コンスタンティヌス1世






















































コンスタンティヌス1世
Constantinus I

ローマ皇帝

0 Constantinus I - Palazzo dei Conservatori (2).JPG
コンスタンティヌス1世の頭像(カピトリーノ美術館所蔵)

在位
306年7月25日 - 312年10月29日(西方副帝)
312年10月29日 - 324年9月19日(西方正帝)
324年9月19日 - 337年5月22日(全ローマの皇帝)
全名
ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス
(Gaius Flavius Valerius Constantinus)
出生
272年2月27日
モエシア属州ナイッスス
(現セルビアの旗 セルビア、ニシュ)
死去
(337-05-22) 337年5月22日(65歳没)
ニコメディア
(現トルコの旗 トルコ、イズミット)
配偶者
ミネルウィナ(英語版)
 
ファウスタ(英語版)(マクシミアヌスの娘)
子女
クリスプス
コンスタンティヌス2世
コンスタンティウス2世
コンスタンス1世
コンスタンティナ(英語版)(ハンニバリアヌス妃のちガッルス妃)
ヘレナ(英語版)(ユリアヌス妃)
ファウスタ
王朝
コンスタンティヌス朝
父親
コンスタンティウス・クロルス
母親
ヘレナ
テンプレートを表示




アヤソフィアのモザイク画:聖母子にコンスタンティノポリスの街を捧げるコンスタンティヌス1世(顔の部分を拡大)


ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス古典ラテン語Gaius Flavius Valerius Constantinus ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス、270年代前半の2月27日 - 337年5月22日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:306年 - 337年)。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことから「大帝」と称される。


ミラノ勅令を発布したことでキリスト教を公認、その後の発展の政治的社会的基盤を用意したことから、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会では、聖人とされている。記憶日は、その母太后聖ヘレナと共に6月3日。日本正教会では正式には「亜使徒聖大帝コンスタンティン」と呼称される。


1950年にギリシャで発行された旧100ドラクマ紙幣に肖像が使用されていた。




目次






  • 1 概略


  • 2 生涯


    • 2.1 出自


    • 2.2 皇帝以前のキャリア


    • 2.3 並立する皇帝の1人として(306年 - 311年)


    • 2.4 唯一の皇帝になる(312年 - 324年)


    • 2.5 コンスタンティノポリスの建設


    • 2.6 晩年まで(326年 - 337年)


    • 2.7 後継者




  • 3 コンスタンティヌス1世とキリスト教


  • 4 コンスタンティヌス1世の功罪


  • 5 年譜


  • 6 史料


  • 7 脚注


    • 7.1 注釈


    • 7.2 出典




  • 8 関連項目


  • 9 参考文献


    • 9.1 外国語文献


    • 9.2 日本語文献







概略


ディオクレティアヌスの時代に西の副帝を務め、後に正帝(在位305年 - 306年)となったコンスタンティウス・クロルスの子として生まれたコンスタンティヌスは、312年に帝国の西の正帝となり、ディオクレティアヌス退位後の内乱を収拾して324年に帝国を再統一した。


330年には帝国東方の交易都市であるギリシア人の植民都市ビュザンティオン(後のコンスタンティノポリス、現イスタンブール)に遷都した。統一された帝国の皇帝として、コンスタンティヌスは官僚制を整備し、属州における軍事指揮権と行政権を完全に分離するなどディオクレティアヌスが始めた専制君主制(ドミナートゥス)を強化した。経済・社会面では、ソリドゥス金貨を発行して通貨を安定させ、コロヌスの移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った[1]。内政面では、ディオクレティアヌス帝までずっと盛んになる一方だったエクィテス(騎士)身分の重職への進出を停止し、かわりに形骸化しつつあった元老院を拡充させ、騎士身分や地方有力者を多数元老院議員に任命するとともに、これまで騎士身分のための職だった官職を元老院身分にまで解放した。これにより、経済・政治的に一大勢力を築いてきた騎士身分は栄達の道を閉ざされ、これ以降歴史から姿を消していくこととなった[2]


宗教政策の面では、帝国の統一を維持するため寛容な政策を採り、ネロ以来禁止されていたキリスト教に信教の自由を与えて公認した。ミラノ勅令によって彼がキリスト教を公認したことは、後年キリスト教がローマ帝国領であったヨーロッパへ浸透するきっかけとなる一方、教義決定に皇帝の介入を受けることにもつながった。


コンスタンティヌス時代の軍事の特徴としては、プラエトリアニ(親衛隊)を解体して、中央軍(野戦部隊、コミタテンセス)と、辺境軍(辺境部隊、リミタネイ)とを明確に分離して設置したことがあげられる。辺境軍はその名の通り各地の辺境属州の国境に常駐して国境や地域の安全を守り、野戦軍はふだんは帝国の中心部に近い属州に常駐し、敵の大規模な侵入や外征などの際には主力となった。これは軍人皇帝時代より徐々に進められてきた政策であったが、ディオクレティアヌス時代にはこの戦略は修正され、辺境に従来の倍の兵を貼り付け国境で防衛する戦略に変わっていた。コンスタンティヌス1世は辺境の軍を分割して再び国境の辺境軍と機動軍である中央軍の体制に戻したうえで明確化し、この戦略はこの時代に確立された。[3]また、プラエトリアニの隊長であったプラエフェクトゥス・プラエトリオの称号は残ったものの軍事的要素を失い、以後は行政職の称号となった。


