ガブリエル・フォーレ
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ガブリエル・ユルバン・フォーレ Gabriel Urbain Fauré | |
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肖像画(1889年、サージェント作) | |
基本情報 | |
生誕 | (1845-05-12) 1845年5月12日 フランス王国、パミエ |
死没 | (1924-11-04) 1924年11月4日(79歳没) フランス共和国、パリ |
ジャンル | ロマン派音楽 |
職業 | 作曲家 |
活動期間 | 1861年 - 1924年 |
ガブリエル・ユルバン・フォーレ(Gabriel Urbain Fauré, フランス語発音: ['gabʁjɛl 'yʁbɛ̃ 'fɔʁe], 1845年5月12日 - 1924年11月4日)はフランスの作曲家。フランス語による実際の発音はフォレに近い 発音例
目次
1 生涯と作品
2 フォーレの音楽の特徴
2.1 音楽史的な位置
2.2 フォーレの音楽の変遷
2.3 アール・ヌーヴォーとの関連
2.4 フォーレは「サロン音楽」の作曲家か
3 教育者としてのフォーレ
4 フォーレの女性関係
5 主要作品
5.1 管弦楽曲
5.2 協奏曲
5.3 室内楽曲
5.4 ピアノ曲
5.5 歌曲
5.6 宗教曲・合唱曲
5.7 歌劇
6 出典・脚注
7 参考書籍
8 関連項目
9 外部リンク
生涯と作品
フランス南部、ミディ=ピレネー地域圏のアリエージュ県、パミエで教師だった父の元に五男一女の末っ子として生まれた。幼い頃から教会のリード・オルガンに触れるうちに天性の楽才を見出される。フォーレは9歳のときに入学したパリのニーデルメイエール古典宗教音楽学校(1853年開校)にて学び、教師で校長であったルイ・ニーデルメイエールの死後、1861年に教師としてやってきたカミーユ・サン=サーンスにピアノと作曲を師事した。1865年に卒業したのち、旅行先のレンヌにて教会オルガニストの職を得た。1870年、フランスに戻ったときには当時勃発していた普仏戦争において、歩兵部隊に従軍志願している。のち、パリのマドレーヌ教会でオルガニストとなり、1896年にはマドレーヌ教会の首席ピアニストに任じられ、またフランス国立音楽・演劇学校の教授にもなっている。1871年にはサン=サーンス、フランクらとともにフランス国民音楽協会の設立に参加している。
父親の死後に作曲された『レクイエム』は彼の代表作の一つである。他の管弦楽や声楽を含んだ大規模作品として、歌劇『ペネロープ』、『プロメテ』、『マスクとベルガマスク』、『ペレアスとメリザンド』などがある。
フォーレはむしろ小規模編成の楽曲を好み、室内楽作品に名作が多い。それぞれ2曲ずつのピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲、ヴァイオリンソナタ、チェロソナタと、各1曲のピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲がある。
また『バラード 作品19』、『主題と変奏 作品73』、『舟歌』、『夜想曲』、『即興曲』、『ヴァルス・カプリス』、『前奏曲 作品109』など生涯にわたって多くのピアノ曲を作った。
歌曲でも『夢のあとに』(Après un rêve)、『イスファハーンの薔薇』(Les roses d'Ispahan)、『祈り』(En prière)、ヴェルレーヌの詩に曲をつけた『月の光』(Clair de lune)、20篇のうち9篇を選んで作曲した『優しい歌』(La Bonne Chanson) などかなりの数の歌曲を残している。
晩年には、難聴に加えて高い音がより低く、低い音がより高く聞こえるという症状に悩まされながら作曲を続けた。ピアノ五重奏曲第1番以降の作品は、そうした時期のもので、次第により簡潔で厳しい作風へと向かっていった。
肺炎のためパリで死去した。マドレーヌ教会で『レクイエム』の演奏される中、国葬が行われ、パリのパッシー墓地に葬られた。
フォーレの音楽の特徴
音楽史的な位置
フォーレは、リスト、ベルリオーズ、ブラームスらが成熟期の作品を生み出していたころに青年期を過ごし、古典的調性が崩壊し、多調、無調の作品が数多く書かれ、微分音、十二音技法などが試みられていた頃に晩年を迎えている。なかでも、調性崩壊の引き金を引いたワーグナーの影響力は絶大で、同時代の作曲家は多かれ少なかれ、ワーグナーにどう対処するかを迫られた。
