ドワイト・D・アイゼンハワー


















































ドワイト・D・アイゼンハワー
Dwight D. Eisenhower

Dwight D. Eisenhower, official photo portrait, May 29, 1959.jpg




アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
Seal of the President of the United States.svg 第34代大統領

任期

1953年1月20日 – 1961年1月20日
副大統領

リチャード・ニクソン

出生

1890年10月14日
Flag of the United States (1890-1891).svg アメリカ合衆国 テキサス州デニソン
死去

(1969-03-28) 1969年3月28日(78歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
政党

共和党
出身校

陸軍士官学校
配偶者

マミー・アイゼンハワー
子女

ダウド・アイゼンハワー
ジョン・アイゼンハワー
署名

Dwight D. Eisenhower signature.png
















ドワイト・D・アイゼンハワー
Dwight D. Eisenhower
所属組織
Emblem of the U.S. Department of the Army.svgアメリカ陸軍
軍歴
1915年 - 1953年
1961年 - 1969年[1]
最終階級
US-O11 insignia.svg 元帥
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世界ゴルフ殿堂

殿堂表彰者

選出年
2009年
選出部門
特別功労

ドワイト・デビッド・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower、1890年10月14日 - 1969年3月28日)は、アメリカの軍人、政治家。連合国遠征軍最高司令官(英語:Supreme Commander, Allied Expeditionary Force、略称:SCAEF)、陸軍参謀総長、NATO軍最高司令官、第34代大統領を歴任した。アメリカ国民からはアイク(Ike)の愛称で親しまれていた。モットーは「物腰は優雅に、行動は力強く」。身長5フィート10.5インチ(約179cm)[2]




目次






  • 1 生い立ちと家族


  • 2 バター工場からウエストポイントへ


  • 3 結婚


  • 4 軍歴


  • 5 ヨーロッパにおける連合国軍指揮官


  • 6 連合国遠征軍最高司令官


  • 7 大統領選でのアイゼンハワー


  • 8 大統領としてのアイゼンハワー


    • 8.1 外交問題


      • 8.1.1 アジア


      • 8.1.2 インドシナ


      • 8.1.3 日本


      • 8.1.4 中東


      • 8.1.5 ソ連


      • 8.1.6 キューバ




    • 8.2 国内問題


      • 8.2.1 経済政策


      • 8.2.2 対人種差別


      • 8.2.3 対赤狩り




    • 8.3 ニクソンとの関係


    • 8.4 内閣




  • 9 大統領退任後


  • 10 死後


    • 10.1 アイゼンハワー公園




  • 11 評価


  • 12 その他


  • 13 著作


  • 14 関連書籍


  • 15 脚注


  • 16 参考文献


  • 17 アイゼンハワーを描いた作品


  • 18 関連項目


  • 19 外部リンク





生い立ちと家族


アイゼンハワーは、デイヴィッド・ジェイコブ(David Jacob Eisenhower)とイーダ・エリザベス・ストーバー・アイゼンハワー(Ida Elizabeth Stover)の7人の息子の3番目として、テキサス州デニソンで生まれた。


ドイツ西南部、フランスとの国境に近いザールブリュッケン郡カールスブルン(Karlsbrunn)より宗教的迫害を逃れて17世紀にスイスに移住し、さらに1730年アメリカのヨーク地区、のちにランカスターに移住したペンシルベニア・ドイツ人に近い家系の出身である。


スウェーデン系説、ユダヤ系説も存在し、父はウェストポイントの1915年に発刊された卒業年次別名簿に、スウェーデン系ユダヤ人と書かれている。


また、母イーダはメノー派スイス系ドイツ人のリヴァー兄弟団(River Brethren)、のちにエホバの証人ものみの塔協会のメンバーで1898年に洗礼を受ける[3]


アイゼンハワー家は、ドイツ系であったが、18世紀以来ずっとアメリカで暮らしていた。その後一家は1892年にカンザス州アビリーンへ転居した。



バター工場からウエストポイントへ


アイゼンハワーはアビリーン高校に入学、1909年に卒業した。在学中膝の怪我による感染症が脚の付け根まで拡がり、命の危険があると診断された。医師は足の切断を勧めたが、彼は拒否し、後に奇跡的に回復している。しかし1年留年するはめとなった。


高校卒業後、ドワイトと兄エドガーは大学進学を希望していたが、経済的に困難な状況であった。そこで彼らは、一方が大学に通い、もう一方がその年の授業料を稼ぐという取り決めをした。始めの年はエドガーが大学に通い、ドワイトはベルスプリングのバター工場で夜勤シフトの従業員として働き始めた。1年後、エドガーは連続で通学したいと申し出た。ドワイトは承諾して、引き続きバター工場で働くこととなった。


その時期、ハズレットという友人が海軍兵学校へ出願する際、授業料は必要ないからとドワイトにも受験するよう勧めてきた。彼は軍人になる決意を固め、カンザス州上院議員ジョゼフ・L・ブリストウの推薦を得ることに成功した(今日ブリストウ議員はアイゼンハワーの推薦人となったことで最もよく知られている)。アイゼンハワーは陸軍と海軍の入学試験に首尾よく合格したが、海軍は年齢制限のため入れず、1911年にウエストポイントにある陸軍士官学校への入学を決めた。これ以後1969年に死去するまで、大統領であった8年間を除き、軍人としてのキャリアが続くこととなる。約束は果たされなかったが、兄エドガーは無事ミシガン大学ロースクールを卒業し、やり手の弁護士としてワシントン州で開業している。



