海防艦
海防艦(かいぼうかん)は、戦闘用艦艇の一種[1]。
目次
1 概要
2 日本の海防艦
2.1 明治31年から昭和17年まで
2.2 海防艦類別の変遷
2.3 新海防艦の概要
3 海防艦各型(日本海軍)
4 旧定義艦の一覧(日本海軍)
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
概要
海防艦は、1万トン級の戦艦クラスから、千トン未満の小型艦に至るまで、多岐に渡る[2][3]。
沿岸・領海警備、拠点防衛、船団護衛、対潜哨戒等を主要任務とする艦のことを指す[4][5]。
任務の性質上、武装・装甲を重視し、速度・航洋性を犠牲にした艦が多い[1][6]。
北欧においては、近海防衛用に海防戦艦の整備を行っていた[7]。日露戦争時のロシア海軍海防戦艦も、日本海軍では海防艦に類別して運用したこともある[8]。
太平洋戦争以前の日本の海防艦は[7]、旧式化した軍艦の総称である[9][10]。
日本海海戦(日露戦争)における連合艦隊旗艦(司令長官東郷平八郎大将座乗)だった戦艦三笠も、最終的に海防艦へ類別変更されている[11][12]。
軍縮条約脱退後のマル3計画において、日本海軍は大和型戦艦や翔鶴型航空母艦と共に占守型海防艦(1000トン未満)を計画および建造する[13]。
太平洋戦争突入後の1942年(昭和17年)7月1日[14]、海防艦の定義を大幅に変更[3][15]。占守型の改良型や[16][15]、さらに簡易化・量産化をすすめた新型海防艦を多数建造した[7][17]。
日本の海防艦
明治31年から昭和17年まで
日本海軍における海防艦は、1942年(昭和17年)7月1日の類別変更を境にその性格が大きく異なる[14][7]。
1887年(明治20年)6月6日、日本海軍は建造予定の艦艇7隻について、艦名を内定[18][19]。
このうちフランス人技官ルイ=エミール・ベルタンの設計による軍艦3隻は、第一海防艦=厳島、第二海防艦=松島、第三海防艦=橋立と命名された(松島型防護巡洋艦)[19]。
1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海防艦という艦種を新設する[2][20]。
旧式化した戦艦や巡洋艦(装甲巡洋艦、防護巡洋艦)を海防艦として類別し[21]、軍艦籍のまま近海・沿岸の防備に用いることになった(以下「旧定義艦」)[22]。
当初は、計画排水量7000トン以上の海防艦を一等海防艦、7000トン未満3500トン以上の海防艦を二等海防艦、3500トン未満の海防艦を三等海防艦と定義(1912年8月28日、三等海防艦の等級廃止[23]。1931年6月1日、等級廃止)[20][24]。
これらの海防艦は、領海警備、拠点防衛、海上護衛、母艦任務、練習艦等、多岐にわたる任務に従事した[25][26]。
例えば1920年(大正9年)の尼港事件(シベリア出兵)では、海防艦見島(元ロシア軍艦アドミラール・セニャーヴィン)が砕氷艦として出動している[27]。
上海事変以降の日中戦争では、海防艦出雲(元装甲巡洋艦)が上海に進出し、第三艦隊や支那方面艦隊旗艦として作戦を指揮した[9][26]。
姉妹艦磐手と八雲は、練習艦隊を編成して多くの海軍士官を送り出した[28][29]。
二等海防艦新高(元防護巡洋艦)のように、オホーツク海での漁業保護活動中に遭難した艦もあった[30]。
これらの旧定義艦に対し1942年(昭和17年)7月の変更後は、小型で対潜水艦能力を備えた海上護衛用艦艇を「海防艦」と改めた[3]。
海防艦類別の変遷
1887年(明治20年)6月6日、第一海防艦、第二海防艦、第三海防艦をそれぞれ厳島、松島、橋立と命名[19]。第一種[31]。
1898年(明治31年)3月21日 「海軍軍艦及水雷艇類別標準」を初めて制定[2]。
軍艦の中に海防艦(一等、二等、三等)を規定[2][20]。- 初期のスループやコルベットなど計10隻(筑波、金剛、比叡、済遠、海門、天龍、葛城、大和、武蔵、高雄)を三等海防艦に類別[32]。
- 海防艦として計画された軍艦3隻(厳島、松島、橋立)は二等巡洋艦に類別[32]。
1905年(明治38年)12月12日 2等戦艦を廃止[33][34]。既存の3隻を海防艦に編入(鎮遠と壱岐は一等海防艦。扶桑は二等海防艦に類別)[35][36]。
1912年(大正元年)8月28日 「海軍艦艇類別標準」改正[23][37]- 三等海防艦を廃止し、二等海防艦(計画排水量7,000トン未満)に統合[38][39]。
- 既存の三等海防艦は、二等海防艦に編入[40]。
水雷母艦及び通報艦類別を廃止し、一部は海防艦に編入[38][39]。
1920年(大正9年)4月1日 「海軍艦艇類別標準」改正[41][42]。
航空母艦類別新設により二等海防艦若宮を[43]、水雷母艦類別復活により二等海防艦韓崎と駒橋を、それぞれ該当類別に転出[44][43]。
1931年(昭和6年)6月1日 海防艦の等級を廃止[24]
1942年(昭和17年)7月1日 「海防艦」の定義を大幅に見直す[3]。
- マル3計画新造の4隻(占守、国後、石垣、八丈)を軍艦籍より除籍[14]。海防艦○○と呼称変更[45][46]。
- 艦艇類別等級表に艦艇として海防艦を設け、海防艦占守型を新設[47]。
- ○○艦長の役職名を、○○海防艦長に変更、他役職名も同様[48]。
- 旧来の海防艦は、航行能力のある軍艦3隻(八雲、出雲、磐手)を海防艦から一等巡洋艦(重巡洋艦)に類別変更[47]。それ以外の海防艦3隻(浅間、吾妻、春日)を軍艦籍より除籍[14]。練習特務艦に類別する[45][49]。
新海防艦の概要
日本海軍が太平洋戦争時に多数建造した船団護衛等のシーレーン防衛や沿岸警備を主任務とする小型戦闘艦で、大戦前半の護衛艦艇(旧式駆逐艦、哨戒艇、機雷敷設艦、急設網艦、水雷艇、掃海艇、駆潜艇、特設艦艇等)にかわる護衛戦力の主力となった[50][51]。他国でいうフリゲートに相当する[52]。海防艦の英語表記はEscort(護衛艦)であり、対空・対潜武装を中心としたものであった。戦後、初期に配備された海上自衛隊護衛艦や海上保安庁の巡視船の原型になった艦である。
昭和時代に入ると装甲巡洋艦や防護巡洋艦由来の海防艦は老朽化が進み、順次退役していった。
1931年(昭和6年)8月、日本海軍は北洋警備を主任務とする小型海防艦の建造計画をまとめる[7][53]。新艦種としたのは、より北洋に対応した艦とすることと、ロンドン軍縮条約による補助艦制限により、それまで北洋警備に用いていた駆逐艦を正面戦力へと移すことが考慮されたためでもあった[21]。日本海軍が潜水艦に対処するため開発・整備していた艦艇は、駆潜艇であった[54][55]。日本海軍はロンドン海軍軍縮条約の制限外艦艇として、マル1計画に排水量1,200トン型海防艦4隻が盛り込んだが、実現しなかった[56][53]。当時、世界恐慌の影響により日本は財政緊縮時代であり、軍事予算も大幅に縮小[53]。戦列部隊(第一線部隊)の整備だけで手一杯で、防備兵力の整備は後回しにせざるを得なかった[53]。1933年(昭和8年)のマル2計画でも新型海防艦4隻の建造を要求したが、予算不足のため実現しなかった[56][53]。