こうした流れのなかで、フォーレの音楽は、折衷的な様相を見せる。ワーグナーに対しては、ドビュッシーのようにその影響を拒否するのでなく、歌劇『ペネロープ』でライトモティーフを採用するなど一定の影響を受けつつも、その亜流とはならなかった。形式面では、サン=サーンスの古典主義にとどまることはしなかったが、その作品形態は当時の流行を追わず、古典主義的な楽曲形式を採用した。調性においては、頻繁な転調のなかに、ときとして無調的な響きも挿入されるが、旋律や調性から離れることはなかった。音階においては、旋法性やドビュッシーが打ち立てた全音音階を取り入れているが、これらに支配されたり、基づくことはなかった。
このように、フォーレは音楽史上に残るような新たな様式を打ち立てたりしていない[要出典]。フォーレの音楽は劇的表現をめざすものではなかったので、大規模管弦楽を擁する大作は必然的に少ない。ただし、和声の領域では、フォーレはシャブリエとともに、ドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しといえる存在であり、19世紀と20世紀をつなぐ役割を果たしている。
フォーレの音楽の変遷
フォーレの音楽は、便宜的に初期・中期・晩年の3期に分けられることが多い。初期の代表作として、ヴァイオリン・ソナタ第1番(作品13)やピアノ四重奏曲第1番(作品15)があるが、この時期の作品は親しみやすく、とくにヴァイオリン・ソナタ第1番は、フォーレの全作品中おそらく最も演奏機会の多い曲である[要出典]。夜想曲では第1番から第5番、舟歌では第1番から第4番が相当する。初期の作品には、明確な調性と拍節感のもとで、清新な旋律線が際だっている。旋律を歌わせる際にはユニゾン、伴奏形には装飾的かつ流動的なアルペジオが多用される。ユニゾンとアルペジオは、フォーレの生涯にわたって特徴的に見られるが、この時期のそれは、もっぱら音色の効果や装飾性の域を脱するものではない。
フォーレの中期あるいは第2期は、ピアノ四重奏曲第2番(作品45)、『レクイエム』(作品48)、『パヴァーヌ』(作品50)などが作曲された1880年代の後半から、ピアノ五重奏曲第1番(作品89)が完成した1900年代前半までと見られ、他に『主題と変奏』(作品73)、『ペレアスとメリザンド』(作品80)などがある。夜想曲では第6番から第8番、舟歌では第5番から第7番が相当する。初期の曲に見られる、輝かしく外面的な要素は、年を経るに従って次第に影を潜め、より息の長い、求心的で簡素化された語法へと変化していく。また、ひとつひとつの音を保ちながら、和声をより流動的に扱うことにより、拍節感は崩れ、内声部は半音階的であいまいな調性で進行するようになる。こうした微妙な内声の変化のうえに、調性的・旋法的で簡素な、にもかかわらず流麗なメロディをつけ歌わせるというのが、フォーレの音楽の特色となっている。
歌劇『ペネロープ』やヴァイオリン・ソナタ第2番(作品108)が作曲された1900年代後半からは、晩年と見られる。夜想曲では第9番以降、舟歌では第8番以降。耳の障害が始まり、扱う音域も狭くなり、半音階的な動きが支配的で、調性感はより希薄になっていく。しかし、この時期の一連の室内楽作品は、壮大な規模と深い精神性を湛えた傑作群である。ピアノ五重奏曲第2番(作品115)やピアノ三重奏曲(作品120)では、冒頭にピアノによるアルペジオが見られるが、もはや華やかさとは無縁の、単純化された音型であり、弦のユニゾンもまた、抽象的な高みへの追求あるいは収斂性として働いている。
アール・ヌーヴォーとの関連
フォーレ研究家として知られるジャン=ミシェル・ネクトゥーは、著書『ガブリエル・フォーレ』のなかで、同時代の文学者マルセル・プルーストがフォーレの音楽に魅了されていたとし、プルーストとフォーレをともにアール・ヌーヴォーに属する芸術家として位置づけた上で、「そのまがりくねり互いに絡み合った長いフレーズと常時現れる花にまつわる主題は、まさに1900年の芸術を象徴するものである。」と述べている。