コンスタンティヌス自身は、キリスト教徒が多いビテュニア生まれのヘレナを母として生まれたのでもともとキリスト教に好意的であったと言われる。一時期ミトラ教に傾倒したが、晩年にはキリスト教の洗礼を受けた。正教会ではキリスト教徒であった母とともに「亜使徒」の称号を付与されて尊崇された。また、コンスタンティヌス1世は325年にキリスト教の歴史で最初の公会議(全教会規模の会議)である第1ニカイア公会議を開かせ、この会議でアタナシウス派が正統とされ、アリウス派が異端とされた。


コンスタンティノポリスを首都とした東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、彼と同じ名(ギリシア語形:コンスタンティノス)を持つ皇帝が多数即位した。東ローマ帝国はコンスタンティヌスが創始した専制君主制とキリスト教の信仰の上に成り立っていたため、その先駆者であるコンスタンティヌス1世を「最初のビザンツ皇帝」と呼ぶ歴史家もいる[誰?]



生涯



出自


コンスタンティヌス1世、即ちフラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスはモエシア属州のナイッスス(現:セルビアのニシュ)に生まれた[4][5]。誕生日は2月27日であるが、生年は明らかではなく現代の学者による推定は西暦270年から290年までの範囲に及ぶ[4][5]。誕生日がわかるのは後世この日が祝日とされたためである[4]。主にアウレリウス・ウィクトルやエウセビオスが残した年齢と死亡年、在位期間の記録に基づいて計算すると270年代前半の生誕となり、これが「慎重な見解」であるとされる[5]。しかし、その他の生年を導き出すことが可能な根拠もあり正確には不明である。コンスタンティヌス1世自身が自分が生まれた正確な年を知らなかった可能性も十分にある[6]


父親はローマの将軍コンスタンティウス・クロルスであり、母親はその最初の妻ヘレナである[7]。後にコンスタンティヌス1世は父コンスタンティウスをクラウディウス・ゴティクス帝(在位:268年-270年)と結び付けたが、これが真実である可能性はほとんど無い[7]。貴族出身ともされるが恐らくはコンスタンティウスは農民であり一兵卒から成り上がったものであろう[4]。ビテュニアのドレパナ(小アジア北西部)出身とも伝えられる母ヘレナが卑賎な身分の出身であったことは広く知られており、彼女は給仕婦であったとも[4]ナイッススの宿屋で働いていたとも言われる[8]。彼女はコンスタンティウスが西ローマ帝国の皇帝マクシミアヌスの義娘であるフラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚する際、政略的な理由から離縁されたが、コンスタンティヌス1世はヘレナとの間に密接な関係を維持した[9]。コンスタンティウスとテオドラの間には6人の子供が生まれた。


コンスタンティヌス1世が生まれた当時、ローマ帝国は一般に3世紀の危機と呼ばれる政治・軍事的混乱の時代の終末期にあり、主にバルカン半島の農民(イリュリア人)などから成り上がった皇帝たち(軍人皇帝)が次々と即位していた[10][11][12]。この混乱はコンスタンティヌス1世が極若い頃に皇帝として即位したディオクレティアヌス帝(在位:284年-305年)によって収集され、かれは293年までに2名の正帝(アウグストゥス)と2名の副帝(カエサル)によって帝国を統治する四分統治(テトラルキア)体制を確立した[13]



皇帝以前のキャリア


テトラルキアにおいて2人いる副帝の片方に父コンスタンティウスが任命された。若きコンスタンティヌスはニコメディアにあるディオクレティアヌス帝の宮廷に仕えた。305年、正帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスが揃って退位し、クロルスがマクシミアヌス帝から西方正帝位を引き継いだ。権力争いの結果、新しい副帝には、皇帝の嫡男(コンスタンティヌスやマクシミアヌスの子マクセンティウス)ではなく、フラウィウス・ウァレリウス・セウェルスとマクシミヌス・ダイアとが選ばれた。


その後、コンスタンティヌスはニコメディアを去って、ガリアにいるクロルスのもとに行った。ところが、クロルスはカレドニア(現在のスコットランド)のピクト人に対する遠征の途中で病を発し、306年7月25日にエボラクム(現ヨーク)で死去した。アレマン族の血を引くクロクス将軍をはじめとする軍団は、亡きクロルスを慕っており、息子コンスタンティヌスを新しい正帝とするとの宣告を直ちに発した。


コンスタンティヌスは、東方正帝ガレリウスに対し、父の後を継ぎ西方正帝となったことを承認するように求めた。しかし、テトラルキア制度の元でのコンスタンティヌスによる皇位継承は適法ではなかった。前正帝クロルスは次に正帝となる副帝を指名しているのだから、コンスタンティヌスがいきなり正帝を名乗ることは305年に制定された皇位継承のルールを無視していることになる。このためガレリウスは、コンスタンティヌスが父の遺領をそのまま支配することは認めたものの、位は副帝として、西方正帝にはセウェルスを昇格させた。



