菅原道真






























































 

凡例
菅原道真

Sugawara Michizane.jpg

菊池容斎による菅原道真像

時代
平安時代前期
生誕
承和12年6月25日(845年8月1日)
死没
延喜3年2月25日(903年3月26日))
改名
幼名:「阿呼」(あこ)の後に「吉祥丸」へ改名
別名
尊称:菅公、菅丞相、天神、天神様
神号
天満大自在天神
日本太政威徳天
墓所
太宰府天満宮
官位
従二位、右大臣
贈正一位、太政大臣
主君
宇多天皇→醍醐天皇
氏族
菅原氏
父母
父:菅原是善
母:伴真成の娘

島田宣来子

長男:菅原高視
女子:菅原衍子
他下記参照
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菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。


忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。


小倉百人一首では菅家




目次






  • 1 生涯


  • 2 経歴


  • 3 家系


  • 4 系譜


  • 5 事績・作品


    • 5.1 和歌


    • 5.2 漢詩




  • 6 死後


    • 6.1 薨去の地に関する伝承




  • 7 人物・逸話


    • 7.1 出生


    • 7.2 人物


    • 7.3 思想


    • 7.4 交流


    • 7.5 平安京


    • 7.6 讃岐


    • 7.7 右大臣


    • 7.8 左遷


    • 7.9 大宰府




  • 8 ギャラリー


  • 9 脚注


    • 9.1 注釈


    • 9.2 出典




  • 10 関連書籍


  • 11 関連項目


  • 12 外部リンク





生涯




道真の産湯井戸と言われている井戸、菅原是善邸跡、京都市上京区




『月輝如晴雪梅花似照星可憐金鏡転庭上玉房香』(月岡芳年『月百姿』)11歳で漢詩を作った




『梅紋』道真公・天満宮の象徴として使われる


喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮神社(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅生天満宮(堺市美原区)説、菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)、菅原天満宮(島根県松江市)説もあるため、本当のところは定かではないとされている。また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。


道真は幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862年)18歳で文章生となる。貞観9年(867年)には文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任される。貞観12年(870年)方略試に中の上で合格し、位階を進め、正六位上となった。玄蕃助・少内記を経て、貞観16年(874年)従五位下に叙爵し、兵部少輔ついで民部少輔に任ぜられた。元慶元年(877年)式部少輔次いで世職である文章博士を兼任する。元慶3年(879年)従五位上。元慶4年(880年)父・菅原是善の没後は、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。仁和2年(886年)讃岐守(讃岐国司)を拝任[1]、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。仁和4年(888年)阿衡事件に際して、入京して藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。寛平2年(890年)任地より帰京した。


これまでは家格に応じた官職についていたが、宇多天皇の信任を受けて、以後要職を歴任することとなる。皇室の外戚として権勢を振るっていた関白・藤原基経亡き後の藤原氏にまだ有力者がいなかったこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。


寛平3年(891年)蔵人頭に補任し、式部少輔と左中弁を兼務。翌年従四位下に叙せられ、寛平5年(893年)には参議兼式部大輔(まもなく左大弁を兼務)に任ぜられ、公卿に列した。


寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられるが、唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により遣唐使は停止される。なお、延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。寛平7年(895年)参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位・権中納言に叙任。またこの間、寛平8年(896年)長女衍子を宇多天皇の女御とし、寛平9年(897年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とするなど、皇族との間で姻戚関係の強化も進めている。


宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率する一方で道真とも親交があった右大臣の源能有ら大官が相次いで没した後、寛平9年(897年)6月に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官のトップに並ぶ体制となる。7月に入ると宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した[注釈 1]


醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反撥が表面化するようになった。また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。


昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べた。しかし、儒家としての家格を超えて大臣に登るという道真の破格の昇進に対して妬む廷臣も多く、翌昌泰3年(900年)には文章博士・三善清行が道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった[注釈 2]。昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され、罪を得て大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。また、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて、道真が巻き込まれたとする説まで諸説ある。


左遷後は大宰府浄妙院で謹慎していたが、延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。


道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ[3]は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。



経歴




  • 貞観4年(862年) 5月17日:文章生

  • 貞観9年(867年) 正月7日[注釈 3]:文章得業生。2月29日:下野権少掾(得業生兼国)[4]

  • 時期不詳:正六位下[5]

  • 貞観12年(870年) 3月23日:対策[6]。5月17日:及第(問答博士・都良香)[6]。9月11日:正六位上(対策及第)[5]

  • 貞観13年(871年) 正月29日:玄蕃助(得業生労)[4][注釈 4]。3月2日:少内記[4]

  • 貞観14年(872年) 正月6日:兼存問渤海客使[5]。正月26日:去存問渤海客使(母服喪)[5]

  • 貞観16年(874年) 正月7日:従五位下[4]。正月15日:兵部少輔[5]。2月29日:民部少輔[5]

  • 貞観19年(877年) 正月15日:式部少輔[4]。9月16日:大嘗会御前次第司次官[5]。10月18日:兼文章博士[5]

  • 元慶3年(879年) 正月7日:従五位上[5]

  • 元慶7年(883年) 正月11日:兼加賀権守[4]。4月21日:治部権大輔[注釈 5]

  • 元慶8年(884年) 10月2日:大嘗会前次第司次官[5]


  • 仁和2年(886年) 正月16日:讃岐守、止式部少輔文章博士加賀権守[5]

  • 仁和3年(887年) 11月17日:正五位下[4]


  • 寛平2年(890年) 春:讃岐守得替

  • 寛平3年(891年) 3月9日:式部少輔[4]。3月29日:蔵人頭[4]。4月11日:兼左中弁[4]。4月18日:禁色[4]

  • 寛平4年(892年) 正月7日:従四位下[4]。12月5日:兼左京大夫[4]

  • 寛平5年(893年) 2月16日:参議兼式部大輔、左中弁如元[4]。2月22日:兼左大弁、式部大輔如元[4]。3月15日:兼勘解由長官[4]。4月1日:兼春宮亮[4]

  • 寛平6年(894年) 8月21日:兼遣唐大使[4]。9月30日:遣唐使を停止。12月15日:兼侍従[4]

  • 寛平7年(895年) 日付不詳:兼近江守。10月26日:従三位、権中納言、余官如元[4]。11月13日:兼春宮権大夫[4]

  • 寛平8年(896年) 8月28日:兼民部卿、止式部大輔[4]

  • 寛平9年(897年) 5月:止左大弁か[4]。6月19日:権大納言兼右近衛大将、民部卿如元[4]。7月3日:止春宮権大夫(醍醐天皇受禅)[4]。7月13日:従三位(醍醐天皇即位)[4]。11月26日:兼中宮大夫(中宮・藤原穏子)[4]


  • 昌泰2年(899年) 2月14日:右大臣、右大将如元。[4]

  • 昌泰4年(901年) 正月7日:従二位[4]。正月25日:左遷大宰員外帥[4]


  • 延喜3年(903年) 2月25日:薨去[4]

  • 延喜23年(923年) 4月20日:贈右大臣、正二位[4]


  • 正暦4年(993年) 5月20日:贈正一位左大臣[4]。10月20日:贈太政大臣[4]



家系


父は菅原是善、母は伴氏。菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人のとき土師(はじ)氏より氏を改めたもの。祖父菅原清公と父はともに大学頭・文章博士に任ぜられ侍読も務めた学者の家系であり、当時は中流の貴族であった。母方の伴氏は、大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している[注釈 6]


正室は島田宣来子(島田忠臣の娘)。子は長男・高視や五男・淳茂をはじめ男女多数。子孫もまた学者の家として長く続き、特に高視の子孫は中央貴族として残り、高辻家・唐橋家をはじめ6家の堂上家(半家)を輩出した。高辻家からは明治時代に、西高辻家が別家し、太宰府天満宮の社家として現代に至る。


