さんとす丸
さんとす丸(さんとすまる)とは、かつて大阪商船および商船三井客船(日本移住船)が所有し運航していた貨客船である。
大阪商船所属の初代は日本最初の大型ディーゼル貨客船であるさんとす丸級貨客船のネームシップとして、南米への移民輸送に活躍。太平洋戦争中は特設潜水母艦、特設運送船として運用された。大阪商船および商船三井客船(日本移住船)所属の二代目は第二次世界大戦後に日本で建造された最初の大型貨客船であり、南米への移民輸送に活躍した。
目次
1 さんとす丸・初代
1.1 概要
1.2 艦長等
2 さんとす丸・二代
2.1 概要
3 脚注
3.1 注釈
3.2 出典
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
さんとす丸・初代
さんとす丸(初代) | |
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「さんとす丸」(初代)。1940年撮影。 | |
基本情報 | |
船種 | 貨客船 |
クラス | さんとす丸級貨客船 |
船籍 | 大日本帝国 |
所有者 | 大阪商船 |
運用者 | 大阪商船 大日本帝国海軍 |
建造所 | 三菱造船長崎造船所 |
母港 | 大阪港/大阪府 |
姉妹船 | らぷらた丸(干珠丸) もんてびでお丸 |
航行区域 | 遠洋 |
信号符字 | TBLQ JCIB |
IMO番号 | 31173(※船舶番号) |
改名 | さんとす丸→満珠丸 |
建造期間 | 340日 |
就航期間 | 6926日 |
経歴 | |
起工 | 1925年1月5日[1] |
進水 | 1925年9月5日[1] |
竣工 | 1925年12月10日[1] |
除籍 | 1945年1月10日 |
最後 | 1944年11月25日被雷沈没 |
要目 | |
総トン数 | 7,266トン[2] |
純トン数 | 4,386トン(1925年) 4,363トン(1932年) 4,354トン(1933年) 4,353トン(1936年) 4,354トン(1937年) |
載貨重量 | 7,453トン[2] |
排水量 | 不明 |
全長 | 136.6m[3] |
登録長 | 131.28m[2] |
垂線間長 | 131.08m |
型幅 | 17.07m[2] |
型深さ | 10.97m[2] |
高さ | 24.68m(水面からマスト最上端まで) 16.15m(水面から煙突最上端まで) |
喫水 | 3.427m[2] |
満載喫水 | 7.687m[2] |
機関方式 | ズルツァー製6ST60ディーゼル機関 2基[2][4] |
推進器 | 2軸[2][4] |
最大出力 | 5,009.8BHP[2] |
定格出力 | 4,600BHP[2] |
最大速力 | 16.438ノット[2] |
航海速力 | 14.0ノット[2] |
航続距離 | 不明 |
旅客定員 | 竣工時[3] 一等:38名 二等:102名 三等:760名 1941年[2] 一等:34名 三等:858名 |
乗組員 | 132名[2] |
積載能力 | 2,087トン |
1941年1月24日徴用。 高さは米海軍識別表[5]より(フィート表記)。 |
さんとす丸/満珠丸 | |
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基本情報 | |
艦種 | 特設潜水母艦 特設運送船 |
艦歴 | |
就役 | 1941年3月1日(海軍籍に編入時) 連合艦隊第六艦隊第1潜水戦隊/横須賀鎮守府所管 |
要目 | |
兵装 | 15cm砲4門 九三式13mm機銃連装2基4門 110cm探照灯1基 90cm探照灯1基 三米半測距儀1基 |
装甲 | なし |
徴用に際し変更された要目のみ表記。 |
概要
初代さんとす丸は、さんとす丸級貨客船のネームシップとして三菱長崎造船所で1925年(大正14年)1月5日に起工し9月5日に進水、12月10日に竣工した。竣工後間もない12月18日に神戸港を出港して横浜港に向かい、12月22日に横浜を出港して処女航海の途につく[6][7]。さんとす丸級貨客船には352トン積みの冷蔵庫が備え付けられていたが、さんとす丸はこの処女航海で静岡みかん約50トンを冷蔵庫に搭載していた[6]。ぶゑのすあいれす丸級貨客船(ぶゑのすあいれす丸、りおでじゃねろ丸)が竣工した1930年(昭和5年)以降は、西回り南米航路はディーゼル船で統一されることとなり、年間11航海の定期航海を行った[8]。しかし、昭和5年10月には700名の移民を乗せて神戸を出港しようとする直前、ブラジル政府が入国禁止を通告してきたため移民の安否が気遣われたり[9]、1935年(昭和10年)8月にも出港間際に移民制限令が出されて「大恐慌」と報じられるなど[10]、さんとす丸の航海は外的な要因もあって必ずしも順調なものばかりではなかった。
