中央公論































中央公論
刊行頻度
月刊
発売国
日本の旗 日本
言語
日本語
出版社
中央公論新社
刊行期間
1887年 – 現在
ウェブサイト
http://www.chuokoron.jp/

中央公論』(ちゅうおうこうろん)は、1887年に日本で創刊され、現在も発行されている、月刊総合雑誌である。現在は中央公論新社が発行する。




目次






  • 1 歴史


    • 1.1 反省会雑誌/反省雑誌


    • 1.2 中央公論(戦前)


    • 1.3 戦後




  • 2 嶋中事件(風流夢譚事件)


  • 3 読者数


  • 4 『朝日新聞』論壇時評との関係


  • 5 歴代編集長


  • 6 脚注


  • 7 参考文献


  • 8 外部リンク





歴史



反省会雑誌/反省雑誌


前身は、西本願寺系の普通教校(龍谷大学の前身)で高楠順次郎らの学生有志が禁酒と仏教徒の綱紀粛正を目的として1886年に組織した「反省会」の会員証を兼ねた機関誌『反省会雑誌』[1]。禁酒を主張したり、青年の生き方を探る雑誌だった。1887年創刊、1892年に東京に進出し、『反省雑誌』と改題、口絵を尾形月耕、月岡耕漁らが描いていた。



中央公論(戦前)


1899年(明治32年)1月に『中央公論』と改題した。次第に宗教色はなくなり、小説や評論などを掲載するようになった。明治末に入社した滝田樗陰は、芥川龍之介や菊池寛をいち早く起用した。


大正期には吉野作造の政治評論をはじめ、自由主義的な論文を多く掲載し、大正デモクラシー時代の言論をリードした。また、小説欄は新人作家の登竜門であった。


マルクス主義が流行し、1919年(大正8年)、より急進的な『改造』が発刊されると、中道的な路線となる。このころには、中央公論に作品が掲載されることは、人気作家の仲間入りと見なされるまでになった。


第二次世界大戦中、横浜事件が起こり、1944年、軍部の勧告により『改造』と共に廃刊される。



戦後


終戦後の1946年に復刊した。現在に至るまで様々な評論、小説が掲載される総合雑誌として継続している。


1960年同誌に掲載された深沢七郎の「風流夢譚」のため、右翼によって社長宅が襲われ嶋中夫人が負傷、家政婦が死亡する事件が起こり(風流夢譚事件)、続けて同社が『思想の科学』の天皇制特集号の刊行をとりやめるなどして、天皇制への批判は同誌ではタブーとなった(粕谷一希『中央公論社と私』)。


1999年、発行元の株式会社中央公論社が経営危機に陥り、旧中央公論社の出版・営業など一切の事業を読売新聞社(現・読売新聞東京本社、読売新聞グループ本社)の全額出資で設立された新会社「中央公論新社」に譲り受ける(旧中央公論社は特別清算され、解散時の商号は『株式会社平成出版』と称していた)。これに伴い、読売新聞の販売店でも『中央公論』を取り扱うようになった。


読売新聞傘下に入り、読売新聞社発行の総合誌『This is 読売』(1990年創刊)と月刊論壇誌がグループ内で重複することになったことから、両誌は統一されることになった。『This is 読売』は1999年3月に廃刊され、『中央公論』が存続誌となったが、上記経緯上それまでの『中央公論』の中道的論調は排され、『This is 読売』の論調であった右派・保守的な色彩を帯びるようになった[2]



嶋中事件(風流夢譚事件)



1960年(昭和35年)に『中央公論』に深沢七郎「風流夢譚」が掲載されたことに端を発する嶋中事件は、岸信介首相襲撃事件、浅沼稲次郎暗殺事件など、安保闘争に対抗するかのような一連の白色テロの一つであった。



読者数


『中央公論』の1954年以後の最大実売数は14万部弱(1965年11月号の80周年記念号と1970年12月号)である[3]。実売数は、1960年〜1963年頃までは10万部弱、1963年9月頃から10万部を超え、1965年末には14万部に達した。驚異的な売り上げと言われた『世界』の「講和問題特集号が」公称15万部であり、当時の『中央公論』はそれに近い部数を毎月得ていた[4]


