太平洋戦争
太平洋戦争 | |||||||
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戦争:第二次世界大戦 | |||||||
年月日:1941年12月8日(日本時間)– 1945年9月2日(または8月15日)[注 1] | |||||||
場所:太平洋(ミクロネシア、メラネシア)、北東アジア、東南アジア、オセアニア、インド洋、アフリカ(マダガスカル)、アリューシャン諸島 | |||||||
結果:連合国の勝利、日本のポツダム宣言による、無条件降伏。 | |||||||
交戦勢力 | |||||||
枢軸国 大日本帝国 タイ 満州国 中華民国(汪兆銘政権) 蒙古聯合自治政府 自由インド仮政府 (1943) フランス国 | 連合国 アメリカ合衆国
イギリス帝国
オランダ
中華民国(国民政府)
ソビエト連邦 (1945) | ||||||
指導者・指揮官 | |||||||
昭和天皇 (41-5)
プレーク・ピブーンソンクラーム | フランクリン・ルーズベルト (41-45) ハリー・S・トルーマン (45-) ジョージ6世
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損害 | |||||||
軍人1,740,955 民間人 393,000 | アメリカ合衆国 354,523 イギリス帝国 86,838 その他 300,000 | ||||||
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太平洋戦争(たいへいようせんそう、英: Pacific War)は第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国やドイツ国など枢軸国と、連合国(主にイギリス帝国、アメリカ合衆国、オランダなど)の戦争である。戦争当時の日本側の名称は1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定し、支那事変も含めるとされた[1]。
日本軍のイギリス領マレー半島攻撃により始まり、その後アメリカ西海岸、アラスカからタヒチやオーストラリアを含む太平洋のほぼ全域から、東南アジア全域、インド洋のアフリカ沿岸までを舞台に、枢軸国と連合国とが戦闘を行ったほか、日本と英米蘭の開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告し、日中戦争(支那事変)も包括する戦争となった。
目次
1 名称・期間
1.1 「太平洋戦争」と「大東亜戦争」呼称
1.2 「太平洋戦争」の呼称に関する論争等
2 関与した国家・勢力
2.1 枢軸国側
2.2 連合国側
2.3 戦争の影響を強く受けた中立国
3 戦争の原因と開戦までの経緯
3.1 概観
3.1.1 日米の国力差
3.2 日米の開戦までの国策
3.3 日独伊三国同盟の締結
3.4 日米交渉の本格化
3.5 開戦を決意(四回の御前会議)
3.6 宣戦布告と開戦
4 開戦後の経過
4.1 日本とアジアの高度人材の育成・国策「興亜工業大學」の設立
4.2 日本軍の攻勢
4.3 戦局の転換期
4.4 連合軍の反攻
4.5 戦争末期
4.6 戦争状態の終結と講和
4.7 海外在住の日系人
5 太平洋戦争による被害
6 戦後処理
6.1 戦争裁判
6.2 占領政策と戦後処理問題
6.3 日本人の引き揚げと復員
6.4 戦争賠償と戦後補償
6.4.1 戦勝国に対する賠償と戦後関係
6.4.1.1 中華民国・中華人民共和国
6.4.1.2 オランダ
6.4.2 戦災国に対する補償と戦後関係
6.4.3 補償を求めた国家と補償額
6.5 領土返還と領土問題
7 戦後の世界への影響
8 戦争の評価
8.1 日本における評価
8.2 欧米における評価
8.3 アジアにおける評価
9 慰霊施設
10 注釈
11 出典
12 参考文献
13 関連作品
14 関連項目
15 外部リンク
名称・期間
イギリスやアメリカなどの連合国においては、主戦場がアメリカ側から見て太平洋地域であったことから「Pacific Theater(太平洋戦域)」が使用され[2]、「the War in the Pacific (Theater)」「WW II-Pacific Theatre」「the Pacific Theatre in the Second World War」など第二次世界大戦の戦線・戦域名が用いられた。第二次世界大戦の太平洋戦線[3]。戦時中は「太平洋戦争」という名称が使われた事はなかった[2]。
開戦を知らせるNHKのラジオ放送では、1941年12月8日午前6時に日本艦隊(帝国艦隊)が、英国、米国を相手に宣戦布告と変わらない宣言をした後、ロッジの大空襲を実施すると発表した。
なお、英語・スペイン語圏では、1865年のチリ・ペルーとスペインの戦争や1879年 - 1884年のチリとボリビア・ペルーとの「太平洋戦争」は The War of the Pacificと呼ぶが、対日戦争は The Pacific Warと表記され区別されている[3]。また日本でも両戦争を「太平洋戦争」と表記するので国際的に「太平洋戦争」呼称は誤解を招くという指摘がある[3]。
「太平洋戦争」と「大東亜戦争」呼称
日本では1925年(大正14年)の日米未来戦記などで「太平洋戦争」が使用された[4]が、1941年に「大東亜戦争」が閣議決定された[1]。敗戦後、GHQの占領政策で「大東亜戦争」は「太平洋戦争」へ強制的に変更させられた[5][4]。GHQはプレス・コードなど[6]で「大東亜戦争」の使用を新聞で避けるように指令し[7]、1945年12月8日(開戦4周年)以降、新聞各紙でGHQ民間情報教育局作成の「太平洋戰爭史−真実なき軍国日本の崩壊」の掲載を開始し、この満州事変から太平洋戦争までを連続させ日本の侵略と残虐行為を詳細に叙述した戦史の単行本10万部は完売、GHQ指導で学校教育でも奨励され、定着した[7]。12月15日の神道指令[8]では軍国主義・国家主義を連想させるとして「大東亜戦争」呼称の使用を公文書において禁止した[9](のち失効[4][10])。翌1946年、法律や勅令の文言は「今次ノ戦争」と改められた[11]。日本政府はGHQの政策以降、現在まで公的には「今次戦争」「先の大戦」「第二次世界大戦」などを用いている[9]。ただし2006年 - 2007年(平成18年度)の政府見解では「大東亜戦争」「太平洋戦争」の定義を定める法令はないとされた[12][13]。
「太平洋戦争」の呼称に関する論争等
民間でも「太平洋戦争」呼称が定着した[14][15]が、それ以外の戦争呼称についても歴史学、歴史認識問題などで議論が多数なされ[16]、たとえば林房雄は薩英戦争や馬関戦争[17]、ペリー来航以来の西欧列強のアジア侵略に対抗して日本がアジア解放を目的とした「大東亜百年戦争」の集大成として「大東亜戦争」をみなし[18]、その他、十五年戦争[19]、アジア・太平洋戦争[20]、昭和戦争[21][22]などの呼称が提唱された。アメリカの歴史家ジョン・ステファンは呼称として第二次世界大戦は広範囲で、「太平洋戦争」は「あまりに狭すぎる」ので不適切であり「大東亜戦争」という呼称が「日本がインド洋や太平洋、東アジアおよび東南アジアで繰り広げようとした戦争を最も正確に表現している」と指摘している[23]。またイギリスの歴史家C・ソーンはアメリカはイギリスとの関係から対日戦争にいたった経緯から「太平洋戦争」は不適切で、極東戦争を提唱した[24]が、ソーンの他A・J・P・テイラーらは日本がアジアでの英国勢力を駆逐するために開戦し、結果としてイギリスは植民地を失い「敗北」したことを考えれば「大東亜戦争」呼称は妥当とした[24]。ジョン・プリチャードらは「十五年戦争」は曖昧で「極東戦争」は地理的にヨーロッパ中心主義、「War with Japan(対日戦争)」も一方的なので「大東亜・太平洋戦争」という呼称を提案した[25]。
戦争の期間は「マレー作戦・開戦の詔が出された1941年12月8日から大日本帝国政府が降伏文書に調印した1945年9月2日」とするのが一般的である[26]が、様々な戦争呼称によって起点は異なる[24]。
中華民国および中華人民共和国では「抗日戦争」として8年間とされる。
関与した国家・勢力
※は途中で陣営替えを行った国・勢力
枢軸国側
類型 | 国 |
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戦闘参加国・政府 | 大日本帝国、タイ王国 (1942-45)、満州国[注 3]、中華民国南京国民政府(汪兆銘政権)、蒙古自治邦政府、ビルマ国(ビルマ独立義勇軍) |
協力・支援国 | ドイツ(遣日潜水艦作戦や柳船など)、ヴィシー政権[注 4]、フランス領インドシナ政府[注 5]、イタリア王国(1941-1943、遣日潜水艦作戦など※) |
日本による支援を受けた組織 | 自由インド仮政府[注 6](インド国民軍)、ビルマ防衛軍、郷土防衛義勇軍(インドネシア)、スマトラ義勇軍、ボルネオ義勇軍、ジャワ防衛義勇軍、マレー義勇軍、マレー義勇隊、越南青年先鋒隊(ベトナム)、フィリピン人義勇軍〈マカピリ〉、比島ラウエル大統領付親衛隊、石家荘白系ロシア人義勇軍(中国)、皇協維新軍(中国)、中華民国臨時政府軍、皇協新中華救国民軍、満洲イスラム教徒騎兵団 |
連合国側に宣戦布告をしたが太平洋戦争には参加していない国 | ビルマ国 (1943-1945)、フィリピン第二共和国 (1943-45)、ベトナム帝国 (1945-)、ラオス王国 (1945-)、カンボジア王国 (1945-)、ギリシャ国、クロアチア独立国、ブルガリア (1941-1944※)、スロバキア (1941-1945)、ハンガリー王国 (1941-1944)、ルーマニア王国 (1941-1944)、セルビア救国政府 (1941-1944)、ピンドス公国・マケドニア公国 (1941-1944)、フィンランド共和国 (1941-1944)、ロシア諸民族解放委員会 (1944-1945) |
連合国側
類型 | 国 |
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戦闘参加国 | イギリス、アメリカ合衆国、オーストラリア・ニュージーランド連合軍、カナダ、オランダ、中華民国重慶政府、ソビエト連邦(ソ連)(1945)、蒙古人民共和国 (1945)[注 7]、フランス共和国臨時政府 (1945) (参戦兵力の多かった統治領はイギリス領インド帝国、イギリス領マラヤ、フィリピン・コモンウェルスである。) |
非国家勢力 | 中国共産党(八路軍)、大韓民国臨時政府[注 8](韓国光復軍)、フクバラハップ(フィリピン共産党の抗日武装組織)、抗日マラヤ人民軍(マレーシア華僑の抗日武装組織)、フォース136(英軍によって訓練されたゲリラ部隊)、東南アジアボランティア軍(華僑武装組織)、ニューギニア族民兵(両陣営の原住民兵として参加[27]) |
連合国であるが、太平洋戦争には参加していない国 | 南アフリカ連邦、レバノン (1943-45)、エルサルバドル、コスタリカ、ドミニカ(イギリス委任統治領)、ニカラグア、ハイチ、グアテマラ、ホンジュラス、パナマ、キューバ、ノルウェー、リベリア、エジプト王国、シリア(フランス委任統治領)、サウジアラビア、イラク王国、パフラヴィー朝(イラン)、メキシコ (1942-45)、ブラジル (1942-45)、コロンビア (1943-45)、ボリビア (1943-45)、ペルー (1945)、ベネズエラ (1945)、ウルグアイ (1945)、パラグアイ (1945)、エクアドル (1945)、トルコ (1945)、アルゼンチン (1945)、チリ (1945)、ベルギー (1945) |
日本に宣戦布告をしたが、連合国と見なされない国 | イタリア王国 (1945) |
戦争の影響を強く受けた中立国
ポルトガル - アジアにおける植民地、マカオおよびポルトガル領ティモールが両軍によって占領された。
戦争の原因と開戦までの経緯
概観
予想外の総力戦となった日中戦争は泥沼化し、解決の目途が立たなくなっていた。
そのため日本は南進を行い、中国国民党への物資の補給路を断ち、石油などの戦略物資を入手することで日中戦争の解決を図った。
南進が欧米の反発を買うことは必至であったが、欧州は第二次世界大戦により東アジアより後退していたため、アメリカへの対策が問題となった。
そこで日独伊三国同盟や日ソ中立条約を結び、アメリカを包囲することで南進への反発を抑えようとした。
しかしアメリカはこれに強く反発し南進を認めず、日米開戦へと至った。
日米の国力差
開戦前の時点で日本とアメリカの国力差は、アメリカは日本に対してGNPで10倍 - 20倍の国力差があり、石油生産量で700倍に及んだ[28][29]。
日本(万バレル/日) | 米国(万バレル/日) | 米国÷日本 | |
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1日あたりの原油生産量 | 0.52 | 383.60 | 738 |
1日あたりの人造石油生産量 | 0.33 | — | — |
1日あたりの石油精製量 | 9.04 | 465.8 | 52 |
1日あたりの原油処理量 | 4.93 | 389 | 79 |
1日あたりの液体燃料在庫量 | 4,300 | 33,500 | 7.8 |
1日あたりの製油所1日1人あたり精製量 | 4 | 53 | 13 |
日本 | 米国 | 英国 | |
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戦艦・巡洋戦艦 | 11 | 9 | 2 |
航空母艦 | 8 | 3 | 0 |
重巡(20cm砲以上) | 18 | 13 | 1 |
軽巡(15cm砲以下) | 23 | 11 | 7 |
駆逐艦 | 129 | 80 | 13 |
潜水艦 | 67 | 56 | 0 |
日米の開戦までの国策
- アメリカの太平洋戦略
アメリカはアメリカ・メキシコ戦争に勝利してカリフォルニア州を獲得し太平洋に面する広大な領土を手に入れ、ロシアからはアラスカを購入した。太平洋ではハワイ王国併合に続き、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)勝利によりフィリピン、グアム、キューバなどを手に入れると、アメリカ・フィリピン戦争を経てフィリピンを植民地化することにより太平洋への覇権を確立した[31]。日本は日露戦争後の満州における権益へのアメリカ資本の参入について非積極的な態度を示しアメリカの不興を買った。また、第一次世界大戦後、国際連盟からドイツ領であったパラオ・サイパンなどの太平洋の島々の委任統治を委ねられるようになりアメリカ領と接するようになった。アメリカの呼びかけで行われたシベリア出兵では、日本はアメリカ軍の撤兵後も駐留を継続するなどアメリカの利害とずれが生じるようになっていた。とはいえ、1920年代は日米ともに東アジア・太平洋地域における平和的な国際体制であるワシントン体制下で協調外交を行っていた。1921年に結ばれた四ヵ国条約では太平洋における日英米仏の利益を相互に認め、現状維持を確認し、この条約の中に日英同盟は発展的解消を遂げた[32]。1922年にはワシントン海軍軍縮条約が結ばれ、列強間の建艦競争に歯止めをかけた。
