デヴィッド・クロスビー
デヴィッド・クロスビー David Crosby | |
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クロスビー、スティルス&ナッシュの公演にて (2012年9月) | |
基本情報 | |
出生名 | David Van Cortlandt Crosby |
生誕 | (1941-08-14) 1941年8月14日(77歳) カリフォルニア州ロサンゼルス |
ジャンル | フォークロック ロック ジャズロック AOR |
職業 | シンガーソングライター |
担当楽器 | ヴォーカル ギター |
活動期間 | 1963年 - 現在 |
レーベル | アトランティック・レコード A&Mレコード Blue Castle Records GroundUP Music BMG |
共同作業者 | ザ・バーズ クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング CPR |
公式サイト | CrosbyCPR.com |
デヴィッド・クロスビー(David Van Cortland Crosby、1941年8月14日 - )は、アメリカ合衆国出身のミュージシャン、シンガーソングライター。
「バーズ」「クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング」といった1960-70年代を代表するロックバンドに在籍した。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第99位[1]。
目次
1 経歴
2 ディスコグラフィ
2.1 ソロ
2.2 The Byrds
2.3 Crosby, Stills & Nash
2.4 Crosby, Stills, Nash & Young
2.5 Crosby & Nash
2.6 Crosby, Pever & Raymond (CPR)
3 脚注
4 外部リンク
経歴
ロサンゼルス出身。父は『真昼の決闘』などハリウッドで多くの作品の撮影監督として活躍し、1930年にはアカデミー撮影賞も受賞した、フロイド・クロスビー。
カーピンテリアのケイト・スクールを卒業。サンタバーバラシティカレッジに入学後、1960年代初頭にシカゴのコーヒークラブでフォークシンガーとして出演するようになったクロスビーは、後にテリー・キャリアーと親しくなる。フォークブームが訪れると2人でニューヨークのグリニッジ・ビレッジに移ってデュオとしてデビューやレコーディングの機会を探したが、かなわなかったという。そのままニューヨークに残ったクロスビーは日本でも再評価されているレス・バクスターのグループなどに一時在籍後したほか(兄弟のイーサン・クロスビーが当時メンバーであった)、ソロ・シングルをいくつかリリースしたものの、大きな成果は得られなかった。シカゴに戻ったクロスビーはキャリアーの仲介でロジャー・マッギンに出会う。後にジーン・クラークらとともに「バーズ」を結成。
彼らは、「ミスター・タンブリン・マン」等のヒットにより、一躍1960年代のアメリカ音楽シーンを代表するグループとなった。クロスビーの甘いテナーボイスによる高音パートのハーモニーは、バーズの3部コーラスを特徴づけるもので、リズム・ギタリストとしても独特のカッティングでサウンドに変化をもたらした。また、自作曲では先進的なサウンドや実験的な形式を志向し、シタールの導入、アカペラ、変則チューニング、モード的コード進行など、バーズサウンドの一面を担った。この時期のクロスビーの作品として代表的なものに、「Everybody Has Been Burned」、「Draft Morning」、「Lady Friend」 、「Eight Miles High」(共作)、などがある。
1967年にバーズを脱退。アルバム『名うてのバード兄弟』にて、クロスビーの曲「Triad」のアルバム収録をメンバーから反対されたことや(※近年のリマスターによる再発でバーズバージョンも陽の目をみるに至っている)、外部ライターのゴフィン=キングの曲「Goin' Back」を採用したことなどが脱退の原因といわれている。
バッファロー・スプリングフィールドや俳優のピーター・フォンダ等、バーズ在籍時からバンド外での交友が広かったクロスビーは、ジョニ・ミッチェルのファーストアルバムのプロデュース等を経て、1968年、元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルス、元ホリーズのグラハム・ナッシュと「クロスビー・スティルス&ナッシュ」を結成。1969年5月発売のファースト・アルバムには、マイルス・デイヴィスにカバーされた「グウィニヴィア」、スティルス、ポール・カントナーとの共作「木の舟」などが収録された。
