トキノミノル





































































トキノミノル
(旧名パーフエクト)

Tokino minoru.jpg
トキノミノル 1951年5月13日撮影

品種
サラブレッド
性別
牡
毛色
鹿毛
生誕
1948年5月2日
死没
1951年6月20日(3歳没・旧4歳)
父
セフト
母
第二タイランツクヰーン
母の父
Soldennis
生国
日本の旗 日本(北海道三石郡三石町)
生産
本桐牧場
馬主
永田雅一
調教師
田中和一郎(東京)
厩務員
村田庄助
競走成績
生涯成績
10戦10勝
獲得賞金
425万7150円
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トキノミノルは日本の競走馬である。10戦10勝・うちレコード優勝7回という成績でクラシック二冠を制したが、東京優駿(日本ダービー)の競走17日後に破傷風で急死、「幻の馬」と称された。戦後中央競馬で10走以上した馬で、唯一全勝を記録している[注 1]。主戦騎手は岩下密政。1984年、顕彰馬に選出。デビュー当初は「パーフエクト(パーフェクト。以下同様に記述)」の名称で出走していた。




目次






  • 1 出生 - デビューまで


  • 2 戦績


    • 2.1 デビュー戦の圧勝と改名


    • 2.2 9連勝で皐月賞制覇


    • 2.3 調教不順から東京優駿制覇




  • 3 破傷風で死亡


    • 3.1 死後




  • 4 競走成績


  • 5 評価・特徴


    • 5.1 競走馬としての評価


      • 5.1.1 競走面での特徴・脚質




    • 5.2 身体面の特徴


      • 5.2.1 脚部不安




    • 5.3 競馬界に与えた影響




  • 6 血統


    • 6.1 血統的特徴


    • 6.2 血統表


    • 6.3 主な近親




  • 7 脚注


    • 7.1 注釈


    • 7.2 出典




  • 8 参考文献


  • 9 関連項目


  • 10 外部リンク





出生 - デビューまで


1948年、北海道三石郡三石町(現・日高郡新ひだか町)の本桐牧場に生まれる。父セフトは当時のリーディングサイアー、母の第弐タイランツクヰーンは小岩井農場の基礎輸入牝馬の1頭・タイランツクヰーンの娘。第6仔であった。幼名(血統名)は「パーフェクト」。当時本桐牧場には7頭の繁殖牝馬が繋養されていたが、当年誕生したのは本馬のみであった[1]。このため 千葉県から「遊び相手」として同齢の牡馬が買われ、同馬と共に幼駒時代を過ごした[2]。


生産者である笠木政彦の回想に依れば「生まれたときから大きく、逞しい仔[3]」であったが、当時セフトは日本では非主流であった短距離向きの種牡馬と見られており、また兄姉の成績も芳しくなく、すぐに買い手は付かなかった[4]。しかし東京から訪れた調教師・田中和一郎は後躯の発達振りに惚れ込み[5]、大映社長・永田雅一に購入を勧めた。当初永田は渋っていたが、笠木からも説得を受けて購買、自身の所有馬とした[4]。売却額は100万円という高価[注 2]であった。しかし永田は本馬にさして思い入れを見せず、競走年齢の3歳を迎えても競走名を付けなかった。これを受けて笠木が田中に相談し、やむなく血統名パーフェクトのまま競走登録が行われた[6]。



戦績



デビュー戦の圧勝と改名


1950年7月、函館競馬場に移動して初戦を迎えたが、競走2日前の発馬練習で気性の悪い部分を見せ、また全姉ダーリングも発馬に難のある馬だったため、一旦は出馬登録を拒否された[7]。当時の有力馬主であった栗林友二の口利きで出走が認められるも、評価は1番人気から大きく離された2番人気(3頭立て)だった。


発走直前には再び暴れて騎手の岩下を振り落としたが[7]、レースが始まると素直なスタートを見せ、先頭に立つ。道中でそのまま他馬を引き離すと、ゴールでは2着マッターホンに8馬身差をつけて優勝。勝ちタイム48秒1は芝800mの日本レコード、上がり3ハロン35秒0は当時としては驚異的な走破タイムであった。


