埼玉西武ライオンズ

























































埼玉西武ライオンズ
会社名
株式会社西武ライオンズ
創設年度

1950年
今シーズン

現在進行のスポーツイベント 2019年の埼玉西武ライオンズ

ロゴデザイン

Seibu lions insignia.png
イニシャルマーク

所属リーグ

パシフィック・リーグ



歴代チーム名

西鉄クリッパース(1950年)

(西日本パイレーツを吸収合併(1951年・開幕直前))

西鉄ライオンズ(1951年 - 1972年)

太平洋クラブライオンズ(1973年 - 1976年)

クラウンライターライオンズ(1977年 - 1978年)

西武ライオンズ(1979年 - 2007年)

埼玉西武ライオンズ(2008年 - 現在)



本拠地

メットライフドーム(埼玉県所沢市)


2007年当時の写真


収容人員
33,556人(メットライフドーム)
フランチャイズの遍歴

福岡県(1952年 - 1978年)
埼玉県(1979年 - 現在)



永久欠番


24:稲尾和久




獲得タイトル









アジアチャンピオン(1回)

2008



日本一(13回)


  • 1956

  • 1957

  • 1958

  • 1982

  • 1983

  • 1986

  • 1987

  • 1988

  • 1990

  • 1991

  • 1992

  • 2004

  • 2008



リーグ優勝(22回)


  • 1954

  • 1956

  • 1957

  • 1958

  • 1963

  • 1982

  • 1983

  • 1985

  • 1986

  • 1987

  • 1988

  • 1990

  • 1991

  • 1992

  • 1993

  • 1994

  • 1997

  • 1998

  • 2002

  • 2004

  • 2008

  • 2018




成績(タイトル以外)













アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)

2008



日本シリーズ出場(21回)(太字は勝利した年)


  • 1954

  • 1956

  • 1957

  • 1958

  • 1963

  • 1982

  • 1983

  • 1985

  • 1986

  • 1987

  • 1988

  • 1990

  • 1991

  • 1992

  • 1993

  • 1994

  • 1997

  • 1998

  • 2002

  • 2004

  • 2008



クライマックスシリーズ(7回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

1勝6敗



  • 2008

  • 2010

  • 2011

  • 2012

  • 2013

  • 2017

  • 2018



プレーオフ(2004-2006)(3回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

1勝2敗



  • 2004

  • 2005

  • 2006



プレーオフ(前後期制)(1回)
(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)

1勝0敗
1982






球団組織
オーナー

後藤高志
(西武ホールディングス代表取締役社長)
運営母体

西武鉄道
(西武ホールディングス傘下)
監督

辻発彦























































































株式会社西武ライオンズ
SEIBU LIONS
種類
株式会社
略称
埼玉西武ライオンズ、西武、埼玉西武、ライオンズ
本社所在地
日本の旗 日本
359-1153
埼玉県所沢市上山口2135番地
本店所在地
171-0022
東京都豊島区南池袋一丁目16-15
設立
1950年1月28日
(西鉄野球株式会社)
業種
サービス業
法人番号
6013301006279
事業内容
プロ野球球団運営ほか
代表者
後藤高志(オーナー)
居郷肇(代表取締役社長)
資本金
1億円(2013年3月31日現在)
売上高
100億円(2010年3月期)
純利益
4億8045万4千円(2018年3月期)[1]
純資産
24億6775万9千円
(2018年3月31日現在)[1]
総資産
56億3327万5千円
(2018年3月31日現在)[1]
従業員数
74人(2010年3月31日時点)
決算期
3月末日
主要株主
西武鉄道 100%
関係する人物
西亦次郎、中村長芳、堤義明、坂井保之、根本陸夫
外部リンク
http://www.seibulions.jp/
特記事項:1978年10月25日に福岡野球株式会社から現商号に変更。西武ホールディングスの連結子会社である。
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埼玉西武ライオンズ(さいたませいぶライオンズ、英語: Saitama Seibu Lions)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。


埼玉県をフランチャイズとし、同県所沢市にあるメットライフドームを本拠地[2]、同さいたま市大宮区にある埼玉県営大宮公園野球場を準本拠地としている。また、二軍[注 1](イースタン・リーグ所属)の本拠地はドームと同じ敷地内にある西武第二球場である。




目次






  • 1 球団の歴史


    • 1.1 福岡時代


      • 1.1.1 パ・リーグ加入以前


      • 1.1.2 西鉄クリッパース時代


      • 1.1.3 西鉄ライオンズ時代


      • 1.1.4 太平洋時代


      • 1.1.5 クラウン時代




    • 1.2 埼玉時代


      • 1.2.1 根本監督時代


      • 1.2.2 広岡監督時代


      • 1.2.3 森監督時代


      • 1.2.4 東尾監督時代


      • 1.2.5 第1次伊原監督時代


      • 1.2.6 伊東監督時代


      • 1.2.7 渡辺監督時代


      • 1.2.8 第2次伊原監督時代


      • 1.2.9 田辺監督時代


      • 1.2.10 辻監督時代






  • 2 所属選手・監督・コーチ


  • 3 チーム成績・記録


    • 3.1 その他の記録




  • 4 永久欠番


    • 4.1 過去の準永久欠番




  • 5 歴代本拠地


  • 6 歴代監督


  • 7 チームの特徴


  • 8 球団旗の変遷


    • 8.1 球団旗(一軍)


    • 8.2 球団旗(二軍)




  • 9 ユニフォームの変遷


    • 9.1 ユニフォーム(一軍)


      • 9.1.1 西鉄時代


      • 9.1.2 太平洋時代


      • 9.1.3 クラウン時代


      • 9.1.4 西武時代




    • 9.2 ユニフォーム(二軍)


    • 9.3 期間限定ユニフォーム




  • 10 ユニフォームのスポンサー


  • 11 主な歴代の球団歌・応援歌


  • 12 主なキャンプ地


    • 12.1 過去




  • 13 1982年以降のチームスローガン


  • 14 マスコット


  • 15 お台場ドーム構想


  • 16 福岡時代の歴史の取り扱い


  • 17 応援スタイル


  • 18 不祥事


    • 18.1 黒い霧事件


    • 18.2 2007年裏金問題




  • 19 グッズショップ


  • 20 ファンサービス


    • 20.1 ファンクラブ




  • 21 アニメとのコラボレーション


    • 21.1 主なコラボ作品




  • 22 放送


    • 22.1 現在放送しているライオンズの冠番組


    • 22.2 かつて放送されていた番組


      • 22.2.1 福岡時代の番組






  • 23 関連書籍


  • 24 脚注


    • 24.1 注釈


    • 24.2 出典




  • 25 関連項目


  • 26 外部リンク





球団の歴史



福岡時代



パ・リーグ加入以前


西日本鉄道(西鉄)は、1943年にそれまでの大洋軍[注 2]を譲り受け、西鉄軍として経営していたが、同年限りで解散している[注 3]


戦後すぐの1946年6月には西鉄はノンプロチームを立ち上げ、1948年には都市対抗野球で優勝するなど、アマ球界では強豪チームとなっていた。西鉄初代社長の村上巧児は「戦後の福岡に明るい話題を提供したい」との思いから1949年初めに戦前の西鉄軍を復活させ、再びプロ野球チームを持とうとするが、西鉄軍が解散で球団消滅扱いになっていた事もあって、1949年3月に日本野球連盟から復帰申請を却下されている。


ところが、1949年暮れにプロ野球再編問題が発生した。1リーグ体制だった連盟がセントラル・リーグとパシフィック・リーグの2リーグに分裂。これを契機に村上は、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り[3]、福岡県福岡市で西鉄クリッパース(にしてつ-、Nishitetsu Clippers )を結成。11月26日に発足、パ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)。



西鉄クリッパース時代


1950年

1月下旬に運営会社「西鉄野球株式会社」を設立登記した[注 4]。当初は西日本新聞社と共同で球団を設立しようとしたが、これには頓挫。西日本新聞は西鉄と同じ福岡県を本拠地として西日本パイレーツを立ち上げ、福岡県にプロ野球チームが2球団出来ることになった。


選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チームから初代監督となる宮崎要を始め大津守、深見安博、河野昭修、塚本悦郎ら、八幡製鐵の鬼頭政一ら、星野組の新留国良ら九州地方のノンプロ選手に加え、佐賀県出身で読売ジャイアンツの川崎徳次、福岡県出身で前年度南海ホークスで20勝を挙げた武末悉昌、同じく福岡出身の野口正明ら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。川崎の移籍に関しては、巨人との契約が残っていたこともあり、当初巨人が移籍を認めず難航したが最終的に移籍させている。


シーズンはチームがアマチュア出身の選手が中心だったことや、エースと期待された川崎が初登板の毎日オリオンズ戦で3回に肘を故障するなどが災いし、7球団中5位に終わる。


同じ福岡を本拠地とする西日本と比べると、西日本がドル箱の巨人戦などを抱えていたこともあって、人気、観客動員数の面で西鉄が下回っていたが、西日本も初年度のチーム成績は8球団中6位と西鉄同様に低迷、また西日本新聞がプロ野球の経営には素人で、福岡市での主催試合を自前で興行できずに、収益を興行師に持ち逃げされることもあり経営が安定せず、シーズン中の8月には選手への給料が遅配するなど経営悪化が進んでいた。6月に既に西日本の経営悪化の事実をつかんだ西鉄は西日本新聞がいずれ球団経営を手放すであろうと見て、パイレーツの吸収合併をもちかけ、9月に正式に合併調印している[注 5]。川崎徳次の提案で、次期監督には巨人の総監督で、水原茂の復帰に伴う排斥問題が起きていた三原脩を迎え入れようとするが、元からの西鉄選手の反発もあり、三原は当初は総監督に据えられ、宮崎要が選手兼任のまま監督を1952年まで続けた。



西鉄ライオンズ時代


1951年

1月30日、西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズ(にしてつ-、Nishitetsu Lions )となる(球団名変更は3月1日)[注 6]。西日本からは、後の黄金時代の主力となる関口清治・日比野武が加入。当初は旧クリッパーズ出身選手の反発が強く、球団上層部からも「クリッパーズの選手を使うように」と介入してくるが、三原は反発せずにクリッパーズの選手を使い続けることで、クリッパーズ出身選手が使えない事を証明させ、後にそれらの不満分子の選手を他球団に放出したり、解雇している。首位の南海と18.5ゲーム差の2位に終わる[4]


1952年

シーズン途中に、契約が難航していた東急フライヤーズの大スターで大下弘を深見安博、緒方俊明とのトレードで獲得。このシーズンは、首位の南海と8.5ゲーム差の3位。


1953年

Bクラスの4位に終わるも、中西太がホームラン王・打点王・最多安打。トリプルスリーも達成している。川崎徳次が最多勝・最優秀防御率を獲得。三原は1954年時には1951年ライオンズ発足時にいた34選手のうち、3/4にあたる26名を解雇や他球団に移籍させ、大幅に入れ替えている。




パシフィック・リーグ初優勝の様子(1954年)



1954年[5]

西鉄が開幕から11連勝で首位に立つが、途中8月中旬から9月にかけて27勝1敗[注 7]とした南海に追い上げられ一時首位に立たれるなど、南海と激しい首位争いとなったが、西鉄が残り1試合となった10月11日に対阪急戦に勝利したことで、西鉄の初のパ・リーグ優勝が決定する。最終的に西鉄は90勝、南海は91勝だったが引き分け数の差で西鉄が勝率で上回った。このシーズンは2番打者豊田泰光の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(大下弘〈22本〉、中西太〈31本〉、関口清治〈27本〉)を記録するなど、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録。しかし、日本シリーズでは中日ドラゴンズに3勝4敗で敗れる。



1955年[6]

前年とは逆に開幕から南海が10連勝するが、序盤から西鉄との首位争いとなり25度に渡って首位が入れ替わる状況であった。6月4日の対近鉄戦で大津守が球団初のノーヒットノーランを達成。 8月24日以降は南海が首位を明け渡さず、南海は日本プロ野球記録の99勝で、前年に続き90勝だった西鉄に9ゲームをつけて優勝、西鉄は2位に終わる。



1956年[7]

4月15日から6月の一時期を除いて南海が一貫して首位を守り、9月上旬の時点でも南海が2位の西鉄に7ゲーム差をつけていた。同月下旬の南海との首位攻防4連戦で西鉄が3勝1分とし、9月30日には西鉄が一時首位に立ち、その後も南海と首位が入れ替わる状況だったが、10月6日の対阪急戦に西鉄が勝利したことで2年ぶりにリーグ優勝達成。南海と西鉄は共に96勝だったが、引き分け数の差で西鉄が勝率を上回った。読売ジャイアンツとの日本シリーズは4勝2敗で勝利し、初の日本一達成。



1957年[8]

この年も南海との首位争いとなるが、7月下旬から8月にかけて西鉄は対南海戦7連勝を含む14連勝を記録し、この年の南海との対戦成績も15勝7敗と勝ち越した事もあり南海に7ゲーム差をつけて、10月13日に東映フライヤーズダブルヘッダーに連勝したことで、2年連続3度目のリーグ優勝を達成[9]。2年連続の対戦となった巨人との日本シリーズは負けなしの4勝1引き分けで巨人に勝利し、2年連続2度目の日本一達成。



1958年[10]

南海が新人の杉浦忠が前半戦だけで20勝3敗と活躍をみせて3年連続で開幕から首位を独走、オールスター前には2位の西鉄に11ゲーム差をつけていた。しかし後半に入ると杉浦は調子を落とし、西鉄の稲尾和久が後半戦のチーム36勝のうち31勝に絡む鉄腕ぶりをみせる。9月27、28日には6厘差で南海との首位攻防2連戦となり、27日は先発の杉浦と途中からリリーフの稲尾との投げ合いで10回を引き分けとし、28日には連投の先発の杉浦を打ち崩して初回で降板させるなど7対2で勝利し、西鉄が首位となり、10月2日の対近鉄ダブルヘッダーに連勝したことで、3年連続で序盤から首位を走った南海を逆転しての優勝達成となった。3年連続の対戦となった巨人との日本シリーズでは3連敗の後、稲尾の好投で4連勝を飾る。


稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西太・豊田泰光・仰木彬・高倉照幸らの好選手を擁し「野武士軍団」と呼ばれた。



1959年[11]

中西太、大下弘、関口清治らの故障もあり、投手陣も稲尾和久以外は島原幸雄が12勝しただけで2桁勝利投手がなく、4位に終わる。三原脩が監督を辞任、三原は大洋ホエールズの監督に就任。西鉄の次期監督には川崎徳次が就任。



1960年[11]

この年も中西太が故障で32試合の出場にとどまり、稲尾和久の出遅れもあり序盤は最下位になるなど低迷、前半戦は5割そこそこの成績で折り返すが、後半にかけ復調した稲尾が20勝を挙げるなど3位となるが、首位の大毎オリオンズや2位の南海に大きく負け越しての結果となった。



1961年[11]

稲尾和久が序盤から勝利を重ね7月11日には日本プロ野球史上最速の20勝到達となったが、この時点で他の投手全員の勝利数が19勝で稲尾が半分以上を占めていた[12]。稲尾はこの年シーズンの半分以上の78試合、404イニングを投げ日本プロ野球タイ記録となる42勝[注 8]を挙げ、また353奪三振のシーズン日本プロ野球記録(当時)を樹立するが[12]、チームは2年連続3位に終わり、川崎徳次が監督を辞任。シーズン終了後、選手兼任監督の中西太、選手兼任助監督の豊田泰光、選手兼任投手コーチの稲尾和久による「青年内閣」が誕生する。