1936年(昭和11年)5月、伏見宮博恭王軍令部総長は、昭和天皇に国防方針の改訂を説明[57]。このなかで、「所要兵力」における第二区分(防備用兵力)について「主トシテ内地防御作戦ニ任ズベキ内戦部隊デ、ソノ所要兵力ハ航空機オヨビ艦齢超過艦ヲモッテアテマスホカ、所要ノ艦艇ヲ新造充実イタシマス」と言上した[57][58]。
このような方針下[59][60]、新型海防艦はオホーツク海周辺におけるソ連との漁業紛争に対処するための小型艦(900トンクラス)として建造された(マル三計画、占守型)[61][62]。紛争地での対外交渉に従事することを考慮し、「軍艦」と位置づけられ、菊のご紋章を艦首に装着していた[62][63](昭和17年7月1日附で軍艦籍より除籍。役職も"艦長"から"海防艦長"に変更)[14][48]。この頃は海防艦の艦長は兵学校出身の中佐が務めていた[64]。
1937年(昭和17年)7月以降の日中戦争(支那事変)勃発により、新型海防艦の建造計画は頓挫してしまった[61]。しかし太平洋戦争開戦前[15]、拡大する戦域を航行する輸送船の護衛としてこの艦種が有用と見込まれ、占守型の設計を若干簡略化し、対潜装備を強化した択捉型[65][66]や御蔵型[67][68]の開発および建造を開始する[21]。さらに戦局悪化による護衛艦の不足により、大量生産向けに設計を大幅に簡略化した鵜来型・日振型などを大量に建造する[69][70]。いわば、当時の日本において海防艦建造は、海軍艦政本部、海上護衛総司令部の軍当局に加え、民間の三菱重工業、日本鋼管、日立造船などの造船メーカーを巻き込んだ一大国家プロジェクトであった。
上記の艦艇が完成する頃には戦況悪化が著しく、輸送船舶の被害が拡大していた。一方、当時の日本海軍は航空母艦、丁型駆逐艦(松型駆逐艦)、輸送艦(第一号型、第百一号型)、潜水艦の量産、既定の商船建造に傾注しており、護衛艦艇の建造は後回しにされがちだった[71][72]。
その中でも開戦時前決定マル急計画30隻(択捉型、御蔵型、日振型、鵜来型)、マル5計画および改マル5計画の海防艦34隻に加え[52]、1943年(昭和18年)4月の軍令部提議330隻建造に対し、同年6月に244隻建造計画が決定[73][74]。
小規模な造船所でも建造できるよう、また更に急造できるよう小型化(700トンクラス)[75]、簡略化を徹底した新しい海防艦が短期間で設計され、100隻を超える艦艇が建造された(丙型・丁型)[76][77]。
戦時中、帝国海軍が建造した艦種の中で、最も多い艦種となった。これらの新型海防艦は、他国でいうコルベットに相当する[76]。
1944年(昭和19年)度82隻、1945年(昭和20年)43隻、計125隻が完成[73]。ただし、あまりにも種類と仕様が雑多で統一性がなく(甲型、乙型、丙型、丁型、タービン機関、ディーゼル機関)、また艦ごとに艤装や計器の仕様が異なり、用兵側は編隊航行にも苦労することになった[78]。結局、護衛戦力としては高速の駆逐艦が最適であり、護衛指揮官の乗艦としては睦月型駆逐艦、護衛としては若竹型駆逐艦や鴻型水雷艇が重用された[79][80]。
こうして就役した海防艦のほとんどは、戦争の後期から末期にかけて、南方や日本近海で通商破壊戦を展開する連合国軍潜水艦・航空機に対抗し、輸送船を護衛して苛酷な戦いを繰り広げた[81]。
新型海防艦の最大の欠点は低速力(丙型、丁型とも17ノット前後)で、水上航行中の潜水艦や、護衛対象の優秀船にも劣った[51]。この速力不足は、現場の指揮官や海防艦艦長自身が痛感している[82]。サイパン輸送作戦時(昭和19年5月)の指揮官(睦月型駆逐艦「皐月」座乗)は、敵潜水艦(洋上航行速力19ノット)が輸送船団を追従した場合「海防艦では手の施しようがない」「とにかく一隻でも駆逐艦を有するということは強みだった」「とにかく一船団に少なくとも(駆逐艦)一隻は配属せしめる必要を痛感した」と回想している[80][83]。戦史叢書では『敵潜水艦より劣速の海防艦は、対潜護衛艦艇としての本質的要件に欠けるともいえるものである。』と評する[51]。しかし戦局の逼迫から、性能不充分ながら欠陥を承知で運用せざるを得なかった[51]。その結果、終戦までに完成した海防艦167隻(占守型4隻〈占守、国後、八丈、石垣〉、中華民国からの戦利艦海防艦2隻〈五百島と八十島〉を含めれば173隻)[84]のうち71隻[73]が失われた[85]。海防艦乗組員の戦死者は1万人以上と伝えられる[86]。この奮闘にもかかわらず、圧倒的な連合軍の前に、戦争末期には日本の海上輸送はほぼ壊滅することとなる。
また新型海防艦の就役数増加により、海防艦を主力とする諸部隊も新たに登場した(特設護衛船団司令部)[87]。
これらの部隊は、連合艦隊がマリアナ沖海戦及びレイテ沖海戦で事実上壊滅すると、残存戦力として第一線に押し出され、終戦まで作戦行動を継続した。
大戦中盤以降の海防艦の運用の中心を担ったのは、東京及び神戸の高等商船学校出身の海軍予備将校であった[86][88]。一般商船の高級船員がそのまま充員召集され、海防艦長、航海長、機関長などの任務に就いた[64][88]。新造とはいえ、戦時の粗末な構造で、兵器も充実していたといえず、各方面から集められた乗組員の訓練も不十分だった[86]。それでも、戦争遂行に不可欠なシーレーン防衛のために決死の戦いを強いられた各海防艦、商船隊の活躍は、海防艦自体の評価はともかくとして、評価に値するといえよう。さらに、戦後の海上自衛隊が艦艇を保有するにあたっての基本コンセプトの原型となった艦種という意味でも、海防艦の残した価値は意外と大きい。また、生産性の向上を徹底的に追求するなかで、ブロック工法や電気溶接を本格的に採用し、戦後の造船技術の潮流を作ったといえる。
戦後、生き残った艦の多くは復員業務に従事した後、賠償艦として連合軍に引き渡された。日振型と鵜来型のうち、志賀など計5隻がおじか型巡視船として海上保安庁で再就役し、昭和30年代後半まで活躍した[89]。
1980年(昭和55年)5月5日、海防艦顕彰会により靖国神社遊就館前に、『護国海防艦の碑』および海防艦像が建立された[86][90]。
記念艦となっていた志賀は[91]、老朽化により解体撤去された。日本国内に現存する海防艦籍にあった艦艇は三笠[12][92]のみである。
海防艦各型(日本海軍)
占守型海防艦(甲型)[93]
択捉型海防艦(甲型。海軍の法令上は占守型に含まれる)[93][94]
御蔵型海防艦(甲型)[93][94]
日振型海防艦(甲型。海軍の法令上は御蔵型に含まれる)[93][94]
鵜来型海防艦(甲型)[93][94]
一号型海防艦(丙型海防艦)[93][94]
二号型海防艦(丁型海防艦)[93][94]
旧定義艦の一覧(日本海軍)
筑波(つくば)
コルベット。3等海防艦に類別[32]。主に海軍兵学校練習船として航海の実習教材となる。1905年(明治38年)6月10日に除籍後、売却。
天龍(てんりゅう)
スループ。3等海防艦に類別[32]。主に海軍兵学校練習船として航海術の実習教材となる。1906年(明治40年)10月20日除籍
海門(かいもん)
スループ。3等海防艦に類別[32]。日露戦争において第3艦隊に属し、沿岸警備に従事。1904年(明治37年)7月5日、旅順哨戒中に触雷戦没。
葛城(かつらぎ)
スループ。3等海防艦に類別[32]。日露戦争において第3艦隊に属し、沿岸警備に従事。大正元年の等級見直しで2等海防艦に変更[40]。翌年1913年(大正2年)4月11日除籍。
