークマン・ショー』と『戦争反対!』を2枚組で初CD化。その2年後の1990年に『ピテカントロプスの逆襲』と『海賊版』をそれぞれ単独で初CD化。『ピテカントロプス』と『海賊版』はどちらもカセット版と同内容のものだった。だがこれによって『海賊版』LP版のみに収録されていた差し替え分のコントは、長らく聴けない状態となってしまった。


アルファのスネークマンショーは幾度か再発売されたが後に廃盤となり、長い間CDショップからは姿を消していたが、2003年にソニーミュージックから初期オリジナルアルバム4枚がリマスター版として一挙に発売。『海賊版』はカセット版の内容に加え、LPのみに入っていた差し替え分のギャグもボーナストラックとして収録され、これでやっと『海賊版』用の全ての音源がCDで聴けるようになった。


2010年現在はソニー・ミュージックエンタテインメントのリマスター盤4タイトルとユニバーサルの『アンソロジー』のみがCDショップで流通しており、それ以外は全て廃盤である。



映像作品


  • 楽しいテレビ(1984年)

出演者として竹中直人・いとうせいこう・シティボーイズ・中村ゆうじ、脚本陣の一人として宮沢章夫、という後にラジカル・ガジベリビンバ・システムを結成する面子が参加しており、実質的に80年代前半・後半をそれぞれ象徴する2大ギャグユニットのコラボレーション作品である。1984年のVHS及びLD版発売以来、長らく復刻がされず幻の作品となっていたが、2009年2月25日にBMG JAPANより特典映像ディスク、対談(伊武・いとう・宮沢)・台本・スチール写真などを収めたブックレットを付属させたDVDが発売された。

  • R60 スネークマンショー(2011年)


注釈




  1. ^ 1975年-1983年、2011年-


  2. ^ 「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3」の歌詞では「咲坂 まもる」表記。


  3. ^ コピーアイデアは立花ハジメ。


  4. ^ ちなみに、桑原はひょうきん族に対して「イジメから生まれる笑いは賛成できないため、いいものだとは思わない」と発言している。



脚注




  1. ^ 桑原茂一さんインタヴュー〜Part 1 ウルフマン・ジャックに憧れて1、桑原茂一さんインタヴュー〜Part 1 ウルフマン・ジャックに憧れて2

  2. ^ abcdefghij小林克也さん:英語タウン インタビュー スネークマンショー秘話

  3. ^ abcde#これ16-19頁

  4. ^ abcdefghijklmn#40年男20-21頁

  5. ^ abcdefMusicman-NET第16回 小林克也氏 5.運命を変えた「スネークマン・ショー」

  6. ^ abcdef#これ32-33頁


  7. ^ #これ34頁

  8. ^ abc桑原茂一さんインタヴュー〜Part 1 ウルフマン・ジャックに憧れて3


  9. ^ 伊武雅刀 | web R25

  10. ^ abc#40年男16-19頁「伊武雅刀 スネークマン・ショーについて語る。」

  11. ^ abc『週刊文春』「阿川佐和子のこの人に会いたい」第995回 伊武雅刀(2013年11月21日号 文藝春秋)130頁

  12. ^ ab#これ37-40、62-63頁


  13. ^ 桑原茂一インタビュー

  14. ^ abc#これ41-42頁


  15. ^ #これ56頁

  16. ^ abc#これ52-54頁

  17. ^ abc#これ86頁

  18. ^ abcd#これ87-90頁


  19. ^ #これ118頁

  20. ^ ab#これ138-139頁

  21. ^ ab#これ144頁


  22. ^ 桑原茂一さんインタヴュー〜Part 3 ホテル・ニュー越谷

  23. ^ ab#これ150頁


  24. ^ #これ154-155頁


  25. ^ “スネークマンショー :伝説のラジオが30年ぶりテレビで復活”. 毎日新聞デジタル. (2011年4月1日). http://mantan-web.jp/2011/04/01/20110331dog00m200011000c.html 



書籍


  • 桑原茂一2監修 『これ、なんですか? スネークマンショー』 新潮社、2003年12月。

桑原茂一2は桑原茂一でもクワバラモイチでもない謎の人物である。


参考文献



  • 昭和40年男 (8 2012). “総力特集:あの番組がスゴかった スネークマンショー”. クレタパブリッシング 13巻 (12号). 


関連項目


  • 完全無欠のロックンローラー


外部リンク




  • スネークマンショー・ウェブマガジン - ソニーミュージック内のサイト


  • R60 スネークマンショー - WOWOWの特設サイト(2011年4月)





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