1962年[11]

前年に続き前半戦最下位から、後半戦は稲尾和久の復調など投手陣がふんばり、3年連続の3位となる。共に故障を抱えながら欠場した中西太と出場した豊田泰光との間がかみ合わず、オフには豊田は国鉄スワローズへ金銭トレードにより移籍。



1963年[11]

序盤から独走状態だった南海に6月には最大14.5ゲーム差をつけられ、オールスター戦直前でも10.5ゲーム差であったが、西鉄が8月に6連勝、9月に7連勝と追い上げて、9月末には3.5ゲーム差として、9月末から1分を挟んで9連勝で一時、南海に並ぶ。10月17日に南海が全日程を終了した時点では1ゲーム差で南海が首位、西鉄は残り4試合を、3勝1分以上で優勝、3勝1敗で西鉄と南海が同率でプレーオフを行い、2勝以下だと南海の優勝となる状況で、10月19、20日に共に対近鉄戦ダブルヘッダーが平和台で行われ、19日の第1戦を17対5、第2戦は3対2でそれぞれ勝利。続く20日の第1戦は5対4のサヨナラゲームで3連勝すると、勝てば優勝となる第4戦では若生忠男と安部和春の継投で2対0で勝利し、5年ぶり5度目のリーグ優勝となり、福岡時代最後のリーグ優勝となった。14.5ゲーム差の逆転優勝は2013年現在日本プロ野球史上最大。日本シリーズでは稲尾が故障を抱えていたこともあり、巨人に3勝4敗で敗れる。



1964年[13]

序盤首位にたつことはあったが、これまで8年連続20勝の稲尾和久が故障で0勝2敗に終わり、井上善夫がノーヒットノーランを含む17勝、田中勉が15勝を挙げるものの、5年ぶりのBクラスとなる5位に終わる。



1965年[13]

8年ぶりに開幕戦に敗れ、序盤から負け越し、前半戦終了時には首位と26.5ゲーム差となったものの、前年未勝利の稲尾和久が13勝、新人の池永正明が20勝を挙げ、3位となる。



1966年[13]

5月12日の南海戦(大阪)で球団史上初の完全試合を達成した田中勉が23勝、11勝ながら最優秀防御率を獲得した稲尾和久など安定した投手陣に比べ、打撃陣は振るわなかった。優勝した1963年同様、首位南海が全日程終了時点で西鉄が4試合を残し、西鉄が4連勝すれば同率で南海とのプレーオフだったが、初戦の東映フライヤーズ戦に敗れて2位に終わる。



1967年[13]

開幕戦から2連続完封勝利を含む5連勝で4月を首位としたものの、5月以降は連敗がつづき8月末には一時5位に転落。打撃陣は低調だったが、この年最多勝となった池永正明ら投手陣の活躍で2位となる。これが西鉄最後のAクラス入りとなった。



1968年[14]

開幕から4連敗。6月には9連敗で、前半戦終了時点で首位の阪急と12ゲーム差の最下位となる。池永正明が2年連続23勝。4年ぶりの5位となる。



1969年[14]

5月に9連敗で中西太が一時監督休養。9月には4位まで上がるものの、最終的には5位でシーズン終了。10月、永易将之が八百長行為を行ったとして永久追放処分となり、これがいわゆる「黒い霧事件」の発端となった。稲尾和久が現役引退し監督に就任。



1970年[14]

開幕直前、前年追放された永易将之が池永正明ら西鉄の6選手[注 9]が八百長行為を行っていたと暴露した。チームは序盤から5勝10敗と低迷、そのうち4勝は渦中の池永正明が挙げた。5月25日にコミッショナー委員会により池永、与田、益田らに永久追放処分[注 10][注 11]が下り、これにより西鉄は戦力を大きく低下させる(詳細は「黒い霧事件 (日本プロ野球)」参照)。投手では東尾修、三輪悟、打者では東田正義、竹之内雅史(トンタケコンビ)ら若手を起用。東尾は防御率5点台ながら11勝を挙げるが、チームは43勝78敗9分、勝率.355、首位のロッテオリオンズと34ゲーム差の球団初の最下位となる。



1971年[14]

巨人から移籍の高橋明が14勝を挙げるが、それ以外は前年2桁勝利の東尾修と河原明が共に16敗でリーグ最多敗になるなど、一つ二つ勝っては連敗するという状況が続き、8月21日には高橋善正に完全試合、9月9日には鈴木啓示にノーヒットノーランをたてつづけに記録される。全球団に対し10勝以上挙げることができず15敗以上を喫する負け越し。勝率も前年を下回る.311で首位の阪急とは43.5ゲーム差の2年連続最下位に終わる。



1972年[14]

東尾修が300イニングを投げ18勝、加藤初が17勝を挙げ新人王を獲得するが2年連続全球団負け越し。首位の阪急とも32ゲーム差で3年連続最下位。観客動員数も激減するなど経営が悪化、ついに西鉄は球団経営を手放すことになった[15]



太平洋時代


1972年

11月にロッテオリオンズの中村長芳オーナーが球団を買い取り、「福岡野球株式会社」に商号変更。ペプシコ日本法人(日本のペプシコーラ販売会社)に買収させる案があったが、東映フライヤーズの身売り話が出てきたため(翌1973年2月、日拓ホームに身売りされることとなった)、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により破談となった。また、東映の買収を検討していた音響機器メーカーのパイオニアに買い取らせることも選択肢に挙げられたが、こちらも実現しなかった。このため、これらの売却を提案した中村が自ら買収した。資金面強化のため小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発会社の太平洋クラブと提携し、一種の命名権契約で球団名が太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-、Taiheiyo-Club Lions )となる(11月9日のパ・リーグ実行委員会で、会社株式の移動・球団名変更承認を受ける)。



1973年[16]

この年からパリーグは前後期制度となる。開幕戦で新外国人のドン・ビュフォードのサヨナラ本塁打で勝利すると4月を10勝3敗で首位としたものの、その後は順位を下げ前期は4位。後期も序盤は好調だったが5位に終わり通年4位。この年から翌年にかけてロッテ監督・金田正一との遺恨対決が話題となった。オフにはメジャーリーグ382本塁打のフランク・ハワードを獲得する[注 12]



1974年[16]

期待されたフランク・ハワードは開幕戦に出場しただけで離脱、5月にはアメリカに帰国している。東尾、加藤初らが投手陣が不調の上、打線も安定感がなく、前期3位、後期4位、通年では4位に終わる。シーズン終了後、稲尾は監督を解任される[17]。後任には大洋から江藤愼一をトレードで獲得し、選手兼任監督とした。近鉄から土井正博、日本ハムから白仁天をトレードで獲得。



1975年[16]

54人中17人が新戦力となり、新監督・江藤による打撃重視の豪快な打ち勝つ野球を目指す方針で、土井正博、白仁天らの打線は「山賊打線」と呼ばれ他球団の脅威となり、前期は2位としたものの、後期は打線に疲れが出て4位。通年では8年ぶりとなるAクラス入りで3位となり、土井は本塁打王、白が首位打者、東尾修が最多勝を獲得した。オフ、メジャーリーグで名将として知られるレオ・ドローチャーを監督に招聘、江藤は選手兼打撃コーチという発表に江藤が反発、退団してロッテに移籍[18]



1976年[16]

新監督に就任したレオ・ドローチャーが来日直前に急病で倒れ、春季キャンプは監督不在のまま実施。しかし「オープン戦までには来日できる」「再び健康状態が悪化した」というドローチャー側の二転三転の応答に業を煮やし契約を解除。ヘッドコーチの鬼頭政一が緊急昇格し監督に就任。戦力不足や前年からのゴタゴタの影響もありこの年は前後期とも6位の最下位に終わる。吉岡悟がプロ入り9年目で初の首位打者。10月12日に命名権を持つ冠スポンサーが桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターとなり、球団名が改まることが決定した。



クラウン時代



1977年[16]

シーズンからクラウンガスライターと提携し、球団名をクラウンライターライオンズCrown-Lighter Lions に変更。本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうため省略。同年10月15日にパ・リーグより承認)。しかし太平洋クラブから若干の資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームの右袖には太平洋クラブのロゴマークが付けられる。


投手陣は大洋から移籍の山下律夫がチームトップの12勝を挙げるものの、エース東尾、前年11勝の古賀正明がそろって不調。打撃陣は本塁打129本はリーグ2位だったが、ボブ・ハンセンの.269がチーム規定打席到達者で最高打率だったなど打線が低迷。前期6位、後期は8月中旬まで2位をキープするなど健闘したものの、最終的には5位に転落。通年では2年連続6位の最下位に終わる。11月のドラフト会議では法政大学の江川卓を指名するものの入団を拒否される。鬼頭監督が辞任し、後任には根本陸夫が監督に就任した。



1978年[16]

真弓明信、立花義家など若手が台頭しレギュラー定着、中日から移籍のウィリー・デービスも打率.293と活躍したものの、23勝した東尾修以外の投手陣の駒不足が露呈。前期は4位。後期は開幕から10試合で0勝7敗3分けで、その後は一時5割まで到達するものの、優勝争いに加わることなく5位。通年では2年連続の最下位は免れ5位。オフ、球団は西武鉄道グループの国土計画に買収されることになる。



埼玉時代



根本監督時代




パ・リーグ優勝 ペナント
1983年 - 1985年 - 1986年 - 1987年




パ・リーグ優勝 ペナント
1997年 - 1998年 - 2002年


1978年

レギュラーシーズン終了後の10月12日、廣済堂クラウン[注 13]がライオンズ球団の売却・埼玉県所沢市への移転を発表[19]。国土計画の堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズを買取り、西武ライオンズSeibu Lions )となる。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。


10月17日、球団事務所を東京都豊島区東池袋のサンシャイン60内に開設。10月25日、運営会社の商号を福岡野球株式会社から、現在の「株式会社西武ライオンズ」に変更。12月5日、ペットマーク・シンボルカラーの発表。12月18日当時建設中であった新本拠地球場の名前が西武ライオンズ球場に決定。堤は新球団の目玉にロッテ・野村克也、山崎裕之、阪神・田淵幸一を獲得。クラウン時代の77年ドラフトで指名し交渉権を得た江川卓入団にも執念を燃やしたが失敗、これにより、読売グループとの関係が悪化した(江川事件)。


1979年

西武ライオンズとして最初のシーズンは、春季キャンプでの調整失敗もあり前期は開幕から2引き分けを挟み12連敗を喫するなど最下位、後期も5位で通算成績も最下位であった。しかし、斬新な球場や「がんばれライオンズ」(TBSで関東一円で放送)等のミニ番組を放送してPRに努めた結果観客動員数は前年の77万人から136万人と75%も増えパ・リーグトップに躍り出た。なお西武はこの年以来、2017年シーズン現在まで一度も最下位になっていない。


1980年

前期最下位、スティーブ・オンティベロスが加入し、打線が強化された後期は9月に首位に立つが終盤6連敗し、後期優勝を逃し結局4位となった。通算でも4位。


1981年

前期は終盤まで優勝を争うも惜しくもロッテに敗れ2位に終わる。だが後期は失速して5位に沈み、通算では4位。このシーズン限りで根本陸夫が監督を退任した。



広岡監督時代


1982年

この年より監督に就任した広岡達朗の下、チームの改革を実施した。その効果はすぐに現れ、前期優勝を果たす。後期は序盤つまずくと残り試合をプレーオフ対策に費やし、1982年のパシフィック・リーグプレーオフでは後期優勝の日本ハムの江夏豊を攻略し、3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を達成。日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、チームとして24年ぶり、西武としては初の日本一を達成する。


1983年

序盤から首位を独走し始め、86勝40敗4分、2位阪急と17ゲームという大差をつけての2年連続リーグ優勝。日本シリーズは巨人に4勝3敗で勝利し、2年連続日本一を達成。


1984年

田淵や山崎など2連覇を支えたベテラン選手が衰え序盤から低迷し、3位に終わった。このシーズン終了後、田淵と山崎が現役を引退した。


1985年

中日ドラゴンズの田尾安志をトレードで獲得、5年目の秋山幸二がホームラン王を争い投手陣では2年目の渡辺久信、4年目の工藤公康が主力投手となるなど若い力が台頭、2年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズでは阪神タイガースの前に2勝4敗で敗れた。シーズン終了後、広岡監督が自身の健康問題(痛風)などを理由に契約年数を1年残して辞任した。後任には1982年から1984年まで広岡監督の下、バッテリーコーチ(ヘッド格)を務めた森昌彦が就任した。この年のドラフトで、甲子園通算本塁打記録を持つPL学園の清原和博を6球団競合の末[注 14]、交渉権を獲得している。



森監督時代


この時期は投打ともに戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ、清原和博、石毛宏典、伊東勤、辻発彦、平野謙、田辺徳雄、バークレオ、安部理など)がそろい、特に渡辺久信(最多勝利1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源(シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、渡辺智男(最優秀防御率1991年)、鹿取義隆(最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲と呼ばれた秋山・清原の打力が光り、森の任期の1986年から1994年には、1989年を除くすべての年でリーグ優勝し、また1992年までリーグ優勝した年には必ず日本一にもなり、「西武黄金時代」[20]を築いた。


1986年

ドラフト1位で入団した清原和博らの活躍で近鉄とのデッドヒートを制し、2年連続のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは広島東洋カープと対戦するが、第1戦で引き分け3連敗とした後、第5戦から日本シリーズ史上初の第8戦までの4連勝で逆転勝利し3年ぶりの日本一に輝く。


8月5日に球団事務所を現在の西武球場敷地内に移転した。球団の諸施設(事務所・本拠地球場・練習場・合宿所)が全て埼玉県所沢市上山口に集まった(会社の登記上本店は、引き続きサンシャイン60と同地に残る)。


1987年

序盤は清原の不振、辻や渡辺など故障者続出で苦戦するが、徐々に盛り返して8月に首位・阪急を逆転、3年連続のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは巨人と対戦、4勝2敗で勝利し2年連続日本一[注 15]。ところが、シーズンオフのこの年に15勝の東尾が麻雀賭博容疑で書類送検、翌年6月まで出場停止処分となった。


1988年

開幕から謹慎の東尾修の抜けた穴が懸念されたが、開幕すると工藤、渡辺、郭泰源、松沼博久ら安定した投手陣に、この年より一軍出場のバークレオが加わった打線で開幕から貯金を重ねた。29試合目で20勝、6月15日には貯金20としたものの、皮肉にも東尾が復帰して以降は工藤らが不調、郭が故障するなど投手陣が総崩れとなり、それでも6月には2位近鉄に8ゲーム差をつけ、9月に入っても6ゲーム差をつけていたがそこから近鉄の猛追撃を受けた。9月13日に近鉄に勝利し、そこで西武の優勝は決まったかのように見えたが、西武はそこから10試合を4勝6敗として、9月29日には近鉄に1.5ゲーム差に詰められ、10月5日にはゲーム差無しで近鉄に並ばれるなど熾烈な優勝争いとなった。西武も終盤10試合を8勝2敗で乗り切り、10月16日に西武が全日程を終了した時点では、近鉄が残り4試合を3勝以上で近鉄の優勝、2勝以下は西武が優勝という状況だった。近鉄がそこから1勝1敗で、2連勝が優勝の絶対条件となった10月19日の川崎球場でのロッテ対近鉄のダブルヘッダーの第2試合が4対4の引き分けに終わったことにより、2厘差(ゲーム差なし)で西武の4年連続リーグ優勝が決定した。日本シリーズでは4勝1敗で中日に勝利し、3年連続日本一となった。


