新聞統制




新聞統制(しんぶんとうせい)は、新聞資本の統合(新聞統合)及び新聞の統制団体設置を目的として策定されたオペレーションを指す。内務省と情報局を中心として運用され、黒幕として古野伊之助が暗躍した。1938年より始まり1942年末に完成した。統合の結果、一つの県に一つの県紙が置かれた「一県一紙」は現在までほぼそのままで維持されている。




目次






  • 1 概要


  • 2 年表


  • 3 戦争報道への影響


  • 4 新聞統合の進捗


  • 5 持ち分合同


  • 6 新聞統制が遺したもの


  • 7 脚注


  • 8 関連項目


  • 9 参考文献


  • 10 外部リンク





概要


言論統制は国による言論の自由抑制を指すが、そこには消極的統制と積極的統制が存在する。検閲は前者であり、新聞統合及び統制団体設置は後者に属する[1]。メディアを同調させて総力戦に組み込むことを目指すため発想や手段も様々である。新聞統合が開始された時点で根拠となる法は存在しなかった。すなわち15年戦争の期間でも新聞社の廃業合併は当事者の自発的意思に基づき、この状態は1941年12月まで続いた。内務省の出先である知事または特別高等警察は当事者へ勧告し説諭するしかなかったが、勧告へ従わない場合は新聞用紙の供給差し止めという無言の脅しがあった。


危機感を持った新聞側は日本新聞連盟という自治的な統制団体を作り、ここで用紙の配給調整に関わる調査、共販制、記者倶楽部の改編を行った。連盟の中には政府側の代表である参与理事もおり、新聞の資本統合が連盟理事会に諮られると理事会は紛糾、さらに「新聞共同會社案」で日本の新聞を1つにまとめる案がでると新聞界は二分した。この混乱から事態は矢継ぎ早に展開し、完全な統制団体として日本新聞會が創設された。新聞業界は己自身の手で統制指導にあたらされ、専務理事の岡村二一は全国で調整に奔走。新聞統合も完成した。(詳細は年表を参照)。


前述の通り新聞事業令が公布されるまで新聞統合の根拠となる法がなかった点、また各道府県ごとの事情もあり新聞統合の進捗は一律には進まなかった(詳細は新聞統合の進捗を参照)。一県一紙を推進できない内務省に対し陸軍省が不満を持ったとする記録もある。また1940年まで中央紙、特に読売新聞は地方紙の買収、資本提携に積極的に動いた。新聞統制下でも全国紙が地方侵攻をやめていなかったという証言が残されている。各社の生き残りをかけた競争は結果として統制団体内部での対立を生み混乱を生じさせた。また新聞統制は資本統合でもあったが同時に企業の内部から見た場合に「資本と経営の分離」を促進させた。



年表




  • 1938年、国家総動員法施行(5月)。消費制限品目に洋紙(新聞用紙)も含まれた。


  • 1938年、悪徳不良紙の整理統合を始める(8月)。
    小野秀雄「まず有害無益な新聞の廃刊に着手し、次いで無害無益な新聞に及ぶべきである」(内務省より質問をうけて)


  • 1939年、「日本海新聞」創刊(10月)。


  • 1940年、内閣の下に「新聞雑誌用紙統制委員会」設置(5月)。


  • 1940年、弱小紙の整理統合を始める(5月)。


  • 1940年、情報局設立(12月)。



  • 1941年、日本新聞連盟発足(5月)。
    9月17日、参与理事(政府側)の吉積正雄より新聞の資本統合を諮問され理事会が混乱。
    10月4日、連盟としての答申案を作成するため小委員会を設置。
    11月5日、小委員会は全国の新聞社を1つに統合した「新聞共同會社」案を提示。
    奥村喜和男「自分は小委員会案を国家のため絶対に必要と信ずるから職を賭してどころではない。死を賭しても実現させてみせる」
    正力松太郎「読売新聞は自分の生命である。自分も命に賭けて、かかる案は阻止する」
    11月20日、連盟会長の田中都吉が衆議統裁すると決定。
    11月24日、田中は共同會社案を認めながらも現在は混乱を生じると採用せず。田中の答申案は東条内閣へ送られた。
    11月28日、東条内閣は「新聞ノ戦時体制下ニ関スル件」を閣議で決定。
    12月13日、新聞事業令公布。
    1942年1月10日、新聞事業令に基づき新聞へ統制団体参加命令が出る。
    1942年2月11日、日本新聞會発足



  • 1941年、情報局第四部第一課長が「一県一紙」を指示(9月)


  • 1941年、吉積正雄、今松治郎より「一県一紙」の指示(12月)


