コロンバンガラ島沖海戦

































コロンバンガラ島沖海戦

USS St. Louis (CL-49) and other ships firing during the Battle of Kolombangara, 13 July 1943 (80-G-342767).jpg
砲戦中のセントルイスとリアンダー

戦争:太平洋戦争 / 大東亜戦争

年月日:1943年7月12日-13日

場所:ソロモン諸島、コロンバンガラ島北東沖

結果:日本の勝利。輸送作戦も成功
交戦勢力

大日本帝国の旗 大日本帝国

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
 ニュージーランド
指導者・指揮官

伊崎俊二少将 

ヴォールデン・L・エインスワース少将
戦力
軽巡洋艦1
駆逐艦5
軽巡洋艦3
駆逐艦10
損害
軽巡洋艦1沈没
駆逐艦1沈没
軽巡洋艦3大破
駆逐艦2大破

ソロモン諸島の戦い



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コロンバンガラ島沖海戦(コロンバンガラとうおきかいせん)は、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1943年7月12日にソロモン諸島コロンバンガラ島沖で発生した海戦のこと。日本海軍のコロンバンガラ島への輸送部隊とアメリカ海軍、ニュージーランド海軍が交戦し、日本軍は軽巡洋艦1隻が沈没、アメリカ軍は駆逐艦1隻が沈没し、軽巡洋艦3隻が大破した。アメリカ軍およびニュージーランド軍側の呼称はコロンバンガラ海戦(Battle of Kolombangara)。なお、ここではコロンバンガラ島沖海戦前の7月9日に行われた輸送作戦、および海戦後の7月19日から20日にかけて行われた第七戦隊などの出撃と輸送作戦についても合わせて述べる。




目次






  • 1 背景


    • 1.1 1943年7月9日の輸送作戦参加艦艇


    • 1.2 作戦経過とその後




  • 2 参加艦艇


    • 2.1 日本海軍


    • 2.2 連合国軍




  • 3 戦闘経過


    • 3.1 第一合戦


    • 3.2 第二合戦


    • 3.3 損害




  • 4 海戦の後


    • 4.1 第七戦隊などの出撃と輸送作戦


    • 4.2 ニミッツの評と危機




  • 5 脚注


    • 5.1 注釈


    • 5.2 出典




  • 6 参考文献


  • 7 関連項目


  • 8 外部リンク





背景




1943年6月30日にアメリカ軍はレンドバ島に上陸し[1]、7月5日にはニュージョージア島へ上陸した。日本軍は航空攻撃と水雷戦隊(駆逐艦主力)で反撃を敢行した[2]


この状況で7月4日と7月5日に日本軍によるコロンバンガラ島への増援部隊の輸送が行われ、7月4日の輸送はヴォールデン・L・エインスワース少将率いる第36.1任務群と遭遇したため果たせず、7月5日の輸送では途中で再度第36.1任務群と遭遇してクラ湾夜戦が発生し、任務は果たしたものの物件全量の揚陸はならなかった[3]。また、秋月型駆逐艦の新月(外南洋部隊増援部隊/第三水雷戦隊旗艦)がクラ湾夜戦で沈没し[4]、秋山輝男少将以下第三水雷戦隊司令部も全滅した。後任司令官(増援部隊指揮官兼任)として7月7日付で伊集院松治大佐(当時、戦艦金剛艦長)が発令されて7月10日に着任するが[3]、伊集院大佐の到着までの間、重巡洋艦鳥海艦長有賀幸作大佐が臨時の増援部隊指揮官となった[5]。さらに、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将)と、その旗艦神通と駆逐艦清波、および最上型重巡洋艦2隻(熊野、鈴谷)から成る第七戦隊(司令官西村祥治少将)をラバウル方面に進出させて南東方面部隊に編入させ、それぞれに出撃準備を命じた[6]


ムンダ方面の戦闘は依然として厳しい状況であり、連合国軍の横腹を突くため陸軍はニュージョージア島へ一部の兵力を移すこととなった[7]。その兵力としてコロンバンガラ島に駐屯していた第十三連隊を転用する事とし[7]、転用に伴う後詰め兵力の輸送は7月9日夜に実施される事となった。同時に水上戦闘が生起することを想定して、ラバウル方面に所在の巡洋艦(重巡鳥海と軽巡川内)も引き連れる事とした。