高視の曾孫・道真五世の孫が孝標で、その娘菅原孝標女(『更級日記』の作者)は道真の六世の孫に当たる。



系譜


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博多人形『幼少の菅公』(大阪天満宮、菅家廊下)




博多人形『弓術の場』





  • 父:菅原是善

  • 母:伴真成[注釈 7]の娘

  • 妻:島田宣来子 - 島田忠臣の娘

    • 長男:菅原高視(876 - 913年)

    • 女子:菅原衍子 - 宇多天皇女御



  • 室:宮原? - 宮原頴人の娘
    • 男子:菅原旧風


  • 生母不明

    • 男子:菅原寧茂

    • 男子:菅原景行

    • 男子:菅原景鑑(? - 908年)

    • 五男:菅原淳茂(?- 926年)

    • 男子:菅原弘茂

    • 男子:菅原兼茂

    • 男子:菅原宣茂

    • 男子:菅原淑茂

    • 男子:菅原滋殖

    • 女子:菅原尚子 - 尚侍・尚膳

    • 女子:菅原寧子 - 尚侍、斉世親王室

    • 女子:菅原俊子 - 藤原発成室





事績・作品




百人一首 菅家(菅原道真)
このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに


著書には自らの詩、散文を集めた『菅家文草』全12巻(昌泰3年、900年)、大宰府での作品を集めた『菅家後集』(延喜3年、903年頃)[8][9]、編著に『類聚国史』がある。日本紀略に寛平5年(893年)、宇多天皇に『新撰万葉集』2巻を奉ったとあり、現存する、宇多天皇の和歌とそれを漢詩に翻案したものを対にして編纂した『新撰万葉集』2巻の編者と一般にはみなされるが、これを道真の編としない見方もある。


私歌集として『菅家御集』などがあるが、後世の偽作を多く含むとも指摘される。『古今和歌集』に2首が採録されるほか、「北野の御歌」として採られているものを含めると35首が勅撰和歌集に入集する。


六国史の一つ『日本三代実録』の編者でもあり、左遷直後の延喜元年(901年)8月に完成している。左遷された事もあり編纂者から名は外されている。


祖父の始めた家塾・菅家廊下を主宰し、人材を育成した。菅家廊下は門人を一門に限らず、その出身者が一時期朝廷に100人を数えたこともある。菅家廊下の名は清公が書斎に続く細殿を門人の居室としてあてたことに由来する。



和歌


此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に(古今和歌集 羇旅歌。この歌は小倉百人一首にも含まれている)


海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ(新古今和歌集 雑歌下。大宰府へ左遷の途上備前国児島郡八浜で詠まれた歌で硯井天満宮が創建された。「海ならず たたえる水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん」)


東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(初出の『拾遺和歌集』による表記。後世、「春な忘れそ」とも書かれるようになった)


水ひきの 白糸延へて 織る機は 旅の衣に 裁ちや重ねん(後撰和歌集巻十九)〈今昔秀歌百撰23選者:松本徹〉


君が住む 宿のこずゑの ゆくゆくと 隠るるまでに かへりみしはや(『拾遺和歌集』巻六。歌集のもととなった『拾遺抄』の詞書には、「流され侍はべて後、妻のもとに言ひをこせて侍ける」と相手を明記。)



漢詩


駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋(駅長驚くことなかれ 時の変わり改まるを 一栄一落 これ春秋。大宰府へ左遷の途上に立ち寄った播磨国明石駅家の駅長の同情に対して答えたもの。)


去年今夜待清涼 秋思詩篇獨斷腸 恩賜御衣今在此 捧持毎日拜餘香(去年の今夜清涼に待し、秋思の詩篇独り斷腸。恩賜の御衣今此こに在り、捧持して毎日余香を拝す。九月十日 太宰府での詠。)



死後




『北野天神縁起絵巻』に描かれた、清涼殿落雷事件





太宰府天満宮(福岡県太宰府市)全国天満宮の総本社とされる




天満宮を彩る梅園(道明寺天満宮・大阪府藤井寺市)



菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳で病死すると、続いて延喜13年(913年)には道真失脚の首謀者の一人とされる右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死し、更に醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。


延喜23年4月20日(923年5月13日)、従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとし、その70年後の正暦4年(993年)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣(こうした名誉回復の背景には道真を讒言した時平が早逝した上にその子孫が振るわず、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟・忠平の子孫が藤原氏の嫡流となったことも関係しているとされる)。


清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。朝廷は火雷神が祀られていた京都北野の地に北野天満宮を建立、道真が没した太宰府には先に醍醐天皇の勅命によって藤原仲平が建立した安楽寺の廟を安楽寺天満宮に改修して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。


江戸時代には昌泰の変を題材にした芝居、『天神記』『菅原伝授手習鑑』『天満宮菜種御供』等が上演され、特に『菅原伝授手習鑑』は人形浄瑠璃・歌舞伎で上演されて大当たりとなり、義太夫狂言の三大名作のうちの一つとされる。現在でもこの作品の一部は人気演目として繰返し上演されている。


近代以降は忠臣としての面が強調され、紙幣に肖像が採用された。配所にても天皇を恨みずひたすら謹慎の誠を尽くしたことは、広瀬武夫の漢詩「正気歌」に「或は菅公筑紫の月と為る」と詠まれ、また文部省唱歌にも歌われた。第一高等学校では生徒訓育を目的に、倫理講堂正面に文人の代表として菅原道真の、武人の代表として坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた[10]。昭和3年(1928年)に講談社が発行した雑誌「キング」に、「恩賜の御衣今此に在り捧持して日毎余香を拝す」のパロディ「坊主のうんこ今此に在り捧持して日毎余香を拝す」が掲載されたところ、不敬であるとの批判が起こり、講談社や伊香保温泉滞在中の講談社社長野間清治の元に暴漢らが押し寄せるという事件も発生している。



薨去の地に関する伝承


鹿児島県薩摩川内市東郷町藤川の菅原神社で菅原道真が死去したとされたとの伝承と共に、道真のものと伝わる墓がある。概要は、身の危険が迫り、筑前から船で水俣湾を経て鹿児島県薩摩川内市湯田町に上陸し、薩摩川内市城上町吉川を経て、同市東郷町の藤川神社で隠棲し薨去たとされる。その経路には、船繋石・御腰掛石などの史跡が残っている。また、吉川では菅原道真を奥座敷に納戸にかくまったことから、年中行事として村人が集まり女子は左右の袖を広げて男子を隠して奥座敷に潜ませる真似をする風習が残っている[11]



人物・逸話



出生



  • 道真の生誕地については諸説ある。各地に伝わる『天神縁起』によれば、承和12年(845年)春頃、十一面観音菩薩[注釈 8]を安置する高松山天門寺にある菅生池の菅の中より忽然と容顔美麗(振り分け髪をした薄桃色の着物を着る少女の姿[12])なる5・6歳の幼児が化現し、光を放ちながら飛び去り[13]、是善邸南庭に現れ「私には父母がいないのでそなたを父にしたい」と語った子供が、道真だという[12][注釈 9][注釈 10]

  • 長男次男を幼くして相次いで亡くした是善は、臣下の島田忠臣に命じ伊勢神宮外宮神官の度会春彦を通じて豊受大御神に祈願して貰った。そうして生まれたのが道真だという。その縁で、春彦は白太夫[注釈 11]として道真の守役となり生涯にわたり仕える事になったという。