  • 1942年、新聞統合完成(12月)





戦争報道への影響


これらの経緯を経て、新聞社や日本放送協会の報道は制約されはじめる。従軍報道においても取材写真は幾つもの検閲を経て、何度もふるいにかけられてようやく紙面に掲載されることになった。また、言論統制もあって、記事にも日本に有利な情報しか掲載されなくなり、事実に反する内容も少なくなかった。そのため、複数の「真実」が存在する、曖昧な事件が幾つかあり、現在に至るまで議論がなされている。



新聞統合の進捗


新聞統合における一県一紙は、正確には1つの県に新聞が1つあるという意味ではない。全国紙(中央紙)と地方紙は併存していたし、全国紙、地方紙以外の新聞も存在した。つまり日本新聞博物館(横浜市)の歴史コーナーが説明しているように「日刊新聞社」が昭和12年(1937年)に1208社あったものが、昭和17年(1942年)には55社に統合されたという実相が新聞統合である。 毎日刊行される日刊紙以外にも週刊紙、旬刊紙、不定期紙などの新聞は存在する。






























































































































































































































































































































































































































































新聞統合の過程(普通日刊紙) 出典は里見脩の『新聞統合』
カテゴリ 地域 統合後の新聞 母体
太字の場合は当該紙が他紙を吸収)
完成時期 完成前地元紙
統合後部数
備考
全国紙
朝日新聞
大阪朝日新聞、東京朝日新聞
1940.9.1 -
3,677,336
東京五紙、大阪四紙、名古屋撤退、九州存続
毎日新聞
東京日日新聞、大阪毎日新聞
1943.1.1 -
3,245,369
東京五紙、大阪四紙、名古屋撤退、九州存続
読売報知[2]

読売新聞、報知新聞
1942.8.5 -
1,728,194
東京五紙
地方紙 樺太

樺太新聞[3]
樺太日日新聞、樺太時事新聞、
樺太旭新聞、樺太毎日新聞

北海道
北海道新聞
北海タイムス、小樽新聞、室蘭日報
新函館、網走新報、根室新聞
北見新聞、旭川タイムス、旭川新聞
釧路新聞、十勝毎日新聞
1942.11.1 293,390
484,521
6月、知事が統合裁定案を出すが
岡村二一が来道し東季彦を社長に推薦。
青森県
東奥日報
東奥日報、八戸合同、弘前新聞、
青森日報、東北タイムス
1942.1.1 38,870
63,501

岩手県
新岩手日報[4]

岩手日報、岩手國民新聞、三陸日日新聞
日刊岩手、宮古新聞、岩手日日新聞他3紙
1942.1.1 13,300
34,713

秋田県
秋田魁新報 1942.6.1 21,300
50,100

宮城県
河北新報 1942.2.1 21,450
98,179
河北が事実上の一県一紙であったため北海道、中日ほどの効果はなかった。
山形県
山形新聞
山形新聞、米澤新聞、
鶴岡新報、酒田毎日新聞
1942.2.1 8,500
35,678
地域ごとに一社に統合、さらに県都を拠点とする有力な一社に統合。
福島県
福島民報
福島民報、福島民友新聞[5]
1941.9.1 11,650
30,608

茨城県

茨城新聞[6]

いはらき、常総新聞、
常南日報、関東毎日新聞
1942.2.1 9,800
19,532

栃木県
下野新聞
下野新聞ほか県内各紙
1942.1.1 6,800
21,390

群馬県
上毛新聞
上毛新聞、上州新報、群馬新聞など
1940.10.1 18,040
16,913
東京紙に侵食された県内の新聞社が有力な地元紙の下で統合。
埼玉県

埼玉新聞[7]
埼玉県新聞、埼玉日報など 1940.11.17 1,500
5,910
有力な地元紙がないため県当局が弱小紙を束ねる形で創刊させた。
千葉県
千葉新聞[8]
千葉毎日新聞、房総新聞、
千葉日日新聞、千葉県民新聞など
1940.11.19 8,300
13,273

東京都

東京新聞[9]

都新聞、國民新聞
1942.10.1 -
238,264
夕刊紙。東京五紙(ブロック紙)
神奈川県
神奈川新聞 神奈川県新聞、神奈川日日新聞 1942.2.2 12,400
23,179
知事は神奈川日日新聞に買収資金を斡旋。
静岡県
静岡新聞
静岡民友新聞、静岡新報、浜松新聞、
沼津合同新聞、清水新聞、熱海毎日新聞
1941.12.1 19,010
31,411