一般に、アール・ヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭の装飾美術・デザインに適用される様式概念であり、ネクトゥーの説はこれを文学、音楽に敷衍させたものといえる。この指摘は、アール・ヌーヴォーのもつ装飾性や、コントラストでなく曲線重視といった表現性を、フォーレの音楽性と通じるものとしてみている。この観点からは、フォーレの別の側面が見えてくることも事実である。装飾的な音型がメロディーに同化している点で、初期の歌曲『夢のあとに』がまず挙げられる。さらに、「舟歌」をはじめとして、アルペジオへのフォーレの傾斜は、晩年まで見られる特徴である。ただし、「装飾音」であっても、その効果あるいは意図するところは、すでに述べたように、初期と晩年では相当に違っている。
フォーレは「サロン音楽」の作曲家か
フォーレは、当時のサロンで受け入れられたため、ドビュッシーを初めとして、フォーレの作品を「サロン音楽」と矮小化して受けとめる風潮も現在まで存在する。とはいえ、それはその高貴さ、崇高さの表れとも考えられ[要出典]、フォーレの音楽は、とくに中期から晩年にかけてのそれは、規模の小さな作品においても、ただ柔らかく上品で、洗練されているというだけで終わってはいない。ごく自然に流れる音の流れが、実は伝統的なあらゆる手法を駆使した、独自の緻密な構成によっている。
1906年に、フォーレは妻にあてた手紙でピアノ四重奏曲第2番のアダージョ楽章について触れ、「存在しないものへの願望は、おそらく音楽の領域に属するものなのだろう」と書いている。また、1908年には次男フィリップに「私にとって芸術、とりわけ音楽とは、可能な限り人間をいまある現実から引き上げてくれるものなのだ」と書き残している。
フォーレは死の2日前、二人の息子に次のような言葉を残している。「私がこの世を去ったら、私の作品が言わんとすることに耳を傾けてほしい。結局、それがすべてだったのだ……」
教育者としてのフォーレ
フォーレは1896年にマスネの後任としてフランス国立音楽・演劇学校の作曲科教授となっており、その門弟にはモーリス・ラヴェル、ジャン・ロジェ=デュカス、ジョルジェ・エネスクらがいる。
ラヴェルがローマ大賞を落選した、いわゆる「ラヴェル事件」により1905年にはテオドール・デュボワの後任として音楽院院長となり(1920年まで)、音楽院改革を行った結果《ロベスピエール》とあだ名されるようになったが、この時の改革のうち、入学前の生徒の教授との癒着を避けるため、音楽院の外部者に入学審査を行わせたことは、現在でも入学審査に必ず音楽院の外部者が加わっているという形で受け継がれている。このように彼は優れた音楽教育者としても知られている。
フォーレの女性関係
『レクイエム』で知られ、教会オルガニストであったことから敬虔なカトリック教徒というイメージが強いが、フォーレ自身、必ずしもそうでないことを認めている[1]。
実際、若いころのフォーレは享楽的な傾向を持ち、1883年に彫刻家エマニュエル・フルミエの娘、マリーと結婚した後も、90年代前半はのちにドビュッシー夫人となったエンマ・バルダックと、後半はイギリスの楽譜出版社の夫人のアディーラ・マディソンと関係を持ち、そして1900年『プロメテ』初演時にアルフォンス・アッセルマン(ハーピスト・作曲家)の娘、マルグリット・アッセルマンと出逢い、そののち彼女を生涯旅行などに付き添わせるといった愛人たちとの交際を続けた。
なお、妻マリー・フルミエとの間には息子エマニュエル(1883-1971)とフィリップ(1889-1954)がいる[2]。エマニュエルは動物学者で繊毛虫の研究者、フランス動物学協会会長、科学アカデミー (フランス)会員となった[3]。また、フォーレの孫とされるフォーレ・ハラダという日仏混血の画家がいる[4]。本人によると、フランス人の父、日本人の母(ともにピアニスト)のもとアビニオンで生まれ(国籍日本)、フランス、ドイツ、日本、インドなどで教育を受け、日本とアメリカに暮らしながら、禅アーチストとして外国人に墨絵を教えていた[5][4]。
主要作品
以下「Op.」以下の数字は作品番号を示す。
全曲リストはフォーレの楽曲一覧を参照。
管弦楽曲
- カリギュラ Op.52(Caligula, 1888年)
- 舞台音楽の最初の作品。大デュマの同名の悲劇再演のために小デュマから依頼を受け、わずか数か月で書き上げた。劇付随音楽としての初演は1888年11月8日。その後、演奏会用の版をフォーレ自身が作成し、翌年の4月6日に国民音楽協会の演奏会で初演された。
ペレアスとメリザンド Op.80(Pelléas et Mélisande, 1898年)- 別項参照
マスクとベルガマスク Op.112(Masques et Bergamasques, 1919年)- 【1. 序曲 / 2. パストラール / 3. マドリガル / 4. いちばん楽しい道 / 5. メヌエット / 6. 月の光 / 7. ガヴォット / 8. パヴァーヌ】