1943年7月9日の輸送作戦参加艦艇



  • 主隊:重巡洋艦鳥海(外南洋部隊指揮官座乗)、軽巡洋艦川内[5]

  • 警戒隊:駆逐艦雪風、夕暮、谷風、浜風[5]

  • 輸送隊:駆逐艦皐月、三日月、松風、夕凪[5]


輸送隊は陸兵1,200名、物件85トンを搭載[5]



作戦経過とその後


7月9日17時、主隊と警戒隊、輸送隊はブインを出撃し、ベラ湾北方で輸送隊はビラに向かう[5]。なんら妨害を受けることなく輸送任務は成功した[5]。主隊と警戒隊はニュージョージア島のアメリカ軍に対して艦砲射撃を行った後、敵艦隊を捜索するが会敵せず、7月10日に三隊ともブインに帰投した[5]


輸送作戦の効果は「味方の航空支援などもあって効果てきめんであり、明るい材料が多い」と判断された[7]。しかし、第十三連隊をニュージョージア島に移したという事は、その分コロンバンガラ島の兵力が減少したという事につながる。第八方面軍(今村均中将)は更なる後詰め兵力として歩兵第四十五連隊中から第二大隊と砲兵一個中隊合計1,200名と物件約100トン[8]を送り込む事とし、その輸送作戦の指揮はラバウルに進出したばかりの伊崎少将に委ねられる事となった[5]


一方、クラ湾夜戦で軽巡洋艦へレナ (USS Helena, CL-50) を失った第36.1任務群は、その代役として輸送船団の護衛任務についていたニュージーランド海軍の軽巡洋艦リアンダー (HMNZS Leander) を引き抜いて巡洋艦群の二番艦とした[9]。また、駆逐艦も倍以上に増加させ、前衛と後衛の兵力を増強した。



参加艦艇



日本海軍


  • 第二水雷戦隊部隊(二水戦部隊[10]/警戒隊[11][12]


軽巡洋艦:神通

駆逐艦:清波、雪風、浜風、夕暮、三日月


  • 輸送隊[10]

駆逐艦:皐月、水無月、夕凪、松風

輸送隊は陸兵1,100名、物件約100トンを搭載[13]



連合国軍


  • 第36.1任務群[14]


前衛:駆逐艦ニコラス、オバノン、テイラー、ラドフォード、ジェンキンス

主隊:軽巡洋艦ホノルル(任務群旗艦)、リアンダー、セントルイス

後衛:駆逐艦ラルフ・タルボット、ブキャナン、グウィン、モーリー、ウッドワース



戦闘経過


7月12日3時30分、二水戦部隊はラバウルを出撃してブカ島北方を経由し、クラ湾に接近する[10][15]。輸送隊は18時40分にブインを出撃した[5]。これら日本艦隊の動きは沿岸監視員によって察知されており、リレー形式で連合国軍に通報された[16]。これを受け、南太平洋部隊(第3艦隊[17])司令官ウィリアム・ハルゼー大将は第36.1任務群に「東京急行」の阻止を命じる[16]


22時35分、第36.1任務群は先行する索敵機から日本警戒隊発見の報を受信。針路270度に変更し、速力28ノットで日本艦隊を攻撃に向かう[14][18]
エインスワース少将は当夜の戦法について、前回のクラ湾夜戦では「軽巡洋艦にレーダー射撃によって先制攻撃を行い、魚雷回避のため軽巡洋艦を退避させた後、駆逐艦に突撃させる」という戦法を採用していたが[19]、今回は駆逐艦の突撃と軽巡洋艦のレーダー射撃を入れ替え、前衛の駆逐艦による雷撃の後に軽巡洋艦がレーダー射撃を行い、一斉回頭を行ってから後衛の駆逐艦に突撃させるという戦法を採用した[20]。他にも夜間偵察機を引きつれており、着弾観測を兼ねさせていた[20]。第36.1任務群のネックは「リアンダー」の最大速力が28ノットしか出なかった事であり、エインスワース少将は部隊の統一速力を28ノットに定めた[21]