山梨県
山梨日日新聞
山梨日日新聞、峡中日報、
山梨民報、山梨毎日新聞など
1941.2.1 39,440
35,516

長野県
信濃毎日新聞
信濃毎日新聞、南信毎日新聞など
1942.5.1 51,340
90,420

新潟県
新潟日報 新潟日日新聞、新潟県中央新聞、上越新聞 1942.11.1 53,750
104,422

富山県
北日本新聞 富山日報、高岡新聞、
北陸日日新聞、北陸タイムス
1940.9.1 35,000
66,390
知事の指示を受けた特高課検閲係の鰐淵国光警部が斡旋。設立後、鰐淵は主幹として入社。
石川県
北國毎日新聞[10]

北國新聞、北陸毎日新聞、
北國夕刊、北國日報
1942.5.11 59,390
93,105

福井県
福井新聞 福井民報、みくに新聞、敦賀時事、
新福井日報、若州新聞、北陸新聞、
勝山朝日など
1941.3.1 16,960
23,816

愛知県

中部日本新聞[11]

新愛知、名古屋新聞
1942.9.1 -
736,980
中部(ブロック紙)。小山松寿の新社長就任は岡村二一の知事面談で潰されたとの証言あり。
岐阜県
岐阜合同新聞[12]
岐阜日日新聞、飛騨毎日新聞、
岐阜新聞、美濃大正新聞など
1942.1.6 17,860
31,150

三重県
伊勢新聞
伊勢新聞、北勢朝日、
三重新聞、南勢新聞など
1942.4.5 19,110
22,594

滋賀県

滋賀新聞[13]
1942.8.1 1,300
6,310

奈良県

奈良日日新聞[14]
旧奈良新聞、中和新聞、大和日報 1941.1.1 1,000
9,212

京都府
京都新聞 京都日出新聞、京都日日新聞 1942.4.1 45,800
88,073
統合の準備に入ると関西進出を狙う読売が三社共同経営を提案するなど一時難航。
大阪府

大阪新聞[15]

夕刊大阪新聞、関西中央新聞、関西日報、
大阪日日新聞、大阪時事新報など
1942.5.1 -
182,569
夕刊紙。大阪四紙(ブロック紙)
和歌山県
和歌山新聞[16]
1942.9.1 8,880
16,821

兵庫県
神戸新聞
神戸新聞、神戸又新日報
1941.12.1 97,140
124,961
特高課は神戸社長の進藤信義を追放。自由主義の点が睨まれた。後任は川崎芳熊。
岡山県
合同新聞[17]

合同新聞ほか県内各紙
1941.11.4 46,570
144,441

広島県

中國新聞[18]
中國新聞、山陽日日新聞 1941.10.30 -
182,208


呉新聞[19]

呉新聞、芸備日日新聞、呉新興日報
存続

鳥取県

日本海新聞[20]
鳥取新報、因伯時報、山陰日日新聞 1939.10.1 29,650
12,972
知事の慫慂を受けて米原章三が奔走し9月に会合、その席で統合が決定。
島根県
島根新聞[21]
山陰新聞、松陽新報 1942.1.1 74,800
24,297
1940年、田部長右衛門 (23代)が松陽を買い取る。
山口県
関門日報[22]

関門日日新聞、防長新聞
1942.2.1 19,700
33,788
知事は1.13に県庁に各紙代表を招き新たな新聞の創刊を通告。廃刊届けを強要
徳島県

徳島新聞[23]
徳島日日新報、徳島毎日 1941.12.16 39,700
40,595
合併後に主導権争い。解決のため社団法人で設立。
香川県
香川日日新聞[24]
香川時報、讃岐実業新聞 1941.2.11 5,860
13,471

愛媛県
愛媛合同新聞[25]
海南新聞、南予時事新聞、伊予新報 1941.12.1 35,500
51,503

高知県

高知新聞[26]

高知新聞、土陽新聞
1941.9.1 35,980
73,730
土陽は政友会、高知は民政党寄り。
福岡県
西日本新聞
福岡日日新聞、九州日報
1942.8.10 -
374,408
九州(ブロック紙)
大分県

大分合同新聞[27]
大分新聞、豊州新報 1942.4.3 27,470
50,779

佐賀県
佐賀新聞 1941.5.1 7,700
12,132

長崎県
長崎日報[28]
長崎日日新聞、長崎民友新聞、
軍港新聞、島原新聞
1942.4.1 58,100
45,615

熊本県
熊本日日新聞 九州日日新聞、九州新聞 1942.4.1 35,100
76,271

宮崎県
日向日日新聞[29]
県内の9紙 1940.11.25 10,630
18,884

鹿児島県
鹿児島日報[30]
鹿児島新聞、鹿児島朝日新聞 1942.2.10 48,200
91,521
歴史を有するライバル紙が円満に統合された珍しい例。
沖縄県
沖縄新報[31]
沖縄朝日新聞、琉球新報、沖縄日報
1940.11.20 10,000
25,621