  • 菅原天満宮によれば是善が出雲にある先祖の野見宿禰の墓参りをした際、案内してくれた現地の娘をたいそう寵愛した。そして生まれたのが道真だという。


  • 滋賀県余呉町には、道真が天女から産まれたという天女の羽衣伝説が残されている。あらすじは、あるとき、漁師の桐畑太夫[注釈 12]のところへ美しい天女が舞い降りる。太夫は羽衣を隠し無理矢理その天女と夫婦になる。そして、玉のような男の子が産まれ陰陽丸と名づけられる。しかし、天女が羽衣を見つけ天に帰ってしまい、桐畑太夫もそのあとをおい天にのぼっていってしまう。男の子は石の上に捨て置かれ、母恋しさに法華経のような声で泣きじゃくる。そこに、菅山寺の僧・尊元阿闍梨が通りかかり憐れに思い引き取り養育することにした。その後、菅原是善が菅山寺に参拝にきたさいその子供を養子にする。この子供こそのちの菅原道真だという。


また、別説では、桐畑太夫と天女のあいだに産まれた陰陽丸、菊石姫の兄妹としている。[15]



  • 江戸時代に書かれた『古朽木』によれば、道真は梅の種より生まれたという。

  • 『野馬台詩(歌行詩)』の主釈によれば、菅原道真と吉備真備は兄弟で、兄が道真、弟が真備だという。



人物


  • “平安朝きっての秀才”ということで今日では学問の神様だが、当時は普通の貴族であり、妾も沢山おり、遊女遊びもしている。

また、詩作にも官能的で優美な表現を取り入れており、宮廷詩では美人舞妓の踊り乱れた姿や、髪・肌・汗・香・化粧・衣などの様子を詩で仔細に鮮やかに表現している[注釈 13]。ただし、常に浮かれていたわけではなく、特に盛り上がっている宴会のみで、普段の宴会では謹厳な態度を守り、自分の言行を抑える、というように二つの顔を使い分けていたという。[16]


  • 学問だけでなく、武芸(弓道)にも優れ、若い頃は都良香邸で矢を射れば百発百中だったという伝承がある。また、大蛇に苦しめられたため自ら矢で射て退治したという逸話もある[17]

  • 宝剣「天國[注釈 14]、宝刀「神息[注釈 15]、神刀「猫丸」/脇差「小猫丸[注釈 16]、毛抜形太刀〈無銘/〉[23]、菅公御佩用の御太刀[24]、銀の太刀[注釈 17]など様々な太刀を常に佩刀していたという。また、河童の大将や大鯰を斬り殺したという逸話も残っている。(後述参照)



刀工として古代の名工の一人に数えられている。[25]


  • 子はおよそ23人[26]、またはそれ以上に上るとされ[27]、長男高視が産まれる以前の、文章得業生の頃には既に子があったという[28]


  • 子煩悩で子供に関しての詩を多く残しており、菅家文草「夢阿満」では、“阿満”という一番可愛がっていた子が亡くなると、神仏を恨み世界から天地がなくなった、と嘆くほど悲しんでいる。しかし、最後に幼い阿満が三千世界に転生するときに迷わぬよう、観自在菩薩に祈っている。


  • 梅ヶ枝餅とカレイと醤油ご飯が好物だったという伝承がある[29][30][31]。他に、甘い物が貴重だった頃、柿を庶民に普及したという言い伝えも残っている[32]


  • 茶に関する故実を調査・研究し、世間に喫茶の習慣を広めたため、茶聖菅公と称されたという。[33]


  • 乗馬を好み、通勤は馬でおこない、讃岐での遠出や右近の馬場での桜狩りなど、趣味でも馬を走らせていたという[34]。のちに、天神乗りという騎乗法が伝わり、馬術の師として祀られることになる[35]

  • 根っからの詩人で、詩が思い浮かぶとすぐさまその場で口ずさみながら、周りの物に書き付けるほどだった[36]


また、政治の合間に和歌を吟詠しては、その草稿を「瑠璃壺」に納めていた。左遷の時、その壺を携えて筑紫に下り、見るもの聞くものにつけて感じるままに和歌を詠み、百首を新たに壺に納め、道真が逝去後、壺は白太夫の手に渡ったという[37]。別の伝承では、道真が大宰府へ赴いたとき、宇佐のほとりで龍女が現れ、「瑠璃壺」を承ったという[38]


  • 「一国丸ごと買い取ってしまいたい」と評するほど、越州国の風景を気に入っていたという。[36]

  • 家族や気の置けない友人達との語らい、馬で自然を駆け巡ることなどを好んだが、大量の行政文書をかたづけるなど仕事に忙殺されることだけは嫌っていた。[39]

  • 梅の花を好んだことで有名だが、桜花の美しさを「弥勒菩薩が悟りをひらくという龍華樹も遠く及ばない」と称え[40]、菊の花も若い頃から栽培するほど好み[41]、薔薇の美しさを、妖艶で人を虜にして惑わす妖魔と例えている[42]


これに、雪と月[注釈 18]を加えた「雪月花[注釈 19]」を好んだとされ、雪は女性の化粧や老人の白髪の表現に、月は美しさはさることながら、正邪を照らしだす真澄鏡に例えたり[43]、擬人化し「問秋月」「代月答」のように自己問答の形式で漢詩がつくられ、月光を誰も知らない自身の心の奥底にある清廉潔白さを照らし出す光として[44]題材にされた。



  • 漢文のみならず神代文字[45][注釈 20]、陰陽道[注釈 21]などの呪術にも精通していたとされる。

  • 自身の人生について、昔の栄達していたときは、世俗の煩わしさに縛られ窮屈だったが、今は罪を問われて左遷され、荒廃したあばら屋に閉じ込められた不自由な暮らし、と大宰府で述懐している。[47]

  • 金には無頓着で、どんな大量の黄金も、父祖から代々伝わった学識には遠く及ばない、としている。[48]



思想



  • 『菅家文草』によれば、道真は願文作成によって、儒教的言説で世界の差異(身分差別[注釈 22]、男女差別など)を構造化し、仏教的基本原理(輪廻・化身・垂迹説)とアナロジー(解読コード)を用いることで、隣接する概念間の差異を次々と消去していき、あらゆる存在の均質化と「存在の連鎖[注釈 23]」を生み出すことにより、道真の理想とした世界観を描き出そうとしたという。[49]

  • 「和魂漢才」。日本固有の精神「大和魂」と、中国伝来の学問「漢才」という対なる概念のことで、また、その両者を合わせるといった思想。のちに和魂洋才という言葉が派生した。[注釈 24]

  • 心だに 誠の道にかなひなば 祈らずとても 神や守らん(人は、心さえ誠の道にそっていれば、あらためて祈りを捧げなくても、神がきっと守ってくれるだろう。)[注釈 25][52]

  • 未だかつて邪は正に勝たず(邪まなことはどんなことがあっても、結局正義には勝てないのである。)[53]

  • 全ては運命の巡りあわせなのだから、不遇を嘆いて隠者のように閉じこもり、春の到来にも気づかぬような生き方はすべきではない。[54]

  • 紀長谷雄にたいし、世間では偉そうにべらべら喋る大学者さまが我が物顔で通るたびに有難がられているが、君が口を閉ざしても君の詩興が衰えることはないから心配するな、と励ましの詩をおくっている。[55]

  • 香は禅心よりして火を用ゐることなし 花は合掌に開けて春に因らず(香りは、わざわざ火を用いて焚くものではなく、清らかな心の中に薫るもの。同じように、花は春が来るからつぼみが開くのではなく、正しい心で合掌するその手の中に花は咲くもの。)[56]

  • 左遷のおり道真は嫡子を哀れみ「日月は天地の父母なり、梅は寒苦を経て清香を発し、松は千年を経て尚、 志節道義を失わず」と諭したという。[57]