二水戦部隊の陣形は単縦陣で、三日月を先頭に立てて神通、雪風、浜風、清波、夕暮だった[14][22]
雪風に装備されたばかりの逆探に最初に敵のレーダー波の反応があったのは22時30分頃だった[23]。レーダー波が発せられた方向はスコールが発生していたため暗幕を降ろしたように暗く、見張り員の双眼鏡に敵の艦影は映らない。初の実戦となる逆探が確実に作動しているか疑問を残しながらも、電探室から刻々と報告される感度に従い艦隊を進ませた[24][25][26]
22時44分、第九三八航空隊の水上偵察機が4隻の敵艦が針路290度、速力20ノットで進んでいるのを発見し、神通に通報する[27]が、当時、偵察機からの通信は受信側への伝播時間と暗号解読により10分前後の差が生じるため、神通がこの通報を受信したのは22時57分で、既に米艦隊は増速し日本艦隊をレーダーで捕捉する寸前まで接近していた[27][28][29]
同22時57分、雪風の逆探は前方に第36.1任務群からレーダー波が発せられているのを探知していた[27][30][31][32]。日本艦隊は30ノットに増速、針路120度とし砲雷撃戦の用意をすると[27][33]、23時00分には輸送隊を南西へ分離し、身軽な警戒隊6隻で単縦陣を組んだ[34][35]


一方の米艦隊は23時59分にホノルルのレーダーが日本艦隊を探知し、エインスワース少将は前衛駆逐隊に魚雷攻撃、後衛駆逐隊に前方進出を命じた[27][36]。両艦隊は反航する形となり、相対速度60ノットで急接近した。
23時3分、日米艦隊は距離24kmでほぼ同時に敵の艦影を目視で確認。第36.1任務群はニコラスが二水戦部隊を発見し[27]、日本艦隊は敵前衛駆逐艦、次いで本隊の巡洋艦隊を発見。神通は砲雷撃戦を下令する[37]



第一合戦


23時8分、神通は旗艦として後続の駆逐艦の雷撃照準を助けるべく先頭に立ち、サーチライトによる照射射撃を敢行した。その5分後、二水戦部隊は神通が照射した目標に対して砲撃および雷撃を行った。しかし自艦の位置をさらけ出した神通は、第36.1任務群にとって絶好の目標だった。レーダー照準にて砲撃を集中させ、集中砲火を一身に受けた神通は大破炎上し、伊崎少将以下第二水雷戦隊の幕僚も戦死、舵故障のため列外に飛び出る形となった[27]。それでも神通は魚雷7本を発射した[38]。その後、23時22分には缶室に多数の命中弾があり、二番煙突後方に魚雷が命中して航行不能となる[38]。さらに23時48分、再度の魚雷命中により神通は大爆発を起こして船体が真っ二つになり、後部はすぐに沈没するも残った前部の1番砲塔は2時間以上も激しい砲撃を続けた[27][38]。神通の戦死者は482名を数え、わずかな生存者は2名がアメリカ海軍の高速輸送艦に救助されたとも[39]、21名が伊185に救助されたとも[40]言われている。神通は後に戦史研究家サミュエル・E・モリソンから「神通こそ太平洋戦争中、最も激しく戦った日本軍艦である」と賞賛された[39]。第36.1任務群の巡洋艦群は神通撃沈のために、ホノルルが1,110発、リアンダーが160発、セントルイスが1,360発の6インチ砲弾を消費した[38]


