駆逐艦
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2011年3月) |
@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti>.thumbinner{width:100%!important;max-width:none!important}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:none!important;width:100%!important;text-align:center}}
駆逐艦(くちくかん、英: destroyer)は、19世紀末に出現した艦種である。
目次
1 概要
2 名称
3 駆逐艦の歴史
3.1 駆逐艦第一号
3.2 日露戦争
3.3 第一次世界大戦
3.4 大戦間の建造
3.5 第二次世界大戦
3.6 第二次世界大戦後から現在
4 駆逐艦による輸送
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
概要
もともとの名前を水雷艇駆逐艦(英: torpedo-boat destroyer)と呼び、水雷艇(英: torpedo-boat)を駆逐する艦種だった。第二次世界大戦までは魚雷を主兵装とし、駆逐艦隊は別名水雷戦隊と呼ばれていた。出現当初から第二次大戦のころまでは、軽巡洋艦より小型だが砲艦より大型で、航洋性を有しており、軽装甲であるが高速で汎用性が高いといった位置付けだった。
20世紀後半から現代にあっては、戦艦や巡洋艦といった、駆逐艦より大型の艦が過去のものとなった、あるいはなりつつある。その一方でフリゲートやコルベットといったより小型の艦が存在感を増している。駆逐艦自身も大型化し、現代海軍では航空母艦や揚陸艦に次ぐ大型の軍艦となりつつある。
第一次世界大戦での地中海派遣日本海軍第二特務艦隊など「駆逐艦が主役として」編成された重要艦隊も過去には存在した。ワシントン海軍軍縮条約以降は、次第に巡洋艦として航続距離と高速性を兼ね備えた大型艦が建造されるようになった。第二次世界大戦では陸戦中心だった欧州戦線に対して、アジア太平洋地域での交戦時に海戦となる事が多かったため、潜水艦と共に艦隊防空の任を任せられる駆逐艦部隊が再び活躍した。
戦艦や重巡洋艦クラスの排水量を持つ艦艇が、小型で攻撃力を備えたミサイル艇といった専門艦艇による対艦ミサイルに切り替わった冷戦時代には、今日の駆逐艦の主力任務となる対潜戦及び防空ミサイル運用が東西両陣営共に海軍水上艦での常識となり、特に5,000トンクラスから10,000トンクラスに至る船体を持つ艦艇でも概ね駆逐艦に分類されるようになった。過去に軽巡洋艦・重巡洋艦とカテゴライズされた艦にも迫る排水量を有することも少なくない今日の駆逐艦は、外洋での行動力と一定の対艦・対空・対潜能力を兼ね備えた艦種として多くの任務を担っており、今日での海軍の主役のひとつといっても過言ではない。
冷戦期には空母戦闘群を構成する艦隊にて艦載機としてのヘリコプター搭載駆逐艦が標準となり、西側諸国が開発したアグスタウェストランド リンクスなどの対潜ヘリコプターは、21世紀の各国海軍での標準装備となった。
名称
英語: Destroyer
ドイツ語: Zerstörer
オランダ語: Torpedobootjager
ポーランド語: Niszczyciele
スウェーデン語: Jagare
フランス語: Contre-torpilleur
イタリア語: Cacciatorpediniere
ルーマニア語: Distrugător
ロシア語: Эскадренный миноносец
ロシア海軍では他国海軍での駆逐艦に相当する艦艇類別を「艦隊水雷艇」と呼称している。英語のDestroyerに相当するイストレビーテリ:истребительという言葉はロシア語では戦闘機を意味する。
駆逐艦の歴史
駆逐艦第一号