当日の晩に田中が永田へ勝利報告の電話を掛けると、永田はパーフェクトを買ったことを忘れており、「何だそれは」と問い返したという[8]。しかし数日後に田中厩舎を訪れた際には、田中と、挨拶に来ていた笠木を前に「君たちのお陰でダービーが取れるんだよ」と上機嫌であった[9]。また永田はこの場でパーフェクトの競走名を「トキノミノル」に替えることを決定。この名前には「競馬に懸けた時が実るときが来た」という意味とされ[10]、また「トキノ」については永田が尊敬していた菊池寛が使用した冠名の借用で、ダービーを意識する期待馬のみに使用するものだった[11]。



9連勝で皐月賞制覇


以降、トキノミノルは連勝を続ける。2戦目のオープン戦を快勝した後、3戦目の札幌ステークスでは、ここまで3戦3勝のトラツクオー(トラックオー)に10馬身以上の大差を付け、レコードタイムで優勝。初めて関東に移動しての4、5戦目もレコードタイムで優勝し、関東の3歳王者決定戦・朝日盃三歳ステークスを迎える。ここで重馬場での競走を初経験するが全く問題とせず、2着イツセイ(イッセイ)に4馬身差を付けて優勝。6連勝で3歳王者となった。


翌1951年、4歳初戦は中山競馬場の選抜ハンデキャップに出走。これまでの斤量から一気に7kgの増量となる59kg、また、かねて不安のあった膝の状態も憂慮されていたが[12]、スタートから競り掛けてきたトラックオーを逆に競り潰す形で逃げ切り、イッセイに3馬身半差・レコードタイムで優勝した。次走のオープン戦では地元・東京競馬場で初出走。初めての左回りコースへの不安視も覆し、2馬身差で8連勝を遂げた。




皐月賞優勝時


5月13日にクラシック初戦・皐月賞を控え、連勝を続けるトキノミノルの活躍は、日頃競馬に興味を抱いていない一般にも伝えられ[13]、迎えた当日には単勝支持率73.3%という圧倒的な1番人気に推された[注 3]。トキノミノルは例の通りスタートから逃げると、従来のレースレコードを一挙に6秒1短縮する、2分3秒0という芝2000mの日本レコードで優勝した。着差は2馬身であったが、ゴール前では鞍上の岩下が後ろを振り向くほどの余裕があった[12]。岩下、永田はこれが初めてのクラシック制覇、田中はクモハタ、セントライトに次ぐ勝利で、尾形藤吉、東原玉造に並び、当時最多の皐月賞3勝目となった。



調教不順から東京優駿制覇


しかし競走翌日、中山競馬場から帰厩したトキノミノルは歩行異常を来たし[14]、さらに25日には右前脚に裂蹄を生じた[15]。31日は東京優駿に向けての最終調教を行ったが、岩下は脚の状態を慮り、最後の600mだけを通常通りに走らせるという軽い調教で済ませた[16]。これを受け、調教後にはトキノミノルの状態を不安視する見解が各マスコミから伝えられた[17]。さらにこの翌日、右前脚を庇い続けたことで左前脚の腱が腫れ、厩舎関係者総出の治療が行われた[18]。永田は「出れば1番人気になることは分かっているのだから、ファンに迷惑は掛けられない」と出走辞退も示唆していたが、競走前日から状態の良化が見られ、さらに当日朝には両前脚とも全く不安のない状態となった[注 4]。これで正式に出走が決定したが、調教過程の不順もあり、田中は調教手帳に「実に不安」と記し[19]、永田は「今年のダービーは開催日が6月3日でこれを足すと9、トキノミノルの枠順が9、脚の故障で苦、レースでも苦になりそうだ」と漏らしていた[20]。レースに臨んでは蹄と蹄鉄との間にフェルトを挟み込み、負担を軽減するという措置が取られた[21]。


