原水爆禁止日本協議会






平和と労働センター・全労連会館


日本原水協(にほんげんすいきょう)は、日本の一般社団法人である[1]。1955年に反核・平和運動組織の原水爆禁止日本協議会(げんすいばくきんしにほんきょうぎかい)として発足し、都道府県を始め地域・労働組合内などを単位に下部組織を持つ。略称原水協。従来の法人格は有限会社だったが、2017年に一般社団法人へ移行している[注 1]


年1回、広島市と長崎市に原子爆弾投下のあった8月に「原水爆禁止世界大会」を開催するほか、各地で「核兵器廃絶」を掲げた運動を展開する。元々は、広範な運動体であったが、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約や、日本共産党系の核兵器所有国であるソビエト連邦と中華人民共和国に対する方針の矛盾などにより、民社党系、日本社会党系が、離脱・脱退したり、別団体を作った。




目次






  • 1 歴史


    • 1.1 前史から結成まで


    • 1.2 見解相違による対立から分裂へ


    • 1.3 原水協事件


    • 1.4 1975年の昭和天皇の日本記者クラブの合同記者会見


    • 1.5 現在


    • 1.6 原子力発電への対応




  • 2 理事


  • 3 関連項目


  • 4 脚注


    • 4.1 注釈


    • 4.2 出典




  • 5 外部リンク





歴史



前史から結成まで




第1回原水爆禁止世界大会(1955年8月6日)


1954年3月1日、ビキニ環礁で行われたアメリカ合衆国による水爆実験(Castle作戦のBravo実験)で第五福竜丸ら日本の遠洋漁船が多数被爆(被曝)し、全国的な問題となった。国民的運動の盛り上がりのもと、核兵器廃絶を求める署名運動が行われ、翌年8月、広島で「第一回原水爆禁止世界大会」(原水禁世界大会)が開催される。その後、この署名運動の実行委員会が名前を変更し「原水爆禁止日本協議会」(初代理事長は安井郁・法政大学教授)となった。



見解相違による対立から分裂へ


その後「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」や原発問題への対応の相違が原因となって自民党系及び民社党系勢力が脱退した(民社党系は核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)を結成 自民党系の団体はなし)。


1961年、原水禁7回大会は、「最初に実験を開始する政府は平和の敵、人道の敵」と決議したが、その直後の8月30日にソビエト連邦が核実験を再開した。これに対する対応をめぐって原水協は、ソ連政府にも抗議せよとする日本社会党・総評系と、抗議に反対する日本共産党とが対立した。


翌1962年、8回大会の最中にソ連は再度の核実験を行い、再び昨年と同じ衝突が起り、結局大会は混乱したままに終わった。日本共産党系代表は「核戦争の根源であるアメリカ帝国主義を日本やアジアから追い出せ」と、ソ連の核実験に対する批判をしないばかりか、むしろそれを擁護したまま、反米を中心に置いた反安保・基地闘争も視野に入れた主張をした。


1963年に、日本社会党・総評系グループが「いかなる国の核実験にも反対」[注 2]のスローガンを旗印にして部分的核実験禁止条約の支持を要求した。当時、ソ連は中華人民共和国との関係が悪化しており、核開発で先行していたソ連は中華人民共和国の核保有を妨げたいとの思惑から、同条約の締結を推進した。


これに対して日本共産党系は「地下核実験を条約によって認めることになる」として当条約に反対したにもかかわらず、同時に「社会主義国の核兵器は侵略防止のためのもので容認すべき」という主張をした[4]。当時日本共産党は中国共産党との関係を深めていたので、中華人民共和国に配慮して同条約に反対したと言われる。


このため内部対立が起き、1963年の大会は流会。共産党は、「意見の違いにかかわらず『核廃絶・核戦争阻止・被爆者救援』の三点で統一するべきだ」と主張したが、結局、社会党系グループは脱退して、1965年2月に原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を結成。以後、原水禁世界大会も、原水協系と原水禁系の2つが別々に開催されるようになる。


ただしその後、日本共産党が中ソ共産党に批判的になり、核兵器全面禁止に主張を変化させていく一方、逆に、原水禁は、日本社会党が反米・親ソ・親中・親北朝鮮の傾向を強めたため、その影響によって、ソ連や中華人民共和国の核に対し柔軟になっていく。


