犬追物
犬追物 いぬおうもの | |
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右端の人物は物見役(審判) | |
競技形式 | 儀式・的中 |
使用武器 | 和弓・矢・馬 |
発生国 | 日本 |
発生年 | 中世? |
創始者 | 不明 |
源流 | 騎射・追物射(おうものい) |
犬追物(いぬおうもの)は、鎌倉時代から始まったとされる日本の弓術の作法の一つ。流鏑馬、笠懸と共に騎射三物の一つに数えられる。
目次
1 作法
2 歴史
3 関連書籍
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
作法
競技場として40間四方の平坦な場を準備し、そこを「馬場」とする。その馬場に36騎の騎手(12騎を1組とする)、2騎の検分者(「検見」[1]といわれる)、2騎の喚次、150匹の犬を投入し、所定の時間内に騎手が何匹犬を射たかで争う。矢が貫かないよう「犬射引目」(いぬうちひきめ)という特殊な鏑矢を使用した。ただ単に犬に矢を当てればよいというものではなく、相撲の決め手のように打ち方や命中した場所によっていくつもの技が存在した。この判定のために検見や喚次が必要となった。馬上の三物(みつもの)の一つ。
歴史
文献上では1207年(『明月記』承元元年)に最初に見られる。以後室町時代にかけて武芸の鍛錬として盛んに行われ、諏訪大社や下鴨神社・上賀茂神社などでは神事として開催され見物客で賑わった。下鴨神社のものは「洛中洛外図屏風(歴博甲本)」に、上賀茂神社のものは「賀茂競馬犬追物図屏風」に描かれている。当時は獣類を馬で追い騎射をする競技を総称して「追物射」(おうものい)といい、牛を追う「牛追物」などもあったが、犬を追う「犬追物」だけが残った。日本各地の犬馬場・犬射馬場・乾馬場・弓馬場という地名は、そこで犬追物が行なわれていた名残である[2][3][4]。
『太平記』に拠れば、北条氏得宗家(宗家)最後の当主北条高時が闘犬や犬追物に熱中し政治を省みなくなり、鎌倉幕府滅亡の原因となったとする逸話を記している。戦国時代に入ると、作法を保持していた有力な守護大名・守護代が次々と滅び、江戸時代まで作法を継承できたのは島津氏と小笠原氏に細川家だけとなった。その後、薩摩藩では一時生類憐れみの令による中断を除き、世子の元服の時など慶事のおりに開催していた。また、島津光久が徳川家綱のために興行したこともある。徳川吉宗も鷹狩と共に小笠原流を復興させた。
明治維新の後、幕藩体制が崩壊。幕府、薩摩藩という庇護者を失った犬追物は技術保持が困難となった。当時の日本では西洋偏重で自国の伝統文化を軽視する風潮があったことに加え、広大なスペースと大勢の競技者が必要な犬追物は興行にも稽古にも多大な費用を必要としたからである。そのような状況にあったが、明治12年(1879年)と明治14年(1881年)、上野公園で島津忠義が明治天皇の前で犬追物の天覧を行う[5]。明治12年の興行には訪日中のグラント将軍も臨席[6][7]。明治24年(1891年)には、訪日中で薩摩を訪れたロシア皇太子ニコライに仙巌園で披露。現在、島津家関係の史料(国宝「島津家文書」など)や小笠原流に武田流(細川流)、「犬追物之図」、「犬追物図説」(伊勢貞丈著)などの資料により作法は伝わっているが、実演の方は動物愛護との絡みもあり、今後も復興される可能性は薄いが、実現に向けての動きがある。
関連書籍
- 『河原ノ者・非人・秀吉』服部英雄、山川出版社、 2012/5
脚注
^ 紙本著色 武田元光 犬追物検見之像 (発心寺所蔵)
^ 犬の馬場という地名
^ 福岡市博多区の犬射馬場跡
^ 諏訪大社 犬射馬場跡
^ 馬上の島津忠義
^ 見世物興行年表:明治12年(1879年)六
^ 見世物興行年表:明治12年(1879年)七
関連項目
- 弓術
- 流鏑馬
- 笠懸
- 騎射三物
- 弓道
細川成春 - 養宜館周辺で頻繁に行われていた- 打毬
- 洛中洛外図屏風(歴博甲本)
- ブラッド・スポーツ
外部リンク
- 犬追物図屏風
- 室町時代の小京都
- 朝倉義景・犬追物興行
- 【高島市歴史散歩】武芸の訓練の場 犬ノ馬場 - びわ湖源流 ドット コム
- 紅葉台木曽馬牧場 犬追物
- 犬射馬場 《諏訪大社下社散歩道》
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