当日の東京競馬場には7万人を超える観客が集い[22]、競走史上初めて内馬場が観戦用に開放された[20]。記者の大島輝久によれば、このとき初めて競馬新聞の印刷に謄写版ではなく輪転機が使用され、刷り上がったそばから売れていったという[23]。不調が伝えられていたトキノミノルは皐月賞よりも評価を落としたが、それでも支持率50%を越える圧倒的1番人気に推された。レースが始まると、トキノミノルはデビュー以来初めて先頭を切らず、道中8-9番手を進んだ。しかし向正面から行き脚をつけて先行勢を交わしていくと、そのままゴールまで先頭で押し切り、イッセイに1馬身余の差で優勝。1943年のクリフジ以来史上2頭目となる、無敗でのクラシック二冠を達成した。優勝タイムはそのクリフジが記録したレースレコードを0.3秒短縮するものであった。岩下は道中で控えた理由について、「脚が心配なければ楽に逃げ切る自信はあった。けど、この時は脚がもたないかもしれない、故障してしまうかも知れない、そう思うと怖くて行けなかった」と語っている[24]。


競走直後、凱旋するトキノミノルに対して観客が殺到し、埒が破損。口取り撮影(記念撮影)は、馬場内になだれ込んだ観客に囲まれた中で行われた。秋にはセントライト以来史上2頭目のクラシック三冠は確実と見られ、永田は記者に対し、三冠が達成された場合、史上初のアメリカ遠征を行うことを発表した[25]。




破傷風で死亡


競走後の数日間、トキノミノルは調教を休んでいたが、16日午後になって目が赤くなっているのが見つかり、結膜炎が疑われて治療が行われた[27]。翌日には歩様がぎこちなく、目の充血が悪化、さらに瞬膜の突出も見られたため、強心剤と輸液が投与された。夕方には症状がさらに悪化、ここで破傷風が疑われ、永田と岩下が東京競馬場診療所・小平分室へ赴いて血清を受け取り、帰厩後にペニシリン等と共に投与された[28]。


18日には身体各部の硬直が見られ、夕方には接触、光、音に異常に敏感に反応するという破傷風特有の症状が現れる。厩務員の草刈りの音で全身硬直を起こすに至り、医師と厩務員以外、一切の接触が禁止、また陽光を避けるため馬房も羽目板で閉め切られた[28]が、翌19日には症状が治まり、食欲に若干の回復が見られた。翌20日にはニンジン、青草を食べる程度に回復し、正午には獣医師・松葉重雄、石井進の診察で、急変への注意は必要であるものの、快方へ向かうとの予測が立てられた[28]。しかし同日午後になって容態が急変、18日に起こしたものと同様の全身硬直を二度、三度と繰り返した。痺麻薬の浣腸が行われたが病状は悪化の一途を辿り、嚥下障害のため鎮痙剤の投与も不可能となった。午後6時40分には全身痙攣を起こして倒れ、それからおよそ4時間後の午後10時34分、トキノミノルは破傷風に伴う敗血症で死亡した[29]。


最期の様子を看取った競馬記者の橋本邦治は、「これがあのダービー馬かと目を疑いたくなるような、寂しい姿だった」と回想している[30]。当日、岩下は所用で外出していたが、容態の急変を知らされて帰厩、トキノミノルは岩下に「どうしたどうした」と声を掛けられた直後に目を閉じ、死亡したという[31]。


トキノミノルの治療に投じられた薬剤費はダービーの1着賞金に匹敵する額であったとされる[32]。破傷風菌は5月25日に生じた裂蹄で侵入したとも見られたが、担当獣医の柴田直哉は、当該患部に菌の浸食はそれほど見られなかったとしている[29]。トキノミノルの病状は詳細に記録され、後に破傷風の研究進歩に貢献した[33]。



死後




トキノミノル墓碑


トキノミノルの死は一般紙にも取り上げられ、読売新聞は社会面のトップで報じた[34]。こうした中で作家の吉屋信子が毎日新聞に寄せて「初出走以来10戦10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーに勝つために生まれてきた幻の馬だ」という追悼文を発表し、以降この「幻の馬」がトキノミノルの二つ名として定着した。厩舎で葬儀が行われた後、死体は東京競馬場所有墓地に運ばれ、第4代日本ダービー優勝後に調教中の骨折で死亡したガヴアナー(ガヴァナー)の隣に埋葬された[35][注 5]。現在はガヴァナー他と共に、東京競馬場正門前の馬霊塔に改葬されている。