大和(やまと)
スループ。3等海防艦に類別[32]。日露戦争において第3艦隊に属し、沿岸警備に従事。大正元年の等級見直しで2等海防艦に変更[40]。1922年(大正11年)9月1日、測量艦に変更。昭和10年まで海軍に在籍し、敗戦直後の枕崎台風のため遭難。
武蔵(むさし)
スループ。3等海防艦に類別[32]。日露戦争において第3艦隊に属し、沿岸警備に従事。大正元年の等級見直しで2等海防艦に変更[40]。1922年(大正11年)9月1日、測量艦に変更。昭和3年まで海軍に在籍し、昭和10年解体。
高雄(たかお)- 巡洋艦。国産初の鉄製軍艦。3等海防艦に類別[32]。日露戦争において津軽海峡・宗谷海峡での哨戒任務に従事。1911年(明治44年)4月1日除籍、売却解体。
済遠(さいえん)- 元清朝巡洋艦。3等海防艦に類別[32]。日露戦争において第3艦隊に属し、沿岸警備に従事。1904年(明治37年)11月30日、旅順哨戒中に触雷戦没
金剛(こんごう)- 装甲コルベット。3等海防艦に類別[32]。1909年(明治42年)除籍。
比叡 (ひえい)- 装甲コルベット。3等海防艦に類別[32]。1911年(明治44年)除籍。
見島(みしま)- 元ロシア海防戦艦アドミラル・セニャーウィン[8]。1905年(明治38年)6月6日、2等海防艦に編入[8]。主に舞鶴海兵団練習船として使用後、シベリア出兵の際に砕氷艦として使用。1922年(大正11年)4月1日、潜水艦母艇に転籍して佐世保で使用後、1935年(昭和10年)に除籍後、空母鳳翔航空隊の標的艦として使用中に沈没。日本海軍最大の特務艇である。
沖島(おきのしま)- 元ロシア海防戦艦ゲネラルアドミラル・グラーフ・アプラクシン[8]。1905年(明治38年)6月6日、2等海防艦に編入[8]。主に佐世保海兵団練習船として使用。1922年(大正11年)4月1日、雑役船に転籍して払い下げ。記念艦にするため輸送中に座礁、放棄。
扶桑(ふそう)- 元2等戦艦[95]。1905年(明治38年)12月12日、2等戦艦類別廃止にともない二等海防艦に変更[36]。特に目立つ行動はなく1908年(明治41年)4月1日除籍、売却解体。
鎮遠(ちんえん)- 元清朝甲鉄砲塔艦、元二等戦艦[95]。1905年(明治38年)12月12日、二等戦艦類別廃止にともない一等海防艦に類別変更[36]。日露戦争に参加、旅順攻囲戦で鹵獲した元ロシア海軍艦艇の護衛・曳航にも従事した。1911年(明治44年)4月1日除籍、売却解体。
壱岐(いき)- 元ロシア戦艦インペラートル・ニコライ1世、二等戦艦[8][95]。1905年(明治38年)12月12日、二等戦艦類別廃止にともない一等海防艦に変更[36]。主に横須賀海兵団練習船として使用。1915年(大正4年)5月1日除籍。大正天皇皇太子親閲下(御召艦榛名)、金剛型巡洋戦艦(金剛、比叡)の砲撃標的として撃沈処分。
松江(まつえ)- 元ロシア東清鉄道貨物船スンガリ。1906年(明治40年)3月8日、3等海防艦に類別。主に南洋方面の測量任務に従事。1912年(大正元年)8月28日、三等海防艦類別廃止につき二等海防艦に変更[40]。さらに1918年(大正7年)2月1日、運送船に変更。のち運送艦をへて1922年(大正11年)4月1日、測量艦へ変更。1929年(昭和4年)4月1日除籍。
富士(ふじ)- 元戦艦。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更[40]。膠州湾の自沈貨物船の内地曳航、加賀型戦艦2隻(加賀《神戸→横須賀》、土佐《長崎→呉》)の曳航など、大型船の曳航に従事。1922年(大正11年)9月1日、運送艦に変更[96]。同年12月1日、練習特務艦に類別変更[97]。横須賀繋留中の1945年(昭和20年)7月18日、米軍機動部隊艦載機の空襲により大破、着底。
石見(いわみ)- 元ロシア戦艦アリヨール[8]。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更[40]。膠州湾攻略作戦に従事。1922年(大正11年)9月1日除籍、雑役船として使用後、航空攻撃の標的艦として処分。
周防(すおう)- 元ロシア戦艦ポビエダ。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更[40]。膠州湾攻略作戦に従事。1922年(大正11年)9月1日除籍。解体中に漏水転覆、自沈。
相模(さがみ)- 元ロシア戦艦ペレスウェート。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更[40]。膠州湾攻略作戦に従事。1916年(大正5年)4月4日、ロシアに返還後戦没。
丹後(たんご)- 元ロシア戦艦ポルタワ。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更[40]。膠州湾攻略作戦に従事。1916年(大正5年)4月4日、ロシアに返還後1922年(大正11年)に解体。
高千穂(たかちほ)- 元2等巡洋艦。1912年(大正元年)8月28日、敷設艦改装にともない二等海防艦に変更[40]。膠州湾攻略作戦中の1914年(大正3年)10月17日、ドイツ海軍水雷艇の奇襲により戦没。
厳島(いつくしま)- 第一号海防艦。1897年(明治20年)6月6日、第一号海防艦は厳島と命名される[19]。1898年(明治31年)3月21日、二等巡洋艦に類別[32]。1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に変更[40]。呉海兵団練習船を経て潜水学校練習船として使用。1919年(大正8年)4月1日、雑役船厳島丸となる。のち潜水艦母艇(特務艇)、再度雑役船を経て大正14年(1925年)4月14日廃船。
松島(まつしま)- 第二号海防艦。1897年(明治20年)6月6日、第二号海防艦は松島と命名される[19]。1898年(明治31年)3月21日、二等巡洋艦に類別[32]。1908年(明治41年)4月30日、練習艦として航海中、寄港先の台湾で火薬庫爆発事故により爆沈。旧定義における海防艦には類別されていない。
橋立(はしだて)- 第三号海防艦。1897年(明治20年)6月6日、第三号海防艦は橋立と命名される[19]。1898年(明治31年)3月21日、二等巡洋艦に類別[32]。1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に変更[40]。主に横須賀海兵団練習船として使用。1922年(大正11年)4月1日、横須賀海兵団宿舎(雑役船)となり昭和初期に解体。
千代田(ちよだ)- 元3等巡洋艦。1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に変更[40]。主に沿岸警備に使用。1921年(大正10年)4月30日、水雷母艦に変更。のちに潜水艦母艇として大正末期まで使用後、昭和天皇(御召艦山城)親閲下、空母鳳翔航空隊等の標的艦として処分。
秋津洲(あきつしま)- 元3等巡洋艦。1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に変更[40]。主に沿岸警備に使用。1921年(大正10年)4月30日、潜水艦母艇に変更後、1927年(昭和2年)1月10日除籍。
