朝霜 (駆逐艦)














































































Asashimo.jpg
艦歴
計画
1942年度(マル急計画)
起工
1943年1月21日
進水 1943年7月18日
就役 1943年11月27日竣工
その後
1945年4月7日戦没
除籍 1945年5月10日
性能諸元
排水量 基準:2,077t
公試:2,520t
全長 119.3m
全幅 10.8m
吃水 3.76m
主缶
ロ号艦本式缶3基
主機
艦本式タービン2基2軸 52,000hp
最大速力 35.0kt
航続距離 18ktで5,000浬
燃料 重油:600トン
乗員 225名
武装(新造時) 50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm連装機銃×2
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(九三式魚雷16本)
爆雷×18乃至36


朝霜(あさしも)は、日本海軍の駆逐艦[1]。夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦夕雲型)の16番艦である。戦艦大和(第二艦隊)の沖縄水上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加したが機関故障により落伍、米艦載機の攻撃により大破したあと行方不明となった(沈没認定。)[2]




目次






  • 1 艦歴


    • 1.1 建造経緯および就役後


    • 1.2 トラウトを撃沈する


    • 1.3 フィリピンの戦い


    • 1.4 礼号作戦・北号作戦


    • 1.5 坊の岬沖海戦




  • 2 歴代艦長


  • 3 参考文献


  • 4 脚注


  • 5 関連項目





艦歴



建造経緯および就役後


1942年度(マル急計画)仮称第344号艦として藤永田造船所で建造、1943年(昭和18年)5月25日、姉妹艦(沖波、岸波)や海防艦2隻(御蔵、平戸)、標的艦波勝等と共に命名された[1]。3隻(沖波、岸波、朝霜)は同日附で夕雲型駆逐艦に登録された[3]
11月1日、日本海軍は駆逐艦如月・朝霧・夕霧艦長等を歴任した前川二三郎少佐を、臨時朝霜艤装員長に任命した[4]
11月2日、藤永田造船所に朝霜艤装員事務所を開設[5]
本艦は同年11月27日に竣工し[6]、朝霜艤装員事務所も撤去された[7]。同日附で正式に横須賀鎮守府籍となり[8]、前川艤装員長も朝霜駆逐艦長(初代)となった[9]


竣工と共に訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入[10][11]。当事の第十一水雷戦隊は、司令官木村進少将が11月20日附で退任[12]。そのため小川莚喜大佐(海軍兵学校46期)が臨時司令官代理を務めていた[13]
瀬戸内海に回航された「朝霜」は、訓練部隊《龍田、浜波《12月15日附で第32驅逐隊編入》[14]、岸波《12月3日編入》[15]、沖波《12月10日編入》[15]、朝霜》)に所属[16][17]
第十一水雷戦隊各艦(第二戦隊《山城、伊勢、日向》)、や修理復帰艦艇(満潮、不知火、春雨)等と訓練を受けた[18][19]


12月15日附で第二水雷戦隊司令官高間完少将は第十一水雷戦隊司令官に任命される(着任12月25日)[20][21]
12月29日、燧灘で十一水戦に春雨(第27駆逐隊)が合同した[22][23]
駆逐艦4隻(白露型駆逐艦2隻《時雨、春雨》、夕雲型2隻《沖波、朝霜》)は扶桑型戦艦2番艦山城を護衛して呉を出発した[24]、31日、横須賀回航部隊は横須賀に到着した[25][26]


1944年(昭和19年)1月4日、夕雲型2隻(沖波、朝霜)は時雨等と別れて内海西部に戻った[27][28]
以降、第十一水雷戦隊(軽巡《龍田》、駆逐艦《朝霜、沖波、岸波》)は臨時編入艦と共に内海西部で訓練に従事する[29]
1月27日附で杉原與四郎少佐(駆逐艦皐月や初雪艦長《沈没時》等を歴任。当時、白露型駆逐艦6番艦五月雨艦長)は朝霜駆逐艦長(二代目)に任命された[30]
2月10日、夕雲型3隻(朝霜、岸波、沖波)は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将:旗艦能代)第31駆逐隊に編入された[31][32]。第31駆逐隊は前年11月下旬のセント・ジョージ岬沖海戦で31駆司令香川清登大佐と構成艦2隻(大波、巻波)を喪失して夕雲型4番艦長波1隻となっており、夕雲型4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)で再編された[31]。第31駆逐隊司令福岡徳治郎大佐(前職第19駆逐隊司令)[33]も朝霜・沖波・岸波編入の直前に任命されたばかりである[34]



トラウトを撃沈する


2月26日、第31駆逐隊3隻(朝霜、岸波、沖波)は宇品を出港し、グアムへ移動する第29師団の陸軍兵士[35]と装備品を乗せた安芸丸(日本郵船、11,409トン)、東山丸(大阪商船、8,666トン)、崎戸丸(日本郵船、9,247トン)の3隻の優秀貨客船による『松輸送』に従事する[36]
2月29日未明、船団は北緯25度41分 東経130度21分 / 北緯25.683度 東経130.350度 / 25.683; 130.350の地点[36]に差し掛かった所でアメリカの潜水艦ロック (USS Rock, SS-274) の発見するところとなった。ロックも夜間の2時49分頃に浮上して船団に接近したが、ロックの右斜め前方約6キロの地点にいた朝霜はこれを察知し、ロックも照準することなく後部発射管から4本の魚雷を放射状に発射した。その後、朝霜はロックの左舷側に移り、朝霜はサーチライトをロックに対して照射した後、12.7センチ砲を潜航しゆくロックに向けて発射した。砲弾は潜航しかけたロックの潜望鏡支柱に命中し、潜望鏡が昼間用と夜間用の両方とも破損。またレーダーマストに浸水するなど大小さまざまな被害を受けていた。この後、4時間に及ぶ爆雷攻撃をしのいだロックは夜になって浮上し、船団発見の旨を報告した。
朝霜は当面の敵を追い払ったので船団に合流していったが、ロックからの報告を受信したアメリカの潜水艦トラウト (USS Trout, SS-202) が船団の追跡を開始していた。17時53分、トラウトは北緯22度40分 東経131度50分 / 北緯22.667度 東経131.833度 / 22.667; 131.833[37]の大東諸島の南方200キロの地点で輸送船に対して魚雷を3本発射。朝霜はこれに気づいたものの、2本が崎戸丸に命中して崎戸丸は沈没した[36]。もう1本が安芸丸に命中して航行不能に陥らせた[36]。撃破された安芸丸は8ノットの速力が出せるまでに回復し、沖波に護衛されて先行、2隻(朝霜、岸波)でアメリカ潜水艦の掃討をおこなう[36]。17時55分、朝霜は自艦の左舷1,200メートルに潜望鏡を発見した。2分後に60メートルに設定した12発の爆雷を投下、九三式水中探信儀を使用し、さらに深い深度に設定した7発の爆雷を投下した。その結果18時16分に海中の誘爆音を聴取、爆雷を一発投下した後水中探信儀を使用して探索したものの反応はまったくなかった。これがトラウトの最期だった。船団はサイパン島に立ち寄った後、グアムに進出した。