日露戦争後、アメリカは対日戦略を明確化し、1906年に対日戦争計画「オレンジ計画」を作成し、1938年には「新オレンジ作戦」を策定した[28]。新オレンジ作戦では、開戦した場合日本はまずフィリピン攻撃を行うと予想、これに対しアメリカ海軍主力艦隊は太平洋を西進し、同時に対日海上封鎖を実施、日本経済を枯渇させ太平洋制海権を掌握した上で日本海軍と艦隊決戦するという戦略が構想された[28]。また1941年3月のレインボー5号作戦では欧州戦線の優先、太平洋戦線防御、日本の経済的弱体化、太平洋海域の海上交通線の封鎖・破壊、日本の南洋諸島占領が主軸となった[28]。
- 満洲事変、華北分離工作、日中戦争
1931年(昭和6年)に満州事変が起こり、関東軍の後押しによる満洲国が成立すると国際社会の中で日本は大きく非難されることとなる。その後も関東軍は、華北を中華民国から引き離すための華北の傀儡自治政権をつくる工作を行った。そして、中華民国は日本軍部に対する対抗する軍事力をたくわえていく。
1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争において、大日本帝国政府と軍部は当初、現地解決や不拡大方針によって事態の収拾を試みた。しかし、大日本帝国憲法の規定である統帥権の独立問題や、五・一五事件、二・二六事件以後から行われるようになった軍部による政治干渉、大紅門事件、蘆溝橋事件とそれに呼応して起きた郎坊事件、広安門事件、通州事件、第二次上海事変などにより在中邦人の中国軍や中国人に虐殺される事件が頻発すると、世論は中国を徹底的に叩くべきという方向に傾く(暴支傭懲)。この結果、政府は軍事行動を主張する陸軍・海軍を抑えきることが難しくなり、情勢は日中両軍による大規模な全面衝突に発展する。日本軍は北京や上海など主要都市を占領、続いて中華民国政府の首都南京を陥落させた。1937年8月26日に、日本海軍によるものとされる英国大使襲撃事件であるヒューゲッセン事件が起きると、英国新聞は日本に対する怒りを顕わにした[34]。1937年10月、国際連盟は日本を九国条約及び不戦条約の侵犯であると決議し[35]、1937年11月3日にはブリュッセルで九国条約会議が開かれ、英国は自身が首唱し指導した国際議定によって、それまでソ連により行われていた第二次国共合作中の蒋介石への支援に参加した[36]。1937年12月には、パイナポー号事件とレディバード号事件も起きた。
1937年11月から翌1938年1月にかけて、中独合作により中華民国と友好関係にあったドイツを仲介者とするトラウトマン和平工作が日中間によって行われたが、12月の南京陥落によって日本側では対中強硬論が政府(内閣総理大臣近衛文麿・外務大臣広田弘毅)と海軍(海軍大臣米内光政)にて台頭。一方、陸軍では陸軍省(陸軍大臣杉山元)こそ政府・海軍と同じく強硬派であったが、多田駿陸軍中将を筆頭とする参謀本部は終始日中和平交渉の継続を強く主張。参謀本部の要請によって日露戦争以来の御前会議が開かれるなどしたが、政府・海軍および陸軍省の圧力を受け、1月15日に政府は最終的に交渉の打ち切りを決定。翌日16日に近衛内閣は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」との声明を発し(第一次近衛声明)、トラウトマン和平工作は頓挫した。
蒋介石総統率いる国民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続けた。国民党軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助を受け(援蒋ルート)、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦や武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用い日本軍を攪乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍も山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。こうして日中戦争の戦線は伸び長期戦に陥っていた。
こうして国共合作及び国民党の抗戦の続行により軍事的解決に失敗し、傀儡政権の樹立による政治的解決にも失敗する[37]と、日中戦争は収拾のめどがつかなくなった。この日中戦争の終結を求める動きが、のちの援蔣ルートの遮断へつながる。
日独伊三国同盟の締結
1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことにより欧州では第二次世界大戦が勃発した。1940年(昭和15年)6月にはフランスが短期間で休戦に追い込まれるなど、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、唯一ドーバー海峡を挟んだイギリスが連合国最後の砦として苦しい抵抗を続けていた。これを受け、日本の政府・軍部には、独ソ不可侵条約の締結以来沈滞していたドイツと協調し、英米と抵抗するべきという勢力が再び盛り上がりを見せるようになってきた。
日本は重慶中華民国政府への軍事物資の補給ルートを遮断するため、6月19日にフランス領インドシナ(仏印)政府に圧力をかけ、「援蒋仏印ルート」の遮断を要求した。本国で成立したヴィシー政権との間で9月に協定が結ばれ、紅河以北のインドシナに進駐、中華民国支配地域への攻撃に利用した。これにより日本の対米英関係は緊張した[29]。その後新たにビルマを経由する「援蒋ビルマルート」が作られた。1940年(昭和15年)7月19日の荻窪会談では、盟主である英国が不在の東南アジア植民地に向かう南進論の方針が確認され、戦争相手は英国のみに局限するが、対米戦も準備する必要があるとされた[29]。7月26日には基本国策要綱が閣議決定された[29]。
7月22日、第2次近衛内閣が成立、7月26日には「皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スル」という[38][注 9]、「基本国策要綱」を閣議決定した。翌27日には「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定した。8月1日には松岡洋右外相が談話で「大東亜共栄圏」という用語を初めて用い、その範囲は、日本・満州・中国、フランス領インドシナ、オランダ領東インドも含めるとした[38]。
当初は日独提携に懐疑的であった松岡外相もしだいに三国同盟締結派に接近し、9月27日にドイツ・イタリアとの間で三国条約が締結され、日独伊三国同盟が成立した。松岡らはこの同盟政策を発展させ、日独伊、そしてソ連を加えたユーラシアブロックによって米英を牽制しようとしたが、かえって英米の日本に対する不信感は一層増すこととなった。アメリカは10月12日に三国条約に対する対抗措置を執ると表明、10月16日に屑鉄の対日禁輸を決定した。制裁措置は翌年にはさらに強化され、イギリスも追随した。
これを受け日米開戦が論じられるが、政府と軍部の一部には慎重論も強かった。日本軍は対中国・対ソ連に兵力を集中させ身動きできない状況にあったため、米国は日本に対し強硬姿勢を示すようになる。
12月29日、フランクリン・ルーズベルト大統領は炉辺談話において「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」(en:Arsenal of Democracy) と発表し、イギリスへの援助を公然と表明した[39]。翌年にはイギリスへの武器貸与法(レンドリース法)を成立させた。1941年3月に開催された米英の軍による協議(通称ABC会議)ではまずドイツとイタリアを打倒することを優先し、日本への対処はその次に行うことが合意された[40]。
1940年11月23日、タイ王国はフランスに占領されていた旧タイ領回復のためのフランス領南部仏印進行によりタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、1941年5月8日に日本の仲介によりタイ王国が失地を回復する形でタイ王国とフランスの間で東京条約が締結される。
日米交渉の本格化
1941年、駐米大使野村吉三郎の下に陸軍省軍事課長であった岩畔豪雄が渡米、民間人井川忠雄らと共に、アメリカ国務長官コーデル・ハルを交えて秘密交渉による日米関係改善が模索された。日米の軍人と民間人によって策定された「日米諒解案」では、日本軍の中国撤退、アメリカは満州国を承認する、汪兆銘政権を中国政府として認定する、ホノルルにおける日米首脳会談実現などが示唆されていたが、ハルはその内容があまりにも日本に有利であることに反発。諒解案を基礎に交渉する前提として四原則(「全ての国家の領土保全と主権尊重」「他国に対する内政不干渉」「通商上の機会均等を含む平等原則」「平和的手段により変更される場合を除き太平洋の現状維持」)を日本が受け入れることを求めた。しかし野村大使は四原則を日本政府に伝達せず、日本側は諒解案だけをアメリカの公式提案と誤認してしまう。この日米の認識の齟齬が、その後の交渉を混乱させ、破綻に導く大きな要因となった[要出典]。6月22日に独ソが開戦すると、三国同盟の対米圧力が減少しアメリカはさらなる譲歩を求めるようになる。
開戦を決意(四回の御前会議)
- 7月2日御前会議
その後も日本政府は関係改善を目指してワシントンD.C.でアメリカと交渉を続けたが、日本軍は7月2日の御前会議における「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」[注 10](対ソ戦準備・南部仏印進駐)の決定に従い、7月7日からは満州での関東軍特種演習に向けて内地から兵員動員が開始される[41]。
- 南部仏印進駐
7月28日には日本がフランス領インドシナ南部への進駐を実施した(南部仏印進駐)が、イギリスとアメリカは事前に南部仏印進駐反対の意志を表明していたため、両政府内の対日感情は一挙に悪化した[42]。8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した。この制裁は1940年の日米通商航海条約の破棄から始まり、最初は航空用燃料の停止、北部仏印進駐に伴う鉄類の停止、そして陸軍と外務省による三国同盟締結に伴い、必要物資の3割を占めていたオランダ領東インド(蘭印)との交渉が決裂し、国内物資の困窮が強まっていった[注 11]。また、1940年から41年にかけて民間会社を通じ、必要物資の開拓を進めたがアメリカ政府の干渉によって契約までこぎ着けない上、仏印への進駐および満州増派に伴う制裁が実施され、物資の供給が完全に絶たれることとなった。当時の日本は事実上アメリカから物資を購入しながら大陸にあった日本の権益を蒋介石軍から守っていた。例えば日米開戦時の国内における石油の備蓄は民事・軍事を合わせても2年分しかなく、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあった。対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」と発言している。
- 9月6日御前会議
陸海軍は石油禁輸について全く想定しておらず[43]、オランダ領東インドとの日蘭会商も再開の見通しが立たなくなった。9月3日、日本では大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。近衛は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。
9月21日、英米ソにより第1回モスクワ会談が開かれた[44]。アメリカはソ連への援助を発言し、10月21日には「大量の軍備品を月末までにソ連に発送する」という旨の公式声明を発表した[44]。また、アメリカは「極東の安全は英米が守るのでソ連極東軍を西部のドイツ戦線に移動すべし」とも主張していた[44]。
戦争の決断を迫られた近衛は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月16日に近衛内閣は総辞職する。後継の東條内閣は18日に成立。
- 11月5日御前会議
11月1日の大本営政府連絡会議[注 12]では「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完(まつと)うし大東亜の新秩序を建設するため、此の際、英米蘭戦を決意し」「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」という内容の帝国国策遂行要領[45]が改めて決定した。その後11月5日御前会議[注 13]で承認された。以降、陸海軍は12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化させた。
11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍および支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。海軍は、11月26日に真珠湾攻撃部隊をハワイへ向けて出港させた。
- ハル・ノートの提示
11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意し、来栖三郎特命全権大使および野村大使の手によりコーデル・ハル国務長官に提示して交渉に当たった。11月26日朝、ハル国務長官は両案を拒否し、中国大陸・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む交渉案、いわゆるハル・ノートを来栖特命全権大使、野村大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。ここでいう中国大陸が満州を含むかどうかについても議論がある。