1989年

序盤から低迷し、7月途中まで3連勝すらない状況であった。シーズン中盤よりオレステス・デストラーデが加入する。後半戦は巻き返し、9月には首位に立つが10月12日の近鉄とのダブルヘッダーでラルフ・ブライアントに4打数連続ホームランを打たれるなどして連敗したのが大きく響き、近鉄に優勝を許しリーグ5連覇を逃した。結果は優勝した近鉄に勝率2厘(0.5ゲーム)差、2位のオリックスに勝率1厘差の3位に終わった。


1990年

3年連続最多セーブ数が一桁だった反省を生かし、リリーフ陣の強化を図った。巨人から鹿取義隆、ドラフトで潮崎哲也を獲得。この2人がリリーフ陣を支え序盤から首位を独走、6月に8連敗した以外は安定感ある戦いで、2位オリックスに12ゲーム差をつけてリーグ優勝を奪回し、日本シリーズでは巨人を4連勝で破り2年ぶりの日本一を達成した。


1991年

開幕から8連勝を果たした。序盤は首位を独走するが、中盤からは調子を上げてきた近鉄との一騎討ちとなった。しかし、9月に12連勝して近鉄を突き放し2年連続のリーグ優勝を飾る。日本シリーズでは山本浩二監督率いる広島と対戦し、先に2勝3敗で王手をかけられるも第6・7戦で勝利し4勝3敗、逆転で広島を破って2年連続日本一。


1992年

6月に近鉄を抜いて首位に出るとそのまま独走し、3年連続リーグ優勝、日本シリーズでも野村克也監督率いるヤクルトを4勝3敗で破り3年連続日本一に輝いた[注 16]


1993年

デストラーデがメジャー復帰のため退団、攻撃力低下が懸念されたものの、日本ハムとの争いを制して4年連続リーグ優勝、しかし日本シリーズではヤクルトに3勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、福岡ダイエーホークスと秋山幸二、渡辺智男、内山智之と佐々木誠、橋本武広、村田勝喜による3対3の交換トレードが成立する。


1994年

オリックス、近鉄、ダイエーとの優勝争いになるが西武が9月に抜け出すとそのままリーグ優勝、パ新記録のリーグ5連覇を果たした。しかし、日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗れ2年連続のシリーズ敗退。森監督はこの年限りで勇退した。



東尾監督時代


1995年

東尾修が監督に就任しデストラーデが復帰したが、石毛や工藤といった黄金期の主力メンバーが次々とダイエーに移籍し戦力が低下、残った主力もベテランが増え成績が低迷、序盤は優勝争いに加わっていたが、イチローを擁する首位オリックスの独走を許す。またロッテにも抜かれ、オリックスと12.5ゲーム差、ロッテと0.5ゲーム差の3位に終わり連続優勝も途絶えた。辻が戦力外通告され、球団はコーチとして慰留したが、現役続行を希望したため退団しヤクルトへ移籍した。


1996年

序盤から低迷しBクラスをさまよっていたが、2年目の西口文也が最多勝のキップ・グロス(日本ハム)より1勝少ない16勝をあげ活躍。終盤の猛攻で最終的には62勝64敗4分、負け越しではあったが2年連続の3位。不動の4番として活躍した清原がシーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。


1997年

松井稼頭央・大友進・髙木大成・石井貴・豊田清といった若手の台頭もあり3年ぶりにリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で敗れ日本一を逃した。


1998年

西武球場がドーム球場化工事の一部を施され、西武ドームに改称。チームは日本ハムとの熾烈な首位争いを制しリーグ2連覇を達成する[注 17]。日本シリーズでは、横浜ベイスターズと対戦し下馬評は西武有利と予想されたが[21]、2勝4敗で敗れた。ドラフトでは、この年の高校野球春夏連覇を果たした横浜高校の松坂大輔を1巡目で指名し日本ハム、横浜との競合の末、抽選で松坂の交渉権を獲得している。


1999年

西武ドームのドーム球場化工事が完成。ルーキーの松坂は1年目にして最多勝となる16勝をあげ、新人王に選ばれる。松坂への関心もあって観客動員数とテレビ中継が増加した。しかし、チームはこの年に優勝したダイエーに一歩及ばず、ダイエーと4ゲーム差の2位でシーズンを終えた。


2000年

前年に続きダイエーに一歩及ばず、首位ダイエーと2.5ゲーム差の2位。同年秋のドラフトで系列企業のプリンスホテル硬式野球部から




  • 大沼幸二:投手(1位→横浜・DeNA)


  • 水田圭介:内野手(松坂世代:7位→阪神→中日→ヤクルト)


  • 福井強:投手(松坂世代:ドラフト8位)


の3人を獲得。松坂世代の2人は「高卒で社会人野球加入した選手は3年間ドラフト指名不可能」の規則で2001年まで指名不可能だったが、プリンスホテル硬式野球部の廃部に伴い救済措置・特例でプロ入り。


2001年

松坂が3年連続の最多勝となる15勝、西口が14勝、来日2年目の許銘傑が11勝をあげ活躍するも、優勝した近鉄と6ゲーム差、2位のダイエーとは3.5ゲーム差の3位と3年連続で僅差で優勝を逃した。この年を最後に東尾監督が勇退し、シーズンオフ、伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため伊原春樹作戦・守備走塁コーチが監督に昇格、伊東は総合コーチ兼捕手に昇格となった。



第1次伊原監督時代


2002年

開幕直後から首位を独走し、2位に16.5ゲーム差をつける大差でリーグ優勝を果たす[22]。しかし日本シリーズは巨人に4連敗を喫した[23]。個人記録では10月2日にアレックス・カブレラが日本プロ野球タイ記録(当時)の年間本塁打55本を記録。同日松井稼頭央が年間長打数の日本記録を更新した[24]


この年の西武の開幕戦は西武主催試合だが、西武ドームではなく札幌ドームで行った。これはNPBが全国各地の主要6都市(札幌、東京、名古屋、大阪、広島、福岡)で開幕戦を行うことを目的とした他、札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるコクドが携わっていたからである。


西武は札幌ドームを翌2003年から準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを計画していた。ところが2002年のシーズン開幕前に、当時東京ドームを本拠地にしていた日本ハムが2004年から札幌ドームを本拠地として使用する計画を発表した。上記の企画をしていた西武は一旦はこれに難色を示したものの、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化に同意した。しかし、結局2003年は当初20試合程度の予定であった西武の主催試合は6試合しか行われず、2004年以降は、西武の札幌ドームでの主催試合は行われていない[注 18]


日本ハムは札幌移転の2004年以降も公式戦の年間数試合を準本拠地として東京ドームで開催しているが、西武は東京ドームでの日本ハム主催試合に関しては、日本ハムの札幌ドーム移転前の2003年9月28日の試合の後、2015年4月7日・8日に2連戦が行われるまで途絶えていた[注 19]。なお、2016年にロッテが主催試合を東京ドームで行ったため、2017年までパ・リーグでは唯一の東京ドームで主催試合が行われていない球団だったが、2018年には対日本ハム戦1試合で初めて東京ドームでの主催試合を行った。


2003年

ダイエーと優勝を争ったが投手陣の不振が響き、最終的にダイエーと5.5ゲーム差の2位でシーズンを終えた。同年シーズン終了直前に伊東勤が現役引退を表明し、同時に監督就任を承諾。伊原監督は退任し、オリックスの監督に就任した。



伊東監督時代


2004年

伊東勤が、総合コーチから監督に昇格。松井のメジャー移籍。開幕から主砲のカブレラが長期離脱、投手陣でも先発・リリーフで主力投手が年間通して働けなかったものの投打に渡り全員野球ができた結果、レギュラーシーズンは総合2位。この年導入されたプレーオフの第1ステージにおいて日本ハムを2勝1敗で破り、続く第2ステージではダイエーと対戦。2勝2敗のタイで迎えた第5戦は9回に同点に追いつかれ、なおも2死2、3塁のピンチでレギュラーシーズン三冠王の松中信彦を迎え撃つ(ただし松中はこの5試合で1本塁打含む2安打と不振だった)。ここでランナーが帰れば目前まで迫ったリーグ優勝を逃し、逆にダイエーのサヨナラ逆転リーグ優勝を許してしまう大ピンチであったが、松中を打ち取り同点で切り抜け、延長戦に入る。そして延長10回に勝ち越し、そのまま勝利し、最終成績3勝2敗で破り2年ぶり20回目の優勝を果たす。日本シリーズでは中日と対戦し先に王手をかけられるものの、4勝3敗で12年ぶりの日本一に輝いた。この年、経営改善策の一環として本拠地・西武ドームの施設名称と二軍のチーム名称について命名権を売却することとなった。企業向け通信料金一括請求サービスを主たる事業としているインボイスが取得に名乗りを上げ、12月29日に二軍の命名権を3年契約で取得することに合意した。


2005年

シーズンから二軍の球団名を「インボイス」、球場名を「インボイスSEIBUドーム」とすることを発表した。レギュラーシーズンは総合3位、プレーオフでロッテに敗れた。シーズンオフ、当時の親会社コクドの事業不振に加え、コクドの系列会社で現在の親会社である西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により財務体質の悪化が進行したため、西武グループの経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を2004年の球団の新規参入を楽天と争って敗れたライブドアなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件であったため交渉はまとまらず、結局2005年も西武ライオンズとして引き続き経営された。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ2005年シーズンオフに再び球団売却を検討するとしていたが、2006年以降も球団を保有することとなった。2005年11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来、25年ぶりの開催となった(以後、毎年同日に開催する)。


この年のオフには、リリーフの中心として活躍した抑えの豊田清がFA宣言して巨人に移籍、中継ぎの森慎二がポスティングシステムでメジャーリーグのタンパベイ・デビルレイズに移籍した。


2006年

日本ハムとのシーズン1位争いの末、最終戦までもつれるがわずか1ゲーム差で2位に終わった。プレーオフでは第1ステージで福岡ソフトバンクホークスに1勝2敗で敗退となった。オフに、エースの松坂大輔がボストンレッドソックスに移籍し、同年12月2日、西武は任期満了となったインボイスに代わり人材派遣・介護サービス大手のグッドウィル・グループ(現:テクノプロ・ホールディングス)と5年間の命名権取得契約に合意し、西武ドームを「グッドウィルドーム」、二軍のチーム名称を「グッドウィル」に変更することを発表、同月4日の実行委員会で正式に承認され2007年1月1日から改称した。


2007年



2007年ファン感謝の集い・渡辺監督の就任挨拶風景。(西武ドーム)


1月17日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が埼玉県庁を訪問し、上田埼玉県知事に2008年より球団名に地域名を入れる方針であることが報告された。この段階では「埼玉ライオンズ」もしくは「所沢ライオンズ」が最有力候補であったが、「武蔵国の西部」として地域名を表現する球団会社名の「西武ライオンズ」も候補になっていた。また、2008年以降、さいたま市の埼玉県営大宮公園野球場で一軍の公式戦やクライマックスシリーズを開催する方針であることも伝えられた。


チームは交流戦で10連敗を記録するなどして、その後も連敗するなど低迷。9月26日、対ロッテ戦に敗れた時点で1981年以来26年ぶりのBクラスが確定し、連続Aクラスの日本プロ野球記録(25年連続Aクラス)が途切れ、首位日本ハムと14ゲーム差、最下位オリックスと2.5ゲーム差の5位に終わった。シーズン最終戦の直前、伊東は不振の責任を取り辞意を表明し、シーズン終了と同時に監督を退任した。


11月6日、2008年より「埼玉西武ライオンズ」と球団名を変更することをプロ野球実行委員会に申請し、2007年11月14日のプロ野球オーナー会議で承認され、球団名が正式に変更された。これにより、保護地域である埼玉県の球団であることを明確にし地域密着を図った。


この年には二軍チームと球場の命名権契約を結んでいたグッドウィル・グループにおいて、子会社であるグッドウィルの違法派遣などの不祥事が発覚したことから、12月にグッドウィル・グループからの申し入れと双方合意により命名権取得契約を解除することが決定された。2008年1月8日、正式に命名権契約の解除が発表され、1月9日より、本拠地名称が「西武ドーム」、二軍のチーム名称が一軍同様「埼玉西武ライオンズ」となることが発表された。



渡辺監督時代




2008年日本シリーズ 西武vs巨人 スコアーボード(2008年11月9日撮影)




2008年日本シリーズ 西武vs巨人 表彰式(2008年11月9日撮影)


2008年

1月1日付で球団名を埼玉西武ライオンズに変更(運営会社は「株式会社西武ライオンズ」のまま)。渡辺久信が二軍監督から一軍監督に昇格し、黒江透修をヘッドコーチに、大久保博元を打撃コーチにするなどコーチ陣を一新した。その結果、打撃力がアップし、渡辺はNo Limit打線と名付けた。8月11日には西鉄クリッパース創設以来通算4000勝を達成。これは日本プロ野球では6球団目(2リーグ分裂後にできた球団の中では初)の記録であり、2リーグ分裂後の4000勝は読売ジャイアンツに次いで2球団目である。4月に首位になって以来一度もその座を明け渡さず、9月26日、埼玉西武ライオンズとなって初めての年で4年ぶり21回目のリーグ優勝を決めた。クライマックスシリーズでは、日本ハムとファイナルステージで対戦。4勝2敗で2004年以来、4年ぶりの日本シリーズ出場を決めた。巨人との日本シリーズでは、先に巨人に2勝3敗で王手をかけられたもののその後連勝し、4勝3敗で4年ぶりの日本一を達成する。アジアシリーズでは決勝戦の台湾の統一ライオンズ戦をサヨナラ勝ちで初優勝を達成した。彩の国功労賞を受賞。


2009年

1月1日、公式ホームページにて、チームカラーがこれまでのライトブルーから紺(レジェンド・ブルー:西鉄の黒と西武の青の合体)に変更され、ペットマーク、チームネームロゴ、ユニフォームも変更されることが発表された(ただし、球団旗およびマスコットは変更しない)。1月28日、新ペットマークおよびチームネームロゴを用いた公式戦用新ユニフォームが発表された。この年より西武ドームの3塁側をホームとすることも発表されている[25]。昨シーズンの守護神であったアレックス・グラマンの故障離脱などにより、リリーフ投手に安定感がなく、リーグワーストの14試合のサヨナラ負けを喫する。それでも終盤には帆足和幸が4試合連続完投勝利するなど先発投手陣が踏ん張り、楽天やソフトバンクなどと激しくAクラス争いをするが最終的な順位は4位に終わった。前年日本一からBクラスへの転落は球団として50年ぶりとなった。ドラフト会議で花巻東高校の菊池雄星との交渉権を阪神、ヤクルト、楽天、中日、日本ハムとの6球団による競合の末に獲得に成功した。


2010年

前半はリリーフ投手が安定し、主力選手の故障が相次ぎながらも前半戦を首位で折り返した。だが終盤にリリーフ投手陣が崩壊して失速したため、優勝したソフトバンクにわずか2厘差(ゲーム差なし)の2位に終わった。クライマックスシリーズはファーストステージでロッテに2連敗し、敗退した。ドラフトでは1位希望の早稲田大学の大石達也を横浜、楽天、広島、オリックス、阪神との6球団による競合の末に獲得した。