3月20日、第31駆逐隊(岸波、沖波、朝霜)はトラック諸島行きの東松三号特別船団、輸送船3隻(浅香丸、山陽丸、さんとす丸)を護衛して館山を出航[38]。船団は28日にトラック泊地に到着した[38][39]
その後、4月14日にリンガ泊地に進出し5月19日からは前進根拠地のタウイタウイ方面で対潜警戒に従事した[32]。6月19日のマリアナ沖海戦では丙部隊(第三航空戦隊《千代田、千歳、瑞鳳》、第四戦隊《愛宕〔第二艦隊旗艦〕、高雄、鳥海、摩耶》、戦艦大和、武蔵、金剛、榛名等。指揮官/第二艦隊司令長官栗田健男中将・海兵38期)に属した。海戦後、6月22日に中城湾に立ち寄った後[40]、6月24日に柱島泊地に帰投した[41]
この頃、朝霜は機関部(減速装置)に若干の不安を抱えた[42]
7月9日、第31駆逐隊は第四戦隊をリンガ泊地まで護衛するため臼杵湾を出撃、昭南を経て7月19日に到着した[43]、訓練に励んだ。



フィリピンの戦い


10月18日、捷一号作戦発動に伴って栗田中将の第二艦隊はリンガ泊地から出動し、ブルネイ湾で補給の後、10月22日に出撃した。しかし翌10月23日未明にパラワン水道において第二艦隊旗艦愛宕(高雄型重巡洋艦2番艦)がアメリカの潜水艦ダーター (USS Darter, SS-227) の[44]、第四戦隊僚艦摩耶(高雄型重巡4番艦)がデイス (USS Dace, SS-247) の雷撃でそれぞれ沈没し[45]、同じく第四戦隊高雄(高雄型重巡1番艦)がダーターの雷撃で大破して航行不能となった[46][44]。米潜水艦襲撃時、朝霜は第一部隊陣形中央後方に位置し、朝霜右舷(左舷)に戦艦大和・武蔵(長門)、朝霜の後方に島風が航行していた[47]。第31駆逐隊2隻(朝霜、岸波)は共同で午前7時頃に沈没した愛宕乗組員の救助をおこなった[48]。岸波は第一戦隊司令官宇垣纏中将座乗の戦艦大和(第一戦隊旗艦)に栗田司令長官以下第二艦隊司令部を移乗させると[49]、二水戦旗艦能代に従って僚艦沖波と共にシブヤン海へ向かった[50]


朝霜は愛宕生存者を救助した後[51]、第31駆逐隊僚艦長波とともに漂流しながら応急修理をおこなう高雄の警戒と護衛にあたった[52]。ダーターとデイスの2隻は高雄にとどめをさそうと追跡を続けていたが、修理後に発進した高雄水上偵察機や[53]、2隻(朝霜、長波)の警戒により攻撃機会を失ったという。21時44分、高雄は速力6ノットで航行可能となった[54]。2隻(朝霜、長波)はレイテ沖海戦に参加せず高雄の護衛に従事した[55][32]
10月24日午前3時30分以降、水雷艇鵯、特設駆潜艇御津丸が合流した[56]。午前9時、護衛部隊2隻(長波、鵯)はボンベイ礁に座礁したダーターの調査のため分離し、2隻(朝霜、御津丸)で高雄を護衛した[57]。長波はシブヤン海対空戦闘で被雷した重巡妙高の護衛の為に去り、鵯だけが3隻(高雄、朝霜、御津丸)の所へ戻ってきた[58]。10月25日夕刻、4隻(高雄、朝霜、鵯、御津丸)はブルネイ湾に帰投[59]。この時、本艦には第二艦隊の通信担当部員が乗ったままであり、レイテ沖海戦では第二艦隊はやむを得ず、第一戦隊(司令官宇垣纏中将・海兵40期、大和座乗)の通信担当部員を使うこととなった[60]。ブルネイ着後、朝霜幹部は第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)を追って出撃しようとしたが、荒木伝大佐(愛宕艦長、朝霜に救助)・小野田捨次郎高雄艦長の助言を受け、中止した[61]



レイテ沖海戦の後、朝霜以下第二水雷戦隊はレイテ島行きの多号作戦に投入される事となった。
11月5日、マニラ湾に対する大規模空襲により第五艦隊/第二遊撃部隊旗艦那智(妙高型重巡洋艦2番艦)が沈没、那智救援中の駆逐艦曙も大破した[62]。さらに僚艦沖波と朝霜も損傷し(朝霜は安藤文彦砲術長以下戦死者十数名、負傷者多数)、作戦に参加できなくなった[63][64]。曙の代艦として夕雲型姉妹艦秋霜(第2駆逐隊)が多号作戦部隊に編入された。
11月8日朝、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)は第四次輸送部隊第一梯団(第一水雷戦隊《霞〔一水戦旗艦〕、長波、若月、潮、朝霜、秋霜》、第七護衛隊《司令官松山光治少将:海防艦4隻〔沖縄、占守、11号、13号〕》、輸送船3隻《高津丸、香椎丸、金華丸》)を指揮してマニラを出撃した[65][66]
本来なら先に出発するはずだった第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官)はマニラ空襲により準備に遅れが生じ、第四次輸送部隊が先発することになった[67][68]


第四次輸送部隊は翌11月9日夕方にオルモック湾に到着するも、大発が揃わなかったため兵員しか陸揚げできなかった[69]。11月10日、輸送部隊はオルモック湾を出撃してマニラに向かったが、間もなくB-25とP-38 の攻撃を受けて陸軍特殊船高津丸(山下汽船、5,657トン)と輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)が沈没、輸送部隊を指揮する木村一水戦司令官は3隻(霞、朝霜、長波)を率いて救助作業にあたり、秋霜以下の艦艇を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラへ先発させた[70]
このあと、第四次輸送部隊護衛艦(霞、長波、朝霜、若月)は、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(旗艦島風)指揮下の第三次輸送部隊(護衛艦7隻《島風、浜波、初春、竹、駆潜艇46号、掃海艇30号》・輸送船5隻《せれべす丸、泰山丸、西豊丸、天照丸、三笠丸》)と合流し、駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)と駆逐艦2隻(初春、竹)を交換した[71]。霞に香椎丸生存者を移した朝霜は長波とともに第四次輸送部隊から離脱し、21時にマスバテ島東方のブラックロック水道で第三次輸送部隊に合流した[72]。第三次輸送部隊の駆逐艦は5隻(島風、長波、朝霜、若月、浜波)となり、そのままオルモックへ向かった[71][67]。なお、せれべす丸は座礁し駆潜艇46号の護衛下で取り残されていた[73]


第三次輸送部隊は11月11日の正午ごろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機347機[74]による空襲を受けた。浜波・若月・島風・長波と被弾していき、輸送船は全滅した[68]。朝霜は航行不能となった第二水雷戦隊旗艦島風に接近しようとしたが、再三にわたる機銃掃射のため接近を断念[75][76]。同艦では早川二水戦司令官が既に戦死しており、松原瀧三郎先任参謀が朝霜に帰れと命令したという[77][76]。また朝霜は沈没寸前の姉妹艦浜波に接舷すると、第32駆逐隊司令大島一太郎大佐を含む生存者を移乗させた[78][76]。この後、島風は沈没し第三次輸送部隊は朝霜一隻を残して全滅した[79]。朝霜は翌11月12日にマニラに帰投した[75]