運動開始当初、原水爆禁止運動は超党派で形成され、マスコミ各社もこぞって支援する「国民的運動」だった。しかし党派間のイデオロギーと私利私欲むき出しの争いを嫌い去っていく人が多く、結局のところ政治党派による系列団体化という結果に終わったという見方もある。



原水協事件






1977年から1984年の間、原水禁世界大会は原水禁と共同で開催されたが、「核凍結」(当時の用法としては、既存の核兵器を存続させることだった)政策への支持を要求する原水禁との間で対立が起きた。


総評と、反主流派の「統一労働組合懇談会」(全国労働組合総連合の前身)の対立が、再分裂の引き金になった。1983年、平和行進で共産党系団体が、統一労組懇旗を掲げたことに総評側が反発。旗は自由とする共産党・原水協・平和委員会・統一労組懇側と、準備委員会に直接参加した団体の旗に限るとする総評・原水禁側の対立に発展した。1984年の平和行進では、市民団体の仲裁で、吉田嘉清原水協代表理事、森賢一平和委員会事務局長(両名とも共産党員)は統一労組懇旗の自粛を受け入れた。しかし、共産党側はこれを「日和見主義」と批判した。6月1日、森に迫って事務局長職の辞意表明をさせ、6月9日、森の辞任に反対した小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長ともども解任した。さらに、森が「森一人だけに通告した党中央秘密指令」を長谷川や吉田に漏らしたのは「党内問題を党外にもちだした」[注 3]として、査問に掛けた末除籍した。


さらに、共産党は吉田にも辞任を迫り、拒否されると辞任に反対する原水協の代表委員6人を解任、さらに代表委員制自体を廃止し、6月29日理事会開催を強行。吉田を解任し、金子毅を後任に据えた。この年の原水爆禁止世界大会は8月1日から開催されたが、それに先立つ各組織合同の運営委員会では、解任された吉田、草野信男の出席を認めるかどうかで紛糾した[5]。8月9日、共産党系の日中出版が、吉田に内幕を取材した『原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る』(ISBN 978-4817511249)を上梓すると、柳瀬宣久社長と社員3名、そして吉田を反党行為を理由に除名した。また、吉田を擁護した古在由重も除籍となった。こうして、日本共産党の意に反する原水協幹部は、ことごとく追放された。


並行して、共産党は『赤旗』1984年4月4日号・4月5日号「統一の路線と分裂の路線――原水爆禁止運動三〇年の経験と教訓」で総評・原水禁の反共[注 4]・右傾化を批判し、共闘への批判を強めた。その上で分裂の責任は原水禁にあると改めて批判したことから、原水禁・総評側の反発を受けた。


1985年の統一大会に向けた話し合いでは、実行委員会の委員選出を「十一団体で一致できる団体、個人」を主張する原水協・平和委員会側と、「十一団体が推薦する団体、個人」を主張する原水禁・総評側で平行線をたどった。この年の統一大会は開催されたが、1986年にはついに話し合いはまとまらず、再び原水禁世界大会は分裂した。



1975年の昭和天皇の日本記者クラブの合同記者会見


1975年に日本記者クラブで行なわれた合同記者会見の際に出た中国放送の秋信利彦(のち取締役、2010年没)の質問「これまでに三回広島へ行かれ、広島市民にお見舞のことばを述べておられますが、戦争終結にあたり原爆投下されたことをどう受け止められましたか。」に対し、昭和天皇は「この原子爆弾が投下されたことの対して遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから広島市民に対して気の毒であるが、やむをえないことと思います」と返答。日本原水協は「御発言はあれほど悲惨であった原爆被爆者にとっては、大きなショックであり、容認できない」という談話を発表した。「広島原水禁」「広島県被団協」も同様の談話を発表した[6]



現在


現在は部分核実験停止条約及び包括的核実験禁止条約を「部分核停条約は地下核実験、CTBTは未臨界核実験が禁止されておらず、核廃絶に十分な効果が得られない」と批判的であり、NPT体制についても「大国による核独占・軍事支配を強化する」と批判的ではある。


世界大会においては、その立場を外国の代表団に押し付けることはなく、一致点での共闘を基本的な態度としている。「“究極的目標”ではなく、期限を定めて核兵器を全面廃絶・禁止する」ことを呼びかけ、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名」(現在は「ヒバクシャ国際署名」)を集め、定期的に国会へ提出している。