昭和5年時点の寄港地は往航は神戸を振り出しに四日市、横浜を経て再び神戸に戻り、以後は香港、サイゴン、シンガポール、コロンボ、ダーバン、ポート・エリザベス、ケープタウンと巡り、南アメリカ大陸にとりついてリオデジャネイロ、サントス、モンテビデオを経てブエノスアイレスに到着、復航はサントス、リオデジャネイロ、ニューオーリンズ、ガルベストン、パナマ、ロサンゼルスを経て横浜に帰着するものだった[11]。このような世界一周航路だっただけに船客も移民だけに限らず、往航だけに限ってみればシャム海軍士官の研修やオランダ領東インドへ向かう要人なども利用していた[12][13]。1936年(昭和11年)からは、上述のブラジルの移民制限などを受けて始まったパラグアイへの移民輸送を開始し、昭和11年6月18日に第一陣のパラグアイ移民22家族170名を乗せて神戸からパラグアイに向かい、日系パラグアイ人の礎の構築に貢献した[14][15]。しかし、世界情勢の変化とともに南米航路も規模が縮小されることとなり、1939年(昭和14年)9月の第二次世界大戦勃発以降は優秀船の保護が行われることとなった[16]。その一方で、満州国への渡航客が急増したことと徴傭船が出たことにより、大阪大連線の輸送力が逼迫することとなった[17]。さんとす丸も1940年(昭和15年)からは南米航路から撤退して大阪大連線に移り、また台湾航路にも配された[18][19][20]。
1941年(昭和16年)1月24日、さんとす丸は日本海軍に徴傭され、次いで3月1日付で特設潜水母艦として入籍し横須賀鎮守府籍となった[21]。3月1日から5月31日まで舞鶴海軍工廠と横須賀海軍工廠で特設潜水母艦としての艤装工事が行われた[21]。このあと、さんとす丸は満珠丸と改名するが[20]、理由については定かではない[注釈 1]。もっとも、徴傭した日本海軍では若干の例外を除いて満珠丸とは呼ばずに、旧名のさんとす丸を使っていた[22][注釈 2]。ここでは以降、「若干の例外」を除いてさんとす丸に統一して記述する。
太平洋戦争開戦時には第二潜水戦隊付属の潜水母艦として支援にあたるが[22]、1942年(昭和17年)1月の時点では横須賀にあって前線には出動していない[23]。2月から3月にかけては南方作戦に従事し[24]、8月20日付で第二潜水戦隊が解隊すると[25]、8月31日に編成された呉潜水戦隊に移って、旗艦として引き続き母艦任務に従事した[26]。その後、1943年(昭和18年)3月25日に、元来大阪大連線の貨客船として建造された筑紫丸(8,135トン)が竣工と同時に徴傭され特設潜水母艦として入籍し[27]、さんとす丸は筑紫丸と入れ替わるように特設運送船に類別変更された。特設運送船になってからのさんとす丸は一貫して輸送任務に従事し、1944年(昭和19年)のサイパン島に対する松輸送にも参加、3月20日館山出港の東松三号特船団では、特設運送船浅香丸(日本郵船、7,398トン)および山陽丸(大阪商船、8,360トン)とともにサイパン島およびトラック諸島への輸送に任じた[28]。5月にも第四十三師団を輸送する東松八号船団に加わり、5月19日にサイパン島に到着して第四十三師団の将兵を上陸させた[29]。また、これより前の3月上旬には、引き揚げ日本人を乗せていた亜米利加丸(大阪商船、6,307トン)とともに船団を構成して日本に向かっていたが、3月6日にアメリカの潜水艦ノーチラス (USS Nautilus, SS-168) の雷撃で亜米利加丸が沈没するという一幕もあった[30]。
6月20日、さんとす丸はヒ67船団に加入して六連沖を出港する[31][32][注釈 3]。上述の「若干の例外」とはヒ67船団と8月4日昭南(シンガポール)出港で復航のヒ70船団であり、一連の航海のみ満珠丸となっている[33]。7月9日に昭南に到着後、さんとす丸はビンタン島産のボーキサイトを積み込みヒ70船団に加入[20][33]、8月15日に六連に到着した[34]。10月から11月にかけてはフィリピンへの輸送作戦に従事し、SS艇5隻とSB艇1隻、合わせて6隻の機動艇、および護衛の第102号哨戒艇および第38号哨戒艇とともにタマ31B船団を編成して、11月12日に高雄を出港してマニラに向かう[35]。バタン諸島を縫うように南下し11月19日夜と20日午前に空襲を受けたが、撃退して11月21日にマニラに入港した[35]。