日本政府はこのハル・ノートを「最後通牒」として受け取り、開戦の決断を行うことになる。後の東京裁判の弁護人ベン・ブルース・ブレイクニーは「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルクのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう」と評しており、ラダ・ビノード・パールも後に引用している[46]。アメリカ海軍は同11月26日中にアジアの潜水艦部隊に対して、日米開戦の場合は非武装の商船でも無警告で攻撃してもよいとする無制限潜水艦作戦を発令した。ただしハル・ノートには「極秘、暫定かつ拘束力が無い」と明記されており、回答期限も設定されていない。アメリカ側がハル・ノート受諾に関する問い合わせをしたことはなく、その後も交渉継続を行う意志を見せている。
- 12月1日御前会議
日米交渉決裂の結果、東條内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。
宣戦布告と開戦
軍部が中心となって作成し1941年11月15日に大本営政府連絡会議が決定した、太平洋戦争全般にわたる基本方針となる日本の戦争計画書「対英米蘭蒋戦争 終末促進に関する腹案」では、「東南アジア南太平洋における米英蘭の根拠を覆滅し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域ならびに主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う」とし、戦争の終わらせ方については「独伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む」としていた。
開戦後の経過
- マレー作戦
最初に、日本陸軍が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、日本時間午前2時15分(現地時間午前1時30分)に上陸し、海岸線で英印軍と交戦し[47]、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。
- 真珠湾攻撃
続いて、日本海軍航空隊によるアメリカ領ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃(真珠湾攻撃)も、日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始された。
- 宣戦布告
12月8日午前7時のニュース(音声は後に再度収録されたもの)。臨時ニュースとは言っているが、毎朝7時の定時のニュースで、午前6時発表の大本営陸海軍部発表を1時間遅れて伝えた。 Ogg Vorbis | |
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日本時間12月8日月曜日午前4時20分(ワシントン時間12月7日午後2時20分)に、来栖三郎特命全権大使と野村吉三郎大使がコーデル・ハル国務長官に交渉打ち切りを通告する「対米覚書」を手交した。午前3時(ワシントン時間12月7日午後1時)に手交することが決まっていたが、真珠湾攻撃後の手交となった。日本時間12月8日午前7時半、日本はイギリスに対してロバート・クレーギー駐日大使を外務省に呼び、ワシントンでハル国務長官に手渡したのと同文の対米「覚書」の写しを手渡した。これもマレー半島攻撃開始後の手交となった上に、攻撃開始と手交の順がイギリスとアメリカが逆になった。同日に、オランダは日本に宣戦布告した[48]。
同12月8日、アメリカとイギリス2国に対して「開戦の詔勅」が発され、宣戦布告がなされた。
なお、すでにアメリカは暗号解読によって、日本による対米交渉打ち切り期限を3日前には予想し、対米覚書に関しても外務省より手渡される30分前には全文解読を済ませており、「真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカの謀略」とする真珠湾攻撃陰謀説もある。また、真珠湾攻撃前のハワイ時間12月7日午前6時40分に、領海侵犯した国籍不明の小型潜水艇(実際は日本海軍所属の特殊潜航艇)がアメリカ海軍所属の駆逐艦ワードに攻撃され撃沈される事件(ワード号事件)が発生していて、暗号電報の解読がなくても、アメリカは日本からの攻撃を察知することができたとする見解もある。第31代大統領だったハーバート・フーヴァーも太平洋戦争は対独参戦の口実を欲しがっていたルーズベルト大統領の願望だったと述べている[49])。
- 「大東亜戦争」の呼称の決定
12月10日の大本営政府連絡会議で支那事変と「対米英戦争」を合わせた呼称として「大東亜戦争」呼称が確認され[16]、12月12日の閣議決定で戦争名称は「大東亜戦争(英: Great East Asia War[16])」、戦時分界時期は昭和16年12月8日午前1時30分と決定した[1]。同日内閣情報局は、アジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指す「大東亜新秩序建設」を戦争目的とした[38]。
マレー作戦や真珠湾攻撃などにより、日本がイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国との間に開戦したことを受けて、12月10日に中華民国が日本に対し正式に宣戦布告した。12月11日にはドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、名実ともに世界大戦となった。
日本とアジアの高度人材の育成・国策「興亜工業大學」の設立
また、1941年(昭和16年)12月8日の開戦と同時に、大日本帝国政府主導で進められてきた国策・「興亜工業大學(現在の千葉工業大学)」の設立許可が出される。この大学は1941年7月頃から国策化され、大日本帝国政府によって、明治以来の東京帝国大学を頂点として成り立ってきた西欧起源の最高学府とは異なったコンセプト(西田哲学を根源とし、アジア文化圏が世界文化に貢献する為の拠点)とする初の国策の最高学府として計画され、1942年(昭和17年)5月15日に設立。同年6月8日に第1回入学式が挙行されている。なお、同大学の教育理念及び教育方針、大学の成立趣旨は東條英機首相の依頼を受けて大東亜共栄圏構想の原型となる「世界新秩序の原理(太平洋戦争における日本の参加意義と国家的指針などついての論文)」を執筆した西田幾多郎京都帝国大学名誉教授によって草稿されたものである。しかし、同大学の設立趣旨は西田の思想で書かれているが、肝心要の日本政府の国策要領は西田の思想と異なるもの(論文(世界新秩序の原理)が難解だったこともあり、東條英機に西田の共栄圏構想のビジョンが正しく理解されなかった)で、この為、西田は、後に和辻哲郎宛の手紙の中で「東条の演説(東條が唱えた共栄圏構想)には失望した。あれでは私の理念が少しも理解されていない」と嘆いていたという(西田は「最も誡めるべきは皇道の帝国主義化である」と書き記している)。西田の唱えたオリジナルの共栄圏構想では「日本が中心となってアジアを導く」というのではなく、それぞれの国の違い(個性や文化)を尊重しながら、国際協調をし、協力して文化圏を形成。隣国アジアの友と親しくしながら、共に手を携え、国際社会の善隣と協力をつくり上げ、世界平和を模索していく案となっており、西田はこの世界大戦(太平洋戦争)をきっかけにそれぞれの国家が世界史的使命を自覚する意味を説いた。同大学は西田幾多郎らが唱えた本当の意味の大東亜共栄圏実現を教育を通じて体現化する為の拠点として位置づけられており、西田らは国策の策定及び提言の過程で日本の敗戦と戦後復興のことも視野に入れた構想となっていたことが最近の研究で明らかにされている(出典)。
日本軍の攻勢
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1940年9月以降、仏印進駐を行っていた日本軍は、領土外には満州国、中国大陸東部、フランス領インドシナに兵力を展開していた。1941年12月8日に日本陸軍がタイ国境近くの英領マレー半島のコタバルと、中立国だったタイ南部のパタニとソンクラへの陸軍部隊の上陸(マレー作戦)と、同日行われた日本海軍によるハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃、フィリピンへの攻撃開始(フィリピンの戦い (1941-1942年)、イギリス領である香港への攻撃開始(香港の戦い)、12月10日のイギリス海軍東洋艦隊に対するマレー沖海戦などの連合国軍に対する戦いで、日本軍は大勝利を収めた。しかし、アジアの独立国で友好関係にあったタイの合意を得る前に日本軍が国境を越えて軍事侵攻した[注 14]ことに最高司令官(大元帥)である昭和天皇の怒りを買った。
なお、これらの作戦は、これに先立つ11月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の杉山元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。
日本陸軍によるイギリス領マレー半島への上陸は成功し、その後地上と海上の双方でイギリス軍に対する作戦を成功させマレー半島制圧へと進むこととなった。また日本海軍も、真珠湾を拠点とするアメリカ太平洋艦隊に対して戦艦8隻を撃沈破するなどの大戦果を挙げたものの、真珠湾攻撃においては第三次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦が真珠湾外に出ており、航空母艦(艦載機を含む)を1隻も破壊できなかったことが後の戦局に大きな影響を及ぼすことになる。
当時日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合国軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコやサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。
しかしそのような中で、フランクリン・D・ルーズベルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していた。また、アメリカ政府首脳陣および軍の首脳部においては、日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時その可能性が高いと分析されており、戦争開始直後、ルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた[注 15]。
この後日本海軍は、連合国軍の拠点となる当時イギリスの植民地だったマレー半島、同じくアメリカの植民地だったフィリピンなどにおいて、イギリス軍・アメリカ軍の連合国軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、日本陸軍も瞬く間にイギリス領であったシンガポールやマレー半島全域(シンガポールの戦い)、同じくイギリス領の香港、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの重要拠点を奪取した。中立国ポルトガルが植民地として統治しオーストラリア攻略の経由地となる可能性を持った東ティモールと、香港に隣接し、中国大陸への足がかりとなるマカオについては当初日本軍は中立国の植民地であることを理由に侵攻を行わなかった。しかし、オランダ軍とオーストラリア軍が中立担保のためとして東ティモールを保障占領したため、日本軍がオランダ領の西ティモールと同時に占領し、ポルトガル政府の黙認の下、マカオとともに事実上の統治下においた。
- タイ王国参戦
前年12月の日本と連合諸国との開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイは中立を宣言していたが、日本の圧力などにより12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで翌1942年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。
- 対蘭宣戦布告
1942年(昭和17年)1月に日本は対米英戦争と支那事変のみならず、対蘭戦、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含むと確認した[50][51]。同1月、日本が宣戦を保留していたオランダとも開戦。当時はイギリスおよびオランダの植民地であったボルネオ島(カリマンタン島)とジャワ島、オランダの植民地であったスマトラ島にも侵攻を開始した。
1942年の2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍の伊号第十七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカは本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。
日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、巡洋艦7隻を撃沈された連合国海軍に対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。その一方で山下奉文大将率いる日本陸軍がイギリス領マラヤに上陸し、2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールを陥落させる。さらに3月のバタビア沖海戦での圧勝も追い打ちとなり、敗北の相次ぐアジア地域の連合軍艦隊をほぼ壊滅させた。またジャワ島に上陸した日本軍は、疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した(蘭印作戦)。また、この頃の日本軍がアメリカの植民地であったフィリピンまで制圧したことで、太平洋方面の連合国軍総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月中にイギリス領ビルマの首都であるラングーンを占領(ビルマの戦い)し、日本は連戦連勝の破竹の勢いであった。
同月には、当時イギリスの植民地であったビルマ(現在のミャンマー)方面に展開する日本陸軍を後方協力する形で、航空母艦を中心とした海軍の機動艦隊が、進出したインド洋で空母搭載機によるイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍機動部隊へも攻撃を加え多数の艦艇を撃沈した(セイロン沖海戦)。こうして航空戦力に大打撃を受けたイギリスの東方艦隊は、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアのキリンディニ港まで撤退することになる。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三十潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ占領下のフランスへと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。
