文化





文化(ぶんか、ラテン語: cultura)にはいくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。




  • ハイカルチャーのように洗練されたもの

  • 象徴的な思考や学習による信念やふるまいのパターン

  • ある社会組織に共有されている価値観


なお、日本語の「文化」という語は坪内逍遥によるものとされている[1]




目次






  • 1 文化の定義


    • 1.1 概説


      • 1.1.1 古典的・日常的な文化


      • 1.1.2 人類学的文化


      • 1.1.3 社会学的文化


      • 1.1.4 考古学的文化




    • 1.2 文化を担う集団


    • 1.3 動物の文化




  • 2 文化の発祥と伝播・変容


  • 3 文化にまつわる議論


    • 3.1 単一発展史観


    • 3.2 環境に対する適応としての文化


    • 3.3 文化についての語り


      • 3.3.1 誰の文化なのか


      • 3.3.2 文化の権利




    • 3.4 カルチュラル・スタディーズ


      • 3.4.1 未開文化の消滅


      • 3.4.2 混血文化としての観光




    • 3.5 多文化主義と文化隔離主義


    • 3.6 文化資本と社会構造




  • 4 ミーム


  • 5 脚注


  • 6 参考文献


  • 7 関連項目


  • 8 外部リンク





文化の定義



概説



古典的・日常的な文化


ラテン語 colere(耕す)から派生したドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕す」、「培養する」、「洗練したものにする」、「教化する」といった意味合いを持つ。18世紀後半に、産業化をひたさま技術革新、生産性の向上、社会の官僚化といった人間の外部に相当するものとしての文明と対比される、人間の精神面での向上を示す言葉として位置づけるものとしての文化という意味で議論を展開したのがマシュー・アーノルドである[2]。この定義では文化は教養と言い換えることもできる。英語やフランス語は、日本語・中国語・ドイツ語とは異なり、「文化」と区別される「教養」という語を持っていないので、その間の区分が明示的でない。



人類学的文化


人類学においては、人間と自然や動物の差異を説明するための概念が文化である[3]



こうした定義の最初のものはイギリスの人類学者エドワード・バーネット・タイラー (1871) の、


広く民族学で使われる文化、あるいは文明の定義とは、知識、信仰、芸術、道徳、法律、慣行、その他、人が社会の成員として獲得した能力や習慣を含むところの複合された総体のことである
— エドワード・バーネット・タイラー、Primitive culture[4]

である。この文に続く進化主義的な議論は批判されているが、タイラーの定義は今でも基本的には正当性が認められている[5]


この定義は動物に社会が存在しないことが自明とされていた時代の定義であり、後に野生動物も社会を形成することが認められるようになると、新たな制約が加えられた。動物が使うことがない言語によって特徴づけるようになったのである。この場合、動物の音声コミュニケーションとは異なる特徴である再帰性や象徴性が強調された。レヴィ=ストロースによれば、言語は文化の条件であるという[6]。つまり文化は、それが非言語的なものであっても言語的な性質を備えている象徴的な事象と定義するもので、構造主義文化人類学者によく使われる[7][8]



社会学的文化


出発点が近代社会とは異なる世界を記述するための概念であった人類学的文化は、やがて近代社会を理解するための学問である社会学にも取り込まれるようになった。社会学における文化の定義は人類学から大きく影響を受けているが、例えばパーソンズは「ひとつの社会システムは、二つかそれ以上の諸社会の社会構造や成員や文化、あるいはそうした諸社会の構造、成員、文化のそのいずれかとかかわりあうことができる」として、一つの社会における多文化的な状況を記述可能にするために、社会システムと並立して正統性を担保するものとしての文化システムを定義づけた[9]。シンボリック相互作用論者、なかでもタモツ・シブタニは、ある特定の集団ないしは社会的世界において、人々に共有されているパースペクティブ(認識枠組)を指すものとして文化を扱い、同じく、一つの社会における多文化的な状況(文化の多元的共在)の説明に有用な概念として捉えている[10]。ハーバーマスは文化 (Kultur) を「文化とは知のストックのことであり、コミュニケーションの参加者達は世界におけるあるものについての了解しあうさいに、この知のストックから解釈を手に入れる」としている[11]。このように行為、あるいはコミュニケーションに利用されるストックというアイデアは、ルーマンのゼマンティーク (Semantik)、フーコーのアーシーブ(Archive) などとも関連性が深い[12]