結婚


アイゼンハワーは、コロラド州デンバーのマミー・ジュネーブ・ダウド(1896年 - 1979年)と1916年7月1日に結婚した。彼らはダウド・ドワイト・アイゼンハワー(1917年 - 1921年)およびジョン・シェルドン・ダウド・アイゼンハワー(1922年ー2013年)をもうけた。ジョン・アイゼンハワーは陸軍で勤務し、次に作家になり、ベルギー大使を務めた。ジョン・アイゼンハワーの息子デーヴィッド・アイゼンハワーは、リチャード・ニクソンの娘ジュリーと1968年に結婚した[4]



軍歴




少佐時代のアイゼンハワー


アイゼンハワーは士官学校を1915年に卒業し、テキサスとジョージアの様々なキャンプで1918年まで歩兵と共に、また1918年から1922年まではメリーランド州キャンプ・ミード等で戦車隊と共に軍務に就いた。第一次世界大戦への従軍を願い出たが、許可されなかった。


1917年に大尉、1920年に少佐に昇進し、次いで1922年から1924年の間にパナマ運河地帯でフォックス・コナー将軍の副官の地位にあり、軍事面で彼から大きな影響を受け、優れた管理能力を身に付けた。1925年と1926年にはカンザス州フォートレヴェンワースで指揮官および参謀学校に勤務し、1927年までジョージア州フォートベニングで大隊指揮官を務めた。


1920年代の終わりから1930年代の初めまで、アイゼンハワーの軍歴は停滞した。階級も16年間少佐のままであった。アイゼンハワーはアメリカ戦碑委員会に就任、その後ジョン・パーシング将軍によってワシントンD.C.の陸軍戦争大学での奉職を余儀なくされた。そして次に、ジョージ・V・モゼリー将軍(国防副長官、1929年 - 1933年)の副官を務めた。


その後、アイゼンハワーは1935年まで陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサー大将の主任補佐武官を務め、1935年に陸軍参謀総長を退任して少将に戻ったマッカーサーがフィリピン政府の軍事顧問を務めることになった時、マッカーサーの希望で副官となった[5]。マッカーサーは着任後、アメリカ軍の威容を示すためにマニラ市内でパレードをすることを思いつき、アイゼンハワーに計画を立てさせ、各方面に折衝を行わせた。ところが、このパレード計画はフィリピン・コモンウェルス政府に無断で行われていたため、マニュエル・ケソン大統領が抗議を行った。マッカーサーは副官であるアイゼンハワーのミスであると弁解し、アイゼンハワーをしかりつけた[5]。以後、マッカーサーはアイゼンハワーの細かい失敗を指摘しつづけ、嫌になったアイゼンハワーが転任希望を出してもそれを握りつぶし続けた[5]。その後、1936年に、ようやく中佐に昇進した。


その後、1940年1月にアメリカへ戻り、ワシントン州フォート・ルイス(英語版)の第15歩兵連隊勤務となった[6]。これ以降は順調な出世を重ね、11月には第3師団の参謀長、1941年3月に大佐に昇進して第9軍団参謀長、6月にはテキサス州フォート・サム・ヒューストン(英語版)で第3軍の司令官ウォルター・クルーガー中将の参謀長に任命された[7]。アイゼンハワーは1941年9月に准将に昇進した。アイゼンハワーの管理能力は注目されたが、第二次世界大戦へのアメリカの参戦前夜においては、実戦での指揮経験が全くなく、大きな作戦の司令官となる可能性は極めて薄かった。


1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃の後、フィリピンに関する知識を買われ、参謀本部戦争計画局次長に任命された[6]。アイゼンハワーは陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将の信任を得、1942年3月には参謀本部に新設された作戦部の初代部長に任命され、数日後には少将に昇進した[7]。アイゼンハワーはここで対独作戦計画を立案した。アイゼンハワーの計画は、イギリスを基地として、戦略爆撃・海軍艦艇の大量起用・大規模な上陸作戦を行うことで西北ヨーロッパを制圧するというものであった[8]。マーシャルはこの計画を承認し、その際の指揮官としてアイゼンハワーを登用することを決めた[9]。まもなく中将に昇進したアイゼンハワーは、来るべきヨーロッパでの反攻作戦のためにイギリスに向かうことになった。



ヨーロッパにおける連合国軍指揮官




ポツダム会談時




右からオマール・ブラッドレー、アイゼンハワー、ジョージ・パットン


1942年6月、アイゼンハワーはロンドンに司令部を置くヨーロッパ戦域の連合国軍最高司令官(Commander in Chief, Allied Force、略称:CINCAF)に着任し、イギリス軍や旧ヴィシー政権軍の将軍たちとの調整を行った[10]