同日、緊急輸送作戦のためマニラに入港していた空母隼鷹、重巡利根、第30駆逐隊(夕月、卯月)からなる小艦隊は、西村艦隊唯一の残存艦時雨を編入してマニラを出港、日本本土へ向かった[80]。それまで隼鷹隊を護衛していた軽巡木曽は時雨と入れ替わるようにマニラに残置されている。
翌11月13日、マニラは第38任務部隊艦載機の空襲を受け軽巡木曾、駆逐艦複数隻(初春型《初春》、吹雪型《曙》、夕雲型姉妹艦《沖波、秋霜》)等が沈没(大破着底)した。特に第2駆逐隊はレイテ沖海戦での早霜の喪失とマニラ空襲での秋霜の喪失により、夕雲型19番艦清霜1隻となった。また第31駆逐隊僚艦の岸波も12月5日にアメリカの潜水艦フラッシャー (USS Flasher, SS-249) の雷撃で撃沈され[81]、第31駆逐隊司令福岡大佐は12月11日附で免職となった[82]。第31駆逐隊は翌年1月10日に解隊された[83]。同駆逐隊に所属した夕雲型はこの時点で本艦以外全隻が沈没した。



礼号作戦・北号作戦


11月15日、朝霜は第31駆逐隊から第2駆逐隊(駆逐隊司令白石長義大佐)[84]に編入され、同隊は夕雲型2隻(清霜、朝霜)になった[85]。その後リンガ泊地に回航され、11月28日から12月5日までセレター軍港で修理を行った[86]。この頃、昭南には11月19日にアメリカの潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の長良型軽巡洋艦2番艦五十鈴がおり、スラバヤで本格的な修理が行われる事となった[87]。朝霜が途中まで護衛を行う事となり、12月5日に昭南を出港[87]、12月8日にリンガ泊地に帰投した[88]
12月9日以降、朝霜は第二水雷戦隊旗艦となった[89]。続いて航空戦艦2隻(伊勢、日向)、巡洋艦2隻(足柄、大淀)、駆逐艦2隻(朝霜、清霜)はカムラン湾に進出した[90]。カムラン湾移動後、二水戦旗艦は軽巡大淀に変更された[91][92]



12月24日、ミンドロ島に上陸したアメリカ軍に対する殴りこみ作戦(礼号作戦)が開始され、挺身部隊(指揮官木村昌福第二水雷戦隊司令官)はこれに呼応して挺身部隊(重巡1隻《足柄》、軽巡1隻《大淀》、駆逐艦6隻《霞〔木村少将座乗、挺身部隊旗艦〕、清霜、朝霜、榧、杉、樫》)を率いてカムラン湾を出撃する。2日後の12月26日夕刻、挺身部隊はB-25の爆撃を受けた。朝霜では空襲により17名が戦死し、艦に大なり小なりの損傷を受けた[93]。また、第2駆逐隊僚艦清霜は23時15分に大爆発を起こして沈没した。朝霜は清霜が行方不明になった事を木村少将に報告したが、木村少将は作戦終了後に救助するので海図に沈没位置を記しておくよう命令した[94]。やがて砲撃を終えた挺身部隊は、2隻(霞、朝霜)を清霜乗員の救助にあたらせるため残留させ、残りは先にカムラン湾に向かった。2隻(霞、朝霜)は機関を止めて航空機と魚雷艇に警戒しつつ救助活動を行い、木村少将自ら双眼鏡越しに海上に浮かぶ清霜乗員を数えた[95]。2時34分まで救助作業を行った後[96]、12月28日18時30分にカムラン湾に帰投した[97]


1945年(昭和20年)1月3日、第二水雷戦隊司令官は木村昌福少将から古村啓蔵少将へ交代(着任・退任1月4日)[98][99][100]
1月10日、かつて朝霜が所属していた第31駆逐隊は解隊された(前述)[83]。第2駆逐隊からも、書類上在籍していた2隻(早霜、秋霜)が除籍された[83]。前年末〜2月初めごろの朝霜は、セレター軍港での整備とリンガ泊地での訓練および待機に明け暮れた[101]。2月5日、第四航空戦隊(司令官松田千秋少将・海兵44期)に対してガソリン、ゴム、錫などの貴重物資を搭載して内地に回航するよう命令が出され、作戦名を「北号作戦」として部隊名を「完部隊」とした[102]



朝霜は2月7日から9日にかけて貴重物資を搭載し、2月10日16時に昭南を出港した[103]。完部隊(第四航空戦隊《日向、伊勢、大淀》、第二水雷戦隊《霞〔二水戦旗艦〕、朝霜、初霜》)は潜水艦と航空機の脅威を次々と交わしつつ北上していった。中国大陸沿岸、舟山群島を航行。2月15日夜、馬祖島で仮泊、大型艦から駆逐艦への燃料補給を実施(日向→霞、伊勢→初霜、大淀→朝霜)[104][105]。黄海南方、対馬北方を経て2月19日に六連に到着[106]。2月20日、完部隊は呉に帰投した[107][108]



坊の岬沖海戦





沈没寸前の朝霜。(1945年4月7日)


1945年(昭和20年)2月10日をもって第2駆逐隊は解隊され、朝霜は第二水雷戦隊所属の第21駆逐隊(駆逐隊司令石井汞大佐)[109]に編入されていた[110]
2月20日附で第二水雷戦隊各艦で人事異動が行われ[111]、朝霜航海長芦田収大尉は海軍兵学校へ転勤、後任の航海長として金剛型戦艦3番艦榛名より出口勝巳中尉が着任[111]。また朝霜機関長原田周三機関大尉は秋月型駆逐艦3番艦涼月機関長へ転任[112][111]。長門型戦艦1番艦長門より佐多盛雄機関大尉が朝霜機関長に任命された[111]
2月23日、第二水雷戦隊旗艦は霞から阿賀野型軽巡洋艦3番艦矢矧に変更[113]、朝霜以下第二水雷戦隊各艦は整備と訓練に従事した。3月19日の呉軍港空襲で対空戦闘を実施。
なお、3月18日附で石井大佐は第21駆逐隊司令の職務を解かれ[114]、後任の司令には3月25日附で伊勢型戦艦1番艦伊勢副長小滝久雄大佐が任命された[115]
3月27日、朝霜は第21駆逐隊の司令駆逐艦となった[116]


3月28日、第一遊撃部隊指揮官伊藤整一第二艦隊司令長官は第一遊撃部隊(大和、矢矧、駆逐艦12隻)の佐世保回航を各方面に連絡した[117]。だが、アメリカ軍の機動部隊が九州地方を襲撃したため第一遊撃部隊の豊後水道通過佐世保回航は中止された[118]
3月29日、周防灘に移動[119]
この日、同じく周防灘へ移動中だった吹雪型駆逐艦響(第7駆逐隊所属)が触雷して損傷したため、朝霜は響の警戒艦を命じられる[120]。響を曳航して一旦呉に向かったが[121]、響の動力が回復して自力航行が可能になったため朝霜は周防灘に引き返した[122]。触雷した響を曳航・護衛したのは初霜という響・初霜乗組員の証言も残る[123][124]


4月6日15時30分、第21駆逐隊(朝霜、初霜、霞)は沖縄水上特攻作戦(天一号作戦)に第一航空戦隊(戦艦大和、第二艦隊旗艦)、第二水雷戦隊旗艦矢矧(司令官古村啓蔵少将)、第17駆逐隊(磯風、雪風、浜風)、第41駆逐隊(冬月、涼月)とともに徳山を出撃した。しかし、翌4月7日早朝、第二艦隊が巡航速力22ノットで航行中[2]、朝霜は機関故障を起こして速力12ノットしか出なくなり落伍した[125][126]。朝霜側は呉工廠における減速機の修理が原因と判断していた[42]。だが、第二水雷戦隊司令部は機関故障の原因をクラッチ故障にあったと推定している[127]


