薬子の変




薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件。大同5年(810年)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。


なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。




目次






  • 1 背景


  • 2 経過


  • 3 処置


  • 4 変で処罰された人物


  • 5 脚注





背景


延暦25年(806年)、桓武天皇が崩御して皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位、平城天皇は弟の神野親王を皇太弟とした。これは平城天皇が病弱でその子供達も幼かった事を考えて、嫡流相続による皇位継承を困難と見た父・桓武天皇の意向があったともいわれている。だが、翌大同2年(807年)には早くも天皇の異母弟・伊予親王が突然謀反の罪を着せられて死に追い込まれるなど、皇位継承を巡る宮廷内部の紛争は収まる事を知らなかった。


大同4年(809年)4月、平城天皇は発病するが、病を叔父早良親王や伊予親王の祟りによるものと考えた天皇は、禍を避けるために譲位を決意する。天皇の寵愛を受けて専横を極めていた尚侍・藤原薬子とその兄の参議・藤原仲成は極力反対するが、天皇の意思は強く、同年4月13日に神野親王が即位する(嵯峨天皇)。皇太子には平城天皇の三男・高岳親王が立てられた。


大同4年12月(810年1月または2月)、平城上皇は旧都である平城京へ移る。平城上皇が天皇の時に設置した観察使の制度を嵯峨天皇が改めようとしたことから平城上皇が怒り、二所朝廷といわれる対立が起こる。平城上皇の復位をもくろむ薬子と仲成はこの対立を大いに助長した。しかも、薬子が任じられていた尚侍の職は、天皇による太政官への命令書である内侍宣の発給を掌っており、当時の太上天皇には天皇と同様に国政に関与できるという考えがあった(例:孝謙上皇と淳仁天皇の職権分割)ことから、場合によっては上皇が薬子の職権で内侍宣を出して太政官を動かす事態も考えられた。また、嵯峨天皇も年が明けた大同5年(810年)正月に病に倒れて元日の朝賀が中止になった事[1]も上皇の復位の可能性を持たせた。後に嵯峨天皇が淳和天皇に譲位した際に、即位直後に病を得た際に平城上皇から天皇の神璽を返すように言われたと述べている[2][3]


嵯峨天皇は大同5年(810年)3月に蔵人所を設置し、同年6月には観察使を廃止して参議を復活した。このことは平城上皇を刺激する。



経過


二所朝廷の対立が深まる中で、同年9月6日に平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。このことは嵯峨天皇にとって思いがけない出来事であったが、ひとまず詔勅に従うとして、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを造宮使に任命する。嵯峨天皇が信任している者を造宮使として平城京に送り込み、平城上皇側を牽制することが目的と考えられる。また、遷都の詔勅が発せられたことに人心は大いに動揺したという。


嵯峨天皇は遷都を拒否することを決断する。9月10日、嵯峨天皇は使節を発して伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせる。その上で、藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁の上で佐渡権守に左遷し、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。嵯峨天皇は造宮使だった坂上田村麻呂を大納言に昇任させる。藤原冬嗣は式部大輔、紀田上は尾張守に任じられた。


9月11日、嵯峨天皇は密使を平城京に送り若干の大官を召致した。この日、藤原真夏や文室綿麻呂らが帰京するが、平城上皇派と見られた綿麻呂は左衛士府に禁錮された。


嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断をする。中納言・藤原葛野麻呂ら平城上皇方の群臣は極力これを諌めたが、上皇は薬子とともに輿にのって東に向かった。


平城上皇の動きを知った嵯峨天皇は坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じる。田村麻呂は出発に当たってかつて蝦夷征討の戦友だった綿麻呂の禁錮を解くことを願い、綿麻呂は許されて参議に任じられる。この日の夜に仲成は射殺された。これは平安時代の政権が律令に基づいて死刑として処罰した数少ない事例[4]であり、これ以降保元元年(1156年)の保元の乱で源為義が死刑執行されるまで約346年間一件も無かった。


中野渡俊治は、「二所朝廷」と呼ばれていても、平城上皇(あるいはそれ以前の太上天皇)の時代には、後世の院庁・院司に相当する機関は存在しておらず、朝廷(太政官)の職員は天皇と太上天皇の両方に分担して職務を行うことになっていた現象を指すに過ぎず、天皇が詔勅を出すのに必要な内印と駅鈴及びこれを管理・運用する官吏(少納言・主鈴)や詔勅の文章を作成する中務省は嵯峨天皇の平安京に居たと考えられ、平城上皇の下には天皇大権を直接発動する仕組がなかった(嵯峨天皇の同意が無い限り有効性のある詔勅が出せなかった)ことが、乱が早々に失敗に終わった原因であると解説している(反対に恵美押勝の乱では、孝謙上皇は真っ先に同じ平城京にあった内印と駅鈴の接収に成功して勝利を収めている)[3]