11月23日10時、さんとす丸は第38号哨戒艇、第102号哨戒艇および第33号駆潜艇の護衛によりマタ34船団を編成し高雄に向けてマニラを出港した[36][37]。このとき、さんとす丸は海軍部隊の人員を乗せていた。数は1,300名[38]、1,500名[39]、1,445名[20]と諸説あるが、どの数が正しいにせよ部隊の中にはレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵の生き残りが相当数含まれていた[20]。船団は12ノットから13ノットの速力で北上していったが11月24日23時ごろ、北緯20度14分 東経121度50分 / 北緯20.233度 東経121.833度 / 20.233; 121.833サブタン島近海を航行中にアメリカの潜水艦アトゥル (USS Atule, SS-403) のレーダーにより探知された[40][41]。アトゥルは戦闘配置を令して浮上状態のまま目標に接近し、翌11月25日1時10分すぎに疾走深度を6フィート(約1.83メートル)に設定した魚雷を艦首発射管から6本、艦尾発射管から2本発射した[42]。アトゥルの発射した魚雷はまず第38号哨戒艇に2本が命中してこれを轟沈させ[43]、間もなくさんとす丸にも2本が命中していった[20][44]。さんとす丸はすぐには沈まなかったが救命ボートなどが破壊され[20][45]、間を置かずして沈んでいった。さんとす丸の遭難者のうち、700名ほどが第102号哨戒艇および第33号駆潜艇に救助された[20][45]。1945年(昭和20年)1月10日に除籍および解傭[21]。
艦長等
- 艦長
- (兼)木山辰雄 大佐:1941年3月1日[46] - 1941年3月12日[47]
- 松原寛三 大佐:1941年3月12日[47] - 1941年8月11日[48]
- 関禎 大佐:1941年8月11日[48] - 1942年11月18日[49]
- 今和泉喜次郎 大佐:1942年11月18日[49] - 1943年3月25日[50]
- 監督官
- 居谷吉春 大佐:1943年3月25日[50] - 1943年12月20日[51]
- 指揮官
- 關本織之輔 大佐:1943年12月20日[51] - 1945年1月6日[52]
さんとす丸・二代
さんとす丸(二代) | |
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「さんとす丸」(二代)。 | |
基本情報 | |
船種 | 貨客船 移民船 |
クラス | さんとす丸級貨客船 |
船籍 | 日本 パナマ 台湾 |
所有者 | 大阪商船 日本移住船 Liberty Maritime Corp. Sincere Nav. Corp. |
運用者 | 大阪商船 日本移住船 Liberty Maritime Corp. Sincere Nav. Corp. |
建造所 | 新三菱重工業神戸造船所 |
母港 | 大阪港/大阪府 |
姉妹船 | なし |
航行区域 | 遠洋 |
信号符字 | JASH |
IMO番号 | 69822(※船舶番号) |
改名 | さんとす丸→Winona→Hui Hsing |
建造期間 | 152日 |
経歴 | |
起工 | 1952年7月12日[53] |
進水 | 1952年9月20日[53] |
竣工 | 1952年12月10日[53] |
就航 | 1952年12月29日 |
除籍 | 1976年 |
最後 | 1976年解体 |
要目 | |
総トン数 | 8,280トン[53] |
載貨重量 | 10,780トン[54] |
全長 | 144.93m[55] |
垂線間長 | 134.00m[53] |
型幅 | 18.80m[53] |
型深さ | 11.80m[53] |
満載喫水 | 8.70m[55] |
機関方式 | 三菱製ズルツァー型8SD72ディーゼル機関 1基[53] |
推進器 | 1軸[53] |
定格出力 | 6,160BHP[53] |
最大速力 | 18.8ノット[53] |
航海速力 | 14.6ノット[55] |
航続距離 | 不明 |
旅客定員 | 竣工時[54] 一等:12名 特別三等:63名 1957年[56] 一等:12名 特別三等:50名 三等:558名 |
概要