神通への砲撃集中は、他の駆逐艦への砲弾の洗礼がほぼなかったことを意味する[41]。当時雪風の水雷長だった斎藤一好元大尉は著書で雪風の後甲板に巡洋艦群からの不発主砲弾が命中したと証言しているが[42]、菅間艦長によれば命中弾はなく、後甲板に敵弾の破片が散っていたとある[43]。斎藤元大尉も雪風乗員らが纏めた手記では「弾着は後方に逸れて無事」、「砲弾の破片が後甲板に残っていた」と同じ証言をしている[44]。雪風の水雷科下士官によれば「(日本の)水雷戦隊は水柱で出来たサボテンの林の中を突進しているような状態で、探照灯をつけて集中砲撃を受ける神通が観測窓から見えた」という[45]。浜風、清波、夕暮は距離6,000メートルで、雪風は距離4,800メートルで右魚雷戦、魚雷を発射する[27][41]。魚雷31本を発射(雪風は故障で7本)後[42]、二水戦部隊は北方および西方に針路をとって魚雷の次発装填に取り掛かる。しかし旧式駆逐艦の三日月のみはそのまま戦場から離脱していった[41]。発射から約8分後の23時22分、リアンダーの右舷に魚雷1本が命中する[41]。閃光防止火薬の黒煙に包まれて立ち往生した刹那、もう1本の魚雷が左舷側ボイラー室に命中するも、これは不発であった[41]。それでもリアンダーは浸水のため戦闘不能となり、前衛の駆逐艦から護衛役に回されたラドフォードとジェンキンスに付き添われてツラギ島に下がっていった。リアンダーはツラギ島、オークランド、ボストンで修理を受けたが[41]、二度と戦場に戻る事はなかった。第36.1任務群は駆逐艦ニコラス、オバノン、テイラーを二水戦の駆逐艦の追撃に向かわせたが[46]、二水戦部隊は、この夜、付近の海域に発生していたスコールを利用して敵の追跡を振り切った[47]



第二合戦


23時36分、二水戦部隊(雪風、浜風、清波、夕暮)は魚雷の次発装填を終えて戦場に戻ってきた[27][48]。第36.1任務群も、リアンダー、ラドフォード、ジェンキンスを分離して陣形を立て直し、北方への追跡を開始したが、第一合戦の間に前衛の駆逐艦ニコラス、オバノン、テイラーの所在が不明となっていた[49]。23時56分、ホノルルのレーダーは右前方に複数の目標を探知する[27]。ところが、エインスワース少将にとっては、この目標が所在不明のままの味方の駆逐艦なのか敵の部隊なのか全く判断がつかなかった[49]。二水戦部隊は23時57分に第36.1任務群を発見すると、再びスコールを利用して距離6,500~7,400メートルの距離まで接近し、第36.1任務群が何も戦闘を起こさないうちに、7月13日0時5分に二度目の魚雷発射と砲撃を行う[27][50][51][52][53]。二水戦部隊の砲撃により、ようやく敵味方の区別がついたエインスワース少将は、右に針路をとって砲撃を開始する[49]。その時、二水戦部隊からの魚雷が第36.1任務群を襲い、セントルイスの艦首に1本が命中して艦首下部をもぎ取り、ホノルルの艦首と艦尾にもそれぞれ1本ずつ命中。艦尾に命中した魚雷は不発だったが[27]、艦首に命中した魚雷は爆発してホノルルの艦首は垂れ下がった。いまや第36.1任務群の陣形は乱れ、後衛にいたグウィンがホノルルの前方に出現していた[49]。0時14分、グウィンに魚雷が命中して大破炎上[27][49]。さらにブキャナンとウッドワースが衝突事故を起こして損傷した[49]。0時30分、二水戦部隊は戦場を離脱[54]。これを見たエインスワース少将は追撃を命じるが、その命令に従ったのはラルフ・タルボットだけだった[49]。二水戦部隊は5時15分、ブインに帰投した[54]。大破したグウィンは浸水が増大し、士官2名と乗員59名を道連れにして沈没していった[49]


輸送隊は海戦の間隙を縫って7月13日0時36分にコロンバンガラ島アリエル入江に到着し[27][11]、輸送物件全ての揚陸に成功の後、1時43分にコロンバンガラ島を離れる[11]。ブインへ帰投途中、皐月と水無月は神通の捜索に向かうが何も発見せず引き返した[11]輸送隊は11時40分にブインに帰投した[11]



損害


  • 日本海軍の損害


沈没:神通[55] 伊崎少将以下、第二水雷戦隊司令部全滅

小破:雪風[42] 上記の通り破損は誤認の可能性がある


  • アメリカ海軍の損害


沈没:グウィン

大破:ホノルル、セントルイス、リアンダー、ブキャナン、ウッドワース


雪風はアメリカ軍の巡洋艦3隻撃沈を主張したが、これは三つの火柱を確認した斉藤(雪風水雷長)が「酸素魚雷は1発で1隻を撃沈する」という先入観を持っていたからである[56]。外南洋部隊の判断は「乙巡(軽巡洋艦)一隻轟沈、一隻撃沈、二隻炎上(内一隻撃沈確実)」というものであった[54]。大本営も外南洋部隊の判断をおおむね追認して昭和天皇に奏上しており[57]、『巡洋艦4隻以上と交戦、2隻撃沈、1隻炎上、味方巡洋艦1隻大破、この戦いをコロンバンガラ島沖海戦と呼称す』という大本営発表を行った[58]。日本海軍は司令部が全滅した第二水雷戦隊再建のため7月19日付で第四水雷戦隊(司令官高間完少将)を解隊し、翌7月20日付で、その要員と兵力を転用し新しい第二水雷戦隊として再編成した[59]



