歌棄郡
歌棄郡(うたすつぐん)は、北海道(後志国)後志支庁にあった郡。
目次
1 郡域
2 歴史
2.1 郡発足までの沿革
2.2 郡発足以降の沿革
3 参考文献
4 関連項目
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
寿都郡寿都町の一部(歌棄町)- 寿都郡黒松内町の一部(添別、目名、熱郛、婆沢、熱郛原野、赤井川以北)
歴史
郡発足までの沿革
郡名の由来は、アイヌ語の「オタ・シュツ(浜の草原が尽きる砂原に掛かる辺り)」から。
江戸時代、歌棄郡域は和人地となる。松前藩によってヲタスツ場所が開かれ、陸上交通は渡島国から天塩国増毛郡へ至る道(国道229号の前身)が通じ、また安政年間になると歌棄場所請負人桝屋栄五郎の父・定右衛門によって黒松内以北が開削され寿都郡追分から分岐していた黒松内越(道道寿都黒松内線の前身)が通じてていた。
江戸時代後期の文化4年には、歌棄郡域は天領とされたが、文政4年には一旦松前藩の元に戻された。文政6年5月、美谷(寿都町字歌棄町美谷)の稲荷神社がヲタスツ場所請負人の柳谷庄兵衛によって創建されている。また郡域内の厳島神社は天保3年5月よりも前の創建。安政2年歌棄郡域は再び天領となり、庄内藩が警固にあたった。安政6年には歌棄竜昌寺と後に榎本武揚も訪れた観音寺(後の黒松内町南作開地区)が開山している。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年(明治2年)、大宝律令の国郡里制を踏襲して歌棄郡が置かれた。
郡発足以降の沿革
明治2年8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、後志国および歌棄郡が設置される。開拓使が管轄。- 明治3年1月5日(1870年2月5日) - 斗南藩の領地となる(北海道の分領支配)。
- 明治4年8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び全域が開拓使の管轄となる。
- 明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての歌棄郡が発足。
- 明治13年(1880年)1月 - 寿都郡外三郡役所(寿都磯谷歌棄島牧郡役所)の管轄となる。
- 明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により函館県の管轄となる。
- 明治19年(1886年)
1月26日 - 廃県置庁により北海道庁函館支庁の管轄となる。- 12月 - 函館支庁が廃止。
- 明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、寿都支庁の管轄となる。
- 明治39年(1906年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、潮路村、有戸村、種前村、美谷村の区域をもって歌棄村(二級村)が発足。
- 明治43年(1910年)3月1日 - 寿都支庁が廃止され、後志支庁の管轄となる。
大正4年(1915年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、熱郛村、作開村の区域をもって熱郛村(二級村)が発足。
昭和18年(1943年)6月1日 - 北海道一・二級町村制が廃止され、北海道で町村制を施行。二級町村は指定町村となる。- 昭和21年(1946年)10月5日 - 指定町村を廃止。
- 昭和22年(1947年)5月3日 - 地方自治法の施行により北海道後志支庁の管轄となる。
- 昭和30年(1955年)1月15日 - 下記の変更により歌棄郡廃止。1947年の北海道の発足以来、初の郡消滅となった。
- 歌棄村が寿都郡寿都町および樽岸村の一部(字建岩・樽岸・小川・浜中・上湯別・下湯別および五十嵐・丸山の一部)、磯谷郡磯谷村と合併し、改めて寿都郡寿都町が発足。
- 熱郛村が寿都郡黒松内村および樽岸村の残部(字中ノ川・添別・目名・月越および五十嵐・丸山の一部)と合併して寿都郡三和村(現・黒松内町)が発足。
参考文献
角川日本地名大辞典 1 北海道
関連項目
- 消滅した郡の一覧
- 松前藩
- 箱館奉行
- 和人地
- 商場(場所)知行制
- 場所請負制
- 北海道の分領支配
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