- 舞台音楽としては最後の作品。ただし、8曲中4曲はすでに作曲されていた他の作品を取り込んだもので、新たに作曲されたのは第1、2、5、7曲のみ。旧作の第6曲、第8曲は単独で演奏され親しまれている。ルネ・フォーショワの台本による。初演は1919年4月10日モンテカルロ。
協奏曲
- ピアノと管弦楽のためのバラード Op.19(1880年)
- 全体は3部からなる。(Andante cantabile - Allegro moderato - Andante ただし第2部は出版譜によりAllegretto moderato)主調は嬰ヘ長調。全曲を通して三つの主題が執拗に反復されるだけの珍しい形式をとっている。初期の未熟さと才能の萌芽が同時に示された作品である。
室内楽曲
ピアノ五重奏曲第1番 ニ短調 Op.89(1903年 - 1906年)- 【1. Molto moderato / 2. Adagio / 3. Allegretto moderato】
- この作品を作曲していた当時、フォーレは聴覚範囲が狭まり高音と低音がピッチの違う音として聞こえるという聴覚障害に悩まされるようになった。そんな状態でありながらフォーレはこの精妙な和声の造化を創り上げたのだった。1906年3月、作曲者のピアノ、イザイの弦楽四重奏団の演奏で初演され、イザイに献呈された。作曲者の手紙によると、イザイはこの曲の若々しさ、純粋に音楽的であることに狂喜したという。
ピアノ五重奏曲第2番 ハ短調 Op.115(1919年 - 1921年)- 【1. Allegro moderato / 2. Allegro vivo / 3. Andante moderato / 4. Allegro molto】
1920年にフォーレは音楽院を辞職した。これにより作曲に充てられる時間は増えたものの、経済的な不安を抱え込むことになった。ロベール・ロルタのピアノとエッキャン四重奏団により行われた初演は大成功で聴衆全員のスタンディング・オベーションで迎えられ、批評家からも支持された。この作品は後輩のポール・デュカスに献呈された。
弦楽四重奏曲 ホ短調 Op.121(1924年)- 【1. Allegro moderato / 2. Andante / 3. Allegro】
- フォーレ最後の作品。ピアノを含まない唯一の室内楽作品でもある。そのため深い諦念の響きが色濃い。フォーレはこの作品を弟子に見せ、「君がよく見て、おかしいところがなければ発表してくれ」と頼んだといわれる。彼の謙虚な人柄を物語るエピソードである。初演は作曲者の死後1925年6月12日にフランス国立音楽・演劇学校で行われた。
ピアノ四重奏曲第1番 ハ短調 Op.15(1879年)- 【1. Allegro molto moderato / 2. Scherzo / 3. Adagio / 4. Allegro molto】
- マリアンヌ・ヴィアルドとの婚約が一方的に破棄され傷心の時期に書かれた作品。長いユニゾンや突然の転調といった音色や調性上の実験的な試みが多くなされている。初演は1880年2月14日に国民音楽協会のコンサートで行われた。
ピアノ四重奏曲第2番 ト短調 Op.45(1886年)- 【1. Allegro molto moderato / 2. Allegro molto / 3. Adagio non troppo / 4. Allegro molto】
- フォーレが円熟期を迎えた時期の作品で、名作『レクイエム』の直前に書かれている。楽想、音色の色彩感、展開、いずれも申し分ない豊かさをたたえた名作である。1886年1月22日国民音楽協会のコンサートで初演された。
ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op.120(1922年 - 1923年)- 【1. Allegro ma non troppo / 2. Andantino / 3. Allegro vivo】
- フォーレ自身はこの作品を「小さなトリオ」と呼んだが、弟子のフローラン・シュミットは「これこそが音楽だ。そして音楽以外の何者でもない。」と評している。公開での初演は1923年6月、アルフレッド・コルトー、ジャック・ティボー、パブロ・カザルスにより行われた。モーリス・ルーヴィエ夫人に献呈された。
ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 Op.13(1876年)- 【1. Allegro molto / 2. Andante / 3. Allegro vivo / 4. Allegro quasi presto】
- 歌曲・ピアノ曲以外で初めての本格的な作品。マリアンヌ・ヴィアルドとの恋愛が反映された幸福な作品。マリアンヌの弟ポール・ヴィアルドに献呈されている。初演は、1877年1月27日に国民音楽協会の演奏会でマリー・タヨーのヴァイオリン、作曲者のピアノで初演された。さらに翌年パリ万博の催し物としても演奏されたが、当時はあまり評判にならなかった。しかしサン=サーンスは手紙でフォーレの才能を賞賛している。
ヴァイオリン・ソナタ第2番 ホ短調 Op.108(1916年 - 1917年)- 【1. Allegro non troppo / 2. Andante / 3. Allegro non troppo】
1916年8月16日付けの手紙で妻に、この作品に着手したことを知らせている。第1番とは40年を隔てて作曲されたこの作品は、第1番とは対照的にフォーレ晩年の簡潔で気品のある書法で書かれている。1917年11月10日、国民音楽協会の演奏会でリュシアン・カペーのヴァイオリン、アルフレッド・コルトーのピアノで初演された。
チェロ・ソナタ第1番 ニ短調 Op.109(1917年)- 【1. Allegro / 2. Andante / 3. allegro commodo】
- ヴァイオリンソナタ第2番の完成にひきつづいて作曲され、1918年1月にアンドレ・エッキングとアルフレッド・コルトーにより初演された。第1楽章ではアクセントが多用され、フォーレの作品には珍しい荒々しさが見られる。子守唄調の旋律の音形が繰り返される瞑想的な第2楽章を経て、第3楽章では淀みないピアノに寄り添うようにチェロが伸びやかに歌う。
チェロ・ソナタ第2番 ト短調 Op.117(1921年)- 【1. Allegro / 2. Andante / 3. Allegro vivo】
1921年にフォーレはナポレオン1世没後100年記念式典のための『葬送歌』を吹奏楽用に作曲、これをチェロ・ソナタ第2番の中間楽章に転用した。1922年5月、ジェラール・エッキングとアルフレッド・コルトーによって初演された。ヴァンサン・ダンディは、初演の翌日「一晩たったいまでも、君の美しいチェロソナタに魅了されつづけている。アンダンテは表現力に富み、真の傑作だ」とフォーレに書き送っている。第1楽章のなだらかな曲想のためか、第1番より演奏機会が多い。- シシリエンヌ ト短調 Op.78(Sicilienne, 1898年)
- チェロとピアノのための作品。後に『ペレアスとメリザンド』に転用。
- 『塔の中の奥方』(Une châtelaine en sa tour)イ短調 Op.110(1918年)
ハープ独奏曲。
ピアノ曲
- 『主題と変奏』(Thème et Variations)嬰ハ短調 Op.73(1895年)
- 主題と11の変奏からなる。1896年12月、レオン・ドゥラフォスによって初演された。夜想曲第6番、舟歌第5番と同時期の作品であり、これらとともに、フォーレの最も充実したピアノ作品とされる。コルトーは、「音楽的な豊かさ、表現の深さ、器楽的内容の質の高さからして、あらゆる時代のピアノ音楽のうち、希有で最も高貴な記念碑のひとつ」と激賞している。
- ピアノ組曲『ドリー』(Dolly)Op.56(1893年 - 1896年)
- 【1. 子守歌 / 2. ミ-ア-ウ / 3. ドリーの庭 / 4. キティー・ヴァルス / 5. 優しさ / 6. スペインの踊り】
4手ピアノのための作品。「ドリー」とは、フォーレが可愛がっていた子供で、この作品を献呈されたエレーヌ・バルダックの愛称である。彼女については彼女の母、エンマ・バルダックとフォーレの関係から「エレーヌはフォーレの子ではないか」とする説もある。愛らしいメロディからなる小品集で、子供の世界を描いている点でシューマンの『子供の情景』やドビュッシーの『子供の領分』を連想させる。ちなみにドビュッシーが『子供の領分』を書いた時に題材にしたシュウシュウという愛称の子供は、エレーヌの母親エンマがドビュッシーと再婚してもうけた子供で、したがって、本作品と『子供の領分』とはまさしく姉妹作ということになる。管弦楽版(アンリ・ラボー編曲)、ピアノ独奏版などの編曲でも親しまれている。