愛読月刊誌ランキング




































































































































































































































































































毎日新聞社『全国読書世論調査』「買って読む」(1947年〜1986年)[5]
実施年 世界 中央公論 改造 文藝春秋
1947
調査無し 調査無し 調査無し 調査無し
1948
24位 14位 15位 8位
1949
ランク圏外 12位 13位 8位
1950
26位 10位 12位 3位
1951
23位 11位 13位 1位
1952
21位 9位 13位 2位
1953
16位 11位 17位 2位
1954
15位 11位 19位 2位
1955
15位 12位 廃刊 2位
1956
18位 12位 廃刊 2位
1957
18位 11位 廃刊 2位
1958
ランク圏外 12位 廃刊 3位
1959
19位 10位 廃刊 3位
1960
19位 9位 廃刊 2位
1961
19位 15位 廃刊 2位
1962
19位 11位 廃刊 2位
1963
29位 12位 廃刊 2位
1964
20位 10位 廃刊 2位
1965
23位 12位 廃刊 1位
1966
19位 9位 廃刊 1位
1967
17位 10位 廃刊 1位
1968
21位 10位 廃刊 1位
1969
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1970
25位 25位 廃刊 1位
1971
23位 13位 廃刊 1位
1972
27位 12位 廃刊 2位
1973
29位 14位 廃刊 1位
1974
ランク圏外 17位 廃刊 1位
1975
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1976
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1977
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1978
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1979
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1980
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1981
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1982
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1983
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1984
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1985
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1985
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し




































































































































































































































































































毎日新聞社『全国読書世論調査』「いつも読む」(1947年〜1986年)[5]
実施年 世界 中央公論 改造 文藝春秋
1947
2位 3位 5位 6位
1948
13位 15位 12位 7位
1949
22 12位 13位 8位
1950
26位 10位 13位 3位
1951
22位 12位 14位 2位
1952
ランク圏外 9位 14位 1位
1953
18位 12位 19位 3位
1954
16位 12位 18位 3位
1955
18位 13位 廃刊 3位
1956
20位 12位 廃刊 3位
1957
19位 12位 廃刊 3位
1958
ランク圏外 12位 廃刊 4位
1959
20位 10位 廃刊 4位
1960
20位 10位 廃刊 2位
1961
19位 11位 廃刊 2位
1962
22位 12位 廃刊 2位
1963
33位 13位 廃刊 2位
1964
22位 12位 廃刊 1位
1965
23位 12位 廃刊 1位
1966
22位 10位 廃刊 1位
1967
18位 10位 廃刊 1位
1968
24位 9位 廃刊 1位
1969
22位 9位 廃刊 1位
1970
27位 17位 廃刊 1位
1971
27位 12位 廃刊 1位
1972
27位 15位 廃刊 2位
1973
31位 11位 廃刊 1位
1974
ランク圏外 18位 廃刊 1位
1975
37位 17位 廃刊 1位
1976
50位 27位 廃刊 1位
1977
47位 16位 廃刊 1位
1978
ランク圏外 27位 廃刊 1位
1979
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1980
調査無し 調査無し 廃刊 調査無し
1981
ランク圏外 21位 廃刊 1位
1982
ランク圏外 35位 廃刊 1位
1983
ランク圏外 ランク圏外 廃刊 1位
1984
ランク圏外 39位 廃刊 1位
1985
ランク圏外 ランク圏外 廃刊 1位
1985
ランク圏外 ランク圏外 廃刊 1位


『朝日新聞』論壇時評との関係


三島由紀夫は、『中央公論』1968年7月号で70枚の論文「文化防衛論」を発表したが、小汀利得との対談で以下のように述べている。


読売新聞と東京新聞は、それぞれ林房雄さん、林健太郎さんが文壇時評をやっておられるからいろいろ親切に採り上げてくださる。見ようによっては親切すぎるわけですね。ところが朝日、毎日は一行も取扱わなかった。黙殺です。朝日は長洲一二さんがやっていますが一行もとりあげないし、毎日は社内記者がやっていますが、やはり一行もふれない。そうすると、一つの現象があって、この目鼻立ちがいいか悪いかわかりませんが、そこに人間がいることは確かなんですね。それを黙殺するということは、たぶんに意識的だ。意識的な態度にちがいないと思うのは、あるいは私のウヌボレかも知れません。その辺が、こっちがウヌボレで、つまり偏向だという場合と、それから実際に偏向である場合の区別がつけにくいんですね。これは実にむずかしい。私がそんなことをいうと、「あの野郎はつまらんものを書きやがって、ウヌボレやがって、とり上げられないのは当たり前だ」ということになる。じゃ第三者から見た場合はどうかというと、その第三者の中に右も左もいる。いいという奴と、黙殺するのが当然という奴がいるかもしれない。第三者だって公平とはいえない。言論の偏向ということは実にむずかしい。
— 「天に代わりて」『尚武のこころ』、p4-p5

辻村明による『朝日新聞』論壇時評(1951年10月〜1980年12月)の量的分析は以下のようになる[6]


雑誌別言及頻度


  1. 『世界』1390

  2. 『中央公論』1072

  3. 『朝日ジャーナル』(注:1959年3月15日号創刊)556

  4. 『文藝春秋』467


否定的に取り上げらた割合


  1. 『改造』19%

  2. 『自由』15%

  3. 『文藝春秋』13%

  4. 『中央公論』10%

  5. 『世界』5%


『朝日新聞』論壇時評において『中央公論』は多く取り上げられているが、否定的に取り上げられるケースが多多く、辻村明は以下のように評している[7]