アイゼンハワーはアメリカ軍による新聞検閲制度を廃止し、兵士たちのトラブルをあえて開示することで綱紀を粛正しようとした[11]。また兵士たちに対して、アメリカの戦争目的が民主主義のためであるという教育を徹底させ、さらに兵士たちにイギリス人に対する配慮を求めることで、両国間の関係を改善させた[12]。アイゼンハワー自身に対する人気も高まり、日に9回もパーティーに出席せねばならないほどであった[13]


最初の大仕事はモロッコとアルジェリアへの連合軍上陸作戦、すなわち1942年11月8日に開始された「トーチ作戦」であった。アイゼンハワーがトーチ作戦の最高司令官の座を要求したアンリ・ジロー大将を説得し、北アフリカにおける民政長官の座を与えることで収めたことは、彼の高い調整能力を示すものであった[14]


マーシャルやフランクリン・ルーズベルト大統領は「国威発揚をもたらし、高い調整能力をもつ」として、1944年3月にアイゼンハワーを大将に任命した[14]。中佐になってからわずか4年であり、この時点では空前のスピード昇進であった。


以降ハスキー作戦に始まるイタリア戦線の最高指揮官となり、ジョージ・パットンやバーナード・モントゴメリーといった癖の強い部下たちの調整に当たった[14]。9月8日にはイタリア王国との休戦条約を締結している(イタリアの降伏)。



連合国遠征軍最高司令官


イギリスのウィンストン・チャーチル首相は、ヨーロッパ反攻作戦における連合国遠征軍最高司令官にアイゼンハワーではなく陸軍参謀総長マーシャル大将を希望し、ルーズベルト大統領もそれに傾いていたが、統合参謀本部のメンバーである大統領付参謀長ウィリアム・リーヒ大将、合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング大将、陸軍航空軍総司令官ヘンリー・アーノルド大将は、統合参謀本部にマーシャルは不可欠であるとして反対し、ルーズベルト大統領はカイロ会談、テヘラン会談を終えて帰国する直前に、アイゼンハワーを連合国遠征軍最高司令官とすることに決定した[15][16]


連合国遠征軍最高司令部はヨーロッパ反攻作戦として「オーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)」の計画を行い、アイゼンハワーはその計画の実行を1944年6月6日(D-デイ)とする決断を行った[17]。上陸作戦は成功し、その後も順調に戦線を拡大した。


12月20日、陸軍元帥に昇進した。アイゼンハワーは1920年に少佐になってから中佐に昇進するまで16年を要し、第二次世界大戦勃発時には一介の中佐にすぎなかったが、その後わずか5年3ヶ月で元帥に昇進した(1941年3月大佐昇進、同年9月准将昇進、1942年3月少将昇進、同年11月中将昇進、1944年大将昇進)。これはアメリカ陸軍史上、空前の記録であった。1945年末まで、ヨーロッパ戦線における450万人の連合軍全軍の最高司令官であった。


アイゼンハワーはこれらの地位で、リーダーシップと外交の偉大な才能を示した。アイゼンハワーはオマル・ブラッドリー将軍やパットン将軍のような前線の指揮官の尊敬を勝ち取り、チャーチル首相、モントゴメリー元帥およびシャルル・ド・ゴール将軍のような一筋縄ではいかない協力者と巧みに取り引きした。戦略上チャーチルやモントゴメリーとは基本的に相容れないものがあったが、彼らとの関係を転覆することはなかった。またアイゼンハワーは、ゲオルギー・ジューコフのようなソ連の司令官や、しばしばヨシフ・スターリンと直接交渉することさえあったが、それはルーズベルト大統領が彼に対して信頼を抱いていたからであり、ソ連からもアイゼンハワーは高く評価されて勝利勲章を贈られた。彼はサインに「アイク」と署名することを好み、一般の兵士たちにも気を配って不正を根絶しようとした。このため一般将兵からも高い人気を得、彼らは後の大統領選挙においてもアイゼンハワーを支持することになる[18]


1945年5月8日のドイツの降伏後、アイゼンハワーはフランクフルトを本拠に、アメリカによる占領地帯の軍政長官に就任したものの、ほどなくパットンにこの地位を委任した。彼は1945年11月に陸軍参謀総長に任命され、1948年2月まで在任した。


冷戦中の1950年12月には北大西洋条約機構(NATO)軍の最高司令官になった。元帥であるアイゼンハワーは終身、現役陸軍軍人に留まる資格を有していたが、大統領選挙に当たって1952年7月に陸軍を退役している。そして大統領を2期8年務めた後、次のケネディ大統領はただちにアイゼンハワーを「1944年12月20日に溯って現役の陸軍元帥に再任」している(「現役復帰」ではない)。



大統領選でのアイゼンハワー


アイゼンハワーは1948年7月にコロンビア大学の学長に選ばれ、ニューヨークに居を構えた。1945年以来、大統領候補となる可能性を指摘されてきたが、1936年以来積極的に共和党大統領候補としての指名を求めていたマッカーサーと異なり、当人は政治にほとんど関心がなく選挙で投票したこともなかったので、支持政党が共和党か民主党かも知られていなかった。


