ヤトヴャグ族




ヤトヴャグ族(ロシア語: Ятвяг、複数形はロシア語: Ятвяги:ヤトヴャギ。またリトアニア語: Jotvingiai)は中世のバルト系部族である[1]。民族的にはプルーセンに最も近く、言語的にはインド・ヨーロッパ語族バルト語派西バルト語群(fr)に属するヤトヴャグ語(死語)を用いていた。ルーシの年代記(レートピシ)には、10世紀からその名が記され始める[1]。12世紀初めから、現在の名称でいうリトアニア人、ラトビア人、ベラルーシ人、ポーランド人への民族的同化(ru)が始まり、17世紀までにほぼ終了した。




目次






  • 1 歴史


  • 2 脚注


    • 2.1 注釈


    • 2.2 出典







歴史




12世紀のバルト地方の諸部族の居住地(ヤトヴャグ族:Yotvingians)


ヤトヴャグ族は、ナレフ川(ru)とネマン川との間の地[注 1]を居住地域としていた[2](以下、便宜的に「ヤトヴャグ族の居住地」と記す)。1千年紀の終わりから、東方からの、この地へのスラヴ系部族(ドレゴヴィチ族)の進出が始まった。この時期にスラヴ系住人の建設した要塞都市としては、たとえば10世紀に建設されたフロドナ(年代記初出は1005年[3])が挙げられる。また10世紀から12世紀にかけて、「ヤトヴャグ族の居住地」の南部・東部はキエフ大公国からの侵略にさらされた(たとえば1038年のキエフ大公ヤロスラフの遠征など[1])。なお、この時期のヤトヴャグ族の主な生業としては、農耕、漁労、畜産(乳牛)、養蜂、そして交易が行われていた。


12世紀より、「ヤトヴャグ族の居住地」はルーシとポーランドの間で分割された[4]。すなわち「ヤトヴャグ族の居住地」の西部はポーランド王国の統治下に置かれ、マゾフシェ(ru)に区分された。南部は12 - 13世紀の間、ガーリチ・ヴォルィーニ公国の統治下にあった(後に同公国と共にリトアニア大公国領となる)。また、1283年に、北部にはドイツ騎士団が侵出・統治した[4]。1410年のタンネンベルクの戦いでドイツ騎士団が敗北すると、1422年のメウノの和平条約(ru)に則って、「ヤトヴャグ族の居住地」は全てリトアニア大公国領となった。


17世紀末までに、ヤトヴャグ族は他民族と同化し消滅した。



脚注







注釈





  1. ^ 各国語による名称はベラルーシ語: Дайнава,Судавія,Яцвезь、リトアニア語: Dainava,Sūduva,Jotva、ポーランド語: Sudawia,Jaćwieżなど。また、中世のルーシの史料ではヤトヴャギヤ(Ятвягия)と記された。詳しくはru:Судавия、en:Yotvingiaを参照されたし。




出典



  1. ^ abcЯтвяги // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона (ブロックハウス・エフロン百科事典): в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.


  2. ^ ЯТВЯГИ // Большой Энциклопедический словарь


  3. ^ Археографический ежегодник за 1964 год. — Москва.: Академии наук СССР, 1965.

  4. ^ abЯТВЯГИ // Советская историческая энциклопедия




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