戦争で壊滅的打撃を受けた第二次世界大戦後の日本の海運業界および造船業界は、1947年(昭和22年)から始まった計画造船の下で再建が進められた。もっとも、計画造船で建造される船舶の種類は、当初は貨物船とタンカーのみであった[54]。他方、大阪商船は1950年(昭和25年)11月にGHQの許可の下に南米航路を貨物船のみで再開していた[57]。おりもおり、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を契機として、南米移民が国策として復活することとなった[54]。南米移民輸送を「歴史的大任」と自認していた大阪商船は、再び移民船を差し立てることを計画する[56]。しかしその移民船の整備については多少の紆余曲折があった。当時、大阪商船の手元には、かつて台湾航路に就航して病院船となり、戦争を生き延びた高砂丸(9,347トン)が残っており、当初はこの高砂丸を移民船に改装する計画があったが、予算の関係などで、いつのまにか沙汰止みとなった[58]。これと前後するように、日本政府は第8次計画造船で貨客船1隻を建造することとし、これを大阪商船に割り当てることとした[54]。これが、二代目の「さんとす丸」である。二代目「さんとす丸」は、戦争終結後初めて建造された外洋型貨客船でもあった[54]。
二代目「さんとす丸」は、三菱神戸造船所で昭和27年7月12日に起工して9月20日に進水、奇しくも初代さんとす丸と同じ12月10日に竣工した。平甲板方の船型を持ち、最上甲板に一等船室、その下には食堂と喫煙室が配され、特別三等船室は中甲板、特別三等食堂は上甲板後方にあった[54]。1948年のSOLAS条約に適合した安全確保の設備も完備していたが、この点でも条約適用の日本最初の貨客船でもあった[54]。「ささやかな設備」と大阪商船が認めているように[56]、キャパシティ面では初代「さんとす丸」を初めとする戦前の南米航路就航船とは比べものにならなかったが、それはもとが貨客船で、移民船への転換が決まってから特別三等船室を急遽増設したためである[59]。それでも、「さんとす丸」は大阪商船の移民船復活の第一歩を記すこととなった。
「さんとす丸」は竣工後間もなく54名のアマゾン移民を乗せて神戸港を出港[60]、当初は戦前と同様に西回り南米航路に就航していたが、1953年(昭和28年)4月の日本・アルゼンチン通商協定締結を機に、昭和28年5月からはパナマ運河経由の東回り南米航路に回った[61]。1955年(昭和30年)ごろに移民輸送が一時頭打ちになるが、パラグアイ移民の再開およびドミニカ、ボリビアへの移民が開始されるに及んでキャパシティの不足が懸念されたため、1957年(昭和32年)に改装が行われて新たに三等船客558名を収容できる船室を増設した[62]。翌1958年(昭和33年)には二代目の「あるぜんちな丸」(10,864トン)[60]が就航して華やかさを増すが、1959年(昭和34年)以降は日本において高度経済成長期(第一次)に差し掛かったことや受入国側の状況の変化、それにともなう移民の数の減少、そして「あるぜんちな丸」に関わる高額の諸経費支出によって採算が低迷する[63]。1963年(昭和38年)に日本移住船(現:商船三井客船)が設立されて「さんとす丸」も移籍したが[64]、経営が不安定だったため親会社の大阪商船三井船舶に傭船に出たりもした[65]。その後は1972年(昭和47年)にパナマのLiberty Maritime Corp.に売却されて「Winoa」と改名、2年後の1974年には台湾のSincere Nav. Corp.に売却されて「Hui Hsing」と再改名され、1976年に高雄で解体された[66]。
脚注
注釈
^ #野間(2)、#商船八十年史などは改名の事実は記してあるが、その理由までは言及されていない。
^ 日本海軍は、昭和16年11月7日付で同名のタンカー満珠丸(日本油槽船、6,515トン)を特設運送船(給油)として徴傭するが(#特設原簿 p.121)、このことを見越して旧名を使っていたのかどうかも定かではない。ただし、さんとす丸から満珠丸への改名自体は正式なものである(#日本汽船名簿)。
^ さんとす丸の南方行きを7月のこととしている書物もあるが(#野間(2) p.451)、例えば7月13日六連出港のヒ69船団の記録には満珠丸(さんとす丸)の名はなかった(#ヒ69ヒ70 pp.2-3 、#駒宮 p.210)。
出典
- ^ abc#創業百年の長崎造船所 pp.540-541
- ^ abcdefghijklmno#日本汽船名簿
- ^ ab#日本の客船1 p.74
- ^ ab#野間(2) p.450
^ Manju_Maru_class
- ^ ab#大毎251114
^ #大毎251223
^ #商船八十年史 p.347
^ #大毎301223
^ #神戸350806
^ #商船八十年史 pp.347-348
^ #台日340507
^ #大時事350113
^ #大毎360601
^ #大朝360829
^ #商船八十年史p.115, pp.349-350
^ #商船八十年史 pp.282-283
^ #商船八十年史p.283
^ #神戸400330
- ^ abcdefgh#野間(2) p.451