トルーマンは否定しているが、歴史家の何人かは、1948年の大統領選挙でトルーマンがアイゼンハワーを支持して引退することを申し出たとする。1952年の大統領選挙では、民主党・共和党の両党から立候補を要請された。アイゼンハワーは出馬を最初拒絶したが、結局説得を受け、共和党の大統領候補として立候補することとなった。その理由としてアイゼンハワーは「民主党が20年間大統領を輩出し、その変更を国が必要としたので共和党を選んだ」と語った。オハイオ州選出の上院議員ロバート・タフトを破り、共和党の大統領候補としての指名を得た。


大統領選の序盤には、アイゼンハワーは「非政治家」としてキャンペーンを行い、対立候補であるイリノイ州知事で民主党のアドレー・スティーブンソン[19]について言及しなかった。その代わりに他の共和党員が、彼の温厚な公のイメージを守りつつも、民主党員を「共産主義に寛大」として非難する冷戦キャンペーンをすることを黙認した。このため、アイゼンハワーはカリフォルニアから選出された若手の上院議員で、反共姿勢で知られたリチャード・ニクソンを副大統領候補に選んだ。アイゼンハワーとニクソンは442人の選挙人の投票を得て、11月の選挙に勝利した。対するスティーブンソンの得票は89だった。



大統領としてのアイゼンハワー




ホワイトハウスで、1956年2月29日


1953年1月20日に大統領に就任したアイゼンハワーは、大統領職にある間を通じて人気を保持した。1956年には、1952年に続いてテキサスとテネシーのような伝統的に共和党勢力が強い州の票を維持し、再びスティーブンソンを前回選挙以上の大差をもって破り、1期目の副大統領のニクソンとともに再選された。



外交問題





ワシントンD.C.を訪れた南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領を迎えるアイゼンハワー





サウジアラビアのサウード・ビン・アブドゥルアズィーズ国王およびニクソン副大統領とともに





フルシチョフ夫妻とともに





スペインのフランシスコ・フランコとアイゼンハワー




2期目の就任式に臨むアイゼンハワーとニクソン


大統領時代は、ソビエト連邦を筆頭とする東側諸国とアメリカ合衆国を代表とする西側諸国との冷戦の最盛期ともいえる時代であった。アイゼンハワー政権を支えたニクソン副大統領とジョン・フォスター・ダレス国務長官は、共産主義との戦いを指揮、拡大した。また、当時のジョセフ・マッカーシーを代表とする共和党右派の過激な反共主義者の煽動も存在した。だが、ジョージ・ケナンによって提唱された封じ込め政策を受け、平和共存と穏健な保守路線を追求した。



アジア


就任後には行き詰まった朝鮮戦争を終了すると約束し、停戦は1953年7月に署名された。さらにアジアでの共産主義国による脅威をとどめるために、韓国と米韓相互防衛条約を、中華民国と米華相互防衛条約に署名したほか、東南アジア条約機構を形成した。また、ニクソン副大統領を日本や韓国、オーストラリアやニュージーランドなどの友好国に送り、自由主義陣営と同盟国を重視する外交を推進した。



インドシナ


トルーマンが拡大を続けたインドシナ戦争を戦うフランス軍へのアメリカからの援助は、1952年度までに年額約3億ドルに及び、アイゼンハワーが大統領に就任した1953年には約4億ドルに上った。4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上、医薬品、無線機などが送られている。また、1950年10月にサイゴンで組織されていたインドシナ米軍事援助顧問団(MAAG)はフランス軍の兵力不足を補うべく活動した。


1953年11月に行われたディエンビエンフーの戦いにおいて、フランス軍降伏の報せを聞いたニクソン副大統領は、周辺山岳地帯に集結したベトミン軍に対する小型原子爆弾の使用をアイゼンハワーに進言したが却下された[20]。またアメリカの統合参謀本部はフィリピンに展開しているボーイングB-29爆撃機による支援爆撃を主張したが、アイゼンハワー大統領はこれも却下した。


1954年にジュネーブ協定が締結しインドシナ戦争が終結したことでフランスが去り、ベトナム共和国(南ベトナム)が成立した後の1955年11月には、「インドシナ米軍事援助顧問団」が「南ベトナム米軍事援助顧問団」へと改組された。その後フランスに代わりインドシナ半島の反共勢力を支援することとなったアメリカと、ゴ・ディン・ディエム率いる南ベトナムとの関係は強化され、軍事支援の規模も拡大されたが、アイゼンハワー政権下においては正規軍の派遣は行われなかった。しかしケネディ政権では事実上の正規軍の派遣までその規模が拡大され、その後ベトナム戦争となる。



日本


1957年6月、岸信介が初めて訪米した際、アイゼンハワーは岸を真っ先にゴルフに連れ出した。プレー後には「大統領になると嫌なやつともテーブルを囲まねばならないが、ゴルフは好きなやつとしかできない」と語るなど、両者の信頼関係の礎となった[21]