鈴谷(すずや)- 元ロシア巡洋艦ノーヴィク。元通報艦。1912年(大正元年)8月28日、通報艦廃止にともない二等海防艦に変更[40]。主に旅順周辺の防御に従事。翌年1913年(大正2年)4月1日除籍。
満洲(まんしゅう)- 元ロシア東清鉄道貨客船マンジュリア。元通報艦。1912年(大正元年)8月28日、通報艦廃止にともない二等海防艦に変更[40]。主に列強各国の駐日武官や皇室関係者の歓待等、迎賓艦として機能した。1932年(昭和7年)4月1日除籍。
豊橋(とよはし)- 元水雷母艦。類別整理のため1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に編入[40]。主に潜水母艦として支援任務に従事。1914年(大正3年)4月1日除籍、払い下げ。
韓崎(からさき)- 元水雷母艦。類別整理のため1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に編入[40]。主に潜水母艦として第4水雷戦隊(のちに第1潜水戦隊)旗艦として指揮に従事。1920年(大正9年)4月1日、類別改定により水雷母艦に復帰[43]。昭和14年(1939年)に除籍。
駒橋(こまはし)- 元雑役船。1914年(大正3年)4月1日、豊橋の代船として2等海防艦に編入、主に潜水母艦として支援任務に従事。1920年(大正9年)4月1日、類別改定により水雷母艦に変更[43]。1942年(昭和17年)に測量艦となり、終戦直前に戦没。
若宮(わかみや)- 元運送船。1915年(大正4年)6月1日、2等海防艦に編入。主に水上機母艦として演習時の偵察・観測任務に従事。1920年(大正9年)4月1日、類別改定により新設した航空母艦に転籍[43]。1931年(昭和6年)に除籍、解体。
敷島(しきしま)- 元戦艦。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更[12]。1923年(大正12年)4月1日、軍艦籍より除籍され練習特務艦となる[98]。終戦時まで残存。
朝日(あさひ)- 元戦艦。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更[12]。1923年(大正12年)4月1日、軍艦籍より除籍され練習特務艦となる[98]。1937年(昭和12年)8月16日、工作艦に類別変更[99]。1942年(昭和17年)5月25日、米潜水艦サーモンに撃沈される。
三笠(みかさ)- 元戦艦。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更[12]。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で大破着底。9月20日、除籍[92]。記念艦として現存。
肥前(ひぜん)- 元ロシア戦艦レトヴィザン。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更[12]。1923年(大正12年)9月20日、除籍[92]。1924年(大正13年)7月25日、長門型戦艦(長門、陸奥)他の標的となり撃沈処分。
八雲(やくも)- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、一等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[12]。主に練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事。海防艦の定義見直しにともない1942年(昭和17年)7月1日、一等巡洋艦に復帰[47]。敗戦まで練習艦として残存。
吾妻(あづま)- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[12]。主に海軍機関学校実習船として舞鶴港固定係留のうえ教材化。1942年(昭和17年)7月1日、軍艦籍より除籍[14]。練習特務艦に類別変更[45][49]。1944年(昭和19年)2月15日除籍、解体。
浅間(あさま)- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[12]。主に練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事。1935年(昭和10年)10月14日に座礁事故を起こして航行を断念、海軍兵学校練習船となる。1942年(昭和17年)7月1日、軍艦籍より除籍[14]。練習特務艦に類別変更[45][49]。敗戦まで残存。
常磐(ときわ)- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更[12]。1年後の1922年(大正11年)9月30日に敷設艦として再就役。1945年(昭和20年)8月9日に大湊で空襲戦没するまで日本近海の機雷敷設に従事。
出雲(いずも)- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[12]。主に前半は練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事。後半は支那方面艦隊旗艦として大陸に駐留。海防艦の定義見直しにともない1942年(昭和17年)7月1日、一等巡洋艦に復帰[47]。1945年(昭和20年)7月24日、呉で空襲戦没するまで練習艦として使用。
磐手(いわて)- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[12]。主に練習艦隊参加艦として遠洋航海に従事。海防艦の定義見直しにともない1942年(昭和17年)7月1日、一等巡洋艦に復帰[47]。1945年(昭和20年)7月26日、呉で空襲戦没するまで練習艦として使用。
春日(かすが)- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[12]。主に横須賀海兵団練習船として使用。1942年(昭和17年)7月1日、軍艦籍より除籍[14]。練習特務艦に類別変更[45][49]。1945年(昭和20年)7月18日、横須賀で空襲戦没。
日進(にっしん)- 元1等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(昭和6年に等級廃止)[12]。主に横須賀海兵団練習船として使用。老朽化のため漏水着底。1935年(昭和10年)4月1日除籍後、大和型戦艦搭載予定の46㎝砲の標的として使用中、浸水して転覆。後に解体。
千歳(ちとせ)- 元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更[12]。目立つ行動はなく1928年(昭和3年)4月1日に除籍。空母赤城・鳳翔他航空隊の標的艦となり、沈没。
須磨(すま)- 元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更[12]。目立つ行動はなく1年半後の1923年(大正12年)4月1日に除籍、解体。