永田はその死を悼み、1955年に映画『幻の馬』を制作、文部省選定映画となった。さらに彫像の製作も発案され、日本寺大仏等を手掛けた仏師・八柳恭次に製作が依頼された。しかし八柳は動物彫刻は専門外であったため、完成品の石像は不評だった[36]。このため、同作は田中和一郎の長男・和夫が引き取り、馬をはじめとする動物彫刻の第一人者・三井高義に改めて依頼[36]。三井の手によるブロンズ像は1966年に完成し、同年12月7日に東京競馬場パドック脇に設置され、除幕式が行われた[36]。その後「トキノミノル像」はファンの間で、東京競馬場の待ち合わせ場所としても定着している[37]。こうした永田の行動に対し競馬評論家の遠山彰は、トキノミノルの死が「病後の無理使いが招いた悲運だ」とした上で、「周囲の人間の欲が、名馬を抹殺したのだ」「そこまでするくらいの名馬なら、なぜダービー出走を断念しなかったのだろう」と批判した[38]。




毎年2月の明け満3歳による重賞競走「共同通信杯[注 6]」は、その名を冠し「トキノミノル記念」の副称が付けられている。中央競馬史上、重賞名に馬名が冠されたものは他にセントライト、シンザン、セイユウ、クモハタ、カブトヤマ、タマツバキ、シュンエイのみである[注 7]。1984年には中央競馬において記録的・文化的に顕著な貢献があった馬を後世に伝えるという趣旨の「顕彰馬制度」が発足し、同年行われた第1回選考で顕彰馬に選出された[注 8]。



競走成績

















































































































































































年月日

レース名
頭数
人気
着順
距離(状態)
タイム
着差

騎手

斤量
勝ち馬/(2着馬)
1950
7.
23

函館
新馬
3
2

1着
芝800m(良)

R48.1
8身

岩下密政
51.5
(マツターホーン)

8.
23

札幌
オープン
5
1

1着

ダ1000m(良)
1:02.0
2 1/2身
岩下密政
51.5
(フミワカ)

9.
3
札幌
札幌ステークス
11
2

1着
ダ1200m(良)

R1:13.1
大差
岩下密政
51
(トラツクオー)

10.
1

中山
オープン
6
1

1着
芝1000m(良)

R1:01.2
6身
岩下密政
52
(シヤダイブルース)

10.
15
中山
優勝
4
1

1着
芝1100m(良)

R1.05.4
4身
岩下密政
52
(ハツピーウネビ)

12.
10
中山

朝日盃三歳ステークス
10
1

1着
芝1100m(稍)
1:06.3
4身
岩下密政
52
(イツセイ)
1951
4.
1
中山
選抜ハンデキャップ
6
1

1着
芝1800m(良)

R1:51.2
3身
岩下密政
59
(イツセイ)

4.
28

東京
オープン
4
1

1着
芝1800m(良)
1:52.4
2身
岩下密政
55
(イツセイ)

5.
13
中山

皐月賞
8
1

1着
芝2000m(良)

R2:03.0
2身
岩下密政
57
(イツセイ)

6.
3
東京

東京優駿
26
1

1着
芝2400m(良)

R2:31.1
1 1/4身
岩下密政
57
(イツセイ)


  • R はレコード勝ちを表す。


評価・特徴



競走馬としての評価


騎乗した岩下密政は、「文句なく速く、強かった。凄いバネとスピード、スタミナが共存していた」と評している[39]。レースを共にした騎手からも絶賛されており、「桁違いの強さで競馬にならなかった。とにかく強かった。素晴らしかったと思う[40]」(境勝太郎)、「なにしろ強かった。トキノミノルが一番強かった。あんな馬見たことない[41]」(浅見国一)、「先頭に行こうかなと思うのだが、いつも(トキノミノルが)前。調子が悪かったダービーでも第2コーナーからはアッサリ。能力が違ったのだ[30]」(保田隆芳)といった評が寄せられている。これに加え浅見は「生きていれば五冠は楽に取れた」とも述べ、日本競馬史上の最強馬候補に名を挙げている[42]。また、顕彰馬テンポイント等を生産した吉田牧場の吉田重雄も、「あの馬が最強でしょう」と評している[43]。