並立する皇帝の1人として(306年 - 311年)


コンスタンティヌスの支配領域はブリタンニア、ガリア、ゲルマニア、およびヒスパニアだった。そして彼は、重要なライン川国境線を拠点に、ローマ軍団の中でも大軍を指揮した。ガリアはローマ帝国の中でも肥沃な地域だったが、3世紀の危機による被害が大きく、地域の多くは荒れ果て、都市は破壊されていた。このため、ガリアに駐在(主にトリーアに居住)した 306年から316年にかけて、コンスタンティヌスは父と同じくライン川国境の守備とガリア属州の再建とに尽力した。


コンスタンティヌスは、父が進めていたブリタンニアの攻略をすぐに取りやめ、ガリアに戻ってフランク人の蜂起を鎮圧した。308年にも再びフランク人制圧のために遠征した。これにも勝利した後、ライン川の右岸に常設の要塞を築こうと考え、ケルンにてライン川を渡る橋を築いた。310年にも再び遠征したが、マクシミアヌスの反乱(下記参照)のために途中で中止となった。フランク人制圧にコンスタンティヌスが最後に遠征したのは、イタリアから帰還した313年で、このときも勝利を収めた。治世の安定を目的とするコンスタンティヌスは、短時間で目的を達成するためには厳しい手段も選んだ。反逆する部族に対して冷酷なまでの厳しい処罰を与えることも多く、軍事力を誇示するためにライン川国境の内側で敵を倒したり、競技場で囚人を虐殺したりすることもあった。結果的にはこの方法は成功し、コンスタンティヌスの残る治世の間、ライン川国境は比較的平穏だった。


テトラルキアの下での帝国内部の争いには、コンスタンティヌスはあまり関らなかった。307年、正帝マクシミアヌス(305年に退位したが、この頃政界に復帰していた)がコンスタンティヌスを訪ね、マクセンティウス帝とセウェルス帝およびガレリウス帝との争いでの助力を願った。コンスタンティヌスはマクシミアヌスの娘ファウスタ(英語版)と結婚して同盟を結び、マクシミアヌスによって正帝への昇格を認められた。しかし、コンスタンティヌスはマクセンティウスの動きに何も干渉することはなかった。マクシミアヌスは、息子マクセンティウスを退位させることができないまま、308年にガリアに戻った。この年の暮れにカルヌントムで会合が開かれて、ディオクレティアヌス、ガレリウス、マクシミアヌスが会談した結果、マクシミアヌスは再び退位を余儀なくされ、コンスタンティヌスは副帝に戻されることになった。


309年、コンスタンティヌスがフランク人を制圧する遠征に赴いている間に、マクシミアヌスは義理の息子であるコンスタンティヌスに対して反乱を起こした。この反乱はすぐに鎮圧され、マクシミアヌスは落命した(殺されたか自殺に追い込まれたかは不明)。


コンスタンティヌスもマクシミヌス・ダイアも、自分たちが副帝でリキニウスが正帝になったことを不満に思い、正帝を自称し振舞った。これを310年にガレリウスが追認したので、公式に4人の正帝が並立する事態となった。311年にガレリウスが死ぬと、テトラルキアの維持を図る権力者はいなくなったため、この制度は急速に瓦解していった。この後に続く権力争いでは、コンスタンティヌスはリキニウスと同盟を結び、マクシミヌス・ダイアは未だ公式には簒奪皇帝とみなされているマクセンティウスに接近した。



唯一の皇帝になる(312年 - 324年)


312年の初めの頃、コンスタンティヌスは軍勢を伴ってアルプスを超え、マクセンティウスを襲撃した。彼はトリノとヴェローナで戦ってイタリア北部をすばやく征服し、ローマに兵を向けた。そして、ミルウィウス橋の戦いでマクセンティウスを破って西の正帝となり、西ローマ帝国全体の支配者となった。その後、彼は徐々に軍事力を強化し、テトラルキアで競合する他の皇帝たちに優位になっていった。


313年、彼はミラノでリキニウス帝と会談し、異母妹フラウィア・ユリア・コンスタンティアナをリキニウスに嫁がせて同盟を固めた。この会合において、2人の皇帝は連名でいわゆるミラノ勅令を発し、帝国内で全ての宗教(特にキリスト教)を寛容すると公認した。ところがこの会談中に、リキニウスに敵対するマクシミヌス・ダイア帝がボスポラス海峡を渡りリキニウス領土に侵攻したとの知らせが入り、会談は打ち切られた。戦地に向かったリキニウスは結局マクシミヌス・ダイアを破り、ローマ帝国東側の完全な支配を取り戻した。この後、2人になった皇帝コンスタンティヌスとリキニウスの関係は冷え込んでいき、314年か316年に争いが起こってコンスタンティヌスが勝利した。317年のマルディアの戦いにて両者は再び衝突し、その結果、コンスタンティヌスの息子クリスプスおよびコンスタンティヌス2世と、リキニウスの息子リキニアヌス(リキニウス2世)を副帝に据えることで両者は合意した。