1960年1月に、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」を日本との間で締結したのを受け、6月に岸の招待で日本を訪問しようと試みたが、安保闘争の最中の6月10日に、訪日の日程を協議するため来日したジェイムズ・ハガティ(当時の日本における表記は「ハガチー」)大統領報道官が東京国際空港周辺に詰め掛けた訪日反対デモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生した。さらに6月15日には、警官隊が国会議事堂正門前でデモ隊と衝突し、デモに参加していた大学生の樺美智子が圧死するという事件が発生した上、銃撃などによりアイゼンハワーの身に危害が加えられる可能性も出てきたという情報すら入ってきたため、最終的に日本側よりアメリカに訪日を止めるよう要請し、訪問を取りやめた。なお、その後の条約の自動承認を受けて、岸は辞職した。



中東


1956年にスエズ運河の管理に関する論争で、イギリスとフランスのエジプトへの軍事介入を強く非難した(スエズ危機)。この際にアイゼンハワーは冷戦で対立していたソ連のニコライ・ブルガーニン首相と協力し、国際連合で拒否権行使する英仏を押し退けて米ソ協調で可決[22]された国際連合安全保障理事会決議第119号(英語版)によって平和のための結集決議での国連緊急総会が招集され、同年11月2日には英・仏・イスラエルに対し即時停戦を求める決議を求める総会決議997の採択に成功する。米国・国連・ソ連により圧力を受け、同年11月6日に英仏は停戦受諾、同年11月8日にはイスラエルも受諾、スエズ危機は解決した。


大統領職2期目中、1957年にレバノンへ軍隊を送り、またシャー・マホメット・レザ・パーレヴィが権力を回復するためのイランでのクーデターを支援して、中東問題にますます没頭するようになった。



ソ連


アイゼンハワーの下、アメリカは初の世界的核戦力を保持したが、世界は核兵器を含む第三次世界大戦を恐れていた。1953年のスターリンの死後、後継者のニキータ・フルシチョフと核兵器競争の停止の合意に達する可能性を望んだ。同年末に国連総会で行った「平和のための原子力」演説は有名である。


ソ連のリーダーと首脳会議を開催するいくつかの試みはなされたが、最後のそのような試みは、1960年にソ連上空でU-2偵察機が撃墜されたこと(U-2撃墜事件)で失敗した。フルシチョフは、自身の回想録音テープの中で「アイゼンハワーは事あるごとにダレスの助言がないと返答出来ない」と見透かし、自国と自身の優位を感じたという。なお、アイゼンハワーはモスクワのレーニン廟から初めて赤軍のパレードを閲兵した外国人である。



キューバ


大統領任期の末期(1959年1月1日)、キューバに社会主義革命政府が誕生。当初革命指導者のフィデル・カストロはアメリカに歩み寄る姿勢を見せ、革命直後に行われたアメリカ訪問時にはアイゼンハワーとの会見を申し出たが、「カストロは容共的である」との政府内からの報告を受けて会見をせず、その後もカストロ率いる革命政府に対して距離を取ったこともあり次第にカストロはソ連との関係を深めた。


その後ソ連との関係が深まることと同時に、カストロはアメリカ資産の差し押さえや国営化を進めたため、アイゼンハワーはキューバに対して国交断絶と経済制裁を行うこととなり、この対立関係はケネディ政権に持ち越された。



国内問題





アメリカ労働総同盟大会に出席したアイゼンハワー




リトルロック高校事件で、アイゼンハワーが派遣した第101空挺師団に守られながら登校する黒人生徒たち




中華民国の蒋総統からの歓迎を受けるアイゼンハワー


多くの共和党大統領と同じく、自由企業経済が自らを発展させるべきだと考え、国内政策にほとんど興味を持たなかった。1952年の選挙の圧勝は、共和党に上下両院の主導権を与えたが、民主党は国内政策に対する批判で、1954年の中間選挙で主導権を回復した。議会リーダー、特に下院議長サム・レイバーン(英語版)との良好な関係を作り上げることで対応した。
またアイゼンハワーは、多くの実業家を閣僚に任命し国を統治させた。それによって外交問題に専念することができた。



経済政策


国内で果たした功績として、1956年に承認した連邦補助高速道路法が挙げられる。同法はアメリカ国内41,000マイルの幹線道路網を構築するというアメリカ史上最大の公共工事プログラムだったが、これはかつてアイゼンハワーが関与した軍事警護で、アメリカ大陸を横断するのに62日を要した経験が生み出したものであった。


もう一つの成功は、在職中に世帯所得を20%増加させたことであり、大変誇りとしていた。アイゼンハワーは内閣に10番目の省として保健教育福祉省を新設した。また大統領在任中の3ヶ年において、収支の均衡の取れた予算を達成していることも注目される。



対人種差別


「1950年代に、共産主義および黒人公民権の2つの主な問題において、アイゼンハワーは強いリーダーシップを発揮しなかった」と評価されることもあるが、以下のような事実もある。1957年に、ブラウン対教育委員会裁判の判決以降も白人しか入学させていなかったアーカンソー州立リトルロック・セントラル高校への9人の黒人学生の入学を、再選のための白人票稼ぎを目論んだ白人至上主義者のオーヴァル・フォーバス(英語版)州知事が拒否し、「白人過激派による襲撃事件が起きるという情報があるので学校を閉鎖する」という理由をつけて州兵を召集し、学校を閉鎖して黒人学生の入学を妨害するという事件が起きた。