ヴァルス=カプリス 全4曲- 【1. イ長調 Op.30 / 2. 変ニ長調 Op.38 / 3. 変ト長調 Op.59 / 4. 変イ長調 Op.62】
- 文字通り才気に満ちたワルツ集である。第1、2番はサロン的側面を持つが、第3、4番は緻密な構成をもち入念な主題処理が行われる、ショパンが開拓した芸術的なピアノ・ワルツの系譜に連なる芸術作品である。
即興曲 全5曲- 【1. 変ホ長調 Op.25 / 2. ヘ短調 Op.31 / 3. 変イ長調 Op.34 / 4. 変ニ長調 Op.91 / 5. 嬰ヘ短調 Op.102】
- 上述の5曲にハープのために書き下ろされピアノに編曲された1曲(変ニ長調、Op.86bis)を含め6曲とカウントすることもある。第3番までと後期に書かれた2曲との間にはそのスタイルに大きな隔たりがある。第3番までの3曲はサン=サーンスの手により初演されている。
夜想曲 全13曲- 【1. 変ホ短調 Op.33-1 / 2. ロ長調 Op.33-2 / 3. 変イ長調 Op.33-3 / 4. 変ホ長調 Op.36 / 5. 変ロ長調 Op.37 / 6. 変ニ長調 Op.63 / 7. 嬰ハ短調 Op.74 / 8. 変ニ長調 Op.84-8 / 9. ロ短調 Op.97 / 10. ホ短調 Op.99 / 11. 嬰ヘ短調 Op.104-1 / 12. ホ短調 Op.107 / 13. ロ短調 Op.119】
夜想曲の作曲時期はフォーレの活動時期のすべてにわたっている。第13番はピアノ作品の掉尾を飾る曲である。ピアニストのマルグリット・ロンは第6番を「フォーレの最も美しいインスピレーション」と評している。この第6番と第5番との作曲時期には10年の隔たりがあり、フォーレのスタイルの変化を明らかに反映している。
舟歌 全13曲- 【1. イ短調 Op.26 / 2. ト長調 Op.41 / 3. 変ト長調 Op.42 / 4. 変イ長調 Op.44 / 5. 嬰ヘ短調 Op.66 / 6. 変ホ長調 Op.70 / 7. ニ短調 Op.90 / 8. 変ニ長調 Op.96 / 9. イ短調 Op.101 / 10. イ短調 Op.104-2 / 11. ト短調 Op.105-1 /12. 変ホ長調 Op.105-2 / 13. ハ長調 Op.116】
メンデルスゾーンの『無言歌』やショパンにも作例はあるが、生涯にわたって13曲もの『舟歌』を作曲したのはフォーレ一人である。6/8または12/8拍子の一定のリズムにのってゆったりとした旋律が繰り返される中、さざ波や水しぶきそれに反射する光のきらめきのような細やかなパッセージを加える舟歌の形式がフォーレのテンペラメントによく合致したのであろう。第4番まではヴェネツィアを訪れる前に作曲されており、フォーレの憧れとしてのイタリアを描き出したものといわれている。
前奏曲集 Op.103 全9曲(1910年)- 【1. 変ニ長調 / 2. 嬰ハ短調 / 3. ト短調 / 4. ヘ長調 / 5. ニ短調 / 6. 変ホ短調 / 7. イ長調 / 8. ハ短調 / 9. ホ短調】
- フォーレがこの前奏曲集を作曲した時期は、ドビュッシーが前奏曲集第1巻を作曲した時期と重なっている。ドビュッシーの作品と異なり、フォーレは作曲意図の手がかりを残していない。フォーレは1910年の1月に最初3曲の前奏曲を出版者に渡しており、同じ年の秋にかけて残りの6曲を作曲した。
歌曲
- 夢のあとで Op.7-1(Après un rêve, 1865年頃)
- 歌曲集『3つの歌』Op.7の第1曲。ロマン・ビュシーヌによるイタリア詩からの訳詩による作品。フォーレの歌曲中最も有名な作品。様々な編曲で演奏される。
- イスパハーンの薔薇 Op.39-4(Les Roses d'Ispahan, 1884年)
- 歌曲集『4つの歌』Op.39の第4曲。ルコント・ド・リールの詩による作品。
月の光 Op.46-2(Clair de lune, 1887年)- 歌曲集『2つの歌』Op.46の第2曲。ポール・ヴェルレーヌの詩による作品。これ以後の7年間、フォーレはヴェルレーヌの詩に集中的に作曲するようになる。
- 5つのヴェネツィアの歌 Op.58(Cinq mélodies de Venise, 1891年)
- 【1. マンドリン / 2. ひそやかに / 3. グリーン /4. クリメーヌに / 5. 恍惚】