経済紙 東日本
日本産業経済[32]

中外商業新報、日刊工業新聞、経済時事新報
ほか業界紙11紙
1942.11.1 -
246,354
東京五紙
西日本

産業経済新聞[33]

日本工業新聞、大阪毎夕新聞
ほか業界紙33紙
1942.11.1 -
106,233
大阪四紙

は読売新聞より買収、または資本提携をうけていた新聞



































整理統合の過程(外地の場合)
カテゴリ 地域 統合後の新聞 母体
太字の場合は当該紙が他紙を吸収)
完成時期 備考
外地 朝鮮
京城日報 日本語。日本の撤退に伴い消滅。
毎日新報 朝鮮語。短期の休刊を経て、現在の「ソウル新聞」。
台湾
台湾新報
台湾日日新報、興南新聞、台湾新聞、
台湾日報、高雄新報、東台湾新聞
日本語。日本の撤退に伴い、中国語の「台湾新生報」。


持ち分合同


更に太平洋戦争の激化に伴う空襲の危険増加や交通手段の悪化より1945年に「戦局ニ対処スル新聞非常態勢ニ関スル暫定措置要綱」、いわゆる「持ち分合同」がなされる。これはいわゆる全国紙(中央紙ともいう)の主要な発行拠点である東京都、大阪府、福岡県とその周辺府県(概ね、埼玉県・千葉県・神奈川県・滋賀県・京都府・奈良県・兵庫県<一部>[34]・和歌山県・山口県)については従来通り全国紙と地方紙を単独発行することとし、それ以外は有力地方紙に全国紙(朝日・毎日・読売報知<当時は読売新聞と報知新聞は経営統合状態だった>)の題字を一緒に載せて、地方紙と合わせた4紙連名という形で統合したものである。



新聞統制が遺したもの


残された新聞社は、ライバル社がいくつかの全国紙と1つの地方紙であるため関東・関西以外の地方紙はほぼ独占的なシェアを誇ることとなった。


戦後、新たな新聞社の設立が自由となり、「栃木新聞」、「日刊福井」、「奈良新聞」、「山口新聞」、「日刊新愛媛」、「フクニチ新聞」、「鹿児島新報」、「沖縄タイムス」のような第二県紙的な存在となる新聞も相次いで設立された。大阪府においては特に、夕刊専売の地方紙(大阪新聞=産経新聞系、新大阪・日本投書新聞→新関西=毎日新聞系、関西新聞、大阪日日新聞=いずれも当時独立系)が乱立する状態になっていた。[35]一方でこの際に起きた全国紙の無軌道な拡販は新聞界を大きく混乱させた。この際、全国紙の幹部の一人は統制で販売網を譲ったことなどから「地方紙には貸しがある」と全く意に介さなかったという。既存の地方紙の地盤を崩すために全国紙は共同で通信社を脱会。これは中央や海外の情報網が貧弱な地方紙の代わりに取材する「通信社」を潰しにでた作戦とされる。


また、地方紙でも都市部においては全国紙や有力ブロック紙に発行部数を食われる新聞社も少なくなかった。さらに戦後発刊の第二県紙も多くは既存地方紙との競争に負け、「奈良新聞」と「沖縄タイムス」以外は経営悪化に追い込まれている。特に鳥取県の日本海新聞は、隣県・島根県の山陰中央新報(旧・島根新聞)が鳥取県の一部地域で発行されるようになって以後は、その山陰中央やブロック紙の中国新聞などのあおりを受けて、一度1975年に経営破たん(会社更生法申請)を引き起こしたため休刊に追い込まれたが、1976年に地元の実業家・吉岡利固(現・グッドヒル、新日本海新聞社社主)のグループが再建スポンサーとなって復刊した。また、「日刊福井」は1992年に中日新聞社に編集・発行権を譲渡(「北陸中日新聞」福井版と統合)した後、1994年に「日刊県民福井」と題号を改めた。


こうした状況下、多くの地方紙は放送局に出資することとなる。放送局への報道協力など果たす役割も多いからである。しかし、それがそのまま放送局においても「1県1波」の原則で話が進むこととなる。テレビ放送では放送免許の大量交付に伴い、全国紙との関連性が重要視されるが、ラジオ放送に関しては地方紙とのかかわりが非常に深い状態が今も続いている。さらに地方紙が弱体している県のラジオ放送がないかあっても1つしかないという現状でもある。