この頃イギリス軍は日本海軍の基地とされる危険性から、ヴィシー・フランス統治下にあったアフリカ東岸のマダガスカル島を、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、現地のヴィシー・フランス軍を援護する名目でイギリス海軍を追った日本海軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させるなどの戦果を挙げている。
第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。この阻止を目論む連合軍との間でソロモン諸島の戦い、ニューギニアの戦いが開始されると、この地域で足止めされた日本軍は、戦争資源を消耗していくことになる。
1942年5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦で大型空母レキシントンを失ったアメリカ軍に対し、日本軍も小型空母祥鳳を失い、翔鶴も損傷した。この結果、海路からのポートモレスビー攻略作戦を断念した日本軍は陸路からの作戦に切り替えたものの、山脈越えの難行軍により補給が途絶えてポートモレスビー攻略作戦は失敗する。
戦局の転換期
- ミッドウェー海戦
4月、日本海軍は、アメリカの海軍機動部隊を制圧するため、機動部隊主力を投入しミッドウェー島攻略を決定するが、その直後に空母ホーネットから発進したB-25による日本本土の空襲(ドーリットル空襲)に衝撃を受ける。6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と重巡洋艦「三隈」を喪失する事態に陥る。艦船の被害だけではなく多くの艦載機および搭乗員を失ったこの戦闘は太平洋戦争のターニングポイントとなった。ここで大本営海軍部は、ミッドウェー海戦における大敗の事実を隠蔽する(大本営発表)。
アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊十五型潜水艦伊号第二十五潜水艦の潜水艦搭載偵察機によりアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空爆し、森林火災を発生させるなどの被害を与えたが(アメリカ本土空襲)、アメリカ政府はこの事実を隠蔽した。この空襲は、2016年現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。また、これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。
- ガダルカナル島の戦い・ソロモン海戦
ミッドウェー海戦直後の7月に日本軍は最大勢力範囲に達したが、ミッドウェー海戦により日本軍の圧倒的優位にあった空母戦力は一時的に拮抗し、アメリカ海軍は日本海軍の予想より早く反攻作戦を開始することとなる。8月にアメリカ軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に海兵隊2万を上陸させ、日本海軍が建設し完成間近であった飛行場を占領した[28]。日本海軍は日本陸軍に対し同地奪回を懇願し、陸軍は地上部隊を派兵、これにより日本軍と米豪両軍の間で陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦では日本海軍の攻撃で、アメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。しかし、日本軍が輸送船を攻撃しなかったため、ガダルカナル島での戦況に大きな影響はなかったが、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い混乱し、島を巡る戦況は泥沼化する。
10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊の攻撃により、アメリカ海軍の大型空母ホーネットを撃沈、大型空母エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的にではあるが太平洋戦線における可稼動空母が皆無という危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗してしまったことと補給線が延びきったことにより、前線への投入ができず新たな攻勢に打って出ることができなかった。それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。
しかしその後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ軍はガダルカナル島周辺において航空優勢を獲得、日本軍の輸送船を撃破し、補給を妨害し、物資輸送を封じ込めた。ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。後に一部の司令部よりガダルカナル諸島は「餓島」と皮肉られた。
1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は最早絶望的となり、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米豪両軍に大きな損害が生じたが、国力に限界がある日本にとっては取り返しのつかない損害であった。これ以降、ソロモン諸島での戦闘は両軍拮抗したまま続く。
1943年4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将[注 16]が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(海軍甲事件)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1か月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。
1943年5月には前年の6月より日本軍が占領していたアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸。山崎保代大佐以下日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表において初めて「玉砕」という言葉が用いられた。また、ニューギニア島では日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍を中心とした連合軍との激しい戦いが続いていたが(ニューギニアの戦い)、8月頃より少しずつ日本軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきた。同年の暮れ頃には、日本軍にとって南太平洋戦線での最大基地であるラバウルは度重なる空襲を受け孤立化し始める。
連合軍の反攻
アメリカ統合参謀本部の作成した「日本撃滅戦略計画」では、「1、封鎖、特に東インド諸島地域の油田およびその他の戦略物資を運ぶ日本側補給路の切断 2、日本の諸都市への継続的な空襲 3、日本本土への上陸」によって日本を撃滅できると想定していた。開戦後に敗北を続けたものの、その後戦力を整えたアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍を中心とした連合国軍は、この年の後半から戦略計画に基づき反攻作戦を本格化させた。
- ウォッチタワー作戦
南西太平洋地域軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」に対して、海軍部は一歩ずつ制空権を確保しながらでなければ前進できないとし、1906年の対日戦争計画「オレンジ計画」をなぞろうとした。結局ニミッツ海軍大将の中部太平洋地域軍がマーシャル諸島からマリアナ諸島を経て、マッカーサー陸軍大将の南西太平洋地域軍がソロモン諸島、ニューギニアを経てフィリピンへと太平洋戦域を横断侵攻する「ウォッチタワー作戦(望楼作戦)」が1943年に主軸作戦として発動された。米陸軍主体の南西太平洋方面軍はニューギニア-レイテ島-ルソン島を北上し、米海軍主体の太平洋方面軍は中部太平洋から北上、日本本土と太平洋諸島の補給路(ラバウル-トラック-サイパン-東京)を遮断する戦略であった[28]。日本海軍はこれらの経路は予測していたが同時侵攻作戦をとるとは予想できなかった[28]。
1943年11月、ギルバート諸島のマキン島とタラワ島における戦いで日本軍守備隊が全滅(マキンの戦い・タラワの戦い)、同島がアメリカ軍に占領されることになる。
- 大東亜会議
同11月に日本の東條英機首相は、満州国やタイ、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、中華民国南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示した。この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北から完全に態勢を立て直し、圧倒的な戦力を持つに至ったアメリカ軍に加え、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく事実上一国で戦う上、開戦当初の相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍の力関係は一気に連合国有利へと傾いていった。
- ビルマ戦域
ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた(ビルマの戦い)。1944年3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、無謀な作戦により約3万人以上が餓死等で戦死、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。同作戦の失敗により翌年、アウン・サン将軍率いるビルマ軍は連合軍へ寝返り、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。
- 大陸打通作戦
5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。
- 絶対国防圏とマリアナ・パラオ諸島の戦い
連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設定した。
しかし、6月に絶対国防圏を維持するための最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲し、日本海軍機動部隊は空母9隻という日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃した(マリアナ沖海戦)。アメリカ側は新型レーダー、新型戦闘機F6F[28]、空母15隻を投入し、さらに日本の倍近い艦船を護衛につけた。航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊はアメリカ海軍の機動部隊に惨敗を喫した。旗艦大鳳以下空母3隻、艦載機395機を失った日本の空母機動部隊は実質的に壊滅した[28]。ただし戦艦部隊は無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成されることになる。
陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がマリアナ諸島に次々に上陸。1944年7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が全滅(サイパンの戦い)。8月にはテニアンの戦いによってテニアン島が、グアムの戦いによってグアム島が連合軍に占領された。アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を即座に改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより北海道を除く日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃可能圏内に入り、1945年までに約12,000個の機雷が投下され(関門海峡4990、周防灘666、若狭湾611、広島湾534、大阪湾380)、やがて国内海上輸送も麻痺した[28]。1944年11月24日以降、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったアメリカ陸軍航空軍のB-29が東京にある中島飛行機の武蔵野製作所を爆撃、本土への空爆が本格化し、翌1945年2月には日本石油横浜製油所、3月には清水の東亜燃料や東京の日本石油、5月には徳山の第3海軍燃料廠、大竹の興亜石油、岩国陸軍燃料廠製油所、宇部の帝国燃料工業人造石油工場などが、6月22日には四日市の第2海軍燃料廠が爆撃をうけ、国内の製油所が壊滅していった[28]。太平洋上の最重要地点であるサイパン島を失った影響は大きく、攻勢のための布石は完全に無力化した。
日本陸軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、大型気球に爆弾をつけて高高度に飛ばしアメリカ本土まで運ばせるという風船爆弾を開発し、実際にアメリカ本土へ向けて数千個を飛来させた。
各地で劣勢が伝えられる中、東條英機首相兼陸相に対する反発は強く、中野正剛などの政治家や陸海軍将校などを中心とした倒閣運動が行われた。それだけでなく、近衛文麿元首相の秘書官であった細川護貞の大戦後の証言によると、当時現役の海軍将校であった高松宮宣仁親王黙認の上での具体的な暗殺計画もあったといわれている。しかしその計画が実行に移されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り東條内閣が総辞職し、小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。
日本は前年末からの相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを喪失、兵器や物資の増産も捗らなかった。しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、車輌・航空機・艦艇への燃料供給すら困難な状況であった。