競走面での特徴・脚質


一般に逃げ馬と認識されており、2004年に日本中央競馬会の機関誌『優駿』が行った「個性派ホースBEST10」という企画において、1950年代-1970年代の逃げ馬部門の識者投票で第1位に選ばれた。しかし、橋本邦治は自ら1位に票を投じながら、「"何が何でも逃げる"タイプではないし、特に逃げ馬という印象も無い」と評し[44]、トキノミノルに投票しなかった福田喜久男は「スピードの絶対能力が違うが故に、ただ単に先に行っただけと考えている」と述べた[44]。岩下の回想では「出っぱ(スタート)の良い馬と比較すれば、むしろ遅い方」であったが、2完歩目から「あっという間にスピードに乗り、先頭に立つ」馬であったという[24]。また、「ゴール前3ハロン(約600m)辺りに掛かると、自分から動き始めたので、私は殆ど鞭を使わなかった」とも語っている[30]。



身体面の特徴


体高約160cm[45]。当時馬体重の発表はなかったが、田中が綴っていた調教手帳に、皐月賞出走時が445kgと記されている[46]。関係者の間では総じて見栄えの良い馬ではなかったと評されており、岩下は「馬相は余り良い方ではなかった[47]」、永田は初見の印象として「素人が見ると、あまり器量が良くない。大して走る馬じゃないと思ったが、ただ何となく精悍である」と述べている[48]。当時田中厩舎の見習い騎手であった野平好男は、「上背があるけど細く見えたのは、セフト産駒の特徴」としている[49]。




脚部不安


トキノミノルの最大の弱点として知られた膝痛は、特に4歳以降常態化しており、岩下は「そのレースで終わるかも知れないと、4歳になってからはいつも、一発勝負みたいな気持ちだった」と回想し[50]、また「一度でいいから4本脚で走らせたかった。いつも悪い膝を庇って3本脚で走って、7回もレコードで勝っているのだから、4本脚で走ったらどのくらい走るものか」と脚部不安を惜しんだ[51]。さらに野平によれば入厩当初から左前脚にも裂蹄の症状を抱え続けており、「稽古でも追い切ったことは一度もなく」「七分以上の稽古はやらせてもらえなかった」という[49]。



競馬界に与えた影響




ファンと共に写真に収まる。轡を取るのは永田雅一


トキノミノルの登場当時、国営競馬は地方競馬の好況に圧され、ダービーの開催すら不透明という経営不振の中にあった[52]。こうした状況下で一般の耳目も集める存在となったトキノミノルは、まず国営競馬にとっての「救世主[53]」であった。また、ダービー当日に訪れた7万人余りの観客には、「『一目でいいからトキノミノルのレースを見たい』というファンが多かった[22]」(橋本邦治)とされ、作家の岩川隆はこれを「単なるギャンブルではない。それまで競馬に無関心だった人達も、天が与え給うたこの一頭の馬の無心で懸命な疾走を目の当たりにするために、競馬場に足を運び始めた」と評した[53]。競馬評論家の大川慶次郎は「第3コーナーでトキノミノルが上がっていったとき、観衆がワーッと湧いた。みんなトキノミノルを応援してるんだなと思った」と回顧し、当時ファンが1頭を応援するという現象の特異性を指摘、また前述のファンに囲まれての記念撮影とも合わせ「戦後の競馬は、ファンの競馬になったと感じた」と述べた[54]。岩川はトキノミノルを「『ダービー中興の祖』であり『第一次競馬ブームの主人公』」としている[55]。



血統



血統的特徴


3×4のクロスとなっているThe Tetrarchは、伝説的な挿話を多数残す稀代の快足馬であり、当時の日本では規格外のトキノミノルのスピードは、このインブリードによるところが大きいとされた[20]。この「3×4」というインブリードによって血統内に発生する18.75%という血量は「奇跡の血量」と呼ばれ、近親繁殖の弊害を避け、当該祖先の長所のみを伝える血量として、当時イギリスで絶大な人気を誇った配合理論だった。セフトと第弐タイランツクヰーンの配合は「笠木が考案した」とされることも多いが、実際には笠木に本桐牧場を譲渡した下河辺孫一の考案によるものであった[56]。トキノミノルの成功により「18.75%理論」が日本の競馬界で広く支持されるようになった[57]。(日本で広まったのはBlandfordの3×4を持つコダマが発端であるという説[58]もある)。