2011年

東日本大震災による計画停電の影響を受け、4月中は本拠地西武ドームでの試合を自粛することとなった[注 20][注 21]。セパ交流戦の後半から失速し、8月終了時点で最大借金15を経験して最下位に低迷する。しかし9月は19勝5敗2分の成績で[26]、クライマックスシリーズ出場権をめぐる3位争いに加わった。10月18日の最終戦前まで4位であったが最終戦で勝利し68勝67敗9分で勝率.50370となり、前日まで3位だったオリックスが同日に敗戦して69勝68敗7分、勝率.50365となってシーズンを終了したため勝率を5糸(0.5毛)上回り、シーズン3位が確定しクライマックスシリーズ出場を決めた[27]。クライマックスシリーズではファーストステージで日本ハムに2連勝するが、ファイナルステージではソフトバンクに3連敗で敗退した。オフにはFA移籍で帆足和幸がソフトバンクに、許銘傑がオリックスにそれぞれ移籍した。


2012年

5月1日には2007年に死去した稲尾和久の背番号「24」を永久欠番とすることを発表[28]、7月1日の西武ドームでの対日本ハム戦にはメモリアルゲームとしてこの試合に出場した選手全員が稲尾の背番号である24を着用した[29]
開幕戦は5年連続で涌井秀章が先発するものの、敗戦投手となり涌井は開幕から3連敗で4月16日に登録を抹消され、チームも最大借金9を抱えて最下位と低迷した。涌井が救援投手に回り、6月以降は勝ち越すようになり8月までの3カ月で貯金を19とし8月19日に首位に立った。日本ハムとの優勝争いとなったが、10月2日の試合に敗れたことで優勝を逃し[30]、3ゲーム差の2位に終わった。クライマックスシリーズではファーストステージでソフトバンクに1勝2敗で敗れ、3年連続のクライマックスシリーズ敗退となった[31]。中村剛也が本塁打王を獲得、オフには、中島裕之が海外FA権を行使し、メジャーリーグのオークランド・アスレチックスに入団した[32][33]


2013年

リーグ一番乗りで10勝に到達するなど開幕ダッシュに成功したものの[34]、5月9日ロッテに連敗したことで4月10日から守り続けた首位を明け渡し[35]、交流戦開始後の同月22日には東北楽天ゴールデンイーグルスに抜かれ3位に転落[36]、6月8日には交流戦で優勝した福岡ソフトバンクホークスにも抜かれて4位に後退、結局交流戦は11勝13敗で同率8位でパ6球団では最下位に終わり[37]、6月29日には最大9あった貯金が一旦無くなった[38]。7月28日には再び2位浮上するが[39]、8月15日にソフトバンクに3連敗した時点で4位に転落[40]、その後3位ソフトバンクに最大5ゲーム差をつけられたが[41]、10月3日にソフトバンクとの直接対決で連勝したことにより再度3位に浮上[42]、10月5日に対楽天戦(Kスタ宮城)で2対1で勝利したことで年間3位以上を確定し、4年連続でクライマックスシリーズに進出が決定した[43]。10月8日、共にシーズン最終戦の西武ドームでの2位ロッテとの直接対決を10対2で勝利し8連勝で2位浮上、本拠地でのCSファーストステージ開催権を獲得した[44]が、CSファーストステージは1勝2敗でロッテに敗退し[45]、ファーストステージ終了翌日の10月15日、渡辺監督が球団に監督を辞任することを申し入れ、了承されたことを発表[46]、渡辺監督は球団シニアディレクターに就任することとなった[47]。10月22日、渡辺監督の後任には2002年から2年間西武の監督を務めた伊原の就任が発表された[48]。FAで、片岡治大が巨人に、涌井秀章がロッテに移籍した。



第2次伊原監督時代


2014年

開幕から3連敗スタートで、打線のテコ入れとして5月よりエルネスト・メヒアを獲得したが、5月25日には両リーグ最速の30敗に到達するなどチームは最下位に低迷した。6月3日に成績不振と右ひざ痛悪化の為、伊原監督は自ら休養を申し入れ、球団はこれを了承し翌6月4日のシーズン53試合目の対DeNA戦後に、伊原監督の休養と監督代行に打撃コーチの田辺徳雄の就任を発表した[49]。また、袴田英利チーフ兼バッテリーコーチをヘッド兼バッテリーコーチに、高木浩之二軍野手総合兼打撃コーチを一軍打撃コーチ、嶋重宣二軍外野守備走塁コーチ兼打撃コーチ補佐を二軍打撃コーチ兼外野守備走塁コーチとすることを発表した。
6月27日、伊原監督からの申し入れによる正式に監督辞任と、7月1日付での球団本部付アドバイザーへの就任を発表した(田辺の監督代行職はそのままである。)[50]



田辺監督時代


※2014年の監督代行時も含む。


2014年

9月22日の対ソフトバンク戦(西武ドーム)に敗れ、7年ぶりにシーズン負け越しが決まり[51]、9月27日には5年ぶりのBクラスが決まった[52]。10月2日、来季より田辺が正式に監督に就任することが発表された。途中加入のメヒアは中村と共に2リーグ制後初となる「同一チーム2人本塁打王」となるものの、総合成績は5位に終わる[53]。 ドラフトでは高橋光成を指名。また、投手陣の補強でエスメリング・バスケス、ウェイド・ルブラン、ミゲル・メヒア、郭俊麟を獲得した。


2015年

開幕より中村・メヒア・森友哉などをそろえた打線により、チームは1991年以来24年ぶりの開幕5連勝を飾った[54]。交流戦では中村が期間中に8本の本塁打を放つ[55]など10勝6敗2分の3位となり[56]、交流戦以降はソフトバンク、日本ハムとの首位争いとなり前半戦を3位でターンした。しかし、後半戦になると失速、のちに球団ワースト記録となる13連敗を喫し最大11もあった貯金がなくなってしまった。連敗中は抑えを高橋朋己から牧田和久に配置転換した。8月29日、対楽天戦に3-2で勝ち、球団通算4500勝を達成した[57]。2リーグ制分立後に発足した球団では最速で、巨人・阪神・中日・オリックス・ソフトバンクに次いで6チーム目[58][59]。また、1950年の2リーグ制後に4500勝を記録したのは巨人に次いで2球団目[60]。終盤はロッテとのCS進出争いとなり、西武が先に3位でシーズンを終えるがロッテが逆転し最終順位は4位となりCS進出を逃した上、球団としては34年ぶりの2年連続Bクラスとなった[61]。秋山翔吾がシーズン216安打の日本記録を樹立した。この年に西口が現役を引退。


2016年

開幕から中継ぎに再転向した牧田の好投やメヒアら打撃陣の好調により一時は首位に立つが、岸孝之の故障離脱やその他先発陣の不調、両リーグ最多の失策数を記録する守備の乱れが響き、5月5日には最下位に転落してしまう。これらを受けて2軍投手コーチの森慎二を1軍投手コーチに昇格、先発要員としてフェリペ・ポーリーノとブライアン・ウルフを緊急獲得した。しかし9月11日のソフトバンク戦で2年ぶりの負け越し、9月21日のオリックス戦で3年連続のBクラスが決まった。シーズン最終戦で田邊監督の退任が正式発表され、後任にはOBの辻発彦が就任。金子侑司が自身初の盗塁王を獲得した一方、4年ぶりに失策数が3桁に到達(失策数101はセ・パ12球団ワースト[62])・外国人先発投手が19戦連続未勝利を記録するなど課題の多く残るシーズンとなった。また、2005年の球団創設から2015年まで年間対戦成績で一度も負け越しがなかった楽天相手に初めて負け越した[63]。この年はオリックス戦のみ勝ち越してパ・リーグ全球団に負け越しは免れたがCS争いには加われず4位に終わった。オフに長年主力として活躍した岸孝之がFAで楽天に移籍した[64]



辻監督時代


2017年

1月16日、本拠地である西武ドームの名称をネーミングライツによって3月1日から『メットライフドーム』にすることを発表[65]。4月中旬以降、5月上旬の一時期に4位となったほかは8月末まで3位を保ち続けた。この間、7月21日から8月5日にかけて西鉄時代以来59年ぶりとなる13連勝を達成した[66]。8月31日に2位の楽天との直接対決を制して2位に浮上すると[67]、その後はシーズン終了まで2位を維持した。西武のAクラス入りは2013年以来4年ぶり。外崎修汰が3年目でレギュラー定着し、シーズン中盤からは打撃不振の中村、メヒアに代わって山川穂高が4番に座った。エースの菊池雄星がリーグ最優秀防御率および最多勝を達成[68]、新人の源田壮亮が56年ぶりとなる新人でのフルイニング出場を達成し新人王を受賞[69]、秋山翔吾が打率.322で首位打者となった。クライマックスシリーズではファーストステージにおいて3位の楽天と対戦し、第1戦ではエース菊池が完封し10-0で大勝するが第2戦・第3戦で敗れ、1勝2敗で敗退となった。オフに野上亮磨がFAで巨人へ、牧田和久がポスティングシステムでサンディエゴ・パドレスへそれぞれ移籍した。一方で、楽天を退団した松井稼頭央が外野手兼テクニカルコーチとして15年ぶりに復帰した。


2018年

所沢への球団移転以来40周年の記念に当たる年で、様々な催しや事業が実施される[70]。中でも最大の事業は2017年末から2021年春にかけて予定されている西武ドームや二軍施設とその周辺の大規模な改修・再整備である[71][72][73][74]。4月17日には東京ドームで初めて主催ゲームも行われた[75]。4月21日、本拠地で開幕から8連勝となり球団初の記録となった[76]。また、貯金が10となり開幕18試合以内での到達は、1954年、1955年に続く63年ぶりの球団3回目となった[77]。4月22日にロッテに勝ち、本拠地西武ドームで開幕から9連勝と球団記録を更新して貯金を11とし[78]、最終的に本拠地での連勝を12まで伸ばした[79]。4月25日にソフトバンク戦で5試合連続9得点を挙げて、パ・リーグ新記録を達成した[80]。また、14年ぶりの4月に2度目の5連勝となった[81]。強打で首位の座を一度も譲らず、9月半ばから勢いが加速、9月14日の楽天戦から12連勝で一気にマジックを減らし、9月30日、マジック1としていた首位西武は日本ハムに敗れたが2位のソフトバンクもロッテに負けたため、西武の10年ぶり22度目のパ・リーグ優勝が決まった[82]。1、2位が同日に敗れて優勝が決まったのは2010年パ・リーグのソフトバンクと西武以来となった[83]。クライマックスシリーズファイナルステージでは2位のソフトバンクと対戦し、初戦で敗れ2戦目で勝利したが3戦目から5戦目まで3連敗を喫し、アドバンテージ1勝を含めた2勝4敗で敗れ日本シリーズ出場はならなかった。辻監督は試合後に行われたセレモニーで号泣し、マイクを通じて辻監督の嗚咽がスタジアム内に響き渡る異例の事態となり、「まさか今日2018年シーズンが終了するとは考えてもいませんでした」と3連敗で敗れ去ったことを悔しがり涙を流し続けた[84]。この年で松井稼頭央、藤原良平、坂田遼、福倉健太郎が現役を引退し、オフにFAで浅村栄斗が楽天に、炭谷銀仁朗が巨人に移籍した。


2019年


所属選手・監督・コーチ





チーム成績・記録




1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す




  • リーグ優勝 22回(その内、年間最高勝率は下記のうち1982年と2004年除く20回)
    • (1954年、1956年 - 1958年、1963年、1982年 - 1983年、1985年 - 1988年、1990年 - 1994年、1997年 - 1998年、2002年、2004年、2008年、2018年)


  • 日本シリーズ優勝 13回
    • (1956年 - 1958年、1982年 - 1983年、1986年 - 1988年、1990年 - 1992年、2004年、2008年)


  • クライマックスシリーズ優勝 1回
    • (2008年)


  • 前期優勝 1回
    • (1982年前期)


  • Aクラス 47回
    • (1951年 - 1952年、1954年 - 1958年、1960年 - 1963年、1965年 - 1967年、1975年、1982年 - 2006年、2008年、2010年 - 2013年、2017年 - 2018年)


  • Bクラス 22回
    • (1950年、1953年、1959年、1964年、1968年 - 1974年、1976年 - 1981年、2007年、2009年、2014年 - 2016年)


  • 連続Aクラス入り最長記録 25年[日本プロ野球記録](1982年 - 2006年)

  • 連続Bクラス最長記録 7年(1968年 - 1974年)

  • 最多勝 96勝(1956年)

  • 最多敗 84敗(1971年)

  • 最多引分 14分(1959年、1987年)

  • 最高勝率 .683(1983年)

  • 最低勝率 .311(1971年)


※1982年度は日本ハムとのプレーオフを制して優勝。2004年度はレギュラーシーズン2位ながらプレーオフで3位・日本ハムを2勝1敗、1位・ダイエーを3勝2敗でそれぞれ破り優勝。



その他の記録



  • 最小ゲーム差 0.0ゲーム(2010年)

  • 最大ゲーム差 43.5ゲーム(1971年)

  • 最多本塁打 219本(1980年)

  • 最少本塁打 63本(1951年)

  • 最高打率 .281(1986年、1997年)

  • 最低打率 .222(1967年)

  • 最高防御率 1.87(1956年)

  • 最低防御率 4.60(1979年)

  • 最多連勝 14(1957年)※2引き分けを挟む
    • 引き分けを挟まない連勝記録は13(2017年)


  • 最多連敗 13(2015年)



永久欠番



  • 24:稲尾和久
    引退後も1972年までは稲尾自身が監督として付け、1973年の福岡野球株式会社への売却時に稲尾が背番号を81に変更した事から欠番となった。当時球団は稲尾が永久欠番を辞退したため、「将来有望な選手が入団してきたら24番をプレゼントしたい」としてしばらく欠番とした後、1976年に古賀正明が着用した。その後、さまざまな選手が着用したが、2012年の生誕75周年を機に永久欠番に指定(同年は永久欠番指定が報じられる前から欠番となっていた)[85]



過去の準永久欠番




  • 3:大下弘
    1960年3月1日の引退試合後、「大下選手の名に恥じない選手が出ればその選手に渡す。」という当時の球団社長、西亦次郎の意向で当分の間欠番となっていた(1960年3月1日付け西日本スポーツ・野口正明のコラムから)。1968年、大下の東映フライヤーズ監督就任と同時期に、中日から移籍の広野功が着用。その後も土井正博、清原和博、中島裕之、浅村栄斗と球団を代表する強打者が受け継いでいる。



  • 6:中西太
    退団後の1970年から相応しい選手が出るまで欠番とされていたが、1973年に「もう新球団(福岡野球)になったんだからいいじゃないか」と、当時の監督・稲尾の推薦で[要出典]菊川昭二郎が着用、その後もさまざまな選手が着用している。




歴代本拠地



  • 1950年 - 平和台野球場、春日原球場

  • 1951年 - 1978年 - 平和台野球場
    • 1952年より正式なフランチャイズ制が敷かれる。なお、1950年は西日本パイレーツの本拠地としても規定されていた。


  • 1979年 - 1997年 - 西武ライオンズ球場

  • 1998年 - 現在 - 西武ドーム

    • 命名権による名称変更で2005年・2006年は「インボイスSEIBUドーム」、2007年は「グッドウィルドーム」、2015年・2016年は「西武プリンスドーム」、2017年からは「メットライフドーム」

    • 西武球場の完全ドーム化は1999年。名称は第1期工事(スタンド外周部に屋根を架設する工事)が完成した1998年に「西武ドーム」に変更されている[注 22]