明石(あかし)- 元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更[12]。主に中国駐留・居留民保護に従事、1928年(昭和3年)4月1日に除籍、処分。
新高(にいたか)- 元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更[12]。主に北方哨戒に従事。1年後の1922年(大正11年)8月26日、カムチャツカ沖で荒天のため遭難座礁。
対馬(つしま)- 元2等巡洋艦。1921年(大正10年)9月1日、2等海防艦に変更[12]。主に中国駐留任務に従事。1939年(昭和9年)4月1日の除籍直前まで中国駐留を断続的に経験した。
脚注
- ^ ab木村浩吉、「海防艦」 『海軍圖説』 大日本圖書、1903年6月。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082819/55。 コマ55(原本58頁)『海コースト防デフェンス艦シップ 海防艦ハ海岸防禦ニ必要ナル軍艦ニシテ戰艦ト等シク攻撃防禦ノ兩力ヲ完全ニ備フルヲ要ス然レモ遠ク外國ニ派遣セラレザル爲メ石炭積載量及ビ速力ハ多キヲ要セズ而シテ喫水ヲ成ルベク淺ク製造スルハ之レヲ淺水中ニ利用シテ敵艦ニ當ラシムニアリ實ニ此艦ハ水雷艇、布設水雷及ビ海岸砲臺等ノ如キ防港機關ノ補助ヲ得テ自國ノ海岸ヲ防禦スルノ任務ヲ盡スベキモノトス』
- ^ abcd#海軍制度沿革(巻8、1940)コマ47(原本54頁)『◎海軍大臣ニ於テ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラルルノ件/明治三十一年三月二十一日(達三四) 明治三十三年六月一二一號廢止 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル(別表)』
- ^ abcd海防艦戦記13-15頁『古典的海防艦と混同するなかれ』
^ 平易に説いた陸海軍の知識コマ169-170(原本71-72頁)より『我が海軍でも、日進、春日、出雲、磐手と云へば、これに淺間、常磐を加へて、日露戰爭の時分には世界最新の装甲巡洋艦でしたが、二十有餘年後の今日では、最早古くなってしまって到底古鷹や、那智などの對手になれませんので、今日海防艦の仲間入りをしてをります。/新しい軍艦が澤山あれば、何もこんな舊式の軍艦を海防艦などと云って使ってゐる必要もありませんけれど、仲々さう新しいものを澤山造ることは出來ませんから、舊式のものでも殘して出來るだけ利用してをりますので、戰爭の時には、根據地の守備 陸軍運送船の護衛、又平時には海上の取締りをする警備艦、いろいろの海軍の教育のための練習艦などに使ひますので、仲々仕事が澤山あります。』
^ 桑野、戦争の智識コマ93-94(原本150-153頁)『二十、海防艦と砲艦』
^ 日本青年教育会 「四.海防艦」『陸軍海軍』 日本青年教育界〈青年文庫;第6篇〉、1918年11月。
- ^ abcde写真日本の軍艦7巻212頁『対潜護衛艦の出現とその系統』
- ^ abcdefg#海軍制度沿革(巻8、1940)第199コマ(原本358頁)『◎戰利軍艦石見壹岐沖島見島命名ノ件 明治三十八年六月六日(達七三) 戰利軍艦「アリヨール」外三隻左ノ通命名セラル|戰艦「アリヨール」 石イハ見ミ|戰艦「インペラートルニコライ」第一世 壹イ岐キ|海防艦「ゲネラルアドミラル、アプラキシン」 沖オキノ島シマ|海防艦「アドミラル、セニヤーウヰン」 見ミ島シマ』
- ^ abポケット海軍年鑑(1935年版)コマ66(原本114-115頁)『海防艦 "八雲 やくも" 全要目{排水量9,010噸 速力16節 備砲20糎砲4門 15糎砲12門 8糎砲4門 8糎高角砲1門 魚雷發射管2門 起工明治31年9月 竣工明治33年6月 建造所獨國ヴアルカン會社} 海防艦と云ふ艦種は現代海戰の第一線に立つ艦ではないが何れも過去の戰役に於て華々しい戰功を樹てた艦揃ひである。現在我が海軍の有する海防艦は"淺間 あさま" "吾妻 あずま" "出雲 いづも" "磐手 いはて" "春日 かすが" "對馬 つしま"及び本艦の計7隻である。/そしてこれ等は平時練習艦隊や支那方面警備と云ふ任務に就くのが常で、またこの艦種にとってはそれ等の任務が要するに活躍舞臺である。/八雲は全長124.66米、幅19.58米、平均吃水7.24米。/昭和10年度のこれ等海防艦のそれぞれの役務を擧げて見ると次の如くである。八雲、淺間の2隻は練習艦隊に、吾妻は呉鎭守府麾下の豫備艦、出雲は第三艦隊の第十戰隊に、磐手は佐世保鎭守府麾下の豫備艦、春日は海軍航海學校の練習艦に、對馬は第三艦隊第十一戰隊に属してゐる。』
^ 日本軍艦集2600年版コマ87(原本、附録12-13頁)『海防艦、砲艦、敷設艦、掃海艇 海防艦は、攻防力とも相當大きく、専ら沿岸の防禦を任務とする艦であるが、近年各國では新しくこの艦種を建造することなく、舊式戰艦や巡洋艦等を之に充ててゐる向が多い。我國の淺間、八雲、吾妻、出雲、磐手、對馬、春日等の海防艦もその例に漏れず、曾ての戰爭に華々しい活躍を示した古つはものである。この中で、今度の日支事變において旗艦となつて活躍してゐる出雲は、過去幾多の輝かしい戰歴と武勲を有する艦である。(以下略)』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59(原本78頁)『大正十年九月一日(達一六四)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス』
- ^ abcdefghijklmnopqrs#達大正10年9月p.1『達第百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎|戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ』
^ 海軍護衛艦物語93-94頁『海上交通保護に目が向いた?』
- ^ abcdefgh#内令昭和17年7月(1)pp.1-2『内令第千百七十八號 横須賀鎭守府在籍 軍艦 春日/呉鎭守府在籍 軍艦 淺間/舞鶴鎭守府在籍 軍艦 吾妻 軍艦 占守 軍艦 國後 軍艦 石垣 軍艦 八丈 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
- ^ abc海軍護衛艦物語139-141頁『"対潜"専門の予備士官養成開始』
^ 海軍護衛艦物語112頁
^ 海軍護衛艦物語199-200頁
^ 『新造ノ第一海防艦外六艦ニ仮名ヲ附ス』 アジア歴史資料センター Ref.A15111325300
- ^ abcdef#海軍制度沿革(巻8、1940)コマ197(原本355頁)〔◎海防艦嚴島松島橋立報知艦八重山千島練習艦滿珠命名ノ件〕『明治二十年六月六日(訓令六二)新艦ニ命名セラルヽコト左ノ如シ 但命名式相濟マテノ間ハ假名ト心得ヘシ
第一海防艦 佛國ニ於テ建造 嚴イツク島シマ
第二海防艦 同上 松マツ島シマ
第三海防艦 横須賀造船所ニ於テ建造 橋ハシ立ダテ
第一報知艦 同上 八ヤ重ヘ山ヤマ
第二報知艦 計畫中 千チ島シマ
風帆練習艦 小濱造船所ニ於テ建造 滿マン珠ジュ
同 同上 干カン珠ジュ』
