家庭用電気機械器具
家庭用電気機械器具(かていようでんききかいきぐ)は、電気機械器具の中で、主に家庭用として使用される製品群。
目次
1 名称
2 各国における家電
2.1 欧米における家電
2.2 日本における家電
2.2.1 法制度
2.2.2 家庭用電気機械器具(家電)業界
2.2.2.1 家庭用電器機械器具製造業
2.2.2.2 家庭用電器機械器具小売業
2.3 中国における家電
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
名称
日本語では家電機器(かでんきき)や家電製品(かでんせいひん)と呼称する。単に家電(かでん)とも略される。白物家電や娯楽家電、家庭用の照明器具や冷暖房器具を包括する概念である。
日本の諸法令[1]や、行政発行の文書における用例では「家庭用電気機械器具」が用いられているが、一般的には、次のように呼ばれることもある。
家庭用電気器具(かていようでんききぐ)
家庭用電気機器(かていようでんききき)
家庭(用)電気製品(かてい(よう)でんきせいひん)
- 略称・電気製品(でんきせいひん)、家電製品(かでんせいひん)、家電(かでん)
家庭(用)電化製品(かてい(よう)でんかせいひん)
- 略称・電化製品(でんかせいひん)
各国における家電
欧米における家電
家庭用の電気製品は20世紀初頭に革新期を迎えた[2]。1908年に電気掃除機が発明され、1920年代から1930年代にかけて電気洗濯機・テレビ・電気冷蔵庫が発明された[2]。さらに1930年代には蛍光灯の発売が開始された[2]。こうした一連の発明により基礎的な家電製品が揃い、現代的な生活様式が確立された[2]。
しかし、当時の家電製品は価格が非常に高かったうえ、電気に対して恐怖心を持つ人々も多く普及の壁となっていた[2]。初期の家電製品は性能も不安定で電気洗濯機であれば故障や感電が多発するなど実用でも難があったため、その普及は資金があり電気の知識を有している中産階級家庭に限られていた[2]。
第二次世界大戦後は故障を起こしにくく操作性も向上させるという家電製品の改良型革新が進んだ[2]。
日本における家電
法制度
家庭用と工業用との商用電源では電圧、電流が異なるが、家庭用電気製品は、一般家庭に配電されている単相100ボルトまたは単相200ボルトの電圧に対応し、販売は電気用品安全法(PSE法)に定められており、素人が使用しても危険がないように設計され、説明書なども詳しく書かれている。
家庭用電気機械器具(家電)業界
家庭用電気製品を販売する小売店舗を家電店(電気店、電器店)と呼び、製造・卸売を含めて家電業界と呼ぶ。
2000年代に入り「ヤマダ電機」や「コジマ」など上位家電小売業チェーンによる販売の寡占化が進んだ結果、また2009年頃から家電レンタル業者の参入もあり、家電業界全体が熾烈な競争社会となっている。
家庭用電器機械器具製造業
1920年代より、輸入されていた家庭用電気製品について、簡単なものから国産化を進めていった。
1950年代には、家庭の電化が進み製造量が飛躍的に伸び始めた。
1960年代より、輸出されるようになっていった。
1970年代は、品質も向上し主要な輸出品目となった。
1980年代中ごろより円高で日本製品の競争力が低下し、韓国や台湾、東南アジアを中心としたNIES諸国のメーカーが台頭した。当時の韓国や台湾ブランド製品は品質も低く日本国内ではあまり浸透しなかったが、日本メーカーの海外製造拠点で生産された製品の逆輸入が広がり始める。
1990年代中ごろより、日本メーカーは技術の確立した部品も中国などで生産するようになり、一部部品や先端商品のみの国内生産となっていった。
2000年代に入り、海外の家電市場は中国や韓国、台湾メーカーに席巻される。日本の大手メーカーはサムスン電子など海外の有力メーカーに比べデザイン性やブランド力でも劣ると評価されるようになり、日本の得意分野であるAV機器の一部(カメラ、ゲーム機など)や空調機器を除いて存在感を失った。
2010年代には、大手メーカーの一世代前の技術を活用する新興企業の存在感が拡大し、ジェネリック家電が定着した。