朝霜では応急修理(予定五時間)を実施したが復旧せず[128]、正午過ぎに『我敵機ト交戦中』『90度方向に敵機30数機を探知す』との無電を発した後、連絡が途絶えた[129]。単艦戦闘であった上、生存者がいない為に各艦が砲煙らしきものを確認しただけで、その最期は明らかではない[130]。涼月砲術長によれば、大和以下本隊から約30km離れていた朝霜は水平線上にマストだけが見えていた[131]。アメリカ軍機の大編隊は第二艦隊を完全に包囲、旋回しながら攻撃タイミングをうかがっていたが、やがて一群が朝霜に急降下爆撃を行い、戦闘は数分で終わったという[131][130]


アメリカ側の記録では、空母バンカー・ヒル (USS Bunker Hill, CV-9) のSB2C ヘルダイバー10機が大和の攻撃に向かう途中、「北の駆逐艦(朝霜)をやれ!」との命令を受けて奄美大島近海を北上して朝霜を発見[132]、朝霜は左方向に逃げ続けたものの至近弾数発を受けさらに爆弾3発(煙突の間、二番煙突後方、艦尾部)が命中した[133]。艦後部(3番主砲付近)に爆発が起きたあと後部に傾斜していった[134]。だが、アメリカ軍機は雲によりそれ以上の観測を妨げられたという[134]。朝霜は消息不明となり、駆逐隊司令小滝大佐以下乗員326名全員が戦死と認定され沈没したと言われる[132][2][135]
一連の戦闘で大和及び第二水雷戦隊5隻(矢矧、朝霜、磯風、浜風、霞)が沈没、4月20日に第二水雷戦隊は解隊された[136]。第21駆逐隊で唯一生還した初霜も同日附で第17駆逐隊に編入された[137]
5月10日、第21駆逐隊は解隊された[138]
同日、朝霜は夕雲型駆逐艦[139]、帝国駆逐艦籍より除籍された[140]。また、朝霜の沈没により夕雲型駆逐艦19隻は全艦喪失、また霞の沈没により朝潮型駆逐艦10隻も全艦喪失、19隻建造された陽炎型駆逐艦も雪風1隻を残すのみとなった。7月30日、初霜は触雷して擱座沈没し[141]、第21駆逐隊に所属した駆逐艦6隻(初春、子日、若葉、初霜、時雨、霞、朝霜)も全隻喪失した。



歴代艦長


艤装員長

  1. (臨時)前川二三郎 中佐:1943年11月1日[4] - 1943年11月27日[9]

駆逐艦長


  1. 前川二三郎 中佐:1943年11月27日[9] - 1944年1月27日[30]

  2. 杉原與四郎 少佐/中佐:1944年1月27日[30] - 1945年4月7日 戦死認定、同日付任海軍大佐[142]



参考文献




  • SS-202, USS TROUT(issuuベータ版)

  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。


  • 上村嵐 『海軍は生きている』 新人物往来社、2000年8月。ISBN 4-404-02873-3。 上村は島風機関長。昭和19年4月〜沈没まで勤務。

  • 岸見勇美 『地獄のレイテ輸送作戦 敵制空権下の多号作戦の全貌』 光人社、2010年12月。ISBN 978-4-7698-2666-8。

  • 倉橋友二郎 『駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』 徳間書店、1967年6月。

  • 倉橋友二郎 『激闘駆逐艦隊』 朝日ソノラマ、1987年12月。

  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年

  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年

  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年

  • 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年、ISBN 4-257-17218-5

  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9


  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』 光人社NF文庫、1993年。ISBN 47698-2009-7。
    • 海戦の原則 <駆逐艦「浜波」司令・大島一太郎少将の証言>(レイテ沖海戦、多号作戦時、第32駆逐隊司令として夕雲型駆逐艦浜波乗艦)



  • 志賀博ほか 『駆逐艦物語 車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気』 潮書房光人社、2016年4月。ISBN 978-4-7698-1615-7。


    • 当時「響」水雷科員・連管長藤本清『駆逐艦乗りたちの忘れえぬ戦場体験 初春型「初霜」と神風型「朝風」と防空駆逐艦「秋月」と特型「響」の奮戦


    • 当時「朝霜」航海長・海軍大尉芦田収『夕雲型「朝霜」多号作戦オルモック輸送 敵機の集中攻撃をかいくぐり三次四次レイテ輸送から生還した航海長の体験


    • 当時「初霜」砲術長・海軍大尉藤井治美『われ初霜沖縄の海上砲台とならん 大和水上特攻作戦の顛末と初霜の最後を砲術長が克明に綴る戦闘日誌




  • 重本俊一ほか 『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』 潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。

    • 戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後



  • 寺内正道ほか 『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』 潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0。


    • 戦史研究家佐伯玲治『北方から南方へ第二十一駆逐隊の栄光 初春、子日、初霜、若葉。第一水雷戦隊の初春型駆逐艦四隻の転戦譜


    • 当時「矢矧」艦長・海軍大佐原為一『最後の駆逐隊八隻の沖縄水上特攻 十七駆(磯風、浜風、雪風)二十一駆(初霜、朝霜、霞)四十一駆(冬月、涼月)の奮戦


    • 当事「雪風」水測士兼艦長付・海軍少尉小早川真行『十七駆逐隊「雪風」」は死なず死闘あるのみ 十六駆逐隊の僚艦大破沈没、十七駆逐隊に転じた雪風の最後の大海戦



  • 福田幸弘 『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』 時事通信社、1981年7月。ISBN 4-7887-8116-6。


  • 原勝洋 『猛き艨艟 太平洋戦争日本軍艦戦史』 文春文庫、2000年8月。ISBN 4-16-745602-8。

    • 魔のパラワン沖・高雄型重巡戦隊の落日 「高雄」型重巡

    • 「大和」特攻に殉じた「矢矧」絶望の対空戦 軽巡洋艦「矢矧」



  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書46 海上護衛戦』 朝雲新聞社、1971年5月。

  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。


  • 「丸」編集部 『駆逐艦戦記 駆逐艦「神風」電探戦記』 光人社、2011年7月。ISBN 978-4-7698-2696-5。

    • "不死鳥"の異名をとった駆逐艦「響」激闘一代記 宮川正『憤怒をこめて絶望の海を渡れ』



  • 山本平弥ほか 『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』 潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6。


    • 戦史研究家落合康夫『艦名別秋月型駆逐艦十二隻の生涯』


    • 戦史研究家伊達久『夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争』


    • 当時「浜波」乗組・海軍中尉中沢五郎『オルモック急行「浜波」砲塔に息絶えて 長波、朝霜、若月らと行を共にした第三次多号作戦の悲惨


    • 当時「島風」機関長・海軍少佐上村嵐『追随をゆるさぬ最高速艦「島風」の最後 乗員四五〇名のうち生存者たった三名という制空権なき輸送作戦の結末



  • 吉田俊雄 「憤死の戦場 高速駆逐艦「島風」非業の死」『造艦テクノロジーの戦い 科学技術の頂点に立った連合艦隊軍艦物語』 光人社NF文庫、1995年(原著1989年)。ISBN 4-7698-2103-4。

  • 吉田満・原勝洋 『ドキュメント戦艦大和』 文藝春秋、1886年4月(原著1980年)。ISBN 4-16-734902-7。



  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)