1965年からは小倉球場(現:北九州市民球場)、1973年からは藤崎台県営野球場を準本拠地として試合を開催し、いずれも1978年まで使用された。


なお、西武は本拠地(西武ライオンズ球場→西武ドーム)での試合開催率が高く[注 23]、特に1993年までの15年間では西武球場で全ての主催試合を行ったのが1982年から1986年と1989年から1993年の計10年間あり、それ以外の5年間も地方球場開催は平和台のみだったが、1994年以降は徐々に地方開催を行うようになった。特に2000年から2008年までの間は長野オリンピックスタジアムでの開催が毎年続けられたほか、1996年からは群馬県立敷島公園野球場でも2、3年に1回開催しており、渡辺久信監督在任時期は同監督の出身地ということもあってほぼ毎年開催されていた。また、2008年からは埼玉県営大宮公園野球場でも毎年主催試合を行っている(参照:埼玉西武ライオンズ主催試合の地方球場一覧)。なお、球団名に「埼玉」が付いてからは埼玉県外での公式戦主催試合は減少傾向である。




球団事務所(所沢市・2007年撮影)



歴代監督



  • 1950年 : 宮崎要(登録上は、1951年 - 1952年も監督)

  • 1951年 - 1959年 : 三原脩(1951年 - 1952年の登録上は総監督) [※ 1]

  • 1960年 - 1961年 : 川崎徳次

  • 1962年 - 1969年 : 中西太[※ 2][※ 3]

  • 1970年 - 1974年 : 稲尾和久 [※ 4]

  • 1975年 : 江藤慎一

  • 1976年 : レオ・ドローチャー [※ 5]

  • 1976年 - 1977年 : 鬼頭政一 [※ 6]

  • 1978年 - 1981年 : 根本陸夫 [※ 7]

  • 1982年 - 1985年 : 広岡達朗

  • 1986年 - 1994年 : 森祇晶[※ 8]

  • 1995年 - 2001年 : 東尾修 [※ 9]

  • 2002年 - 2003年 : 伊原春樹(第1期)

  • 2004年 - 2007年 : 伊東勤

  • 2008年 - 2013年 : 渡辺久信 [※ 10]

  • 2014年 : 伊原春樹(第2期)[※ 11]

  • 2015年 - 2016年 : 田邊徳雄

  • 2017年 - : 辻発彦


太字は優勝達成監督





  1. ^ ここから西鉄ライオンズ


  2. ^ 1965年4月19日 - 5月10日は病気療養のため深見安博が監督代行。


  3. ^ 1969年5月23日 - 6月13日と、10月9日以降は鬼頭政一が監督代行。


  4. ^ ここから太平洋クラブライオンズ


  5. ^ 就任が発表されたが、病気のため来日することなく契約が解除された。


  6. ^ ここからクラウンライターライオンズ


  7. ^ ここから西武ライオンズ


  8. ^ 球団唯一、右投右打でない監督(右投左打)。また歴代監督に左投左打が不在なのは現行12球団+近鉄の中では唯一。


  9. ^ 1997年7月11日 - 13日までは須藤豊が監督代行。


  10. ^ ここから埼玉西武ライオンズ


  11. ^ 2014年は6月4日まで。翌5日からシーズン終了までは田邊徳雄が監督代行に就任。




チームの特徴



  • 西鉄時代は三原・川崎徳次以外はチームの出身者が監督を務めた。太平洋から西武時代は長らく外様監督が続いたが、1995年の東尾修以降は、伊原春樹、伊東勤、渡辺久信、田辺徳雄、辻発彦と生え抜き及びチームの出身者の監督が続いている。

  • 西鉄クリッパースのニックネームの由来は、ニックネームを公募したところ、親会社だった西鉄が当時パンアメリカン航空の日本販売代理店だったことから、パンナム機の愛称「クリッパー」から採用されたと言われる[86]

  • 埼玉移転以降、「西武」を名乗っているが、元々は西武グループの意味であり、直接の球団親会社は1978年に旧クラウンライターライオンズを買収した国土計画(後のコクド)、2006年の西武グループの再編時にはコクドを吸収したプリンスホテルであった。しかし、2008年から本格化している地域密着の強化を目的として、2008年11月21日のプロ野球オーナー会議において、球団の親会社を所沢市内に移転していた西武鉄道に変更することが承認された[87]

  • 西武になってからの球団シンボルマークは、西武線沿線にゆかりが深い手塚治虫の『ジャングル大帝』の主人公・レオを採用している。

    • 作者の手塚によると、堤オーナーから直接「引退中のジャングル大帝レオを球団マークとして復帰させてみる気はないですか」との連絡があり、さらに「子供のレオではなく、大人になってからのレオに衣服(ユニフォーム等)を着用させて使いたい」との意向も示され[注 24]、球団マスコットとしてレオが(人型で)登場した。発表後、手塚の周囲では「あれはレオじゃなくて父親のパンジャじゃないか。パンジャ球団にでもするのか」などと冷やかされたそうで、マスコットには他に女性キャラのライナがいるが、こちらは球団としてのオリジナルキャラクターとなるため、鼻の頭の色や目の大きさなど何度も作りなおした末に仕上げ、思い出深いキャラクターになったという。実際その後、手塚の自室ではさまざまなライナの失敗作を飾っていたとのこと[88]。共に当初は背番号無し(のちにユニフォームのスポンサー・ナイキ→マジェスティック・アスレティックのロゴが入る)。また、このマスコットは「異競技交流」の一環として、2003-2004年シーズンに西武鉄道アイスホッケー部を統合したコクドアイスホッケーチームにも使用された(チームが西武プリンスラビッツとなった2006年からは使用せず)。

    • このレオの名前は共通SFカードシステム「パスネット」に加盟する西武鉄道のプリペイドカードの名称にも使用されていた(SFレオカード)。



  • 2015年まで東北楽天ゴールデンイーグルスに11球団で唯一シーズン負け越しがない球団で勝ち越せなかった2009年も五分だったが、2016年に初めて楽天に負け越した。これにより年間の対戦成績で一つの球団にのみ負け越しがないという事例はなくなった[89]


  • 20世紀末に現存の球団では最後に日本一連覇を達成した球団である。1990年、1991年、1992年の日本一3連覇が20世紀では最後の日本シリーズ連覇となった。



球団旗の変遷







球団旗(一軍)


福岡時代


  • 1950年 - 上が青・下が黄色のセパレート型。上に西鉄の社章。下に青字で「CLIPPERS」。書体は前述の事情でパンアメリカン航空が使用していたものとなる。

  • 1951年 - 1972年 - 球団名が西鉄ライオンズへの変更に伴い「CLIPPERS」の部分を「LIONS」に変更。書体はその後数度にわたって変更されている。

  • 1973年 - 1976年 - 球団買収により、球団名が太平洋クラブライオンズへの変更に伴い、上が青・下が赤のセパレート型、間に白の細い線。上には太平洋クラブの社章。下には白文字の筆記体で「Lions」。

  • 1977年 - 1978年 - メインスポンサーがクラウンガスライターとなり、球団名がクラウンライターライオンズへの変更に伴い、上が赤・下が青のセパレート型と太平洋時代のものとは上下反対に、中心の白線が太くなる。中心の白地に青文字で「CROWN LIGHTER」の文字。上に王冠と「C」を模したクラウンのマークが入った。白文字の筆記体で「Lions」のロゴが大きくなる。


所沢時代

  • 1979年 - 西武グループが買収し、球団名が西武ライオンズへの変更に伴い、ライオンズブルー(水色)が地色。中央に手塚治虫デザインの「レオマーク」。上に白文字で「SEIBU」、下に白文字の筆記体で「Lions」。総合デザインはユニフォームを含めて細谷巖が担当。


球団旗(二軍)



  • 2005年 - 2006年 - 二軍の球団名がインボイスに変更され、白地にインボイスのマーク。

  • 2007年 - 二軍の球団名がグッドウィルに変更され、白地にグッドウィルのマーク。



ユニフォームの変遷







ユニフォーム(一軍)



西鉄時代




西鉄ライオンズ時代のマークとロゴを使用していた西鉄高速バス「Lions Express」(2011年から2015年まで運行)




西鉄ライオンズ誕生当時の復刻ユニフォームを着た牧田和久(2011年)




  • 1950年 -1951年 - 紺に黄色の縁取りで「CLIPPERS」。グレーの縦縞に「FUKUOKA」のマークもある。西鉄ライオンズになってからロゴが「Lions」に変わった以外、変更点はない。1950年は帽子のマークは黄色の「N」と紺の「C」の組み合わせで、翌1951年はペットネーム変更により「L」となった。

  • 1951年 - 1952年 - 濃紺で「LIONS」と書かれたロゴが登場。黄金期の象徴だった「NISITETU」マークが初登場。しかし、ストッキングの評判が悪くビジター用は1年で廃止。
    • 1952年当時のユニフォームは、その後もしばらく二軍・練習用に使用された。


  • 1952年 - 1954年 - ブルーグレーの縦縞を採用したユニフォームとなる。同時に、西鉄晩年まで使われていた「Lions」のブラックレター(飾り文字)が登場。

  • 1954年 - 1961年 - 黒色の帽子・ライン・レターを基調とした、後の西鉄黄金期を象徴するデザインが登場。また、胸ロゴ「Lions」はiの黒点が取れるなどのマイナーチェンジ、帽子マークは従来のNマークからNとLを重ねたマークに変更された(以来、NLマークは1960年から1961年を除き、西鉄売却まで使用)。このユニフォームは日本シリーズから使用された。1958年シーズン途中からビジター用胸マークが「FUKUOKA」となった。1960年には袖番号が装着され、帽子マークはLの飾り文字になった。


  • 1962年 - 1965年 - ホーム用のラインをWラインに変更。また、袖番号に変わり、球団史上初の胸番号を採用。また、ビジター用は、ラインが少し太くなった。


  • 1966年 - 1968年 - ユニフォームにオレンジ色を採用(帽子マーク、ライン・レターの縁取り)。左袖にはエジプト壁画風のライオンマークが登場。球団史上初の背ネームを採用。


    • 1968年途中にはビジター用のロゴが親会社の「NISHITETSU」となり、左袖には立ち姿のライオン(西鉄グランドホテルのマークと同デザイン)を入れた紋章風ワッペンを装着。

    • 1969年には背ネームが除外。番号がゴシック体風書体となる(公式戦使用終了後は練習用として使われ、西鉄最終年のみ在籍していた榎本喜八がビジター用を着ている写真が残っている[90])。

    • 1970年には左袖に足を1本突き出すライオンのイラストワッペンを装着。ビジター用がブルーグレーに変更、また、ビジター用の胸のロゴが1951年から1958年途中まで使用されていた「NISITETSU」マークに変更される。




  • 1971年 - 1972年 - パンツと袖口がWラインとなり、ワッペンのライオンが2本足に変更される。これが西鉄最後のユニフォームとなった(なお、太平洋クラブライオンズ初年度の1973年春季キャンプ、オープン戦までは引き続き西鉄のユニフォームを着用していた)。



太平洋時代




太平洋時代の復刻ユニフォームを着る中島裕之(2010年)




  • 1973年 - 1975年 - メインスポンサーが太平洋クラブとなり、ホーム用は帽子・上着(球団初のプルオーバー)・パンツ(球団初のベルトレス)に白を基調としたデザインとし、ビジター用には日本初の原色カラーのユニフォーム(上下ツートンカラーとしても日本初〈上は赤、下は白をそれぞれ基調としたデザイン〉)が登場。同時期に袖が赤いホーム用、ビジター用の上着がブルーというデザインも存在した。ホーム用は背番号の上に「TAIHEIYO CLUB」、ビジター用には「FUKUOKA」。帽子は、ホーム用が白地につばは青、ビジター用は青地に赤のつばと赤地に青のつばの2種類。帽子マーク・左袖に、太平洋クラブのシンボルマーク(社章)。


  • 1976年 - 前期のものは最初で最後のアメリカンフットボール風ユニフォーム。ベースカラーはワインレッドで、近鉄同様にラグランスリーブスタイルを採用し左袖には「FUKUOKA」、右袖にはライオンのイラストワッペンが付く。帽子はワインレッドに青の鍔でマークは「L」と「T」の組み合わせ文字。袖・ベルト・パンツのラインは青地に白2本のストライプ。ユニフォーム前面にアメフトのユニフォームよろしく大きく番号が入った。しかし、「身売りへの準備」と勘ぐられるなどの悪評から後期は「Lions」のロゴが、ビジター用は「TAIHEIYO CLUB」のロゴがそれぞれ復活。いずれも背番号の上には選手名が入った。



クラウン時代



  • 1977年 - 1978年 - メインスポンサーがクラウンガスライターとなり、帽子も赤地に前部が白となって「C」と「L」の組み合わせ文字に変更。ユニホームも白地に赤文字をベースとしたユニホームにモデルチェンジ。ビジター用はライトグレー地に赤文字となり「CROWN LIGHTER」の二段文字となる。ホーム用のみ、王冠と「C」を模したクラウンのマークが胸番号の代わりに入った(マークを使用しないビジター用にも胸番号はない)。なお右袖には引き続き太平洋クラブのマーク(若干の援助を受けていたため)、左袖は帽子をクラウン仕様に変更したライオンのイラストワッペンが付く。これが福岡のライオンズが着用した最後のユニフォームとなってしまった。


西武時代




  • 1979年 - 2003年 - 球団名が「西武ライオンズ」となり細谷巖によるデザインに一新。西武黄金期を築いたユニフォームで、途中マイナーチェンジはあったが、基本デザインは2003年まで使用された。

    • 帽子、アンダーシャツ、ストッキングがチームカラーのライトブルーとなり、袖、首、パンツに“太陽”と“草原”のイメージにより考案された赤、緑のラインが入る。

    • 帽子は緑の楕円の中に手塚治虫テザインのレオマークがつき、下に白文字でLionsのロゴが刺繍される。ヘルメットは、これらのマークが直接プリントされ、さらに右側(左打者用は左側)にSEIBUのロゴが入る[注 25]

    • 背番号、胸番号の書体がゴシック体になり、パンツは腰ラインの入っていないベルトレスタイプになる。
      • ただし背番号「1」の書体については、秋山幸二のみ本人の希望で「_(セリフ)」の付いた書体が使用された[注 26]


    • スパイクはつま先、踵および紐通し部分が濃紺、それ以外は白でつま先側から青、緑、赤、のラインが各メーカーのデザインに沿った形で入る。紐は青[注 27]

      • ホーム用は、上下白で、胸ロゴ、胸番号、背番号はライトブルー。左袖にライトブルーの文字で西武百貨店のマークが入る。

      • ビジター用は、上下ライトブルーで、胸ロゴ、胸番号、背番号は白。左袖には白文字でLionsのロゴが入った(1995年まで使用されたが、イースタンでは1996年まで使用された)。



        • 1980年より、ベルト式になり、腰を一周する形のベルト通しに、ホーム、ビジター共地色と同色のベルトになる。
          • 1981年に入団した石毛宏典は、全身ブルーのビジター用をパジャマみたいで格好悪いと思ったが、チームが勝ち続ける中愛着も沸き、他チームの選手からは「ビジター用の方が強そうに見える」という感想を聞いている[91]というエピソードが存在する。



        • 1990年より、ユニフォームのボタンが、乳白色半透明から地色と同色のボタン(製造メーカーデサントのロゴが入る)になる。


        • 2001年より、ホーム用がデサント社から、ナイキ社の製造になり、左胸にナイキのスウッシュマークが入る(日本プロ野球で初めてユニフォームにブランドマークが入る)[注 28]


        • 2002年より、ホーム用がカッティング・デザインを駆使したものになる。胸のLionsのロゴが太くなって大きさが縮小され、パンツのベルトループがスタンダードなものになり、青色のベルトになる。