  • 勝楽寺延命院には、讃岐国が栄えるよう道真が「一」の字を奉納したという言い伝えがある。「一」には物事のはじめ、又は全体を知るという意味があり、古来よりこの「一」と縁を結べば諸願成就すると言われている。[58]



交流



  • 師であり義父である島田忠臣とは生涯に亘って交流があり、忠臣が死去した際に道真は「今後再びあのように詩人の実を備えた人物は現れまい」と嘆き悲しんだという。


  • 紀長谷雄とは旧知の仲で、試験を受ける際に道真に勉学を師事したとされる。道真は死の直前に大宰府での詩をまとめた「菅家後集」を長谷雄に贈ったとされ、道真の妻を逃がしたという伝承もある。また、『扶桑略記』によれば、百人一首の舞台[59]として有名な宇多天皇御一行遊覧のさい長谷雄を求めて叫んだほど長谷雄への信頼があった、と同時に宇多天皇厚遇の時期であっても道真が孤独だったことがわかる。


  • 在原業平とは親交が深く、当時遊女(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れている。

  • 天台宗の僧相応和尚とも親交があり、大宰府に向う際に淀川にて、自ら彫ったという小像と鏡一面を渡し、後のことを和尚に託したという。道真薨去後、和尚は小像・鏡を郷里の長浜市にある来生寺、その隣の北野社にそれぞれ祀ったという。

  • 清廉剛直な武官の藤原滋実とも親交があった。滋実は、元慶の乱の鎮圧に参加し俘囚に配給して懐柔し、反乱した夷俘を討たせる役を命じられ見事成し遂げる。のちに陸奥国司となる。死因についてははっきりせず、部下に不正を行っていた輩が多く呪詛され殺されたのではないか、という噂がなされたため道真は五男菅原淳茂に調査を命じている。滋実が逝去したさい、誄歌「哭奥州藤使君」[60]をおくっている。かつて道真は滋実より「私は、あなたさまよりひそかに恩恵をうけています。私は、死のうが生きようが、生死を超えてあなたより受けたこのご恩に報いたいと思っております」と、熱い想いをつげられたという。それを回顧した道真は、自身の正義の是非について裁いてくれるよう、また、正義をつらぬくための手助けになってくれるよう、滋実の霊に懇願し悲嘆にくれている。ほかに、東国と中央政府の癒着した腐敗政治についても言及している。

  • 政敵となった兄藤原時平とは違い、弟の藤原忠平とは共に宇多天皇主催の歌会にでたり道真左遷時に励ましの手紙を送るなど、親交があったという。

  • 絵に描いたものが飛び出して実体化するという逸話をもつ、宮廷絵師巨勢金岡とも親交があったとされる。


  • 渤海使で日本に帰化したとされる王文矩とも親交があったという。

  • 道真は、菅家廊下の弟子の中で文室時実を一番可愛がっていた。時実は、若い頃から匏(能無しという意味)と言われる苦学生で、食べることもままならないほど貧しくそのうえ年老いた母親も抱えていた。道真が讃岐赴任のためいなくなったあとも、独り努力を重ね見事難関の省試に合格しその報告をしにきた彼にたいし、道真は称賛と若い文章生にいじめられないか心配する詩を綴っている。[61]


  • 藤原南家出身の藤原菅根は、若い頃は菅家廊下で学んでいた。しかし、道真に投げやりな態度を難詰されたり、宴で歌った歌を全く認められないなどしたため逆恨みし、成人して官僚になっていくにつれ藤原時平率いる藤原北家へ接近していったとされる。


  • 安倍興行、島田良臣、菅野惟肖、巨勢文雄、彼ら学者たちとは、地方官時代に文通で遠く離れたお互いを励ましあうなど、詩友として交流があったという。ただし、巨勢文雄については、試験で文雄が称賛し推薦した弟子の三善清行を、試験官だった道真が嘲笑し落第させている。これが、清行との確執の発端とされている[注釈 26]

  • 13世天台座主法性坊尊意に教学を師事したとされる。

  • しかし、『菅家文草』「書斎記」によれば、友人でも親しい者、そうでない者がおり、そうでない者として、さして気が合うわけでもないのにニコニコ愛想よく寄ってくる者、腹の底が判らない口先だけは変に親しい者、休息と称して無理矢理押し入ってくる者、秘蔵の書や書物を乱暴に扱う者、自分が苦労して書物から抜粋した短冊の知識を理解し勝手に持ち出してしまう者、理解できず破り捨ててしまう者、先客である大切な友人の面会を無視して特に用もないのに強引に面会にくる者をあげ、自分を本当に理解できる友人は3人ぐらいしかおらず、その3人も失ってしまうのではないかと戦々恐々としている。


また、学者や貴族などの恨み妬みが凄まじく、『菅家文草』「思ふ所有り」「詩情怨」では、巷で出回った怪文書の作者として濡れ衣を着せられ誹謗中傷されたこと、「博士難」では、道真が文章博士に就任するとき、父是善から味方がいなく孤独になることを助言されており、就任わずか三日目にして、まわりから誹謗中傷する噂がなされたことが書かれている。


平安京



  • 『菅家瑞応録』によれば、9歳で善光寺に参拝したおり、問答に才を顕し、10歳の時には、内裏での福引の御遊に集まった公卿たちに忠言したという。

  • 17歳で清水寺に参拝したさい、田口春音という捨子を拾い養育したという。春音は大宰府まで同行し、道真逝去後は出家し、道真の菩提を弔ったという。


  • 応天門の変では、伴大納言が犯人とされたが、道真は、伴善男の家来、大宅鷹取の仕業だと見抜いたという。


  • 元慶8年(884年)、道真が40歳の頃に叔母である覚寿尼のいる道明寺に4~7月まで滞在した。その時、夏水井の水を汲み青白磁円硯で、五部の大乗経の書写をしていた。すると、二人の天童が現れ、浄水を汲んで注ぎ写経の業を守護し、白山権現、稲荷明神が現れ、筆の水を運び、天照大神、八幡神、春日大明神が現れ、大乗経を埋納する地を示したという。そこに埋納すると「もくげんじゅ」という不思議な木が生えてきたという。[63]

  • 同年、畿内が大旱魃にみまわられたため、陽成天皇の勅命により道真が奉幣使として意賀美神社にて祈雨祈願したところ、たちどころに雨が降るという霊験があったという。[注釈 27]



讃岐


  • 道真は詩臣として中央で天皇のそばにお仕えし詩を作ることこそ菅原家の祖業であるという強い信念を持っていた。その為、自分が地方官として讃岐に赴任することに葛藤していた。赴任後、詩人として周りとの感性の違いに戸惑い[注釈 28]、また、道真は家族愛が人一倍強かったので家族のそばにいれない寂しさも綴っている。


しかし、元来の生真面目で清廉な性格から、白居易の兼済(広く人民を救済)という志を信条とし、自ら酒を醸して酒宴を催し村人と親交を深めたり[64]、『寒早十首』『冬夜九詠』などで民の悲惨な実情を見分するなど[注釈 29]、善政を執り行うよう努めた。[16]

のちに、清廉と謹慎を心がけた政治をしたが、不正腐敗に汚染された青蝿のような官吏たちを一掃できなかったことを悔いている。[65]



  • 仁和4年(888年)讃岐の国で大旱魃が起こり、讃岐守に就いていた道真がこれを憂い、城山で身を清め七日七晩祭文[注釈 30]を読上げたところ、見事雨に恵まれたという。

そのさい、道真が舞ったとされる踊りが西祖谷の神代踊として伝わっており[67]、民衆が喜び踊り狂ったものが滝宮の念仏踊の起源とされている。


  • 道真が讃岐守に就いていた頃、側に仕えていたお藤という女性と恋仲になり、愛妾にしたという。[68]