320年、リキニウス帝は全宗教を公認した313年のミラノ勅令を破り、キリスト教徒に迫害を加えた。これがやがて西のコンスタンティヌス帝との対決につながって内戦となり、その内戦は324年に最も激しくなった。古来から伝わる異教崇拝(ペイガニズム)の勢力を代表するゴート族の傭兵がリキニウス帝を支えた。コンスタンティヌス帝と配下のフランク人はキリスト教を象徴するラバルムの旗印の下に行軍した。かくして戦いは宗教戦争の様相を呈し、数では劣ったようだが熱意に勝るコンスタンティヌス軍が、324年のハドリアノポリス、ヘレスポントス海峡、クリュソポリスなどの戦いを制した。敗れたリキニウスは翌年に処刑され、コンスタンティヌスは全ローマ帝国で唯一の皇帝となった。



コンスタンティノポリスの建設


リキニウスの敗北が意味したものは、過去のローマの時代の終焉であり、東方がローマ帝国の中心となる時代の始まりでもあった。教育も富も文化財も、東に中心が移ることとなった。コンスタンティヌスは新たな拠点として最初はブルガリアのソフィアに注目して同地を「我がローマ」と呼んだが、後にはシルミウムとテッサロニキにも目を向け、最終的にはギリシャのビュザンティオンを「ノウァ・ローマ(新ローマ)」と名づけたという。ただし「新ローマ」という認識は都市建設当時には存在していなかったともいわれる[14]。この都市には首都ローマに倣って元老院など幾つかの役所が設置されたが、法務官、財務官、護民官、首都長官など幾つかの重要な首都機能は設けられなかった。また元老院も首都ローマの元老院とは異なり、この都市の元老院の議員はクラリッシムス(称号)とは見なされなかった。


この都市は聖十字架やモーゼの鞭をはじめとするキリスト教の聖遺物に守護されていたと言われる。ローマの神々への崇拝も残るものの[注釈 1]、旧来の神々を描いた図の多くはキリスト教の象徴主義の図に代えられたり、加筆されたりした。アプロディテ神殿が建てられるべき場所には、新しく聖使徒教会が建てられた。後世の人は、コンスタンティヌスはこの場所に導く啓示を受けて、彼だけが見える天使が案内したと伝えた。死後、彼が作り上げた新しい都は「コンスタンティノポリス」と呼ばれるようになった。325年には第1ニカイア公会議が小アジアのニカイアで行われた。



晩年まで(326年 - 337年)




コンスタンティヌスの洗礼;ラファエロの弟子の作


326年、前妻ミネルウィナの子である長男クリスプスがコンスタンティヌスの2度目の妻ファウスタと密通したとの密告を名目に、コンスタンティヌスはクリスプスを処刑した。数ヶ月後、この告発は虚偽で、その出所が明らかにファウスタであるとの名目でファウスタも処刑された。


統一後も、コンスタンティヌスは外征を行い続けた。328年にはライン川にてアレマンニ族に勝利し、332年にはドナウ川でゴート人に、334年にはサルマティア人と戦い、勝利を収めた。その後、337年にローマ最大の敵であるサーサーン朝ペルシア討伐の軍を挙げたが、軍旅中に倒れ、コンスタンティノポリスからいくらも離れていないニコメディアで亡くなった。


神学者ヒエロニムスが伝えるところによると、コンスタンティヌスは337年に亡くなる少し前に洗礼を受けた。当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった[注釈 2]
ヒエロニムスによると、コンスタンティヌスが洗礼を受けたのは、異端とされたアレイオスを信奉するアリウス派でありながらも司教の座を保っていたニコメディアのエウセビウスに説得されたためだった。


改宗者であるにもかかわらず、彼は神格化された(これは、キリスト教に帰依した後の他の皇帝も同様である)。その遺体はコンスタンティノポリスに運ばれて聖使徒教会に埋葬された。



後継者


コンスタンティヌスの後継者には、彼とファウスタの間に生まれた息子3人、すなわち長兄のコンスタンティヌス2世、次兄のコンスタンティウス2世、末弟のコンスタンス1世がなり、また、コンスタンティヌス1世の甥であるダルマティウスとハンニバリアヌスにも領土と副帝の地位が分け与えられた。後継者となった正帝3人はそれぞれ、コンスタンティヌス2世がブリタニア・ガリア・イスパニアの帝国西方を、コンスタンティウス2世がビュザンティオンをはじめとする、小アジア・シリア・エジプトといった帝国東方、コンスタンス1世がイタリア半島を中心にイリュリクムやギリシア、北アフリカをそれぞれ統治することとなり、ダルマティウスはモエシアとトラキアを統治区域とした。これにより、コンスタンティヌスの遺児は当初のコンスタンティヌス1世と同じように帝国を分割統治することとなった。