- ^ abc#特設原簿 p.103
- ^ ab#六艦1701 p.11
^ #六艦1701 p.45
^ #木俣潜 p.145,150
^ #木俣潜 p.225
^ #呉潜1709 p.3,7
^ #特設原簿 p.112
^ #駒宮 p.153
^ #駒宮 pp.174-175
^ #父特根1903 p.41
^ #駒宮 p.195
^ #郵船戦時下 p.757
- ^ ab#ヒ69ヒ70 pp.24-25
^ #駒宮 p.220
- ^ ab#駒宮 p.291
^ #PB38,1911(2) p.37
^ #一護1911 p.56
^ #PB38,1911(2) p.36,41
^ #PB102,1911 p.14
^ #SS-403, USS ATULEp.33
^ #PB38,1911(2) p.42
^ #SS-403, USS ATULE pp.33-34, pp.53-54
^ #PB38,1911(2) p.37,58
^ #SS-403, USS ATULE p.34
- ^ ab#PB38,1911(2) p.42
^ 『海軍辞令公報(部内限)第598号 昭和16年3月1日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072080500
- ^ ab『海軍辞令公報(部内限)第602号 昭和16年3月15日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072080500
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- ^ ab『海軍辞令公報(部内限)第989号 昭和17年11月18日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072088200
- ^ ab『海軍辞令公報(部内限)第1079号 昭和18年3月25日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072090100
- ^ ab『海軍辞令公報(部内限)第1284号 昭和18年12月20日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094900
^ 『海軍辞令公報(部内限)第1690号 昭和20年1月11日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072102800
- ^ abcdefghijk#新三菱神戸五十年史 附録p.44
- ^ abcdefgh#新三菱神戸五十年史 p.143
- ^ abc「南米定期航路 新造貨客船 さんとす丸」大阪商船、1952年
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^ #木俣残存 p.359
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- ^ ab#商船八十年史 p.353
^ #商船八十年史 pp.353-354
^ #商船八十年史 p.355
^ #野間(1) p.283
^ #商船八十年史 p.222, pp.356-357
^ #野間(1) p.285
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参考文献
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- Ref.B10070603800 『移民運送船之研究』。
- Ref.B10070603800 『移民運送船之研究』。
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- Ref.C08030129700 『自昭和十七年八月三十一日至昭和十七年九月三十日 呉潜水戦隊戦時日誌』。
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- Ref.C08030708100 『ヒ六九ヒ七〇船団作戦経過概要並所見』。
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- Ref.C08030626900 『第三八号哨戒艇戦闘詳報』、34-60頁。
- Ref.C08030631400 『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第百二号哨戒艇戦時日誌』、34-60頁。