  • 極楽寺の明印法師という僧と親交を深めたとされ、極楽寺の由緒を話したり、道真から寄付をうけたり、詩文を贈答されたり、道真が一時帰京した際には、わざわざ京まで逢いにいったという。


  • おとぎ話『桃太郎』は、道真が讃岐守に就いていた時分に、当地に伝わる昔話をもとに作り上げ、それを各地に伝えた、という伝説が女木島に伝わっている。


また、『竹取物語』の竹取の翁の名が「讃岐造」であること、自身の神秘的な出生にまつわる伝承[注釈 31]から道真が作者ではないかという説がある。


右大臣




  • 寛平2年(890年)の頃、與喜山で仕事をしていた樵夫の小屋に、何者かが「これを祀れ」と木像を投げこんだという。樵夫はその頃、長谷寺に道真が参詣に来ていたので、「木像は道真公の御作ではないか」と思い、大切に祀ったという。その像が與喜天満神社に現存する木造神像として伝えられている。

  • 寛平7年(895年)に法華経や金光明経を手写し伊香具神社へ納経したという。[69][注釈 32]


また、道真自刻として伝わる志明院の眼力不動明王、清閑寺の十一面千手観音像、大報恩寺の千手観音立像、他に、住吉神社の神鏡[注釈 33]、氣比神宮の為当太神御神幣有奉納鉾太刀など、さまざまなものを神社仏閣へ奉納している。


  • 寛平8年(896年)2月10日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と、告げられたという。[70]


  • 昌泰元年(898年)10月17日、夢に祖父清公が現れ補陀落に行きたいと懇願されたので、道真は長谷寺で忌日法要したという。[71]


また、同時期に百人一首[59]の舞台ともなった宇多天皇御一行遊覧のさい、「人々以為らく、今日以後の和歌の興衰を」と、いずれ漢詩にかわり和歌が台頭することを予見している。[72]

  • 醍醐天皇の時世に、道真が谷汲山華厳寺に参籠し、毎日、お経を書いていると、白石山の淵に住む乙姫が毎朝早く、ご飯の炊事・洗濯に使用している「姫ヶ井の泉」の清水を汲んで谷汲山まで運び、「閼迦の水」として道真に与えていた伝承がある。乙姫の歌として「このころは汲みては知らん山の井の 浅さ深さを 人の心に」が残されているが、不思議なことに、道真以外にこの乙姫の姿を見られた者はいなかったという。[73]


左遷



  • 『政事要略』巻二十二によれば、大宰府へ左遷の道中には、監視として左衛門少尉善友と朝臣益友、左右の兵衛の兵各一名がつけられた。また、官符に道真は“藤原吉野の例に倣い「員外帥」待遇にせよ”と明記され、道中の諸国では馬や食が給付されず、官吏の赴任としての待遇は与えられなかった。

  • 『菅家後集』「叙意一百韻」によれば、道中の様子について、反道真派の奸計により絶えず危険にみまわれ、落し穴などの罠や誅殺と称して刺客に襲われたこと、傷ついた駄馬や半壊した船を与えられたことなど、執拗な嫌がらせをうけていたことが綴られている。[注釈 34]

  • 左遷の日、藤原時平、源光、藤原定国、藤原菅根らは、勅宣と称し陰陽寮の官人をあつめ、道真とその子孫が永く繁栄できぬよう絶えるよう、皇城の八方の山野に雑宝を埋めおき、神祭(陰陽道祭)を行うという大がかりな呪詛・厭術をさせた。しかし、道真はこれを絶つ術を知っていたため呪いを免れたが、子孫たちはなす術がなかったため、死後、神となった道真が守護し呪詛・厭術を防いでいるという。[75]

  • 道真が都を出発する前日、都七条坊門の文(あや)という娘が、夢中で見送るようにとお告げをうけ、三条大橋の袂で綾竹を持ち別れの舞を舞い見送ったのが綾子舞の由来とされる。[76]


  • 大阪市東淀川区にある「淡路」「菅原」の地名は、道真が大宰府に左遷される際、当時淀川下流の中洲だったこの地を淡路島と勘違いして上陸したという伝説にちなんだ地名である。


  • 出水市壮の菅原神社に関する伝承として、ジョウス(城須)という老夫婦が道真に三杯の茶を振舞い、そのため道真が追手から逃れることができたという。[77]

  • 道真が、失意の中で尼崎に立ち寄ると、悲しみで人だけでなく草木もしおれた。だが、ネギだけがしゃんとしており、村人はそのネギを憎み、食べなくなったという言い伝えがある。[78]


  • 山陽道を通って太宰府へ向かう道中で、かつて讃岐に赴任する際に懇意になった明石駅の駅長・橘季祐(たちばなのゆえすけ)に再開したが、落剥した道真を見た駅長は道真にかける言葉もなかった。道真はこのときの思いを「駅長驚くなかれ 時の変改することを 一栄一楽 是れ春秋」の詩を与えて慰め返したという。この逸話は『大鏡』に載せられているものであるが、後年の『源氏物語』でも「駅長に口詩を与えた人もいた」と記されている[1]


  • 延喜元年(901年)、道真がとりわけ愛でてきた梅の木が一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んでゆき、その地に降り立ったという飛梅伝説がある。また、桜は、悲しみのあまりその場で枯れてしまい、松は、追ってきたが途中力尽きその地で根をおろしたという言い伝えもある。

  • 901年道真が筑後川で暗殺されそうになった際、「三千坊」という河童の大将が彼を救おうとして手を斬り落とされ落命した、もしくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした三千坊の手を道真が斬り落とした、という伝承が福岡県の北野天満宮に、河童の手のミイラとともに残されている。

  • また、大宰府左遷のおり道真は兵主部という妖怪を助け、その返礼として「我々兵主部は道真の一族には害を与えない」という約束をかわした、という伝説も伝わっている。

  • 道真は左遷の際、忠臣高田正期へ桜の木を与えた。この桜の花が咲かなかった年に道真に何かあったのでは、と正期は不安になり大宰府へ赴いたという。このことに感動した道真は、天拝山の土で自身の像をつくりそれを持ち帰らせた。正期は、独鈷抛山の麓に祠をつくりそれを祀った。正期の死後、桜は枯れてしまう。それから300年後、積善寺の住職の枕元に天神となった道真が夜毎に立ったので、独鈷抛山の麓の祠を寺の境内に移動した。すると桜の形をした石が桜の木が植わっていたまわりの石から浮かび上がってきたという。[79][80]

  • 道真が忌宮神社の大宮司家に立寄り泊まった際、庭にある井戸に自分の姿を映した。すると、ひどく淋しい気持ちになり、水にうつった自分の顔に向かい「都を離れてすでに百日以上になる、ずいぶんやつれた顔になったな、しかし、もう二度とこの土地にくることはなし、この井戸で私の顔をみることもあるまい」と筆と紙をとり出し、自画像を描いたという。その後、その井戸は「御影の井戸」と呼ばれ、この井戸をのぞいたものは、目がつぶれるという言い伝えが伝わっている。[81]


  • 岡山県にある天満宮(称:子安天満宮)には、道真が当地に宿泊したさい、海女が難産で苦しんでいるのを不憫に思い一首の歌を与えた。すると、たちまち海女は安産したという言い伝えがあり、その時に道真が座った石を腰懸石として瓦祠で祀っている。[82]

  • 道真の側室は臨月であったが、道真との別れを惜しみ後を追ったという。しかし、途中で産気を催したため、人家に立ち寄ろうとしたものの、間に合わず輿中で大量に出血しながら産んだという。その時、道が真赤に染まった為、「赤大路」の地名由来となった。その後、近くの民家で介抱したものの、産後の経過が悪く亡くなってしまう。夫人は死期に臨むさい、里人の介抱を深く感謝し死後は安産の神になると遺言されたので、子安天満宮が建立されたという。[83]