- ヴェルレーヌの詩による、フォーレの最初の連作歌曲集。1891年5月にイタリアのヴェネツィア、フィレンツェに旅行したときに「マンドリン」が書かれ、その夏に全曲が完成している。
- 歌曲集『優しい歌』 Op.61(La bonne chanson, 1891年 - 1892年)
- 【1. 後光を背負った聖女 / 2. 暁の光は広がり / 3. 白い月影は森に照り /4. 私はつれない道を歩む / 5. 私は本当に恐ろしいほど / 6. 暁の星よ、おまえが消える前に / 7. それはある夏の明るい日 / 8. そうでしょう / 9. 冬が終わって】
- ヴェルレーヌの詩による歌曲集。全曲を通じていくつかの共通した動機が確認され、統一性がもたらされている。作曲当時、親密であったエンマ・バルダック(歌手でもあった)との交際とその助言に大いに触発され、後年フォーレは「『優しい歌』ほど自発的に書けた作品はなかった。少なくとも、最も感動的な歌手が備えていた自発性によって、自然と明快な表現が生み出されていったことは付け加えておかねばならない。」と述懐している。この作品を聴いたサン=サーンスが「フォーレは完全に気が狂ってしまった」と叫んだことが知られている。フォーレ自身による、伴奏をピアノと弦楽五重奏のために編曲した版がある。
- 九月の森で Op.85-1(Dans la forêt de septembre, 1902年)
- 歌曲集『3つの歌』Op.85の第1曲。カチュール・マンデスの詩による作品。
- 歌曲集『イヴの歌』 Op.95(La chanson d'Ève, 1906年 - 1910年)
- 【1. 楽園 / 2. 最初の言葉 / 3. 燃えるバラ / 4. 神の輝きのように / 5. 夜明け / 6. 流れる水 / 7. 目覚めているか、太陽の香り / 8. 白いバラの香りの中で / 9. たそがれ / 10. おお死よ、星くずよ】
- シャルル・ファン・レルベルグの詩による歌曲集。1910年4月、ジャンヌ・ロネーのソプラノ(献呈も)、フォーレのピアノによって初演された。『優しい歌』のような統一性は見られない。これについてフォーレは「異なった性格の二つの詩からは必然的に二つの異なった音楽が生まれる」と語っている。
- 歌曲集『閉ざされた庭』 Op.106(Le jardin clos, 1914年)
- 【1. 聴許 / 2. あなたが私の目を見入るとき / 3. 使い女 / 4. 私はおまえの心に身を委ねよう / 5. ニンフの神殿で / 6. 薄暗がりで / 7. 私には大切なのです、愛の神よ / 8. 砂の上の墓碑銘】
- ファン・レルベルグの詩による2つめの連作歌曲集。より簡潔で透明な後期の様式が現れている。
- 歌曲集『幻影』 Op.113(Mirages, 1919年)
- 【1. 水の上の白鳥 / 2. 水に映る影 / 3. 夜の庭 /4. 踊り子】
- ルネ・ド・ブリモン男爵夫人の詩による歌曲集。1919年7月から8月にかけて一月足らずで作曲された。同年12月、マドレーヌ・グレーのソプラノ(献呈も)、フォーレのピアノによって初演された。
- 歌曲集『幻想の水平線』 Op.118(L'horizon chimérique, 1921年)
- 【1. 海は果てしなく / 2. 私は乗った / 3. ディアーヌよ、セレネよ /4. 船たちよ、我々はおまえたちと】
第一次世界大戦で若くして散った詩人、ジャン・ド・ラ・ヴィル・ド・ミルモンの詩による、フォーレ最後の歌曲集。1921年秋、チェロソナタ第2番の完成後に作曲された。翌1922年5月、シャルル・パンゼラ(献呈も)の独唱とフォーレのピアノによって初演された。初演者のパンゼラは、その著書のなかで「ガブリエル・フォーレよ、あなたの最後の曲集は一人の詩人の最後の作品と交わった」と書いている。ネクトゥーは「貴族的な慎みをそなえた『幻影』とは対照的に、直ちに魅了する直接的な調子を持つ」力強く輝かしい作品としている。
宗教曲・合唱曲
ラシーヌの雅歌 Op.11(Cantique de Jean Racine, 1863年 - 1864年)
ハルモニウムまたはピアノ伴奏による合唱曲。
レクイエム Op.48(1887年)- 別項参照。
パヴァーヌ Op. 50(Pavane, 1887年)- 合唱と管弦楽のための作品。合唱は省かれることもある。2種の編曲版が存在。
- 小ミサ曲(Messe basse)
アンドレ・メサジェとの共作の『ヴィレルヴィルの漁師のミサ』(Messe des pêcheurs de Villerville, 1881年 - 1882年)を改作。