主な企業は、日本の企業一覧 (電気機器)を参照
家庭用電器機械器具小売業
- 1950年代より、メーカー系家庭用電気製品小売業チェーンの個人商店の組織化(例:松下電器産業(現在のパナソニック)による「ナショナルショップ(現在のパナソニックショップ)」「ナショナル店会」、日立製作所の「日立チェーンストール」、東芝の「東芝ストアー」、三菱電機の「三菱電機ストアー」など)がされ、家庭への普及の足がかりとなった。
- 1970年代より、スーパーマーケットチェーンが、家庭用電気製品の安売りをはじめた。
- 1970年代中ごろより、日本電気大型店協会加盟企業を中心とした、独立系家電小売業チェーンが、鉄道の主要駅前に大型店舗を出店するようになった。
- 1980年代中ごろより、独立系家電小売業チェーンが、ロードサイド郊外型の大型店を出店しはじめた。この頃から、「○○電気商会」といった、メーカー系個人商店の減少が始まる。
- 1990年代後半から独立系家電小売りチェーン企業の競争が全国レベルに激化し、和光デンキ、そうご電器など多くの地方家電が姿を消した。一方、価格破壊を全面的に打ち出した通称YKK(ヤマダ電機、コジマ、ケーズデンキ)やカメラ系量販店(ビックカメラ、ヨドバシカメラなど)が急速に台頭、これらは従来の電気街を凌駕する勢力を見せるようになった。
- 2000年代になってから、高齢化の進行に伴い、個人商店への回帰が徐々に始まり、その存在が見直されつつある。もっとも、経営者の後継者不足という根本的問題を解決しない限り、今後供給不足という事態に陥る危険は高い。
- 2010年頃から、イオンがプライベートブランドトップバリュで家電製品の販売を拡大。
主な独立系家電(カメラ系含む)小売チェーン企業は、家電量販店を参照
中国における家電
第二次世界大戦後、中国の経済政策は国防力増強と重化学工業化に重点が置かれており、消費財生産が停滞し、家電産業も著しく立ち遅れていた[3]。
テレビ技術でみると中国では1960年代には白黒テレビが生産され、1970年代初頭にはトランジスタ式カラーテレビが開発されるなど、この時点では日本や米国に大きく遅れをとってていたわけではなかった[3]。しかし、1970年代になると日本企業では技術革新が進んで生産台数が急増したのに対し、中国では1970年代末まで白黒テレビの生産が中心で1978年時点でも中国でのカラーテレビの年間生産台数は4,000台以下だった[3]。
中国で家電産業が発展したのは1970年代末になってからで、当時の一般家庭にみられた家電製品はラジオ、ラジカセ、扇風機などに限られ、テレビや白物家電の普及率は極めて低かった[3]。
1972年に米中間の国交が回復すると先進諸国から工業技術の導入が始まった[3]。1978年に改革開放路線が打ち出されるとともに重工業優先の政策が見直され、国民生活の向上に貢献できる消費財の生産への転換が図られた[3]。その初期には衣服、食品、自転車などの軽工業が生産の中心であったが、所得増加とともに家電製品の国産化も視野に入れられるようになった[3]。しかし、企業の生産規模は小さく品質も劣悪であった上、消費財は需要に生産が追いつかなくなったため、中国政府は家電製品など各種耐久消費財について輸入代替化を推進し、技術・設備導入と基幹部品生産外国投資の誘致を図った[3]。
1990年代中頃までに外国企業が直接投資により中国への市場参入を試みたが、既に家電市場は供給過剰となっており、激しい投資競争は深刻なデフレを招いた[3]。このような状況のもとで中国の有力企業が次第に台頭するようになり市場の寡占化が進んだ[3]。
脚注
^ 割賦販売法施行令や特定商取引に関する法律施行令、日本標準産業分類など
- ^ abcdefg田中辰雄 『モジュール化の終焉 - 統合への回帰』、2009年、76頁。
- ^ abcdefghij天野 倫文. “中国家電産業の発展と日本企業”. 開発金融研究所報. 2018年10月12日閲覧。
関連項目
- ジェネリック家電
外部リンク
- 一般社団法人 日本電機工業会
- 財団法人 家電製品協会