ニール・ヤングがグループに参加。1970年3月、『デジャ・ヴ』を発表。全米第1位を記録。クロスビーは、アルバムのタイトルナンバーとなったジャジーでプログレッシブな「デジャ・ヴ」、現在ではロック・クラシックとなっている「カット・マイ・ヘア」などの個性的な楽曲を提供し、グループの成功に大きく貢献した。
1971年2月、ジェファーソン・エアプレインやグレイトフル・デッド等が参加した、初のソロアルバム『イフ・アイ・クッド・オンリー・リメンバー・マイ・ネーム』をリリース。全米第12位を記録。スキャットを駆使したジャジーな楽曲や、「嘲笑」などの印象的なナンバーを残した。このアルバムのセッションは、Planet Earth Rock & Roll Orchestra セッションと呼ばれ、後のジェファーソン・エアプレインやグレイトフル・デッドのアルバムにおさめられることになる曲のいくつかも、その原型が作られた。
メンバー間の軋轢からクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングは活動停止。その後、盟友ナッシュと「クロスビー&ナッシュ」(1972年 - )として、バーズの再結成(1973年)をはさみつつ、活動を行った。クロスビー&ナッシュでは、お互いの曲調を尊重しながらサポートしあうスタイルで、アルバムのうち2作を全米10位以内に送り込んだ。
1977年、CSNを再結成し、アルバム『CSN』リリース。全米第2位を記録。
しかし、長年の薬物中毒により創作活動に支障をきたすようになる。当初スティルス&ナッシュ名義で出される予定であった1982年のCSNの再結成アルバムは、大半の曲でクロスビーのコーラスパートをイーグルスのティモシー・シュミットや、サイモン&ガーファンクルのアート・ガーファンクルのハーモニーで補ったものであった。
アルバム『Daylight Again』は全米8位のヒットとなり、ツアーも行われたが、クロスビーはライブ演奏中も時折薬物によって酩酊しているような有様であった。
1985年、銃器法違反で実刑判決を受け、刑務所生活の後、薬物中毒の治療を果たし社会復帰。
1988年には、クロスビーの社会復帰を祝福するかのように18年ぶりにCSN&Yを再結成し、『アメリカン・ドリーム』発表。全米16位を記録。
ドラッグの後遺症により、1995年肝移植手術。手術をきっかけに、ジェイムス・レイモンドという若い男と会う。彼は、なんとクロスビーが1960年代に養子に出した実の息子であった。レイモンドは以前、実の母親と面会した際、実の父親がクロスビーであることを知らされており、手術のニュースをきっかけに会うことを決心したという。
ジェイムス・レイモンドはクロスビーから受け継いだ遺伝子ゆえなのか、幼少の頃から音楽の才能を開花させ、LAシーンでJAZZ/R&B系アーティストのセッション/ツアー・キーボーディストとして、またTVや映画の音楽作家として活躍し始めていたところであった。
実の親子は再開をきっかけに次第に交流を深め、その後、そのジェイムス・レイモンド(キーボード)、ジェフ・ピーヴァー(ギター)とのユニット「Crosby, Pevar & Raymond(CPR)」を結成。モントレー・ジャズ・フェスティバルへの出演等も含め精力的にツアーをこなした。CPRは活動中に2枚のオリジナル・アルバムと2枚のライブ盤をリリースし、スティーリー・ダンに近いジャジーなサウンドは高い評価を得たが、インディーズからのリリースでヒットにはつながらず、2004年に解散した。
断続的に行われていたCPRの3枚目のアルバム・セッションは、クロスビー&ナッシュのアルバム・セッションとして再開され、約30年ぶりとなるアルバムを2枚組で「Crosby*Nash」としてリリース。
2014年、実に約20年ぶりとなるソロ・アルバム『Croz』をリリース。実の息子、ジェイムス・レイモンドとの共作が多く収められており、レイモンドはプロデュースも担当した。全米36位を記録。
2016年、クロスビー・スティルス&ナッシュ、クロスビー&ナッシュ等と平行して、精力的に音楽活動を続けてきたが、クロスビーとニール・ヤング、クロスビーとグレアム・ナッシュとの不仲から、クロスビー・スティルス&ナッシュ(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)の活動停止がグレアム・ナッシュからアナウンスされた[2]。
同年10月、ジャズ集団スナーキー・パピーとの交流を経て、リーダーのマイケル・リーグとのコラボレーションに発展し、ソロ・アルバム『Lighthouse』をリリース。全米117位を記録。また、英MOJO誌の2016年の年間ベスト・アルバム TOP50にランクインされた。
2017年9月にニューアルバム『Sky Trails』(ジェイムス・レイモンドのプロデュース)をリリース。Billboard 200ではチャートインしなかったものの、Independent Albumsチャートでは10位、Americana/Folk Albumsチャートでは11位、Top Album Salesでは57位を記録した。