他に、斎世親王の妃となっていた道真の息女が身重で信濃に落ち延びる途中で産気づき、街道の平石で臥せって苦しんでいた。その後、里人の手厚い看護もむなしく無念な最期となったが、その臨終のさい、里人の厚い情けに報いるためにと女人の安産を平石に強く祈願したといわれている。[84]


  • また、道真の息子福部童子は、父の後を追って大宰府へ向かったが、山口で病気になり亡くなったという。[85]

  • 娘の苅屋姫も父のあとを追いかけたが、あと少しの所で間に合わず、足摺り(=蹉跎)して嘆いたという。のちに、大宰府でその話を聴いた道真は、三尺二寸の自身の木像を作って娘に送ったという。[86]

  • 道真の六女で愛娘のみよこ姫は、宮城県丸森町にある宗吽院に輿入れしたという。[87]

  • 道真の正室島田宣来子(または側室)が、岩手県一関市東山町に落ち延びたという落人伝説がある。[注釈 35]



大宰府



  • 『寛永諸家系図伝』によれば、道真が筑紫にいたとき、兄“前田”と弟“原田”2人の息子を授かったという。[88]

  • 大宰府での生活は厳しいもので、「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、大宰府の人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん従者も与えられなかった。住居として宛がわれたのは、大宰府政庁南の、荒れ放題で放置されていた廃屋(榎社)で、侘しい暮らしを強いられていたという。また、時平の差し向けた刺客が道真を狙って謫居周辺を絶えず徘徊していたという。

  • 謫居には、左遷時に別れをあまりにも悲しみ慕われたため仕方なく連れてきた姉紅姫、弟隈麿幼い2人の子供がいた。『菅家後集』「慰少男女詩」で親子で励ましあって一緒に生活していたことが綴られている。また、2人を連れて館のまわりを散歩していると、小さな池にたくさんの蛙がおり、親兄弟が揃ってにぎやかに鳴き声をあげていた。その声を聞いていた道真が、離れ離れになった家族のことなどを思い出して一首詠むと、歌を聞いた池の蛙たちは、不遇な道真たちの心を察したのかこののち鳴かなくなったという伝承がある[89]


しかし、902年秋頃に弟の隈麿が他界、数か月後に左遷時に病床にあった妻も他界し、その10日後に道真も他界した。残された紅姫は、亡き父から託された密書を四国にいる長兄菅原高視に届けるために密かに大宰府をたった。藤原氏の追手が迫る中、若杉山麓に身を潜め、山上の若杉太祖神社に守護を祈願したが、いつしか刺客にみつかり、篠栗の地で非業の最期を遂げたという。現在は、紅姫稲荷神社に紅姫天王という稲荷神として祀られている[90]

  • 讃岐時代と同様に北九州の庶民の暮らしぶりについても詩を綴っている。延喜元年(901年)十月頃の作『菅家後集』「叙意一百韻」で、人を騙して銭をまきあげる布商人、何の苦もなく簡単に殺人を犯す悪党、のどかな顔をして肩を並べている群盗、汚職で私腹を肥やす役人などが慣習として蔓延っており「粛清することはもはや不可能」と評する程の治安の悪さを綴っている。

また、自分のみじめな姿を見に来る野次馬への苦痛、自分の心が狂想におちいってること[注釈 36]、仏に合掌して帰依し座禅を組んでいること[注釈 37]、言論封殺のため自由に詩を作ることを禁じられたこと、自身の体が痩せこけ白髪が増えていってることや、着物が色あせていくこと[注釈 38]、政敵の時平一派にたいする憤り、かつて天皇へ忠誠を誓ったことへの後悔、捏造された罪状が家族・親戚まで累が及ぶことと、過去の功績の抹殺にたいしての痛恨と悲憤を綴っている。

  • 『菅家後集』「讀家書」では、久しぶりに妻から手紙がきたことを書いている。道真は、妻が薬(生姜と昆布)を送るなど自分を労わる気持ちは嬉しいが、家族の生活が苦しいことをひた隠しにしていることが、かえって自分を悲しめ心配させているのだと綴っている。

また、「詠樂天北窓三友詩」によれば、詩友として≪死≫という真の友だけが残ったとし[注釈 39]、謫居の北の窓の部屋に時たま現れる雀と燕の親子を良友とし、彼ら雌雄が相互支えあい雛を養育し飢えさせることのない慈しみある行動は、家族を離散させてしまった私では遠く及ばないとし、その口惜しさを言葉にすることもできず、血の涙を流しながらただ天神地祇に祈るのみ。そして、昔の友は喜び今の友は悲しみとし、それぞれ異なる友だが、それはそれで同一のものなのかもしれない、と結ぶ。



  • 梅ヶ枝餅は道真が大宰府へ員外師として左遷され悄然としていた時に、老婆が道真に餅を供しその餅が道真の好物になった、或いは道真が左遷直後軟禁状態で食事もままならなかったおり、老婆が軟禁部屋の格子ごしに梅の枝の先に餅を刺して差し入れたという伝承が由来とされる。

  • 左遷のおり、道真の母の霊が息子を心配し、京都伏見稲荷大社から稲荷神を遣わせ、大宰府の石穴神社に鎮まったとする伝承がある。稲荷神は、道真の配所に稲穂を届け飢えを救ったという。[92]

  • あるとき、葦の生い茂る沼周辺で大鯰が顔を出して通行人の邪魔をしていた。道真は、これを太刀で頭、胴、尾と三つに斬り退治したという。その遺体がそれぞれ鯰石となり、後に雨を降らす雨乞いの石として地元の人々に大切にされたという[注釈 40]

  • 延喜2年(902年)正月7日に道真自ら悪魔祓いの神事をしたところ、無数の蜂が参拝者を次々と襲う事件がおきた。そのとき鷽鳥が飛来して蜂を食いつくし、人々の危難を救ったのが鷽替え神事の由来とされる。また他にも、道真が賊に襲われたとき牛が身をていして守ってくれた伝説や、道真が難破に巻き込まれたとき昔飼っていた愛犬の霊が宿った犬石が助けてくれたという犬島伝説が伝わる。

  • 道真がいろは歌の作者とする説がある。7段書きにした場合に下の部分が「咎なくて死す」となるため、『菅原伝授手習鑑』を契機に江戸時代中期頃広まったという。[93]

  • 晩年、道真は無実を天に訴えるため、身の潔白を祭文に書き、七日七夜天拝山山頂の岩の上で爪立って、祭文を読上げ天に祈り続けた。すると、祭文は空高く舞上り、帝釈天を過ぎ梵天まで達し、天から『天満大自在天神』と書かれた尊号がとどいたという。  



ギャラリー




脚注


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注釈





  1. ^ 『公卿補任』はこれをもって道真と時平に対する内覧の任命とするが、吉川真司は執奏された官奏が天皇に渡る前に内容を確認するのが内覧の職務であり、執奏者と内覧が同一人物であることはあり得ないとしてこれを否定する[2]


  2. ^ 道真はすでに幾度も、政治家をやめ学業に専念したいので辞退したい、と宇多天皇に上申していたが、悉く却下されている。


  3. ^ 『政事要略』所引道真伝では貞観8年5月7日とする。


  4. ^ 『政事要略』所引道真伝、『北野天神御伝』では2月とする。


  5. ^ 渤海客対応ための臨時任官で、5月12日に渤海客が帰国しているため、それまでに官職を去るか。


  6. ^ 古代の大伴氏が淳和天皇の避諱で改名した。


  7. ^ 大伴狭手彦六世の孫とする[7]