平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡田村まで来たところで、嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知り、とても勝機がないと悟ってやむなく平城京へ戻った。9月12日、平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。



処置


事件後、嵯峨天皇は関係者に寛大な処置をとることを詔した。高岳親王は皇太子を廃され、代わって天皇の弟・大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。また、9月19日に元号が「弘仁」と改元された。なお、弘仁15年(824年)の平城上皇の崩御の際に、既に譲位していた嵯峨上皇の要望によって、淳和天皇の名で関係者の赦免が行われている。


平城法皇は変の後も朝覲を受けるなどの名誉ある待遇と相当の宮廷費を受けた。上皇が挙兵に着手して失敗した例は、こののち346年後の保元の乱までないが、保元の乱で敗北した崇徳上皇が早々に剃髪して投降したのは、平城上皇の例が念頭にあったゆえとする見方がある[5]


なお、僧・空海は嵯峨天皇側の勝利を祈念し、以降、日本仏教界一の実力者になる契機となった。



変で処罰された人物























































































































































































家系
氏名
官位など
処罰内容
皇族

平城上皇
太上天皇
自主的に出家、大権の喪失
皇族

高岳親王
皇太子
廃太子
皇族

阿保親王
四品
大宰員外帥へ左遷
皇族

礒野王
従五位上・図書頭
伊豆権守へ左遷
皇族

田口王
従五位下
土佐権守へ左遷
皇族

真菅王
従五位下
壱岐権守へ左遷
藤原式家

藤原薬子
正三位・尚侍
尚侍を解任、のち自殺
藤原式家

藤原仲成
従四位下・参議
佐渡権守へ左遷、のち射殺
藤原式家

藤原安継
従五位下・大舎人助
薩摩権守へ左遷
藤原式家

藤原貞本
従五位下・大蔵大輔
飛騨権守へ左遷
藤原式家

藤原永主

日向国へ流罪
藤原式家

藤原山主

日向国へ流罪
藤原式家

藤原藤主

日向国へ流罪
藤原北家

藤原真夏
正四位下・参議
伊豆権守次いで備中権守へ左遷
藤原北家

藤原真雄
従四位下・左馬頭
伊予守へ左遷、のち備前守に転任
紀氏

紀田上
従四位下・尾張守
佐渡権守へ左遷
紀氏

紀良門
従五位下・越後守
肥前権介へ左遷
その他

多入鹿
従四位下・参議
讃岐権守へ左遷、のち安芸守、讃岐権守に転任
その他

菅野庭主
正五位上・木工頭
安房権守へ左遷
その他

大中臣常麻呂
従五位上・兵部少輔
備前権守へ左遷、のち伊予守に転任
その他

大伴和武多麻呂
従五位上・左近衛少将
武蔵権介へ左遷、のち日向権守に左遷
その他

御室是嗣
従五位上
大隅権守へ左遷、のち筑後権介に左遷
その他

御室氏継
従五位上
薩摩権守へ左遷
その他

安倍清継
従五位下・越前介
安芸権守へ左遷、のち伯耆国へ流罪
その他

当麻鱸麻呂
従五位下
淡路権守へ左遷
その他

安曇広吉
従五位下
伊予権介へ左遷
その他

百済王愛筌
越前権少掾
安房国へ流罪
その他

永野浄津

越前国へ流罪
その他

伊勢安麻呂

能登国へ流罪


脚注





  1. ^ 『類聚国史』巻34「天皇不予」弘仁元年正月壬寅条


  2. ^ 『日本紀略』弘仁14年4月庚子条

  3. ^ ab中野渡俊治「平安時代初期の太上天皇」(初出:『花園史学』第31号(2010年)/所収:中野渡『古代太上天皇の研究』(思文閣出版、2017年) ISBN 978-4-7842-1887-5


  4. ^ 上横手雅敬は9月10日に仲成を佐渡権守に左遷する詔を出しながら、翌日の死刑に関する詔が存在しないこと、養老律には死刑の方法として射殺を認めていないことなどを挙げて、仲成の死刑が律令(法律)に基づかない嵯峨天皇による「私刑」であった可能性を指摘している。なお、上横手は天皇は本来仲成の死刑を免じるつもりで左遷の詔書を作成したものの、何らかの事情で撤回せざるを得なくなったためにやむなく法に基づかない措置を取ったと推定している。(上横手雅敬「『建永の法難』について」(所収:上横手 編『鎌倉時代の権力と制度』(思文閣出版、2008年))


  5. ^ 元木泰雄 『保元・平治の乱を読み直す』 NHKブックス(2004年) pp.115-116









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