しかし、コンスタンティヌス1世の死後、コンスタンティウスの支持者によってダルマティウスとハンニバリアヌスをはじめとする多くの血縁者が殺害された。ダルマティウスの統治区域のうちモエシアをコンスタンス1世に、トラキアをコンスタンティウス2世に再分配してふたたび3帝による統治が始まったものの、長兄のコンスタンティヌス2世はこの配分に不満を持ち、末弟のコンスタンス1世の領域へ340年に進攻したものの、アクィレイア近郊での戦いによってコンスタンティヌス2世は敗北し、命を落とした。しかしコンスタンス1世もマグネンティウスによる反乱により死亡し、結局353年にコンスタンティウス2世がマグネンティウスを滅ぼして帝国を再統一するまで、コンスタンティヌス1世の死後15年にも及ぶ内戦が勃発することとなった。彼には2人の娘コンスタンティアーナ(307年以後から317年以前 - 354年)とヘレナがおり、ヘレナはユリアヌス帝の妻となった。ヘレナがいくつか年上であったらしい。ヘレナはユリアヌスの子の死産を二度繰り返した後は健康が優れず、ガリアの地で360年に亡くなった(没年齢は不明)。この死産時の子供達以外にこの2人の間に子女は確認できない。コンスタンティアーナは初め、アルメニア王位を約束されていた副帝ハンニバリアヌスと結婚、337年にハンニバリアヌスがコンスタンティウス2世に殺害された後は未亡人となってローマに居を移し、同母兄弟コンスタンス1世を殺害したマグネンティウスと連絡を取り合って接近した。動機は夫を殺されたこと、アルメニア王妃の地位を奪われたことであり、コンスタンティウス2世を憎悪していたのである。マグネンティウスと結婚すれば、帝国西方の支配者の妻となれるという計算もあったのかもしれない。マグネンティウスにとっても、コンスタンティヌス1世の実の娘を妻とするメリットを知っていた。この策略を阻止する為にコンスタンティウス2世は、351年にコンスタンティアーナはユリアヌスの異母兄であり、副帝に任命したコンスタンティウス・ガッルスと再婚させられた。コンスタンティアーナの方がいくつか年上であったらしい。一人娘アナスタシアを儲けたが、このアナスタシアの生涯については、両親が結婚した351年から父ガッルスが殺害される354年の間に生まれたということや結婚してその血筋が東ローマ帝国皇帝アナスタシウス1世とその弟妹(及び弟妹の子孫)に繋がったこと以外、知られていない(もしくはそれしか推測できない)。354年、ガッルスはコンスタンティウス2世からミラノへ招聘された。ガッルスは招聘が召喚であることが分かっており、コンスタンティウス2世の実の姉妹だからと、妻コンスタンティアーナを弁護役にし、先にミラノへ発たせた。しかし、コンスタンティアーナはシリアからイタリアへの長旅の途中で病に倒れ、病死した(没年齢は不明)。ガッルスも宦官エウセビウスの策略によりポーラで処刑された。残されたユリアヌスも363年のペルシア戦役にて投槍を受け、陣中で死去。後継にはユリアヌスとは血縁が無いヨウィアヌスが選ばれ、適当な男子が無かったコンスタンティヌス朝は断絶した。


その後、コンスタンティヌス朝の血統自体は存続。ヨウィアヌスの後を継いだウァレンティニアヌス1世の後妻ユスティナは、ユストゥスという男性とガッルスの同母姉妹(ユリアヌスの異母姉妹)の娘でマグネンティウスの妻だった女性であり、ウァレンティニアヌス1世との間に、ウァレンティニアヌス2世、グラタ、ユスタ、ガッラの1男3女を儲け、ガッラはテオドシウス1世の後妻となり、グラティアヌス、ガッラ・プラキディア、ヨハネスの2男1女の母となった。この内、ガッラ・プラキディアのみが子孫を残し、その血筋は少なくとも6世紀の終わりまで、コンスタンティノープルのローマ貴族であり続けた。一方、コンスタンティウス2世の一人娘で、その死後に生まれたコンスタンティアは皇統の連続性と継続性を示す為にウァレンティニアヌス1世の長男でウァレンティニアヌス2世の異母兄グラティアヌスと結婚。男子を儲けたが、この系統はすぐに断絶している。



コンスタンティヌス1世とキリスト教


コンスタンティヌス1世は、初めてのキリスト教徒皇帝として有名である。それ以前のローマ帝国では、ネロ帝(54年 - 68年)のキリスト教徒迫害に始まり、ディオクレティアヌス帝(284年 - 305年)の迫害まで、何度かキリスト教が迫害を受ける時期があった。そんな一部の時期を除くほとんどの間、キリスト教徒であることは黙認されていたが、発覚した場合は改宗を迫られ拒絶した者は処刑された。


5世紀の歴史家ソゾメノス(英語版)によると、コンスタンティヌスはガリアまたはブリタンニアの辺りに駐在している間、現地で広まっていたキリスト教の洗礼を受けたという。ただし、洗礼の時期については、当時の風習に従い死の直前だったという説もある。コンスタンティヌスは自らキリスト教を信仰しただけではなく、宮殿でもキリスト教を広めようとした。コンスタンティヌスがキリスト教を広めた理由について、哲学者バートランド・ラッセルを始めとする多くの歴史家は、キリスト教の持つ組織力に目をつけたためだと指摘している。


伝説によると、コンスタンティヌスが改宗したのは、神の予兆を見たためと伝えられる。伝説では、コンスタンティヌスは、312年のミルウィウス橋の戦いに向かう行軍中に太陽の前に逆十字[注釈 3]とギリシア文字 Χ と Ρ(ギリシア語で「キリスト」の先頭2文字)が浮かび、並んで「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見た。この伝説はラクタンティウスなどいくつかの資料で詳しく伝えられているが、4-5世紀頃の文献に多く現れる神の予兆や魔法などの話のひとつである。ちなみに、この後のローマ軍団兵の盾にはそれを模った紋章が描かれたという。