1860年代より、フランスでは強力な武装を有する小型艦による攻撃力を重視した、ジューヌ・エコールと呼ばれる海軍戦略が台頭していた。これを受けて、1881年、フランス共和国議会下院は装甲戦艦の建造を中断するかわりに70隻の水雷艇の建造予算を認可し、1886年にはさらに100隻の水雷艇と14隻の高速巡洋艦が加わった。イギリス海軍にとって、これは、フランス海軍が、外洋での作戦は高速巡洋艦による通商破壊戦に、そして近海での作戦は敏捷な水雷艇を重視するように切り替えたことを意味するように思われた。これに対応して、イギリス海軍は、まず従来採用してきた大口径の前装砲にかえて、より小口径ではあるが発射速度と追随性に優れた後装式の速射砲の採用を決定した。これは、毎分12発という大発射速度と、当時の魚雷の最大有効射程だった600ヤード (550 m)よりも長い射程により、水雷艇をアウトレンジできる性能を求められており、1881年に要求性能が提示されたのち、1886年には民間からの調達が解禁されたのを受けて、同年にトールステン・ノルデンフェルトによる速射砲の導入が決定され、翌年にはアームストロング社による革新的な速射砲が発表された[1]。
兵装のこれらの進化と並行して、主機関についても技術革新が進められていた。ヤーロウ社のアルフレッド・ヤーロウは、1877年より、水を管のなかに流しながら過熱するという画期的な蒸気発生装置(水管ボイラー)の開発に着手しており、1887年にはヤーロウ式ボイラーとして実用化された。そして1892年、イギリス海軍第三海軍卿ジョン・アーバスノット・フィッシャー提督は、ヤーロウ社に対し、速射砲で武装し、主機関に水管ボイラーを採用した新しい種類の艦の建造契約を発注した。これに応じてヤーロウ社はA級駆逐艦(1894年、240t、27ノット)を建造した。これは水雷艇の撃攘を主任務としており、当初は「水雷艇破壊艦(Torpedo Boat Destroyer)」と称され、まもなく単に駆逐艦(Destroyer)と称されるようになった[1]。
この後、十分な航洋性を持たないため近海でしか使用できない水雷艇に替わり、駆逐艦は水雷艇の役目(魚雷攻撃)も兼ねた汎用性の高い戦闘艦として進化を始める。
日露戦争
日露戦争では、両国とも300tクラスの駆逐艦を所有していた。駆逐艦の任務は水雷艇の撃破からさらに発展し、大日本帝国の駆逐艦はもっぱら魚雷を使ってロシア艦隊を夜襲する部隊として使われた。まずは、開戦劈頭に旅順港に停泊していたロシア海軍への夜襲(旅順口攻撃)が行われている。その後の旅順港閉塞作戦でも機雷敷設、掃海などに従事した。
また、日本海海戦の5月27日夜、大日本帝国海軍の水雷戦隊が昼間の戦闘で傷ついたロシア戦艦群を攻撃した。丁字戦法による主力艦同士の打撃もさることながら、この駆逐艦による攻撃が多くの戦艦を葬った。これは秋山真之の考えた七段構えの戦法の一部であり、駆逐艦の攻撃によって敵主力を削ぎ落とし主力艦同士の戦いを有利に運ぶための策だった。この戦法は後に発展してこれに潜水艦も加えた漸減邀撃作戦となった。駆逐艦の重要性は増大し、主力艦に肉薄して攻撃を行うことが恒常的に期待されるようになり、日本はこの戦い以降駆逐艦とその主兵器である魚雷の強化に尽力するようになる。日本海軍は来るべき海戦に備えて神風型駆逐艦を建造したが、日本海海戦には間に合わなかった。
対するロシア帝国は、露土戦争で世界最初の水雷艇(水雷カッター)による奇襲作戦を成功させた国家だった。ロシアはその後も水雷艇を重視しその発展に力を入れていて、水雷戦術の大家ステパン・マカロフを生む事となる。日露戦争では太平洋艦隊およびバルチック艦隊所属の艦艇が旅順口攻撃や日本海海戦で奮戦した。
第一次世界大戦
この頃の駆逐艦は高速を武器に敵艦隊に肉薄して魚雷攻撃を行い、また逆に敵の高速艦の攻撃から味方の主力部隊を守る任務を重視されていた。このため高速と航洋性の要望から速力30ノット、排水量1,000t程度に大型化していた。
第一次世界大戦ではドイツ帝国が通商破壊(無制限潜水艦作戦)を行いイギリスの通商路を脅かした。イギリスは対潜水艦戦の主力として駆逐艦を大量に建造し使用した。この時、手薄となった地中海にイギリスの要請で派遣された日本海軍の第二特務艦隊も駆逐艦を中心とした編成で、輸送船の護衛を行った。
対潜作戦の初期は機雷処分に用いるような掃海索の先端に爆薬を設置して、任意に起爆するというものだったが、やがて爆雷が発明されるにつれて駆逐艦にも装備されるようになっていく。このころから駆逐艦の主要な任務に対潜作戦が加えられるようになる。