- ^ abc#達明治31年3月(1)pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣 侯爵西郷從道(別表)』
- ^ abc海防艦発達史,田村尚也,帝国陸海軍補助艦艇―総力戦に必要とされた支援艦艇群の全貌〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ(37),P102-109,学習研究社,2002年, ISBN 9784056027808
^ 藤田精一 「海防艦」『大日本軍艦写真帖』 海上協会、1924年9月。コマ26『海防艦 海防艦とはその戰艦たると巡洋戰艦たると巡洋艦たるとを問はず艦齢第三期(竣工年より起算し十七年以上二十四年未満)に在るもの又は艦齢満了するも、未だ廢艦とならずして在籍する老朽艦に附ける名稱で、素より戰線に立つべきものではなく、その名の如き目的を以て戰時その用を爲すに過ぎないのである。/因に艦齢第一期とは竣工年より起算し八年未満、同第二期とは九年以上十六年未満の謂である。/海防艦は我海軍にては便宜上之を區別して、排水噸數七千噸以上のものを一等海防艦、以下のものを二等海防艦と呼んでいる。/現今我一等海防艦は元は一等巡洋艦(装甲巡洋艦)として、日本海海戰には主力艦として取扱はれた淺間級等が之に属し、二等海防艦には二等巡洋艦たりし千歳、對馬、明石杯が之に属してゐる。』
- ^ ab#海軍制度沿革(巻8、1940)コマ48(原本56頁)『◎艦艇類別標準 大正元年八月二十八日(達一一) 改正{大正五年八月一一七號、八年三月二六號、九年四月三七號、十二年六月一五四號、十三年十一月軍令海四廢止 艦艇類別標準別表ノ通改メラル(別表)』
- ^ ab#海軍制度沿革(巻8、1940)コマ67(原本95頁)『昭和六年六月一日(内令一一一)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス』
^ 児童百科大事典、国防篇コマ152(原本267頁)『六、海防艦 攻撃力及び防禦力稍大にして専ら沿海を防禦する任務に當る。今日はいづれの海軍でも新にこの艦種を建造することなく、舊式の戰艦、巡洋艦等を以てこれに充てるのを普通とする。「淺間」「吾妻」「磐手」「出雲」「春日」「對馬」は海防艦である。「出雲」「春日」等は日露戰爭時代に赫々たる勲を立てた艦である。』
- ^ ab海軍読本(1937)コマ91(原本160頁)『海防艦 攻防力とも相當に大きく、専ら沿岸防禦を任務とする。近年各國共新にこの艦種を建造することなく舊式戰艦、巡洋艦等を以て之に充てるのを普通とする。我が國には現在七隻の海防艦があり、其の中には「八雲」級の如く、三十數年の老齢を以て、能く練習艦として世界の海上に行動していゐるものもあり、尚上海事變の如きに際して敵國沿岸に腰を据ゑて、海陸共同作戰に活躍、武勲赫々たるものもある。』
^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ68(原本102頁)『見島(みしま) 艦種海防艦二等 二檣(戰闘檣あり)(以下略)』
^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ61(原本89頁)『磐手(いはて) 艦種巡洋艦一等 二檣(戰闘檣あり)出雲と姉妹艦なり 艦歴(中略)同10年一等海防艦に編入。練習艦隊の一艦として從來屡々海軍少尉候補生等の練習任務に服す。 ―要目―(略)』
^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ61(原本88頁)『八雲(やくも) 艦種巡洋艦一等 二檣(戰闘檣あり) 艦歴(中略)同10年一等海防艦に編入、昭和6・7年(日支)事變に從軍:同6年12月北支方面警備に從事(艦長大佐新見政一)。練習艦隊として屡々海軍少尉候補生練習任務に服す。 ―要目―(略)』
^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ63(原本93頁)『新高(にひたか) 艦種三等巡洋艦 二檣(信號用)(以下略)』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ49(原本55頁)〔◎軍艦種別の件〕『明治二十三年八月二十三日(達三〇四) 横須賀鎭守府所管軍艦浪速、扶桑、高雄、武藏、八重山、橋立、筑波、愛宕、天城ヲ第一種ト定メラレ水雷艇小鷹、第一水雷艇、第二水雷艇、第三水雷艇、第四水雷艇ヲ第二種ト定メラレ軍艦龍驤、迅鯨、淺間、干珠ヲ第三種ト定メラレ呉鎭守府所管軍艦金剛、比叡、大和、築紫、摩耶、赤城、嚴島、千代田、天龍、鳳翔ヲ第一種ト定メラレ軍艦館山、石川ヲ第三種ト定メラレ佐世保鎭守府所管軍艦高千穂、葛城、磐城、松島、千島、大島、秋津洲、大島、秋津洲、日進、海門、鳥海ヲ第一種ト定メラレ軍艦春日、滿珠ヲ第三種ト定メラル』
- ^ abcdefghijklmno#達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣 侯爵西郷從道 |軍艦|巡洋艦|二等|浪速、高千穂、嚴島、松島、橋立、吉野、高砂、笠置、千歳|/海防艦|三等|筑波 金剛 比叡 濟遠 海門 天龍 葛城 大和 武藏 高雄』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ47(原本55頁)『◎艦艇類別標準 明治三十八年十二月十二日(達一八一) 大正元年八月一一號消滅 艦艇類別標準別表ノ通改メラル(別表)』
^ #達明治38年12月pp.6-7『達第百八十一號 艦艇類別標準別表ノ通改メラル 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣 男爵山本權兵衛(別表)』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ53(原本66-67頁)『◎艦艇類別等級 明治三十八年十二月十二日(達一八二)』
- ^ abcd#達明治38年12月pp.8-9『達第百八十二號 艦艇類別標準別表ノ通定ム 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣 男爵山本權兵衛(別表)|軍艦|海防艦|一等|鎭遠、壹岐、|/海防艦|二等|扶桑、沖島、見島、|/海防艦|三等|金剛、比叡、天龍、葛城、大和、武藏、高雄、|(以下表略)〔備考〕軍艦ヲ稱呼スルニハ其ノ艦別ノ何タルヲ問ハズ「軍艦何」ヲ以テス但シ場合ニ依リ類別稱若ハ類別及等級ヲ以テスルコトアリ「戰艦何」「海防艦何」「何等巡洋艦何」等ノ如シ 驅逐艦ヲ稱呼スルニハ「驅逐艦何」ヲ以テス(以下略)』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ56(原本72-73頁)『◎艦艇類別等級 大正元年八月二十八日(達一二)』
- ^ ab#達大正元年8月p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十八日 海軍大臣 男爵齋藤實(別表)』
- ^ ab#達大正元年8月p.35『達第十三號 今般艦艇類別標準改正セラレタル結果海軍諸法令中「一等巡洋艦」トアルハ「巡洋戰艦、一等巡洋艦」ニ、「三等巡洋艦」トアルハ「二等巡洋艦」ニ、「三等海防艦」トアルハ「二等海防艦」ニ、「通報艦」トアルハ「一等砲艦」ニ、「三等水雷艇」トアルハ「二等水雷艇」ニ改メラシタル儀ト心得ヘシ 大正元年八月二十八日 海軍大臣 男爵齋藤實』