これに対してアイゼンハワーは、フォーバス州知事に事態の収拾を図るよう命令したが、この命令が無視されたため、急遽アメリカ陸軍の第101空挺師団を派遣し、入学する黒人学生を護衛させた(リトルロック高校事件)。



対赤狩り


上院議員ジョセフ・マッカーシーによる反共主義のキャンペーン(赤狩り)に対し、公的に非難する態度をとらなかったことで非難されたが、私的にはマッカーシーを嫌っていた。友人でもある大戦中の同僚で、トルーマンの下の国務長官だったジョージ・マーシャルをマッカーシーが非難していたからである。アイゼンハワーは、「私は彼に跪いて落ちぶれるつもりはない」と非公式に発言した。



ニクソンとの関係




ニクソンとともに(1952年)


副大統領のニクソンに対しては、複雑な感情を抱いていたと言われる。ニクソンは副大統領としてアイゼンハワーを支え続けた8年間の間、多くの汚れ役を背負い、その仕事を忠実にこなした。これを誇りに感じていたニクソンは、1960年の大統領選挙において、経験に欠けたケネディに対して8年間の副大統領として積んだ実績をキャンペーンした。


しかしアイゼンハワーは、ニクソンが共和党の候補として出馬した際にニクソンを指名するように依頼された時、冗談を意図して「1週間くれ。そうすれば、考えてもよい」と返答し、単なる一共和党候補として不承不承にニクソンを支持した。これはニクソンに対する厳しい打撃だった。ニクソンはケネディに対して歴史上に残る僅差で敗北すると、アイゼンハワーを非難した。 



内閣































































































































職名 氏名
任期

大統領 ドワイト・D・アイゼンハワー 1953 - 1961
副大統領 リチャード・ニクソン 1953 - 1961

国務長官 ジョン・フォスター・ダレス 1953 - 1959
  クリスチャン・A・ハーター 1959 - 1961
財務長官 ジョージ・M・ハンフリー 1953 - 1957
  ロバート・B・アンダーソン 1957 - 1961
国防長官 チャールズ・E・ウィルソン(英語版) 1953 - 1957
  ニール・H・マッケロイ(英語版) 1957 - 1959
  トーマス・S・ゲイツ(英語版) 1959 - 1961
司法長官 ハーバート・ブラウネル・ジュニア(英語版) 1953 - 1957
  ウィリアム・P・ロジャース(英語版) 1957 - 1961
郵政長官 アーサー・E・サマーフィールド(英語版) 1953 - 1961
内務長官 ダグラス・マッケイ(英語版) 1953 - 1956
  フレッド・A・シートン(英語版) 1956 - 1961
農務長官 エズラ・T・ベンソン 1953 - 1961
商務長官 シンクレア・ウィークス(英語版) 1953 - 1958
  ルイス・L・ストラウス(英語版) 1958 - 1959
  フレデリック・H・ミューラー(英語版) 1959 - 1961
労働長官 マーティン・P・ダーキン(英語版) 1953
  ジェームズ・P・ミッチェル(英語版) 1953 - 1961
保健教育福祉長官 オヴェータ・カルプ・ホビー(英語版) 1953 - 1955
  マリオン・B・フォルサム(英語版) 1955 - 1958
  アーサー・S・フレミング(英語版) 1958 - 1961



大統領退任後


退任後はペンシルベニア州ゲティスバーグにある農家にて隠棲した。殆ど公の場に出てこなかった。1969年3月28日、アイゼンハワーはワシントンD.C.にあるウォルターリード陸軍病院で、鬱血性心不全のため死亡した。



死後


アイゼンハワーは戦後の生涯の大半をペンシルベニア州バレーフォージで過ごしたが、アイゼンハワーの記念館は彼が成長したカンザス州アビリーンにある。アイゼンハワーとその妻は、瞑想の場所と呼ばれる小さな礼拝堂に埋葬されている。


アイゼンハワーの肖像は1971年から1978年までの1ドル銀貨に使用された。 また、ニミッツ級航空母艦の2番艦にその名が使用された (USS Dwight D. Eisenhower, CVN-69) 。



アイゼンハワー公園




アイゼンハワー公園エントランス


アイゼンハワーはニューヨーク州イーストメドウの広大な公園に、アスレチックや家族施設などの設置を行った。この公園は1969年10月13日にアイゼンハワー記念公園と改められて現在にいたっている。


公園内にはレクリエーション施設のほか、退役軍人記念公園も包含されており、軍人を顕彰する石碑などが設置されている。


2012年6月20日には朝鮮戦争で戦没したアメリカ兵を顕彰する石碑の隣に「日本軍が性奴隷にするため20万人を超える少女らを拉致して慰安婦にした」とする碑が大韓民国光州広域市と韓米公共政策委員会によって設置されている[23][24][25]



評価


大統領時代は高い支持率を保ち続けたものの、退任すると若く活動的に見えた後継者ジョン・F・ケネディとの対比から、「何もしない大統領だった」と批判され、その評価は下がった。ただし、その後に暗殺されたケネディも同様の批判を受けた。