  • 1996年からのビジター用は、上着がライトブルーに白のラケットラインが入り、胸番号、背番号、胸ロゴに白の縁取りが入り、書体が高校野球型に、パンツが白になり、ライトブルーのラインが入る。また袖、首の赤、緑ラインが消える。同時にスパイクの色が白地にライトブルー(端部に緑と赤が付く)ラインになる。

  • 2002年からのビジター用は、ホーム用と同じくナイキの製造になり、大幅にモデルチェンジされ、ビジター用の上着の正面がグレー、脇・背中がライトブルーになり、パンツがグレーになる。胸のネームと番号は、発表時は白だったが、公式戦時にブルーへ変更された。また、札幌、長野での主催ゲーム用にサード・ユニフォームも登場した。ホーム用をアレンジしたもので、ネームと番号の縁取りが黒。番号のロゴは、ビジターと同じものを採用。ビジター用とサード用の帽子からは、緑の楕円がはずされた(ヘルメットは、ホーム用と同じ)。なお、3種類とも右袖にプライド・ロゴ(赤・緑の2色のホームベース型にLionsのロゴと日本一の回数の8個の星をあしらったもの)が入る。


  • 2004年 - 2008年 - 伊東勤監督就任を機に25年ぶりにホームのユニフォームに大幅変更。赤、緑のラインが消え、Lionsのロゴが大文字のLIONSにアンダーラインの付いたもの[注 29]となる。また、帽子の正面からLionsのロゴが消え、横にLIONSのロゴが入る。ビジター用の帽子もホーム用兼用となり、サード・ユニフォームは、廃止された。プライド・ロゴは、ビジター用のみとなる。


    • 2005年よりプライド・ロゴの星の数が9個となる(前年度日本一になったため)。


    • 2008年は所沢移転30周年記念ロゴが右胸に入る。




  • 2009年 - 2014年 - チームカラーがそれまでのライトブルーから「レジェンド・ブルー」と称する紺色に変更。また、「Lions」のロゴも一新される[注 30]ことが2009年1月1日、公式ホームページにて発表された。それに伴ってユニフォームのデザインも一新。基本デザインは西鉄ライオンズ時代のユニフォームデザインを踏襲しており、ホーム用は白地に紺の前掛けライン。左胸に「L」のイニシャルが付く。ビジター用はライトグレー地に紺の前掛けライン。胸に「Lions」の新ロゴと胸番号。ホーム用・ビジター用ともに、左袖には獅子がボールをわし掴みにするデザインの新球団ペットマークが、右袖にはLionsとほぼ同じ書体で「saitama seibu」の赤い文字が入る。また、帽子・ヘルメットもレオマークから紺地に白で「L」の一文字に変更。

  • スパイクは黒地に白のラインとなる。

    • ただし、キャップを除きこのユニフォームの使用は開幕戦からで、初年の春季キャンプ・オープン戦時は、上が新デザインを踏まえた紺のオリジナル仕様練習着、パンツおよびヘルメットは昨年までのライトブルーの時代のものを使用。


    • 2012年より県営大宮球場での試合に「大宮リミテッドキャップ」を着用。キャップは、通常の帽子デザインをさいたま市大宮区の色・オレンジを使ってアレンジしたもの。空気坑・頭頂部のボタン・つばの端をオレンジ色に。ユニフォームは変更なしで、2013年の1試合のみ3rdユニフォームの併用。


    • 2013年より新たに「Saitama」ユニフォームを3rdユニフォームとして使用することとなった。レジェンド・ブルーをベースとし、脇からわき腹にかけて白。襟から胸へ流れるラケットラインと袖口のラインは、埼玉県のカラーを意識した赤色を使用。胸に白で「Saitama」の文字と胸番号、左袖にペットマーク、右袖に埼玉県章が入っている。ユニフォームに県章を用いるのは日本プロ野球では初のこととなる[92]。なお、翌2014年も継続して使用[93]




  • 2015年 ホーム用の胸ロゴが前ビジター用の「Lions」ワードマークのみに変更された。胸番号はなし。右袖のエンブレムは左袖のペットマークと組み合わせる形で移動し、これを「プライマリーマーク」と命名。右袖には西鉄時代を含む日本一の数「13」を☆に散りばめた西鉄ブラック・先代ライオンズブルー・レジェンドブルーの3色のフラッグエンブレムに「i believe lions.」のスローガンが下部に入る「コンセプトマーク」が新たに入った。選手名・背番号ロゴは「ライオンズの力強さ」をイメージした新タイプに変更。ビジター用は前年までの3rdユニフォームに変更。これも選手名・背番号ロゴはホーム用と同じである。


  • 2016年よりユニホームがナイキ社製からマジェスティック社製になる[94]。基本的なデザインは、ホーム・ビジターともに2015年シーズンのものと同じであるが、右胸のナイキのロゴがマジェスティックのロゴとなる他、選手名・背番号の字体がヒューストン・アストロズ(2013年にアメリカン・リーグへ移動した直後の)仕様に変更される。

    • また2016年より、パンツ部分に広告が入り、西武百貨店が参加するそごう・西武のプライベートブランド「リミテッド エディション」の広告が入る[95]


    • 2017年シーズンより、ロゴが昇華プリント方式に変更された。


    • 2018年より、群馬県甘楽町に本社を置く食品会社「ヨコオデイリーフーズ」とキャップスポンサー契約を締結し、同社が運営する「こんにゃくパーク」のロゴが入ったキャップを着用する。キャップへの広告掲出は球団初の取り組みとなる[96]。また、ユニフォームの左袖には「40周年記念エンブレム」が入れられた。


    • 2019年、6年ぶりにサードユニフォームが導入。「球団創立70年を迎え、伝統と栄光、そして悲願のリーグ制覇が融合した時代(カラー)を身に纏い、新たなる戦いへと挑むユニフォーム」として、身頃はレジェンドブルーを基調に、両肩には西鉄ライオンズのブラック(右側)と西武ライオンズのブルー(左側)がグラデーションで入れられている。胸ロゴは「Seibu」の右上に小さく「Saitama」と入れられたものが白文字で入れられた。キャップとヘルメットもブラック、ブルー、レジェンドブルーの三色を取り入れたほか、ツバの右側には西鉄時代を含む日本一の回数を示す13個の星が入れられた。また、新たに『ビクトリーエンブレム「WE ARE ONE」』が導入され、2019シーズンのホームユニフォーム及びサードユニフォームの右袖に刻み込まれることになった[97]






ユニフォーム(二軍)



  • 1976年 - 基本的に前年と同じものを使用。帽子は同年の一軍と同じくTLマークを入れたものを使用。

  • 2005年 - 2006年 - 二軍の球団名がインボイスに変更され、帽子のマーク・ホーム用の西武百貨店マークがインボイス社の社章に変更。ロゴも「INVOICE」となる(書体は従来と同じ)。


  • 2007年 - 二軍の球団名がグッドウィルに変更。胸のロゴが「GoodWill」となり、ホーム用は、一軍ビジター用のグレー部分と背中を白にしたもの(背番号のロゴは一軍ホーム用と同じ)が使用され、ビジター用は、一軍のものから首のラインをはずしたものがそれぞれ使用された。帽子マークはグッドウィルの社章に変更。



期間限定ユニフォーム



  • 2007年に夏季特別企画として、7月10日から8月30日の主催ホームゲームで、特別ユニフォームと1979年から1996年まで使用されていたビジターユニフォーム(いわゆるライオンズブルー)の復刻版を使用。特別ユニフォームはフロント・わきの下の部分が水色、背中と肩の部分が白。胸ロゴの「LIONS」と背番号・胸番号は赤縁に白。背中にライオンの牙をモチーフにした赤い模様が入ったもの。

  • 2008年に交流戦限定ユニフォームを着用。肩から袖にかけての部分と脇からわき腹にかけての部分が白、それ以外の部分がライオンズブルー。右胸に所沢移転30周年記念ロゴのワッペン、肩の上には黒縁に白の☆、背番号の下に2008年のスローガン「No Limit!」をあしらったもの。

  • 2008年より「ライオンズ・クラシック」が開始され、期間中は復刻版のユニフォームを着用している。詳細は、ライオンズ・クラシックを参照。

  • 2012年、球団の親会社である西武鉄道の設立100周年を記念し、全国の小中学生からユニホームのデザイン案を募集[98]。採用案がデザインされたユニホームを、8月11日・12日の日本ハム戦と同月17日 - 19日の楽天戦で着用した[98]。その後、ファンから「もう一度、100周年記念ユニフォームで戦って欲しい」という要望が多かったため、9月25日 - 27日の楽天戦でも着用した[99]

    • 採用案のタイトルは「4000系とスマイルトレインユニフォーム」[98]。西武鉄道が保有する鉄道車両である4000系電車ならびに30000系電車「スマイルトレイン」の車体塗装をモチーフとし、スマイルトレインの帯色であるブルーとグリーンのグラデーションをベースに胸部分には「SEIBU」ロゴ(2003年までのビジター用のものと同一)をあしらい、首・袖周りには4000系電車の帯色である青・赤・緑3色のライオンズカラーが入る[98]。原案においては右袖に西武鉄道のコーポレートロゴがあしらわれていたが、同部分についてはリーグ規定により通常ユニフォームと同様「saitama seibu」ロゴが貼付される[98]

    • 8月11日についてはライト外野自由以外のすべての入場者に対してレプリカユニフォームのプレゼントが行われた[100]



  • 2013年、パリーグ6球団共同企画「レジェンド・シリーズ2013」において、1980から1990年代にかけてライオンズ黄金期にホーム用として使用したユニフォームの復刻版を着用。ただし、復刻ユニフォーム左胸には、ナイキのマークが付く。


  • 2014年、西武鉄道100年アニバーサリー企画の一環として、手塚プロダクションデザインの「ジャングル大帝ユニフォーム」を着用。球団旗やマスコットなどをデザインした漫画家の手塚治虫の代表作でもある『ジャングル大帝』をモチーフに、球団マスコットのレオが描かれている。ネイビーをベースに球団マスコットのレオが胴部と右肩にあしらわれており、右肩と背中に地平を駆けるレオ、左胸の下にはたけだけしくほえるレオがデザインされた[101]。チーム及び背番号ロゴは独自にデザインされたものとなり、選手ネームは入らない背番号のみのスタイルとなった。


  • 2015年、西武鉄道100年アニバーサリー企画の一環として、西武鉄道の車両カラーとして長く親しまれている西武イエローをメインカラーとして、西武が現在所有する2000系電車(いわゆる「黄色い電車」)をモチーフにしたユニフォームを着用。シャツや帽子のロゴ等に黄色を配した。チームロゴ・背番号などは2002年から2008年のビジター用と同一のもので、色は濃紺に白色の縁取りとなる。ちなみに、黄色のユニホームは球団史上初であった[102]


  • 2016年、西武鉄道100年アニバーサリー企画の終了に伴い、新たに「ライオンズ フェスティバルズ 2016」の開催を発表。それに伴い7月18日‐8月21日の公式戦28試合(ビジターゲーム含む)とイースタン・リーグ12試合(ホームゲームのみ)において、西武プリンスドーム周辺の木々や多摩湖・狭山湖の湖面といった大自然を表現した「エメラルドユニフォーム」を着用する。テンプレートはラケットラインがない以外はホームユニフォームとほぼ同様。この企画では西武鉄道がキャップスポンサーとなり、選手が着用するキャップには西武鉄道のコーポレートメッセージ「あれも、これも、かなう。西武鉄道」が入ったロゴが掲げられる[103]。なお、開催期間中のチーム成績が好調だったことから、9月17日‐19日の3連戦において再び使用された[104]


  • 2017年、前年に引き続き「ライオンズ フェスティバルズ 2017」を開催。それに伴い7月21日‐8月17日の公式戦24試合(ビジターゲーム含む)にて、球団歌「地平を駈ける獅子を見た」の歌詞の一節である「空青く、風白く、地は緑、炎の色の獅子を見た」に由来する、赤色の“炎獅子【えんじし】”ユニフォームを着用する[105]。このユニフォームを着用してから、球団が西武になってからは初めてで、西鉄時代の1958年以来となる13連勝を記録した[106]。結果は20勝4敗、勝率.833と好成績を残した[107]

    • 対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では、楽天側がビジターユニフォームだと見分けがつかないため、楽天がホームユニフォームを着用する。

    • 上述したとおり、好成績を残したことから8月27日、9月13日~9月21日の公式戦8試合での炎獅子ユニフォーム再着用が発表された。

    • 10月8日、4年ぶりに進出したクライマックスシリーズ(CS)に向けて、選手や監督からの要望により、CSファーストステージとファイナルステージ(進出の場合)で再々着用することが発表された(レギュラーシーズンと異なりファーストステージの対戦相手となる楽天はビジターユニフォームを着用するため同系色のユニフォームでの対決となる)。限定ユニフォームでCSを戦うのはクライマックスシリーズ創設以来初めてのこととなる。




  • 2018年、「ライオンズ フェスティバルズ 2018」の開催に伴い、7月20日-8月16日の公式戦21試合(ビジターゲーム含む)にて、2016年から続く「ライオンズ フェスティバルズユニフォーム」三部作の集大成として、球団歌「地平を駈ける獅子を見た」の歌詞"空青く、風白く"に由来する、ブルーを基調とし、白き風と無数のチャンピオンフラッグがデザインされた「獅子風流≪ししぶる≫ユニフォーム」を着用する[108]



ユニフォームのスポンサー







  • ヘルメット - JOMO ジャパンエナジー(2001年 - 2003年)→ピザーラ(2004年 - 2007年)→バイトルドットコム(2008年 - 2010年)→カナディアン・ソーラー(2011年 - 2012年・オールスター戦前)→ベルーナ(2015年 - )

  • ユニフォーム左胸 - ナイキ(ホーム用2001年 - 2015年、ビジター用2002年 - 2015年)→マジェスティック(2016年 - )

  • パンツ左腰 - コラントッテ[リンク切れ](2010年 - 2011年)→そごう・西武(2016年 - 、2017年まではブランド「リミテッド エディション」表記)



主な歴代の球団歌・応援歌



  • 球団歌
    • 「地平を駈ける獅子を見た」(作詞:阿久悠/作曲:小林亜星/歌:松崎しげる/1979年発表)


  • 応援歌

    • 「若き獅子たち〜ウィー・アー・ザ・ライオンズ」(作詞:門谷憲二/作曲:伊藤薫/歌:ブルー・メガホンズ/1986年発表)

    • 「吠えろライオンズ」(作詞・作曲:石川優子/歌:成田洋明、ライオンズ応援合唱団/1996年発表)




「地平を駈ける獅子を見た」と同時期に発表された(同曲シングルレコード盤のB面に収録)応援歌「LET'S GO LIONS」(作曲・編曲:長戸大幸)もあるが、現在演奏される機会は少なくなっている[注 31]


なお、ホームラン編集部制作の「12球団全選手カラー百科名鑑」(日本スポーツ出版社→廣済堂出版→廣済堂あかつき)では、各球団を紹介する際に球団歌を掲載するのが基本であるが、西武に関しては応援歌である「吠えろライオンズ」の方を掲載している。


また文化放送が「文化放送ライオンズナイター」用の挿入歌としてばんばひろふみ・梶原しげる(当時同局アナウンサー)が歌う「Vのシナリオ〜吼えろライオンズ」という楽曲が1985年ごろに発表されているが、現応援歌の「吠えろライオンズ」とは同名異曲である。


  • 福岡時代の主な球団歌

    • 「西鉄ライオンズの歌」(1951年発表。1958年の主力選手=稲尾和久、豊田泰光らが歌った音源も存在する)

    • 「君こそライオンズ」(1974年発表。西郷輝彦 太平洋→クラウン時代。今陽子が歌った未発売音源も存在する)

    • 「惚れたぜライオンズ」(1975年発表。中村基樹=当時RKB毎日放送アナウンサー 太平洋時代)

    • 「ぼくらの憧れライオンズ」(子門真人・少年ライオンズ 太平洋時代。シングルレコード盤「惚れたぜライオンズ」のB面に収録)




主なキャンプ地




  • 宮崎県日南市南郷中央公園野球場(春季-A班、秋季)


  • 西武第二球場(B班)


  • 高知県立春野運動公園野球場(B班、2003年まではA班も)



過去




  • 長崎県島原市営球場(福岡時代)


  • アメリカ合衆国フロリダ州ブレイデントン[注 32](1979年のみ)

  • アメリカ合衆国ハワイ州マウイ島(1990年代前半)



1982年以降のチームスローガン



広岡監督時代


  • 1982年:新風

  • 1983年:闘球

  • 1984年:鋭球

  • 1985年:爽球


森監督時代


  • 1986年:飛躍

  • 1987年:前進

  • 1988年:鍛える

  • 1989年:魅せる

  • 1990年:燃えて

  • 1991年:雄々しく

  • 1992年:初心

  • 1993年:新たに

  • 1994年:チャレンジ


東尾監督時代


  • 1995年:感動のドラマがある

  • 1996年:熱く、激しい感動。

  • 1997年:Hit!Foot!Get!