血統研究家の笠雄二郎は、血統構成の面から「トキノミノルのスピードは完璧といっていい」、「無事ならセントライト以来の三冠はもちろん、セントライト以上の種牡馬となったであろう。急逝は馬産界にとって痛かった[59]」と述べている。



血統表




































































トキノミノルの血統(ヘロド系)
(血統表の出典)[§ 1]

父


*セフト
Theft
1932 鹿毛

父の父

Tetratema
1917 芦毛

The Tetrarch

Roi Herode
Vahren
Scotch Gift
Symington
Maund

父の母
Voleuse
1920 鹿毛
Volta
Valence
Agnes Velasques
Sun Worship

Sundridge
Doctorine

母


第弐タイランツクヰーン
1934 芦毛

母の父
Soldennis
1918 栗毛
Tredennis
Kendal
St.Marguerite
Soligena
Soliman
St.Guntheim

母の母
*タイランツクヰーン
Tylant's Queen
1928 芦毛

Phalaris

Polymelus
Bromus
Silver Queen

The Tetrarch
Princess Stering

母系(F-No.)

14号族(FN:14-f)
[§ 2]
5代内の近親交配
The Tetrarch 3×4、Ayrshire 5×5
[§ 3]
出典


  1. ^ JBIS トキノミノル5代血統表2015年4月29日閲覧。


  2. ^ JBIS トキノミノル5代血統表2015年4月29日閲覧。


  3. ^ JBIS トキノミノル5代血統表2015年4月29日閲覧。


祖母タイランツクヰーンは2000ギニー優勝馬セントルイスの姪に当たり、父には大種牡馬ファラリスを持つ屈指の名血であった。その子孫からはトキノミノルの他にも数々の活躍馬が出ており、競走馬としては大成しなかったイヅタダ、ダーリングといったトキノミノルの姉も、繁殖馬として優れた成績を残した。ダーリングの曾孫には八大競走を3勝したグリーングラスがおり、種牡馬となったグリーングラスを通じてダーリングの血が日本の多くのサラブレッドに伝えられている。



主な近親



  • シゲミノル(甥 - ラジオたんぱ賞)

  • コマノハナ(従妹 - クイーンステークス)

  • トキノメイヂ(従甥 - 日経新春杯)


  • エムローン(従甥 - 毎日王冠、アルゼンチン共和国杯、クモハタ記念)


  • ダーリングヒメ(従姪 - 七夕賞、福島大賞典 グリーングラスの母)

  • クインサーフ(従姪 - 東京障害特別)



脚注


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注釈





  1. ^ 戦前にクリフジが11戦11勝という成績を残している。


  2. ^ トキノミノル出走時の東京優駿1着賞金が100万円。


  3. ^ 皐月賞史上1位の支持率として保持されている。


  4. ^ 岩下は「全く嘘のようによくなったんですよ。周りのみんなが急に明るくなって、厩舎全体が沸き立ちました」と回想している。(渡辺、2004 p.118)


  5. ^ ガヴァナーもトキノミノルと同じく無敗でダービーを制し、その直後に調教中の故障で安楽死となっている。


  6. ^ 副称がつけられた1969年当時は東京4歳ステークス、1983年に共同通信杯4歳ステークスとなり2001年より現在の競走名となっている。


  7. ^ 重賞でなければ、2004年に行われた「JRAゴールデンジュビリーキャンペーン」、2010年に行われた「JRAプレミアム競走」の対象馬、2014年に行われる「JRA60周年記念競走」メモリアルホースなどの例はある。


  8. ^ 他に三冠馬セントライト、シンザンなど9頭が選出されている。




出典





  1. ^ 岩川(1994)