- ^ abcdefghijklmnopqrs#達大正元年8月pp.33-34『達第十二號 艦艇類別標準別表ノ通改正ス 大正元年八月二十八日 海軍大臣 男爵齋藤實(別表)|軍艦|一等|壹岐、丹後、富士、石見、相模、周防|/海防艦|二等|沖島、見島、高千穂、嚴島、橋立、千代田、秋津洲、鈴谷、満州、豊橋、韓崎、葛城、大和、武藏、松江|』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ48(原本56頁)『◎大正九年四月一日(達三七)艦艇類別標準中左ノ通改定セラル 別表中巡洋艦ノ欄ノ次ニ左ノ三欄ヲ加フ |航空母艦| | |/水雷母艦| | |/敷設艦| | |』
^ #達大正9年4月p.1『達第三十七號 艦艇類別標準中左ノ通改定セラル 大正九年四月一日 海軍大臣 加藤友三郎 別表中巡洋艦ノ欄ノ次ニ左ノ三欄ヲ加フ |航空母艦|水雷母艦|敷設艦|』
- ^ abcde#達大正9年4月p.1『達第三十八號 艦艇類別標準中左ノ通改正ス 大正九年四月一日 海軍大臣 加藤友三郎 巡洋艦一等ノ欄内「阿蘇、」同二等ノ欄内「津輕、」ヲ削ル 海防艦二等ノ欄内「韓崎、駒橋、若宮」ヲ削ル 巡洋艦ノ欄ノ次ニ左ノ如ク加フ |航空母艦| |若宮|/水雷母艦| |韓崎、駒橋|/敷設艦| |阿蘇、津輕、勝力|』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ58(原本77頁)『大正九年四月一日(達三八)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 巡洋艦一等ノ欄内「阿蘇、」同二等ノ欄内「津輕、」ヲ削ル/海防艦二等ノ欄内「韓崎、駒橋、若宮」ヲ削ル/巡洋艦ノ欄ニ左ノ如ク加フ』-『航空母艦| |若宮|/|水雷母艦| |韓崎、駒橋|/|敷設艦| |阿蘇、津輕、勝力』
- ^ abcde#達昭和17年7月(1)p.1『達第百九十二號 軍艦淺間外六隻艦種變更ニ付左ノ通命名ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|海防艦 占守(舊軍艦占守) 海防艦 國後(舊軍艦國後) 海防艦 八丈(舊軍艦八丈) 海防艦 石垣(舊軍艦石垣) 特務艦 淺間(舊軍艦淺間) 特務艦 吾妻(舊軍艦吾妻) 特務艦 春日(舊軍艦春日)』
^ #内令昭和17年7月(1)pp.2-3『内令第千百七十九號 海防艦 占守 海防艦 國後 海防艦 石垣 海防艦 八丈 右本籍ヲ舞鶴鎭守府ト定メラル|特務艦 春日 右本籍ヲ横須賀鎭守府ト定メラル|特務艦 淺間 右本籍ヲ呉鎭守府ト定メラル|特務艦 吾妻 右本籍ヲ舞鶴鎭守府ト定メラル| 舞鶴鎭守府在籍 海防艦 國後 海防艦 石垣 海防艦 八丈 右警備海防艦ト定メラル|横須賀鎭守府在籍 特務艦 春日 呉鎭守府在籍 特務艦 淺間 舞鶴鎭守府在籍 特務艦 吾妻 右第四豫備艦ト定ム|昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
- ^ abcde#内令昭和17年7月(1)pp.8-9『内令第千百八十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦一等青葉型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | |八雲、磐手、出雲| 同海防艦ノ項ヲ削ル/同砲艦ノ部中「多多良」ノ下ニ「、須磨」ヲ加フ/潜水艦ノ欄ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |海防艦| | |占守型|占守、國後、八丈、石垣|(内令提要巻三、三三頁参照)』
- ^ ab『昭和17年7月2日(木)海軍公報(部内限)第4131号 p.20』 アジア歴史資料センター Ref.C12070421700 『官房機密第八一八六號 本年達第百九二號艦種變更命名ノ際舊艦名ノ職名ヲ有スル者ハ特ニ發令セラルルモノノ外別ニ辭令ヲ用ヒズシテ新艦種名ノ相當職員ニ補命セラレタル義ト心得ベシ 昭和十七年七月一日 海軍大臣』
- ^ abcd#内令昭和17年7月(1)pp.9-10『内令第千百八十七號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|練習特務艦ノ項中「敷島」ノ下ニ「、淺間、吾妻、春日」ヲ加フ(内令提要巻三、四〇頁参照)』
^ 海軍護衛艦物語155-156頁『沿岸用小艦艇―海上護衛に馳せ参ず』
- ^ abcd#叢書46海上護衛戦433頁『護衛艦艇としての海防艦』
- ^ ab補助艦艇奮戦記45-46頁『▽海防艦』
- ^ abcde本土方面海軍作戦8-10頁『ロンドン条約締結前後から昭和九年ころまで』
^ 補助艦艇奮戦記44-45頁
^ 海軍護衛艦物語73-74頁『「駆潜艇」新造の提言』
- ^ ab写真日本の軍艦7巻212-214頁『◇占守型◇』
- ^ ab海軍護衛艦物語91-92頁『対馬海峡は確実に防衛』
^ #御説明案p.16『第二 ハ主トシテ内地防禦作戰ニ任ズベキ内戰部隊デ御座イマシテ其所要兵力ハ航空機及艦齢超過艦ヲ以テ充テマスル外所要ノ艦艇ヲ新造充實致シマス』
^ #御説明参考資料(1)p.37『五.内戰部隊所要兵力ニハ航空機及艦齢超過艦ヲ以テスル外所要艦艇ハ新造充實スベキ旨新ニ加フ』
^ #御説明参考資料(2)p.14『十 内戰部隊及補助兵力(イ)内戰部隊ニハ艦齢超過艦ヲ以テ充ツベキモノ尠カラズト雖モ特種艦艇即チ 敷設艦 掃海艇 砲艦 海防艦(スループ型)等新造充實ノ要アリ』
- ^ ab本土方面海軍作戦10-11頁『無条約時代』
- ^ ab補助艦艇奮戦記65-66頁『▽初期の海防艦長は古参の中佐』
^ 写真日本の軍艦7巻196-197頁『鈴木範樹、海防艦と御紋章』
- ^ ab海軍護衛艦物語164-166頁『海防艦の幹部たち』
^ 海軍護衛艦物語162-163頁『待望の新・海防艦竣工』
^ 写真日本の軍艦7巻214-215頁『◇擇捉型◇』
^ 海軍護衛艦物語189-190頁
^ 写真日本の軍艦7巻215-216頁『◇御蔵型◇』
^ 海軍護衛艦物語146-147頁、216-217頁
^ 写真日本の軍艦7巻216-218頁『◇鵜来型◇』
^ #海軍軍備(5)コマ1(原本1-2頁)『一、經緯』
^ 海上護衛作戦コマ10-11(原本13-15頁)『第四章 昭和十八年一月より同十八年十月迄の經過』
- ^ abc#叢書46海上護衛戦580頁『(1)海防艦の建造』
^ #海軍軍備(5)コマ13(原本19頁)『別紙 一、艦船建造(イ)緩急順序(一)海防艦 (二)魚雷艇及潜水艦 (三)哨戒艇及輸送用艦船 (ロ)竣工目途|海防艦|年度一八:二四|一九:一〇〇|二〇:一二〇|計:二四四|要求兵力:三三〇|備考:速力一六節附近ニ低下の見込』
^ #海軍軍備(5)コマ9-10(原本11-13頁)『(別紙)第一、艦船建造補充』
- ^ ab補助艦艇奮戦記46-47頁『▽丙型丁型海防艦/砲艦』
^ #海軍軍備(5)コマ40-41(原本71-73頁)『(イ)実行計畫 昭和十九年度戰時建造艦艇、昭和二十年度戰時建造艦艇として、夫々昭和十八、十九年度に於て計畫された新規追加建造計畫艦艇次の通り』