大戦間の建造
大戦後しばらく各国は第一次大戦型駆逐艦の建造を続けていた。しかし1920年代になると主要国は新しい航洋駆逐艦として1,500t以上で速力も35ノットの艦を建造し始めた。日本の特型駆逐艦(1,850t、38ノット、12.7cm砲6門、61cm魚雷発射管9門)はその代表例である。他にもトライバル級駆逐艦やポーター級駆逐艦があるが、中でもフランス海軍は大型駆逐艦だけで戦隊を組む特異な戦略を選択し、通商破壊艦と共に大洋を駆ける戦力として多く整備した。その後ロンドン海軍軍縮会議などの発効にともなって駆逐艦の建造数と排水量は他の軍艦同様削減されることになる。
この時期に建造された駆逐艦は条約型駆逐艦と呼ばれ、駆逐艦保有数で英米に劣る日本海軍は個々の艦の性能を上げて対抗した。また、600tに満たない艦は条約の制限には関係なかったためにこれ以下の排水量をもつ艦を建造し、水雷艇と称した。これには日本海軍の千鳥型水雷艇やイタリア海軍のスピカ級水雷艇などがあるが、速度や武装からみて、ほとんど駆逐艦の如きものである。
また、駆逐艦にはソナーが設置されるようになり対潜索敵能力が付与されることとなった。
第二次世界大戦
第二次世界大戦では駆逐艦は対空・対潜が主任務となった。このため駆逐艦は主砲を対空砲または両用(対空・対艦両用)砲とし、多数の爆雷を搭載し、対空レーダーや対潜音響兵器が必需装備となった。大型対空レーダーを装備した駆逐艦をレーダーピケット艦と呼称し、早期警戒任務に当てていた。
大戦中、アメリカ海軍は、4クラス340隻の艦隊型駆逐艦及び500隻を超える護衛駆逐艦を就役させ、ドイツ海軍のUボートから船団を守り、日本の航空機に対抗した。大量生産に適した設計がなされ、簡素な構造で設計された。日本海軍は、日露戦争のような艦隊決戦を想定した艦艇を建造しており、排水量の割りに砲撃力と雷撃力に優れた艦艇ではあったが、建造に手間がかかった。また、重武装のためにトップヘビーとなり復元性が悪い艦も多かった。戦争末期には大量損失を補うために戦時急造型の駆逐艦(松型)を建造した。太平洋戦争では、戦線を拡張しすぎた日本は、アメリカ軍の目を逃れて南方諸島へ物資を送るために高速の駆逐艦を利用した(下記「駆逐艦による輸送」参照)。駆逐艦同士の戦いでは帝国海軍が勝利を収めた例も多いが、駆逐艦での戦術的勝利が戦争の趨勢に関わることはなかった。また航空母艦護衛用に対空能力を重視した(秋月型)も建造されたが、最低限の雷撃能力は残された。大戦末期にはレーダーと航空機の発達のために、日本の駆逐艦の中には既存の砲塔を撤去し、機関砲などを増設する動きもあった。
第二次世界大戦後から現在
大戦後しばらくの間は、戦時中に大量建造された駆逐艦が大量に余剰となっており、新しい艦はほとんど作られなかった。その後に建造された駆逐艦は潜水艦・航空機・ミサイルの進歩に対して、充分な対潜・対空能力を有することが求められ、必然的に大型化していった。特にミサイルの発達によって、小型艦艇でも十分な威力の対艦兵器を装備できるようになり、1隻で対空-対潜-対艦の3役をこなすことが可能になった。こうした環境の変化は、大口径砲熕兵器や耐弾装甲による直接防御を攻防能力の主体とする水上戦闘艦の存在そのものを陳腐化させ、戦艦や大型・重装甲の巡洋艦は消滅へと向かった。
また魚雷発射管の有無による区分も、フリゲートやコルベットが対潜水艦用の短魚雷を装備するようになるとともに、駆逐艦も対水上艦用の重魚雷発射管を搭載しなくなったため、意味をなさなくなった。それに代わってミサイルの装備の有無で駆逐艦とフリゲートを分ける場合もあったが、次第にフリゲートやコルベットもミサイルを装備するようになった。またフリゲートやコルベットが高速化する一方、駆逐艦の速度は30ノット程度で十分とされ、速度による区分も無くなった。結果として現在の海軍では、駆逐艦・フリゲート・コルベットの区分は曖昧なものとなり、ある国の海軍で駆逐艦と称するものが、他国の海軍のフリゲートより小型、といった事例も見られる。フランス海軍のように全ての水上戦闘艦艇をフリゲートと称したり、後述の海上自衛隊のように全てをDestroyer(DD、DDH、DDG、DE)[2]と称する例もある。