1960年代および1970年代のリベラルな風潮の中で前任のトルーマンから引き継いだ公民権運動への支援やマッカーシズムへの抵抗により、近年評価は回復した。歴史家の最近の投票では、アイゼンハワーはすべての大統領の間で11番目と評価された。しかし何人かの歴史家は、「アイゼンハワーの最も大きな業績は大戦中の軍司令官時代のものだった」としている。


職業軍人出身らしく、戦争の残虐さを身をもって体験しており、外交は情報収集を基本に行い、また冷戦真っただ中の任期にあっても、スプートニクショックの際も国防費の増額はせず、軍産複合体制を批判した。



その他



  • 第二次世界大戦で日本の敗戦が決定的になり、原子爆弾の使用は不要であることを1945年7月20日にトルーマン大統領に進言しており、原爆の使用を強硬に反対した。1945年10月、フランクフルト郊外の自宅でハリマン駐ソ連大使を迎えた夕食の際に、ハリマンは「アイゼンハワー氏は、原爆を使わずに戦争が終わっていたらどんなによかったことか、と話した」と記していた。被爆地広島に原子力発電所を造る案が1953年時点で、米政権内で浮上していたが、大統領に就任したアイゼンハワーは「(原爆投下への)罪悪感を示すことになる」という理由で反対した。ストローズ米原子力委員長は広島への原発建設案をアイゼンハワーに提案したが、アイゼンハワーは「その考えは捨てた方がよい。(原爆を使ったことへの米国の)罪悪感を示すことになるからだ」と発言した。

  • 大統領時代の1958年5月22日に、米NBCの系列局WRC-TVのワシントンD.C.スタジオの開所式典に招かれ、来賓として祝辞を述べている。この模様は生放送されたばかりか、当時出始めの放送用の2インチのカラーVTRでも収録された。その時収録されたビデオテープが、現時点において現存が確認されている最古のカラービデオテープであり、またカラー放送史において非常に貴重な資料の一つとされている。このビデオテープはのちにデジタルリマスタリングされて、米NBCのビデオ・アーカイブスはもちろんのこと、カンザス州のアイゼンハワー・ライブラリーにも保管されている[26][27]

  • 第二次世界大戦中に着ていた「ウール・フィールドジャケット」が愛称を取って「アイクジャケット」(IKE Jacket)と呼ばれ、アメリカ合衆国の警察官や保安官の着ている防寒ジャンパーにその形式(丈は腰まで、両肩に肩章、両腹部にはボタン止めの蓋を持つパッチポケット)を残す。

  • 核攻撃を受けた際の連邦議会開催のための核シェルターを、ウエストバージニア州グリーンブライア郡の高級ホテル地下に構築した。


  • クローン病という難病を抱え、大統領在任中に2回手術を受けたと伝えられている。


  • コカ・コーラを愛飲し、第二次世界大戦中の1943年6月29日にジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長宛てで「300万本の瓶詰めコカ・コーラ、月にその倍は生産できるボトリング装置一式、洗浄機および栓を至急送られたし」と電報を送ったほどである。また政治的にもザ コカ・コーラ カンパニーの支援を受けていた。



著作



  • 『ヨーロッパ十字軍 最高司令官の大戦手記』(朝日新聞社訳 朝日新聞社、1949年)

  • 『アイゼンハワー回顧録』1・2(仲晃、佐々木謙一、渡辺靖共訳 みすず書房、1965年-1968年)



関連書籍



  • 『アイゼンハウアー 民主主義の兵士』K.デーヴィス 土屋明訳、読売新聞社、1952年

  • 『アイゼンハワー 彼は世界を動かしている』ジョン・ガンサー、木下秀夫訳、文藝春秋新社、1952年

  • 『アイゼンハワー 昇る巨星』沢田謙、偕成社(偉人物語文庫)、1953年

  • 『人間アイゼンハウァー』松山敏、人生社(人生伝記新書)、1953年

  • 『アイゼンハワーの兄弟 偉大なアメリカの遺産』ベラ・コルニッツア 深沢正策訳、時事通信社、1956年

  • 『アイゼンハワー 人間アイゼンハワーの全貌』松山悦三 アジア書院、1960年

  • 『愛は絶ちがたく アイゼンハワーとの秘められた恋』ケイ・サマーズビー・モーガン 関口英男訳、パシフィカ年、1977年12月

  • 『ヴェトナム戦争の起源 アイゼンハワー政権と第一次インドシナ戦争』赤木完爾 慶応通信、1991年6月

  • 『アイゼンハワー政権の中東政策』泉淳 国際書院、2001年6月

  • 『アイゼンハワー政権と西ドイツ 同盟政策としての東西軍備管理交渉』倉科一希 ミネルヴァ書房(国際政治・日本外交叢書)、2008年6月

  • 『アイゼンハワー政権の封じ込め政策 ソ連の脅威,ミサイル・ギャップ論争と東西交流』佐々木卓也 有斐閣、2008年2月



脚注





  1. ^ “Post-Presidential Years”. Eisenhower Presidential Library, Museum, and Boyhood Home. 2019年2月1日閲覧。


  2. ^ The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー


  3. ^ 『ニューヨーク・タイムズ』1946年9月12日号


  4. ^ http://www.jewwatch.com/jew-leaders-eisenhower.html

  5. ^ abc児島襄 1974, pp. 173.