歌劇
現在ではほとんど上演されないが、フォーレには以下の2曲の大作がある。
- 悲歌劇『プロメテ』(Prométhée)全3幕 Op.82(1900年)
アイスキュロスのギリシア悲劇に基づく、ジャン・ロランおよびアンドレ=フェルディナン・エロルドの台本。吹奏楽編曲はシャルル・ユスタースによる。1900年8月、ベジエの野外円戯場において、300名の吹奏楽団、100名の弦楽、13名のハープ、30名の舞台上のトランペット、200名の合唱など、総勢800人に上る演奏者とフォーレ自身の指揮によって初演された。聴衆は1万人といわれる。フォーレの弟子ロジェ=デュカスによる通常のオーケストラによる演奏会用の編曲がある。- 歌劇『ペネロープ』(Pénélope)全3幕(1907年 - 1912年)
- ギリシア叙事詩『オデュッセイア』に基づく、ルネ・フォーショワの台本による。1913年3月、レオン・ジェアン指揮によりモンテカルロで初演、同年5月のパリ初演で大きな成功を収めた。フォーレは1905年にフランス国立音楽・演劇学校の学長に就任しており、以降年2か月間の休暇中に集中して作曲している。このため『ペネロープ』の作曲期間は実質10か月程度と見られる。初演に間に合わせるために、第2幕の第2場以降および第3幕の最後の場面のオーケストレーションについて、フェルナン・ペクー(ヴァンサン・ダンディの弟子)の手を借りたことが認められる。フォーレの後期様式を決定づける重要な作品であるが、めったに上演されない。
出典・脚注
^ 「私の『レクイエム』について言うならば、恐らく本能的に慣習から逃れようと試みたのであり、長い間画一的な葬儀のオルガン伴奏をつとめた結果がここに現れている。私はうんざりして何かほかのことをしてみたかったのだ。」(『ガブリエル・フォーレ 1845‐1924』p.83)
^ Fauré Gabriel Urbain(1845-1924)Mugicologie.org, 13 Février, 2015
^ フランス語版Wikipedia Emmanuel Fauré-Fremiet
- ^ abMitzie Verne Benjamin Rose Institute on Aging,December 2013
^ Like A Catfish .He Slips From Subject To Subject With A SmileThe Evening Independent - Dec 31, 1981
参考書籍
- ジャン=ミシェル・ネクトゥー著『ガブリエル・フォーレ 1845-1924』大谷千正編訳 新評論 ISBN 978-4794807861
- ジャン=ミシェル・ネクトゥー編著『サン=サーンスとフォーレ 往復書簡集 1862-1920』大谷千正・日吉都希惠・島谷眞紀訳 新評論 ISBN 978-4794801777
- ジャン=ミシェル・ネクトゥー著『評伝 フォーレ 明暗の響き』大谷千正監訳、日高佳子・宮田文子訳 新評論 ISBN 978-4794802637
- ウラディミール・ジャンケレヴィッチ著『フォーレ 言葉では言い表し得ないもの…』大谷千正・小林緑・遠山菜穂美・宮川文子・稲垣孝子訳 新評論 ISBN 978-4794807052
- 日本フォーレ協会編『フォーレ頌 不滅の香り』 音楽之友社 ISBN 978-4276131712
ネクトゥーには4冊の研究書(うち3冊は日本語版あり)があり、近年の研究の進んだものとして知られる。
このほか、フォーレ関係の著作には、次男フィリップ・フォーレ=フレミエの伝記、弟子のエミール・ヴュイエルモーズ等のフォーレ論、またアルフレッド・コルトー(『フランス・ピアノ音楽第一巻』収録)、マルグリット・ロン等によるピアノ曲の解説などがある。
関連項目
Category:フォーレの楽曲
外部リンク
- 日本フォーレ協会
- ガブリエル・フォーレ Gabriel Fauré (1845-1924)
ガブリエル・フォーレの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト。PDFとして無料で入手可能。
ガブリエル・フォーレ作曲の楽譜(無料配布) - Choral Public Domain Library (ChoralWiki)
ガブリエル・フォーレ - ドイツ国立図書館の蔵書目録(ドイツ語)より。
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