文化人類学者のクリフォード・ギアツもパーソンズ由来の文化を採用しているので、現在では社会学的文化と人類学的文化の境目はあまり重要ではない。



考古学的文化




文化を担う集団


文化の概念は、通常、人間集団内で伝播されるものに対してのみ用いられるので、個人がただ発明しただけの状態では適用されることはない[13]。また、地域や集団、時代によって文化様式は大きく異なることがある。アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、個々の文化はそれぞれの固有様式で統合されており、他の文化からの基準では本当の意味で理解することは困難であり、相対化と再帰的な検討が必要であるという文化相対主義を展開した。


文化は人間集団によって作られるが、同時に個々の人間も環境という形で、不断に文化に適応、学習させられていると考えられる。


日本文化や東京の下町文化、室町文化など地理的、歴史的なまとまりによって文化を定義するもの、おたく文化のように集団を構成する人を基準に文化を定義するもの、出版文化や食文化のように人の活動の種類によって定義するものなど、個々の文化は様々な形で定義、概念化される。


さらに小規模な集団にも企業の「社風」、学校の「校風」、ある家系の「家風」などがあり、これらも文化と呼ばれる。



動物の文化


現在、文化の定義は人間のという限定を用いなくても、動物が持たないものになるように定義づけられつつあるため、結果として動物は文化を持たないこととなっている。しかし野生動物の長期野外調査の蓄積によって、同種個体でも地域差が見られたりすることや道具を使用することは知られている。




文化の発祥と伝播・変容


ある特定地域の文化も、人々がそれを用いることが有益と判断すれば他の地域でも用いられるようになり、また伝播先の文化と融合して新たな文化を創造することもある。このような作用によって様々な文化が交じり合い、より高度な文化が創られてきたともいえるが、一方で自文化の変容に対しては反発もあり、各種の紛争の要因ともなっている。


例えば仏教は、インドで発祥し、宗派の分裂や各地の文化の影響もありつつ、中央アジア諸国や東アジア諸国など周辺地域へと伝播していく(上座部仏教や大乗仏教も参照)。その後日本にも伝えられるが、当初はその受容につき激しく争われた(崇仏論争、仏教公伝も参照)。受容後は中国などからの影響も受けつつも、日本独自の宗派も発達し、神道との融合なども行われた(神仏習合)。



文化にまつわる議論



単一発展史観


他の文化を貶め、自分の文化を至高とする思想は世界各地で見られるが、その偏見や差別を正当化するために、文化は異なる進歩の階層があり遅れた文化と進んだ文化が存在するという説が19世紀のヨーロッパの社会進化論を背景にとなえられた。現在遅れているように見える文化であっても、将来的には進歩するという考えである。植民地主義とともに、こうした遅れた地域を指導し、文化的に発展させる(近代化)ということが帝国の役割であるという独善的な考えが強く押し出された。このような観点から、人間を動物園の動物のように見せる催しが流行した(人間動物園)。


後にフランツ・ボアズが文化相対主義の立場から猛烈に批判し、単一発展史観は現在では論じられることはなくなった。



環境に対する適応としての文化


文化人類学においてマイナー領域であるが、ネオ進化主義と呼ばれる立場(生態人類学)において、身体的な限界を越えて環境に適応するためのあり方として文化の生態的な側面が分析される。もちろん全ての文化的な行動について生態的な適応という観点から分析できると考えられているわけではないが、例えばマーヴィン・ハリスはカニバリズムを儀礼的な側面よりもたんぱく質の摂取という観点で考察する[14]



文化についての語り



誰の文化なのか


女性割礼はしばしばイスラム教の慣習として語られるが、イスラム法やコーランにはそのような記載はないことから、いくつかのイスラム国家では行われていない慣習であり、イスラム法学者によって非イスラム的な慣習であることが発表されている。実際に女性割礼を行いイスラムの文化であると主張していた集団が、イスラム法学者のそのような主張を聞くと、民族固有の文化であると根拠を切り替えて、多文化主義の立場から文化実践を継続することがある。


このように文化実践の主体の帰属先自体が、人々の都合によって変更される。



文化の権利


ある文化実践の由来や実態について、文献資料を用いる文化人類学者と現地の実践者の間に齟齬が生じることがある。


近代史研究は、自明とみなされてきた文化が比較的近年に「発明」されたものだということを明らかにしてきた。しかし「オセアニアンは過去における先祖の生活についての神話などを、現地の人々は政治的シンボルとして発明している」という文化人類学者の見解[15]は、現地の人々にとって「文化人類学者は祖先の文化をまったく知らず、自己規程の力さえ奪おうとしている」という傲慢な態度にほかならず、反発を受ける[16]


