エリコ






































エリコ
أريحا

エリコ市街地
エリコ市街地
位置

エリコの位置(ヨルダン川西岸地区東部)の位置図
エリコの位置(ヨルダン川西岸地区東部)

座標 : 北緯31度51分 東経35度27分 / 北緯31.850度 東経35.450度 / 31.850; 35.450
行政



パレスチナの旗 パレスチナ
 地域

ヨルダン川西岸地区
 県

エリコ県
 市

エリコ
人口

人口
(2014年7月1日現在)
  市域
22,000人

エリコイェリコジェリコ、アラビア語ではアリーハー、アラビア語: أريحا‎、ヘブライ語: יְרִיחוֹ‎、Jericho)は、パレスチナ東部のエリコ県の県都。
2014年の人口は2万2000人[1]




目次






  • 1 概略


  • 2 歴史


    • 2.1 現代




  • 3 考古学史


  • 4 人口


  • 5 ギャラリー


  • 6 脚注


  • 7 関連項目





概略


死海の北西部にある町。古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現した。世界最古の町と評されることもある。世界で最も標高の低い町でもある。


エリコは、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在はヨルダン川西岸地区に含まれる。海抜マイナス250mの低地にある。「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、人々が住み着いた。エリコの名前は『旧約聖書』にも繰り返し現れ、「棕櫚(しゅろ)の町」として知られていた。


エリコには、異なる時代に形成されたいくつかの町があり、古代~『旧約聖書』時代のテル・エッ・スルタン(Tell es-Sultan)、紀元前後のトゥルール・アブー・エル・アラーイク(Tulul Abu el-'Alayiq)、現在の町があるテル・ハリ(er-Riha)に分かれる。テル・エッ・スルタンは、テル・ハリから2kmほど離れたところにあり、トゥルール・アブー・エル・アラーイクはテル・ハリから西へ約2kmのところにある。



歴史


初期の町は小規模な定住集落で、時代区分上は新石器時代にあたる。最古の町と評されることもあるが、後に現れるメソポタミア文明などの文明とは区別される。


1868年からヨーロッパの考古学者によって何度か調査が行われ、1952年にイギリスのキャスリーン・ケニヨン(Kathleen Kenyon)らが行った調査では前8000年紀のものと思われる周囲を濠と石積みの防壁で囲った集落跡が発掘された。日本の弥生時代の環濠集落に似ているが、そうではなく、洪水を防ぐための防壁と解釈されている。




テル・エッ・スルタンの遺丘


初期の痕跡はテル・エッ・スルタンにあり、紀元前約1万~9000年まで遡る。テルは丘を意味するアラビア語で、人間の長期にわたる営みの積み重ねによって形成されたものと考えられている。丘の規模は南北350m・東西150m・高さ2.5mである。紀元前9000年頃の痕跡ではまだ住居跡はまだ現れないが、ナトゥフ期(Natufian)の石器・骨器や、祭壇と思われる基壇が現れた。


ナトゥフ期の次にケニヨンが「原新石器」と呼んだ時代を経て、「先土器新石器A」(Pre-Pottery Neolithic A)と呼ばれる層(前8350年頃~前7370年頃)からは、広さ約4ヘクタール・高さ約4m・厚さ約2mの石の壁で囲まれた集落が形成された。この壁の1面には高さ8.5mの石の塔も建てられた。この町は前7370年頃に放棄され、それまでとは異なる文化をもつ人々がエリコに定住した。


先土器新石器B(Pre-Pottery Neolithic B)と呼ばれる層は、前7220年頃から前5850年頃まで続く。これは前5850年頃に放棄され、しばらく無人の町となった。


前3300年頃には周壁を備えた都市が形成される。前2300年頃に異民族の来襲によるものと思われる火災にあい、しばらく空白期間となる。


前1900年頃に再び町が建設され、町の領域は初期の壁の外にも拡大し、さらに外側により高い周壁が建設された。前1560年頃にヒクソスの侵入にあい、大火災に見舞われて廃墟となった。