    • Ref.C12070118900 『昭和18年1月~8月 達/5月(3)』。

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    • Ref.C08030103100 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。

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    • Ref.C14061106300 『S士官の手記 史実調査部/沖波戦闘行動関係』。

    • Ref.C14061106400 『S士官の手記続篇史実調査部』。

    • 多号作戦第四輸送部隊 第一水雷戦隊司令部『多号作戦戦闘詳報第二号(自昭和十九年十一月八日至昭和十九年十一月十一日第四次輸送作戦)』(昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030087600

    • 第二水雷戦隊戦時日誌『自昭和十九年十一月二十日至昭和十九年十二月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年11月20日〜昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030102400

    • 第二駆逐隊『自昭和十九年十二月一日至昭和十九年十二月三十一日 第二駆逐隊(清霜朝霜)戦時日誌』『自昭和二十年一月一日至昭和二十年一月三十一日 第二駆逐隊(朝霜)戦時日誌』(昭和19年12月1日〜昭和20年1月31日 第2駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030144900

    • 第二駆逐隊『昭和十九年十二月三十一日 第二駆逐隊(朝霜清霜)礼号作戦戦闘詳報』(昭和19年12月1日〜昭和20年1月31日 第2駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030145000

    • 野村留吉『第四航空戦隊 戦時日誌抜粋』(昭和19年5月1日〜昭和20年3月1日 第4航空戦隊戦時日誌抜粋 (旗艦日向行動等)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030742100




脚注




  1. ^ ab#達昭和18年5月(3)pp.4-6『達第百二十一號 昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻、潜水艦三隻、海防艦二隻、驅潜艇二隻及特務艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十八年五月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 沖波(オキナミ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 岸波(キシナミ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 朝霜(アサシモ)|佐世保海軍工廠ニ於テ検図 伊號第四十六潜水艦|三菱重工會社神戸造船所ニ於テ建造 呂號代四十五潜水艦 呂號第四十七潜水艦|日立造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 平戸(ヒラト)|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 御藏(ミクラ)|日立造船所株式會社因島造船所ニ於テ建造 第四十六號驅潜艇|川南工業株式會社香焼島造船所ニ於テ建造 第四十七號驅潜艇|株式會社播磨造船所ニ於テ建造 特務艦 波勝(ハカチ)』

  2. ^ abc#S20.02二水戦詳報(3)pp.49-50『七.機関(イ)艦隊速力二十二節巡航運転中朝霜ハ會敵約二時間前ヨリ舟左巡航「タービン」減速装置温度過昇シ(温度不明)巡航「タービン」ヲ离(離)脱セントシニ离脱ニ約五時間ヲ要スル應急作業トナリ(同艦ヨリノ信號報告ニ依ル)解列シ艦隊ノ視界内続行中對空戰闘トナリ遂ニ行方不明トナリ』


  3. ^ #内令昭和18年5月(7)pp.4-5『内令第千二十七號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス 昭和十八年五月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|駆逐艦、一等夕雲型ノ項中「濱波」ノ下ニ「、沖波、岸波、朝霜」ヲ加フ(以下略)』

  4. ^ ab『昭和18年11月1日付 海軍辞令公報(部内限)第1255号 p.46』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094200 


  5. ^ 『昭和18年11月9日(火)海軍辞令公報(部内限)第4536号 p.34』 アジア歴史資料センター Ref.C12070442500 『○事務開始 塩屋艤装員事務所ハ十月二十八日長崎海軍監督官事務所内ニテ事務ヲ開始セリ|○朝霜艤装員事務所ハ十一月二日藤永田造船所内ニ於テ事務ヲ開始セリ』


  6. ^ #秋月型(潮2015)227-228頁『朝霜(あさしも)』


  7. ^ 『昭和18年12月2日(木)海軍辞令公報(部内限)第4555号 pp.16-17』 アジア歴史資料センター Ref.C12070443000 『○事務所撤去 高尾事務所ハ十一月二十二日之ヲ撤去セリ|呂號第四十一潜水艦艤装員事務所ハ十一月二十五日之ヲ撤去セリ|○朝霜艤装員事務所ハ十一月二十七日之ヲ撤去セリ』


  8. ^ #内令昭和18年11月(6)pp.8-9『内令第二千五百九號 驅逐艦 朝霜 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|昭和十八年十一月二十七日 海軍大臣 嶋田繁太郎』

  9. ^ abc『昭和18年12月1日(発令11月27日)海軍辞令公報(部内限)第1270号 p.38』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094600 


  10. ^ #S1804十一水戦(6)p.36『二七(天候略)朝霜當隊ニ編入』


  11. ^ #戦隊行動調書p.46『11sd 一一.二四訓点部隊2D/2S 11sd(竜田浜波朝霜)|一一.二八朝霜11sdニ編入』


  12. ^ 『昭和18年11月20日(発令11月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1265号 p.20』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094500 


  13. ^ #S1804十一水戦(6)p.7『(イ)職員氏名|司令官|少将|木村進|十一月二十三日退任/司令官代理|大佐|小川莚喜|十一月二十三日以降』


  14. ^ #S1812十一水戦(1)p.5『二.濱波十二月十五日附32dgニ編入』

  15. ^ ab#S1812十一水戦(1)p.5『一.岸波十二月三日附、沖波十日附11sdニ編入』


  16. ^ #S1804十一水戦(6)p.4『(ロ)軍隊区分 自十一月二十四日至十一月三十日』


  17. ^ #S1804十一水戦(6)pp.5-6『(麾下艦船部隊ノ行動)』


  18. ^ #S1812十一水戦(1)p.6『(軍隊区分)訓練部隊|(指揮官)11sd司令官|(兵力)龍田朝霜岸波沖波|(指揮官)山城艦長|(兵力)2D/2S〔山城伊勢日向〕|主要任務(一)新造駆逐艦ノ急速戰力練成戦備促進 (二))水上艦艇ノ訓練統制 (三)練習生乗艦實習指導 (四)日本近海ニ出現スル敵艦艇攻撃及対潜警戒(特令ニ依ル)』


  19. ^ #S1812十一水戦(1)p.10『(四)麾下艦船部隊竝ニ訓練部隊一時加入艦ノ行動』


  20. ^ 『昭和18年12月17日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1283号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094900 


  21. ^ #S1812十一水戦(1)p.7『(イ)主要職員氏名』


  22. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.15『(春雨)横須賀ニ於テ修理中ノ所十日修理工事完成/十六日訓練ノ爲内海西部ニ向ケ横須賀発(途中假泊)十九日桂島着二十八日迄諸訓練ニ従事/二十九日燧灘ニ於テ山城時雨ニ合同以下27dg(時雨)ニ仝ジ』


  23. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.15『27dg(時雨)(略)二十九日司令交代(海軍大佐白濱政七)呉発山城春雨ニ合同燧灘假泊/三十日春雨ト共ニ山城護衛假泊地発/三十一日横須賀着』


  24. ^ #S1812十一水戦(1)p.37『三十日〇八一五山城艦長(宛略)山城時雨春雨沖波朝霜横須賀ニ向ケ内海西部発〇六三〇』


  25. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.73『三十一(天候略)27dg(時雨春雨)一五三〇横須賀着|27dg(時雨春雨)山城ヲ護衛横須賀着』