10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した(レイテ島の戦い)。日本海軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が発生した。日本海軍は空母瑞鶴を主力とする機動部隊を、米機動部隊をひきつけるための囮として使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)による、レイテ島への上陸部隊を乗せた敵輸送船隊の殲滅を期した。しかし、すでに作戦期日に3日の遅れが生じていたため、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この栗田艦隊の敵前逃亡について、指揮官であった栗田健男は戦後までも、口を噤んで解明をしていない。栗田を軍法会議に掛けることもしなかった。この海戦で日本海軍は空母4隻と武蔵以下主力戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅し、まだ多くの空母や戦艦が残存していたものの、組織的な作戦能力は喪失した。また、この戦いにおいて初めて特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。レイテ沖海戦に勝利したアメリカ軍は、大部隊をフィリピン本土へ上陸させ、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。
戦争末期
1944年8月グアム島をほぼ制圧し終えた頃、アメリカ太平洋艦隊司令部では9月にレイモンド・スプルーアンスの献策から、台湾攻略は海軍が全艦隊への補給能力の限界に達していることや日本本土への影響力行使の観点から意味がないと判断していた。このため次の攻撃目標は台湾ではなく海軍部内では沖縄とされ、1944年10月には沖縄で十・十空襲、台湾沖航空戦が展開した。フィリピン方面のレイテ島の戦い、ミンドロ島の戦いで勝利を収め、1945年1月にルソン島に上陸しルソン島の戦い、ミンダナオ島の戦い、ビサヤ諸島の戦い、マニラの戦いを経て、日本は南方の要衝であるフィリピンを失った。これにより、マレー半島やインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった[注 17]。
レイテ攻略により、ほぼ日本海軍の戦闘能力はなくなり台湾攻略の戦略的な価値は更に下がったが、政治的に国民的英雄となっていた米陸軍のマッカーサーは依然として台湾攻略を主張していたため、攻略方針について統合参謀本部で海軍と陸軍は対立してしまった。しかし、1944年6月の八幡空襲を皮切りにした「日本本土への継続的な爆撃」は中国大陸成都基地からの散発的な空爆に代わって、11月のグアム島やサイパン島・テニアン島の基地整備に伴うB-29爆撃機での日本本土への本格的な攻撃開始により、統合参謀長会議でヘンリー・アーノルド陸軍大将(硫黄島攻略提唱当時)が日本本土への戦略爆撃をより効果的にできるように硫黄島の攻略を唱えたために、ついに海軍側の主張する沖縄上陸とその前提の硫黄島攻略がアメリカ軍全体の基本戦略となった。
- 連合国の対日戦争終結への模索
ルーズベルト大統領は、日本を含む枢軸国に対して、事前に一切の条件交渉を認めない「無条件降伏」を求める構想を持っており、この方針は1943年のカサブランカ会談で確認されていた。
1944年10月14日、ルーズベルト大統領は日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してソ連による対日参戦を促した[52]。同12月14日にスターリンは武器の提供と樺太(サハリン)南部や千島列島の領有を要求[53]、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした[54]。翌1945年2月4日から11日にかけて、クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト・チャーチル・スターリンによるヤルタ会談が開かれた。会議では大戦後の国際秩序や、またソ連との日本の領土分割などについて秘密協定「極東密約」としてまとめられた[55]。
1945年4月にルーズベルトが急死すると、後継となったハリー・S・トルーマンは日本に対して降伏勧告を行う、事実上の「条件付き無条件降伏」案を模索するようになった。
- 硫黄島の戦い
沖縄上陸に先駆けて1945年2月19日から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。アメリカ海軍の強力な部隊に援護された米海兵隊と、島を要塞化した日本陸海軍守備隊との間で激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者を出した。最終的に日本は東京都の一部硫黄島を失い、アメリカ軍は硫黄島をB-29護衛のP-51戦闘機の基地、また日本本土への爆撃に際して損傷・故障したB-29の不時着地として整備することになる。この結果、北マリアナ諸島から飛び立ったB-29への戦闘機による迎撃は極めて困難となった。
1945年3月10日には東京大空襲が行われ、一夜にして10万人の命が失われた。それまでは高高度からの軍需工場を狙った精密爆撃が中心であったが、ヘイウッド・ハンセル准将からカーチス・ルメイ少将が第21爆撃集団司令官に就任すると、民間人の殺傷を第一目的とした無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。併せて連合軍による潜水艦攻撃や、機雷の敷設により制海権も失っていく中、東京、大阪、名古屋、神戸、静岡、など、日本全国の多くの地域が空襲にさらされることになる。室蘭や釜石では製鉄所を持ちながらも、迎撃用の航空機や大型艦の配備が皆無に等しいことを察知していたアメリカ軍は、艦砲射撃による対地攻撃を行う。また、日本本土近海の制海権を完全に手中に収めたアメリカ軍は、イギリス軍も加えて度々空母機動部隊を日本沿岸に派遣し、艦載機による各地への空襲や機銃掃射を行った。
迎撃する戦闘機も、熟練した操縦者も、度重なる敗北と空襲による生産低下で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま本土の制空権さえも喪失しかかっていた。日本軍は練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると特攻への対策を編み出していた米英軍に対し戦果は上がらなくなった。
この頃、満州国は日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたためにソ連の間とは戦闘状態にならず開戦以来平静が続いたが、1944年6月に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。1945年3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたものの、集結すると即座に日本軍に対しての攻撃を開始し、同時に他の勢力も一斉に蜂起しイギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を駆逐した。
- 終戦への迷走
5月8日にドイツが連合国に降伏し、イタリア社会共和国も消滅したことで、ついに日本は一国でイギリス、アメリカ、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙することになった。まだ日本との間に不可侵条約を結んだままであったソ連はドイツ敗北で日本侵攻を目指して兵力を極東へ移動させた。このような状況下で連合国との和平工作に努力する政党政治家も多かったが、敗北による責任を回避し続ける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて一億玉砕を唱えた。日本政府は中立条約を結んでいたソビエト連邦による和平仲介の可能性を探った。このような降伏の遅れは、その後の制空権喪失による本土空襲の激化や沖縄戦の激化、原子爆弾投下などを通じて、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも甚大な惨禍をもたらすことになった。
- 沖縄戦
連合軍は日本上陸の前提として沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島への上陸作戦を行う(沖縄戦)。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。日本軍の軍民を総動員した反撃により、連合軍側は予定よりやや遅れたものの6月23日までに戦域の大半を占領するに至り、いよいよ日本本土上陸を目指すことになる。
また、沖縄へ海上特攻隊として向かった戦艦大和以下は米海軍機動部隊の攻撃によって壊滅(坊ノ岬沖海戦)。一方で特攻兵器の「震洋」や回天・海龍などが生産され各地に基地が設営された。作戦用航空機も陸海軍機と併せると1万機以上の航空機が残存し[56]本土決戦用に特攻機とその支援機として温存され、一部を除いて防空戦には参加しなかった。
6月には日本海に米海軍潜水艦9隻が侵入(バーニー作戦)、7月14日には米海軍第38機動部隊(空母4隻、艦載機248機)は青函連絡船を攻撃し11隻が沈没し、北海道は孤立した[28]。同7月の国内石油在庫量は48万kLで、これは開戦直前備蓄量840万kLの5.7%にすぎず、ほぼ底をついた[28]。海軍艦艇は5月以降、機能を停止した[28]。
この頃には、日本軍は本土および本土近海にて制空権・制海権は喪失、日本近海に迫るようになった連合軍艦艇に対して基本的な操縦訓練を終えた搭乗員が操縦する特攻機による特攻が残された主な攻撃手段となり、連合軍艦艇に一定の被害を与えるなどしたものの日本軍の軍事的な敗北は明らかであった。この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦に合わせ、1945年11月1日に予定された米第6軍(兵力82万、車輌14万、航空機7000)を中心とした九州志布志湾への上陸作戦「オリンピック作戦」と、1946年3月1日には九十九里浜、相模湾からの上陸コロネット作戦が計画された[28]。
戦争状態の終結と講和
1945年7月26日に米英中の首脳の名において、日本に降伏を求めるポツダム宣言が発表されたが、日本政府はこれを「黙殺」した。アメリカのトルーマン大統領は、本土決戦による犠牲者を減らすためと、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制を目的として、史上初の原子爆弾の使用を決定(日本への原子爆弾投下)。8月6日8時15分に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日11時2分に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人に併せ、その後の放射線被害などで20万人以上の死亡者を出した。なお、日本軍は原爆の開発を試みたが基礎研究の域は出なかった(日本の原子爆弾開発)。
- ソ連対日参戦
その直後に、日ソ中立条約を結んでいたソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約ヤルタ協約を基に、1946年4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月8日に対日宣戦布告をし、日本の同盟国の満州国へ侵攻を開始した(ソ連対日参戦)。また、ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり大規模な抵抗ができないままに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。また、このソビエト参戦による満州、南樺太(樺太の戦い)、千島列島(占守島の戦い)などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された(シベリア抑留)。その後この約60万人はソビエト連邦によって過酷な環境で重労働をさせられ、10万人を超える死者を出した。
- 降伏
8月9日の御前会議において昭和天皇が「戦争指導については、先の(6月8日)で決定しているが、他面、戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速やかに具体的研究を遂げ、これを実現するよう努力せよ」と初めて戦争終結のことを口にした。しかし、日本軍部指導層、とりわけ戦闘能力を喪失した海軍と違って陸軍は降伏を回避しようとしたので議論は混乱した。しかし鈴木貫太郎首相が天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより、議論は収束した。8月14日、終戦の詔書が発されポツダム宣言を受諾(日本の降伏)することになった。
しかしその後も米軍による爆撃は続き、グアム島からの第315爆撃団B-29、134機が8月14日午後10時から8月15日午前3時まで日本石油秋田製油所まで爆弾12,000発を投下し、87名の従業員らが爆死した[28]。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の陸軍青年将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明に宮内省などを襲撃する事件を起こしたが(宮城事件)、これは陸軍自身によって鎮圧された。8月15日正午、昭和天皇の玉音放送が放送された。
8月16日、大本営は全軍隊に対して、戦闘行為を停止するよう命令を発した。この後鈴木貫太郎内閣は総辞職。玉音放送の後には、海軍において一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊したりして抵抗(厚木航空隊事件)した他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。
玉音放送。昭和天皇が大東亜戦争終結ノ詔書を読み上げるラジオ放送。昭和20年(1945年)8月15日正午放送 Ogg Vorbis (27KB) 4分40秒 | |
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翌日には連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かうなど、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。