『中公』も現実主義路線として批判されることが多かったので、このような悪い評価が比較的高くなるのであるが、『文春』『自由』となると、反左翼的、あるいは右翼反動的な雑誌として、悪い評価が一層高くなっている。『自由』が目の仇にされている様子が窺われる。(中略)『諸君!』『正論』も『自由』とほぼ同じ傾向の雑誌であり、ほとんど論壇時評にとりあげられないが、(中略)編集方針が論壇時評の担当者の意に添わないことの結果でもあろう。それはやはり比較的若い『現代の芽』や『現代の理論』がベストテンに入っていることと対照的である。
— 「朝日新聞の仮面」『諸君!』1982年1月号

1981年1月(高畠通敏)〜2009年2月(松原隆一郎)まで論壇時評者14人の言及した上位15誌は以下となる[8]






















































































































朝日新聞論壇時評言及頻度(1981年1月〜2009年2月)[8]
順位 雑誌名 総数 肯定的言及 否定的言及
1
世界 460 93.7% 6.3%
2
中央公論 355 85.6% 14.4%
3
エコノミスト 222 95.5% 4.5%
4
文藝春秋 143 90.2% 9.8%
5
朝日ジャーナル 91 98.9% 1.1%
6
Voice 80 86.3% 13.8%
6
諸君! 80 82.5% 17.5%
8
論座 73 89.0% 11.0%
9
現代思想 51 94.1% 5.9%
9
週刊東洋経済 51 92.2% 7.8%
11
月刊現代 46 93.5% 6.5%
12
月刊Asahi 39 94.9% 5.1%
13
アスティオン 34 97.1% 2.9%
13
34 85.3% 14.7%
15
正論 33 84.8% 15.2%

相変わらず、『世界』と『中央公論』が多く取り上げられており、論壇時評者14人のうち9人が最も多く言及したのは『世界』であり、残りの論壇時評者の多くは『中央公論』を最も多く言及したが、その場合は『世界』の言及頻度は2位となる[9]



歴代編集長




























































































































































































































氏名 就任年 退任年
武田福松 1899年 1903年
麻田駒之助 1904年
高山覚威 1905年
麻田駒之助 1906年 1912年
滝田樗陰 1912年 1925年
高野敬録 1925年 1926年
嶋中雄作 1927年 1928年 主幹
木佐木勝 1927年 1929年
雨宮庸蔵 1929年 1932年
荒川竹志 1932年
佐藤観次郎 1933年 1936年
雨宮庸蔵 1937年 1938年
小森田一記 1938年 1940年
松下英麿 1940年 1941年
畑中繁雄 1941年 1943年
松下英麿 1943年 1944年
蝋山政道 1945年 1946年
畑中繁雄 1946年 1947年
山本英吉 1947年 1949年
篠原敏之 1949年 1953年
藤田圭雄 1953年 1954年
嶋中鵬二 1954年 1957年
竹森清 1957年 1960年
嶋中鵬二 1961年
笹原金次郎 1961年 1965年
宮脇俊三 1965年 1967年
粕谷一希 1967年 1970年
島村力 1970年 1972年
笹原金次郎 1972年 1973年
粕谷一希 1973年 1976年
青柳正美 1976年 1983年
望月重威 1983年 1985年
近藤大博 1985年 1988年
平林孝 1988年 1990年
青柳正美 1990年 1991年
宮一穂 1991年 1997年
平林敏男 1997年
湯川有紀子 1997年 1999年
宮一穂 1999年 2001年
河野通和 2001年 2004年
間宮淳 2004年 2011年
木佐貫治彦 2011年 2014年
安部順一 2014年


脚注


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  1. ^ 平井金三における明治仏教の国際化に関する宗教史・文化史的研究吉永進一ほか、科研報告書、平成 16年度 ~18年度


  2. ^ 佐藤都 『日本の総合雑誌3誌の数量・内容分析からみる日本人の中国に対する関心の変遷』〈北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院院生論集〉、2012年3月p100


  3. ^ 竹内 2011, p. 81.


  4. ^ 竹内 2011, p. 64.

  5. ^ ab竹内 2011, p. 82.


  6. ^ 竹内 2011, p. 117.


  7. ^ 竹内 2011, p. 119.

  8. ^ ab竹内 2011, p. 446.


  9. ^ 竹内 2011, p. 447.




参考文献


  • 竹内, 洋 『革新幻想の戦後史』 中央公論新社、2011年。ISBN 9784120043000。


外部リンク



  • 中央公論


  • 稀書と大学歴史資料展 3 龍谷大学展示室



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