今日では、駆逐艦は大排水量の汎用艦である。イージスシステムを搭載するアメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の満載排水量は8,422tに達し、過去の日本海軍の古鷹型重巡洋艦並、艦体寸法では条約型重巡並となった。ズムウォルト級ミサイル駆逐艦などは更に大型化しており、近代戦艦の原型とされるロイヤル・サブリン級に匹敵する14,797tである。
なお、海上自衛隊の汎用護衛艦であるむらさめ型やたかなみ型、あきづき型、ミサイル護衛艦であるこんごう型やあたご型などは英語ではDestroyerと呼ばれ、駆逐艦とみなされている。
また、ソビエト連邦などの大型対潜艦などもその装備や艦の規模から駆逐艦とみなされることがある。なお、ソ連では大型対潜艦とは別に駆逐艦という艦種も定めており、ソ連崩壊前に計画された最後の駆逐艦はソヴレメンヌイ級で、艦隊防空を任務とする西側でいうミサイル駆逐艦だった。
2005年以降多発しているソマリア沖の海賊対策のために、2008年6月の国際連合憲章第7章に基づきアメリカ合衆国、イギリス、ロシア連邦、日本などの各国が輸送船護衛や海賊監視のために駆逐艦、フリゲートを派遣、ロケットランチャーや自動小銃で武装した海賊の小型艇に反撃して武力鎮圧するなど成果を上げている。
駆逐艦による輸送
通常、物資の輸送には低速だが大量輸送が可能な輸送船を用いる。ただし、高速輸送が求められる際は、駆逐艦やその改装型による輸送も行なわれている。
第二次世界大戦時のドイツ軍はノルウェー侵攻を実施した際にノルウェー北部ナルヴィクの早期攻略と入り組んだフィヨルドへの対処から攻略部隊第一陣を駆逐艦に同乗させてナルヴィクの戦いを行わせた。
太平洋戦争時の日本海軍では、制空権を持たない戦場(主に南方の島嶼部)へ輸送を行うために駆逐艦を用いた。輸送船を用いて輸送を行うと、輸送量は多いものの、その機動性が悪く、速度も遅いため、輸送途中に敵機に発見・撃沈されてしまうためである。その点、高速な駆逐艦を用いることにより、輸送途中に敵機に発見される可能性は減少した。ただし、駆逐艦は艦体が細長く、大量の物資を運ぶことはできなかった。この輸送法は、ガダルカナル戦とニューギニア戦で多用され、特にガダルカナル戦では、陸軍が撤退するまでかなりの期間続けられた。方法としては、日没後に敵対潜哨戒機索敵圏内に侵入し、あらかじめ示し合わせておいた海岸に接近、駆逐艦から補給物資を詰め込んだドラム缶などを海中に投入、あとは陸上部隊側が大発動艇や手漕ぎの舟艇を用いて回収を行う。そしてできうる限り、帰り際に敵基地や飛行場を砲撃し、夜間に敵哨戒機索敵圏外に脱出していた。夜中に敵の目を盗んでコソコソ輸送することから、これを日本側は鼠輸送と称した(アメリカ軍はTokyo Expressと呼んだ)。しかし敵に遭遇した際には魚雷を発射するために物資を投棄するなど、任務を果たせないこともあった一方、駆逐艦の損害も大きかった。日本海軍は後に駆逐艦をベースにした一等輸送艦を生み出している。
アメリカ海軍も高速輸送のメリットを認めており、太平洋戦争以前より、その検討を行なっていた。建造中の新鋭艦や就役済の旧式艦などを改装した高速輸送艦(APD)[3]多数を完成させ、比島攻略戦などに投入している。
脚注
- ^ abウィリアム・ハーディー・マクニール 「第8章 軍事・産業間の相互作用の強化 1884~1914年」『戦争の世界史(下)』 中公文庫、2014年、91-180頁。ISBN 978-4122058989。
^ 4者はそれぞれ汎用駆逐艦、ヘリコプター搭載駆逐艦、誘導弾駆逐艦、護衛駆逐艦の略号。Destroyer自体の和文表記は「護衛艦」とされているが、エスコートシップ、エスコートベッセルの和訳との明確な区別が無い。
^ 『アメリカ揚陸艦史 世界の艦船 2007年1月号増刊』 海人社 EAN 4910056040171
参考文献
- M.J. ホイットレー 『第二次大戦駆逐艦総覧』大日本絵画、2000年
関連項目
嚮導艦 / 駆逐艦母艦 / 護衛駆逐艦 / ミサイル駆逐艦
水雷艇 / 水雷巡洋艦 / 水雷砲艦
警備艦 / 掃海艇 / 補助艦艇
|