日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した皇帝愛新覚羅溥儀ら満州国首脳は日本への逃命を図るも、侵攻してきたソ連軍によって身柄を拘束された。少しでも多くの日本領土の占領を画策していたスターリンの命令によりソ連軍は南樺太・千島列島・満州国への攻撃を継続し、8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃で撃沈破されている(三船殉難事件)。
8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には後に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになるアメリカ陸軍のマッカーサー大将も同基地に到着し、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。
9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席[注 18]の下、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より6年にわたって続いた第二次世界大戦は終結した。
しかし、ソ連軍は9月4日に歯舞諸島へ上陸した。また、沖縄や南洋諸島においては、局所的な戦闘が散発的に続けられた。海外の日本軍は降伏後に武装解除されるが、日本の南方軍が締結したラングーン協定に基づいて欧米諸国のアジア植民地支配のための治安維持活動を強いられ、元日本軍将兵に多くの犠牲者が出た。その後、多くは引き揚げるが、インドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争、国共内戦などに多数の元日本軍将兵(残留日本兵)が参加した。
海外在住の日系人
戦前から日本人移民が生粋の自国民の職を奪うとしてアメリカ、オーストラリア、カナダ、ペルー、ブラジルなどをはじめに移民排斥運動が行われていた。このことは、欧米と日本の信頼関係を低下させることに繋がると共に移民者は差別や偏見を受けていた[注 19]。太平洋戦争が始まるとアメリカやペルー、カナダをはじめとする南北アメリカの13カ国やオーストラリアなどの連合国は、日本人移民のみならず、それらの国の国籍を持つ日系の自国民までも「敵性市民」として財産を没収し、アメリカや自国内の強制収容所に強制収容させた[注 20]。アメリカの移民日本人1世はこの行為に対し憤慨し日章旗を掲げるなど遺憾の意を示した。その一方でアメリカ育ちの移民日本人2世の若者達の中には祖国への忠誠心を示すために志願、第442連隊戦闘団が組織され欧州戦線[58]の最前線に送られ活躍した。このことは2世が名実共にアメリカ人として認められた一方で1世と2世の激しい対立を生み出し禍根を残した。
太平洋戦争による被害
関与した各国における経済損失は莫大な規模と考えられるが、ここでは人的被害について記す。中華民国と、満州国および中華民国南京政府との分裂状態にあった中国大陸については民間人の死者数は記載せず、「その他」で記載[注 21][59]。
国名 | 参戦期間 | 主戦場 | 犠牲者数(戦闘員) | 犠牲者数(民間) | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
大日本帝国 | 1941-1945 | 太平洋、オセアニア、東アジア、東南アジア インド洋、インド | 1,740,955人 | 393,000人 | |
タイ王国 | 1942-1945 | インドシナ | 不明 | 不明 | |
満州国 | 1941-1945 | モンゴル、満洲 | 不明 | 不明 | |
中華民国南京政府 | 1941-1945 | 中国大陸 | 不明 | — | |
蒙古自治邦政府 | 1941-1945 | モンゴル、華北、満洲 | 不明 | 不明 | |
自由インド仮政府 | 1943-1945 | ビルマ、インド、インドシナ | 不明 | — | |
ビルマ独立義勇軍 | 1941-1942 | ビルマ、インド、インドシナ | 不明 | — | |
ドイツ | 1941-1945 | 太平洋、東南アジア、インド洋 | 不明 | 不明 |
国名 | 参戦期間 | 主戦場 | 犠牲者数(戦闘員) | 犠牲者数(民間) | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
アメリカ合衆国 | 1941-1945 | 太平洋 | 156,283人[60] | 不明 | |
大英帝国 | 1941-1945 | 東南アジア、インド、インドシナ | 86,838人 | 不明 | |
オランダ | 1941-1942 | インドネシア | 不明 | — | |
中華民国(重慶政府) | 1941-1945 | 中国大陸、ビルマ | 死傷者3,237,000人[61][62]もしくは戦死者1,319,000–4,000,000人[63][64]軍の死傷者合計3,211,000–10,000,000人[64][65] | 1700万人 | |
オーストラリア | 1941-1942 | ビルマ、インド、インドシナ | 19,189人[66] | 700人[67] | |
ニュージーランド | 1941-1942 | ビルマ、インド、インドシナ | 不明 | — | |
自由フランス | 1945- | インドシナ | 不明 | — | |
ソビエト連邦 | 1945.8.28- | モンゴル、満洲、樺太、千島列島 | 不明 | なし | |
蒙古人民共和国 | 1945- | モンゴル、満洲 | 不明 | なし |
加担勢力名 | 所属 | 地域 | 犠牲者数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
ニューギニア族民兵 | 両陣営 | ニューギニア | 不明 | 民兵 |
フィリピン人義勇軍 | 日本 | フィリピン | 不明 | |
比島ラウエル大統領付親衛隊 | 日本 | フィリピン | 不明 | |
フクバラハップ | 米英 | フィリピン | 不明 | フィリピン共産党系抗日ゲリラ |
郷土防衛義勇軍 | 日本 | インドネシア | 不明 | |
インド国民軍 | 日本 | インド | 不明 | |
マレー義勇隊 | 日本 | マレー半島 | 不明 | |
マレー義勇軍 | 日本 | マレー半島 | 不明 | |
越南青年先鋒隊 | 日本 | ベトナム | 不明 | |
ビルマ国民軍 | 日本→英米 | インドシナ | 不明 | |
抗日マラヤ人民軍 | 英米 | マレー半島 | 不明 | ゲリラ |
フォース136 | 英米 | マレー半島等 | 不明 | 華僑ゲリラ |
東南アジアボランティア軍 | 英米 | 中国大陸・東南アジア | 不明 | 華僑ゲリラ |
石家荘白系ロシア人義勇軍 | 日本 | 中国大陸 | 不明 | |
皇協維新軍 | 日本 | 中国大陸 | 不明 | |
中華民国臨時政府軍 | 日本 | 中国大陸 | 不明 | |
皇協新中華救国民軍 | 日本 | 中国大陸 | 不明 | |
満洲イスラム教徒騎兵団 | 日本 | 満洲 | 不明 | |
紅軍 | 米英 | 満洲・中国大陸等 | 死傷者584,267人[68] | 中国共産党系抗日ゲリラ |
大韓民国臨時政府 | 米英 | 満洲・中国大陸等 | 不明 | 朝鮮人ゲリラ |
戦災国名(地域) | 戦時中の人口 | 犠牲者数 | 備考 |
---|---|---|---|
中国大陸(民衆) | 4億人 | 推定約1700万人 | 両軍の戦闘の巻き添え、労務者としての徴発など |
朝鮮半島 | 2550万人 | 推定約20万人 | 従軍(志願および徴兵)、徴用中の戦病死 |
ベトナム | 1400万人 | 推定約200万人 | 強制供出による飢餓 |
インドネシア | 6150万人 | 推定約200万人 | 労務者としての徴発 |
フィリピン | 1630万人 | 推定約105万人 | 両軍の戦闘の巻き添え |
シンガポール | 561万人 | 推計約5000人 | |
マレーシア | |||
ビルマ | 1500万人 | 約5万人 | 泰緬鉄道の労務者・戦闘の巻き添え |
日本民間船員35,000 - 46,000(死亡率49%)[28]、30,592(100トン以上の鋼製商船乗組分)、60,609(総数)[69]。
戦後処理
戦争裁判
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1946年5月から1948年にかけて日本の戦争責任を追及する極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれ、戦前期日本の指導者らが連合国により戦犯として裁かれた。なお、昭和天皇は裁判を免れたほか、指導者であっても不起訴となった者もあった。また、フィリピンや中華民国などで「通例の戦争犯罪」(B級戦争犯罪)と「人道に対する罪」(C級戦争犯罪)を裁いたBC級戦犯裁判が行われた[70]。
占領政策と戦後処理問題
GHQは民主化政策を進めると共に、国力を削ぎ、日本が二度と脅威となる存在にならないよう、「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期基本的指令」[71]に沿って、大規模な国家改造を実施した。大日本帝国の国家体制(国体)を解体した上で、新たに連合国(特に、アメリカ合衆国)の庇護の下での国家体制(戦後体制)を確立するために、治安維持法の廃止や日本国憲法の制定を行った。また、内務省の廃止や財閥解体、農地改革など矢継ぎ早に民主化政策を実施した。並行して日本人の意識改革のため、言論が厳しく統制(プレスコードなど)されるとともに、教科書やラジオ(ラジオ放送「眞相はかうだ」等)などのメディアを通じ、情報誘導による民主化政策が実施された。江藤淳は、プレスコードを伴ったことを、GHQの政策を日本に戦犯者としての意識を植え付けるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムだと主張しているが[72]、秦郁彦は「果たしてそんな大それたものか」「江藤の論調は必然的に反米思想に行きつく」と否定している[73]。
1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約(1952年4月28日発効)により、GHQは廃止され、戦後処理は終了した。
ソビエト軍とアメリカ軍は朝鮮半島を分割占領し、朝鮮人自身の手による朝鮮人民共和国の建国を認めず、解体を命じて弾圧を行った。1948年8月13日の大韓民国独立、同年9月9日の朝鮮民主主義人民共和国独立をもって朝鮮民族は南北に分かれて独立したが、南北分離独立を認めない勢力もあり、済州島四・三事件などの大規模な死者を伴う蜂起や騒乱も起き、まもなく朝鮮戦争が勃発して南北分断が確定した。
日本人の引き揚げと復員
連合国に降伏を予告した1945年8月14日当時、中国大陸や東南アジア、太平洋の島々など、当時日本が統治または支配していた「外地」には軍人・軍属・民間人を合わせ660万の日本人(当時の日本の総人口の約9%)が取り残されていた。日本政府は外地の邦人受け入れのために準備をしたが、船舶や食糧、衣料品などが不足し用意することが困難だったため、連合軍(特にアメリカ軍)の援助を受けて進められた。しかし不十分な食糧事情による病気や、日本の支配から脱した現地住民による報復、当事国の方針によって引き揚げが難航した地域も多く、中国東北部(旧満州)では、やむを得ず幼児を中国人に託した親達も多かった(中国残留日本人)。ロシア国立軍事公文書館の資料によると、ソ連は満州や樺太などから日本軍将兵や民間人約76万人をソ連各地に強制連行し、約2000ヶ所の収容所などで強制労働を課した[74](シベリア抑留)[75]。
軍役者の復員業務と軍隊解体後の残務処理を所管させるため、1945年11月に陸軍省・海軍省を改組した第一復員省、第二復員省が設置された。民間人の引き揚げ業務については、厚生省が所管した[注 23]。
政府は1945年9月28日にまず、舞鶴[注 24]、横浜、浦賀、呉、仙崎、下関、門司、博多、佐世保、鹿児島を引き揚げ港として指定した。10月7日に朝鮮半島釜山からの引き揚げ第1船「雲仙丸」(陸軍の復員軍人)が舞鶴に入港したのをはじめに、その後は函館、名古屋、唐津、大竹、田辺などでも、引き揚げ者の受け入れが行われた。1946年からはNHKラジオで「尋ね人の時間」が放送された(1962年まで)
国籍 | 軍人 | 民間人 |
---|---|---|
旧ソ連領(シベリアなど) | 45万3787 | 1万9165 |
満州 | 4万1916 | 100万3609 |
北朝鮮(ソ連占領地) | 2万5391 | 29万7194 |
韓国(アメリカ占領地) | 18万1209 | 41万6110 |
琉球諸島(沖縄など) | 5万7364 | 1万2052 |
本土近隣諸島(硫黄島など) | 6万7000 | 2382 |
中国(香港を含む) | 106万9662 | 71万7009 |
台湾 | 15万7388 | 32万2156 |
フランス領インドネシア | 2万8710 | 3593 |
東南アジア | 65万5330 | 5万6177 |
オランダ領東インド | 1万4129 | 1464 |
オーストラリア | 13万398 | 8445 |
ニュージーランド | 391 | 406 |
太平洋諸島 | 10万3462 | 2万7506 |
ハワイ諸島 | 3349 | 310 |
戦争賠償と戦後補償
戦勝国に対する賠償と戦後関係
中華民国・中華人民共和国
日中戦争・太平洋戦争では中国大陸において中華民国軍と日本軍の間で激しい攻防戦が行われ、大量の犠牲者を出した。ただし日中間では認識の相違が存在している[77]。
太平洋戦争が終わると、中華民国を率いていた蒋介石の中国国民党と中国共産党の間で国共内戦が勃発した。1949年には中国共産党が勝利して中華人民共和国を中国大陸に樹立し、敗北した国民党は台湾に逃れた。1952年主権を回復した日本国政府は、中華民国を「中国を代表する政府」として承認し、直ちに賠償問題の討議を行ったが、中華民国は賠償を放棄した。その後1972年に中華人民共和国の周恩来首相と日本国の田中角栄首相が会談し、日本は中華人民共和国を「中国を代表する政府」として承認し、中華民国と断交した。この会談において中華人民共和国側は中華民国と同様に賠償問題を全面的に棚上げし、日中共同声明によって賠償放棄が宣言された。日本国が1979年から中華人民共和国に対し行ってきたODA総額は、2005年までに3兆円を超え[78]、近年まで年間1000億円の資金が中華人民共和国に援助されていた。