海戦の後



第七戦隊などの出撃と輸送作戦


日本海軍は、クラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦の結果、ソロモン方面の連合国軍の残存水上兵力は「巡洋艦3隻、駆逐艦6隻」程度と判断した[60]。また、クラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦で巡洋艦を伴った連合国軍艦隊が出現した事を鑑み、南東方面部隊に増援させていた第七戦隊を活用して残存水上兵力を撃滅し、輸送作戦を安全に実施できるようにするという計画を立てた[60]。その前段階として、コロンバンガラ島への輸送物件を事前にブインに輸送することとなった。
7月16日夕刻、輸送物件を載せた駆逐艦初雪(第11駆逐隊)と望月(第30駆逐隊)はラバウルを出港し、翌17日朝にブインに到着。ただちに皐月と水無月へ物件の移送作業を進めるも空襲を受け、初雪が沈没、皐月と水無月(資料によっては夕凪)[61]が小破するという被害を受けた[62]。一方、第七戦隊は鳥海などとともに16日夜にラバウルを出撃していたものの、ブインへの空襲の報を受けて一旦退却した[63]。7月18日夜、以下のような顔ぶれで輸送作戦を再開する事になった[64]



  • 主隊:重巡洋艦:熊野〔第七戦隊旗艦〕、鈴谷、鳥海

  • 第三水雷戦隊:軽巡洋艦川内〔第三水雷戦隊旗艦〕:駆逐艦雪風、浜風、清波、夕暮

  • 輸送隊:駆逐艦三日月、水無月、松風


主隊および第三水雷戦隊は7月18日22時にラバウルを出撃し[65]、翌19日夕刻に輸送隊と合流した[66]。主隊と第三水雷戦隊はクラ湾北方で敵艦隊を捜索するも遭遇せず反転し[67]、輸送隊は23時40分にコロンバンガラ島の泊地に到着して7月20日0時35分までに揚陸作業を終えた[68]。しかし、艦隊は姿を見せなかったものの、一連の第七戦隊など行動は「ブラックキャット」の異名を持つ夜間哨戒仕様のアメリカ海軍のPBY「カタリナ」によって筒抜けとなっていた[69]。「ブラックキャット」機の報告によりガダルカナル島から夜間攻撃隊が出動し、引き揚げる第七戦隊と第三水雷戦隊を攻撃する[68]
夕暮が最初の攻撃で轟沈し[68]、次いで熊野にも魚雷が命中して舵故障等の被害を与えた[70]。清波は夕暮の救援のため反転するも[71]、2時30分以降消息が途絶えた[72]。輸送隊の水無月と松風も至近弾で損傷した[73]
アメリカ軍の損害について、雪風は対空砲火で4機を撃墜したと主張している[74]。残存艦艇は17時30分にラバウルに帰投した[75]。軍令部総長は昭和天皇に対し、この戦闘について以下のように報告している。


一一三〇、軍令部総長、戦況〔奏上〕。 ○昨夜の「コロンバンガラ」輸送は、予定通実施さる。敵機の攻撃ありしも、被害なし。掩護隊(7S及d数隻)クラ湾西方にて夕刻より敵機の触接を受け、今朝一時頃、爆雷撃を受く。「熊野」〔重巡洋艦〕魚雷一命中、舵故障、但し26kt〔ノット〕にて避退中。「夕暮」〔駆逐艦〕爆撃により艦体切断沈〔没〕、之が救援の「清波」〔同上〕消息不明となる。
午後、六月二四日GF行幸の記録映画、下見す(無声)。夜、天覧あらせらる。
— 昭和18年7月20日 火曜日、城英一郎著/野村実編『城英一郎日記』301-302頁

