映画評論 (雑誌)
映画評論 | |
---|---|
ジャンル | 映画評論 |
刊行頻度 | 月刊誌 |
発売国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
刊行期間 | 1925年 1926年 - 1946年1月(1946年1・2月合併号) 1947年1月(1947年2月号) - 1949年 1950年 - 1974年12月(1975年1月号) |
『映画評論』(えいがひょうろん)は、かつて存在した日本の雑誌である。1925年(大正14年)から1975年(昭和50年)まで、50年間刊行された映画評論雑誌である。
目次
1 略歴
2 同人誌時代
3 第1期
3.1 おもな特集
4 第2期
5 第3期
6 脚注
7 参考文献
略歴
1925年 : 同人誌として、仙台に創刊。
1926年 - 1946年 : 第1期、本格創刊にあたり編集部を東京に移動。
1947年 - 1949年 : 第2期
1950年 - 1975年 : 第3期、黄金時代。
同人誌時代
- 1925年
『映画評論』は、1925年(大正14年)、宮城県仙台市の旧制第二高等学校(現在の東北大学の前身校の1つ)出身の映画ファンの青年たち、佐々木能理や太田国夫らが、映画の評論を行う同人誌として刊行され、4冊発行された。
第1期
1926年 - 1946年
翌1926年(大正15年)4月に、画家の寺崎廣業の息子である寺崎廣載をスポンサーとして、東京府(現在の東京都)に編集部を移し、商業雑誌として復刊した。創刊当時から、映画監督を映画作品の作者とみなし、作家としての研究を特集したことを特色とした[1]。1927年(昭和2年)12月27日、編集部員が会議を行い、同年の外国映画ベストテン、日本映画ベストファイブを決定、翌1928年(昭和3年)2月号誌上で下記の通り発表した[1]。
- 1927年外国映画ベストテン
『チャング』(Chang, メリアン・C・クーパー)、『第七天国』(フランク・ボーゼイジ)、『面影』(Das Bildnis, ジャック・フェデー)、『ビッグパレード』(The Big Parade, キング・ヴィダー)、『蹴球王』(The Quarterback, フレッド・ニューメイヤー)、『真紅の文字』(The Scarlet Letter, ヴィクトル・シェストレム)、『女心を誰か知る』(You Never Know Women, ウィリアム・A・ウェルマン)、『帝国ホテル』(Hotel Imperial, マウリッツ・スティルレル)、『ヴァリエテ』(Varieté, E・A・デュポン)、『椿姫』(Camille, フレッド・ニブロ)
- 1927年日本映画ベストファイブ
『忠次旅日記 信州血笑篇』(伊藤大輔)、『恥かしい夢』(五所平之助)、『忠次旅日記 甲州殺陣篇』(伊藤大輔)、『淋しい乱暴者』(五所平之助)、『からくり娘』(五所平之助)
1941年(昭和16年)1月に、国策による映画雑誌の統廃合が行われたが、『映画評論』は刊行を続けた。1943年(昭和18年)、前年に大陸に渡り上海の中華電影公司にいた清水晶が帰国、編集長に就任する[2]。
1944年(昭和19年)に、映画ファン雑誌を経営していた高田俊郎(高田文夫の親戚)の経営するところとなる。この頃の執筆者・編集同人は、南部圭之助、大黒東洋士、森岩雄、津村秀夫らであった。同年、清水晶は松竹大船撮影所に入社している[2]。
戦後になると、アメリカ映画の評論家として、筈見恒夫、双葉十三郎、飯島正、岩崎昶らが執筆人に加わったが、1946年(昭和21年)1・2月合併号で発行が一時停止された。
おもな特集
1926年の本格創刊以来、作家としての映画監督の特集を組んだ[1]。
フリッツ・ラング、1926年5月号
マルセル・レルビエ、1926年6月号
ヴィクトル・シェーストレーム、1926年7月号
ジェームズ・クルーズ、1926年9月号
エリッヒ・フォン・シュトロハイム、1926年10月号
キング・ヴィダー、1926年11月号
チャールズ・チャップリン、1927年1月号
村田実、1927年3月号
ジャック・フェデー、1927年4月号
エルンスト・ルビッチュ、1927年5月号
F・W・ムルナウ、1927年6月号
牛原虚彦、1927年12月号
第2期
1947年 - 1949年
1947年(昭和22年)2月号から『映画評論』はリニューアルして復刊した。編集同人は飯島正、大塚恭一、沢村勉、清水晶らとなったが、戦前・戦中からの評論家が主に執筆を行っていた。1949年(昭和24年)、清水晶が再度編集長に就任する[2]。
第3期
1950年 - 1975年
1950年(昭和25年)からリニューアルした「第3期」は、『映画評論』誌の黄金時代であった。広く新人評論家をつのり、また編集長は佐藤忠男、品田雄吉、佐藤重臣、編集者には虫明亜呂無や長部日出雄等と、それぞれ評論家としても一家言ある個性的な人物たちがつとめた。
投稿欄からは、佐藤忠男、佐藤重臣のほかに、森卓也、田山力哉、山際永三(のち映画監督)、石上三登志らが育った。また、小林信彦、虫明亜呂無、長部日出雄、大島渚らは佐藤忠男編集長時代に編集部に出入りしているうちに、執筆者となった。
文藝評論家の花田清輝もしばしば寄稿し、1959年(昭和34年)には花田と吉本隆明との論争の舞台となった。
他の映画雑誌がとりあげないB級映画についても、水野晴夫が加藤泰を、田山力哉が鈴木清順を、佐藤重臣が新東宝映画を評価するなどした。
また、増村保造や大島渚など、当時気鋭の若手監督たちの、自身の映画論も掲載した。大島らが、松竹ヌーヴェルヴァーグ運動を起こすと、その機関紙的存在となって、彼らの映画を擁護した。
佐藤重臣編集長時代の1960年代後半以降は、社会全体の反体制的な雰囲気を雑誌も取り込み、若松プロを支持するなどアングラ路線を展開。当時もっとも先鋭的な雑誌のひとつとなった。
1974年(昭和49年)3月にオーナーの高田俊郎が雑誌の権利を室井忠道に売り渡し、新オーナーの指示により1975年(昭和50年)1月号で休刊となった。
脚注
- ^ abcモダニズムの成立 Archived 2016年2月2日, at the Wayback Machine.、小松弘、早稲田大学、2010年7月23日閲覧。
- ^ abc『銀幕の顔』、清水晶、社会保険研究所、1991年9月 ISBN 4882492113, p.230(奥付)。
参考文献
- 『「映画評論」の時代』、編著佐藤忠男・岸川真、カタログハウス、2003年5月、ISBN 4905943523
- 『祭りよ、甦れ!』、佐藤重臣、編集井家上隆幸・安岡卓治・福間健二、ワイズ出版、1997年1月 ISBN 4948735620