このような議論の極端な事例が捏造疑惑である。マーガレット・ミードはサモア人女性は性的に開放的であると議論した[17]が、のちに調査した文化人類学者やサモア人から反論がされた[18]。実際にミードが捏造をした、もしくは経験不足で嘘や冗談を見抜けず誤ったことを書いてしまったのか、サモアの文化そのものが変貌したのかについては議論が分かれている[19]


また文化人類学者の横暴に対して現地の人々が反発したものとして、例えば南米の狩猟採集民族のヤノマミ族は他人を罵倒する言葉として、「人類学者(アンスロ)」が定着しているという[20]ことが挙げられる。



カルチュラル・スタディーズ



文化人類学において、文化は人間の行為を媒介する象徴の体系である。しかしイギリスの文学研究者たちが、イギリス国内のマスメディア現象を批判的に分析するためにうまれた研究手法であるカルチュラル・スタディーズでは、均質であることの想定を許さない社会における文化を分析対象とするために、「ある社会において生活している人々の誰もが、等しく共有しているわけではない」という「社会認識」をもとに文化を位置づけた。



未開文化の消滅


人類学は、未開社会の貴重な文化が西欧文化やグローバリゼーションなど外部の悪影響で消えつつあることを告発していたが、現在では他の文化を未開社会とみなす姿勢はもとより、真正・純正の文化がある・あったという思考自体が批判されている。クリフォードはこうした思考による記述を「消失の語り」として[21]、文化が外部の影響を取り込みつつも新たな展開を示していくことを重視して記述する「生成の語り」[22]と区別した[23]



混血文化としての観光


外部からの影響によって、伝統的文化が変貌したり新しく創造されたりすることがある。その典型的な事例は観光地にしばしば現れる。例えばバリのケチャは悪魔祓いの儀礼のときに行われるコーラスをもとに、映画『悪魔の島』(1955年)のBGMとしてドイツ人、ヴァルター・シュピースが創作したものであるが、これがラーマヤナの物語として現在の姿になり、それが現地の人々に受け入れられたものである[24]。他にはアイヌの民族芸能である木彫りの熊も、徳川義親がスイス土産を開拓村のアイヌに作らせたことが起源だとする説がある[25]


一方でこうした観光のクレオール的な性質に対して、しばしば反発がおきる。代表的な事例では観光地での商売上の慣行が実際の伝統的な文化と同一視されることを拒絶する民族運動としてハワイの先住民運動がある[26]



多文化主義と文化隔離主義


文化相対主義の政治的応用の一つとして多文化主義と文化隔離主義がある。どちらも文化を本質主義的に取り扱っているので、文化人類学者の議論とは隔絶がある。特に移民排除運動や排外主義を理論化する際に、「文化相対主義からすれば、お互い相容れない存在なのだから、祖国に帰るべきである」という形で援用されるのが文化隔離主義であり、人類学者から文化相対主義の地獄とされる。



文化資本と社会構造


ピエール・ブルデューは、社会における支配階層は権力によって、文化の洗練さを規定し、そうして規定した洗練されたとする文化資本を維持するハビトゥスを獲得することで権力を再生産するとした。



ミーム



ミームとは、文化を形成する情報であり、人の心から心へとコピーされる情報である[27]。ミームという言葉は、生物学者のリチャード・ドーキンスが作ったもので、ドーキンスはミームの例としてキャッチフレーズや服の流行をあげている。ミーム学という科学では、ミームという概念を用いて文化を理解する。


ミーム学は、「ミームが自分の複製を作る」という視点で考察される。これは、ドーキンスの論じる利己的遺伝子が「遺伝子が自分の複製を作る」という視点で考察されることからの類推である(ただし利己的遺伝子のアイデア自体はドーキンス独自のものではない)。


遺伝子やミームのように自己の複製を作るものを自己複製子という。自己複製子は、自分のコピーを作る時に変異を起こすことがあり、多様化していく(DNAは、多くの場合正確に子孫に複製されるが、まれにコピーミスが起きる)。多様化した自己複製子は自然選択(自然淘汰)によって、進化する。したがって、自己複製子であるミームも遺伝子のように進化することができ、この考察から、文化の進化する様子を分析することができる。