オランダ
オランダは、1942年の日本軍による東インド(蘭印)攻略によって、同地を長く植民地として支配し続けた蘭印軍66,219名(連合軍82,618名)が捕虜とされたほか、民間人9万人余が捕らえられ、彼らが東インド住民を懲罰するために設けた監獄に収容されるという屈辱を味わった。なおオランダ人兵士の一部は長崎の捕虜収容所に収容され、そこで被爆した。また、日本軍がオランダ人女性を強制連行し慰安婦にした白馬事件が起こった。
- 国家補償・元捕虜や民間人への見舞金の支払い・36億円/昭和31年(1956年・日蘭議定書)
- 個人補償・2億5500万円/平成13年(2001年・償い事業1)
終戦後オランダは、捕虜虐待などの真偽が不明瞭な容疑で、多くの日本軍人をBC級戦犯として処罰した(連合国中で最も多い226人の日本人を処刑)。戦後間もなくのオランダは、ドイツ軍の侵略によって社会が疲弊していた。さらにインドネシア独立戦争に敗北し最大の植民地だった東インドを失い、経済は打撃を受けた。このことから、インドネシア独立の要因を作った日本と、独立戦争の指導にあたった残留日本兵に対する評価も加わり、不信感が長らく残った。1971年に、太平洋戦争当時の日本軍大元帥であった昭和天皇が訪蘭した際には卵が投げつけられ、1986年にはベアトリクス女王の訪日計画がオランダ世論の反発を受けて中止された。その後1991年に来日した女王は講和条約と日蘭議定書で賠償問題が法的には国家間において解決されているにもかかわらず、宮中晩餐会で「日本のオランダ人捕虜問題は、お国ではあまり知られていない歴史の一章です」と賠償を要求した。それに対して日本政府は、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施した。2007年にはオランダ下院で日本に対し元慰安婦への謝罪と補償を求める決議がなされた。2008年に訪日したマキシム・フェルハーヘン外相は「法的には解決済みだが被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」と述べた。
なお、サンフランシスコ平和条約の締結時に、オランダの植民地であった東インドに対する日本の侵攻に対して「被害者」の立場をとり、賠償責任の枠を超えて日本に個人賠償を請求したオランダに対して、インドネシア政府は、「インドネシアに対しての植民地支配には何の反省もしていない」と批判した[79]。
戦災国に対する補償と戦後関係
日本は1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約により、日本は太平洋戦争に与えた被害について、日本経済が存立可能な範囲で国ごとに賠償をする責任を負った。この賠償(無償援助)は、各国の協力に基づく日本の復興なくしては実現しなかった。またこのことは同時に東南アジアへの経済進出への糸口となり、日本の成長を助長する転機となると共に殖民地支配をした国の中で唯一、植民地化された国に対し謝罪の意を示すこととなり、結果的にアジア諸国とのその後の外交関係に寄与することになった。
サンフランシスコ平和条約14条に基づき、賠償を求める国が日本へ賠償希望の意思を示し、交渉後に長期分割で賠償金を支給したり、無償(日本製品の提供や、技術・労働力などの経済協力)支援を行った。他にも貸付方式による有償援助もあった。
補償を求めた国家と補償額
国 | 条件 | 金額 | 年 |
---|---|---|---|
モンゴル人民共和国 | 無償 | 50億円 | 1972年 |
大韓民国 | 無償 | 1080億円 | 1965年 |
フィリピン | 賠償 | 1980億円 | 1956年 |
ベトナム | 賠償 | 140億円 | 1959年 |
ラオス | 無償 | 10億円 | 1959年 |
タイ | 無償 | 96億円 | 1962年 |
カンボジア | 無償 | 15億円 | 1959年 |
ビルマ(ミャンマー) | 賠償 | 720億円 | 1955年 |
マレーシア | 無償 | 29億円 | 1968年 |
シンガポール | 無償 | 29億円 | 1968年 |
インドネシア | 無償 | 803億円 | 1958年 |
ミクロネシア | 無償 | 18億円 | 1969年 |
領土返還と領土問題
戦後、沖縄、奄美群島、小笠原諸島、トカラ列島は日本本土から切り離されアメリカ統治下におかれた。講和条約後、小笠原諸島は1968年に、沖縄が1972年にアメリカ施設下から日本に復帰した一方で、ソビエト連邦が占領した北方領土は、2017年現在でも、北方領土をソ連から事実上受け継ぎ支配しているロシア連邦と日本国で意見が食い違い、政治問題として棚上げされ、解決していない(北方領土問題)。
戦後の世界への影響
この節の加筆が望まれています。 |
太平洋と欧州において繰り広げられた全世界規模の消耗戦は世界経済に大きな打撃を与えた。国際機構として国際連合が組織された。
- 日本は敗戦国であることに加え、飢饉も起こり、終戦直後は混乱を極めた[80]。戦後の日本は、徐々に経済と社会の復興を実現し、さらには高度経済成長を果たし、奇跡とも称された。しかし、太平洋戦争の評価については、日本国民の間でも定まっておらず、様々な論が並存している。
東南アジアにおいては、大戦による欧州諸国・日本の国力低下や、太平洋戦争による経験を通じ、独立運動が高まり、終戦直後より各地で独立戦争が勃発。大航海時代以来の欧米による植民地支配(帝国主義)が崩壊する転機となった。- ベトナムでは多くの日本軍将兵が現地に残留し、ベトナム独立戦争に参加し、クァンガイ陸軍士官学校などの教官やベトミン軍将兵としてフランス軍と戦いベトナム独立に貢献した。戦没者は靖国神社に祭られている。
- インドネシアではオランダ軍を放逐した日本は、オランダの圧政下で独立運動を行っていた住民に1945年9月の独立を約束していた。しかし1945年8月14日にポツダム宣言の調印が各国に予告されると8月17日スカルノは独立を宣言。オランダ軍はこれを認めずインドネシア独立戦争が勃発、オランダ軍は敗北し、オランダ領東インドは1949年にインドネシアとして独立した。独立戦争に残留日本兵もインドネシア軍将兵としてオランダ軍やイギリス軍と戦い、戦没した日本兵はカリバタ英雄墓地に祭られている。その後残留した日本人は日本とインドネシアとの架け橋となった[79]。
- 台湾では、空襲はあったものの地上戦がなかったため、他地域に比べ引き揚げが基隆港より比較的平和に行われた。が、その後当初日本統治に変わる歓迎した国共内戦に敗れた蒋介石国民党政府により二・二八事件から始まる戒厳令を布かれることにより統制の時期を迎えることになる。
- 朝鮮半島においては、日本の敗戦に伴い在留日本人の釜山港から引き揚げが始まる。アメリカの後ろ盾を受けた李承晩がアメリカ占領地域で大韓民国の成立を宣言すると、ソ連から戻った金日成はソ連占領地域で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の成立を宣言し、やがて北朝鮮軍の韓国への侵攻を発端とする朝鮮戦争が1950年より3年にわたって行われ、南北朝鮮の分裂は長期化することとなる。
- 中国では日本軍将兵が国共内戦に加わるなどして、中華民国政府(白団)や中国共産党軍(東北民主連軍航空学校)の近代化に貢献した。
- インドにおいては特にインパール作戦からなる日英の戦いはインドに独立の可能性を与え、1947年、ガンディーにより独立を果たす。なお東京裁判においてインド出身のパール判事は司法の基本原則である法の不遡及などの擁護のために日本の無罪を主張した。
- アメリカにおいては、日本に勝利した後に軍需産業の活発化が始まり、そのまま国共内戦の激化、冷戦による朝鮮、ベトナムでの赤化の抑えと超大国へと変貌していく。
- かつて宗主国だった西欧諸国においては、日本の降伏後に再びアジアの植民支配を続けようとしたものの、かつてない現地住民の猛烈な抗議・独立運動に遭い、アジアの植民地をことごとく失う(アジア諸国の独立)結果となった。そのため欧米の歴史認識でも、第二次世界大戦を境に脱植民地化の動きが加速した[81]との総括がなされている。
戦争の評価
日本における評価
太平洋戦争の原因と評価については様々な見解と評価がある。
- 欧米の帝国主義者と同じくアジア征服を企んだとする見方、
ABCD包囲網やハル・ノートなどによって日本が追いつめられた結果の自衛戦争であったという見方、- 自衛戦争と侵略戦争の両面を持つとする見方、
- アジアを欧米の植民地から解放したとする見方、
- 米国は日本に石油・物資を販売しながら蒋介石の中国国民党へも強力な援助を継続しており、日中共に米国と対立して戦争継続は最初から困難であった。米国は日中に対して決定的な影響力を開戦前から持っているため、太平洋戦争は米国の日本・中国双方の弱体化策であるとの見方。
- ルーズベルト米国大統領による策略(陰謀)とする見方[82]。
日本陸海軍の戦闘の反省としては、シーレーン確保、補給、護衛という観念が不足、戦闘艦中心主義であったとする見方がある[28]。
欧米における評価
欧米においても、この戦争については様々な見解が存在する。著名なSF作家であり歴史研究家でもあったH・G・ウエルズは、日本は帝国主義の伝統をもち、中国への最も主要な侵略国としている。そして、アジアにおける反ヨーロッパ思想の中心として日本を位置づけ、ナチスの陰謀よりも深刻で明白、かつ遠大と論じた[83]。歴史家アーノルド・J・トインビーは、太平洋問題調査会で来日した際の公開講演において、日本がカルタゴの運命の轍を踏まないようにと説いた[84]。戦後は、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年の間信じられてきたような不敗の神ではないことを西洋人以外の人種に明らかにしたと述べた[85]。そして、日清戦争から太平洋戦争までの日本は軍国主義と国家主義を主軸にしていたと指摘し、日本国憲法第9条を歴史的挑戦への英断として評価した[84]。歴史家クリストファー・ソーンは、日本はナチス・ドイツとファシスト・イタリアの侵略に加担する一方で、アジアにおけるヨーロッパ植民地の終焉を早める契機にもなったとしている[86]。
日本への原子爆弾投下の正当性の問題については、ジョン・ロールズをはじめ、その正当性が議論されている。正当性が問われる理由の根拠として、人口希薄地帯に原子爆弾を投下し、威力を理解させ降伏を迫れば日本は受け入れる以外の選択はほとんどなかった可能性が高いことが挙げられる。
ヴェノナ文書の公開以降、ルーズベルト政権はソビエト連邦や中国共産党と通じていたのではないかという説も出されている。また、日米戦争を引き起こしたのはルーズベルト政権内部にいたソ連のスパイだったという説もある[87]。
アジアにおける評価
- 東南アジア
太平洋戦争において欧米諸国の過酷な植民地統治より大日本帝国に解放されたベトナム、フィリピン、マレーシア、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)や、末期まで日本の同盟国となっていたタイ王国などの東南アジアの歴史学者の多くは、太平洋戦争とそれに続くアジア各地の独立戦争を一連の流れとして考えており、欧米の戦勝国が日本の戦争責任を追及することについて、「欧米によるアジア植民地の歴史を歪曲することだ」と断じている[79]。これは、当時のアジアにおいて大日本帝国とタイ王国の2カ国以外のすべてのアジア地域はヨーロッパやアメリカの植民地もしくは隷属地であったため、(1) 太平洋戦争がこれらの地域の植民地支配からの解放に大きく寄与したとして肯定的に評価しているケース、(2) 欧米に奴隷扱いされていたアジアの人々に、教育や政府機関、軍事力を整えたことを肯定しているケース、(3) 戦後、再びアジアを植民地化しようと再上陸してきたヨーロッパ宗主国(特にイギリス、フランス、オランダ)に対して、旧日本軍の残党と共に戦ったことを好意的に評価しているケース、(4) 日本軍の後盾で政権についた政治家(例:ベトナムのバオ・ダイ)の都合で親日的姿勢をとったケースなど様々である。
- インドネシア
インドネシアでは太平洋戦争終戦後、すぐにオランダとの独立戦争(インドネシア独立戦争)となったが、独立には残留日本兵も関与したこともあり、日本軍は独立の英雄としてたたえられた[79]。他方、日本軍による強制労働により、多くのインドネシアの若者が犠牲になった。戦後の賠償交渉では、インドネシア政府は労務者の総動員数を400万人と主張している[88]。
- マレーシア
多民族で構成されるマレーシアでは[注 25]、太平洋戦争についての見解は多様である。否定的評価としては、1988年版の歴史教科書の「日本は、マレー人の解放獲得への期待を裏切った。日本人はマラヤを、まるで自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座を奪ったのだ。日本人の支配はイギリスよりずっとひどかった」というものがあり、日本軍による食糧の独占や経済政策の失敗によるインフレーションの悪影響についても記述されている[89]。肯定的評価としては、日本による統治が、イギリス・フランス・オランダなどのヨーロッパ諸国によるアジア植民地支配を駆逐し、アジア人自身を覚醒させたとして評価するものがある[90]。とくにマレー人の間では、イギリスによる長い植民地統治による愚民化政策と西洋文明の浸透(文化侵略)などによって、独自のアイデンティティーを喪失したという論調が強いとされる。戦争当時、マレー人は英国人と比べて極めて低い権利しか与えられず、いわゆる奴隷であった。当時のマレー系住民は自らを支配する存在である「白人」が無敵で、絶対的な存在[注 26]だと信じていた。しかし、英国東洋艦隊が同じ東洋人である日本人によって撃滅されたことや、イギリス帝国絶対不敗神話の象徴だったシンガポールが陥落したこと、イギリス軍が焦土作戦のため、徹底的に破壊した発電所や工場などの都市設備を日本人がいとも簡単に短期間のうちに復旧させてみせたことなどを目の当たりにし、大きな衝撃を受けた。この出来事は長い間、支配に甘んじてきたマレー系住民の意識を変える転機となり、独立心を芽生えさせた[90]。