『旧約聖書』の「ヨシュア記」では、預言者ヨシュアが人々に命じて一斉に吹かせたラッパの音により、エリコの城壁が崩れ落ちたと伝えられている(エリコの戦い)。史実に基づくものならば、この頃の話ではないかという推測もある。


前1550年頃~前1150年頃には、古代エジプトの圧迫を受けた。


ヘレニズム時代から『新約聖書』の時代になると、トゥルール・アブー・エル・アラーイクに町が形成された。



現代


1948年の第一次中東戦争中、エリコはトランスヨルダンが占拠した。同年アブドッラー1世はエリコでエリコ国民大会を開き、2000名を超えるパレスチナ人代表団が出席した。かれらは「陛下は全パレスチナの王である」と宣言し、「全アラブの団結への一歩としてパレスチナとトランスヨルダンの統一」を呼びかけた。[2]


1967年の第三次中東戦争により、エリコは他のヨルダン川西岸地区同様、イスラエルにより占領された。エリコはオスロ合意に基づきパレスチナ自治政府に委譲された最初の都市である。[3]エリコは、ヨルダン渓谷におけるエリアA地区の離れ小島であり、周りは完全にイスラエル軍政が敷かれているエリアCにより囲まれている。この飛び地を4つのイスラエルのロードブロックが囲み、西岸のパレスチナ人のエリコへのアクセスを妨げている。[4]


2001年の、第二インティファーダと自爆攻撃に応じて、イスラエル軍が再びエリコを占領した。[3]市の大半を囲むように深さ2メートルの堀が掘られ、パレスチナ人のエリコ市の内外への移動のコントロールが、軍により試みられた。[5]


2009年には、パレスチナ自治区議長ファイヤードとアメリカ国際麻薬取締庁次官補ディヴィッド・ジョンソンが大統領警護隊訓練センターをエリコに開いた。この910万ドルの訓練施設はアメリカの資金により建てられた。[6]



考古学史




  • 1868年 - チャールズ・ウォーレン(Charles Warren)が調査。


  • 1907年~1909年、1911年 - ドイツ・オーストリアのエルンスト・ゼリン(Ernst Sellin)とカール・ヴァッツィンゲル(Carl Watzinger)がテル・エッ・スルタンとトゥルール・アブー・エル・アラーイクを調査。


  • 1930年~1936年 - イギリスのジョン・ガースタング(John Garstang)が調査。


  • 1952年~1958年 - キャスリーン・ケニヨン(Kathleen Kenyon)が調査。



人口




  • 1997年12月10日:1万4744人


  • 2007年12月1日:1万8346人


  • 2014年7月1日:2万2000人



ギャラリー




Panorama of Jericho




脚注


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  1. ^ City Population閲覧日:2017年1月22日


  2. ^ Benvenisti, 1998, pp. 27-28.

  3. ^ abAt 10th anniversary, a far poorer Palestinian Authority


  4. ^ Ġānim, Asʻad (2010), Palestinian Politics After Arafat: A Failed National Movement, Indiana University Press, p. 35, ISBN 9780253354273 


  5. ^ ARIJ & LRC, 20 March 2001, The Tightening of the Siege on Jericho: Israel Employs a New Policy of Trench Digging


  6. ^ Training Center for Palestinian Authority Security Forces Opens in Jericho




関連項目








  • ジェリコの戦い(Joshua fit the battle of Jericho) - ヨシュアのエリコ攻略を歌った有名な黒人霊歌。


  • ジェリコ941 - イスラエルの銃器メーカー、IMI社がCz75を元に開発した自動式拳銃で「ベビーイーグル」などと呼ばれる。


  • チャタル・ヒュユク(Çatalhöyük) - アナトリア半島にある先土器新石器B時代における並行時期の遺跡。多くの類似性が指摘されている。

  • エリコの壁


  • Ju 87 (航空機) - 「エリコのラッパ」と呼ばれたサイレンを持つ。


  • ジェリコ・ジャパン - エリコにちなんだプロテスタントの大規模音楽集会


  • ナビー・ムーサー エリコ近郊にある、アラビア語で預言者モーゼという意味の地名であり、同名のムスリムによる祭祀と巡礼の名前。東方教会における聖金曜日の前の金曜日から1週間に渡って執り行われる。














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