  26. ^ #S1812十一水戦(1)p.46『三一日(天候略)山城朝霜沖波時雨横須賀着』


  27. ^ #S1812十一水戦(1)p.68『四(天候略)沖波朝霜内海西部ニ向ケ日一〇〇〇横須賀発』


  28. ^ #S1812十一水戦(1)p.55『四日一〇〇〇沖波(宛略)沖波朝霜内海西部ニ向ケ横須賀発』-『五日一九〇二11sd司令官(宛略)沖波朝霜内海西部着』


  29. ^ #S1812十一水戦(1)p.51『(四)麾下艦船部隊竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動』

  30. ^ abc『昭和19年1月28日(発令1月27日)海軍辞令公報(部内限)第1307号 p.12』 アジア歴史資料センター Ref.C13072095500 

  31. ^ ab#内令昭和19年2月(2)p.18『内令第三百十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年二月十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、巻波、大波」ヲ「長波、岸波、沖波、朝霜」ニ改ム』

  32. ^ abc#陽炎型(2014)321-322頁『朝霜(あさしも)』


  33. ^ 『昭和18年12月10日付 海軍辞令公報(部内限)第1278号 p.17』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094800 


  34. ^ 『昭和19年2月5日付 海軍辞令公報(部内限)第1315号 p.19』 アジア歴史資料センター Ref.C13072095700 


  35. ^ このうちの一人が横井庄一

  36. ^ abcde#S1812二水戦日誌(4)p.13『(6)31dg(岸波沖波朝霜)十日附31dgヲ右三艦及長波ノ四隻ト改メラレ2sdニ編入セラル/二十五日迄内海西部ニ在リテ教育訓練及出撃準備ニ從事/二十六日重要船團タル安藝丸船團(崎戸丸東山丸)ヲ護衛宇品発/二十九日〇二五二朝霜25°43′N130°21′Eニ於テ敵浮上潜水艦ヲ電探ニテ探知照射砲撃ニ依リ撃沈ス 仝日夕刻一七五五22°40′N131°50′Eニ於テ崎戸丸安藝丸雷撃ヲ受ケ崎戸丸沈没安藝丸ハ航行可能 安藝丸東山丸ハ沖波之ヲ護衛「サイパン」ニ向ハシメ岸波朝霜敵潜攻撃朝霜之ヲ撃沈ス人員救助敵潜制圧後両艦船團ニ向フ』


  37. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030102100, pp.13,40,41,51

  38. ^ ab#叢書46海上護衛戦363-364頁『東松三号特別船団』


  39. ^ #山陽丸(7)p.58『二八|「トラック」着|人員及軍需品ノ陸揚搭載』


  40. ^ 木俣『日本戦艦戦史』401ページ


  41. ^ 木俣『日本戦艦戦史』402ページ

  42. ^ ab#S20.02二水戦詳報(3)p.50『(略)同艦ハあ號作戰以来巡航「タービン」減速装置ノ音響大ナリシ爲今次出撃前呉工廠ニ於テ減速装置ノ中心險査竝ニ片當リ部分ノ摺合ヲ施行シタリ今回ノ故障ノ原因ハ秓上ノ工廠修理ノ不具合ニ依リ減速装置焼損シタルガ如ク信號報告アリタルモ左ノ諸項ヨリ判断シ嵌脱接手部ノ故障ト認メラル』


  43. ^ #S1812高雄日誌(4)pp.45,47

  44. ^ ab#猛き艨艟227-232頁『愛宕、高雄に魚雷命中』


  45. ^ #猛き艨艟232-234頁『摩耶の最期』


  46. ^ #愛宕戦闘詳報所見p.4『尚二番艦高雄ハ本艦(愛宕)被雷時ヨリ1分後、第五戦隊三番艦ノ位置ニ占位セル摩耶ハ午前六時五十六分頃被雷、高雄ハ航行不能摩耶ハ轟沈セリ』


  47. ^ #愛宕戦闘詳報所見p.3『(イ)一般経過(略)(左圖参照)』、#高雄対潜戦闘p.3『第一情況(イ)(略)23日黎明「パラワン」島西方海面ヲ左圖ノ如キ警戒航行序列基準進路35度速力18節之字運動A法時刻法ヲ以テ航海中敵潜水艦ノ雷撃ヲ受ク』


  48. ^ #愛宕戦闘詳報所見p.5『(四)本艦乗員ノ状況 (1)岸波及朝霜ニ救助セラレタル者:艦長以下准士官以上44名、下士官兵667名、傭人2名 (2)戦死者:機関長以下准士官以上19名、下士官兵340名、傭人1名 (3)重傷者:准士官以上2名、下士官兵3名 尚朝霜長波2艦ハ爾後高雄ノ警戒ニ當リツツ仝日夕刻迄附近海面ヲ行動セリ』


  49. ^ #レイテ岸波詳報p.6『一六一〇|大和舟左ニ横付』-『一六一五|2F長官大和ニ移乗』


  50. ^ #レイテ岸波詳報p.6『一六二〇|(司令官)能代|2sd|〃|作業終了後岸波(沖波)鳥海ノ一一(一二)能代ハ大和ノ二一ニ就ク』


  51. ^ #高雄対潜戦闘p.6『0832大和→朝霜/朝霜ハ高雄ノ護衛ヲ続行スベシ|朝霜愛宕乗員ノ救助ヲ終リ本艦ノ警戒ニ就ク』


  52. ^ #高雄対潜戦闘p.6『0849大和→長波・朝霜/長波朝霜ハ今ヨリ高雄艦長ノ指揮ヲ受ケ護衛ニ任ゼヨ』


  53. ^ #高雄対潜戦闘p.29『(四)飛行科 被雷時激動及落下物ノ為小破セシモ5時間ニテ修理完成、水発セシメ尓後「ラブアン」ヲ基地トシ左ノ如ク本艦ノ対潜警戒ニ従事シタリ』


  54. ^ #高雄対潜戦闘p.9『2144/我行進ヲ起ス|概ネ六節ニテ機械操艦ニ依リ行進ヲ起ス』


  55. ^ #多号作戦経過概要p.2『31dg/長波 高雄護衛海戦不参加/朝霜 同右』


  56. ^ #高雄対潜戦闘p.10『0332|鵯、御津丸ヲ二三〇度方向認ム』


  57. ^ #高雄対潜戦闘p.10『0900高雄→各/中攻ノ通報ニ依レバ敵潜1隻福瀬ニ坐礁シアリ、長波鵯ハ長波駆逐艦長之ヲ指揮シ敵潜ヲ処分シ作戦資料ヲ押収シ来レ|長波、鵯、分離反転ス』


  58. ^ #高雄対潜戦闘p.11『1556将旗1YB/妙高ハ被雷(v)ニ依リ「コロン」ヲ経テ「ブルネイ」ニ回航中、長波ハ妙高艦長ノ指揮ヲ承ケ同艦ノ警戒ニ任ズベシ|25日0310鵯合同ス』


  59. ^ #高雄対潜戦闘pp.11-12『1400高雄→各/入港順序ヲ高雄、御津丸、朝霜、鵯ノ順ニ改ム|1532/弯口通過|1816高雄→朝霜、鵯/護衛ニ関スル本職ノ指揮ヲ解ク。御協力ヲ深謝ス』