  6. ^ ab児島襄 1974, pp. 174.

  7. ^ ab児島襄 1974, pp. 175.


  8. ^ 児島襄 1974, pp. 178.


  9. ^ 児島襄 1974, pp. 179.


  10. ^ 児島襄 1974, pp. 183-185.


  11. ^ 児島襄 1974, pp. 181.


  12. ^ 児島襄 1974, pp. 180-183.


  13. ^ 児島襄 1974, pp. 183.

  14. ^ abc児島襄 1974, pp. 185.


  15. ^ King and Whitehill, Fleet Admiral King, pp. 502-504, p. 526.


  16. ^ Buell, Master of Seapower, pp. 425-426, p. 436.


  17. ^ 児島襄 1974, pp. 193.


  18. ^ 児島襄 1974, pp. 193-194.


  19. ^ http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/.../0205.html


  20. ^ リチャード・ニクソン著『ノー・モア・ヴェトナム』宮崎成人・宮崎緑共訳(講談社 1986年 ISBN 4062024462)。


  21. ^ [‪http://www.sankei.com/premium/news/170211/prm1702110028-n1.html‬ “‪【日米首脳会談】安倍晋三首相「私は朝日新聞に勝った」 トランプ大統領「俺も勝った!」 ゴルフ会談で日米同盟はより強固になるか?”]. 産経新聞社. (2017年2月11日). ‪http://www.sankei.com/premium/news/170211/prm1702110028-n1.html‬ 2017年2月11日閲覧。 


  22. ^ [1]


  23. ^ Korean desecration of USA Korean War Memorial トニー・マラーノ 2012年6月26日


  24. ^ 第2の慰安婦碑、ニューヨーク州に建立 東亜日報 JUNE 18, 2012


  25. ^ 일본군 위안부 기림비 미국 땅에 2번째 둥지 ハンギョレ 2012.06.21


  26. ^ この映像の一部は、YouTubeにて閲覧可能である(局の演出により、最初は白黒映像で、途中からカラー映像になっている)。http://www.youtube.com/watch?v=QKqHZcXvUAs


  27. ^ 詳しくはRCA-NBC Firsts in Color Television Archived 2006年2月6日, at the Wayback Machine.を参照のこと。




参考文献



  • 児島襄 『指揮官(下)』 文藝春秋、1974年。ISBN 4-16-714102-7。


  • King, Ernest J.; Whitehill, Walter Muir (1952). Fleet Admiral King: A Naval Record. New York: W. W. Norton & Company. 


  • Buell, Thomas B. (2001). Master of Seapower: A Biography of Fleet Admiral Ernest J. King. Annapolis: Naval Institute Press. ISBN 978-1591140429. 



アイゼンハワーを描いた作品


テレビドラマ


  • 将軍アイク(1979年、主演:ロバート・デュヴァル)


関連項目




  • デイヴィッド・アイゼンハワー - 孫

  • U-2撃墜事件

  • PBSUCCESS作戦

  • ロッキード コンステレーション

  • バリー・ゴールドウォーター

  • マッカーシズム

  • 軍産複合体

  • CIA

  • FBI

  • NSA

  • ダグラス・マッカーサー

  • ドワイト・D・アイゼンハワー (空母)

  • クローン病



外部リンク








  • Dwight D. Eisenhowerの作品 - プロジェクト・グーテンベルク

  • Eisenhower Chronology World History Database

  • The Eisenhower Presidential Library and Museum

  • Eisenhower Home and Tomb

  • Armigerous American Presidents Series

  • White House biography


  • Eisenhower Tapes @ University of Virginia's Miller Center of Public Affairs (Oval Office recordings)

  • First Inaugural Address

  • Second Inaugural Address

  • Audio clips of Eisenhower's speeches


  • Farewell Address(原文と音声)日本語訳全文

  • Essay: Why the Eisenhower administration embraced nuclear weapons (PDF)

  • The Dwight D. Eisenhower Memorial Commission

  • The Presidential Papers of Dwight David Eisenhower (Searchable Online)

  • Dwight David Eisenhower' biography at the Official U.S. Army website































公職
先代:
ハリー・S・トルーマン

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国大統領
第34代:1953年 - 1961年
次代:
ジョン・F・ケネディ
軍職
先代:
(創設)

欧州連合軍最高司令官
初代:1951年 - 1952年
次代:
マシュー・リッジウェイ
先代:
ジョージ・マーシャル

アメリカ陸軍参謀総長
第16代:1945年 - 1948年
次代:
オマール・ブラッドレー
先代:
(創設)

Merchant flag of Germany (1946–1949).svg ドイツ米占領区域
軍政府長官

初代:1945年
次代:
ジョージ・パットン
(代行)
学職
先代:
Frank D. Fackenthal (en)
(代行)

コロンビア大学学長
第13代:1948年 - 1953年
次代:
Grayson L. Kirk (en)









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