日本軍の輸送作戦自体は成功したものの、昼夜分かたぬ航空攻撃を避けるため、これ以降コロンバンガラ島への輸送作戦に使用するルートをベラ湾、ブラケット水道経由に切り替える事を余儀なくされた[69]


7月22日、水上機母艦「日進」が駆逐艦3隻(萩風、嵐、磯風)の護衛のもと、戦車などの輸送物資を載せてコロンバンガラ島へ向かったが、ショートランド近海で米軍機の空襲により撃沈された[76]




ニミッツの評と危機


太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は後年、クラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦におけるエインスワース少将の戦いぶりについて、以下のように評した。


エーンスワース提督は、二回の海戦において、適当な夜間隊形で接敵した。単縦陣の巡洋艦部隊を中央に、その前後に、それぞれ駆逐艦を配備していた。二回とも、エーンスワースの巡洋艦は日本艦隊に近迫し、五分間ほど、急射撃を浴びせ、次いで日本の魚雷を回避するため針路を反転した。これは、理論としては適当であったが、実施の面では二つの欠陥があった。第一に、レーダー手が、効果的な射撃の配分を示す代わりに、一番大きな艦または最も近い目標だけを選んだので、連合軍部隊は双方の海戦で兵力の点でははるかに優勢であったにもかかわらず、各回ともわずかに一隻 ―最初は駆逐艦、二回目は軽巡洋艦― を撃沈したにすぎなかった。第二に、エーンスワースが自分の肉眼で容易に目標を視認できるほど、日本艦隊に近寄りすぎ、しかも射撃開始の時機を失したため、日本軍は慎重に狙いを定め、魚雷を発射することができた。日本の魚雷は彼が針路を反転しているときに列線に到達した。したがって、各海戦において、彼の巡洋艦には転舵中に魚雷が命中し、米軽巡ヘレナは最初の夜戦で、ニュージーランド巡洋艦リアンダーは二回目の夜戦で、ともに行動不能になったのである。
— C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』170、171ページ

ただし、レーダーにより日本艦隊を発見した後、指揮下の艦艇に攻撃命令を出すまで18分の時間を要し、その間日本艦隊に発見と反撃の機会を与えたクラ湾夜戦においてはニミッツ提督の指摘通りエインスワース少将の指揮の遅さはあったが[77]、この夜戦では逆探によってアメリカ軍のレーダー射撃の危機を察知した日本艦隊が米艦隊を上回る速度で前進したため、アメリカ軍のレーダー探知の僅か4分後に互いを目視で確認できる距離まで急接近した点は状況が異なる。
またニミッツ元帥は、エインスワース少将が日本の駆逐艦に魚雷次発装填装置があることを知らず、無警戒だった点を指摘している[78]。巡洋艦を中央に置き、前後に駆逐艦を配置する陣形は1942年10月11日のサボ島沖海戦以来常用していたものである[79]。しかし、大乱戦となった1942年11月13日の第三次ソロモン海戦(巡洋艦の夜戦)はさておいて、コロンバンガラ島沖海戦で神通への止めを刺すための突撃をするまで、駆逐艦は海戦においてあまり活躍していなかった[78]。この点を踏まえ、ニミッツ元帥は評を以下のように締めくくっている。


要するに、アメリカ側は、この海戦において、戦術の面では、前年にくらべて大きな進歩を示したが、戦闘能力と敵戦闘力に対する認識の点では、依然として欠けるところがあった。
— C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』171ページ

いずれにせよ、第36.1任務群は中枢の巡洋艦が沈むか損傷などにより事実上戦力外となった。ソロモン方面のもう一つの有力なアメリカ海軍の水上部隊である第36.9任務群(アーロン・S・メリル少将)[80]は、7月12日未明にムンダを砲撃し[81]、7月15日に「ザ・スロット」と呼ばれたニュージョージア海峡を行動しているものの[82]日本艦隊と会敵する事はなく、ツラギ島を経て7月の中旬から下旬にかけてはエスピリトゥサント近海で行動していた[80]


前述のとおり、7月20日の戦闘以降も日本艦隊はコロンバンガラ島への輸送の際はブラケット水道を経由することとなった。連合国軍はこの海域に魚雷艇を配備して妨害行動に出たものの、大発1隻を撃沈したのみで駆逐艦の「東京急行」には通用せず、効果がある妨害とはならなかった[69]。連合国軍の敗北により第36.1任務群の兵力減少と第36.9任務群の遠方での行動は、連合国軍による当面の妨害手段は魚雷艇と駆逐艦、航空機のみとなっていた[69]