のちに「コンスタンティヌスの寄進状」という文書が偽造され、ヨーロッパ史に影響を及ぼした。


なお、コンスタンティヌス1世を正教会は「亜使徒聖大帝コンスタンティン」として記憶する事は冒頭に述べた通りであるが、日本正教会の宇都宮ハリストス正教会の会堂は「亜使徒聖大帝コンスタンティン及び聖大后エレナ会堂」であり、コンステンティヌス1世と母太后ヘレナを記憶している[15]



コンスタンティヌス1世の功罪


名君として称揚されることの多いコンスタンティヌス1世ではあるが、それらは多分に後世のキリスト教的史観による。例えば降伏したリキニウスとその息子リキニウス2世や、リキニウスとの戦いの中で優れた才覚を示し、兵士たちに絶大な人気のあった長男クリスプスをローマ再統一後に突如幽閉して殺したことなどは、エウセビオスなど古代のほとんどのキリスト教歴史学者からは無視される傾向にある。


「ノウァ・ローマ」と名づけられた後のコンスタンティノポリスも美しい都ではあったが、戦乱後のローマにはそのような華美な都を建設するだけの財力はなかったので、そこに設置された彫刻などの多くはローマ市や各地にあったものを撤去して移送しただけのものであった。また、コンスタンティヌス1世は農民が生まれた土地から離れてはならないと定めることによって都市部への人口の流入を防ぎ、財政収益の安定を図った。これは後世の封建制の始まりとも言えるが、皇帝の権威を高めるためにキリスト教と結びつき華麗な式典を行った一方で、農村では重税に喘ぐ農民たちの姿があった。さらに、豪華な宮廷などの東方化に伴い宦官もはびこるようになる。


またコンスタンティヌス1世がキリスト教に帰依したのも政略にキリスト教を利用しようとした側面が非常に大きい。西ローマを治めるコンスタンティヌス1世がキリスト教に対して寛容な政策をとることで、ライバルのリキニウスとキリスト教徒との折り合いを悪くすることが目的であったといわれる。また、「カエサルのものはカエサルに」という言葉に示されるように、定められた現世の運命を受け入れることを是とするキリスト教の教義は相次ぐ内乱によって弱体化した皇帝の権威を強化するのに非常に適していた。キリスト教は東洋における儒教のような役割を果たしたとされる。


コンスタンティヌス1世は第1ニケーア公会議でアタナシウス派とアリウス派のどちらを正当とするかの論争に決着を付けたが、彼自身はそれらの教義の違いを明確には理解しておらず、判断の基準となったのはそれぞれの支持者の数だけであったという。


ローマ皇帝でありながらローマを軽視したコンスタンティヌス1世に少なからず反感を抱く者も多く、キリスト教徒でありながら神格化されたのも、それに対する市民のささやかな反抗であったとも言われる。



年譜




  • 272年 - 誕生。当時、父コンスタンティウス・クロルスはまだ士官であった。


  • 292年 - 宮廷に送られ、ディオクレティアヌスや後に東の正帝となったガレリウス(在位:305年 - 311年)に従軍する。


  • 306年 - ガレリウスの下から、西の正帝でブリタンニア滞在中の父クロルス(在位:305年 - 306年)のところへ向ったが、クロルスが死去。ガレリウスの部下セウェルスが西の正帝となり、コンスタンティヌスは副帝となった。


  • 312年 - イタリア・北アフリカを制圧していた簒奪皇帝マクセンティウスをミルウィウス橋の戦いで破りローマへ入城、西方の正帝となる。
    • この戦いの前にコンスタンティヌスは光り輝く十字架(ギリシア語でキリストを意味する Χ と Ρ の組み文字であるラバルムという説もある)と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見たため、十字架を旗印として戦いに勝利し、これがきっかけでキリスト教を信仰するようになったと言われている。



  • 313年 - ミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認。


  • 324年 - 東方の正帝リキニウスを破り、全ローマ帝国の単独皇帝となる。


  • 325年 - キリスト教徒間の教義論争を解決するために初の公会議である第1ニカイア公会議を開催、アリウス派を異端と決定し、皇帝がキリスト教の教義決定に介入する嚆矢となった。


  • 330年 - ローマからバルカン半島のビュザンティオンに遷都し、「ノウァ・ローマ(新ローマ)」と改称。


  • 337年 - 小アジアのニコメディアで洗礼を受け、その直後に死去。



史料


コンスタンティヌス1世の時代についての史料は現在かなりの量が残されている[16][17]。ただし、これらには後世付加された伝説に彩られていたり、キリスト教的・反キリスト教的な潤色と脚色が加えられたりしているものが多数含まれ、一貫性と信頼性に欠けるために取り扱いには細心の注意が必要である[17]