  8. ^ 道真と十一面観音菩薩は結びつけられることが多い。たとえば、『道明寺縁起絵巻』の、左遷途上で土師里によった場面で、道真を中心に十人の白丁姿の化人が現れ一夜にして彫刻を彫った、のような伝承が散見される。


  9. ^ 長谷寺より化現した、白太夫が予知夢をみたなど様々なバリエーションがある。


  10. ^ この伝承は、道真が37歳ころの詩「我に父母無く兄弟無し」が由来ではないかという指摘がある。[14]


  11. ^ 若い頃から白髪でお腹が太かった。


  12. ^ 桐畑太夫には、弘仁二年(811年)に、菊石姫という美しい娘が産まれたという伝承もある。菊石姫の体は成長するにしたがって徐々に龍へと変化したため、太夫に気味悪がられ捨てられてしまう。そして、世話になった乳母を助けるため盲目の龍となり、最終的に余呉湖の主におさまったという。


  13. ^ 受験勉強中にも、「賦得折楊柳、一首」など女性を細やかに表現した詩をつくっている。


  14. ^ 日本刀剣の祖とされ、かの天叢雲剣や小烏丸を作ったとされる刀匠天国作の宝刀。『元禄本天満宮縁起』『菅生宮縁起』『誉田宗庿縁起絵巻』等によると、仁和二年(886年)七月一四日、道明寺にいた道真は、誉田八幡宮へ参籠したさい一五・六歳の童子が現れ天國を授かったという。そして、筑紫まで佩刀し最後は府の官人に渡ったとされる[18]。江戸時代に亀戸天神から盗人がこの宝剣を盗んださい、激しい雷雨に見舞われたため神罰と恐れをなし神社へ返還したという[19]。また、「一度鞘から抜き放てば決まって豪雨を呼ぶ」という伝承もある[20]


  15. ^ 銘「朱鳥二年八月日神息」。刀匠の祖とされる伝説上の刀工神息の作刀。道真の遺品として御鏡と共に白太夫(渡会春彦)により長子菅原高視へ授けられたという。現在は潮江天満宮の御神体となっている。[21]


  16. ^ 太刀「猫丸」は道真作とされ、脇差「小猫丸」は道真の守刀とされる。あるとき、道真が刀を壁に立てかけていたところ、走ってきた猫が当たった瞬間に、胴体が真っ二つに切れたところから「猫丸」と名付けられた、という同様の逸話を持つ。[22]


  17. ^ 『太郎丸託宣記』によれば、ほかに仏舎利・玉帯・尺鏡(笏と鏡)を所持していたという。


  18. ^ 星についての和歌も残しており、『拾遺和歌集』「天つ星道も宿りもありながら空に浮きても思ほゆるかな」(天の星のように、道も宿もありながら、空に浮かんでいるような思いがすることだなあ)と左遷道中で今後の不安を、『新古今和歌集』「彦星の行き逢いを待つ鵲の門と渡る橋を我に貸さなむ」(彦星が織姫と会うのを待つという、鵲の渡す橋を私に貸してくれ)と大宰府で帰京への強い想いなどを綴っている。


  19. ^ 白居易の詩「寄殷協律」の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」による語。白居易は道真が最も影響をうけた人物。


  20. ^ 道真の直系の子孫である菅家七家の塩小路氏には、門外不出の秘事として、神代文字の他に、天とつながることができるという篆刻文字が伝わる。[46]


  21. ^ 「魂魄を徴せ」の質疑応答、陰陽師の呪詛を防いだという逸話(後述参照)がある。


  22. ^ ただし、天皇とその周辺は、外世界にいる完全者である仏の化身として、衆生を救済する者として特別に扱った。後に、この天皇のような特別な者のみを仏の化身とした考えは失われ、仏の化身という思想だけが乱用され、皮肉にも道真自身もその流れに巻き込まれていくことになる。


  23. ^ 「この宇宙はあらゆる階層の存在で充満した連続する鎖の環である」という哲学的観念。


  24. ^ 『菅家遺誡』という道真が残した公家の家訓をまとめた書の言葉。現在では、所功により後世に平田篤胤によって加筆改竄された偽書ではないか、という指摘がなされている[50]


  25. ^ 愛知県津島市神守町には、道真の息女が津島に流されて来てこの和歌を人々に伝えたという伝承が残されており、神守の地名の由来となっている。[51]


  26. ^ この事を深く恨んだ清行は、『革命勘文』上奏により、逆臣藤原仲麻呂の例をあげ、改元させ後世まで道真を逆賊として印象づけようとするなど、時平らと共に裏で様々な暗躍をしたとされている。また、『扶桑略記』延喜18年(918年)の項に、10月26日に清行が亡くなると、息子浄蔵が5日後に京に戻り祈祷し、清行の蘇生に成功。その7日後に清行は西に向かって念仏しながら改めて他界するが、火葬したさい、なぜかその舌だけは焼けずに残っていたという[62]


  27. ^ 奉幣使としてあちこちに行っており、貞観一八年(876年)に、越前国の神社に奉幣使として赴いている。


  28. ^ 『春日獨游三首・其二』によれば、夜に突然詩興が沸いたので彷徨い大声で詩を読誦していたところ、村人に狂人扱いされてしまったという。


  29. ^ のちに都でこの不遇に見まわれている民のことを回顧し同情している。


  30. ^ 祭文の内容は「城山の神よ、我が願いを聞き入れて下されば、讃岐の民は末代まで貴殿を敬い祀るであろう。だがしかし、もしそれを聞き入れて下さらなければ、民は貴殿を疎んじ、その尊厳は地に落ちるであろう」という懇願と脅しを交えた説得文だったという。[66]


  31. ^ 道真は処女作『月夜見梅花』や『水中月』など月を題材にした詩作も多い。


  32. ^ この2つの経典は、仁王経と合わせて護国三部経といわれ、国家の安泰を願って用いられた。


  33. ^ 古墳時代中期のもの。


  34. ^ 他に、自由に行き来できなかったことも詠っている。[74]


  35. ^ 菅公夫人の墓


  36. ^ そのためか、詩中には判読できない部分もある。


  37. ^ 『菅家後集』「官舎幽趣」によれば、左遷されてから思うのは、王の迎えをも傲慢に拒否して卑しい身分の役人にとどまった荘子の生き方、そして、どこにいても信じて仕えるのは、この世のすべては空しいと説いた釈迦の教え、としている。


  38. ^ 「詠樂天北窓三友詩」では謫居での暮らしは辛酸を極め夢を見るどころではないと綴る。


  39. ^ 他に「無実の罪をきせられている私を悲しんでくれる者は誰もいない」と、孤独感も詠っている。[91]


  40. ^ 更に後の明治6年、この地が旱魃に見まわれた際に石を焚いたところ、石が裂け中から鯰が生まれるようになったという。




出典




  1. ^ ab武部健一 『道路の日本史』 中央公論新社〈中公新書〉、2015年5月25日、55-56頁。ISBN 978-4-12-102321-6。


  2. ^ 吉川「上宣制の成立」(所収:『律令官僚制の研究』塙書房、1998年 ISBN 978-4-8273-1150-1)


  3. ^ 文献によって春を忘るなの表記もある。「拾遺和歌集」「大鏡」「源平盛衰記」など

  4. ^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyzaaabacadaeafagah『公卿補任』

  5. ^ abcdefghijk『日本三代実録』

  6. ^ ab『菅家文草』巻8,省試対策文二条割注


  7. ^ 中田憲信『菅公系譜』


  8. ^ 『菅家文草』勉誠出版 石川県立図書館蔵川口文庫善本影印叢書 1、2008年 ISBN 978-4-585-03181-9


  9. ^
    川口久雄校注 『菅家文草・菅家後集』 岩波書店 日本古典文学大系72、1966年(絶版)



  10. ^ 水崎雄文 2004, p. 30.