脚注


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注釈





  1. ^ 「(昭和18年)六月三〇日(水)曇 戦況。昨夜「コロンバンガラ」に敵艦砲撃あり。今朝「レンドバ」島に敵大規模の上陸を企図。。(以下略)」


  2. ^ 「(昭和18年)七月二日(金)半晴、時々雨」


  3. ^ 「(昭和18年)七月六日(火)曇 一六〇〇、軍令部総長、戦況〔奏上〕。(以下略)」


  4. ^ 「(昭和18年)七月一三日(火)晴、暑気加はる 一五三〇、軍令部総長、戦況〔奏上〕。○昨夜、陸兵一,二〇〇(一三聯隊)「コロンバンガラ」に輸送成功、d×4〔にて〕。之が支援部隊「神通」〔軽巡洋艦〕d×4、「クラ」湾北方にて敵C×4と交戦。敵C×2撃沈、C×1炎上せるものの如し、我方「神通」消息不明。(以下略)」


  5. ^ 「(昭和18年)七月一四日(水)晴 一五三〇、軍令部総長〔奏上〕。クラ湾夜戦の詳報につき、敵兵力C×4、d×5~6、我方「神通」d×4。敵C×2~3撃沈、C×1大破? 我方「神通」沈〔没〕。(以下略)」


  6. ^ 「(昭和18年)七月一八日(日)半晴 戦況。○一七日朝、敵機一二〇「ショートランド」来襲、「初雪」〔駆逐艦〕沈〔没〕、「夕凪」〔同上〕損傷。/○昨夜、敵C、d、ライス湾増援。「コロンバンガラ」砲撃。(以下略)」


  7. ^ 「(昭和18年)七月二三日(金)晴(中略)戦況。○南海第四守備隊の一部を「ショートランド」に輸送中の「日進」〔水上機母艦〕d×2は、昨日午後、ショートランド近くにて敵機〔の〕爆撃を受け、「日進」に六発命中、沈〔没〕。(以下略)」




出典





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参考文献


  • アジア歴史資料センター


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『外南洋部隊戦闘詳報(第一九号) 自昭和十八年六月三十日至昭和十八年八月十五日作戦』 第八艦隊司令部、C08030023200(『外南洋部隊戦闘詳報』)

『自昭和十八年七月二十日至昭和十八年七月三十一日 第三水雷戦隊戦時日誌』第二水雷戦隊司令部、C08030101000(『第二水雷戦隊戦時日誌』)

『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第七戦隊戦時日誌』第七戦隊司令部、C08030047800(『第七戦隊戦時日誌』)

『RX方面邀撃作戦ニ於ケル外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報第一号』第七戦隊司令部、C08030047800(『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』)



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  • 木俣滋郎 『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』 光人社NF文庫新装版、2013年。ISBN 978-4-7698-2786-3。

  • 駆逐艦雪風手記編集委員会 『激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦 雪風』 駆逐艦雪風手記刊行会、1999年9月。


  • 斉藤一好 『一海軍士官の太平洋戦争 等身大で語る戦争の真実』 高文研、2001年。ISBN 4-87498-272-7。
    斉藤は「雪風」水雷長として本海戦に参加。

  • 坂本金美『日本潜水艦戦史』図書出版社、1979年

  • 佐藤和正「ソロモン作戦II」『写真・太平洋戦争(第6巻)』光人社NF文庫、1995年、ISBN 4-7698-2082-8

  • 城英一郎著 『侍従武官 城英一郎日記』 野村実・編、山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。

  • 手塚正己 『新版 軍艦武藏 上巻』 太田出版、2015年。ISBN 978-4-7783-1447-7。

  • 豊田穣 『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯』 光人社NF文庫新装版、2004年。ISBN 978-4-7698-2027-7。

  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2

  • 半藤一利 『私の「昭和の戦争」』 アスコム、2007年。ISBN 978-4776204169。

  • ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X


  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年

  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4



関連項目






  • 酸素魚雷


外部リンク


  • WW2DB: ソロモン諸島戦争









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