  60. ^ 木俣『日本水雷戦史』511ページ


  61. ^ #駆逐艦物語231-232頁


  62. ^ #地獄のレイテ輸送作戦37-38頁


  63. ^ #S士官の手記pp.22-23『5/11 多號作戰待機中ノ1sd 2sdノ主力「マニラ」港内ニ集結船團モ多數碇泊セルモ敵機ハ主目標ヲ「ニコラス」飛行場及防波堤外ノ艦船ニ向ケ防波堤内ノ艦船ニハ攻撃ヲ殆ド加ヘズ堤外ニテ之ノ敵ヲ砲撃セシモノ那智、沖波他ニ驅潜艇一商船一、〇七三〇頃六〇機來襲、一〇〇〇百機來襲、一二〇〇 四〇機、一四三〇 八〇機來襲此ノ日ノ戰闘ハ快晴ナレドモ雲低ク敵機ハ之ヲ利用シ急降下ス、激烈ヲ極メシ戰闘ヲ續ケ沖波機銃員ノ被害漸大、被爆ノ爲電灯消ユ、機械一時停止主砲人力等最後ノ空襲ニ依リ艦長重傷一六〇〇那智救助ニ向ヒ間モナク來着セル病院船ト協力、全部救助、沖波戰死十籔名、重輕傷多數、艦長入院、翌日ノ被攻撃ヲ避ケ出港、戰果撃墜二機』


  64. ^ #駆逐艦物語232-233頁


  65. ^ #多号作戦経過概要p.6『四|香椎丸 金華丸 高津丸|第一水雷戰隊 (霞長波朝霜若月潮秋霜)海防艦(沖縄占守十一號十三號)|沈没 香椎丸高津丸海十一 損傷 秋霜金華丸|軍隊 泉兵團ノ主力約一〇,〇〇〇名|糧食 弾薬 遠距離砲/約三六〇〇 四門|ナシ|一一-九|一一-八「マニラ」發「オルモツク」突入 各船人員全部、物件ノ一部ノミ揚陸』


  66. ^ #地獄のレイテ輸送作戦38頁

  67. ^ ab#多号作戦経過概要p.6『三|三笠丸(J)泰山丸(JYW)西豊丸( )天昭丸(JIVE)せれべす丸(JOED)|第二水雷戰隊 島風濱波初春竹掃三〇驅潜四六(註)第四次輸送部隊ト行會ヒタル際、長波朝霜若月加入初春及竹ハ分派ス|沈没 島風濱波若月長波掃三〇三笠丸泰山丸西豊丸天昭丸 坐礁(往途)せれべす丸|軍隊 泉兵團(第一二六師團)ノ一部約一,〇〇〇名|軍需品 糧食、弾薬 約七,五〇〇 ナシ|一一-一〇|一一-九「マニラ」發「オルモツク」突入準備ノ都合上第四次輸送部隊ニ遅レ「マニラ」ヲ出撃揚搭前「オルモツク」灣口ニテ空襲ヲ受ケ全滅』

  68. ^ ab#駆逐艦物語233-234頁『集中攻撃を受ける朝霜』


  69. ^ 木俣『日本水雷戦史』552ページ


  70. ^ 木俣『日本水雷戦史』554ページ

  71. ^ ab#地獄のレイテ輸送作戦43-46頁『壮絶、第三次輸送部隊』


  72. ^ 『多号作戦戦闘詳報第二号』pp.16


  73. ^ #佐藤 艦長(文庫)218頁


  74. ^ 木俣『日本水雷戦史』559ページ

  75. ^ ab木俣『日本水雷戦史』560ページ

  76. ^ abc#駆逐艦物語235-238頁『生存者を救助してマニラへ』


  77. ^ #海軍は生きている136頁


  78. ^ #秋月型(潮2015)216-219頁『乗艦との永遠の別れ』


  79. ^ #海軍は生きている137頁


  80. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.13『12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港』〔筑摩は既に沈没〕


  81. ^ #秋月型(潮2015)226-227頁『岸波(きしなみ)』


  82. ^ 『昭和19年12月11日付 海軍辞令公報(甲)第1669号 p.14』 アジア歴史資料センター Ref.C13072102300 

  83. ^ abc#秘公報昭和20年1月(2)p.7『内令第二五號 驅逐隊編制中左ノ通改訂セラル 昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』


  84. ^ 『昭和19年8月15日付 海軍辞令公報(甲)第1567号 p.13』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100600 


  85. ^ #秘海軍公報昭和19年11月(3)pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ||第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫||第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』


  86. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030102400, pp.14,15

  87. ^ ab『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030102400, pp.11


  88. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030102400, pp.15


  89. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.12『清霜亦急速整備ヲ完了シ十二月九日将旗ヲ之ニ移揚「リンガ」ニ進出ス即日将旗ヲ朝霜ニ移動揚ス』


  90. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030102400, pp.32,33


  91. ^ #S1911第五艦隊(2)p.14『(二)自十二月一日至十二月三十一日第二遊撃部隊麾下艦船部隊行動一覧表』


  92. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.12『朝霜探照燈反射鏡破損シ之ガ換装ノ爲十一日昭南ニ回航整備ノ上十二日「リンガ」出撃ノ2YBニ合同北上十三日初霜霞ヲ合同十四日「カムラン」着将旗ヲ大淀ニ移揚ス』


  93. ^ 『礼号作戦戦闘詳報』pp.16,17


  94. ^ 木俣『日本水雷戦史』597ページ


  95. ^ 木俣『日本水雷戦史』605ページ


  96. ^ 『礼号作戦戦闘詳報』pp.15


  97. ^ 『礼号作戦戦闘詳報』pp.19


  98. ^ 『昭和20年1月9日(発令1月3日付)海軍辞令公報(甲)第1688号 p.37』 アジア歴史資料センター Ref.C13072102800 


  99. ^ #S1911二水戦日誌(2)p.10『四日新司令官古村啓蔵少将着任交代ヲ了ス』


  100. ^ #S1911二水戦日誌(2)pp.16-17『二.人員ノ現状(イ)司令部(一)主要職員官氏名』


  101. ^ 『第二駆逐隊戦時日誌』pp.30,31,32,33,34,35、『第五艦隊戦時日誌』pp.18


  102. ^ 野村, pp.14


  103. ^ 野村, pp.15


  104. ^ #S20.02二水戦詳報(1)p.33『一五(天候略)二〇〇〇4sf2sd福州沖仮泊|霞日向ヨリ、初霜伊勢ヨリ、朝霜大淀ヨリ}燃料補給{二五〇噸、三〇〇噸、二五〇噸|霞横付ノ際船体一部破損戰斗航海支障ナシ』


  105. ^ #S20大淀戦闘詳報p.9『…十五日一九三〇馬祖島泊地ニ假泊朝霜ニ二五〇噸重油ヲ補給シ曩ニ海南東東方海面ニテ護衛隊ニ入リシ第一駆逐隊ヲ分離シ十六日〇〇〇〇假泊地發…』


  106. ^ 野村, pp.17


  107. ^ #S20.02二水戦詳報(1)pp.10-11『北号作戦部隊(除1dg)10日2030ジョホールバール出撃途中敵潜敵機ノ触接攻撃ヲ蒙リツツモ其ノ都度之ヲ避退、排除シ20日呉着其ノ任ヲ達成セリ』


  108. ^ #S20大淀戦闘詳報p.48『十八日(司令官)4sf二十日一〇三〇(宛略)第一軍隊区分トナセ 4sf機密第二〇一〇三〇番電 北號作戰部隊〔4sf(日向伊勢大淀)〕2sd(霞初霜朝霜)呉着異状ナシ燃料残額合計二九〇〇噸』