4世紀のローマ皇帝についての主たる情報源はアンミアヌス・マルケリヌスの『歴史(Res Gestae)』[注釈 4]であるが、これはコンスタンティヌス1世の時代を取り扱った巻が散逸し現存していない[17]。比較的同時代に近い情報源は、4世紀半ばのアウレリウス・ウィクトルやエウトロピウスの著作、4世紀末の著者不明の『皇帝伝要約(英語版)Epitome de Caesaribus)』、5世紀末のゾシモスらの残した作品などである[17]。異教徒であるゾシモスはコンスタンティヌス1世に対する敵意を露わにしている[18]。またその他のギリシア人作家の作品の中からも断片的な情報を拾い集めることが可能である[17]


教会史家たちは多くの記録を残しており、エウセビオスは『コンスタンティヌスの生涯(英語版)Vita Constantini)』をコンスタンティヌス1世の死の直後に著述した。ただしこの著作については長らく真贋が論争されている[17][19]。他にヒエロニムスの『年代記』やアクィレイアのルフィヌス(英語版)フィロストルギオス(英語版)キュジコスのゲラシオス(英語版)、キュロスのテオドレトス、コンスタンティノープルのソクラテス、ソゾメノス(英語版)らが記した『教会史』の記録がコンスタンティヌス1世への言及を残している[17][18]。彼ら教会史家は参照した典拠から長文の引用を行う習慣を発達させており、このおかげでコンスタンティヌス1世時代の文書が保存されている[16]。この他、神学者アウグスティヌスも多数の引用を残している[18]。307年から321年の間の頌歌や、『テオドシウス法典』、コインのような考古学的遺物、コンスタンティヌス1世像などからも情報が得られる[17]



脚注


[ヘルプ]


注釈





  1. ^ エルミタージュ美術館に収蔵されるカメオにはコンスタンティヌスが新都市の運命の女神ティケに戴冠されている図が描かれている。


  2. ^ この時代には幼児の洗礼は未だ習慣化されていなかった(幼児洗礼は、初めは非常時のみ行われていた。この頃には幼児洗礼を受けるものも増えていたが、これはキリスト教徒として生きるという重みを持った選択というよりは、将来キリスト教にしたがう予定という意味合いだった)。自らの意思で洗礼を受ける成人は、神の贖罪により身を守るという信心をはっきりと宣誓した。聴衆に洗礼を促す聖職者と洗礼を放棄した者との板ばさみになったりして、様々な理由から、年をとるか死の間際になるかまで洗礼を待つ者もいた(Thomas M. Finn (1992), Early Christian Baptism and the Catechumenate: West and East Syria および Philip Rousseau (1999). "Baptism", in Late Antiquity: A Guide to the Post Classical World, ed. Peter Brown)。


  3. ^ シンボリスム的解釈では、十字(架)が太陽の象徴であるのに対し、逆さ十字(架)は金星(明けの明星)の象徴である。


  4. ^ 和訳タイトル:『ローマ帝政の歴史』




出典





  1. ^ 「古代ローマを知る事典」p118 長谷川岳男・樋脇博敏著 東京堂出版 2004年10月1日初版発行


  2. ^ 『新・ローマ帝国衰亡史』p57 南川高志 岩波新書、2013.5 ISBN 4004314267


  3. ^ エイドリアン・ゴールズワージー著、遠藤利国訳『図説古代ローマの戦い』東洋書林 2003年5月30日

  4. ^ abcdeジョーンズ 2008, p. 15

  5. ^ abcランソン 2012, p. 14


  6. ^ ジョーンズ 2008, p. 16

  7. ^ abランソン 2012, p. 15


  8. ^ ブルクハルト 2003, p. 401, 注釈44番


  9. ^ ランソン 2012, p. 16


  10. ^ 井上 2015, pp. 54-105


  11. ^ 木村 1997, pp. 411-417


  12. ^ ルメルル 2003, pp. 8-10


  13. ^ レミィ 2010, pp. 39-43


  14. ^ 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年


  15. ^ 宇都宮ハリストス正教会・亜使徒聖大帝コンスタンティン及び聖大后エレナ会堂

  16. ^ abジョーンズ 2008, p. 11

  17. ^ abcdefghランソン 2012, pp. 8-13

  18. ^ abcジョーンズ 2008, p. 12


  19. ^ ジョーンズ 2008, p. 13




関連項目



  • コンスタンティノープル

  • コンスタンティノープル競馬場

  • コンスタンティヌスの寄進状

  • ラバルム



参考文献



外国語文献




  • The Cambridge Companion to the Age of Constantine (Cambridge Companions to the Ancient World), edited by Noel Lenski. New York: Cambridge University Press, 2005 (hardcover, ISBN 0-521-81838-9; paperback, ISBN 0-521-52157-2).

  • Chuvin, Pierre; Archer, B. A. (translator). A Chronicle of the Last Pagans. Cambridge, MA: Harvard University Press, 1990 (ISBN 0-674-12970-9).

  • Chapman, John. "Donatists", The Catholic Encyclopedia (1909).


  • "Constantine", Encyclopaedia Britannica (1911).

  • Eric Robertson Dodds. The Greeks and the Irrational. Berkeley: University of California Press, 1964.

  • Eric Robertson Dodds. Pagan and Christian in an Age of Anxiety: Some Aspects of the Religious Experioence from Marcus Aurelius to Constantine. Cambridge University Press, 1965.