  2. ^ 岩川 pp.234-235


  3. ^ 岩川(1994)p.234

  4. ^ ab渡辺(2004)p.108


  5. ^ 『日本の名馬・名勝負物語』p.110


  6. ^ 岩川(1994)p.246

  7. ^ ab『日本の名馬・名勝負物語』p.109


  8. ^ 渡辺 (2004)p.110


  9. ^ 岩川(1994)p.247


  10. ^ 日本中央競馬会『優駿』2001年7月号 p.104


  11. ^ 岩川(1994)p.242

  12. ^ ab『日本の名馬・名勝負物語』p.113


  13. ^ 岩川(1994)p.251


  14. ^ 岩川(1994)p.257


  15. ^ 岩川(1994)p.258


  16. ^ 渡辺(2004)p.114


  17. ^ 渡辺(2004)p.115


  18. ^ 渡辺(2004)pp.115-116


  19. ^ 岩川(1994)p.260

  20. ^ abc『日本の名馬・名勝負物語』p.114。


  21. ^ 大川(1997)p.37

  22. ^ ab『日本の名馬』 p.129


  23. ^ 『優駿』1993年12月号、p.49

  24. ^ ab渡辺(2004)p.126


  25. ^ 岩川(1994)p.264


  26. ^ 『競馬』p.34


  27. ^ 『優駿』2002年4月号 p.88

  28. ^ abc『優駿』2002年4月号 p.89

  29. ^ ab『優駿』2002年4月号 p.90

  30. ^ abc『優駿』2004年10月号 p.13


  31. ^ 岩川(1994)p.266


  32. ^ 『優駿』2010年7月号、p.65


  33. ^ 岩川(1994)p.265


  34. ^ 『日本の名馬・名勝負物語』p.116


  35. ^ 岩川(1994)p.267

  36. ^ abc岩川(1994)p.268


  37. ^ 岩川(1994)p.230


  38. ^ 遠山 1993, p. 44.


  39. ^ 渡辺 (2004)p.111


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  41. ^ 『優駿』2000年5月号 p.36


  42. ^ 文藝春秋『Sports Graphic Number PLUS』1999年10月号 p.20


  43. ^ 『優駿』2000年9月号 p.53

  44. ^ ab『優駿』2004年10月号 p.12


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  55. ^ 岩川(1994)p.231


  56. ^ 『優駿』2010年7月号、p.61


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  59. ^ 笠(2000)pp.87-89




参考文献



  • 井上綱雄編『競馬 - 国営競馬6年のあゆみ』(高陽書院、1954年)


  • 白井透編『日本の名馬』(サラブレッド血統センター、1971年)

  • 中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)

  • 藤野広一郎『懐かしき名馬たち - ちょっと昔の名馬物語』(コスモヒルズ、1992年)ISBN 978-4877038090


  • 岩川隆『広く天下の優駿を求む』(プレジデント社、1994年)ISBN 978-4833415361


  • 大川慶次郎『大川慶次郎 殿堂馬を語る』(ゼスト、1997年)ISBN 978-4916090522

  • 笠雄二郎『日本サラブレッド配合史 - 日本百名馬と世界の名血の探求(普及版)』(競馬通信社、2000年)ISBN 978-4434006289

  • 遠山彰 『日本ダービー物語』 丸善、1993年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
    ISBN 978-4-621-05097-2。

  • 渡辺敬一郎『強すぎた名馬たち』(講談社、2004年)ISBN 978-4062722407

  • 『優駿』1993年12月号(日本中央競馬会)
    • 畠山直毅「優駿にみる日本の競馬半世紀」


  • 『優駿』2000年4月号(日本中央競馬会)
    • 結城恵助「21世紀に語り継ぎたい名馬100選 - 伯楽、境勝太郎氏に聞く」


  • 『優駿』2000年5月号(日本中央競馬会)
    • 結城恵助「21世紀に語り継ぎたい名馬100選 - 浅見国一氏に聞く」


  • 『優駿』2002年4月号(日本中央競馬会)
    • 「優駿に見る日本の競馬60年 - 名馬トキノミノル號病状記録」


  • 『優駿』2004年10月号(日本中央競馬会)
    • 「記憶に残る名馬たち - 個性派ホース BEST10」


  • 『優駿』2010年7月号7月号(日本中央競馬会)
    • 江面弘也「10戦全勝でダービーを制し、直後に急死した幻の馬 トキノミノルの生と死」




関連項目



  • 無敗馬一覧

  • 幻の馬



外部リンク





  • 競走馬成績と情報 netkeiba、JBISサーチ


  • トキノミノル - 競走馬のふるさと案内所

  • トキノミノル:競馬の殿堂 JRA













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