脚注





  1. ^ 毎日新聞社編『話のネタ』p.55、PHP文庫、1998年。


  2. ^ 太田好信 『民族誌的近代への介入—文化を語る権利は誰にあるのか〔増補版〕』 人文書院、2009年


  3. ^ 祖父江孝男 『文化人類学入門』 中央公論社〈中公新書; 560〉、1979年


  4. ^ E.B.Taylor (2007) [1871]. Primitive culture: researches into the development of mythology, philosophy, religion, art, and custom.. Kessinger Pub Co. pp. 1. ISBN 142863830X. 
    翻訳: E.B.タイラー 『原始文化』 比屋根安定訳、誠信書房、1962年



  5. ^ 村武慶 「文化の変動」『文化人類学』 村武精一・佐々木宏幹、有斐閣、1991年


  6. ^ クロード・レヴィ=ストロース 「言語学と人類学」『構造人類学』 佐々木明訳、みすず書房、1972年(原著1958年)。


  7. ^ しかし大型類人猿が言語を学習できるということが知られるようになると、文化獲得における重要なイベントである学習を細分化して人間の学習(意図模倣)と動物の学習(単純模倣)をわけ、さらには教示の有無を問題にするという発想もでている。つまり動物が社会化のなかで獲得するふるまいは、単純模倣によってだけ獲得される伝統traditionであり、人間が言語や意図模倣、教示を通した社会化のなかで身につける文化という差異を創出して定義づけ、人間以外の動物には文化を身につけることは困難であるとするのである。


  8. ^ 『心ところばの起源を探る: 文化と認知』 大堀壽夫・中澤恒子・西村義樹・本田啓訳、勁草書房、2006年


  9. ^ パーソンズ・T.(タルコット) 『文化システム論』 ミネルヴァ書房、1991年


  10. ^ Cf. タモツ・シブタニ著、2013年、木原綾香ほか訳「パースペクティブとしての準拠集団」Discussion Papers In Economics and Sociology, No.1301.


  11. ^ Habermas, Jürgen 河上倫逸ほか訳 (1985-1987) [1981]. コミュニケーション的行為の理論. 木鐸社. 


  12. ^ 高橋徹 『意味の歴史社会学―ルーマンの近代ゼマンティック論』 世界思想社、2002年


  13. ^ 文化 (動物)の芋洗いの項目を参照


  14. ^ マーヴィン・ハリス 『ヒトはなぜヒトを食べたか—生態人類学から見た文化の起源』 鈴木洋一訳、早川書房〈ハヤカワ文庫—ハヤカワ・ノンフィクション文庫〉、1997年


  15. ^ Keesing, R (1989年). “Creating the Past”. The contemporary Pacific 1 (2): 19-42. 


  16. ^ Trask, H-K (1991年). “Native and Anthropologist”. The contemporary Pacific 3 (1): 159-167. 


  17. ^ マーガレット・ミード 『サモアの思春期』 畑中幸子・山本真鳥訳、蒼樹書房、1976年(原著1928年)。


  18. ^ デレク・フリーマン 『マーガレット・ミードとサモア』 木村洋二訳、1995(原著1983年)。


  19. ^ 池田光穂 「第5章 民族誌のメイキングとリメイキング―ミードがサモアで見いだしたものの行方」『メイキング文化人類学』 太田好信・浜本満、2005年


  20. ^ 太田好信 『民族誌的近代への介入』、2001年、298頁。


  21. ^ The Predicament of Culture: Twentieth-Century Ethnography, Literature and Art, Cambridge, MA, (1988), pp. 17 


  22. ^ The Predicament of Culture: Twentieth-Century Ethnography, Literature and Art, Cambridge, MA, (1988), pp. 246 


  23. ^ 太田好信 『トランスポジションの思想 文化人類学の再想像』 世界思想社、1998年
    クリフォードの分類については太田 (1998) の訳p.270を採用した。



  24. ^ 山下晋司「『劇場国家』から『旅行者の楽園へ』」、『国立民族学博物館研究報告』第17巻第1号、1992年、 1-33頁。


  25. ^ 荒俣宏 『大東亞科學綺譚』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1996年


  26. ^ 山中速人 『イメージの楽園』 筑摩書房、東京、1992年


  27. ^ リチャード・ブロディ『ミーム―心を操るウイルス』講談社、1998年。




参考文献


  • イーグルトン・テリー著、大橋洋一訳『文化とは何か』松柏社、ISBN 4-7754-0100-9


関連項目


































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