  • Eusebios. The Life of the blessed Emperor Constantine in four books from 306 to 337.

  • Fowden, Garth. "The Last Days of Constantine: Oppositional Versions and Their Influence", The Journal of Roman Studies, Vol. 84. (1994), pp. 146-170.

  • Charles George Herbermann; Grupp, Georg. "Constantine the Great", The Catholic Encyclopedia (1908).

  • Holloway, R. Ross. Constantine and Rome. New Heaven, CT; London: Yale University Press, 2004 (hardcover, ISBN 0-300-10043-4).

  • Jones, A.H.M. Constantine and the Conversion of Europe. London: English University Press, 1948; London: Macmillan, 1949.

  • Kousoulas, D.G. The Life and Times of Constantine the Great: The First Christian Emperor. Bethesda, MD: Provost Books, 2003 (paperback, ISBN 1-887750-61-4).

  • Lactantius, (240-320). Of the Manner the in Which the Persecutors Died.

  • MacMullen, Ramsay. Constantine. Dial Press, 1969.

  • MacMullen, Ramsay. Christianizing the Roman Empire A.D. 100-400. New Heaven, CT; London: Yale University Press, 1984.

  • MacMullen, Ramsay. Changes in the Roman Empire: Essays in the Ordinary. Princeton, NJ: Princeton University Press, 1990.

  • MacMullen, Ramsay. Enemies of the Roman Order: Treason, Unrest, and Alienation, Harvard, 1966.

  • Odahl, Charles Matson. Constantine and the Christian Empire. Cambridge, MA: Harvard University Press, 2004.

  • Rassias, Vlassis R. Es Edafos Ferein, 2nd edition. Athens, 2000 (ISBN 960-7748-20-4).

  • Wilken, Robert L., Christians As the Romans Saw Them. New Heaven, CT; London: Yale University Press, 1984.

  • Sources on the Antonine Plague:

    • Marcus Cornelius Fronto. Letters of Marcus Cornelius Fronto.

    • Galenus. On the Natural Faculties.





日本語文献



  • 『エウセビオス コンスタンティヌスの生涯』 秦剛平訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2004年

  • 『ガレノス 自然の機能について』 内山勝利編、種山恭子訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、1998年

  • 木村凌二 「11 地中海手国の変貌」『ギリシアとローマ』 中央公論社〈世界の歴史 5〉、1997年10月、411-435頁。ISBN 978-4-12-403405-9。

  • 井上文則 『軍人皇帝のローマ』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2015年5月。ISBN 978-4-06-258602-3。

  • ヤーコプ・ブルクハルト 『コンスタンティヌス大帝の時代 衰微する古典世界からキリスト教中世へ』 新井靖一訳、筑摩書房、2003年3月。ISBN 978-4-480-84714-0。

  • A.H.M.ジョーンズ 『ヨーロッパの改宗 コンスタンティヌス〈大帝〉の生涯』 戸田聡訳、教文館、2008年12月。ISBN 978-4-7642-7284-2。

  • ポール・ヴェーヌ 『私たちの世界がキリスト教になったとき-コンスタンティヌスという男』 西永良成ほか訳、岩波書店、2010年


  • 大澤武男 『コンスタンティヌス ユーロの夜明け』 講談社、2006年

  • ベルトラン・ランソン 『コンスタンティヌス その生涯と治世』 大清水裕訳、白水社〈文庫クセジュ 967〉、2012年3月。ISBN 978-4-560-50967-8。

  • ベルナール・レミィ 『ディオクレティアヌスと四帝統治』 大清水裕訳、白水社〈文庫クセジュ 948〉、2010年7月。ISBN 978-4-560-50948-7。

  • ポール・ルメルル 『ビザンツ帝国史』 西村六郎訳、白水社〈文庫クセジュ 870〉、2003年12月。ISBN 978-4-560-05870-1。

  • E.R.ドッズ 『ギリシァ人と非理性』 岩田靖夫・水野一訳、みすず書房、初版1972年、復刊2007年ほか

  • E.R.ドッズ 『不安の時代における異教とキリスト教』 井谷嘉男訳、日本基督教団出版局、1981年


  • ピーター・ブラウン 『古代末期の世界 ローマ帝国はなぜキリスト教化したか?』
     宮島直機訳、刀水書房〈刀水歴史全書〉、2002年、改訂新版2006年

  • ピーター・ブラウン 『古代末期の形成』 足立広明訳、慶應義塾大学出版会、2006年

  • ピーター・ブラウン 『古代から中世へ』 後藤篤子編訳、山川出版社〈YAMAKAWA LECTURES〉、2006年
























先代:
フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス

ローマ西方副帝
306年 - 312年
次代:
なし
先代:
マクセンティウス

ローマ西方正帝
312年 - 324年
次代:
コンスタンティヌス朝へ
先代:
リキニウス(東方正帝)

ローマ皇帝
324年 - 337年
次代:
コンスタンティウス2世
コンスタンティヌス2世
コンスタンス1世








Popular posts from this blog

CARDNET

Boot-repair Failure: Unable to locate package grub-common:i386

濃尾地震