  • 1998年:夢へHit!Foot!Get!

  • 1999年:栄光へ、Hit!Foot!Get!

  • 2000年:Hit!Foot!Get! More Runs! 果敢に攻め、もっと得点を。

  • 2001年:Hit!Foot!Get!栄光への挑戦


第1次伊原監督時代


  • 2002年:全力 To The Best

  • 2003年:栄光へ全力!


伊東監督時代


  • 2004年:'04挑戦はじまる。

  • 2005年:'05挑戦ふたたび。

  • 2006年:'06挑戦あるのみ。

  • 2007年:心を、ひとつに。力を、ひとつに。


渡辺監督時代


  • 2008年:No Limit!2008

  • 2009年:No Limit!2009

  • 2010年:No Limit!2010 逆襲の獅子

  • 2011年:No Limit!2011 勝利への執念

  • 2012年:出しきれ!ライオンズ - このスローガンは、「朝日ニュースター」の野球中継のタイトルにも使用されている。

  • 2013年:骨太!ライオンズ イズム 2013


第2次伊原監督時代

  • 2014年 : 全力! ライオンズ 攻めも、守りも、応援も。

田邊監督時代


  • 2015年 : ガチ!マジ! ガチで戦う、マジで熱く。それがライオンズだ!

  • 2016年 : BEAST! 強く、猛々しく。


辻監督時代


  • 2017年 : CATCH the ALL つかみ獲れ! - シーズン終盤は「つかみ獲れ!」を「栄光をつかみ獲れ!」に変更。

  • 2018年 : CATCH the FLAG 2018 栄光をつかみ獲れ!

  • 2019年 : CATCH the GLORY 新時代、熱狂しろ!




マスコット


ライオンズのマスコットキャラクターは、埼玉移転後に制定された以下の2体である。どちらもデザインは手塚治虫が手掛けた。詳しくは当該項目を参照されたい。



  • レオ

  • ライナ


なお、太平洋・クラウン時代は黄色い顔のライオンをペットマークに使用[注 33]。また、西鉄時代もライオンをデザインしたペットマークを使用。当時のジャンパーの胸部にワッペンが張り付けられていた。



お台場ドーム構想






ドーム化前の西武球場は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなるケースもあった。そのため本拠地を所沢から都心である東京の台場に移転してドーム球場を建設しようという案が浮上した。しかし、当時既に東京都を保護地域とする球団が3球団[注 34]もあり、全ての球団の承諾を得る必要があったことや移転に対する地元所沢近辺のファンの猛反発、多額の建設費用の捻出、グループ企業の西武鉄道からの利用客減少への懸念の意見が出たため困難となり、結局は西武球場に屋根をかけドーム化させた。



福岡時代の歴史の取り扱い


西武による買収以降、当時の堤義明オーナーが「西鉄とわれわれは別の球団」と宣言した[109]ことに現れるように、2007年までは福岡時代の歴史を極力消す傾向にあった。


球団の公式記録は全て埼玉移転後の記録のみが扱われて発表され、1950年の球団創立以来の通算記録は全く回顧されなかった[注 35]。また、福岡時代に在籍したが、埼玉移転の前に退団して西武ライオンズへの在籍経験がない選手などは球団のOBとして認められず、顕彰や始球式などは基本的に行われなかった[注 36]。このような扱いに対して福岡時代のファンの反発も強かった。


しかし、2005年に堤オーナーが西武鉄道株をめぐる証券取引法違反で失脚し、2007年に後藤高志オーナーが就任すると球団の歴史に対する扱いが変わることとなる[109]。2008年は西武球団創設(埼玉移転)30周年(30シーズン目)と西日本鉄道創業100周年が重なることから、6月から8月の試合で西鉄時代のユニフォームを着用し、連動して西鉄→太平洋→クラウンまでの福岡時代の歴史を回顧する「ライオンズ・クラシック」企画が豊田泰光による監修の下で展開された。西鉄時代のユニフォームは基本的に実施期間内の西武ドームでの主催試合で着用したが、西鉄時代の本拠地だった福岡(現在の福岡ソフトバンクホークス本拠地である福岡Yahoo! JAPANドーム)でも2試合着用した。これは2009年以降も行われていることがある。


これを契機に公式ウェブサイト内年表において、西鉄クリッパース結成を起点とする福岡時代の記述が追加され、同年から掲載されるようになった、企業概要情報(公式サイトでは「球団概要」)のうち、創立年月日については「1978年10月25日」と記述されたが[110]、2009年1月の更新で「1950年1月28日 西鉄野球株式会社として登記」「1978年10月25日福岡野球株式会社より株式会社西武ライオンズに商号変更」と記述されるようになった。さらに、2012年には西鉄時代の選手である稲尾和久の「24番」が、同人の生誕75周年を期して西武球団初の永久欠番に指定された[28]


一方の西鉄側でも、身売り以降ライオンズの歴史はタブー視されてきたが[109]、西鉄100周年を機に再度表舞台へと現れることとなった[111]。2011年には両社の系列である西鉄高速バスと西武観光バスの共同運行で、西鉄・西武それぞれのライオンズのロゴマークをデザインした車両により[112]Lions Expressが運行を開始し(2015年5月に運行廃止)[113]、西鉄公式ホームページでも「にしてつwebミュージアム」で過去の電車やバスの画像と共に西鉄ライオンズを紹介している[114]



応援スタイル







ビクトリーフラッグと呼ばれる小旗が応援に使われる。使われるのはスターティングメンバー発表時、得点時、5回表攻撃前など。得点時には球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」のBメロ - サビが演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。演奏終了後他球団と同様に万歳三唱するが、その後「ワッショイ」×3、「1・2・3・ダー」と続く(1992年開始以来変更無し)。5回の攻撃前に球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」が1コーラス演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。交流戦では「白いボールのファンタジー」が代わりに演奏される。応援のリードにバスドラムが用いられる。トランペットの使用が禁止されている宮城球場では攻撃開始前及び出塁時のファンファーレの代わりに「埼玉!西武!Let's Go Let's Go ライオンズ」の掛け声が使われる。


主催試合ではオルガンの演奏が流れる。チャンステーマ1やチャンステーマ3は前奏があるため、そのオルガンに先行されて開始することがある。勝利時には福岡時代からの名残で「炭坑節」が演奏される。


2013年までは「かっ飛ばせー○○」の後に「Go!Go! Let's Go ○○」と続けていた。ただし中村剛也の打席のときは、中村が本塁打を打った後は「おかわりおかわりもう一杯」になる。


2004年までは関東での試合、関西での試合、九州での試合でそれぞれ応援歌が異なっている選手が居た。その後、2005年から2006年にかけて発表された新曲に全員統一されたとの発表があったが、その後も福岡及び関西では異なる応援歌を打者一巡目や統一応援歌との交互応援など、地方では独自の応援がなされている。福岡及び関西での応援歌は基本的に、黄金期の選手の応援歌を一部歌詞変更の上で流用、または、1990年代から2000年代にかけて作曲された地方専用応援歌を使用している。


1990年と2005年にほとんどの選手の応援歌の変更がなされている(1990年の変更は関東地区のみで九州では従前の応援歌のまま)。しかし、チャンスの打席になると、その選手の変更前の応援歌や以前同じ背番号をつけていた選手の応援歌などが演奏されることもある。西武ドームで細川亨がチャンスで打席に立ったとき、伊東勤元監督の選手時代の応援歌が演奏されたこともあった。チャンステーマとしては背番号7の選手(2008年から2013年までは片岡易之、2014年から2015年までは脇谷亮太)及び中島裕之の打席で石毛宏典の応援歌、外国人選手の打席でアレックス・カブレラの応援歌やホセ・フェルナンデスの応援歌が使用されている。2005年に選手の応援歌の一斉変更がなされる前は新しい応援歌がほとんどといっていいほど作られず、過去の選手の流用ばかりであった。投手の応援歌だったものを野手用に使う例も見られた(小関竜也や佐藤友亮など)。実際に2005年の応援歌変更の対象とならなかったアレックス・カブレラの応援歌はマイク・パグリアルーロ以降、ダリン・ジャクソン、ドミンゴ・マルティネスなど歴代の外国人選手に使用されていた曲(歌詞も名前部分以外そのまま)、和田一浩の応援歌は仲田秀司の曲の流用(歌詞は異なる)である。


7回の攻撃前には応援歌の「吠えろライオンズ」が演奏される。従前の応援歌であった「若き獅子たち」も相手投手交代の際などに使用される。ライオンズクラシック2010の期間中は太平洋クラブライオンズ時代の応援歌であった「僕らの憧れライオンズ」が演奏される。ライオンズクラシック2011の期間中は西鉄ライオンズ時代の応援歌であった「西鉄ライオンズの歌」が演奏される。


アウトテーマ2013年までは使用されていたが、2014年からは廃止となった。


7回攻撃前(ラッキー7)と勝利時にジェット風船を飛ばす。かつてはラッキー7では青色、勝利時は白色と色を変えていたが、現在は青で統一されている。また、ライオンズクラシック2010の期間中はユニフォームの赤色に合わせて赤色の風船を飛ばす。


汎用の代打テーマは一応存在するが、専用の応援歌が無い野手は新人選手など数人しかいないうえ、近年は専用の応援歌のない選手が1軍の試合で活躍するとシーズン中でもすぐに専用応援歌が作成される傾向にあるため、滅多に演奏されない。2005年の変更の際には代打テーマも新規作成されたが翌2006年入団の炭谷銀仁朗以外に使われることがなく、2006年交流戦頃にそのまま炭谷の応援歌となった。それ以降2009年までは暫定的に一斉変更前の代打テーマを使用していたが、2010年から新しい代打テーマが作成された。しかし、選手名が5文字以上の選手など、選手によっては新しい代打テーマを歌いづらい選手もいるため、それらの選手に対しては一斉変更前の代打テーマが使用されている。



不祥事



黒い霧事件



1969年から1971年にかけて起きた八百長事件で、主力だった池永正明などが関与して池永は永久追放処分を受けた(後に解除)。詳細については上記を参照とのこと。



2007年裏金問題


2007年3月9日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が会見を行ない、倫理行動宣言で行わないことを決めていたアマチュア2選手(東京ガスの投手木村優太[注 37]と大学生1人)に対するスカウト行動で、現金1300万円近くを2人に対して渡していたことがわかった。2004年春ごろから2005年秋ごろにかけて、スカウトが2人の選手に対し一定額の現金を提供していたことがわかった。社内調査委員会によるその後の調査で、別の5人のアマチュア選手に「契約金の前渡し」名目で計6000万円余り(つまり裏金を受け取っていたのは全部で7人)、さらにはアマチュアチーム(高校・大学・社会人)の監督延べ170人にも選手入団の謝礼として現金が渡されていた事、しかも現金供与はオーナー企業が西武グループとなった1978年から既に行われていたことが判明した。


この裏金行為は太田が2006年8月に前社長から伝え聞いたものの、内部調査を経たため正式発表は2007年3月となった。


2007年3月24日、チームのシーズン開幕戦(楽天戦)に当たり、太田は試合前のセレモニーに先だって謝罪し、「ファンに親しまれるチーム作りを目指します」とコメントした。


日本プロフェッショナル野球組織は5月29日、球団に対し制裁金3000万円または同額分の用品を機構の指定する育成団体に寄付させること、および秋の高校生ドラフトでの指名は3巡目からとすることを処分として決定した。また事件発覚当時に楽天でスカウト部長を務めていた事件当時のスカウト部長が、楽天から減給、解任・編成部付となる処分を受けた。


スカウトによる不正の教訓から、ファンに親しまれるチーム作りを目指す姿勢と責任ある行動を誓って8月26日に「西武ライオンズ憲章」を制定した。



グッズショップ


本拠地である西武プリンスドーム以外に、埼玉県および西武鉄道沿線にオフィシャルグッズショップ「ライオンズストア」を展開している。グッズ販売のほか、ファンクラブ入会やチケット購入、各種優待チケット引換が可能。ただし、フラッグスは西武ドームに隣接して所在するため、チケット販売・引換は行っていない。



  • ライオンズストア フラッグス(埼玉県所沢市、西武ドーム隣接の球団事務所1階・ミュージアム併設)


  • 大宮アルシェ(埼玉県さいたま市大宮区)


  • 所沢ステーション(埼玉県所沢市、グランエミオ所沢2階)


  • 本川越ステーション(埼玉県川越市、駅構内)


  • 西武池袋本店(東京都豊島区、西武池袋駅直結・8階)


このうち、本川越と移転前の所沢は「西武観光」の跡地であるが、西武観光でもライオンズ戦のチケットを扱っていた。



ファンサービス



ファンクラブ


球団公式ファングラブがあり、ハイグレード・レギュラーA・レギュラーB・ジュニアの4コースがある。西武プリンスドームの飲食売店やグッズショップでLポイントを貯めることができる。グッズショップや西武鉄道の主要駅で入会申し込みができる。



アニメとのコラボレーション


親会社である西武鉄道沿線にアニメ制作会社が多数存在することから、西武鉄道と同様にアニメとのコラボレーションイベントが増えている。


コラボレーションの内容としては、コラボしたアニメの主要キャラクターを担当した声優が来場し、始球式及びに場内アナウンスを行ったり、ライオンズとコラボしたグッズを販売するなど多岐に渡る。コラボしたアニメ作品の多くは埼玉県を舞台にした作品だが、近年は『ダイヤのA』や『ドラゴンボール超』のように埼玉県が舞台ではないアニメ作品とのコラボも実施している。


2018年4月からは、本拠地・所沢にところざわサクラタウン(アニメや漫画などといったクールジャパンを発信する文化複合施設)を計画している出版大手KADOKAWAとコラボしたフリーマガジンを発行する。



主なコラボ作品


太字は、埼玉県を舞台とした作品。


括弧内は、その作品を制作したアニメ制作会社。




  • あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(A-1 Pictures)


  • ドラえもん(シンエイ動画)


  • クレヨンしんちゃん(シンエイ動画)


  • 心が叫びたがってるんだ。(A-1 Pictures)


  • ダイヤのA(MADHOUSE、Prodaction I.G)


  • ドラゴンボール超(東映アニメーション)


  • らき☆すた(京都アニメーション)


  • ヤマノススメ(エイトビット)


  • アイドルマスターシリーズ(A-1 Pictures)


  • 名探偵コナン(トムス・エンタテインメント)


  • 月がきれい(feel.)