  11. ^ 鹿児島県立川内中学校編『川内地方を中心とせる郷土史伝説 西播磨の民謡』発行人:泰山哲之、1979年

  12. ^ ab『北野天神縁起絵巻』


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  15. ^ 近江地方の羽衣伝説における菅原道真と菊石姫

  16. ^ ab菅原道真における白居易の受容


  17. ^ レファレンス協同データベース 草津市下寺町の天満宮(てんまんぐう)の神事の概要を知りたい。


  18. ^ 皇室ヤフオク(11)昭和天皇 御大礼 飾太刀・追記アリ


  19. ^ 天国あまくに ~雷鳴呼ぶ神剣を鍛った刀工の祖~


  20. ^ 光明堂 - 成田山新勝寺ページ! 光明堂 愛染明王 縁結びの絵馬 天国の宝剣


  21. ^ 日本古学アカデミー 『本朝神仙記伝』の研究(31) -松木春彦-


  22. ^ もみじ苑・宝物殿 特別同時公開 | 北野天満宮


  23. ^ 九州国立博物館 | 特別展『国宝 大神社展』 毛抜形太刀 伝菅公遺品


  24. ^ アマナイメージズ 天神祭 丑日講 菅公御佩用の御太刀


  25. ^ 『本朝鍛冶考』『古刀銘尽大全』『日本国中鍛冶銘文集』『文明十六年銘尽』 『長享目利書』等


  26. ^ 『北野天神御伝』


  27. ^ 6-2)<菅原氏> (菅原氏詳細系図参照) ⑲


  28. ^ 『菅家文草』「日の長きに苦しむ」


  29. ^ 太宰府来たら食べなきゃね!名物【梅ヶ枝餅】のお店全部載せます 歴史


  30. ^ 福井市中央卸売市場 1月25日の「天神講」には焼カレイを!!


  31. ^ 燕市 天神講 つばめ食育だより


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  36. ^ ab『菅家文草』「海上月夜」


  37. ^ 狩野文庫本『瑠璃壺之御詠歌百首者』


  38. ^ 『河州志紀郡土師村道明尼律寺記』


  39. ^ 『菅家文草』「春日山を尋ぬ」


  40. ^ 『菅家文草』「春夜の桜花を賦す」


  41. ^ 『菅家文草』「官舎の前に菊の苗を播う」


  42. ^ 『菅家文草』「感殿前薔薇、一絶」


  43. ^ 『新古今和歌集』「月ごとに流ると思ひし真澄鏡西の海にも止まらざりけり」


  44. ^ 『新古今和歌集』「海ならず湛へる水の底までも清き心は月ぞ照らさん」


  45. ^ 神代文字-日本的霊性 - AAA!Cafe 伊勢神宮の神代文字


  46. ^ 山本光輝のいろは・ひふみ呼吸書法 山本先生×塩小路氏 ジョイント講演決定!


  47. ^ 『菅家後集』「秋夜」


  48. ^ 『菅家文草』「九日侍宴同賦菊散一叢金、応製」


  49. ^ 武田佐知子/編『太子信仰と天神信仰 信仰と表現の位相』思文閣出版2010年、ISBN 978-4-7842-1473-0 pp. 201-229


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  51. ^ 弁護士加藤英男.com 菅原道真公・御歌「祈らずとても神や守らん」


  52. ^ 新釈講孟余話: 吉田松陰、かく語りき 吉田松陰著 2014年、pp.311-312


  53. ^ 『菅家後集』「叙意一百韻」


  54. ^ 『菅家文草』「立春」


  55. ^ 『菅家文草』「詩を吟ずることを勧めて、紀秀才に寄す」


  56. ^ 『和漢朗詠集』


  57. ^ 四十物昆布(あいものこんぶ) 生地の名水めぐり 黒部の地域情報 ◆前名寺天満宮(学問の神様 菅原道真父子の軸があるお寺)


  58. ^ 週刊みとよ ほんまモンRadio! 延命院での『一』のお願いごと

  59. ^ ab「このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」


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  63. ^ 道明寺天満宮由緒


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  66. ^ 永冨明郎著『天神さまの細道 菅原道真を紀行する』東洋図書出版2011年、p.216


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  69. ^ 伊香具神社社伝


  70. ^ 長谷寺縁起絵巻


  71. ^ 長谷寺験記


  72. ^ 『宮滝御幸記』


  73. ^ 岐阜県揖斐川町 清水の歴史


  74. ^ 『新古今和歌集』「刈萱の 関守にのみ 見えつるは 人も許さぬ 道辺なりけり」


  75. ^ 安楽寺縁起藤原長子託宣記


  76. ^ 柏崎の偉人と文化財 綾子舞 小歌踊 小切子踊(高原田)


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  78. ^ 「尼崎百物語」12日発刊 尼崎の怪談や伝説掲載 :神戸新聞NEXT2016年4月8日


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  81. ^ 公益財団法人 下関市水道サービス公社 下関の水 おもしろ塾❷ 水にまつわる伝説 御影・姿見の井戸


  82. ^ 岡山県神社庁 天満宮


  83. ^ 子安天満宮(高槻市)


  84. ^ 樹下神社『女天神 安産石』


  85. ^ 古熊神社


  86. ^ 蹉だ神社


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  90. ^ 神社人 紅姫稲荷神社


  91. ^ 『新古今和歌集』「筑紫にも 紫生ふる 野辺はあれど 無き名悲しぶ 人ぞ聞えぬ」


  92. ^ 「石穴神社 奥の院 調査報告」


  93. ^ 囮の暗号「咎なくて死す」




関連書籍




  • 坂本太郎 『菅原道真』 吉川弘文館<人物叢書> 1989年 ISBN 978-4642051811


  • 高瀬千図 『道真 <上・下>』 日本放送出版協会 1997年 ISBN 978-4140052747


  • 小島憲之、山本登朗訳注 『菅原道真』 研文出版<日本漢詩人選集1> 1998年 ISBN 978-4876361632

  • 佐藤包晴著、岡田武彦監修 『菅原道真』 西日本新聞社<西日本人物誌12>、1999年 ISBN 978-4816704833


  • 平田耿二 『消された政治家・菅原道真』(文春新書) 文藝春秋 2000年 ISBN 978-4166601158


  • 所功 『菅原道真の実像』 臨川書店<臨川選書20> 2002年 ISBN 978-4653037576


  • 藤原克巳 『菅原道真 詩人の運命』 ウェッジ選書 2002年 ISBN 978-4900594548

  • 和漢比較文学会 『菅原道真論集』 勉誠出版 2003年 ISBN 978-4585031017

  • 神社と神道研究会編 『菅原道真事典』 勉誠出版 2004年 ISBN 978-4-585-06044-4

  • 水崎雄文 『校旗の誕生』 青弓社、2004年12月。ISBN 978-4787232397。


  • 大岡信 『詩人・菅原道真―うつしの美学』(岩波現代文庫) 岩波書店 2008年 ISBN 978-4006021368


  • 桶谷秀昭 『今昔秀歌百撰』(コンジヤクシウカヒヤクセン)不出售(フシユツシウ)特定非営利活動法人文字文化協會 2012年 ISBN 978-49905312-25

  • 滝川幸司 『菅原道真論』 塙書房 2014年 ISBN 978-4827301212



関連項目











  • 天満大自在天神

  • 天神信仰

  • 天満宮

  • 菅原氏

  • 白居易


  • 菅公学生服 菅原道真が社名の由来



外部リンク



  • 山陰亭

  • 太宰府天満宮:菅原道真公

  • 北野天満宮

  • 與喜天満神社

  • 今昔秀歌百撰




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