- Ref.C08030141700 『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第一海上護衛隊戦時日誌』。
- Ref.C08050081300 『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、14頁。
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- 大阪毎日新聞(1925年11月14日) 『冷蔵船』。
- 大阪毎日新聞(1925年12月23日) 『南米線で鎬を削る郵商両汽船』。
- 大阪毎日新聞(1930年10月23日) 『ブラジル移民入国を禁止 二十一日限り旅券査証中止の命令 わが移民事業大痛手』。
- 台湾日日新報(1934年5月7日) 『糖業者の反対に外務側は一大難関 国家的見地から非常手段?』。
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- 神戸新聞(1935年8月6日) 『突如、伯国移民の査証当分停止さる 七月以降の移民事実上不可能 さんとす丸まにら丸出航を前に大恐慌』。
- 大阪毎日新聞(1936年6月1日) 『パラグアイへ初移民 四十二家族近く出発』。
- 大阪朝日新聞(1936年8月29日) 『無事に入国 パラグワイ移民』。
- 神戸新聞(1940年3月30日) 『更らに二船増配 商船の大陸航路拡充』。
(issuu) SS-403, USS ATULE. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-403_atule?mode=a_p.
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- 財団法人海上労働協会(編) 『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』 財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6。
- 岡田俊雄(編) 『大阪商船株式会社八十年史』 大阪商船三井船舶、1966年。
- 日本郵船戦時船史編纂委員会 『日本郵船戦時船史』下、日本郵船、1971年。
- 木俣滋郎 『写真と図による 残存帝国艦艇』 図書出版社、1972年。
- 山高五郎 『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』 至誠堂、1981年。
- 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9。
- 野間恒、山田廸生 『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』 海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2。
- 木俣滋郎 『日本潜水艦戦史』 図書出版社、1993年。ISBN 4-8099-0178-5。
- 野間恒 『豪華客船の文化史』 NTT出版、1993年。ISBN 4-87188-210-1。
- 野間恒 『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』 野間恒(私家版)、2004年。
- 正岡勝直「日本海軍特設艦船正史」、『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、 92-240頁。
- 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」、『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、 92-240頁。
- 松井邦夫 『日本商船・船名考』 海文堂出版、2006年。ISBN 4-303-12330-7。
- 山田廸生「名船発掘・日本 140 さんとす丸(初代) 世界水準に達した日本最初の移民船『LA MAR 第214号』第37巻第3号、公益社団法人日本海事出版協会、2012年、 60-61頁。
関連項目
- 移民
- 計画造船
- 大日本帝国海軍艦艇一覧
外部リンク
“昭和19年・1944年11-12月に喪われた商船 さんとす丸” (日本語). 戦時下に喪われた日本の商船. 三輪祐児. 2012年7月26日閲覧。[リンク切れ]
- “1/700戦時輸送船模型集・満珠丸” (日本語). Rosebury Yard. 岩重多四郎. 2012年7月26日閲覧。
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