また、被爆60年の2005年にむけては「いま、核兵器の廃絶を」という署名を全世界的によびかけた。その後、2005年の原水爆禁止世界大会で、新たな国際署名「すみやかな核兵器の廃絶のために」の署名を呼びかけ、2006年の国連軍縮会議に向けて集める活動を進めた。しかしアメリカ、ロシア、中華人民共和国のいずれも核兵器を廃止する動きを見せていない。



原子力発電への対応


当初から、「原発は未完成の技術」と評価し、プルサーマル計画などに反対して来た。ただし、原発を全否定したわけではなく、原子力撤廃(脱原発)を主張する原水禁、原子力の平和利用、すなわち原発推進を主張する核禁会議の中間的な立場にあった[7]


しかし、2011年3月11日に福島第一原子力発電所事故が発生すると、3月19日に沢田昭二代表理事が「もう原発は収束させるべきです。日本が世界をリードしてきた太陽エネルギーなど自然エネルギーの開発に舵を切るときに来ています」と談話を発表し[8]、脱原発の態度を鮮明にした。同年8月6日・9日の広島・長崎での世界大会では、決議文に初めて「原発からの撤退と自然エネルギーへの転換」を盛り込んだ[9][10]



理事


代表理事は赤松宏一、笠井貴美代、国分稔、齋藤紀、沢田昭二、高草木博、大黒作治、藤末衛の8人。



関連項目



  • 第五福竜丸

  • 日本平和委員会

  • 小林秀一 (ボクサー)

  • 沢田昭二


  • 進め!電波少年 - フランスによる核実験が問題となっていた頃、松村邦洋がアポ無しで原水協本部事務所を訪れ、「電波少年を核廃絶推進番組として推薦してほしい」と頼み、職員が「別にいいんじゃない?」と言ったので、電波少年は核廃絶推進番組となった。



脚注


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注釈





  1. ^ 一般社団法人日本原水協は2017年2月13日に法人番号新規指定[1]、旧法人の有限会社日本原水協は同年5月24日に登記閉鎖[2]


  2. ^ 日本共産党は、これを「社会党、総評の特定の見解」と表現した[3]


  3. ^ 長谷川、吉田とも共産党員だったが、党組織の外に持ち出したという意味である。


  4. ^ その根拠の一つとして、総評の支援を受ける日本社会党と公明党が1980年に交わした、共産党を排除する連立政権構想の社公合意を挙げている[要出典]




出典




  1. ^ ab“一般社団法人日本原水協の情報|国税庁法人番号公表サイト”. 国税庁. 2017年8月5日閲覧。


  2. ^ “有限会社日本原水協の情報|国税庁法人番号公表サイト”. 国税庁. 2017年8月5日閲覧。


  3. ^ 原水爆禁止運動に偏見を持ち込む 「朝日」の特異な立場」 しんぶん赤旗2002年9月8日


  4. ^ 「極度に侵略的な戦略を完成しようとするアメリカの核実験にたいして、ソ連が防衛のための核実験をおこなうことは当然であり、世界大戦の勃発を阻止するための不可欠の措置にほかならない。」 「前衛」1962年10月号掲載、上田耕一郎元副委員長論文「2つの平和大会と修正主義理論」より。


  5. ^ 法政大学大原社会問題研究所 『日本労働年鑑 第56集 1986年版』「2 原水爆禁止運動」


  6. ^ 天皇陛下と広島 鎮魂の旅 日本会議広島


  7. ^ 『中国新聞』2011年8月11日 原水禁運動とフクシマ 2011年世界大会から<上> 事故の波紋


  8. ^ 原水爆禁止日本協議会 沢田昭二 福島第一原子力発電所の事故に関して 沢田昭二(日本原水協代表理事・名古屋大学名誉教授)


  9. ^ 原水爆禁止日本協議会 原水爆禁止2011年世界大会―広島決議:広島からのよびかけ


  10. ^ 原水爆禁止日本協議会 原水爆禁止2011年世界大会―長崎:長崎からのよびかけ




外部リンク



  • 原水爆禁止日本協議会


  • 原水爆禁止日本協議会 (@Gensuikyo) - Twitter











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