2018年10月、『Lighthouse』でのマイケル・リーグとのコラボレーションを発展させ、同アルバムに参加していた、ベッカ・スティーヴンス、ミッシェル・ウィリスとの共同制作によるニューアルバム『Here If You Listen』をリリース。BillboardチャートのIndependent Albumsチャートでは12位、Top Album Salesでは87位、UKチャートで88位を記録した。
また、これまでにバーズ、CSN&Yとして、2度のロックの殿堂入りを果たしている。
なお、交友が広く、様々なエピソードが残っている。ビートルズのジョージ・ハリスンにシタールを紹介したほか、ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンにヴァン・ダイク・パークスを紹介したこと等が知られている。ジャクソン・ブラウンやジョニ・ミッチェルのデビューに尽力するなど、若手の発掘にも積極的であった。映画関係では、ロビン・ウィリアムズとの繋がりで『フック』(海賊役)、『バックドラフト』(火事で焼け出されたアパートの住人役)などの大作映画にチョイ役(台詞あり)で出演している。
ディスコグラフィ
ソロ
- 「If I Could Only Remember My Name...」(1971)
- 「オー・イエス・アイ・キャン」(1989)
- 「サウザンド・ローズ」(1993)
- 「カミング・バック」(1995) (Live)
- 「Voyage」(2006) (ベスト盤ボックスセット)
- 「Croz」(2014)
- 「Lighthouse」(2016)
- 「Sky Trails」(2017)
- 「Here If You Listen」(2018)
The Byrds
- 「Mr. Tambourine Man」(1965)
- 「Turn! Turn! Turn!」 (1965)
- 「Fifth Dimension」 (1966)
- 「Younger Than Yesterday」 (1967)
- 「The Notorious Byrd Brothers」 (1968) ※クレジットなし
- 「Byrds」(1973)
Crosby, Stills & Nash
- 「Crosby,Stills&Nash」(1969)
- 「CSN」(1977)
- 「Daylight Again」(1982)
- 「Allies」(1983)
- 「Live It Up」(1990)
- 「After The Storm」(1994)
Crosby, Stills, Nash & Young
- 「Deja Vu」(1970)
- 「4way Street」(1971) (LIVE)
- 「American Dream」(1988)
- 「Looking Forward」(1999)
Crosby & Nash
- 「グラハム・ナッシュ/デヴィッド・クロスビー」(1972)
- 「Wind On The Water」(1975)
- 「Whistling Down The Wire」(1976)
- 「Crosby & Nash Live」(1977) (LIVE)
- 「The Best Of Crosby & Nash」(1978)
- 「Another Stoney Evening」(1997)
- 「Crosby * Nash」(2004)
Crosby, Pever & Raymond (CPR)
- 「CPR Live At Cuesta College」(1998) (Live)
- 「CPR」(1998)
- 「JUST LIKE GRAVITY」(2000)
- 「CPR Live At Wiltern」(2001) (Live)
脚注
Crosby, David (2005). Long Time Gone: The Autobiography of David Crosby. Da Capo Press. ISBN 0-306-81406-4.
^ “Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
^ “グラハム・ナッシュ、クロスビーのせいで将来的なCSNの活動はなくなったと語る”. BARKS (2015年3月6日). 2018年3月31日閲覧。
外部リンク
デヴィッド・クロスビー - インターネット・ムービー・データベース(英語)
- David Crosby/CPR
- Crosby-Nash
- CSN Official Site
- CSNY Official Site
- 4WaySite - CSNY Fan-site
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