^ #叢書46海上護衛戦435-436頁『樋口直海軍大尉(対潜訓練對司令部附)回想』
^ #叢書46海上護衛戦436-437頁『護衛艦としての旧式駆逐艦及び水雷艇』
- ^ ab#叢書46海上護衛戦437頁『小山貞海軍大佐(臨時護衛船団参謀)回想』
^ 海上護衛作戦コマ16(原本25-26頁)『護衛艦は昭和十八年度(自十八年四月至十九年三月)建造計畫四三隻、昭和十九年度(自十九年四月至二十年三月)建造計畫一八八隻に對するものが續々就役し昭和二十年三月迄には約一三〇隻の新海防艦が實施部隊に加つて居たが戰局に立遅れて居たので遂に敵潜水艦を壓倒することが出來ず戰況酷烈となるや敵潜水艦の外航空機、機雷の爲少なからず喪失するといふ情況であつた。』
^ #叢書46海上護衛戦435頁『松林元哉海軍大佐(佐渡海防艦長)回想』
^ 海防艦は駆逐艦や輸送艦に比べて喫水が浅いために、魚雷を回避するうえでは有利だったという証言もある(北原鉱治『大地の乱 成田闘争―三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年、10頁)。
^ 戦史叢書46巻(付表第六)『大東亞戦争期間中に竣工した海防艦隻数』
^ 写真日本の軍艦7巻223頁
- ^ abcd両舷直の航跡125-127頁『船団護衛と海防艦』(護国海防艦碑の碑文より)
^ 海上護衛作戦コマ16(原本25-26頁)『然し兎に角海防艦も増加して來たので編制を強固ならしめる必要を生じ昭和十九年七月初めて海防艦四隻を以て第一海防隊を組織し第一海上護衛隊に編入 十一月には練習巡洋艦「香椎」を旗艦とする海防艦六隻を以て第一〇一戰隊を組織し海上護衛總司令部に編入 更に十二月十日附第一海上護衛隊は第一海上護衛艦隊に昇格、海防隊、海防戰隊(一〇一、一〇二戰隊等と呼稱)の數も逐次増加して居た。』
- ^ ab海軍護衛艦物語176-178頁『リザーブ・オフィサー、大活躍』
^ 海防艦戦記281-284頁『再び海を守って(昭和二十九年)』
^ 海防艦戦記8-10頁『海防艦ってどんな船?』
^ 海防艦戦記285頁
- ^ abc#達大正12年9月p.2『達第百九十六號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
- ^ abcdefg#内令昭和19年6月pp.6-7『内令第七百三十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年六月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎/驅逐艦、一等松型ノ項中「桑」ノ下ニ「、杉、槇、樅」ヲ加フ/潜水艦、一等伊三百六十一号型ノ項中「伊號第三百七十一」ノ下ニ「、伊號第三百七十二」ヲ、同伊四百型ノ項中「、伊號第四百二」ノ下ニ「、伊號第四百四」ヲ加フ/海防艦ノ部中占守型及御藏型ノ項ヲ左ノ如ク改ム |占守型|占守、國後、八丈、石垣、擇捉、松輪、佐渡、隠岐、壹岐、對島、平戸、福江、天草、満珠、干珠、笠戸| |御藏型|御藏、三宅、淡路、能美、倉橋、屋代、千振、日振、大東、草垣、昭南| |鵜來型|鵜來、沖縄、奄美、粟國| 同第一號型ノ項中「第四十三號」ノ下ニ「、第五十一號、第六十一號」ヲ、同第二號型ノ項中「第三十四號」ノ下ニ「、第三十六號、第三十八號、第四十號、第四十二號、第四十四號、第四十六號」ヲ加フ』
- ^ abcdef#海軍軍備(6)特攻戦備コマ8-10(別表第一 艦艇の1944年1月以降完成量(隻數・屯籔)(1949-10-28調)
- ^ abc#海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50(原本60-61頁)『◎軍艦及水雷艇類別等級 明治三十一年三月二十一日(達三五)改正 明治三十二年十月一七八號、三十三年六月一二二號消滅軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム(別紙)』『軍艦|戰艦|一等|富士 八島 敷島 朝日|/|二等|扶桑 鎭遠』
^ #達大正11年9月p.1『達第百六十號 特務艦類別等級別表中運送艦ノ欄内「神威」ノ次ニ「、富士」ヲ加フ 大正十一年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』
^ #達大正11年12月p.1『達第二百十二號 特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十一年十二月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎 運送艦ノ項中「、富士」ヲ削リ測量艦ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |練習特務艦| |富士|』
- ^ ab#達大正12年4月(1)p.12『達第七十二號 艦艇類別等級別表中練習特務艦ノ欄内「富士」ノ次ニ「、敷島、朝日」ヲ加フ 大正十二年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ73(原本106頁)『昭和十二年八月十六日(内令四七二)特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 工作艦ノ部中「明石」ノ下ニ「、朝日」ヲ加フ 練習特務艦ノ部中「、朝日」ヲ削ル』
参考文献
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戦史研究家横田晋『七ツ道具を完備した日本の機雷&哨戒艦艇 戦局荒天のカギとして急造された掃海、敷設、護衛、対潜艦艇たち
戦史研究家落合康夫、艦艇研究家正岡勝直『日本海軍補助艦艇ものしり雑学メモ 敷設特務艇、哨戒特務艇、掃海艇一覧資料収載
- 福井静夫 『福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第十巻 日本補助艦艇物語』 光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書46 海上護衛戦』 朝雲新聞社、1971年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 本土方面海軍作戦』第85巻、朝雲新聞社、1975年6月。
- 『写真 日本の軍艦 重巡Ⅲ 最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩・海防艦』第7巻、雑誌『丸』編集部/編、光人社、1990年2月。ISBN 4-7698-0457-1。
- 山本佐次郎 「第十章 海防艦」『両舷直の航跡』 成山堂書店、1994年1月。ISBN 4-425-94471-2。
関連項目
- 海防戦艦
- モニター艦
- 護衛駆逐艦
- フリゲート
- スループ
- シーレーン
- 護送船団
- 通商破壊
- 海上護衛総司令部
- 海上護衛隊
- 特設護衛船団司令部
外部リンク
海防艦 - YouTube第1号海防艦の進水式と爆雷投射シーン
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