  109. ^ 『昭和19年8月5日付 海軍辞令公報(甲)第1560号 p.11』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100500 


  110. ^ #秘公報昭和20年2月(2)pp.20-21『内令第一一一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年二月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、朝霜」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「桃、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「桑、」ヲ削ル』

  111. ^ abcd『昭和20年2月26日(発令2月20日)海軍辞令公報(甲)第1731号 pp.33-36 p.34芦田免職、p.35出口補職・原田免職、p.36佐多補職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072103500 


  112. ^ #秋月型(潮2015)59頁


  113. ^ #S20.02二水戦詳報(1)p.11『20日呉ニテ2F(大和)ト会シ回航部隊ハ第二艦隊長官麾下ニ復シ23日旗艦ヲ霞ヨリ矢矧ニ復帰セリ。爾後麾下各隊艦ノ実状ヲ確ムルト共ニ大部ハ呉、一部ハ内海西部方面ニ於テ夫々急速整備及各隊艦単独訓練ニ従事セシム…』


  114. ^ 『昭和20年3月28日(発令3月18日)海軍辞令公報(甲)第1757号 p.35』 アジア歴史資料センター Ref.C13072103900 


  115. ^ 『昭和20年4月1日(発令3月25日)海軍辞令公報(甲)第1761号 p.4』 アジア歴史資料センター Ref.C13072104200 


  116. ^ #S20.02二水戦詳報(1)p.43『(ハ)作戦指導(一)編制区分/3月27日以後21駆逐隊司令艦ヲ朝霜ニ変更』-p.53『(三)麾下艦艇ノ行動』


  117. ^ #S1802呉防戦(12)pp.24-25『二八 一〇二五(将旗)1YB(宛略)1YB機密第二八一〇二五番電 発第一遊撃部隊指揮官/着信者 呉鎮長官佐鎮長官/受報者 大海参一部長 第一遊撃部隊(大和矢矧駆逐艦十二隻)行動豫定三月二十九日一四〇〇豊後水道(丁水道)出撃接岸航路ニテ一九〇〇都井崎ノ一三五度四浬二二三〇佐田岬ノ一八〇度六浬爾後 三十日〇一三〇宇治島ノ一〇六度一八浬/〇四三〇釣枬島ノ二九九度二六浬/〇八三〇大蟇島ノ一八〇度七浬 ヲ經テ佐世保入港予定 平均実速十六節』


  118. ^ #S1802呉防戦(12)p.30『二八日一九五五(将旗)1YB(宛略)1YB機密第二八一九五五番電 発1YB指揮官宛軍令部總長 通報呉鎮長官 佐鎮長官 佐世保防備隊 呉防備戰隊司令官 本日敵KdB九州及豊後水道方面來襲ニ鑑ミ予定ノ豊後水道出撃ヲ見合ハセ周防灘ニ於テ待機ス』


  119. ^ #S20.02二水戦詳報(1)p.55


  120. ^ #S20.02二水戦詳報(1)p.66『二十九日一七三〇(将旗)1YB|朝霜ハ響ノ警戒艦トナレ|信號』


  121. ^ #神風電探戦記70-73頁(響乗組員の回想では、響は自力航行し朝霜が護衛に従事した。)


  122. ^ #S20.02二水戦詳報(1)p.66『29日1832将旗2F/朝霜ハ響ヲ曳航呉ニ向ヘ響自力航行可能トナラバ艦隊ニ合同セヨ、艦隊ハ明三十日姫島北方海面ヲ行動予定』


  123. ^ #駆逐艦物語190頁『特型駆逐艦「響」日本海の戦い 藤本清』


  124. ^ #駆逐艦物語242頁『四月一日(日)』


  125. ^ #S20.02二水戦詳報(2)p.26『0657 朝霜(司令)機関故障後落(速力12節)』


  126. ^ #ドキュメント大和103頁


  127. ^ #S20.02二水戦詳報(3)pp.50-51『(一)既ニ出撃後約一昼夜ノ巡航運転ヲナシ減速装置ノ摺合良好ナリシコト若温度上昇シタルトセバ既ニ主運転ナルベシ/(二)同部軸受温度上昇ニ関スル來歴ナシ(現凉月前朝霜機関長ノ言ニ依ル)/(三)呉廠ノ修理ハ順調ニ進捗ス/(四)嵌脱接手部故障トスレバ巡航ノ离脱作業ニ約五時間ヲ要ス/(五)減速装置焼損セバ直ニ巡航ヲ离脱シ得ル筈ナルニ离脱出來ザリシコト/尚同艦准士官以上ノ出撃前ノ機関整備ニ対スル熱意ハ司令部ノ助言ニ対シ極メテ低調ニシテ工廠ニ全巾依存シ居レリ今回ノ機関故障ノ原因ハ自己ト生死ヲ共ニスル機関ニ対スル整理操縦ノ不熱意ニ依ルトコロアラザルカ』


  128. ^ #駆逐艦物語246頁


  129. ^ #S20.02二水戦詳報(2)p.36『1210朝霜→YB「我敵機ト交戦中」《冬月30度方向ニ朝霜交戦中ラシキ砲煙ヲ認ム》』-『1221朝霜→YB「90度方向ニ敵機30数機ヲ探知ス」《爾後同艦ノ消息ナシ》』

  130. ^ ab#海軍駆逐隊(2015)322頁『朝霜、浜風の悲運と涼月の闘魂』

  131. ^ ab#駆逐艦隊悲劇の記録178頁

  132. ^ ab木俣『日本水雷戦史』629-630ページ


  133. ^ #ドキュメント大和127頁『「朝霜」攻撃から沈没まで(84爆撃機中隊)』

  134. ^ ab#ドキュメント大和125-126頁


  135. ^ #S20.02二水戦詳報(3)p.31『朝霜:分離行動中ニシテ敵機ト交戦中ノ電ヲ発進後消息不明、船体沈没総員戦死セルモノト推定ス。准士官以上18名、下士官兵308名』


  136. ^ #S20.02二水戦詳報(1)p.52『4月20日第二水雷戦隊戦時編制ヨリ除カレ1330将旗ヲ徹ス』


  137. ^ #秘公報昭和20年4月(3)p.33『内令第三三六號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年四月二十日 海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中「雪風」ノ下ニ「、初霜」ヲ加フ|第二十一驅逐隊ノ項中「初霜、」ヲ削ル』


  138. ^ #秘公報昭和20年5月(3)p.2『内令第四〇四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年五月十日 海軍大臣|第二十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』


  139. ^ #秘公報昭和20年5月(3)p.1『内令第四〇〇號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和二十年五月十日海軍大臣|驅逐艦、一等ノ部中「満潮型/霞」、「夕雲型/朝霜」ヲ削ル(以下略)』


  140. ^ #秘公報昭和20年5月(3)pp.24-26『内令第四一一號 横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 朝霜|呉鎮守府在籍 驅逐艦 霞 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年五月十日海軍大臣』


  141. ^ #海軍駆逐隊(2015)329頁『▽初霜(略)七月三十日、宮津湾で敵機と交戦中、触雷沈没した。』


  142. ^ 『昭和20年8月12日(発令4月7日)秘海軍辞令公報(甲)第1894号 p.12』 アジア歴史資料センター Ref.C13072106900 




関連項目



  • マリアナ沖海戦

  • 多号作戦

  • 礼号作戦

  • 北号作戦

  • 坊の岬沖海戦





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