永井尚政
































































 

凡例
永井 尚政

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永井尚政像(興聖寺蔵)

時代
安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕
天正15年(1587年)
死没
寛文8年9月11日(1668年10月16日)
改名
尚政→信斎(法号)
別名
伝八郎(通称)
墓所
京都府宇治市宇治山田の興聖寺
官位
従五位下、従四位下、信濃守
幕府
江戸幕府

上総潤井戸藩主→下総古河藩主→山城淀藩主
氏族
永井氏
父母
父:永井直勝、母:阿部正勝の娘
兄弟
尚政、直清、直貞、直重

正室:内藤清成の娘

尚征、尚保、尚庸、直右、尚春、尚申、尚盛(八男)、長子(立花忠茂正室)、娘(高力高長正室)、娘(松平憲良正室のち松平康尚正室)、娘(松平定政正室)、娘(森長俊正室のち大沢基躬室)、娘(米津田盛正室)、娘(上林重胤室)、娘(小浜広隆正室)ら

永井 尚政(ながい なおまさ)は、江戸時代前期の大名。上総潤井戸藩主、下総古河藩第2代藩主、山城淀藩初代藩主。永井家宗家2代。


東京都新宿区の「信濃町」の名は、信濃守となった当時の下屋敷があったことに由来する。



生涯


永井直勝の長男として駿河国に生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍し、慶長7年(1602年)には徳川秀忠付の小姓となった。慶長10年(1605年)4月26日、任官して信濃守を称した。


慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参陣して功績を挙げたため、御小姓番頭に任じられた。その後も幕府への忠勤に励んで加増を受け、元和5年(1619年)には上総潤井戸に1万5000石を領する大名にまで昇進した。元和8年(1622年)、宇都宮城釣天井事件で本多正純が改易された後、老中に選ばれた。寛永3年(1626年)、父・直勝が死去したため、家督と所領である下総古河8万9000石を相続した。寛永9年(1632年)に秀忠が死去すると、北条氏重や土井利勝らと協力して、増上寺に秀忠の廟を建立するための監督官を務めた。


寛永10年(1633年)、老中職を解任されて山城淀藩10万石へ加増移封された。その後は京都所司代と協力して京都や大坂の治安を担った。寛永年間に大規模な飢饉が起こったときは、領民の救済にあたり、島原の乱が起こったときは、京都の守備を命じられた。その後も、江戸城普請や禁裏における普請などで功績を挙げた。正保元年(1644年)11月23日、従四位下にのぼった。明暦4年(1658年)2月28日に致仕。後に入道して信斎と号した。


寛文8年(1668年)9月11日死去、享年82。



関連項目


  • 甲州流軍学






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