  • ALL OUT!!(トムス・エンタテインメント、MADHOUSE)


  • メジャーセカンド(オー・エル・エム)


  • BanG Dream!(ISSEN、XEBEC)


  • アニマエール!(動画工房)



放送


  • 地上波テレビ(関東キー局)およびBSの放映権(2017年の放映実績)


    • スーパーベースボール(テレビ朝日・BS朝日)- BS朝日は対巨人戦は地上波と同様に自社制作で、それ以外のカードは球団制作(実況・解説はCS向けとは別にキャスティング)で放送した。


    • SAMURAI BASEBALL(TBSテレビ・BS-TBS)


    • 野球道(フジテレビ・BSフジ)


    • ベースボールLive(テレビ東京・BSジャパン)


    • NHKプロ野球(NHK総合テレビ・BS1・ラジオ第1)


    • BS12 プロ野球中継(BS TwellV)- 球団制作中継を放送。


    ※テレビ東京(地上波)は1979年の所沢移転から1980年代中ごろまで中継を実施し、その後は中継を実施していなかったが2006年に1試合のみ放送した(同年9月18日の対戦相手はソフトバンクだったが、その対戦相手の地元では同系列のTVQでは無くTBS系列のRKBが別途乗り込んだ)。ただし、試合毎の個別契約のため、日本テレビを含めた地上波5局のビジター側地元系列局やテレビ東京系列のBSジャパンでは年度により西武主催の試合を中継することがある。



現在放送しているライオンズの冠番組


試合中継


  • ラジオ


    • 文化放送ライオンズナイター(文化放送)- 平日(シーズンオフ含む)のラジオ放送


    • NACK5 SATURDAY&SUNDAY LIONS(NACK5)- 日曜日のラジオ放送。土曜日はホームゲームのナイターのみ放送。
      ※ライオンズのラジオによる実況中継放送は、関東広域圏・埼玉県を放送対象地域としている、文化放送・NACK5の2局を合計して、4月から9月までの大半の試合が放送されている。ラジオ放送のない土曜・祝日のデーゲームも、一部のカードを除いて文化放送が公式サイトでWeb配信を実施している。




  • テレビ


    • TVSライオンズアワー(テレビ埼玉)- 映像は球団制作の物をベースに使用し、実況は独自。


    • LIONS BASEBALL L!VE(フジテレビTWO)




応援番組



  • LIONS CHANNEL(テレビ埼玉)


  • LTV〜ライオンズ徹底応援宣言!〜(J:COMチャンネル|埼玉、東京、群馬の一部地域) 旧:埼玉西武ライオンズTV



かつて放送されていた番組




  • レッツゴー!ライオンズ(TBSテレビ)


  • はつらつライオンズ(テレビ埼玉)


  • プロ野球熱闘ライオンズ(BS朝日)


  • プロ野球まるごと中継 熱闘!BS11ナイター(BS11デジタル)


  • J SPORTS STADIUM(J SPORTS)


  • プロ野球完全中継 ○○!ライオンズ(テレ朝チャンネル2[注 38])- 球団制作で放送。



福岡時代の番組


テレビ



  • プロ野球ナイター(山口放送)[注 39]


  • がんばれ太平洋ライオンズ(福岡放送)


ラジオ



  • RKBエキサイトナイター(RKB毎日放送)


  • KBCジャンボナイター(九州朝日放送)



関連書籍



  • 『南海ホークス四十年史』 南海ホークス 編、南海ホークス、1978年

  • 宇佐美徹也 『日本プロ野球記録大鑑』 講談社、1993年。ISBN 4062061082。

  • 『ライオンズ60年史―獅子の記憶―「西鉄」から「埼玉西武」まで』 南海ホークス 編、ベースボール・マガジン社〈B.B MOOK 672 スポーツシリーズ NO.544〉、2010年。ISBN 9784583616858。



脚注


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注釈





  1. ^ かつては「インボイス」、「グッドウィル」と言う二軍独自の球団名が使われたことがあった。


  2. ^ 戦後の大洋ホエールズとは無関係。


  3. ^ 戦後のライオンズとは後述の事情もあり、球団としての系譜のつながりはない。


  4. ^ 設立日については『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』では28日、「プロ野球12球団全選手百科名鑑」シリーズ(2000年代途中頃までの発行分)では29日となっている。


  5. ^ 西日本新聞の体面を考え「吸収合併」ではなく「球団合併」だったが、事実上の吸収合併であった。


  6. ^ チーム名は西日本新聞紙で募集し、1週間で53,000通の応募があったとされる。


  7. ^ 1敗を挟んで、18連勝と9連勝。


  8. ^ 達成当時はヴィクトル・スタルヒンの40勝がシーズン最多勝とされ、稲尾が新記録とされていた。


  9. ^ 池永の他には与田順欣、益田昭雄、村上公康、船田和英、基満男。


  10. ^ 池永は2005年に復権。


  11. ^ 船田と村上はシーズン活動停止処分、基は厳重注意。


  12. ^ 2013年、434本のアンドリュー・ジョーンズが来るまで、日本プロ野球に来るまでのメジャーリーグ最多本塁打記録。


  13. ^ クラウンガスライターは6月に関東クラウン工業、廣済堂印刷と合併し廣済堂クラウンに社名変更した。


  14. ^ この時競合したのは、近鉄、南海、日本ハム、阪神、中日。


  15. ^ この当時の巨人の主力選手の一人であった原辰徳は、「苦手を通り越してコンプレックス。トラウマ的なものさえ感じる」と、巨人監督として迎えた2002年の日本シリーズ直前の合宿地で印象を述べている。『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.86


  16. ^ この年以後、同一チームの日本シリーズの連覇は2014年-2015年に福岡ソフトバンクホークスが達成するまで23年間なかった。また、この年はゴールデングラブ9部門中、西武は8部門を独占。


  17. ^ 同年、一時期は2位であってもマジックが点灯していたことがある。これは西武の残り試合数が日本ハムの残り試合数よりも多かったことによるもので、一時期は3位転落でもマジックが点灯していたことがある。現時点では3位球団におけるマジック点灯は同年の西武しか前例がない。


  18. ^ 西武だけでなく、日本ハム以外のパ・リーグ各球団が主催する札幌ドームでの試合は2004年以降行われず、2009年の巨人主催を最後にセ・リーグ球団各球団が主催する札幌ドームでの試合は行われていない。


  19. ^ 日本ハム以外のパ・リーグ球団の東京ドームでの主催試合に関しては、西武は2007年にオリックス、2012年にソフトバンク、2014年に楽天の主催試合の対戦相手として行ったことがある。また交流戦では巨人主催試合での対戦相手として行われている。


  20. ^ 球団はロッテなどのように、平日のデーゲームでの検討も行ったが、照明なしでのプレーは白球が見えづらく、西武ドームでは困難と判断した。


  21. ^ 4月中は、4月12日からの開幕2連戦を西武ドームから日本ハム本拠地の札幌ドームに変更し、ホームゲームは滋賀県の皇子山球場の2試合(うち1試合は雨天中止)のみ行われた。


  22. ^ したがって、同年は雨天による中止試合があった。


  23. ^ パ・リーグでは地方球場での主催試合開催で観客動員数を高める営業戦略を採るチームが多く、西武の方針は異例だった。参照:千葉ロッテマリーンズ主催試合の地方球場一覧


  24. ^ 1980年代から1990年代の一時期、子供のレオ(レオの子供のルネとも解釈可)の着ぐるみが登場したこともあった。


  25. ^ 「ライオンズ・クラシック」等の復刻企画では広告ステッカー貼付の都合上この仕様通りに再現されない場合がある。


  26. ^ 24番から変更した当初は「_」のないユニフォームを着用していた。「_」付いた時期は不明。その後秋山との交換でダイエーから加入した佐々木誠も、当初は「_」の付いた書体のユニフォームを着用したが、オープン戦途中で「_」のない物に変更された。一方、秋山はダイエー移籍当初「_」がなかったが、その後「_」のついた物に変更された。


  27. ^ 紐部がマジックテープ留めとなる場合はそれも濃紺となる。


  28. ^ このマークは広告扱いのため、交流戦ビジターゲームで着用するユニフォームには入らない。


  29. ^ この当時のロゴが2017年まで西武球場前駅のプラットホーム上に残されていた。


  30. ^ このロゴを「ワードマーク」と命名。


  31. ^ テレビ埼玉ではTBSテレビ・TBSビジョンとの提携関係にあったとき(1990年代初めまで)に、TVSライオンズアワーの中継において、この楽曲を中継のエンディングテーマソングとして使ったことがある。


  32. ^ 当時の報道では「ブラデントン」という表記が一般的であった。


  33. ^ 太平洋からクラウンに球団名が変更された後も、同じデザインのキャラクター(帽子のマークを変えて)を使用。


  34. ^ 読売ジャイアンツ、ヤクルトスワローズ、日本ハムファイターズの3球団であった。現在は日本ハムが札幌に移転したため、東京都を保護地域とする球団は現在ではセ・リーグのみの2球団である。


  35. ^ 例として、ファンブックなどで国土計画の旧クラウン球団買収を「ライオンズ球団の誕生」と記述していたため、「福岡時代からライオンズを名乗る球団が存在したのに、新たに創設されたかのような記述はおかしい」と指摘され、この記述については「西武ライオンズ球団の誕生」と改めた。また、1986年のパ・リーグ優勝の際に発売された西武鉄道の優勝記念乗車券では「西武ライオンズは1986年度パ・リーグ公式戦優勝。4度目の制覇を達成することができました。皆さまのご声援ありがとうございました。」を全文とする感謝の意を示し、西鉄が達成した5度のリーグ優勝には触れなかった。ただし、マスメディアでは「西武として◎度目の優勝、球団創立からは(「西鉄時代を含めると」という表現などもあり)△度目の優勝」という報道がなされた。


  36. ^ 1962年限りで国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)へ移籍し、監督・コーチとしての西武在籍経験もない豊田泰光は上記に該当する元選手の一人であり、ラジオ中継で西武贔屓の解説を続けながらも、現在の西武球団から自分の存在価値を認められない元選手は行き場や精神的故郷がないという球団批判を行っていた。なお、豊田は2016年8月14日に誤嚥(ごえん)性肺炎のため、81歳で死去した。


  37. ^ その後、2008年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズからドラフト1位で指名され、入団。


  38. ^ 旧・朝日ニュースター。


  39. ^ 1965年-1968年。本来福岡県をカバーする日テレ系だったテレビ西日本がフジ系に転嫁したことにより、関門放送局(下関市)を通して主に北九州都市圏を中心に視聴できたKRYが補完制作を行っていた




出典




  1. ^ abc官報号外第133号 2018年6月20日 12頁


  2. ^ [1]


  3. ^ [2][リンク切れ]


  4. ^ ここまでの出典は特記以外は立石泰則 『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』 文藝春秋社、1999年、132 - 148頁。ISBN 416355100X。


  5. ^ この年の記述の出典は特記無い場合、宇佐美徹也 1993, p. 135と、ホークス四十年史 1978, pp. 145 - 149。


  6. ^ この年の記述の出典は特記無い場合、ホークス四十年史 1978, pp. 150 - 154。


  7. ^ この年の記述の出典は特記無い場合宇佐美徹也 1993, p. 135と、ホークス四十年史 1978, pp. 155 - 159。


  8. ^ この年の記述の出典は特記無い場合、ホークス四十年史 1978, pp. 160 - 163。


  9. ^ 宇佐美徹也 1993, p. 135.


  10. ^ この年の記述の出典は特記無い場合、ホークス四十年史 1978, pp. 163 - 166と、宇佐美徹也 1993, p. 135。

  11. ^ abcdeこの年の記述の出典は特記無い場合、ライオンズ60年史 2010, pp. 36 - 37。

  12. ^ ab『ベースボールマガジン』、ベースボール・マガジン社、2013年11月、 60 - 63頁。

  13. ^ abcdこの年の記述の出典は特記無い場合、ライオンズ60年史 2010, p. 44。

  14. ^ abcdeこの年の記述の出典は特記無い場合、ライオンズ60年史 2010, p. 45。


  15. ^ 当時の西鉄は軌道線(路面電車)である西鉄福岡市内線の収支が悪化し、その廃止とバス転換(同時に福岡市交通局が地下鉄を建設)という、本業の輸送部門での事業再編が迫っていた。福岡市内線は1973年に一部、1979年に全線が廃止された。

  16. ^ abcdefこの年の記述の出典は特記無い場合、ライオンズ60年史 2010, p. 50。


  17. ^ 稲尾和久 『神様、仏様、稲尾様 私の履歴書』 日本経済新聞出版社、2002年、228頁。ISBN 4532164117。


  18. ^ “【12月17日】1975年(昭50) えっ「五分五分」なのに発表!ライオンズ、幻のドローチャー監督”. スポーツニッポン新聞社 (2008年12月11日). 2008年12月18日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年10月24日閲覧。


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  20. ^ “常勝西武”をもう一度…強かったレオの黄金時代を振り返る - ベースボールキング、2016年2月25日


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関連項目







  • 埼玉西武ライオンズ主催試合の地方球場一覧


  • ライオンズ・クラシック - 球団の歴史を振り返るために行うイベント


  • BLUE LEGENDS(チアリーディングチーム)


  • Lism -埼玉西武ライオンズの季刊情報誌。


  • LIONS MAGAZINE - 西武鉄道の駅等で無料配布されている埼玉西武ライオンズのフリーペーパー。


  • ときめきドットコム - かつて株式会社西武ライオンズが運営委託していた、ライオンズグッズのインターネット物販会社


  • 狭山不動尊 - 西武ドームに近くの毎年開幕前に必勝祈願を行う寺


  • Lions Express - 現在の本拠地・所沢と前身球団の本拠地・福岡を結ぶことにちなんで名付けられ、西武観光バスと西鉄高速バスが共同運行していた高速バス路線。


  • UDトラックス(旧・日産ディーゼル工業) - ライオンズの後援企業であった。この関係で西武バスでも一時期は日産ディーゼル車のみを導入していた。また、西武バス車内に掲示されていた、大宮発着のライオンズ応援バスの広告下部には日産ディーゼル製バスの広告が入っていた。


  • 埼玉ブロンコス - 所沢市を本拠地とするプロバスケットボールチーム。埼玉西武ライオンズと始球式などコラボレーション企画を展開する他、親会社西武鉄道も2010年よりオフィシャルスポンサーに就いている。


  • 埼玉武蔵ヒートベアーズ - 埼玉県熊谷市を本拠地とするBCリーグに所属するプロ野球チーム。


  • プライドドリームス埼玉 - 埼玉県内のプロスポーツチームで結成された組織。


  • 翼軍(東京セネタース) - 旧・西武鉄道が戦前に杉並区上井草を本拠地に設立したプロ野球創成期のチームの一つ。親会社が同じという縁で「ライオンズ・クラシック2013」のメインに採用される。ちなみにセネタースは、ライオンをペットマークに使用していた。

  • 西鉄ライオンズ研究会



外部リンク



  • 公式ウェブサイト


  • 埼玉西武ライオンズ (@lions_official) - Twitter


  • 西武ライオンズ - Facebook


  • 埼玉西武ライオンズ - 公式YouTubeチャンネル


  • 埼玉西武ライオンズ - Ustream






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