ほか、植民地統治の過程で流入した華僑や印僑などの異民族との抗争を経験をしたことから、ヨーロッパ各国が行った行為に対する批判が強く、ヨーロッパ(特にイギリス・フランス・オランダ)のメディアが日本軍による戦争を批判することに対しては、ヨーロッパ各国が行った植民地支配の歴史を歪曲しようとしているとして批判的な立場をとっている。チャンドラ・ムザファーは「欧州は、日本とアジアを分断するために、日本批判を繰り返しているのではないか」と発言したり、マハティール・ビン・モハマド首相は「もしも過去のことを問題にするなら、マレーシアはイギリスやオランダやポルトガルと話をすることが出来ない。…我々は彼らと戦争をしたことがあるからだ。もちろん、そういう出来事が過去にあったことを忘れたわけではないが、今は現在に基づいて関係を築いていくべきだ。マレーシアは、日本に謝罪を求めたりはしない。謝罪するよりも、もっと社会と市場を開放してもらいたいのだ。」と発言しており、ほかルックイースト政策などでも窺える。
他方、大戦中は、民族系統に問わず日本軍に協力した者や抗日活動に身を投じた者もおり、このうち抗日運動に身を投じたのは華人系の住民が圧倒的に多く、これは日中戦争が影響している。マラヤの華僑は故国のため、国民党政府軍に物心両面の援助を惜しまなかった。中国大陸に渡り抗日軍に身を投じたり、中国国民党組織に向けて情報提供する者、抗日救国運動に力を注ぐ人々もいた。華人系マレー人のオン・カティン住宅・地方自治相は、小泉純一郎首相が2001年8月13日に靖国神社に参拝した時、「私は、この歴史教科書と首相の靖国神社参拝への抗議の意思を表明する先頭に立ちたい」「侵略戦争を正しい戦争と教えることは、次の世代を誤って導くことになる」[91]と述べている。
- 台湾(中華民国)
当時は日本統治下であった台湾島では戦時中、アメリカ軍やイギリス軍による空襲や機銃掃射などはあったが、地上戦は行われなかった。また、台湾自体が兵站基地であったため、食糧など物資の欠乏もそれほど深刻ではなかった。また戦後の国共内戦で敗北し、台湾に移ってきた中国国民党の強権統治に対する批判により、相対的に日本の統治政策を評価する人もいる。
戦時には台湾でも徴兵制や志願兵制度などによる動員が行われ、多くの台湾人が戦地へと赴いた。これについての評価も分かれている。当時は日本国民であったのだから当然のことではあるが、不当な強制連行であったと批判する人もいる。「当時は日本国民であったのに死後靖国神社に祀られないのは差別である」と批判をする人もいれば、その反対に「靖国神社への合祀は宗教的人格権の侵害である」として日本政府を提訴している人もいる。また、戦後、軍人恩給の支給などについて日本人の軍人軍属と(講和条約により日本政府が台湾の統治権を放棄したことで別国家の扱いになったため)区別して取り扱いがなされたことに対する批判もある。現在台湾では、太平洋戦争・その前段階の日本統治時代についてどう評価するかについては政治的な論点の一つとなっている。
- 中華人民共和国
中華人民共和国(1949年以後の中国共産党政権)は当時存在していなかった国家であるものの、国共内戦の結果中国大陸の統治を中華民国から引き継いだこともあり、官民ともに日本の責任を厳しく問う意見が強い。日本軍による占領政策への否定的評価としては、徴用に伴う虐待や徴発・軍票体制による旧経済の混乱、農産品市場の脆弱さに伴う飢餓の発生などが論点として挙げられる。また「満州帝国は日本の傀儡国家であった」として、官民ともにこれを批判するものが殆どである。
- 朝鮮半島
当時日本の統治下にあった朝鮮半島(その後韓国、北朝鮮として独立)では、官民ともに日本の責任を厳しく問う意見が強い。戦時には朝鮮半島でも徴兵制や志願兵制度などによる動員が行われ、日本や台湾の日本人同様に多くの朝鮮人が戦地へと赴いた。日本による戦時政策への否定的評価としては、戦前から続いた日本化教育の実施や、徴用や徴発による経済の混乱などが論点として挙げられるほか、歴史的事実とは異なる創作による日本批判も盛んにおこなわれている。肯定的な評価としては、戦前から続いていた日本軍における教育や訓練が、有能で才能ある現地人の発掘に繋がり独立後の軍民の中核を担う人材となっていったこと、また戦前から行われていたインフラストラクチャーや教育の充実などがあげられる。
慰霊施設
- 靖国神社
- 千鳥ケ淵戦没者墓苑
- 太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔
- 原爆死没者慰霊碑
日本人墓地(海外)
注釈
^ 伝統的な戦時国際法において休戦協定の合意は口頭による同意によれば良く文書の手交を要件としない。このため日本では伝統的に8月15日を終戦の日としている。一方でアメリカは日本の降伏が報道された8月14日にトルーマンがポツダム宣言受諾を紹介した上で対日戦勝記念日を日本が降伏文書を正式に署名する日とすると発言し、9月2日に対日戦勝記念日を宣言している。なお、ポツダム宣言の受諾を各国政府に通知した日は8月14日、玉音放送が8月15日、日本全軍に対する停戦指令を発したのが8月16日。また、この日付は日中戦争を含んでいない。
^ この質問を行った鈴木宗男衆議院議員は、その後の質問では「太平洋戦争」という用語を使用している(太平洋戦争中の中華民国国民政府の性格に関する質問主意書(第166通常国会質問第219号、2007年5月10日提出)。
^ 日本の内面指導により、公式な宣戦布告はせず。終末期に連合国の攻撃を受けたため、事実上の交戦国として扱われた。
^ 事実上のドイツ協力政権。マダガスカルの戦いで日本軍と一部軍事協力。
^ 仏印進駐後の日本による占領下では日本軍と協力。ただし進駐開始時および、日本軍の実権掌握(明号作戦)では若干の交戦が発生している。
^ 日本は設立を支援したが、正式な政府としての承認は最後まで行わなかった。
^ モンゴルは当時ソ連以外に国家承認されておらず、連合国扱いは受けていない
^ 連合国は政府としての承認を行わなかった
^ 「世界は今や歴史的一大転機に際会」しているとの認識に立ち、「八紘一宇」のために「大東亜新秩序の建設」を目指し「国内体制の刷新」を行い、「強力な新政治体制の確立」を国策として決定した。(遠山茂樹、今井清一、藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 岩波新書(青版)355 1959年 179ページ)
^ もし、日米交渉が失敗し戦争を行うことになった場合、南部仏印が連合国軍によって占領されると南方進出およびビルマルートの遮断が困難になると予想されたことから南部にも進駐の必要性指摘。
^ 特に航空用燃料の欠乏が激しく、アメリカによる働きによって蘭印交渉でも航空燃料は要求量の1/4しか確保できず、決裂の原因となった
^ 大本営と政府との間の開かれる会合で、重要国策に際して、国務と統帥の統合・調整を図るために創られた。出席者は、参謀総長、軍令部総長、首相、陸相、海相、外相など。最初の開催は1937年(昭和12年)11月。開戦に至る過程で重要国策決定の機関として政治的比重が増した。吉田裕、2007, pp.37-38
^ 「開戦という日本の国家意思が最終的に確定した。」吉田裕、2007, pp.49
^ 米英に開戦の情報が漏れるのを防ぐため、開戦日の直前に、タイ政府に直接開戦の趣旨を伝え、日本軍の英領ビルマ・マレーシア侵攻作戦のためにタイ領内の通過する許可を得ようと手はずを整えていたが、開戦の空気を感じ取ったピブン首相は、日本に同調していると思われ、英国の恨みを買わないよう配慮し、開戦の数日前から身柄を隠していたため同意を得ることができなかった。作戦決行日が数時間過ぎ、マレー上陸作戦が実行する中で、痺れをきたした南方軍は作戦に推移に支障をきたすとの理由から仏印を越えてタイ領内に侵攻した。この間、在泰邦人が殺害される事件が起きたり、南部では侵攻する日本軍とタイ軍の間で小規模な衝突も発生、11日に同首相が日本交渉団の前に現れ、日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定への同意したことから日泰の緊張は収束した。
^ なお、真珠湾攻撃後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局にたびたび報告されていた。
^ 戦死後元帥海軍大将となる。
^ 日本軍は、1940年のドイツによるフランス占領より、親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定を基にフランス領インドシナに進駐し続けていたが、前年の連合軍によるフランス解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、進駐していた日本軍は3月9日に明号作戦を発動してフランス植民地政府および駐留フランス軍を武力によって解体し、インドシナを独立させた。なお、この頃においてもインドシナに駐留する日本軍は戦闘状態に置かれることが少なかったため、かなりの戦力を維持していたために連合国軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のために目立った戦闘行為を行わなかった。
^ 8月8日に参戦したばかりのソビエト連邦の代表団も戦勝国の一員として臨席した。
^ 当時は白人至上主義絶世期だったため、日本人のみに限らず、有色人種に対する差別や偏見も激しかった。
^ この際同じように敵国だったドイツ系の住民やイタリア系の住民は収容所に送られることが無かったことから人種差別だとする意見も存在する。
^ 南アジア、日中戦争(中国戦線)も含む。
^ 上記の武装勢力とは区別。なお、国名については当時の国家名を記載。国家的な概念がない地域の場合は現在の国名で記載[59]。
^ 後に第一、第二復員省は、復員庁となった後、厚生省所管の第一復員局、首相所管の第二復員局を経て共に引揚援護局に改組され、現在は一括して厚生労働省の所管となり、主に同省社会援護局が戦病者や戦没者遺族への年金、遺骨収集、中国残留邦人の帰国などを取り扱っている。
^ 舞鶴は1949年(昭和25年)以降は唯一の引き揚げ港となった。
^ 日本軍がマレー半島に侵入した時、マレーシアはイギリスの植民地下にあり、マラッカ王国以来のマレー人、外来の華人系住民・インド系住民、その他に日本人、イギリス人などが居住していた。現在、マレーシア人はマレー系が約65%、華人系が約25%、インド系が約7%を占める。
^ 現在でも東南アジアのカフェでは白人客のことをマスターと呼ぶ名残がみられる。
出典
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家永三郎 『太平洋戦争』(岩波書店、1968年)、のち岩波現代文庫
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コーデル・ハル 『ハル回顧録』中公文庫(新版2014年)
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長谷川毅 『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』中公文庫(上・下)、2011年
中村粲 『大東亜戦争への道』 展転社 1990年12月、ISBN 4886560628
- 大杉一雄 『日米開戦への道』講談社学術文庫(上・下)、2008年
ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー、アーサー・ウォルドロン 『平和はいかに失われたか―大戦前の米中日関係もう一つの選択肢』原書房、1997年- 『失敗の本質』ダイヤモンド社、1984年、中公文庫、1991年
三田村武夫 『大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義』自由社(新版)、1987年
江藤淳 『閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』文藝春秋、1989年、文春文庫、1994年- 前田徹、佐々木類、スコット・スチュアート 『ルーズベルト秘録』産經新聞社、2000年、のち扶桑社文庫
- 佐治芳彦 『太平洋戦争の謎 魔性の歴史=日米対決の真相に迫る』文芸社 2001年 ISBN 4-537-25080-1
- 渡辺正俊 『マレーシア人の太平洋戦争-この戦争は彼らにとって何であったか-』東京図書出版会、2003年
斎藤充功 『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか』新潮新書 2004年 ISBN 4-106-10076-2
佐藤卓己 『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』筑摩書房〈ちくま新書〉 2005年 ISBN 4-480-06244-0
- 岩間敏 『戦争と石油(1)太平洋戦争編』JOGMEC「石油天然ガスレビュー」2006年
- 岩間敏 『戦争と石油(2)太平洋戦争編』JOGMEC「石油天然ガスレビュー」2006年3月
- 岩間敏 『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』朝日新書、2007年
- ジェームズ・B. ウッド 『太平洋戦争は無謀な戦争だったのか』ワック 2009年
- 原著Japanese Military Strategy in the Pacific War: Was Defeat Inevitable? :Rowman & Littlefield Pub Inc., 2007
- 庄治潤一郎「日本における戦争呼称に関する問題の一考察」、『防衛研究所紀要』13(3)、防衛研究所、2011年、 13-19頁。
秦郁彦 『なぜ日本は敗れたのか』洋泉社新書、2001年
渡辺惣樹 『日米衝突の根源』草思社 2011年- ヘレン・ミアーズ 『アメリカの鏡・日本』アイネックス、1995年、角川ソフィア文庫ほかで再刊
- 吉本貞昭 『世界が語る大東亜戦争と東京裁判』ハート出版 2012年
- 吉田裕 『シリーズ日本近現代史〈6〉アジア・太平洋戦争』 岩波新書、2007年。ISBN 978-4-00-431047-1。
関連作品
関連項目
- European theatre of World War II
- Pacific War campaigns
- 残留日本兵
- ダウンフォール作戦
- 太平洋戦争の年表
- 靖国神社
- 大詔を拝し奉りて
- 終戦日記
外部リンク
米国及英国ニ対スル宣戦ノ件・御署名原本・昭和十六年・詔書一二月八日 - 国立公文書館
大東亜戦争終結ニ関スル詔書・御署名原本・昭和二十年・詔書八月十四日 - 国立公文書館
A Date Which Will Live in Infamy - アメリカ国立公文書記録管理局 真珠湾攻撃の報告と対日宣戦布告を行う、ルーズベルト大統領の「恥辱の日演説」の原文と音声(英語)
- 『太平洋戦争による我国の被害総合報告書 昭和24.4』 アジア歴史資料センター Ref.C14020087100
子どもと学ぶ太平洋戦争 - 総務省
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