脚注





  1. ^ 『新聞統合: 戦時期におけるメディアと国家』里見脩


  2. ^ 当時の実態としてはブロック紙。報知新聞は戦後に独立・復刊、後に読売系スポーツ紙に転換を経て、現在の「スポーツ報知」


  3. ^ ソビエト連邦軍の侵攻により消滅


  4. ^ 現在の「岩手日報」


  5. ^ 民友は戦後再独立。


  6. ^ 一時また「いはらき」の題号を使用していた。


  7. ^ 埼玉県発足時社団法人。戦後に株式会社化


  8. ^ 1956年12月21日廃刊。


  9. ^ 発足時夕刊紙。対等合併だが、都側が主導権。1967年以降は中日新聞社が発行。


  10. ^ これ以前に金澤新報も合併。戦後「北國新聞」に復題


  11. ^ 1965年「中日新聞」に改題


  12. ^ 現在の「岐阜新聞」の母体


  13. ^ 一時休刊後「滋賀日日新聞」に改題。のち京都新聞に吸収される


  14. ^ 2005年11月30日から一時休刊。2010年7月10日付で日刊紙としての発行を終了。以降、週刊紙。


  15. ^ 2002年3月30日休刊(「産経新聞」大阪夕刊に統合され、事実上の廃刊)。


  16. ^ 1972年10月11日廃刊。


  17. ^ 現在の「山陽新聞」の源流


  18. ^ 1948年に呉新聞を統合


  19. ^ 中国新聞系。紙齢は芸備日日新聞を引き継ぐ
    1948年に「中國新聞」と統合



  20. ^ 1975年倒産、翌年別会社により復刊


  21. ^ 現在の「山陰中央新報」の源流


  22. ^ 1945年5月に山口県全域を販売地域とする旨「防長新聞」に再改題も1978年倒産、廃刊。宇部時報は戦後再分離、現在の宇部日報


  23. ^ 統合の自主協議を認めず、県警察部長へ白紙一任の誓約書、廃業届の提出を強要される。


  24. ^ 戦後「四国新聞」に改題


  25. ^ 戦時中「愛媛新聞」に改題


  26. ^ 高知は土陽より独立して発足した過去がある。


  27. ^ 全国の主要紙で唯一の特例有限会社


  28. ^ 現在の長崎新聞の母体。原爆投下後再分裂・統合を繰り返す


  29. ^ 1961年宮崎日日新聞に改題


  30. ^ 戦後南日本新聞に改題


  31. ^ 米軍侵攻により消滅 琉球新報はその後戦後に復刊


  32. ^ 現在の「日本経済新聞」の源流


  33. ^ 戦後、一般紙に転換。日本工業新聞を産業紙として分離・復刊、現在は「フジサンケイ ビジネスアイ」。産業経済新聞は東京進出で準全国化、現在の「産経新聞」


  34. ^ 神戸市など、阪神間の地域


  35. ^ その後、新関西はスポーツニッポンと経営統合し「スポニチ夕刊」の冠を付けていたが、1979年10月31日発行の11月1日号でスポニチ本体に吸収(その際「前夜速報版」→「早刷り号」に改題)された。1980年代までは他のスポーツ紙も、地方向け早版を都市部では即売用夕刊の扱いで発行していたが、地方都市の印刷工場の整備に伴う同時印刷の確立により、即売夕刊を廃止したが、21世紀になってからもスポニチ関西版夕刊と、デイリースポーツの首都圏向け「夕刊デイリー」は発行し続けてきた。しかしいずれも2009年11月29日発行の11月30日号で廃刊となった。
    1990年代に入ると、関西新聞とフクニチが1991年(前者はイトマン事件に絡んで、後者は経営破たん)で、新大阪は1995年に阪神・淡路大震災による経営悪化などで休刊、2000年には大阪日日新聞も新日本海新聞社と経営統合し、子会社化。2008年に法人統合され「新日本海新聞大阪本社」から大阪日日を発行している。唯一の夕刊地方紙となった大阪新聞も、産経新聞関東版夕刊の休止に伴い、2002年3月に親会社の産経新聞関西版に統合・休刊、法人自体も2004年に産経大阪本社に合併された。





関連項目



  • 言論統制

  • 情報局



参考文献




  • 水越伸著『メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする』 ISBN 4-314-00977-2


  • 里見脩著 『戦時期におけるメディアと国家 新聞統合の実証的研究』 (pdfファイル)



外部リンク


  • 中野文庫・新聞事業令



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